椎名悦三郎

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椎名 悦三郎
しいな えつさぶろう
生年月日 1898年1月16日[1]
出生地 日本の旗 日本 岩手県胆沢郡水沢町
没年月日 (1979-09-30) 1979年9月30日(81歳没)[1]
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 農商務省官僚
商工省官僚
軍需省官僚
所属政党日本民主党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
法学士
親族 次男・椎名素夫
叔父・後藤新平

内閣 第2次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1967年11月25日 - 1968年11月30日

日本の旗 第94-95代 外務大臣
内閣 第3次池田内閣改造内閣
第1次佐藤内閣
第1次佐藤第1次改造内閣
第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1964年7月18日 - 1966年12月3日

日本の旗 第21代 通商産業大臣
内閣 第2次池田内閣
在任期間 1960年12月8日 - 1961年7月18日

内閣 第2次岸改造内閣
在任期間 1959年6月18日 - 1960年7月19日

選挙区 岩手県第2区
当選回数 8回
在任期間 1955年2月28日 - 1979年9月7日
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椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年(明治31年)1月16日 - 1979年(昭和54年)9月30日)は、日本官僚政治家

戦前の官僚時代は岸信介腹心[2]として活躍し、商工次官軍需次官などを務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官岸内閣)、通商産業大臣(21代・30代)外務大臣(94-95代)、自由民主党総務会長政調会長副総裁を歴任した。田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した、いわゆる「椎名裁定」で知られる。

生涯

生い立ち

岩手県胆沢郡水沢町水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。父の後藤広小学校の教師から水沢町(当時)の助役を経て、岩手県議会議員となり、更に水沢町長を10年間務めた。

悦三郎は高等小学校4年次に一人上京。実業家の原邦造家などの学僕をしていたが、夜学にも通わせてくれなかったことに憤り主宅を転転、父のとりなしもあって三件目で通学が許され、夜学の研数学館で数学などの受験準備をし、錦城中学入学を果たした[3]旧制二高卒業後、東京帝国大学入学。同時に後藤新平の姉の婚家である椎名家に養子入りする。椎名家は蘭学者の高野長英(幼名、悦三郎)の血筋にあたった。

官僚時代

1923年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、農商務省に入省[1]。農商務省が農林省商工省に分離した後は、商工省に移り、岸信介の下、満州国統制科長、産業部鉱工司長を歴任する。

日本に戻り、商工省産業合理局長、商工次官、軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下物資が窮乏する中、物資統制、調整に数々の実績を上げた。商工大臣・軍需次官であった岸信介を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称された。また叔父の後藤新平と繋がりのあった正力松太郎の協力を得て、地元水沢町に日本初の公民館を建設した[4]

1945年、終戦と共に退官。

岸信介内閣

岸信介の誘いで1955年第27回衆議院議員総選挙日本民主党公認で立候補し当選する(当選同期に愛知揆一田村元唐沢俊樹高村坂彦渡海元三郎丹羽兵助など)。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを評価されて経理局長に就任する。当選2回で岸信介内閣内閣官房長官に就任。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では「細かいことは総理に聞いてくれ」とおとぼけを発揮する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。

岸退陣後、岸派は分裂。椎名は福田赳夫と袂を分かち、川島正次郎川島派として行動した。1970年の川島の死に伴い川島派は椎名派となる。

名外相

池田勇人内閣で、自民党政務調査会長、通商産業大臣1964年には外務大臣に就任した。外相に就任した際はマスコミからは奇想天外人事と評され、本人も「何でこんな人事を考えやがったんだ」と外相就任に難色を示していた。この人事は前尾繁三郎の強い推薦によるものであったとされる。

佐藤栄作内閣でも外相に留任、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)の締結に向けて韓国側と交渉。韓国の金浦国際空港に降り立った際に、日本の過去を「深く反省する」と声明を述べ、また当意即妙な応答でマスメディアを通じて韓国内の反日運動の沈静化に寄与し、条約締結にこぎつける。ただし条約本文に韓国側が主張していた謝罪の文言を盛り込む事は拒否した。また請求権を打ち切った事を明文化した点も後に禍根を残す遠因になった。さらに日本国内での批准をめぐる「日韓国会」では左派野党が強硬に反対していたが、政府を代表し答弁に立ち「名外相」と言われる。

外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁したり、核抑止についての見解を問われ、アメリカの核兵器は「番犬のようなもの」「番犬様」と表現した[5]ことが知られている。こうしたおとぼけ・ユーモアは、本人の落語好きに由縁している。

椎名裁定

1972年7月に田中内閣が発足し[6]、椎名は同年8月に自民党副総裁に就任した[6][1]。しかし、経済政策に失敗したことと田中金脈問題により、田中は1974年11月に退陣を表明する[7]

田中の後継をめぐり、椎名は大平正芳福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に選出した(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもって迎えられた。ただし三木や中曽根康弘はこの裁定を事前に知っていたという説も根強い[8]

三木おろし

椎名は三木内閣でも副総裁に留任。更に「三賢人の会」の一人である灘尾弘吉を党総務会長に推挽し三木内閣を通じて党改革に取り組もうとするが、1975年4月には早くも三木との間に党改革・近代化をめぐり亀裂が生じる。

ロッキード事件独占禁止法改正、党内改革をめぐり、椎名の三木首相への不満は嵩じ、「三木おろし」へと繋がっていく。1976年椎名は田中、福田、大平と三木退陣で一致し、8月24日挙党体制確立協議会(挙党協)を結成。椎名裁定で三木を推挙した椎名が三木おろしに回ったことについて、椎名は「産みの親だが、育てるとは言ったことはない」と答えた[9]

三木は9月に内閣改造、党役員改選を経て12月5日の任期満了にともなう第34回衆議院議員総選挙で敗北し退陣を余儀なくされた。

晩年

1979年第35回衆議院議員総選挙には出馬せず、次男の素夫に地盤を譲り政界を引退[10]。その選挙期間中の9月30日死去[1]。享年81。

人物・逸話

人柄

椎名の人となりはものぐさとして知られる一方でカミソリともいわれるものであった。座右の銘は「菜根譚」の中から「不如省事(事を省くにしかず)」を見つけた「省事[10]。物事を処理する時は些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが大切である、枝葉末節にこだわり大切な根本をおろそかにしないということを人生訓とした[10]。商工省時代は、大酒飲みの評判[11]と、給仕にハンコ押しをさせるなど武勇伝を残している[要出典]

温厚な性格として知られていた椎名だったが、1974年文世光事件の際に、自民党副総裁の身分で謝罪特使として韓国に派遣され[12]青瓦台朴正煕大統領を訪問した後には、「あのような屈辱的な使いをしたのは初めてだ」と愚痴をこぼしていたという[要出典]。なお、やはり自民党副総裁であった1972年には中華人民共和国との国交樹立に伴い台湾中華民国)への釈明と今後の民間交流維持のための特使として派遣され、日本の不義理に憤激するデモ隊から車に投石されたこともある[6]。このことが後年、大平正芳との関係を悪化させたといわれる[要出典]

三賢人の会

1970年頃から、前尾繁三郎灘尾弘吉と、いわゆる「三賢人の会」と称された集まり[注 1]を料亭で持っていたが、自民党副総裁や衆議院議長を務めた三人の集まりにもかかわらず「政治の話はほとんど出なかった」といわれる[注 2]

家系

東京市長、内務大臣帝都復興院総裁などを歴任した後藤新平は叔父に当たる。衆議院議員参議院議員をつとめた椎名素夫は二男。妻は、山口銀行の重役、森信敬二の長女。

脚注

注釈

  1. ^ この集まりについては、城山三郎『賢人たちの世』文藝春秋文春文庫〉、1994年1月。ISBN 978-4167139155 に詳しい。
  2. ^ 本人たちは「ただ飯を食ってバカ話をするだけ」と語っていた[13]

出典

参考文献・関連文献

関連項目

外部リンク

公職
先代
石井光次郎
菅野和太郎
日本の旗 通商産業大臣
第21代:1960年 - 1961年
第30代:1967年 - 1968年
次代
佐藤榮作
大平正芳
先代
大平正芳
日本の旗 外務大臣
第94・95代:1964年 - 1966年
次代
三木武夫
先代
赤城宗徳
日本の旗 内閣官房長官
第20代:1959年 - 1960年
次代
大平正芳
党職
先代
川島正次郎
自由民主党副総裁
1972年 - 1976年
次代
船田中
先代
福永健司
自由民主党総務会長
第13代:1966年 - 1967年
次代
橋本登美三郎
先代
船田中
自由民主党政務調査会長
第7代:1960年
次代
福田赳夫
先代
川島正次郎
交友クラブ会長
第2代:1970年 - 1979年
次代
解散