大乃国康
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基礎情報 | ||||
四股名 | 大乃国 康 | |||
本名 | 青木 康 | |||
愛称 |
スイーツ王子 スイーツおじさん スイーツ親方 | |||
生年月日 | 1962年10月9日(61歳) | |||
出身 | 北海道河西郡芽室町 | |||
身長 | 189cm(現役時) | |||
体重 | 211kg(現役時) | |||
所属部屋 | 花籠部屋→放駒部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第62代横綱 | |||
生涯戦歴 | 560勝319敗107休 | |||
幕内戦歴 | 426勝228敗105休(51場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝2回 十両優勝1回 | |||
賞 |
殊勲賞5回 敢闘賞2回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1978年3月場所 | |||
入幕 | 1983年3月場所 | |||
引退 | 1991年7月場所 | |||
引退後 | 芝田山部屋師匠 | |||
趣味 | スイーツ | |||
備考 | ||||
金星4個(北の湖1、千代の富士1、隆の里2) | ||||
2008年2月26日現在 |
大乃国 康(おおのくに やすし、本名:青木 康(あおき やすし)、1962年10月9日 - )は大相撲の力士で、第62代横綱。北海道河西郡芽室町出身。身長189cm、体重は最大で211kg。現在は年寄・芝田山。
スイーツ(菓子、デザート)が大好物であることで知られ、最近はスイーツに関するバラエティ番組に出演することも度々あることから、「スイーツ親方」のニックネームで親しまれている。
来歴
入門~入幕
中学時代は柔道部に所属。地元に巡業が来た際に土俵に上がったことをきっかけに、当時現役だった魁傑に誘われ花籠部屋に内弟子として入門し、1978年3月場所で初土俵。1981年に、引退した魁傑改め放駒が創設した放駒部屋に移籍。早くから部屋のホープとして期待され、1982年3月場所で十両昇進、翌1983年3月場所で新入幕と順調に出世した(ちなみに旭富士と同時新入幕であった)。
最も重いときには211kgという雄大な体格で、相手を寄りで圧倒する取り口。189cmという上背を生かした上手投げも武器だった。しかし得意の右四つに組止められないと下位相手に取り零す脆い面もあった。入門時は100kgもなく「長身で細い印象だった」という。
入幕~関脇
新入幕の場所を勝ち越し、4場所目の1983年9月場所には新小結昇進。この座は1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた11月場所では北の湖、千代の富士、隆の里の3横綱を破る金星3個獲得の活躍を見せ、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。特に横綱昇進後、18連勝と負け知らずだった隆の里を堂々真っ向から破った1番は特筆すべきものであった。翌1984年1月場所では新関脇、この場所9勝して地位を保つと、次の3月場所では3横綱3大関を破り10勝を挙げ、殊勲・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった同年5月場所、4日目までに3勝と順当だったが、5日目、この場所奇跡的な復活を見せた横綱北の湖に敗れてから調子を狂わせ、6勝9敗とまさかの負け越しに終わった。
平幕に落ちた1984年7月場所は10勝で殊勲賞と持ち直す。蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では、初日から好調で9日目に横綱千代の富士を土俵際の掬い投げに破り、勝ち越し。幕内初優勝の期待をもたせたが、10日目既に負け越し決定と不振の関脇逆鉾の出足に苦杯を喫し2敗。さらに11日目、この9月場所で平幕優勝を果たした、前頭12枚目の多賀竜に上手出し投げで脆くも横転してしまい3敗と後退、そして13日目は同場所旋風を巻き起こし「黒船来襲」とも騒がれた、前頭6枚目の小錦にも上手投げで屈して、結局10勝止まりに終わる。
その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争い12勝を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝-10勝-12勝の合計31勝14敗で、大関昇進の基準となる通算33勝以上には物足りなかったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していた事や将来性も期待されて、やや甘めながら大関昇進が決定した[1]。
大関時代
大関昇進後は12勝・11勝と着実に星を残し、この頃は千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、横綱候補の筆頭であった。1986年1月場所、13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に初優勝を賭けたが極度の緊張から力を出し切れず敗れ、千秋楽も北尾(のち第60代横綱・双羽黒)の引きにバッタリ倒れ、優勝決定戦すら出られず、結局優勝を逃す。翌3月場所に横綱挑戦権が与えられたものの[2]、序盤で2敗を喫し、9勝6敗に終わりチャンスを逃した。
続く5月場所3日目逆鉾に寄り切られた際、右足を骨折。この場所はそれでも休まず11勝をあげたが、この無理がたたり約1年間低迷する。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では北勝海に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の花のサンパチ組(昭和38年生まれ)の力士にそれぞれ先を越されてしまっている。それでも11月場所には千代の富士を土俵際の投げで破った際、失神させたり、初優勝を目指す横綱双羽黒に連勝したり、優勝を決めた大関北勝海を破るなど、随所に存在感は見せつけたが、下位に対する取り零しは相変わらず多く、成績は1場所を除き一桁勝ち星と期待を裏切り続けた。
しかし1987年5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽には当時横綱昇進が掛かっていた、同郷(北海道十勝地方出身)のライバル・大関北勝海を下して、見事15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした。横綱昇進がかかった7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所第61代横綱に昇進した北勝海に痛い敗戦を喫し、12勝3敗で惜しくもチャンスを逸した。それでも横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて、場所後に横綱昇進を果たした。昇進直前の2場所は優勝者と2差、1差のともに次点であるが、直前3場所通算の成績は40勝5敗で、近年では貴乃花の41勝4敗に次ぐ高い数字(当時としては最高)である。しかし次の第63代横綱となる旭富士の時から、横綱昇進の条件は大関の地位で2場所連続優勝する事が原則となった[3]ため、現在大乃国が大関で連覇を果たせず昇進した最後の横綱である。
大関時代の通算成績は140勝55敗。勝率.718は、横綱昇進後の勝率(.662)よりも高かった。
横綱時代
横綱昇進時、当時の春日野理事長(元横綱栃錦)からは「大相撲の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた大横綱・常陸山を目指せ」と期待されていた。だが、新横綱の1987年11月場所は、極度の緊張からか動きが悪く序盤で3連敗を喫した。中盤、立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝止まり(皆勤した新横綱としてワースト記録)に終わる。翌1988年1月場所では前場所中の太りすぎの反省から、食事を減らし減量したものの、これが力が入らない、という裏目に出て肝機能障害で途中休場し、引退危機と騒がれた。
早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したがその後連勝を続け14日目で12勝2敗、翌日千秋楽では前日迄13勝1敗で単独トップだった横綱北勝海を本割り結びの一番で寄り倒し、大乃国と北勝海の二人が13勝2敗の同点に。そして優勝決定戦での大乃国は、北勝海に押し込まれながらも土俵際の突き落としで下し、大逆転勝利で5場所振り2度目の幕内最高優勝、横綱としても初優勝を果たした。しかしその後は千代の富士・北勝海の九重部屋勢らの活躍に押され、自身何度も終盤まで優勝争いには加わるも、幕内優勝は一度も果たせなかった。
それでも横綱としての最大の見せ場は、1988年11月場所の千秋楽、結果的に昭和時代最後となった結びの大一番で、同場所14日目まで53連勝中だった昭和の大横綱・千代の富士を、怒涛の寄り倒しで土をつけ54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことだろう。千秋楽前日の夜、師匠放駒が「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、ヒヤッとさせる場面くらいは作って来いよ」と言われたが、逆に「千代の富士の連勝は俺が止めてやる!」と闘志に火がついたという。
千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く稽古場に姿を現し、徹底的に千代の富士対策を行っていたという。取組後の報道陣のインタビューに対して「俺だって横綱だ」と珍しく声を荒らげた。後日千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2、3軒飲み歩いていた。あの時俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか。恨むねぇ」と苦笑いしながら語っている。
平成に入ってからは、体重が増加したことに伴う睡眠時無呼吸症候群や脚の故障に苦しんだ。体重の増加は意図的なものではなく、太りやすい体質によるものであった[4]。前記の症状を特殊な器具を使うことで克服する過程で体重が筋肉とともに落ち、体にも張りがなくなった。この影響で一旦活躍は途切れる事となり、1989年7月場所以降からはその後2年近く低迷することとなる。
なお、大乃国が最後まで優勝争いを演じていた1989年5月場所の千秋楽結びの一番では、北勝海が肩透かしで大乃国を下すも、その寸前で大乃国の突き落としに北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。だが審判委員らはこの場面を5人共誰も気付いておらず、さらに物言いもつかなかったため、不運にも大乃国が敗戦となってしまった。もしこの一番が大乃国の勝利ならば、大乃国が旭富士(当時大関)と13勝2敗同士の優勝決定戦に進出するはずだった(北勝海対旭富士との優勝決定戦は、北勝海が送り出しで勝利し優勝となる)。
1989年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。翌9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直し11日目で7勝4敗とした。だがそこから連敗を喫し、14日目の千代の富士戦で敗れ7勝7敗、そして勝ち越しをかけた千秋楽の北勝海戦でも敗北、ついに7勝8敗と負け越してしまった。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった[5]。一旦は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)に慰留されて現役を続行する。
一場所休場したあとの1990年1月場所で復帰し、どうにか勝ち越すことは出来た。しかし8勝3敗から終盤4連敗し、しかも千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、更に骨折するという悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所連続全休する羽目になる。同年11月場所で復帰、序盤で平幕にあっさり負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗で引退の危機を免れた。
1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、翌3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。3月場所14日目、12勝1敗同士の直接対決で北勝海は大乃国に勝利しながらも膝を負傷、翌日の千秋楽をまともに戦える状態でなく、万一大乃国との優勝決定戦になった場合北勝海はどう戦うか悩んでいたとのことである。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった大関霧島によもやの完敗で12勝3敗、又してもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れ13勝2敗)に幕内優勝を奪われてしまった(このように大乃国は相手が不振や弱敵でも、常に安心して見られない不安定さがあった。また霧島との幕内対戦成績は6勝8敗と非常に分が悪かった)。今度こそ優勝を、と雪辱を期すはずだった翌5月場所は、蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めてしまい、またも全休となった。
現役引退
1991年7月場所は、再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所、最初で最後の対決となった新鋭の貴花田と若花田には勝利したが、初日にいきなり曙の猛突っ張りに一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった安芸ノ島戦ではまともに引くのを見透かされ一方的に押し出されたりと、8日目で4勝4敗という散々な成績だった(ちなみにこの場所は他の横綱陣も大変な不調で、千秋楽は北勝海と旭富士で8勝6敗同士の横綱戦と言う事態だった)。安芸ノ島戦での負けた内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は、この7月場所限りで現役引退を表明した(9日目の琴ヶ梅戦は不戦敗。またこの時本人は引退したくなかったが、時の二子山理事長が続投を許さなかったとの話もある)。なお横綱の28歳9ヶ月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した玉の海を除けば、栃ノ海の28歳8ヶ月に次ぐ若さだった。
この際、年寄・芝田山を取得していたが、当時の芝田山親方(小結・宮錦)が停年(定年。以下同)まで10ヶ月ほどだったため、5年期限付きの年寄・大乃国を襲名し芝田山の停年を待った。しかし、元・宮錦の退職後、元・若獅子に年寄名跡を一時的に貸すことになり、1993年の3月場所後にようやく芝田山を襲名した。
引退相撲は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に一人横綱だった北勝海が引退となり、横綱空位となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時二子山部屋の現役幕内力士だった隆三杉(露払い)と三杉里(太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された[6]。
板井を非常に苦手としていた。板井は金星を3個獲得しているが、それは全て大乃国からとったものだった。また入幕して以降の大乃国は、全てガチンコ相撲を通したと言われており、昨今話題となっている八百長騒動とは全く無縁の人とも言われている。
横綱昇進後は1度しか優勝できず、その優勝も1988年3月場所の横綱北勝海と優勝決定戦の末であった。当時は優勝決定戦の勝敗は翌場所の番付には反映されず、1988年5月場所の番付は東横綱が優勝同点だった北勝海、西横綱に優勝した大乃国だった。その後も大乃国が当時の横綱陣で最高成績を挙げられなかったため、1度も東正位横綱を経験することなく引退してしまった。また、現役時代晩年の後援会長は中川昭一であったため、鈴木宗男が後援会長を務めていた北勝海とは何かと因縁があった。
親方として
芝田山襲名後、しばらくの間は放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、1999年6月に独立・芝田山部屋を開いた。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは、(日本相撲協会からの退職を除けば)非常に珍しいことである(実際には、部屋を譲渡され、そのまま部屋持ち親方となる例が少なくない)。2008年3号よりダイヤモンド社の隔週刊テレビ情報誌「TVステーション」にて、「親方に訊け!」というコラムを連載している。また2008年3月31日から、『ゆうどきネットワーク』(NHK総合テレビジョン)にて「芝田山親方のごっつあんスイーツ」のコーナーを担当している(大相撲千秋楽の翌日など、月曜の出演が多い)。
現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースやNHK大相撲中継に出演すると、実際は話がうまく、解説が上手と評判の舞の海秀平が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。また、バラエティ番組出演もこなしている。
角界きっての食通であり、大の甘党。持論は「男が甘党でなぜ悪い!」・「甘党男児は誇りを持て!」。本人曰く、最近では「スイーツ王子」、「スイーツおじさん」、「スイーツ親方」、「キング・オブ・スイーツ」などと呼ばれる事もあるという。テレビ東京の『元祖!でぶや』などのグルメバラエティ番組に出演している。おいしいものは後から食べるタイプ。なお、香川県高松市に、芝田山親方が監修を務めるちゃんこ料理兼スイーツ店が2軒ある。
甘党だからと言って下戸と言う訳ではなく、また甘いものの過剰摂取による糖尿とも無縁。本人は「むしろ血糖値が、基準値よりも低め」とのこと。「相撲協会を辞めたら、スイーツ評論家になりたい」と日刊スポーツで述べている。
2010年9月6日、弟子の元十両・大勇武龍泉から、引退は親方から強制されたものであるとして損害賠償を求める訴訟と暴行罪での被害届が提出されている事が明らかになった。芝田山はこれにより29日書類送検されたが、2011年1月に起訴猶予処分となっている[7]。
エピソード
- 現役時代その体型からパンダという渾名が付けられ力士運動会でパンダの扮装をしたことがある。
- 現役時代から甘党、美食家で知られ、相撲雑誌の力士紹介欄では他の力士がゲームや絵画を趣味としている中で趣味・食べ歩きと記載されていた。また、好きな食べ物としてあんみつやうぐいすパンを答えていた時期があった。
- おっとりした性格と異常に大きい腹が特徴。
- ケーキは2ホールを軽く平らげるという。また、自らも大関時代から部屋でケーキ作りをする。趣味を生かし、『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(ISBN 4532165687)・『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業Ⅱ』(ISBN 9784532167066)を出版している(どちらも日本経済新聞出版社より)。また、新十両昇進が決まった弟子の大勇武には記者会見で祝いのケーキ(現役時代の自身の似顔絵入り)を渡した。
- 2007年6月30日放送のテレビ朝日『ザ・クイズマンショー』では数々のスイーツに関するクイズを回答、優勝した。「スイーツ賢人」の称号を送られている。
- 2008年7月放送の海外向け国際放送・NHKワールドTVの紀行番組である『NIPPON OUT&ABOUT』(英語放送番組)に出演。出身地である芽室町のあるお宅をたずね、あんこの付いたぼたもちを試食する様子が放送された。
- 1985年7月、大関に昇進したばかりの北海道巡業中、日本テレビの『第4回全国高等学校クイズ選手権』北海道予選の取材を受け、「東京に来て、最初に出くわした嫌いなモノは?」という問題を高校生に出題した。正解はゴキブリで、「入門当時、力士たちの集う部屋に入り、足元にうろつくゴキブリを見た瞬間うつ伏せになってしまい、しばらく何も出来なかった」と司会の福留功男に話していた。ネズミも幼い頃から苦手だという。
- 常識人としても知られ、力士の健康診断等では横綱特権(優先検診)をせず、順番を守っていた。また家事にも積極的で、家庭ごみの分配なども自ら行った。
- 2008年7月28日放送のNHK『鶴瓶の家族に乾杯』で、ベトナム・ホイアンを旅し、現地の子どもたちに相撲を教えた。その際、持参した稽古用まわしを半ズボンの上から着けさせた。
- テレビ朝日の深夜番組『虎の門』にしばしばゲスト出演しており、番組エンディングの情報コーナーでは「新弟子募集」の告知を必ず行っていた。
- 「肉の多い大乃国」(にくのおおいおおのくに)という回文がある。2010年1月1日放送の日本テレビ『笑点』の新春スペシャルに出演した際には自らネタにした。
- 2010年1月6日にテレビ朝日系で放送された『史上最強のメガヒット カラオケBEST100 完璧に歌って1000万円』内のコーナー「採点カラオケNo.1決定戦」で優勝し賞金30万円を獲得した。
主な成績
通算成績
- 通算成績:560勝319敗107休 勝率.637
- 幕内成績:426勝228敗105休 勝率.651
- 横綱成績:155勝 79敗105休 勝率.662
- 幕内在位:51場所
- 横綱在位:23場所
- 大関在位:13場所
- 三役在位:10場所(関脇9場所、小結1場所)
- 連勝記録:19(1987年5月場所初日~1987年7月場所4日目)※大関時代に記録
- 連続6場所勝利:67勝(1985年7月場所~1986年5月場所、1986年11月場所~1987年9月場所)
- 連続6場所勝利(横綱昇進以降):66勝(1988年3月場所~1989年1月場所、1988年7月場所~1989年5月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:21場所(1984年7月場所~1987年11月場所)
- 幕内連続二桁勝利記録:5場所(1985年5月場所~1986年1月場所)
- 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1987年5月場所~1987年9月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:2回(1987年5月場所=全勝、1988年3月場所)
- 全勝1回
- 十両優勝:1回(1983年1月場所)
三賞・金星
- 三賞:7回
- 殊勲賞5回
- 敢闘賞2回
- 金星:4個(北の湖1・千代の富士1・隆の里2)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1978年 (昭和53年) |
x | (前相撲) | 西序ノ口15枚目 4–3 |
西序二段86枚目 3–2–2 |
東序二段99枚目 5–2 |
東序二段49枚目 5–2 |
1979年 (昭和54年) |
西序二段19枚目 3–4 |
東序二段32枚目 5–2 |
東序二段3枚目 6–1 |
西三段目43枚目 3–4 |
東三段目53枚目 2–5 |
西三段目78枚目 5–2 |
1980年 (昭和55年) |
西三段目46枚目 5–2 |
西三段目12枚目 4–3 |
東三段目2枚目 2–5 |
東三段目29枚目 3–4 |
東三段目46枚目 4–3 |
西三段目25枚目 6–1 |
1981年 (昭和56年) |
西幕下49枚目 3–4 |
東三段目筆頭 4–3 |
西幕下48枚目 5–2 |
西幕下27枚目 4–3 |
西幕下20枚目 5–2 |
東幕下8枚目 5–2 |
1982年 (昭和57年) |
東幕下筆頭 4–3 |
東十両11枚目 5–10 |
西幕下6枚目 4–3 |
東幕下4枚目 4–3 |
西幕下筆頭 5–2 |
東十両11枚目 10–5 |
1983年 (昭和58年) |
西十両2枚目 優勝 10–5 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭2枚目 6–9 |
東前頭5枚目 8–7 |
西小結 6–9 |
東前頭3枚目 10–5 殊★★★ |
1984年 (昭和59年) |
東関脇 9–6 殊 |
東関脇 10–5 殊敢 |
東関脇 6–9 |
東前頭筆頭 10–5 殊★ |
西関脇 10–5 |
東関脇 8–7 |
1985年 (昭和60年) |
東関脇 9–6 |
西関脇 9–6 |
東関脇 10–5 殊 |
東関脇 12–3 敢 |
西大関 12–3 |
東大関 11–4 |
1986年 (昭和61年) |
西大関 12–3 |
東大関 9–6 |
西張出大関 11–4 |
西大関 9–6 |
西大関 8–7 |
東張出大関 10–5 |
1987年 (昭和62年) |
東大関 9–6 |
東張出大関 9–6 |
西大関 15–0 |
東大関 12–3 |
東大関 13–2 |
西横綱 8–7 |
1988年 (昭和63年) |
西張出横綱 5–5–5[8] |
東張出横綱 13–2[9] |
西横綱 11–4 |
東張出横綱 12–3 |
西横綱 8–7 |
西横綱 11–4 |
1989年 (平成元年) |
西横綱 11–4 |
東張出横綱 12–3 |
西横綱 12–3 |
西横綱 1–4–10[10] |
東張出横綱 7–8[11] |
東張出横綱 休場[12] 0–0–15 |
1990年 (平成2年) |
東張出横綱 8–7 |
東張出横綱 休場[13] 0–0–15 |
東張出横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 10–5 |
1991年 (平成3年) |
東張出横綱 10–5 |
東張出横綱 12–3 |
西横綱 休場[14] 0–0–15 |
東張出横綱 引退 4–5–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
関連書籍
- 『負けるも勝ち 相撲とは-人生とは』(2008年3月)ISBN 4478003157
- 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(2006年9月)ISBN 4532165687
- 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(2009年9月)ISBN 453216706X
脚注
- ^ 過去に琴風や増位山(太)らの3場所31勝(大乃国と同数)、さらには北の冨士の3場所28勝で大関昇進した例が有る。また横綱・大関の合計が少ない場合は昇進が甘くなる事も有る。
- ^ 現在では12勝の準優勝程度では綱獲りと騒がれることはない。
- ^ 旭富士も大関時代の1989年1月から5月にかけて、大乃国の横綱昇進時と同じ3場所通算で40勝5敗という成績を残した。しかしこの時は双羽黒廃業後、横綱昇進基準厳格化の煽りを受けて昇進が見送られる。その後翌1990年5月と7月に2場所連続優勝を果たし、横綱に昇進した。
- ^ 読売「大相撲」平成元年4月号・「北出清五郎のやあこんにちは」での本人談「180キロが理想体重。(中略)関脇のころが最高だった。200キロはムリがあると思うがなろうと思ってなったんじゃない、なってしまった。(中略)体質的に太りやすいんだよ」
- ^ 丁度10年後の1999年9月場所で、3代若乃花(第66代横綱)も7勝8敗の皆勤負け越しを喫した。
- ^ この横綱空位のために、同年10月、旭富士の引退相撲でも露払い旭里・太刀持ち旭道山と、同じ大島部屋の平幕力士が務めている。翌年1月、北勝海の引退相撲では横綱になったばかりの曙が太刀持ちを、大関・小錦が露払いを務めた。しかし2003年の貴乃花以降、横綱・大関の空位とは関係なく、大関以下の現役幕内力士が露払いと太刀持ちを務めるケースが続いている。
- ^ 元大乃国の芝田山親方を起訴猶予処分 弟子暴行事件 asahi.com 2011年1月25日
- ^ 肝機能障害
- ^ 北勝海と優勝決定戦
- ^ 右膝関節内障(内側側副靱帯及び内側半月板損傷
- ^ 横綱皆勤負け越し
- ^ 右膝靱帯及び半月板損傷
- ^ 左足関節脛腓靱帯断裂・左脛骨後顆骨折
- ^ 右脹脛化膿性蜂窩織炎