ポプラ事件

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座標: 北緯37度57分22秒 東経126度40分21秒 / 北緯37.95611度 東経126.67250度 / 37.95611; 126.67250

韓国側の表記
各種表記
ハングル 판문점 도끼 살인사건
漢字 板門店 斧 殺人事件
発音 パンムンジョム トッキ サリンサコン
日本語読み: はんもんてんおのさつじんじけん
英語表記: Axe Murder Incident
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ポプラ事件(ポプラじけん)は、1976年8月18日現地時間UTC+9)に韓国北朝鮮板門店で発生した事件である。ポプラの木事件とも呼ばれる。韓国では8.18斧蛮行事件または斧蛮行事件[1]とも呼ばれる。北朝鮮側では板門店事件とも[2]

非武装地帯内の共同警備区域内に植えられていたポプラ並木の一本を切ろうとした、国連軍を成す1国であるアメリカ陸軍工兵隊に対して朝鮮人民軍が攻撃を行い、2名のアメリカ陸軍士官を殺害[3]、数名の韓国軍兵士が負傷した。同事件は第二次朝鮮戦争の引き金になりかねない出来事であった。

経緯[編集]

ポプラ並木[編集]

事件の発端になったポプラの残骸(1984年撮影)、1987年に撤去され跡地に慰霊碑が建立された
北朝鮮軍に襲撃されるボニファス大尉(中の矢印)とバレット中尉(上の赤枠)

この事件の発端になったポプラの並木は、北朝鮮側によって共同警備区域内の「帰らざる橋」の近くに30mにわたって植えられていたもので、事件当時は共同警備区域に置かれた監視所、そして北朝鮮軍の監視所に囲まれた国連軍の監視所の視界を遮るほどに成長していた。

この為、国連軍は北朝鮮軍に対してポプラの木の剪定を行うべく通告していたが、北朝鮮軍は自らがポプラ並木を植えたことを根拠に、国連軍による剪定を認めなかった。

剪定[編集]

1976年8月18日に、韓国陸軍将校1名と国連軍のアメリカ陸軍将校2名、韓国人の作業員と彼らを護衛する韓国軍とアメリカ軍を中心とした国連軍の8名の兵士が、ポプラの剪定を行うため共同警備区域内のポプラ並木の元へ送られた。

彼らの行動は北朝鮮軍によって監視されていた。共同警備区域に関する取り決めのため両軍とも武装していなかったが、韓米軍は剪定用にのこぎりつるはしを持ち込んでいた。

襲撃[編集]

剪定が始まると15名の北朝鮮軍将兵が来て指揮官が作業の中止を求めたが、国連軍工兵部隊指揮官でアメリカ陸軍のアーサー・ボニファス大尉は剪定作業の継続を部下に命じた。

北朝鮮軍側はしばらく静観していたが、その後増援の北朝鮮軍兵士約20名が合流し人数で北朝鮮軍が優位になった。その後再度の作業中止勧告が聞き容れられないと見るや、突然攻撃を始めた。発砲はなかったが、奪い取られた斧によってボニファス大尉とマーク・バレット中尉が殺害された。

韓国軍兵士はトラックで北朝鮮軍兵士に体当たりし、ボニファス大尉の体をトラックで守ったが、大尉は治療を受ける前に死亡した。彼らが殺害される様子は映画用カメラによって記録された。

ポール・バニアン作戦[編集]

事件発生を受けて翌日の8月19日から北朝鮮軍と国連軍の間で会議が開かれた。特に自国兵士が死亡したアメリカ軍は事件を重く受け、北朝鮮軍に強く抗議を行い、ポプラの木を(剪定ではなく)伐採することを主張した。

「ポール・バニアン作戦」でポプラの木を切り倒す国連軍兵士

その後国連軍はポプラの木を伐採すべく、アメリカ民話に現れる巨人の木こりに因んで名づけられたポール・バニアン作戦(Operation Paul Bunyan)を発令し、事件から3日後の8月21日午前7時に決行された。

23台の国連軍(韓国及びアメリカ陸軍)の車両が北朝鮮に対する警告無しで共同警備区域に進入した。車両にはポプラ並木を切り倒すために16名のアメリカ陸軍工兵隊員が斧とチェーンソーを持って乗り込み、30名のピストルと手斧で武装した護衛小隊、加えて韓国陸軍のテコンドー熟練者64名も同伴した。

彼らの上空には韓米両軍の20機のヘリコプター及び7機のAH-1 コブラ攻撃ヘリコプターが展開し、さらにその上空にはアメリカ空軍のF-4戦闘機と韓国空軍のF-5戦闘機に護衛されたアメリカ空軍のB-52爆撃機が飛行した。烏山空軍基地では、指令があり次第出撃できるよう武装と燃料補給をおこなったアメリカ空軍のF-111が待機していた。

朝鮮半島の沖合いにはアメリカ海軍空母ミッドウェイを始めとする機動部隊も展開した。さらに非武装地帯の外側には多くの重装備を施した韓国陸軍およびアメリカ陸軍歩兵砲兵装甲車両が待機し、不測の事態に備えた。

これに対し、北朝鮮軍は自動小銃を装備した150名の兵士を共同警備区域内に派遣した。しかしながら彼らは木が切り倒されるまでの42分間を静かに見守り、武力衝突は回避された。

その後[編集]

「ポール・バニアン作戦」の実行により大規模な武力衝突の発生が懸念されたが、作戦は平穏に終了した。この事件によって38度線に沿った非武装地帯では緊張状態に置かれたが、その後北朝鮮の金日成が「遺憾の意」を示し謝罪し、全面戦争に発展することはなかった。なおその後9月6日まで両陣営間で行われた会議によって、北朝鮮側の提案で、共同警備区域内にも軍事境界線を引いて両者の人員を隔離する事を決定した。

その後、非武装地帯内の共同警備区域の警備を行う国連軍の基地は、事件で北朝鮮軍に殺害されたアーサー・ボニファス大尉の名を取って「キャンプ・ボニファス」と改名された。

脚注[編集]

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外部リンク[編集]