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アーザルバーイジャーン

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アーザルバーイジャーンペルシア語: آذربایجان‎, ペルシア語ラテン翻字: Āzarbāijān南アゼルバイジャン語: گونئی آزربایجانアゼルバイジャン語: Günéy Azerbaycan)は、イラン北西部の、アゼルバイジャントルコなどに隣接した国境地域である。イラニアン・アゼルバイジャン[1] (Iranian Azerbaijan)、イラン領アゼルバイジャン[2] (同)、ペルシアン・アゼルバイジャン (Persian Azerbaijan) とも。

「アゼルバイジャン地域[2]」(広義のアゼルバイジャン)の南部に当たり、「アーザルバーイジャーン」は、「アゼルバイジャン」のペルシャ語形である。ただしイランでは通常、単に「アーザルバーイジャーン」と言えば自国のこの地域のことで、隣国のことは「アーザルバーイジャーン共和国」と呼ぶ。

歴史

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キャスラヴィの『アーザリー』によれば、元来はイラン系住民が住んでいた[2]

イスラム帝国に征服されたのち、11世紀から15世紀にかけトルコ化するが、イランの言語・文化的影響も強く受ける[2]

タリシュ・ハン国英語版1747年-1813年

1813年、アゼルバイジャンのゴレスターン(現在のギュリスターン)においてロシアとカージャール朝のイランによって締結されたゴレスターン条約によって敗北したカージャール朝イランは、アラス川以北のアゼルバイジャン地方をロシアに割譲し、グルジアに対する主権を放棄した。

1828年トルコマーンチャーイ条約で、ロシア帝国ガージャール朝ペルシャの国境が確定し、この地域はペルシャ領となった。

1945年12月には、ソビエト連邦の支援のもとにアゼルバイジャン国民政府が発足した[3]

1979年イラン革命後、ソ連の影響力が増したことにより、アゼルバイジャン人民族主義と自治要求が活発になった[1]

1993年ムギャーン平野英語版タリシュ・ムギャーン自治共和国英語版が短期間独立した。

住民

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アゼリ人

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イラン最大の少数民族でありアゼルバイジャンの主要民族でもある。

彼らはトルコ系アゼリ語を話すことで、イラン系ペルシャ語を話す多数派のペルシャ人と区別される。ただし、彼らの宗教はイランでは多数派のイスラム教シーア派であり、宗教的な対立要因はない。

一部の少数派グループは、イランからの独立とアゼルバイジャンとの統合を訴えている[1]。イラン当局はこの種の運動を汎トルコ主義の一種とみなしている[1]

タリシュ人

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タリシュ人も民族問題を抱えている。1993年タリシュ・ムギャーン自治共和国英語版独立を主導。

クルド人

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西部にはクルド人が住み、クルディスタンと部分的に重なる。

その他の民族

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歴史的には古代アルメニアに属し、アルメニア人修道院建造物群などアルメニア人の歴史的建造物も残るが、現在の住民は多くない。

行政

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西アーザルバーイジャーン州東アーザルバーイジャーン州アルダビール州ザンジャーン州の4つのに分かれる。

出典

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  1. ^ a b c d 英国内務省報告(2006.10)Part2(p64-114) - 法務省
  2. ^ a b c d 資料1 - 龍谷大学・アフラシア多文化社会研究センター
  3. ^ 德増克己「イランとソ連の狭間で - アゼルバイジャン国民政府の一年」『岩波講座 世界歴史』 24 解放の光と影、樺山紘一ほか著、岩波書店、1998年、207頁。ISBN 978-4000108447