極道の妻たち
『極道の妻たち』(ごくどうのおんなたち)は、1986年に東映京都撮影所製作・東映配給により公開されたヤクザ映画。監督は五社英雄。主演は岩下志麻。好評を博し、主演女優・監督を替えながらシリーズ化された。通称『極妻(ごくつま)』[1]。岩下志麻の劇場シリーズは1998年のシリーズ10作目『極道の妻たち 決着(けじめ)』で一応の完結となっている[2]。
概要
家田荘子のルポルタージュを原作に、それまでのヤクザ映画では脇役が多かった女性側の視点から描いた異色のやくざ映画シリーズ[3]。原作本は「極道の妻たち」(ごくどうのつまたち)であり、読み方が異なる。愛する夫を組同士の抗争や内部の謀略で失った『極妻』が自らの手で仇を取るという復讐劇[4]。
キャッチコピー「愛した男が極道だった」[5][6]。
製作経緯
企画
企画は日下部五朗[3]。東京に行く新幹線で『週刊文春』に連載された家田荘子の原作を読み、家田に直接会って映画化の交渉を行う[3]。日下部が引かれたのはまずタイトル、さらにリアリティーが持つ非日常的な迫力に圧倒された。日下部もそれまで多くのヤクザ映画を手掛け、ヤクザの世界にはかなり通じているつもりでいたが、それ以上に知らない生態を体当たりで取材している[3]。聞けば、既に松竹と話が進み、テレビからも声がかかっていた[3]。日下部はやや強引に「おこがましいようだが、こういうものを作らせたら、東映にかなう会社はありませんよ。しかもこの手の企画なら、わたしが一番だという自信がある。誰にでも聞いてみて下さい」などと説得、家田を口説き落とすことに成功した[3]。岡田茂東映社長(当時)には事後承諾の形となったが、幸い岡田社長からすんなり了承を得た[3][7]。家田荘子は東映、東宝、松竹の大手三社全部とテレビ局からも打診があったと話している[8]。テレビからは「タイトルが欲しい」と言われたため、危機感を感じてすぐにタイトルに登録商標を取ったという[8]。
キャスティング
1960年代のヤクザ映画全盛のオールナイト興行には、体制に不満を持つ学生を中心に、底辺で働く若者や水商売の女性、あるいは都会の片隅で孤独に生きる人たちが多かった。バブル期直前の1980年代半ばの日本には、代わってごく普通のOL、あるいは女子学生にも広く受け入れられる映画が要求された[3]。ヤクザ映画はマンネリといわれたが、方法論を変えれば打破できるはずだと日下部は考えていた。一般の主婦やOLは、ヤクザ映画には抵抗を持ちながら、一方で見てみたいという気持ちを強く持っている。それには、主婦やOLに違和感なく、ヤクザ映画には縁のない、テレビなどで好感度の高い大物女優を主人公に起用して安心感を与える[3]、ヤクザ映画とは全然関係のないスターを起用することで、ヤクザ映画に市民権を持たせたかった[9]。日下部は当初、「"極妻"は東映の監督陣と日本を代表する女優たちとで回していきたい」と、一作目の主演女優を岩下志麻、二作目を十朱幸代、三作目を三田佳子、四作目を山本陽子、五作目を吉永小百合という構想を練っていた[10]。ところが、四作目の製作が決定した際に、岡田社長が「やっぱり岩下に戻そうや」と"鶴の一声"を発して以降は長く岩下が主演を務め、"極妻は岩下"の代名詞となるほどの岩下の当たり役シリーズとなった[10][11]。シリーズ終了後も岩下が出演するCMは"極妻"のパロディーで制作されたものが多かった[注釈 1][12]。岩下は同じ五社英雄監督の1982年、『鬼龍院花子の生涯』で、既に"姐御"役を経験していたが、本作では凄みの効いた低い声で「あんたら、覚悟しいや!」と拳銃をぶっ放し"姐御"イメージを決定的にした[7][13][14]。岩下自身「"極妻"は自分の財産になる作品になったと思うんです。こんなに長いシリーズ物をやらせていただいたのは、女優生活で初めてなんですね。年代的にもう中年になってから、こういう主演作に巡り逢えるとは思いもよらなかった」と述べている[7]。忘れられない3本として『心中天網島』(1969年)、『はなれ瞽女おりん』(1977年)とともに『極妻』を挙げている[7]。
岩下とともに"極妻"に欠かせない女優がかたせ梨乃[3][15]。かたせは当時テレビを中心に活動していたが、官能的で毒の部分を表現できる女優が、ヤクザの男たちの好みのタイプと判断しキャスティングされた[3]。五社監督はあまりグラマー過ぎな女優が好きでなく[16]、かたせの起用に反対したといわれる[16]。製作発表を伝える『キネマ旬報』1986年9月下旬号には「岩下志麻、かたせ梨乃主演」と書かれている[17]。映画の大役は初めてで極度に緊張して、岩下がかたせに宝石店で指輪をはめてあげるシーンでは、かたせの手が震えて指輪がなかなかはまらなかった[15]。第1作ではかたせと世良公則の濡れ場シーンが大きな話題を呼んだ[18][19]。最初はお色気担当のような役割だったが、次第に姐さんとともに闘う女に変身していった[15][16]。かたせは「29歳まで代表作がなく職業欄に女優と書けなかった」と話していたが[16]、文字通り体を張って、芸能生活10年目で初めて手にした大役をやりとげ、演技開眼[20]。出演者の中で最多の8作品に出演し[20]、女優として大きな成長をとげた[3][16]。グラマーなかたせが男性客の動員に寄与し、人気シリーズに押し上げたという評価もある[21]。
かたせ以降も、若手女優のヌードや濡れ場シーンが必ず入る。
東映の看板男優の一人が「女の出るやつ、オレ出ない」と言って、岡田社長が「今までのヤクザ映画にしたんじゃ、どうにもならないやね」とハラを立てたといわれ[22]、東映の看板男優が組長役で出演するようになったのは6作目からだった[22]。その分異色の配役が組まれ、萩原健一や桑名正博、津川雅彦、佐藤慶、草刈正雄、中条きよし、村上弘明、宅麻伸らが新境地を作り出した[22]。また初期は東映Vシネマとの端境期にあたり、哀川翔ら、Ⅴシネで地位を得る若手の格好の踏み台となった[22]。一作目、二作目に連投する竹内力は今日では考えられないパシリ役での出演[22]。
シリーズ4作目『極道の妻たち 最後の戦い』(1990年)で岩下が復帰した際に、岩下が日下部に監督に山下耕作を希望した[23]。山下は依頼を固辞していたが、岩下に懇願され、監督を引き受けた[24]。1990年3月27日に銀座東武ホテルであった製作発表会見で山下は「テーマは岩下志麻です」と話した[24]。
脚本
家田の原作は亭主が浮気する、家に金を入れないなどの苦労話で、日下部の下に付いていた奈村協プロデューサーや監督の五社、脚本の高田宏治も「『鬼龍院花子の生涯』のようなパワーのある、燃焼できた物の後、いまさらヤクザの嫁さんの話でもないだろう」という意見で一致。このため東映上層部の意向は無視して原作にこだわることなく、もう一回アクションの原点に戻し、女に借りたヤクザの実録というコンセプトで脚本が書かれた[25]。脚本の高田は家田の原作に、当時の山一抗争や高田が脚本を手掛けた三国事件(『北陸代理戦争』)を素材に物語を構成した、そういった時代を入れたから迫力のあるスケールの大きな話が出来た、と述べている[25]。シリーズは時代と共に原作から乖離していった[8]。
製作発表
1986年8月7日、東京有楽町有楽町電気ビルの外人記者クラブで製作発表会見があり、製作費は7億円、撮影は京都撮影所の他、グアム島ロケなどを行い、10月中旬クランクアップ予定と説明があった[26]。
岩下の役作り
- セリフ
ホテルの部屋でセリフの練習をしている時に友人から電話がかかってきた際、役に入り込み過ぎて、電話を取った第一声が「わてや」になってしまったという[27]。
- 刺青
京都撮影所の俳優センターに「刺青部屋」が当時あり、専属の刺青師が朝の5時から3時間かけて岩下の背中の刺青を描いた[28]。勿論実際の彫り物ではなく後で落とせるものであるが、絵の具を伸ばす際に使う刷毛がチクチクするのと、絵の具を乾かすときに塗るベンジンに刺激があり、少し痛みがあったという[28]。
- ファッション
衣装は五社監督と相談したものだが、着こなしは岩下自身が工夫したもの[28]。着物にピアスやネックレスをすると下品になるが、岩下はあえて小さなイヤリングとプチネックレスをつけた[28]。着物は襟首の下で合わせるのが普通だが、岩下は胸のところにほくろがあり、ほくろを目安に襟を開けた[28]。また着物を着たときは内股が常識だが、歩き方も外股にし、あごを上げて上から見下すような感じで、声のトーンをなるべく下げてものを喋ってみた[28]。一作目はそんなに低くないが『新極道の妻たち 覚悟しいや』(1993年)あたりがかなり低い。
第一作で岩下が着物を60着くらい衣装合わせをして20着くらい選んだ[21]。抗争の場面で血が付く場合があるため、着物は全て2着づつ用意したため衣装代だけでかなりの高額になった[21]。
- くわえたばこ
岩下はもともと非喫煙者だったが、役作りのために周りの同世代が禁煙を始める頃からたばこを吸い始めた[28]。以来チェーンスモーカーになったが、"極妻"が終わって5年くらいでたばこをやめた[28]。
- イメージ
岩下は『グロリア』(1980年、ジョン・カサヴェテス監督)が大好きで[29]、"極妻"をやってるときにはいつもジーナ・ローランズのイメージがあったという[29]。『グロリア』をベースにした脚本やシノプシスを自身で作り、企画を出していたが実現できずに結局諦めたが、「実現できててたら『レオン』よりずっと早かったのに」と話している[29]。
撮影
1986年8月21日クランクイン[17]。かたせは「『極妻』とかだと1日、2~3シーンしか撮らない」と話している[20]。妻たちが短銃を撃つシーンのリアリティーを重視するため、実弾射撃が出来るグアム島でロケがあった[17]。
逸話
俊藤浩滋は「家田荘子の原作が出る以前に『山口組の姐さんたち』というタイトルの映画の企画を東映に出した。岡田社長がそれをジャーナリストとの対談で喋ったことがある。しかし企画は通らず、それからしばらくして『極妻』が作られることになったので、「おかしいやないかと言うたら、わしのとこへ了解を取りにきた」と話している[30](俊藤は元々外部のプロデューサーであったが、1969年に系列会社の東映芸能の副社長になり、一応東映の幹部社員になっていた。1974年東映を退社しており以降はフリー)[31]。
原作者の家田荘子はシリーズがヒットを続けて、東映の『極妻』プロモーションで全国を回るようになると、顔がバレるようになった[8]。すると若い衆から「ウス、ウス、ウス」とお辞儀をされるようになり、原作と映画は別物なのに「ウチの親分が殺されてるじゃないか」と連絡が来て呼び出しを食らったり、ヤクザに拉致され、「この姐さんの話を書け!書くまで帰さん」と迫られたりした[8]。また当時、極道の取材は男性ライターや作家に限られていたため、マスメディアから縄張りを侵されたとみなされ、強烈なバッシングを受け自律神経失調症を病んだ[8]。最初は相手に「家田です」と挨拶しても気付かれず、「『極妻』を書いた家田です」と言わないと認めてもらえない時期もあったという[8]。
シリーズの評価
製作費と興行成績
東映は1982年の『鬼龍院花子の生涯』のヒットで女性任侠ものの手応えを掴んだことから[32]、同年の『制覇』で本格的な任侠映画を復活させた[32]。『制覇』は配収7億円を上げて成功し[32]、1983年は任侠映画は製作されなかったが、1984年の『修羅の群れ』は6億5千万円の配収を上げ成功したが、1985年の『最後の博徒』が配収4億5千万円に留まり、原価を回収できなかった[32]。『極道の妻たち』は総製作費7億円[17]、総原価5億8千万円[32]。配収6億円以上上げないと成功したと言えなかった[32]。封切直前の『キネマ旬報』の興行予想では「激烈な暴力抗争の銃後で、極道の妻たちはどう戦い、どう生きているかにスポットをあてた切り口はユニークだが、その切り口をどこまで一般に売り込むことができるか。年内最終番組(正月興行前)という時期も良くないし、キャスティング面などを考えると興行は厳しい」などと予想していた[32]。
一作目は配収8億円[33][34]、二作目『極道の妻たちII』(1987年)配収6億円[34]、三作目『極道の妻たち 三代目姐』(1989年)配収5億円5千万[34]、四作目『極道の妻たち 最後の戦い』(1990年) 配収5億円[34]。当時配収5億をコンスタントに稼ぐ映画は大変で[34]、東映自社製作作品のドル箱シリーズになった[34]。第一作公開前には興行不安を予想した『キネマ旬報』も五作目の公開前に「東映得意のヤクザ映画が、女性の時代にふさわしい形で再生し、なおかつそこに不良性感度とカタルシスを堅持して、映画、ビデオの両面で安定した人気を獲得している。原作者といい、出演者としい、女性が前面に出て男社会にぶつかっていく姿勢が受けている。"最後の戦い"の後に"新"がくるという例によってシリーズもののいいかげんさは愛嬌としても、このシリーズはまだまだいける。『新・新極道の妻たち』も間違いなく製作されると予見しておこう」などと評した[34]。
一作目の大ヒット以降、少しずつ興行成績は落ち[9]、7作目あたりで1作目の半分程度の成績だった[9]。しかしそれと反比例してテレビ放映時の視聴率が高く[9]、一作目が1989年4月1日フジテレビ系で放映、東京23%、大阪30.1%[35]。二作目1990年4月25日TBS系放映、東京22%、大阪23.5%[35]。三作目1990年10月5日フジテレビ系で放映、東京20.3%[36]。四作目の『極道の妻たち 最後の戦い』は、1991年10月11日にフジテレビ系で放映され25.9%を記録し[36][37]、日本テレビが地上波初放送権を推定28億円という高額で獲得した『E.T.』初放送に裏番組で勝利した(23.5%)[36][37]。ビデオも東映の劇場公開映画では当時一番のヒット商品で[34]、ビデオ売上げが配収の2倍になった[33]。一作目のビデオ販売32,465本(1990年2月まで。以下同じ)[24]、二作目ビデオ販売50,485本、三作目のビデオ販売69,230本[24]。『極道の妻たち』のビデオ価格は分からないが、1980年後半のビデオ価格は、90~120分の邦画劇映画で、1万2千円から1万6千円くらいの間[35]。5万本売れると6億5千万円ぐらいの売り上げになり、劇場での配収を凌ぐ。1作目から7作目『新極道の妻たち 惚れたら地獄』(1994年)までの配収、ビデオ、TVシリーズを含む総収入は100億円を超えた[38]。二次使用でも大きな力を持つシリーズだった[9]。
1993年暮れの東映社内会議で、岡田茂会長が、興行不振が続く「ヤクザ映画をやめよう」とヤクザ映画の撤退を指示したが[39][40]、好調の『極妻』シリーズだけは残すと公表した[40]。
作品の評価
初公開時には観客は主演の岩下志麻を見て、あっと驚いたという[11]。くわえたばこで足を組み、ブランデーをあおり、「あほんだら、撃てるもんなら撃ってみい!」と啖呵を切り、背中に刺青、懐にはピストルと、その姿はどこから見ても筋金入りの極道一家の姐さんだった[11]。ヤクザ映画のファンはそれまでコアな男性層だけだったが、本作は女性層にも支持された[11]。保身と駆け引きに明け暮れる男たちとは対照的に、意地を貫き通す"極妻"たちのかっこよさに、普通の女たちが快哉を叫んだ[11]。本シリーズが大ヒットした背景には、「男が弱く、女が強くなっていく時代の流れがあった」と評される[11]。公開された1986年は、職場での男女平等を確保する「男女雇用機会均等法」が施行された年で、闘う女を主人公にした"極妻"はそうした時代の流れと深部で共鳴していたのである[11]。実際の極道の世界では女性は絶対表に出て来ないため[21]、本シリーズは「そうなったら面白い」と思う女性の夢の具象化といえる[21]。
藤木TDCは「男性映画の牙城であった東映に於いて、アクション路線に女性スターが進出する契機は美空ひばりの存在を抜きに語れない。時代劇を得意とした東映は美空に「ひばり捕物帖シリーズ」や『ひばりの森の石松』などの男装活劇や「べらんめえ芸者シリーズ」のような女侠ものを演じさせる。しかし戦後に浅香光代らが肌の露出を盛大にしてエロスを売りに人気を集めた「ストリップ剣劇」とは違い、美空ひばりのアクションにエロスが求められることはなった。60年代になると東映はエロをふんだんに盛り込んだ東映ポルノを展開させた。1967年に当時の東映企画製作本部長・岡田茂が企画した『緋牡丹博徒』でも岡田は主役の藤純子(富司純子)を脱がせようとしたが、富司が頑なに拒否し、女侠映画として極めて生真面目で禁欲的な作品となった。そのことが結果的に同作の評価を高くした。美人で度胸があり男勝りの腕を持ち、なおかつ気位高く義侠心がある女やくざが荒くれ男たちを打ちのめしてゆく『緋牡丹博徒シリーズ』の展開を『極妻シリーズ』は踏襲している。プラス70年代の女番長(スケバン)映画が持っていたリアルな欲望の描写を加えて本シリーズは成立した。『極妻』は女性映画の時代になったという単純な状況変化から生まれたのではなく、50年代から80年代まで30年以上に渡って東映の徒花だった女性アクション路線が転生を果たした最終形態であり、また斜陽を迎えた撮影所映画の最後の戦いでもあった」などと評している[41]。
外部からはスター監督の五社英雄を起用する一方で、内部では土橋亨や関本郁夫といった冷や飯を食わされていた男たちを起用するなど「やる気があるのかないのか見えない点」も東映フリークからは好評だった。五社が二作目以降に監督を降ろされた理由について、高田が日下部に聞いたら「すべて五社の手柄にするから」と言っていたという[42]。高田は「もし五社さんの続投に踏み切っていたら『極妻』シリーズは日本の映画史に燦然と残るエンターテインメントの金字塔になってかもしれない。日下部がいみじくも家田さんに力説したように、この手の危ない素材を自分の血と肉にして、大衆を興奮させるだけのロマネスクに仕上げる手腕において、五社さんに勝る監督が日下部の手持ちの中にはいなかったんです」などと述べている[42]。
シリーズ終了の経緯
シリーズ10作目で、岡田社長が突然「これで10作になるのでやめます」と宣言し『極妻』シリーズは『極道の妻たち 決着(けじめ)』(1998年)で一旦終了した[12][21]。岩下もイメージを引きずって、他の役がやれない恐怖があったので「よかった」と思ったという[12]。しかし岩下="極妻"イメージはしばらく続き、CMも「〇〇させていただきます」と"極妻"風に言う依頼が続いた[12]。しかし振り返るとやっぱり「これだけの作品をやれた、娯楽作品でこれだけのシリーズを持たせていただいたというのは、私の大きな素晴らしい財産です」と話している[12]。
影響
映像化もされた森本梢子の漫画のタイトル『ごくせん』は"極妻"を捩ったもの[21]。
高島礼子版極妻
劇場シリーズの完結後もレンタルビデオで好評のため、東映ビデオの企画として高島礼子主演で新シリーズが製作された。しかし、レンタルビデオ主導の企画であることから予算規模は大幅に縮小され、劇場用の35ミリフィルム撮影ではなくスーパー16ミリでの撮影となり、短期間に小規模上映された[21]。東映ビデオと共同でTBSが制作に関与しており、TBS系のゴールデンタイム枠などで放送されることもある。またテレビ東京系でも放送歴がある。
高島抜擢の経緯
高島礼子は1988年にとらばーゆのCMを見た松平健の目に留まり、東映京都撮影所に招かれ、25歳のとき『暴れん坊将軍III』の"御庭番"役で女優デビューした。その後、日本酒「黄桜」のCMを見た東映首脳が高島の着物姿に惚れ込み1999年、極妻の四代目ヒロインに抜擢されることになった。しかし歴代の主演女優に比べて、高島は当時30代半ばと若く不安視されたが、関本郁夫が『彼女に合わせて極妻の誕生編を撮ったらいい』と提案し、これが採用されピタッとハマった。高島は高校時代から仁侠映画のファンで、『緋牡丹博徒』の藤純子(富司純子)や、鶴田浩二に心酔し『仁義なき戦い』も研究していた。高島の起用は東映社内でも大きな賭けであったが大ヒットし、岡田社長も「この子はスターになる」と手放しで喜び、高島主演でシリーズ化が決定[43][44]、高島は本シリーズを出世作とした[45]。
逸話
高島版シリーズ二作目の『極道の妻たち 死んで貰います!』は、高島の他、斉藤慶子、東ちづるの三人の女優が共演し、役柄的にはもらい役の東にどうしても目が行ってしまうところであったが、高島は「絶対負けるもんか」という女のライバル意識が強烈で、二人は舞台挨拶で一言も口を利かなかったといわれる[43]。
黒谷友香版極妻
高島礼子版は2005年の「情炎」で完結となったが、2013年、黒谷友香主演で新シリーズが製作された。
シリーズのタイトル
東映制作作品
極道の妻たち(1986年)※監督:五社英雄
- 出演:岩下志麻、かたせ梨乃、佳那晃子、竹内力、清水宏次朗、家田荘子、内藤やす子、円浄順子、春やすこ、八神康子、芹明香、明日香尚、絵沢萠子、小林勝彦、成瀬正、不破万作、有川正治、岩尾正隆、水上功治、五十嵐義弘、中村錦司、川浪公次郎、宮川珠李、三村敬三、栗田芳廣、磯村憲二、大木晤郎、藤田恵子、石井博泰、古川勉、土岐光明、丸平峯子、斉藤絵里、伊藤久美子、小川美那子、松宮由季、首藤真沙保、タンクロー、勝野賢三、石倉英彦、土佐一太、山村嵯都子、星洋子、福本清三、森源太郎、矢部義章、笹木俊志、疋田泰盛、白井滋郎、細川純一、石田謙一、木谷邦臣、司裕介、小峰隆司、富永佳代子、内藤康夫、川辺俊行、木下通博、小船秋夫、藤忠勝、得居寿、清家三彦、武井三二、福中勢至郎、大熊敏志、塙紀子、北村明男、松尾和子、鹿内孝、小松政夫、大坂志郎、佐藤慶、成田三樹夫、汀夏子、藤間紫、世良公則
- 配給収入7.5億円[46]
極道の妻たちII(1987年)※監督:土橋亨
- 出演:十朱幸代、かたせ梨乃、木村一八、柳沢慎吾、竹内力、光石研、藤奈津子、円浄順子、戸恒恵理子、和田アキ子(主題歌も担当)、中島ゆたか、速水典子、亜湖、高倉美貴、伊織祐未、岩尾正隆、山村弘三、野口貴史、有川正治、丘路千、高並功、白川浩二郎、蓑和田良太、五十嵐義弘、西村泰治、吉川雅恵、丸平峯子、草笛光子、神津友子、石井洋充、野上志津香、稲泉智万、三原由美、大槻智之、広瀬朋子、加藤寛治、竹本貴志、河本忠夫、有村由美子、小林哲麿、白木原和音、成枝三郎、新島愛一朗、長谷川美佳、長崎任男、浜田隆広、毛利清二、宮城幸生、泉好太郎、木谷邦臣、笹木俊志、波多野博、白井滋郎、司裕介、細川純一、木下通博、小船秋夫、柳美希、井上みよ、佐々木由美、タンクロー、首藤真沙保、真鍋美穂、安岡力也、内田稔、名和宏、趙方豪、草薙幸二郎、大前均、片桐竜次、市川好朗、佐川満男、綿引勝彦、夏夕介、遠藤太津朗、月亭八方、神山繁、藤岡琢也、村上弘明
- 1986年6月30日、東京芝の増上寺広書院(現景光殿)で製作発表会見があった[5]。7月1日クランクイン、8月下旬クランクアップ、9月完成、10月に公開予定との発表他[47]、高岩淡専務が「第一作以上の製作費を投入する」などと話した[5]。
- それまで爽やかな青年役が多かった村上弘明が、初めてヤクザ役、汚れ役に挑んだ[48]。村上は「海育ちの僕の中には、ヤクザ気質というか、血があると思う。それを出したくって仕方無かったんだ。でも今まではそういうキャラクターに巡り合ってなかった。役柄としてはすごく気に入っている」などと話し[48]、ヤクザから足を洗いきれない男の切なさを好演し、この年の日本アカデミー賞優秀助演男優賞を獲得した[48]。
- テレビ放送は、他の東映制作シリーズがフジテレビ系で放送されるのに対し、本作のみ日本テレビ系「金曜ロードショー」枠で放送される(最近の放送は2007年12月21日)。
- 和田アキ子がかたせ梨乃の息子が通う学校の先生役で17年ぶりに映画出演[49]。「アタシが極道やったらシャレじゃなくなるから」と最初は出演オファーを断ったが[49]、東映にしつこく口説かれ「ゴクドーじゃない役なら」という条件を出して出演を承諾した[49]。主題歌「抱擁」も歌い[49]、同年の第38回NHK紅白歌合戦(和田が紅組司会も担当)にて紅組のトリを飾った。
- 配給収入6億円[34]。
極道の妻たち 三代目姐(1989年)※監督:降旗康男
- 1989年1月11日、東京芝の東京プリンスホテルで製作発表会見があった[50]。1989年1月20日クランクイン[50]。高岩淡専務が「三田さんを京都に本格的に迎えるのは初めて(三田は東映東京撮影所所属のまま1967年に東映を退社)。低迷する映画界に一発かましたい」などと話した[50]。
- 配給収入5.5億円[34]。
極道の妻たち 最後の戦い(1990年)※監督:山下耕作
- 1990年の東映ラインアップでは『極道の妻たち 完結篇』と印刷されていた[34]。東映では"完結篇"というタイトルは大入りにならないというジンクスがあり、急遽サブタイトルを最後の戦いに変更した[34]。
- 20歳時の石田ゆり子が、素朴で可愛らしい容姿ながら、小気味よい悪女ぶりを見せる[22][47]。女性が主人公の映画らしく、製作発表会見も岩下志麻が真ん中に座り、両隣はかたせと石田が坐った[47]。また哀川翔は東映Vシネマ付く直前の出演。
- 1990年4月2日クランクイン、5月16日クランクアップ[47]。
- 配給収入5.0億円[34][51]。
新極道の妻たち(1991年)※監督:中島貞夫
新極道の妻たち 覚悟しいや(1993年)※監督:山下耕作
- 封切り初日の1993年1月30日に大阪梅田東映の初日オールナイト興行で、岩下志麻、かたせ梨乃、成田昭次らも参加し、岩下がラストシーンで使ったセリフ「あんたら覚悟しいや」を一般公募した参加者に一発ビシッと舞台上できめてもらい、どれだけ岩下姐さんに近づけるか、その名も「あんたら覚悟しいやコンテスト」が開催された[52]。司会はルンルン・エクスプレスのあい京子(現・斉藤京子)。優勝は大阪の着付け講師で、着物の裾を割って、マジックペンで"昭次命"の書いた太ももを見せる大胆なパフォーマンスが優勝の決め手になった[52]。優勝賞品はメナード化粧品セット等[52]。
新極道の妻たち 惚れたら地獄(1994年)※監督:降旗康男
極道の妻たち 赫い絆(1995年)※監督:関本郁夫
極道の妻たち 危険な賭け(1996年)※監督:中島貞夫
極道の妻たち 決着(けじめ)(1998年)※監督:中島貞夫
東映ビデオ制作作品
極道の妻たち 赤い殺意(1999年)※監督:関本郁夫
極道の妻たち 死んで貰います!(1999年)※監督:関本郁夫
極道の妻たち リベンジ(2000年)※監督:関本郁夫
極道の妻たち 地獄の道づれ(2001年)※監督:関本郁夫
極道の妻たち 情炎(2005年)※監督:橋本一
極道の妻(つま)たち NEO(2013年)※監督:香月秀之 ※本作のタイトルは家田荘子の原作本の通り「ごくどうのつまたち」と読む[54]。
この節の加筆が望まれています。 |
脚注
注釈
出典
- ^ “東映チャンネル | 6月のオススメ特集 | 2か月連続特集【一挙放送!極妻スペシャル Vol.2】”. 東映チャンネル. 2020年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月13日閲覧。東映作品を代表する大ヒットシリーズ“極道の妻たち”全10作を東映チャンネルにて特集放送!【5か月連続放送!極妻スペシャル】、極道の妻たちNeo | 東映ビデオオフィシャルサイト
- ^ 東映チャンネル | 極道の妻たち 決着(けじめ)
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参考文献・ウェブサイト
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- 立花珠樹『岩下志麻という人生 いつまでも輝く、妥協はしない』共同通信社、2012年。ISBN 978-4-7641-0644-4。
- 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4-1637-68-10-6。
- 東映キネマ旬報 2010年春号 Vol.14 | 電子ブックポータルサイト
関連項目
- GREE…ソニー・デジタルエンタテインメント・サービスによってスマートフォン用GREEにてゲーム化。