アモリウム

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アモリウムラテン語: Amorium
Ἀμόριον (ギリシア語)
アモリウムの遺跡群
アモリウムの位置(トルコ内)
アモリウム
トルコにおける位置
別名 Amorion, ʿAmmūriye, Amūrīn, Hergen Kale
所在地 トルコの旗 トルコアフィヨンカラヒサール県ヒサルカイ
地域 フリュギア
座標 北緯39度01分14秒 東経31度17分21秒 / 北緯39.02056度 東経31.28917度 / 39.02056; 31.28917座標: 北緯39度01分14秒 東経31度17分21秒 / 北緯39.02056度 東経31.28917度 / 39.02056; 31.28917
歴史
時代 ヘレニズムから中世盛期
支配者 アイソーポス(伝説上)、ミカエル2世
出来事 アモリオンの戦い

アモリウム(Amorium)は小アジア[1]フリュギアに存在していた都市。ヘレニズム時代に建設され、東ローマ帝国支配下で繁栄し、アモリオンの戦いの後に衰退した。東ローマのコンスタンティノープルキリキアを結ぶ軍用道付近に位置していた[2]トルコアフィヨンカラヒサール県エミルダーの中心地から13キロメートル東にあるヒサルカイという村の周囲、もしくは真下から遺跡やハイク(「墳丘墓、マウンド」の意味)が発見されている[3][4]

アモリウムはギリシャ語での名称「アモリオン」(ギリシア語: Ἀμόριον)をラテン語化させた名称である。アラブ/イスラム圏の文献ではアッムーリエと表記されている。オスマン帝国の支配下では重要性を取り戻すことは無く、へルゲン・カレー(Hergen Kale又はHergen Kaleh)と呼ばれた[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b Herbermann, Charles, ed. (1907). "Amorios" . Catholic Encyclopedia. Vol. 1. New York: Robert Appleton Company.
  2. ^ M. Canard, "ʿAmmūriya"", Encyclopedia of Islam, Second Edition online 2012
  3. ^ Drew Bear, T. (2018年6月7日). “Places: 609302 (Amorion)”. Pleiades. 2015年2月19日閲覧。
  4. ^ Ivison, p. 27

典拠[編集]