与田剛
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #92 | |
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画像募集中 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県君津市 |
生年月日 | 1965年12月4日(58歳) |
身長 体重 |
182 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト1位 |
初出場 | 1990年4月7日 |
最終出場 | 1999年10月2日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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与田 剛(よだ つよし、1965年12月4日 - )は、福岡県北九州市生まれ、千葉県君津市出身の元プロ野球選手(投手)。1999年から2000年までの登録名は「与田 剛士」(読み同じ)。2016年より東北楽天ゴールデンイーグルス投手コーチ。
経歴
亜細亜大学時代は故障が多く、登板機会はほとんどなかった。(大学時代に右腕の血行障害を患っていたが、これは筋肉が発達し過ぎたのが原因という珍しい症例だった[要出典]。しかし、NTT東京時代に150km/hを超える剛速球が注目され、全日本代表メンバーに抜擢。
1989年度ドラフト会議で中日ドラゴンズが1位指名で交渉権を獲得。当初は在京球団を希望していたが[1]、後に契約金7500万円、年俸720万円(金額は推定)で入団合意した[2]。初登板は1990年4月7日の横浜大洋ホエールズとの開幕戦で、同点で迎えた延長の11回表無死1、3塁のピンチでのリリーフ登板であったが2つの三振を含む無失点に抑えた[1]。その後も抑えとして活躍し、6月1日にセ・リーグ新人選手初の二桁セーブを記録した[1]。オールスターゲームにもファン投票で選出[1]され、新人では当時最多となる31セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、新人王に選出された。8月15日の広島戦(広島市民球場)では157km/hの球速を計時して当時の日本人プロ最速を記録している[1]。その剛速球と名前から剛球投手と呼ばれた。リリーバーを続けるうちに肩・肘への負担が選手寿命を縮めるパターンに陥り、4年目以降は右肘痛のため思うような成績を残せず1996年シーズン途中に内藤尚行との交換トレードで千葉ロッテマリーンズに移籍。1996年は2A・メンフィス・チックスに野球留学した。1997年も一軍登板できず、オフにロッテを自由契約となる。
1998年に日本ハムファイターズにテスト入団(当時新人王経験者でのテスト入団は与田が初であった[要出典])。抑え不在だったチーム事情もあり期待されたが、キャンプ終盤肘を故障、4月に遊離軟骨除去手術を受けプロ入り初の1軍・2軍通じて登板なしに終わる。しかしシーズンオフの教育リーグで好投し残留。1999年10月2日のシーズン最終戦のロッテ戦に4年ぶりの一軍登板したが、自由契約となる。
2000年に阪神タイガースにテスト入団。キャンプ・オープン戦で好投し、当時監督の野村克也からもストッパー候補として名が上がっていた。しかしオープン戦終盤、好投した翌朝ベットから起き上がれないくらいの腰痛に襲われる。この腰痛により戦線離脱し結局一軍登板もなく、同年限りで現役を引退した。
引退後
2001年よりNHK野球解説者、東京中日スポーツ野球評論家の傍ら、社会人野球チーム・サウザンリーフ市原の投手コーチを務めている。また、全日本女子野球チームの投手コーチも務めた。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表投手コーチ(ブルペン担当)として、大会2連覇に貢献した。WBCでは、大差のリードがある試合でブルペンで待機していた投手陣にベンチに戻って応援するよう指示した山田久志投手コーチに対し、何があるかわからないからと戻らなくていいと言って、意見が対立した。
2009年4月から2011年3月までNHK「サンデースポーツ」のメーンキャスターを務めた。引退して解説者の仕事を引き受けた後、元アナウンサーの夫人から話し方や表情の作り方を丁寧に教わったという。
2012年10月10日に、野球日本代表の投手コーチに就任した事が発表された[3]。11月13日に、背番号が「92」となった事が発表された[4]。
2015年10月13日に、東北楽天ゴールデンイーグルスの投手コーチとして就任したことが発表された。背番号は92[5]。同年オフには大久保博元の監督辞任に伴って立浪和義[6][7][8][9]や山崎武司[10]、橋上秀樹[11]、佐々木主浩、斎藤隆[12]らとともに名前が挙がったが、これは実現せず、梨田昌孝が監督に就任した。
人物
肩幅が広く現役を引退してからも肩幅について話題になる。「肩幅60cm」と報じられることもあり[13]、与田よりも10センチ以上身長の高いダルビッシュ有が「どうなってるんですか。その肩幅は」と声をかけるほどである[14]。NHKアナウンサーの廣瀬智美は「私にとっては安心感すらある、この広い肩幅」と形容して紹介したことがある[15]。
初登板の時にはホームでのクロスプレーをめぐり、判定はアウトで得点を許さなかったものの激しい接触をした相手ランナーに激怒して乱闘寸前の一因になった。死球を与えてもなかなか頭を下げることは無く、1994年6月22日の対横浜戦ではグレン・ブラッグスに体を背ける内角球を投げた際にも、やはり与田は謝らなかったために、ブラッグスはマウンドまで駆け寄り、与田にパンチを浴びせ両軍入り乱れての大乱闘となった。その場で退場になった与田(ブラッグスも退場)はベンチに戻る際、グローブをベンチシートに思い切り叩きつけた。
「努力」や「頑張れ」という言葉が嫌いで代わりに昔から「準備」という言葉を使っている。[16]
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1990 | 中日 | 50 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 31 | -- | .444 | 353 | 88.1 | 64 | 10 | 28 | 2 | 5 | 70 | 2 | 0 | 34 | 32 | 3.26 | 1.04 |
1991 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | .000 | 197 | 45.1 | 39 | 4 | 26 | 0 | 2 | 38 | 4 | 0 | 17 | 16 | 3.18 | 1.43 | |
1992 | 41 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 23 | -- | .286 | 315 | 72.1 | 60 | 6 | 38 | 5 | 2 | 69 | 3 | 0 | 28 | 28 | 3.48 | 1.35 | |
1993 | 15 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 3 | -- | .250 | 100 | 19.1 | 23 | 5 | 19 | 0 | 1 | 18 | 1 | 0 | 23 | 21 | 9.78 | 2.17 | |
1994 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 81 | 15.0 | 21 | 2 | 15 | 0 | 1 | 12 | 4 | 0 | 21 | 20 | 12.00 | 2.40 | |
1995 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 38 | 6.0 | 10 | 2 | 10 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 8 | 8 | 12.00 | 3.33 | |
1999 | 日本ハム | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 2.00 |
通算:7年 | 148 | 9 | 0 | 0 | 0 | 8 | 19 | 59 | -- | .296 | 1089 | 247.1 | 218 | 29 | 137 | 7 | 12 | 212 | 14 | 0 | 132 | 126 | 4.58 | 1.44 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀救援投手:1回 (1990年)
表彰
記録
- 初登板:1990年4月7日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(ナゴヤ球場)、11回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、11回表に横谷彰将から
- 初セーブ:1990年4月12日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、7回裏1死から4番手として救援登板・完了、2回2/3を1失点
- 初勝利:1990年4月18日、対広島東洋カープ2回戦(ナゴヤ球場)、10回表に5番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初先発:1990年9月12日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(ナゴヤ球場)、8回5失点(自責点4)で敗戦投手
- オールスターゲーム出場:2回 (1990年、1992年)
背番号
- 29 (1990年 - 1996年)
- 30 (1997年)
- 34 (1998年 - 1999年)
- 38 (2000年)
- 92 (2016年 - )
登録名
- 与田 剛 (よだ つよし、1990年 - 1998年、2016年 - )
- 与田 剛士 (よだ つよし、1999年 - 2000年)
関連情報
著書
- 『消えた剛速球 - 157キロで駆け抜けた直球人生』(2001年8月:ベストセラーズ) ISBN 978-4584159309
- 『与田剛のメジャーリーグ剛球解説』(2008年3月:NTT出版) ISBN 978-4757150584
- 『一流力 - サムライジャパン勝利の理由』(2009年7月:双葉社) ISBN 978-4575301311
- 『中継ぎ力 - リストラ社会ニッポンの新しい生き方』(2010年2月:ワニブックス) ISBN 978-4847065095
- 『山本昌 レジェンドの秘密』(2015年12月:自由国民社)ISBN 978-4426119836
出演番組
- NHKプロ野球
- NHKメジャーリーグ中継
- NHKサンデースポーツ(2009年4月 - 2011年3月)
脚注
- ^ a b c d e セ新人初の快挙!与田剛、2ケタセーブでリーグトップ
- ^ 朝日新聞、1989年12月16日付朝刊 (14版、22面)
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 与田コーチ・池山コーチ 就任会見 | 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト - 2015年10月13日配信、2015年10月14日閲覧
- ^ 楽天新監督に立浪氏急浮上!星野副会長と師弟タッグで再建だ (1/4ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ) - 2015.9.10 05:06(1/4)
- ^ (2/4)
- ^ (3/4)
- ^ (4/4)
- ^ 楽天・梨田新監督に懸念される楽天フロント人間関係の拗れ - リアルライブ(週刊実話、2015年10月5日 16時01分)
- ^ 楽天の後任監督候補に梨田、与田氏ら…就任1年で大久保監督が辞意 - スポーツニッポン(2015年8月30日 05:30)
- ^ 楽天不穏 デーブ後任問題「なり手いないだろ」の声 - 東京スポーツ(2015年9月1日 06時00分)
- ^ ストレスのはけ口に…WBC投手コーチ与田剛(上) 夕刊フジ2008年11月22日
- ^ ダルビッシュ有 「まだ見ぬ完璧」/特集:WBC後の選手たちを追う! Number Web 2009年6月26日
- ^ News Watch 9 ブログ NHK 廣瀬智美2011年6月20日
- ^ 現役最後の1年「感謝の思い出」 燕市教育委員会 与田剛さんスポーツ講演会(上) 越後ジャーナル2011年12月24日
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference
- 与田剛プロフィール オフィスニックス(木場弘子ホームページ)