ペルシア帝国
ペルシア帝国(ペルシアていこく)とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家。一般的にはアケメネス朝(ハハーマニシュ朝)・アルサケス朝(アルシャク朝)・サーサーン朝に対する総称である。
イスラーム化後のサファヴィー朝、アフシャール朝、ザンド朝、ガージャール朝、パフラヴィー朝を含み、パルティア(アルサケス朝)を除くこともある。
名称の由来
[編集]アケメネス朝がザーグロス山脈南部のパールサ(現在のファールス州一帯)から勃興して以来、イラン高原周辺を古代ギリシア語でペルシス(古代ギリシア語: Περσίς, Persís)、ラテン語でペルシア(ラテン語: Persia)と呼んだことに由来する。パフラヴィー朝時代の1935年にイラン帝国への改称を諸外国に要請したが混乱が見られ、1959年にイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。
歴史
[編集]アケメネス朝
[編集]アケメネス朝(ハハーマニシュ朝)は、キュロス2世により建国され、メディア王国、リュディア王国、新バビロニア王国を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、バビロン捕囚を終焉させた。キュロス2世の息子カンビュセス2世は、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世がペルシア戦争を起こしたが敗北した。ダレイオス3世のときマケドニアのアレクサンドロス大王により征服され滅亡した。
アルサケス朝
[編集]アルサケス朝(アルシャク朝)はパルティアとも呼び、古代中国では安息国と呼ぶ。セレウコス朝から独立し、アルサケス1世(アルシャク1世)により建国された。共和政ローマとの抗争で、ローマ将軍のクラッススを戦死させるなど、隣国のローマとは争いが続き、帝政化した後のローマとの争いも含めて第8次までパルティア戦争は続いた。 末期には反乱が多発し、それに乗じたサーサーン朝に攻め滅ぼされた。
サーサーン朝
[編集]サーサーン朝は、アケメネス朝の正統な後継者を称し、パルティア(アルサケス朝)との戦いに勝利し、アケメネス朝の称号を引き継いだ。ローマ帝国との抗争ではシャープール1世はウァレリアヌスを捕虜にした。東ローマ帝国との抗争ではホスロー1世はユスティニアヌス1世から賠償金を得た。 ホスロー1世は突厥の室点蜜と同盟を結び、サーサーン朝を圧迫していたエフタルを滅ぼした。ヤズデギルド3世の時代にニハーヴァンドの戦いで正統カリフ時代のイスラーム共同体に敗北して崩壊し、再起を目指したが滅亡した。
君主の称号
[編集]イラン高原周辺の君主の称号(君主号)としては、王(古代ペルシア語: xšāyaθiya フシャーヤシヤ、中期ペルシア語: šāh シャーフ、ペルシア語: شاه, šāh、シャー)、あるいはその上位称号の諸王の王(古代ペルシア語: xšāyaθiya xšāyaθiyānām、中期ペルシア語: šāhān šāh シャーハーン・シャーフ、ペルシア語: شاهنشاه, šāhanšāh、シャーハンシャー)などが用いられた。
宗教
[編集]アケメネス朝、アルサケス朝、サーサーン朝ではゾロアスター教、またはそれに近い宗教が信奉されていた。
