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大政翼賛会

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大政翼贊會から転送)
日本の旗 日本政治結社
大政翼賛会
大政翼󠄂贊會
大政翼賛会本部
1940年11月30日東京会館の建物を臨時徴用し、1942年1月25日まで本部を設置した[1]
成立年月日 1940年10月12日[2]
前身政党 立憲政友会
立憲民政党
国民同盟
社会大衆党
解散年月日 1945年6月13日[3]
解散理由 国民義勇隊に発展解消のため[4]
後継政党 国民義勇隊
本部所在地 日本の旗 日本 東京都麹町区
政治的思想・立場 新体制運動[4][5][6]
国民精神総動員運動[7]
大政翼賛運動[3][8]
ファシズム[9][10]
国家主義[11]
機関紙 『大政翼賛』
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大政翼賛会(たいせいよくさんかい、旧字体大政翼󠄂贊會)は、1940年昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在した日本政治結社。公事結社(公益のみを目的とする結社。後述のように、日本独自の概念である)として扱われる。「大政」は、天下国家の政治、「天皇陛下のなさる政治」という意味の美称、「翼賛」は、力を添えて(天子を)たすけること。

経緯

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大政翼賛会の発足(東京会館
大政翼賛会のポスター、1940年。「祝ひ」とは紀元二千六百年記念行事のこと

近衛文麿を中心として、国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年(昭和13年)の国家総動員法衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には有馬頼寧大谷尊由らが近衛を党首とした新党を設立して解散総選挙を実施することを検討したものの、大日本帝国憲法下の戦前日本の政治において二大ブロック制を構成し、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた立憲政友会(政友会)・立憲民政党(民政党)が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が希薄になったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。

1939年(昭和14年)1月5日第1次近衛内閣総辞職による近衛の首相辞任後、同年9月1日ナチス・ドイツポーランド侵攻によりヨーロッパ第二次世界大戦が勃発し、その後のドイツの快進撃と国際情勢の緊迫化にともなって、日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする「新体制運動」が盛り上がり、その盟主として五摂家筆頭の名門の出であり人気も名声も高い近衛に対する期待の声が高まった。穏健な多党制を構成していた既成政党側でも、社会大衆党を中心として近衛に対抗するよりもみずから新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まった。民政党総裁町田忠治と政友会正統派の鳩山一郎(戦後に首相歴任)が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では永井柳太郎が「解党論」を唱え、「政友会正統派」の総裁久原房之助も「親英米派」の米内光政海軍大将・前海軍大臣)を首班とし新体制運動に消極的な米内内閣倒閣に参加して近衛の首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)共に一気に解党へと向かうことになった。右翼政党の東方会も解党し、思想団体「振東社」となった。

近衛も米内内閣総辞職後の第2次近衛内閣が成立した1940年(昭和15年)7月22日からはこの期待に応えるべく新体制の担い手となる「一国一党組織」の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった後藤隆之助が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体「昭和研究会」が「東亜協同体論」や「新体制運動促進」などを提唱していた。昭和研究会の思想は、しかしながら、翼賛会設立準備過程において、浸透することはなく、実質をともなわない骨組みのみが採用された[12]

1940年(昭和15年)、10月3日に閑院宮載仁親王参謀総長を離任し後任に杉山元陸軍大将が就任すると、8日には米国国務省は極東在住米国市民に引き上げを勧告した。それから4日後の10月12日、大政翼賛会の発会式が挙行され、次いで翌日には日本各地の都市で大政翼賛三国同盟国民大会(国民会議)が催された。翼賛会は内閣総理大臣が総裁に就任し、15日には外務省・内務省・逓信省・陸軍省・海軍省の情報・報道関係部門を統合させる内閣情報局官制案要綱が閣議決定された[13]。大政翼賛会は中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置された。本部は接収した東京會舘に設置された。

結社を禁止されていた勤労国民党立憲養正会、非合法の日本共産党などを除く、保守政党から無産政党まで全ての政党が自発的に解散し「大政翼賛会」に合流した。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年(昭和15年)11月19日に解散した[14]

発会以降

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1941年(昭和16年)10月18日には、第3次近衛内閣総辞職による近衛の首相辞任後、東條内閣東條英機総裁首相、陸相兼任・陸軍大将)が成立した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し(非公選の上院であった貴族院では元々政党は存在せず院内会派が政党的存在であった)、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動は行えず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動を行った。これは、「バスに乗り遅れるな」や「勝ち馬に乗り遅れるな」という言い回しで知られ(バンドワゴン効果)、解散した各政党や内務省なども大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢を採ったものの、団体内は一枚岩ではなく、「一国一党論者」の目指したものとは大きく異なっていた。

大政翼賛の歌」発表の式典。1940年12月16日

このように、大政翼賛会を中心に太平洋戦争下での軍部の方針を追認し支える体制を翼賛体制という。真珠湾攻撃による日米開戦から約5ヶ月を経た1942年(昭和17年)4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466名(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381名が当選した。選挙資金は陸軍機密費臨時軍事費)から支出されており、陸軍の機密費で当選した議員は、「臨軍代議士」と呼ばれた。

1942年(昭和17年)5月26日には傘下組織である「日本文学報国会」が結成。同年6月23日には「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本婦人会」、「大日本青少年団」の6団体を傘下に統合した。同年12月23日には「大日本言論報国会」が結成された。また、興亜総本部も設置され、「アジア主義団体」の統制も行った。

その後、1944年(昭和19年)7月22日に東條内閣が総辞職、小磯内閣小磯國昭総裁兼首相、陸軍大将)成立後、日本軍の敗北が目前と迫った戦争末期の1945年(昭和20年)3月30日に組織の一部が翼賛政治会を改組した「大日本政治会」と統合された。

同年4月7日に小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎内閣鈴木貫太郎総裁兼首相、退役海軍大将華族男爵)が成立、本土決戦に備えた「国民義勇隊」の結成により同年6月13日に大政翼賛会は解散となった。しかし、これは政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発した岸信介ら翼賛政治会の一部が「護国同志会」などを結成した。軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま日本政府はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えることとなった(日本の降伏)。

戦後日本国憲法制定後は、結社の自由が保障されたために、既成政党が自主解散して一国一党に合流したとしても新党の結成を規制できず大政翼賛会のような組織は存在しえなくなったものの、当時翼賛体制下で結成された隣組やその後継である町内会は依然として残り、立法府として帝国議会の役割を引き継いだ国会などにおいては野党などが与党連立政権を揶揄・批判する言葉として使用することが時折見受けられる[注釈 1]

性質

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大政翼賛会幹部。右から事務総長有馬頼寧、中央協力会議議長末次信正、常任総務橋本欣五郎。1940年

一党独裁の強力な政治体制を目指す」という主張は、日独伊三国同盟を締結した枢軸国であったアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国ファシスト党(あるいは公言はされなかったものの、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦ソビエト連邦共産党)、さらに日本の影響下にあった愛新覚羅溥儀率いる満洲国満洲国協和会を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたものの[15][16][17]、これに対しては観念右翼からの、「大日本帝国憲法天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一党独裁は国体に反する」「(一国一党形式の)大政翼賛会は幕府を復活させ天皇をないがしろにするものである」とする「幕政論批判」が存在した。そもそも「公事結社」自体が日本独自の概念だったのである。

この対立は設立過程では充分に解消されず、第2次近衛内閣下の1940年(昭和15年)10月12日に大政翼賛会の発会式は挙行されたが[注釈 2]、当日になっても政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類がまとまらない事態となった。首相であり大政翼賛会総裁の近衛文麿は、「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみである」とその場を乗り切った。ただ革新派の失望は深く、後藤隆之助は「もうこれで大政翼賛会は駄目だと思った。成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだと思った」と回顧し、中野正剛は肩をすぼめて頭を垂れ、がっかりした様子だったという[18]

さらに翼賛会への補助金交付を契機として「大政翼賛会違憲論」が収まらず、議論が続いた[注釈 3]。1941年(昭和16年)1月に開かれた第76回帝国議会および2月6日の貴族院予算総会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題があることを事実上認めた。続いてもともと「幕政論批判」を踏まえていた内務大臣平沼騏一郎(元首相)も治安警察法上の「政事結社」ではなく「公事結社」であり、「政治結社」の大政翼賛会は「衛生組合の如きもの」と答弁した[注釈 4]。この認定を契機として政治活動が禁じられ、衆院唯一の会派「衆議院倶楽部」は解散。所属衆院議員全員が無所属となる異常事態となった。

同年4月1日革新派の反対を抑えて翼賛会の改革案が提示され、直後に国民組織・政治団体化を目指していた近衛側近の有馬頼寧事務総長・後藤隆之助組織局長らが辞任(第1次改組)、翌1942年5月15日、閣議で大政翼賛会改組を決定(各種国民運動を傘下に入れ、町内会・部落会などの指導強化)、6月には岸田国士文化部長らが去った(第2次改組)。第1次改組後、新設された副総裁に国務大臣柳川平助、組織局長には内務省出身の挟間茂が就任し、1942年6月9日に副総裁安藤紀三郎が国務大臣として入閣し、次第にその性格は内務省の官僚警察官僚に牛耳られて、政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに変質していった。そして総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。

ドイツのナチス党による一党独裁制とはやや異なる様相を示したものの、総裁による衆議統裁に重きを置くなど、類似する点も存在した。

組織

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  • 発足時   - 1940年(昭和15年)10月〜:総務局、組織局、政策局、企画局、議会局
  • 第一次改組 - 1941年(昭和16年)04月〜:総務局、組織局、東亜局
  • 第二次改組 - 1942年(昭和17年)06月〜:総務局、錬成局、実践局、興亜局、調査局
  • 第三次改組 - 1943年(昭和18年)10月〜:総務局、国民運動局、団体局、宣伝本部、食糧生産本部、興亜総本部

法曹関連団体

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関連団体

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議員団体

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歴代総裁一覧

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大政翼賛会総裁
総裁 在任期間
1 近衛文麿
1940年(昭和15年)10月12日 - 1941年(昭和16年)10月18日
2 東條英機
1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月22日
3 小磯国昭
1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日
4 鈴木貫太郎[25]
1945年(昭和20年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日

すべての総裁がそれぞれ任期中に内閣総理大臣に就任している。

歴代副総裁一覧

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大政翼賛会副総裁
副総裁 在任期間
1 柳川平助 1941年(昭和16年)3月28日 - 1941年(昭和16年)10月22日
2 安藤紀三郎 1941年(昭和16年)10月22日 - 1943年(昭和18年)4月20日
3 後藤文夫 1943年(昭和18年)4月21日 - 1944年(昭和19年)7月22日
4 緒方竹虎 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)6月13日

歴代事務総長一覧

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  1. 有馬頼寧:1940(S15)年10月12日 - 1941(S16)年3月27日
  2. 石渡荘太郎:1941(S16)年3月29日 - 1941(S16)年10月22日
  3. 横山助成:1941(S16)年10月28日 - 1942(S17)年6月15日
  4. 後藤文夫:1942(S17)年6月15日 - 1943(S18)年6月2日
  5. 丸山鶴吉:1943(S18)年6月2日 - 1944(S19)年2月25日
  6. (取扱)後藤文夫:1944(S19)年2月25日 - 1944(S19)年3月18日
  7. 小畑忠良:1944(S19)年3月18日 - 1944(S19)年7月22日
  8. 安藤狂四郎:1944(S19)年7月22日 - 1945(S20)年6月13日

勢力

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選挙 候補者数 当選/定数 備考
第21回 1942年(昭和17年) -
381 / 466

その他

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  • 時期を同じくして隣組の制度が発足。設立の目的に「翼賛」が加えられたことから、発足当初は隣組が大政翼賛会の下部組織の如く各種翼賛関係団体に利用される例も見られた。内務省は混乱の拡大を防ぐために、1941年(昭和16年)4月、隣組は大政翼賛会の下部組織ではないことを明らかにしている[26]

関連項目

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脚注

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注釈
  1. ^ 例えば、当時の政権与党であった自由民主党が野党第一党の新進党の支持を取り付けた時、1997年(平成9年)4月11日の衆議院本会議在日米軍における米軍用地特別措置法改正案の特別委員会の委員長を務めた野中広務は委員会報告の中で「…再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして…」と述べた。
  2. ^ この日は近衛文麿の誕生日でもあった。
  3. ^ 翼賛会は国からの補助金により運営されることになっていた。翼賛会側は昭和16年度予算を3200万円と見込んでいたが、議会審議を経て実際に認められた額は800万円ほどであった。
  4. ^ 平沼は「観念右翼」に近かった。
  5. ^ 「武徳」は中国でが成立したときの最初の元号である。
  6. ^ 逓信報国会は、逓信従業員組合連合及び逓信従業員会同盟がそれぞれ1941年2月、4月に解消し統合されて発足[19]
  7. ^ 1942年5月には親米派であった元司法大臣の金子堅太郎が没した。
出典
  1. ^ 東京會舘編『東京會舘いまむかし』(東京會舘、1987年)、pp.159-162
  2. ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1073-1074頁。ISBN 4-06-203994-X
  3. ^ a b 木坂順一郎. 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  4. ^ a b デジタル大辞泉 コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  5. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  6. ^ 大辞林 第三版 コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  7. ^ 国民精神総動員運動 - 大辞林 第三版 コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  8. ^ 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  9. ^ しんたいせいうんどう【新体制運動】 - 大辞林 第三版 コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  10. ^ 木坂順一郎. 新体制運動 - 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2019年2月20日閲覧。
  11. ^ 近代発 見果てぬ民主Ⅸ <15> 新体制運動 政党なくなり大政翼賛会へ 中国新聞. 2024年2月20日閲覧。
  12. ^ Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940, S. 322-355.
  13. ^ 法律時報編集部 1941.
  14. ^ この解散をめぐる評価については次の研究を参照。Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940, S. 342-345.
  15. ^ 伊藤隆 1983.
  16. ^ 尾崎秀実 1940.
  17. ^ 角田順 1967.
  18. ^ 酒井三郎『昭和研究会』218ページ。
  19. ^ 厚生省勤勞局「勞働時報」 17(5)号。1940年5月。
  20. ^ 原誠戦時下の諸教会: 大日本戦時宗教報国会との関わりで」基督教研究。1997年。
  21. ^ 普通銀行統制会約款」(戦時統制法令叢書 第8輯)。1942年。
  22. ^ 東條英機文學報國會發會式に於ける祝辭 (1)」」コロムビア(音声)。1942年。
  23. ^ 昭和20年3月23日 閣議決「国民義勇隊組織ニ関スル件定」。
  24. ^ 昭和20年5月8日閣議決定「国民義勇隊ノ組織ニ伴ヒ大政翼賛会、翼賛壮年団及大政翼賛会ノ所属団体ノ措置ニ関スル件」。
  25. ^ 翼賛運動史刊行会編『翼賛国民運動史』(翼賛運動史刊行会、1954年)口絵写真による。
  26. ^ 東京で全市に回覧板を配布『東京日日新聞』(昭和15年8月17日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p549 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

出典

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  • 伊藤隆『近衛新体制: 大政翼賛会への道』1983年、219頁。 
  • 尾崎秀実『満洲国と協和会』《中央公論昭和15年12月号、尾崎秀実著作集3》中央公論社、1940年、185頁。 
  • 角田順『国防論策編 58』《明治百年史叢書・石原莞爾資料》原書房、1967年、101頁。 

参考文献

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史料
参考文献
  • 杉森久英『大政翼賛会前後』ちくま文庫、2007年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 伊藤隆『近衛新体制』中公新書、1983年(改題版『大政翼賛会への道』講談社学術文庫、2015年)。
  • 酒井三郎『昭和研究会 ある知識人集団の軌跡』TBSブリタニカ、1979年(のちに講談社文庫、1985年、および中公文庫、1992年)。
  • Tomohide Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940: Diskurse und ihre Auswirkungen auf politische Entscheidungsprozesse (Reihe zur Geschichte Asiens; Bd. 19). Iudicium Verlag, München 2019. ISBN 978-3862052202.

外部リンク

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