朝鮮民主主義人民共和国の国際関係

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朝鮮民主主義人民共和国の国際関係図。緑色で塗られた諸国とは国交を有し、赤色で塗られた諸国とは国交が断絶し、灰色で塗られた諸国とは国交を有していない。
青色で塗られた諸国には朝鮮民主主義人民共和国の在外公館が存在する。

朝鮮民主主義人民共和国の国際関係(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくのこくさいかんけい)では、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国際関係について記述する。

北朝鮮の国際関係は緊張し、予測できないことがしばしばである。朝鮮戦争休戦協定が署名された1953年7月27日以降、北朝鮮政府はもっぱら孤立主義をとり、北朝鮮は世界で最も権威主義的な社会になった。北朝鮮は法的にはいまだ大韓民国(韓国)や西側諸国と戦争状態にあり、中華人民共和国(中国)との密接な関係を維持し、他の国との関係はしばしば限定的である。

南北朝鮮政府は軍事境界線38度線)は一時的なものであり、恒久的なものではないと主張している。両国の軍事境界線から南北それぞれ2000メートルの非武装地帯が広がっている。

諸外国との関係

北朝鮮は、歴史的に、西側諸国、および西側諸国との関係が良好な国々とは距離を置いて来た。1970年代から1980年代にかけて、北朝鮮は日本人韓国人の拉致事件を起こした。その問題は北朝鮮が拉致を認めることによって部分的には解決したが、2つの国との争いはまだ続いている。また、米国は北朝鮮が大量の高品質な偽札作りをしていることを非難している。しかし、韓国は朝鮮統一を目指して1990年代から続けている太陽政策を維持し、北朝鮮の指導層に敵意を持つことを避けてきた。

1980年代以降、北朝鮮核問題は北朝鮮の国際関係を圧迫してきた。北朝鮮が1994年の米朝枠組み合意を無視し、核の軍事利用計画を継続している証拠があると米国が主張すると、北朝鮮は米軍首脳との私的な懇談においてウラン濃縮計画の存在を認めた。2003年1月10日、北朝鮮は核拡散防止条約から脱退し、米国との二国間対話を主張したが、2003年8月、韓国、中国、ロシア日本を加えた六者会合を開催することに合意した。会合は2005年9月19日に合意に至るまで2年間続けられたが、2006年10月、北朝鮮が核実験を行うと危機にさらされた。その後2007年2月13日、米朝および日朝関係の正常化を条件に加えた合意が交わされ、北朝鮮は寧辺核施設での核開発を凍結した[1][2]

1945年以降、ソ連は北朝鮮に対する経済的、軍事的支援を行い、そのことが1950年の南への進行を可能にした。ソ連は朝鮮戦争の間も支援を続け、停戦後も北朝鮮経済の復興に大きく貢献した。また1958年まで続けられた中国人民志願軍の支援とその存在は中朝関係に大きな影響を与えた。1961年、北朝鮮はソ連、中国と公式にソ朝友好協力相互援助条約(ロシアに引き継がれた)、中朝友好協力相互援助条約をそれぞれ締結し、それらの条約は公式にはまだ失効していない。冷戦期のほとんどにおいて、北朝鮮はソ連、中国と等しい間隔をとり続け、いずれか一方に明確に擦り寄ることは避けてきた。

1970年代から1980年代前半にかけて起きた米中国交樹立、ソ連の支援を受けたベトナムによるカンボジア占領ソ連のアフガニスタン侵攻は中国とソ連の緊張を生み出した一方で、北朝鮮はこれら主要な共産主義の同盟国との関係を維持した。北朝鮮は中ソ対立に巻き込まれることを避けようとしてきたが、両国からの支援は受け続け、双方いずれか一方に依存することは避けようとした。1984年、金日成がモスクワを訪問し、ソ朝関係は劇的に改善した。北朝鮮はソ連の最新の兵器と多くの経済の支援を得ることができた。

韓国は1990年にソ連と、1992年には中国とそれぞれ国交を樹立し、北朝鮮とその伝統的な同盟国との関係は危機に瀕した。それだけでなく、1989年の東欧諸国1991年のソ連における共産主義の崩壊により北朝鮮の同盟国、特にソ連からの支援は劇的に減少した。これらの変化とこれらの同盟国から軍事的、経済的支援を受けられなくなった事実があるにもかかわらず、北朝鮮は主体思想に基づき、どの国にも依存しない好戦的な態度をとることを宣言した。

1992年4月20日に金日成国家主席の80歳の誕生日に「平壌宣言」(正式名:社会主義偉業を擁護し前進させよう)が採択された。この宣言には金日成国家主席の誕生日に出席と祝いに来て集まった世界70の政党代表(うち48人は党首)が署名した。その中にはソビエト連邦や東欧で新たな社会主義運動を展開している諸政党が含まれていた。

また、北朝鮮は多くの多国籍機構に参加している。1991年9月、北朝鮮は国際連合に加盟した。他にも北朝鮮は国際連合食糧農業機関国際民間航空機関万国郵便連合国際連合貿易開発会議国際電気通信連合国際連合開発計画国際連合教育科学文化機関世界保健機関世界知的所有権機関世界気象機関国際海事機関赤十字国際委員会非同盟に属している。

2000年7月、北朝鮮はASEAN地域フォーラム(ARF)に参加し、7月26日から27日にかけてバンコクで開催されたARF閣僚会議に白南淳外相が出席した。北朝鮮はその年から二国間関係を構築し始め、イタリアオーストラリアフィリピンと国交を樹立した。英国は2000年12月13日、[3]カナダは2001年2月、[4]ドイツニュージーランドはそれぞれ2001年3月1日に北朝鮮と国交を樹立した[5] [6]メキシコは北朝鮮との国交を維持している。 フランス米国は北朝鮮と国交がなく、樹立しようとする意思も示していない。しかし、北朝鮮はパリ近郊に大使ではないが代表団を派遣している。

2007年2月13日、寧辺核施設の無力化の見返りとして、日米は北朝鮮との国交正常化の協議を開始した。

2008年3月28日、韓国の国防筋は北朝鮮が西海岸に向け短距離ミサイルの発射したと伝えたが、韓国大統領府は北朝鮮の「通常の軍事訓練」だとしてとりあわなかった。2008年3月27日、韓国政府は北朝鮮から統一部職員11名を召還し、金夏中統一部長官は会見を行った。彼は北朝鮮核問題の進展がない限り経済協力は難しいと語った[7]

大韓民国との統一への努力

1950年6月25日朝鮮戦争開戦から1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名以後、数十年間に渡り、南北朝鮮の関係は浮き沈みを繰り返した。

1960年四月革命 (韓国)が勃発し、初代大韓民国大統領であった李承晩政権が韓国の学生市民によって打倒された後、同1960年8月14日朝鮮民主主義人民共和国首相金日成は「連邦制統一案」を提案し、北南両政府代表による「最高民族委員会」の設立を訴えたが、翌1961年朴正煕少将による5・16軍事クーデター以後、この提案は顧みられずに流れてしまった。

1971年8月、南北朝鮮は朝鮮分断統治および朝鮮戦争期に生じた多くの離散家族の再会を目指し、赤十字社を通じて対話を持つことで合意した。数度の非公式な会合の後、1972年7月4日、両国は平和的統一と半島を覆っていた敵対的な雰囲気を終結させることで合意し、「南北共同声明」を発表した。赤十字社の調整により両政府間の相互訪問と定期的な対話の機会が設けられた。しかし、1973年、これらの交流は単独での国際連合加盟を望む韓国の思惑と、朴正煕大統領の維新クーデター直前の韓国の野党新民党の大統領候補金大中日本国東京滞在中に大韓民国中央情報部(KCIA)によって拉致された金大中拉致事件により、朴正煕大統領から中止が発表された。

その後、朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席1980年10月10日に「高麗民主連邦共和国」創設を全斗煥大統領に提唱したが、南北朝鮮は1984年まで大きな接触はなかった。

1984年9月、韓国は深刻な洪水を契機に北朝鮮の救援物資を受け入れ、対話は再開された。赤十字は離散家族の再会事業を再開し、政府レベルでの経済や貿易の交流が行われた。しかし、1986年1月、北朝鮮は米韓合同軍事演習チーム・スピリット」が対話の精神に矛盾していると主張してすべての対話を中止した。その後1988年開催予定のソウルオリンピックの共催について短い間に多くの話し合いが行われたが失敗に終わり、その後大韓航空機爆破事件が起きた。

1988年7月、韓国の盧泰愚大統領のイニシアティブにより、南北の交流、離散家族の再会、南北朝鮮間の貿易と国際フォーラムでの接触など新しい南北交流を呼びかけた。その後盧大統領は国連総会の演説でもこのイニシアティブについて語り、北朝鮮と初めて安全保障問題について話し合うことを提案した。

盧泰愚大統領が提案した協議は1989年9月に開始された。1990年9月、8回行われた南北高位級会談の第1回目がソウルで行われ、実りある対話が開始された。高位級会談では2つの合意文書が交わされた。南北の和解と不可侵および交流、協力に関する合意書(南北基本合意書)と朝鮮半島の非核化に関する共同宣言(南北非核化共同宣言)である。

南北基本合意書1991年12月13日に締結され、南北の和解と不可侵および4つの共同委員会の設立が公約として掲げられた。これら4つの委員会(南北和解共同委員会、南北軍事共同委員会、南北経済協力・交流共同委員会、南北社会文化協力・交流共同委員会)は基本合意の一般条項を履行するためのものである。問題の詳細を審査する分科委員会は板門店に連絡事務所を設けた。しかし、1992年秋、核問題の緊張の高まりによってプロセスは中止された。

非核化に関する共同宣言は1991年12月31日に交わされた。核の実験、製造、授受、保有、配備、使用と核の再処理施設、ウラン濃縮施設の保有が禁止された。南北朝鮮による査察団が組織され、南北核統制共同委員会(JNCC)に半島の非核化を確認する権限が与えられた。

北朝鮮は1985年に核拡散防止条約に署名する際、国際原子力機関(IAEA)と核の不拡散で合意していたが、1992年1月30日、北朝鮮は再びIAEAと合意した。この合意により、1992年6月、IAEAは査察を開始した。1992年3月、南北非核化共同宣言で南北核統制共同委員会を設立することで一致したが、その後の会合で両国による査察体制の確立について合意には至らなかった。

1990年代が進むにつれて、北朝鮮核問題は南北関係と米朝関係の主要な議題になった。南北朝鮮核査察体制による非核化共同宣言の履行は遅々として進まなかったため、1993年、米韓合同軍事演習が再開された。北朝鮮が1993年にIAEAの査察官に対し疑惑の放射性廃棄物最終処分場への立ち入りを禁止すると状況は急速に悪化し、1993年、核拡散防止条約からの脱退を表明した。その後2年間、米国は北朝鮮との直接対話に応じ、一連の核問題に関する合意に至った。1994年、ジミー・カーター元大統領は北朝鮮を訪問して金日成主席と会談し、史上初の南北首脳会談を行うことで合意した。両国は7月に再び協議を行う予定であったが、金日成の死去により延期された。なお、米朝関係に於いては金日成主席死後、アメリカ合衆国との間で1994年10月21日米朝枠組み合意が結ばれている。

1960年代から1970年代にかけて「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を経た韓国は、アジアの虎としての地位を占める一方で、1998年に大統領に就任した金大中政権の「太陽政策」により北朝鮮に対して援助の手を差し伸べた。2000年には南北首脳会談が実施され、金大中大統領と金正日国防委員長の間で6.15南北共同宣言が締結された。1998年2月25日から2008年2月24日までの間、金大中盧武鉉の両政権によって実施された「太陽政策」により、韓国は食料や他の援助物資を北朝鮮に送ったが、北朝鮮の核兵器開発計画には融和的態度をとった[8]

2008年2月25日に大韓民国大統領に就任した親米保守派の李明博は対北朝鮮宥和政策であった太陽政策を転換した。北朝鮮側も韓国からの宥和政策転換に応じ、2008年3月27日、北朝鮮は軍事境界線付近にある開城工業地区に駐在していた韓国の11人の統一部職員の退去を要求し、韓国は彼らを召還した。2008年3月17日、韓国の金夏中統一部長官は北朝鮮核問題の進展がない限り工業地区の拡張は難しいと語った[9]

2008年10月、北朝鮮は韓国が「中傷キャンペーン」を行っているとして戦争の対話を徐々にやめていった。北朝鮮の軍部は韓国が敵視政策をやめなければ韓国を「瓦礫の山」にすると脅迫した。北朝鮮の軍部のスポークスマンは「傀儡政権は我々独自の進んだ先制攻撃がわが国に反対するものをすべて破壊し、統一も水泡に帰すことを覚えておいたほうがいい」と語った。これは両国の軍の幹部が司令官のコミュニケーションを改善する方法を面と向かって話し合ったという稀な出来事の翌日に起こった。しかし、この問題はその後何の進展もない[10]

核開発計画

寧辺核施設の5メガワット原子炉

北朝鮮の核開発は1960年代、核拡散防止条約に加盟するという条件つきでソ連の支援を受けて開始された。1980年代、国産原子炉開発計画が開始され、まず寧辺の5メガワット黒鉛減速ガス冷却炉が完成し、その後も50メガワット、200メガワットの原子炉を建設する計画が立てられた。

1980年代後半、北朝鮮が核を軍事目的で利用する懸念が浮上し、1994年、北朝鮮が核拡散防止条約から脱退する寸前までいった。しかし、枠組み合意により政治的、経済的関係を正常化するとともに、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を通じて米国など数ヵ国が核開発計画を放棄する代わりに北朝鮮に2つの軽水炉を建設することを約束したことでこの危機は一時的に解決された。

この合意はKEDOによる軽水炉建設計画がなかなか進まなかったことと共和党ジョージ・W・ブッシュ大統領による「悪の枢軸発言」のため2001年以降破綻を来たし始めた。2002年の暮れ、米国は核拡散防止条約に反して核兵器開発計画を継続しているとして北朝鮮を非難し、枠組み合意による暫定的な北朝鮮への重油の供給を停止すると、2003年、北朝鮮は核拡散防止条約からの脱退を表明した。北朝鮮はこれらの非難を否定し、核拡散防止条約で認められている原子力エネルギーの平和利用の権利を行使しているだけだと主張した。

北朝鮮の核拡散防止条約脱退後、周辺国はただちにこの危機がこれ以上悪化するのを外交手段で防ぐことを模索した。その結果、2003年、六者会合が北京で開始された。その成功により、米朝関係は疑問が呈され、最も争いのある要素となった。例えば、北朝鮮は2005年2月10日、核兵器保有を宣言し、2006年10月6日、北朝鮮は核実験を行い、成功したと発表した。これに対して米国は北朝鮮の銀行資産を凍結した。そのため、六者会合は2006年12月中旬まで13ヶ月間延期された。直近に行われた第6フェイズの第5ラウンドは2007年2月8日から行われ、最終的に合意に至り、合意から30日以内にすべての当事国が合意事項を開始し、合意から60日以内に米朝、日朝関係の正常化に向けた協議が開始されることになった。関係各国による合意の履行は首尾よく行われており、さらなる対話が予定されている。

2008年3月3日、北朝鮮は米韓が軍事演習を行ったことに対し、核抑止力を支持すると脅迫して、不穏な空気に一撃を与えた。一週間後、ワシントンと平壌の間で文化的な外交を行い、暖かい絆を作ろうとする雰囲気が生まれ、ニューヨーク・フィルハーモニックが北朝鮮を訪問し公演を行った。[2]

米国の情報当局者によると、2008年4月24日、米国の議員が北朝鮮が支援していたシリアの核施設は、2007年9月、イスラエル軍により空爆されたと語った。北朝鮮が必要な燃料をシリアに供給した、或いはしようとしていたのかどうかは明らかではない[11]

領土問題

軍事境界線は韓国との緊張を生み出している。さらに白頭山付近の33kmにおよぶ中国との境界線は確定していない。北朝鮮は現在も朝鮮半島全土の領有を主張している。

外交

北朝鮮は贈り物の授受が外交儀礼の中で重要な役割を果たしている数少ない国家である。朝鮮中央通信社(KCNA)は金正日が他の国家や機構の指導者から花束を受け取ったり、贈り物を渡すところを常に報道している。[12]それがどんな贈り物なのか言及されることは絶対にないが、金総書記は世界の指導者から受け取った膨大な文化や他の記念品のコレクションを持っている。それらは部分的あるいは全部公開されている。2000年に平壌を訪問したマデレーン・オルブライト元国務長官は、NBAバスケットボールに関心がある金総書記にマイケル・ジョーダンがサインしたバスケットボールを贈呈した[13]

北朝鮮の日米に対する外交の特徴は朝鮮中央通信を通じて日米の軍事能力についてしばしば痛烈に批判するということである。日米の些細な声明や行動を戦争を再開する宣言だとみなしているようである。かつて北朝鮮のある官僚が大砲によってソウルを「火の海」にすると韓国を恫喝したことがあるが、その官僚はすぐ更迭された[要出典]

国連の制裁決議に賛同した国々と貿易ができないことは北朝鮮を貧困の淵に陥れた。さまざまな団体が農業地区の開発支援や人道支援のため約850万ニュージーランドドルの支援を行っている[6]

2008年ニューヨーク・フィルハーモニックが北朝鮮を訪問し、米国の芸術団体が初めて北朝鮮で公演を行った。

二国間関係

アメリカ合衆国

米朝関係は主に1950年6月25日朝鮮戦争勃発から1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名までの間に発展してきた。冷戦中に両国は度々軍事衝突を起こし、1968年プエブロ号事件が、1969年アメリカ海軍EC-121機撃墜事件が、1976年8月18日ポプラ事件が発生している。しかし、近年米国は北朝鮮の核開発に対して大いなる疑惑を抱いてきた。そして、差し迫った米国の攻撃に対する危機感から北朝鮮の国交正常化の望みはいっそう強くなっている。

冷戦時代の政治の副産物として両国の間には大いなる敵意が未だに残っているが、米朝間のそうした紛争や憎しみの感情は早くからあった。19世紀中頃、李氏朝鮮西洋に交易の門戸を閉ざしていた。1866年ジェネラル・シャーマン号事件では、李氏朝鮮政府が通商条約の交渉のために送られた米国の武装商船の入国を拒否した後、両国が戦火を交え、朝鮮民衆の攻撃により、ジェネラル・シャーマン号の乗組員が殺害された。その後、米国は報復を行い、1871年辛未洋擾が勃発した。

イギリス

南北関係の改善に従い、2000年12月12日、北朝鮮とイギリスは国交を樹立し、ロンドンと平壌に大使館が設けられた。英国は北朝鮮の官僚英語人権についての訓練を施し、北朝鮮政府に対し国連人権状況特別報告官の訪問を受け入れるよう求めており、また、英国は二国間の北朝鮮における人道プロジェクトを監督している[14]

イスラエル

北朝鮮はイスラエルを承認しておらず、その代わりにイスラエル領内のパレスチナ自治政府の領土の主張を承認している。過去において、北朝鮮はイランやシリア、リビアエジプトなどイスラエルと敵対してきた国にミサイル技術を提供し、それらの国は北朝鮮と核開発計画において協力を維持してきた。北朝鮮はガザ戦争においてイスラエルがシリアの領空を侵犯したと非難した。2007年9月6日、イスラエル空軍はシリアのデリゾール市を空爆した。メディアの報道やIAEAの査察報告によると、空爆のため10人の北朝鮮の科学者が死亡した。北朝鮮は現在イスラエル市民の入国を禁止している。

イラン

イランと北朝鮮の関係は両国の通信社によると良好なものであるとされている。イランと北朝鮮は教育、科学、文化の分野で協力することを約束した[15]。北朝鮮はイランに核開発の支援を行っている[16]。 かつてのイラン・イラク戦争時には北朝鮮は非公式の兵員、軍事顧問、そして兵器を送りイランを支援した。

オーストラリア

1974年に最初にキャンベラに開設したが、1975年末には外交官を引き上げ、平壌からもオーストラリアの外交官を追放した[17]。2002年5月、再びキャンベラに大使館を開設したが、2008年、北朝鮮は経済的困難を理由に同大使館を閉鎖した。大使館のスポークスマンであるパク・ミョングクは「ここオーストラリアで生活するにはとてもお金がかかる。我々の経済的な状況が解決すれば、またキャンベラに大使館が設立されると思う」と語った[18]。以降は、韓国ソウルの大使館を通じて外交関係を維持。年間およそ500万ドルの人道支援も行なっている[19]。2012年12月にはオーストラリア側から大使館の再開設を要求。2013年1月、ボブ・カー外相は、キャンベラに再び開きたいとの北朝鮮が伝えてきたことを外務省が明らかにした上で、意向を歓迎。「大使館がキャンベラにできれば、北朝鮮の悲惨な人権状況について我々の深い憂慮を伝えられるようになるだろう」、(強制収容所に政治犯が収容されていることを踏まえて)「彼らは餓死したり、死刑に処されている」と語った[20]。しかし、同年2月に再開された核開発に反発を示し、3月7日には大使館再開設は中止が決定された[21]

カナダ

カナダはアジア太平洋地域において北朝鮮が不安定要素の原因になっているとして、北朝鮮との貿易をほとんど行っていない。両国は2001年2月、国交を樹立した。しかし、両国はともに大使館を設置していない。カナダはソウルの駐韓国大使が北朝鮮大使を兼ねており、北朝鮮は国連大使がカナダ大使を兼ねている。

キューバ

1959年キューバ革命以後、キューバのフィデル・カストロ体制と北朝鮮は反米を共通政策に友好関係を保ってきた。

キューバは北朝鮮との友好関係により、韓国との国交を樹立していない。

シリア

シリアとは反米的なハーフィズ・アル=アサド政権成立以来の友好関係にあり、シリアと北朝鮮の間には軍事交流が存在する。

シリア朝鮮民主主義人民共和国との友好関係を考慮し、大韓民国との国交を有していない。

ジンバブエ

1980年10月、金日成とジンバブエロバート・ムガベ大統領は軍事的な交流を行う合意文書に署名した。その後、ジンバブエ第5旅団として知られることになる兵士を訓練するため、106人の北朝鮮の軍事顧問団がジンバブエに到着した。

中華人民共和国

一般的に両国は良好な関係であると思われている。2008年6月、外交問題評議会は中国を「北朝鮮の最も重要な同盟国であり、かつ最大の貿易相手国、そして主要な食料、武器および燃料の供給国である」とし、さらに「北朝鮮は1980年代前半から経済的に中国に依存しており、エネルギーの90%は中国からのものである」と分析している。現在、中国による北朝鮮への投資は15億ユーロに上っていると見られ、それによって中国は北朝鮮に対する地位を固めている[22]

また、中国の北朝鮮に対する歴史的な宗主国 - 属国関係や中国の北朝鮮に対する政治的・経済的影響故に、北朝鮮を中国領土、もしくは中国の植民地と見なす報道や記述が世界各国で存在する。

一方で大韓航空機爆破事件を契機として中朝はそれ以前の綿密な連携は望めなくなった一面もある。近年の北朝鮮の日米韓に対する無用の挑発は中国指導部の反感を買っている。鉄道貨物で支援物資を北朝鮮に送ったところ、中国国鉄所有の貨車までスクラップにして処分してしまい、中国から抗議を受けた。対外的に北朝鮮の体制を擁護しているのは、韓国を基本とした統一がなされた場合、中国と陸続きの位置に米軍が進出する可能性を懸念しているためともされる。

日本国

日韓関係日朝関係は日本国と大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国との間の関係である。1910年から1945年まで続いた日本の統治に起因する苦い記憶は日韓、日朝関係に微妙な影響を与えている。

2000年代前半、小泉純一郎首相が行った靖国神社の参拝は日韓関係を難しくした。日本海にある小さな島、竹島の問題も続いている。北朝鮮と日本は北朝鮮が1970年代から1980年代にかけて行った日本人の拉致問題について六者会合で話し合いを続けている。

ニュージーランド

北朝鮮が現在の独裁体制を確立して以来、両国の国交はほとんどなかった。1950年代、朝鮮戦争でニュージーランドは国連軍に参加し、米国、韓国とともに北朝鮮と戦った。それ以降、ニュージーランドと北朝鮮は接触する機会がほとんどなかったが、2001年、ニュージーランドのフィル・ゴフ外務大臣と白南淳外相は会談し、その後国交を樹立した。ニュージーランドは駐北朝鮮大使を任命しておらず、駐韓国大使が兼務している[23]

2007年11月20日、ニュージーランドのウインストン・ピータース外務大臣は平壌を訪問し、2日間の滞在中、金永南首相と会談した。ニュージーランドは北朝鮮と農業、スポーツ選手の育成、環境保護などの分野で協力することを期待している。

パキスタン

パキスタンは北朝鮮と国交と貿易関係を維持している。両国は1970年代、ズルフィカール・アリー・ブットーが政権の座にあったとき、国交を樹立した。北朝鮮はイスラマバードの大使館を維持し、また他の都市にも領事館を設けている。[要出典]両国は民間、軍事双方の分野で強い関係にあると伝えられている。[要出典]

フランス

フランス共和国と朝鮮民主主義人民共和国の公式な国交はない。フランスは欧州連合で北朝鮮を承認していない2つの国のうちの1つであり、もうひとつはエストニアである。そのため、フランスは韓国が主張する朝鮮半島全土の領有を認めている。平壌にはフランス大使館や他のいかなる形の外交官もおらず、パリにも北朝鮮大使館はないが、外交事務所がヌイイ=シュル=セーヌ近郊にある。[24] [25]

フランスの公式な立場は北朝鮮がもし核兵器開発を放棄し、人権の状況が改善されれば国交を樹立するとされている[24]

ブルガリア

ブルガリアと北朝鮮は一般的によい関係を保っている。両国は1948年11月29日に国交を樹立し、1970年、文化や科学の分野で協力を行う二国間合意に署名した。金日成はブルガリア人民共和国を1950年代に始めて訪れ、1975年に再び訪問した。ブルガリアのボランティアは朝鮮戦争の間、衣服や食料など基本的な生活物資の援助を行った[26]。東欧で共産主義国が崩壊した後も、両国は活発な関係を維持している。平壌の外国語研究所にはブルガリア語科がまだある。過去において、両国はスポーツの分野で密接な協力を行い、現在も以前ほどではないがそれらの協力を維持している。

ポーランド

ポーランドは北朝鮮と国交と貿易(漁業)関係を維持している数少ない国である。両国は1948年10月16日に国交を樹立した。平壌には欧州ではポーランドのほかドイツ、英国スウェーデンの大使館がある。ポーランドと北朝鮮は外務次官級の関係を維持している。

ポルトガル

ポルトガルと北朝鮮は、かつてのポルトガルの植民地であるマカオのこともあり、よい関係を保っている。金正日の息子の1人は北朝鮮の国籍だけでなく、マカオに滞在するためのポルトガルの国籍も所有している。金永南はフランシスコ・ダ・コスタ・ゴメス元大統領が亡くなった際、ジョルジェ・サンパイオ大統領に弔辞を送ったり、[3]アニーバル・カヴァコ・シルヴァがポルトガルの大統領選で勝利した際に祝福するなど両国の良好な関係を確認する声明を発表している。 [4].

マレーシア

マレーシアは、北朝鮮との外交関係や経済関係を構築している。2009年よりマレーシア国籍保有者は、査証なしで渡航が可能である。北朝鮮が査証なしで入国を認めるのは、マレーシアが最初であり唯一の事例である[27]。また、マレーシアのHELP大学 英語版は2013年に金正恩に対し、経済学の名誉博士号を授与した[28][29]

モンゴル

北朝鮮とモンゴルの関係は1948年、ソ連の支援を受けて金日成が樹立した政府をモンゴルが承認したときまで遡る。朝鮮戦争ではモンゴルも北朝鮮を支援した。両国は友好協力条約を1986年に締結した[30]。1988年、金日成はモンゴル人民共和国を訪問した[31]。しかし、両国の関係はソ連の崩壊により緊張が高まった。両国は友好協力を1995年と1999年に破棄した。

韓国の金大中大統領がモンゴル国を訪問した際、北朝鮮はウランバートルの大使館を閉鎖した[30]。そのときからモンゴルは北朝鮮に対する姿勢を硬化し始めた[32]。2001年、モンゴルは2人の北朝鮮の外交官が偽100ドル札を渡そうとしたとして追放した[33] 。2013年10月にツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領は北朝鮮訪問時に自由と人権を強調して「いかなる暴政も永遠には続かない」として暗に体制を批判した[34][35]

ロシア

ロシアと北朝鮮の関係はロシアの朝鮮半島の平和と安定の維持を望むという戦略的な関心からきている。北朝鮮核問題に対するロシアの公式な立場は外交と交渉を通じた平和的な解決を支持するというものである[要出典]

脚注

  1. ^ “Rice hails N Korea nuclear deal”. BBC News. (2007年2月13日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/6358797.stm 2007年2月13日閲覧。 
  2. ^ Scanlon, Charles (2007年2月13日). “The end of a long confrontation?”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/6357853.stm 2007年2月13日閲覧。 
  3. ^ FCO: Country Profile: North Korea
  4. ^ - Bilateral Relations Canada-DPRK - Ministry of Foreign Affairs and International Trade
  5. ^ Auswärtiges Amt: Länderinformationドイツ民主共和国とは国交を樹立していた。)
  6. ^ a b North Korea - Country Information Paper - NZ Ministry of Foreign Affairs and Trade
  7. ^ "Report: North Korea test-fires missiles", CNN, March 28, 2008
  8. ^ Huntington, Samuel. Clash of Civilizations.
  9. ^ "Pyongyang pressures S. Korean envoys to leave", CNN, March 27, 2008
  10. ^ http://english.aljazeera.net/news/asia-pacific/2008/10/2008102854049888618.html
  11. ^ [1]
  12. ^ Past news
  13. ^ Perlez, Jane (2000年10月25日). “ALBRIGHT REPORTS PROGRESS IN TALKS WITH NORTH KOREA”. New York Times. 2008年5月6日閲覧。
  14. ^ British Foreign & Commonwealth Office - North Korea
  15. ^ “Result of Iranian delegation visit to N Korea positive”. IRNA. (2007年1月23日). http://www2.irna.com/en/news/view/line-17/0701233718200902.htm 2007年4月24日閲覧。 
  16. ^ Coughlin, Con (2007年1月26日). “N. Korea helping Iran with nuclear testing”. The Daily Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2007/01/24/wiran24.xml 2007年4月24日閲覧。 
  17. ^ "North Korean embassy trip put on hold",Sydney Morning Herald, January 14 , 2013
  18. ^ "Cash-strapped Korea closes embassy", Herald Sun, January 22, 2008
  19. ^ 北朝鮮がオーストラリアにすり寄る訳Newsweekニューズウィーク日本版 2013年1月29日号
  20. ^ "North Korea moves to open embassy in Canberra", Sydney Morning Herald, January 16, 2013
  21. ^ "Carr scraps North Korean embassy plan", Sydney Morning Herald, March 7, 2013
  22. ^ "The China-North Korea Relationship", Council for Foreign Relations, June 18, 2008
  23. ^ North Korea - Country Information Paper - NZ Ministry of Foreign Affairs and Trade
  24. ^ a b Official website of the French National Assembly
  25. ^ Address of the North Korean diplomatic representation in France
  26. ^ Дума - Деветдесет и две годишната Василка Никифорова е превърнала дома си в библиотека, посветена на Ким Ир Сен - Duma.bg
  27. ^ Fazleena Aziz (2009年3月9日). “Only Malaysians can visit North Korea without a visa”. The Star. 2014年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月24日閲覧。
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  35. ^ モンゴル大統領、金日成大学講演で「自由と人権」を強調”. donga.com[Japanese donga] (2002年5月25日). 2015年10月13日閲覧。

関連項目

外部リンク