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大阪近鉄バファローズ

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大阪近鉄バファローズ
会社名 株式会社大阪バファローズ
創設 1949年
解散 2004年
所属リーグ
パシフィック・リーグ
歴代チーム名

本拠地
大阪ドーム
収容人員 36,477人(大阪ドーム)

永久欠番
1
獲得タイトル
日本一(0回)
なし
リーグ優勝(4回)

1979 | 1980 | 1989 | 2001
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(4回)
太字は勝利した年)

1979 | 1980 | 1989 | 2001
プレーオフ(前後期制)出場(3回)
太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

2 勝1敗(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

1975 | 1979 | 1980
球団組織
オーナー 田代和(解散時)
運営母体 近畿日本鉄道(解散時)
球団社長 小林哲也(解散時)
監督 梨田昌孝(解散時)
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株式会社大阪バファローズ
Osaka Buffaloes
種類 株式会社
本社所在地 大阪府大阪市天王寺区上本町6-1-55(登記上本店)
大阪府大阪市中央区難波2―2―3 御堂筋グランドビル7階
(球団解散時の事務所)
設立 1999年9月
(株式会社大阪近鉄バファローズとして設立)
業種 サービス業
事業内容 プロ野球興行事業など
代表者 オーナー 田代和
代表取締役社長 小林哲也
主要株主 近畿日本鉄道 100%
関係する人物 佐伯勇(球団創設者)
特記事項:2005年3月31日解散。
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大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年(昭和24年)から2004年(平成16年)まで存在した日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに加盟していた。

概要

大阪府保護地域とし、大阪市西区にある大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)を専用球場(本拠地)としていた。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は、かつて藤井寺市にあった近鉄藤井寺球場だった。

球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。

1999年(平成11年)3月までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。

2004年(平成16年)、球団と近鉄グループの経営難から、オリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年(平成17年)3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。

なお、オリックス・バファローズの球団史では、大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。

また、1944年(昭和19年)6月から1947年(昭和22年)5月まで、南海電気鉄道大阪電気軌道(関西急行電気軌道とも)の統合によって設立された近鉄が運営していた「近畿日本軍(1944年・1945年)→近畿日本グレートリング(1946年・1947年途中まで)」とはバファローズとの関連はなく、現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。

合併までの経緯、詳細についてはプロ野球再編問題を参照

球団消滅となる2004年(平成16年)まで現存していた12球団中で、リーグ優勝はあったが、日本一を達成していない唯一の球団だった[1]。2004年に消滅したことで、半世紀以上存続した日本のプロ野球チームとしては唯一、日本シリーズ優勝を果たせぬまま、55年の歴史に幕を閉じた。

球団の歴史

黎明期

設立当初より低迷が続き、万年Bクラス・最下位の近鉄は「地下鉄球団」[出典 1]とも言われた。

1949年(昭和24年)、近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社近鉄興業が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。近鉄にとっては、南海鉄道(現南海電気鉄道)合併当時の1944年(昭和19年) - 1947年(昭和22年)(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現 近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐に依れば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パ・リーグ)に加盟[2]。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かった為、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明東急フライヤーズ)、森下重好田川豊(いずれも太陽ロビンス)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。

1950年(昭和25年)3月12日、藤井寺球場の対毎日オリオンズ戦でチ-ム開幕戦を行うが、2-6で敗戦。翌13日の対南海ホークス戦で沢藤光郎が粘投し4-3でチーム初勝利を収める。この年沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるものの、首位から37.5ゲーム離された最下位に終わる。1951年(昭和26年)もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位と0.5ゲーム差の最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。1952年(昭和27年)は8月に13連敗を喫し、3割に満たない勝率で最下位に終わる。シーズン終了後、藤田が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 1953年(昭和28年)は開幕直後には9連勝するなど、5月8日、一時期ながら首位に立つ。夏場以降失速し、最下位に終わるが勝率は初めて4割を超える。

1954年(昭和29年)8月7日、対高橋ユニオンズ戦で山下登が近鉄選手で初めてノーヒットノーランを達成(スコアは4-0)。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄最多勝鈴木武盗塁王を獲得する。この年初めて最下位を脱出する(8球団中4位)。 1955年(昭和30年)6月19日には武智(田中から改姓)が大阪球場での大映ユニオンズ戦でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。1957年(昭和32年)、この年パリーグは8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三は「世間はそれは近鉄だろうと思っていた」と述べ、大映オーナーの永田雅一による近鉄潰しだと述べている[出典 2]6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている[3]。オフに監督就任。1958年(昭和33年)も不振が続き、開幕序盤6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マークが制作される。

1959年(昭和34年)は5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉監督が途中休養、林義一コーチが代行監督となるが、オフに千葉が監督復帰する。1961年(昭和36年)、シーズン最多記録となる103敗を喫し(現在でも、この記録は更新されていない)、首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられた。シーズン終了後、千葉が監督を辞任し、別当薫が就任。

後年、この当時の事情を千葉はなかなか語ろうとしなかったが、1997年(平成9年)ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる[出典 3]

1962年(昭和37年)、チーム名を近鉄バファローズに改名。ブルームが.374の高打率で首位打者を、久保征弘最多勝を獲得するも5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。1963年(昭和38年)は5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年の球宴には7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。翌1964年(昭和39年)、この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。シーズン終了後、別当が監督を辞任、岩本義行が就任。1965年(昭和40年)、このオフ鈴木啓示が入団する。1966年(昭和41年) シーズン終了後、岩本が監督を辞任、後任には当時31歳の小玉明利選手を兼任のまま監督就任。1967年(昭和42年) 4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社を設立し、近鉄興業から経営を移管。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり最下位に終わる。シーズン終了後、小玉が監督を辞任し選手として阪神に移籍した。後任には三原脩が就任した。

1969年(昭和44年)、10月まで首位を保つ。2位阪急との直接対決4試合(西宮球場2試合、藤井寺球場2試合)のみを残して2厘差で首位、4試合を2勝で優勝となり、2勝1分が条件の阪急よりも有利な状況だった。しかし、10月18日の西宮でのダブルヘッダーに連敗、10月19日の藤井寺の試合にも敗れて阪急の逆転優勝が決まり、2位に終わった。この年のプロ野球ドラフト会議では甲子園のアイドル太田幸司を獲得。

1970年(昭和45年)5月14日黒い霧事件に関連し球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行った事が報道され、山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆吉沢岳男高木喬の4名に山崎が八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まった。しかし、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、岩本尭が就任した。

1973年(昭和48年)は初めての2シーズン制導入で、投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが[出典 4]、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊、8月末に岩本は休養し島田光二が代理監督を務めた。この年二軍がウエスタンリーグ初制覇している。シーズン終了後、この年阪急の監督を退任したばかりの西本幸雄が就任した。

初優勝、熱パ

藤井寺球場(一軍は1983年まで準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。二軍は創設当初から本拠地だった)
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
1997-2004年の本拠・大阪ドーム

西本幸雄監督の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬監督の就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり[4]、ドラフトで史上最多8球団が競合した野茂英雄へのブームもあいまって、「熱パの象徴」と呼ばれるようになった。

1974年(昭和49年)、チームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードで放出する。西本は若手選手を鍛えてチーム力の強化を図った。1975年(昭和50年)には初めて優勝(ペナント2期制度での後期優勝)となるが、プレーオフで阪急に敗れる。1977年(昭和52年)4月26日、対ロッテ戦で鈴木啓示が200勝達成、近鉄入団の生え抜き選手としては結果的に唯一の名球会入り選手となった。1978年(昭和53年)、9月23日の後期シーズン最終戦は、阪急との半期優勝をかけた直接対決となった。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。先発投手は鈴木啓示-山田久志というエース対決。しかし近鉄は敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決めた。

1979年(昭和54年)6月26日、前期シーズンの最終戦で引き分けて、半期優勝。選手育成が実を結び、後期優勝の阪急とのプレーオフでも優勝。西本監督の下で球団創設29年にして初のリーグ優勝を遂げる。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、1死満塁の逆転サヨナラ勝ちの好機をつかむが、広島の江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退する(「江夏の21球」)。

1980年(昭和55年)、反発力を高めた「飛ぶボール」の効果もあり、日本記録(当時)となるシーズンチーム本塁打239本を記録(但し被本塁打も251本)し、リーグ2連覇を成し遂げた。シーズン優勝は後期シーズンで、最後の3節で5位から巻き返し、日本ハムファイターズにM1が点灯した10月7日の直接対決で6-5で勝利し、続く西武ライオンズとの2連戦にも勝利し10月11日に優勝した。ロッテオリオンズとのプレーオフは3勝0敗のストレートで勝ち、日本シリーズでは前年に引き続き広島と対戦するが、この年も3勝4敗で日本一に輝くことは出来なかった。1981年(昭和56年)は前期6位、後期4位の最下位に終わりシーズン終了後、西本監督は辞任、後任に関口清治が就任。

1982年(昭和57年)は序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが首位日本ハムからは大きく離されての結果となった。1983年(昭和58年)は4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は一度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口監督が辞任、後任は岡本伊三美1984年(昭和59年)5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人だったドン・マネーが待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが3位西武との対戦成績は9勝17敗とカモにされた。翌 1985年(昭和60年)7月10日に鈴木が現役引退を表明。更に背番号「1」が球団史上初の永久欠番となる。この年は3位であったが、首位西武とは15ゲ-ム差をつけられ、2ケタ投手もストッパーの石本貴昭だけであった。また、同年は阪神タイガースが球団史上初の日本一を果たした事から、当時の12球団で唯一の日本一未経験球団となった。1986年(昭和61年)、後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点滅する展開となる。9月30日にはマジック10、127試合目にはマジック3としながら、そこから阪急に3連敗し、129試合目(残り1試合)で優勝を逃す。1987年(昭和62年)、前年ドラフト1位で獲得した阿波野秀幸が15勝を挙げ、新人王を獲得する活躍をみせるもののチームは最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、仰木彬が就任。

1988年(昭和63年)は前年までリーグ3連覇中の西武と最後まで優勝争いを繰り広げることとなった。6月7日、主砲だったリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕されて解雇となるが、6月28日に急遽中日ドラゴンズから金銭トレードで獲得したラルフ・ブライアントが、74試合の出場ながら34本塁打するなど大活躍をした。10月まで西武が首位、それを追う近鉄という展開となり、9月以降近鉄が西武以上に勝ち進み、10月16日西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合を3勝すれば優勝だったが、17日の阪急戦で敗戦、18日のロッテ戦は勝ったものの、10月19日川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで第1試合を9回に逆転するものの、第2試合10回時間切れの引き分け[5]に終わり130試合目にして優勝を逃す結果となった(詳細は10.19を参照)。[6]

1989年は西武とオリックスブレーブスとの三つ巴による、前年を上回る優勝争いの末、9年ぶりの優勝を果たす。10月12日、西武球場(現:西武ドーム)でこの日の優勝がかかった西武との対戦(ダブルヘッダー)[7]だったが、ブライアントが2試合で4打数連続本塁打の活躍をするなど連勝、この年のパ・リーグを象徴する試合となった(詳細は10.19#翌年の10.12を参照)。10月14日、藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス戦に勝利、129試合目で優勝決定する。初めての本拠地球場での日本シリーズ開催となったが[8]、巨人に3連勝するもののその後4連敗を喫し、日本一を逃す。この年のドラフトでは8球団競合の抽選の上、野茂英雄の交渉権を獲得し入団している。

1990年(平成2年)、野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得するなどの活躍を見せてMVPとなり、沢村賞を獲得。さらに以降4年連続で最多勝を獲得するなど、野茂(ドクターK)ブームを巻き起こす。しかし1992年(平成4年)まで当時黄金時代と言われた西武と優勝争いはするもの、優勝できなかった。1991年(平成3年) 前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。1992年(平成4年) 7月8日新井が2000本安打を達成(近鉄在籍時代の打者としては唯一、しかしシーズン終了間際に戦力外通告受け引退)。シーズン終了後、仰木彬監督辞任。後任には近鉄として初めての生え抜きとなる鈴木啓示が監督に就任する。

1993年(平成5年)は監督となった鈴木と野茂や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。1994年(平成6年)の開幕の対西武戦で赤堀元之が逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤チームは低迷。6月17日には首位西武に16.0ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により夏場から調子を上げたチームは球団新記録となる13連勝をして8月10日には一時首位に立つなど、この54日間で、32勝6敗、勝率.842の成績を残す。この年は最終的に首位西武と7.5ゲ-ム差の率2位に終わる。しかし、オフに野茂が契約のこじれから退団、大リーグロサンゼルス・ドジャースに移籍[9]。吉井も鈴木との確執によりトレードでヤクルトスワローズに移籍。

1995年(平成7年)は投手陣と監督との確執からチームは空中分解し、ブライアントや石井の故障離脱もあってチームは低迷。鈴木監督も途中休養する状況で、8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは高校生としては史上最多7球団が1位指名したPL学園の福留孝介の交渉権を獲得するものの入団拒否される。1996年(平成8年)は勝率5割付近をいったりきたりする展開となる。本拠地移転の関係で何としてもAクラス入りし開幕戦を新本拠地で迎えたかったが、Aクラス決定戦となった最終戦で西武に破れ、4位でシーズンを終える。

大阪ドーム時代

大阪ドームに移転するも、選手の年俸が高騰、大阪ドームも最寄り駅は近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となる[10]。また、大阪ドームの使用料も近鉄興業が保有していた藤井寺球場よりも大幅に上がった。1998年(平成10年)以降は観客動員数も増えなかった事もあり年間赤字が年々膨れ上がっていく。

1997年(平成9年)に本拠地を大阪ドームに移転し、一時は借金14を経験するなど夏場までロッテと最下位争いをしていたが、10点差逆転勝利を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。1998年(平成10年)は8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げるが、先発投手陣が安定せずチームは失速。最終的には借金1の5位に終わる。

地元企業との提携と地元密着を目指して1999年(平成11年)4月にチーム名を大阪近鉄バファローズに改称し、9月に従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社株式会社大阪近鉄バファローズを設立。しかしチームは4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど低迷して最下位に終わる。シーズン終了後に佐々木恭介が監督を辞任し、2000年(平成12年)は近鉄最後の監督となる梨田昌孝が就任するが、チームは2年連続最下位に終わる。

2001年(平成13年)は圧倒的破壊力を誇るいてまえ打線で4度目のリーグ優勝を達成。3月24日の日本ハムとの開幕戦は一時は5点差をつけられるものの、最後は10-9で逆転勝利する。その後も4月に2試合連続サヨナラ勝ちを収めるなど、この年は逆転勝利が多く、7月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦も9回5点差から8得点を挙げ逆転勝ち、10年ぶりに前半戦を首位で折り返す。9月24日の対西武戦ではタフィ・ローズがシーズンタイ記録となる55本塁打を達成し、試合も9回松坂大輔から中村紀洋がサヨナラ2ランホームランを打って勝利し、優勝マジックを1とした。そして9月26日、大阪ドームでの対オリックス戦で5-2とリードされた9回裏、北川博敏のプロ野球史上初となる代打逆転サヨナラ満塁ホームランでの優勝決定だった。同一監督での前年最下位からの優勝は長嶋茂雄(巨人)に次いで2人目で、パ・リーグでは初。防御率リーグ最下位(4.98)での優勝・2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。しかし日本シリーズではヤクルトに自慢のいてまえ打線を封じ込まれ、1勝4敗でまたしても日本一を逃す。これが近鉄としての最後のリーグ優勝となった。

2002年(平成14年)は西武と優勝争いを繰り広げ、2位で追う展開となる。途中、8年ぶりの10連勝を遂げるが、同時期に首位西武も9連勝し、差がほとんど縮まらず。8月の直接対決で9点差を逆転負けし、西武にマジック点灯。最終的に大差をつけられての2位に終わる。シーズン終了後に中村がFA宣言するが、メジャーリ-グを含めて1ヶ月余りの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留する。大塚晶則はメジャ-リーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、中日に金銭トレードされる。2003年(平成15年)1月に会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。開幕5連勝するものの、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在と中村の負傷もあり、3位に終わる。シーズン終了後、長年主砲として活躍してきたローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。

2004年球団合併

2004年(平成16年) この年が近鉄バファローズとしての最後の年となった。

1月31日、ネーミングライツ問題が発覚するが失敗に終わる(後述)。6月13日、オリックスブルーウェーブと球団合併する方向で準備を進めていることを発表する。8月10日、合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日、オーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日、19日、この問題によるプロ野球選手会のストライキが行われる。9月24日、大阪ドームでの近鉄最終戦(対西武)が行われ、3-2で延長10回サヨナラ勝ちする。9月27日Yahoo! BBスタジアム(現:ほっともっとフィールド神戸)の対オリックス戦が近鉄としての一軍の最後の試合となった(2-7で敗れる)。岩隈久志が開幕から12連勝して最多勝のタイトルを取るなど活躍するが、チームは合併の影響もあり一度も優勝争いに加わることなく開幕から低迷し5位に終わった。この年二軍は前期優勝を果たしており、一軍公式戦終了後の9月30日、藤井寺球場で最後の公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われ、後期優勝の中日に敗れている。

11月8日、オリックスと楽天の間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。

2005年(平成17年)1月15日、御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村のポスティング申請など残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズ解散となる。なお、この後近鉄は合併後の暫定処置として2005年-2007年(平成19年)にオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、2007年のシーズン終了と同時に完全撤退した。

球団愛称

  • 創設時の愛称・パールス(Pearls)は、近鉄沿線の伊勢志摩の特産品である真珠にちなんだものである。
  • パールスに代わる新しい球団愛称を公募したところ、1番多かったのが「猛牛」と呼ばれた新監督・千葉茂にちなんだバッファローズだった。ところが当時の球団幹部が「『バッファローズ』では表記が長すぎる」と言ったため、2文字減らしてバファロー(Buffalo)になった。千葉辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由でバファローズ(Buffaloes)となった。

シンボルマーク・マスコット

ファイル:Falulu Capelot.jpg
ファルルとカペロ(2000年撮影)
  • 球団のシンボルマーク「猛牛マーク」(球団広報物では「ツノマーク」と表記)は千葉茂が監督に就任した1959年(昭和34年)に、「バファロー」の新チーム名称に合わせて千葉の親友だった岡本太郎がデザイン。千葉の述懐に依ると銀座のバーで、デザイン料10万円で依頼したと言う。以降球団が解散する2004年(平成16年)まで、球団旗やユニフォームなどで使われ続けた。日本一に輝いた時に姿を公開することとなっていた「猛牛マーク」を横から見たような「サブマーク」が有ったが、公開されず球団と共に消えた。しかし、2008年(平成20年)頃にその幻のマークの原画が発見され、2010年(平成22年)に岡本太郎記念館で公開された。従来の猛牛マークが牛の顔をのみであるのに対してこちらは牛の全身を横から捉えた図で岡本曰く「ふとっちょの猛牛が目をむいて突っ込んでる愉快なやつ」[11]西武グループ系のようにグループのバスタクシーなどに猛牛マークを入れる例は少なく、運送会社である近鉄物流(現:近物レックス)の車両や伝票に見られた程度であった。近鉄物流も球団解散の直前にグループを離れ、同社のトラックに猛牛マークは残っていたが、現在はKBRに変更されている。
  • 大阪ドーム移転前(1976年(昭和51年)~1996年(平成8年))のマスコットはユニフォームを着た少年「バッファくん」」(近鉄の野球帽・ユニフォームを着用、バットとグラブを持ち片足を上げた少年(顔のみのペットマークもあり)。スパイクはアシックス)がペットマークとして登場。初期のデザインではバットを握った右手の指本数が1本足りなかったが、後に改作された。着ぐるみも作られ、ファン感謝デーなどでも登場していた。このマスコットに似ているということで、中村紀洋の愛称になったこともある。2011年(平成23年)8月に開催されたオリックス・バファローズの「LEGEND OF Bs2011~蘇る黄金の70's~」でスタメン発表時にバッファくんのイラストが使われた。なお、バッファくん登場前には鼻息をふかして突進する姿の猛牛のマスコットを使っており( - 1975年(昭和50年))、1975年(昭和50年)後期優勝の近鉄電車の記念乗車券券面には西本幸雄監督の顔と伴に印刷されている。
  • 球団マスコットがモチーフ。大阪ドームへの本拠地移転後、以下のキャラクターが登場。キャラクターデザインはアニメトムとジェリー」などを手掛けたアメリカハンナ・バーベラ・プロダクションによるものである。なお、バフィリードだけは公募に依り命名された。
  • キャラクター着ぐるみ作成及び担当は明石家まんま朝おき太等を手がけた株式会社リップ
    • バフィリード(バフィ) - 背番号100、主人公。
    • ファルルリーナ(ファルル) - 背番号200、女の子のキャラクター。2000年(平成12年)以降ユニフォーム姿(ワンピースにベルト)に変更。
    • 他にバルバロック(バル)(男性)とカペロット(カペロ)(子ども)の2人がいたが、いずれも2000年シーズンをもって登場が打ち切られた。
    • 球団合併により、各キャラクターも引退したが、バフィリードだけはオリックス本社に商標権が譲渡された。他キャラに就いては近鉄本社が更新期限まで所有する状態となっている。

ユニフォームの変遷

  • 1950年(昭和25年)~1952年(昭和27年) 球団創設期はホーム用が胸に「Pearls」が入ったもの、ビジター用は水色を基調としたユニフォームで胸にゴシック体で「KINTETU」のロゴが入った(1952年限り)。ゴシック体の「KINTETU」は1957年(昭和32年)まで使用される。
  • 1953年(昭和28年) 左胸に「Pearls」と書かれた、サンフランシスコ・シールズを参考にしたユニフォームが登場。同時に縦縞となり、球団名がバファローとなった1959年(昭和34年)まで使用。
  • 1954年(昭和29年)~1958年(昭和33年) 左胸に「P」1文字の、フィラデルフィア・フィリーズを参考にしたデザイン。1958年には帽子のツバ、アンダーシャツ、ストッキングが赤くなる(途中から従来の物も使用)。1958年からビジター用ロゴが飾り文字に変更。
  • 1959年 千葉監督就任と同時に球団名をバファローに変更。ホーム用は黒の帽子・アンダーシャツ・縦じま・袖ラインが採用され、赤い「Buffalo」の胸マークが入ったデザインに変更された。ビジター用は背番号の書体を変更。帽子の前面には、金糸で猛牛マークが入った。
  • 1960年(昭和35年)~1961年(昭和36年) 縦縞を廃止。チームカラーを黒と黄色に変更。ビジター用の左袖が近鉄の社章から猛牛マークに変更される。
  • 1962年(昭和37年)~1965年(昭和40年) 球団名がバファローズとなり、胸ロゴが「BUFFALOES」に変更。袖番号が付けられる。1965年からラインを黒に変更し、番号が胸に移動。
  • 1966年(昭和41年)~1973年(昭和48年) ロサンゼルス・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。同時にロゴも筆記体の「Buffaloes」に変更(藤井寺時代最後の1996年(平成8年)まで)。
    • 1968年(昭和43年)より、三原脩監督就任時より、ホーム用の背番号、胸番号の角が取れ、丸型となる。
    • 1969年(昭和44年)~1971年(昭和46年) ヘルメットが紺地に猛牛マークが入ったものになる。
    • 1972年(昭和47年)より、帽子のツバがオレンジ色となる。
    • 1973年(昭和48年)後期より、ラインが入るなどのマイナーチェンジが繰り返された。
  • 1974年(昭和49年)~1996年(平成8年) 西本幸雄監督就任時より、ニット式のベルトレスユニフォームが登場。袖部分のラグランスリーブが赤となり、首と袖に白線が入り、丸首プルオーバースタイルとなる。左袖には、炎と猛牛を組み合わせたマークが入る。ユニフォームデザインはアトランタ・ブレーブスのものを参考にしている。
    • 帽子・ヘルメットは、最初紺色地に赤の「B」マーク(ボストン・レッドソックスと同じ書体)・赤ツバの入ったものを採用。その後、紺色地に猛牛マーク(赤色のツノ・紺色の目を白縁でデザイン)・赤ツバの入ったヘルメットが使われるようになる(採用時期不詳)。
    • 1977年(昭和52年)より 左袖のマークが猛牛マークになり、デサント社が開発した快適性、軽量化を図ったメッシュ素材の上着を、野球のユニフォームとしては世界で初めて採用する。
    • 1978年(昭和53年)より 背番号の上に選手名(英字表記)が入り、ベルトレスからベルト式になる。
    • 1978年(昭和53年)後期より、帽子の地色が赤、前面が白、白部分のサイドに紺のラインが入り、紺色の「KINTETSU BUFFALOES」のロゴ(アーチ型)、猛牛マークが入る三色帽に変わる。三色帽はモントリオール・エキスポズが採用していたものを参考にデザイン。
      • 1979年(昭和54年)、1980年(昭和55年)、1989年の3度のリーグ優勝を果たしたゲンのいいユニフォームで、マイナーチェンジを繰り返しながら23年の長きに渡り使われた。
  • 1997年(平成9年)~2004年(平成16年) 大阪ドーム移転を機にフルモデルチェンジ。デザインはコシノヒロコが手掛ける。同時に球団カラーを「バファローズホワイト」、「バファローズオレンジ」、「バファローズネイビー(濃紺)」、「バファローズレッド」の4色と設定。デザインはそれに基づかれた。
    • 帽子・アンダーシャツ・線は濃紺。
    • 1999年(平成11年)より、球団名が大阪近鉄バファローズとなり、ビジター用が「Kintetsu」から「Osaka」に変更。これが近鉄最後のユニフォームとなった。また左袖には50周年記念のバフィーワッペンが入っていた。
      • ビジター用上着のデザインは当初、赤だけだった。[12]しかし、いざユニフォームが完成してみると、当時の佐々木監督や選手たちから「東芝のユニフォームみたい」「プロが着るユニフォームじゃない」などと異論が続出し、選手たちがユニフォーム変更を拒絶しかける事態となり[13]、事態の沈静化を図るため急遽紺が追加された。その後もファン感謝デーでこのユニフォームが初お披露目された際、ファンから「台湾プロ野球(のユニフォーム)だ」などと酷評され、優勝するまではこのユニフォームの評判は良くなかった。
      • ビジター用はユニフォームは金曜日から月曜日は紺、火曜日から木曜日では赤と使い分けられていたが、2000年(平成12年)以降は紺のみとなった(使い分けに関しては当初「ナイトゲームは赤、デーゲームは紺」とされたが、使用頻度の偏りを避けるために上記のようになった)。このため結果的に、「Osaka」ロゴの赤は1999年(平成11年)のみの使用となった。

球団旗の変遷

  • 1949:「近鉄パールス」時代のもの。藍色地にパール=真珠を模した白丸を散りばめる。左上には、真珠貝を模した白丸の上に「KP」の組文字。
  • 1950~1958:KPを真珠貝ではなく、円が囲む形となった。
  • 1959~1981:球団ニックネームがバファローとなり、岡本太郎氏デザインの猛牛マークが登場。緑地に赤で猛牛マーク。
  • 1982~1996:ユニフォームのカラーリングにあわせて、球団旗も赤・青・白のトリコロール・カラーとなる。赤地に白の猛牛マーク、その下に青地に白で「Buffaloes」。
  • 1997~2004:本拠地の大阪ドーム移転を機に、球団旗もリニューアル。藍色と赤を波型で分け、中央に白の猛牛マーク、左上には赤字で「Buffaloes」。

チームの特徴

  • 1990年代以前は外様監督が多く、仰木彬以前の生え抜き監督はプロ経験のない藤田省三芥田武夫を除くと、加藤久幸と小玉明利の2人しかいなかった。仰木以降は鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝と生え抜き監督が続いたが、球団消滅により梨田が近鉄最後の監督となった。監督は「基本的に若手中心で」(補強はしない)というのを毎年命じられていた。
  • 打線は「いてまえ打線」(大阪弁。共通語で「やってしまえ」の意)と呼ばれ、特にリーグ優勝した2001年にはチーム防御率4.98とリーグ最下位ながらチーム打率.280、チーム本塁打数211と他チームを圧倒し優勝をさらった。この年は3番のタフィ・ローズと4番の中村紀洋だけで101本、3~7番では実に165本もの本塁打を叩き出し話題となった。ローズが本塁打王(55本)、中村が打点王(132打点)、主に5番に入ることが多かった礒部公一は得点圏打率1位(.417)の成績を残している。この年阪神監督の野村克也が自チームの貧打線に対し「(バックに)いてまえ打線があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝している」というコメントを残したのも有名。1980年(昭和55年)には前述のようにシーズン239本塁打の日本記録を打ち出すなど、本塁打の魅力をどこよりも認識させた球団だった。詳細は、いてまえ打線を参照。
  • 野茂英雄吉井理人大塚晶則、中村紀洋、岩隈久志など、多くの大リーガーを輩出している。
  • リーグ優勝する年は、必ずと言って良いほど助っ人外国人選手が本塁打を量産する傾向がある。実際に、球団設立から消滅までの55年でリーグ優勝は4回あるが、この間にチャーリー・マニエル1979年(昭和54年)に37本、1980年(昭和55年)に48本)、ラルフ・ブライアント(1989年に49本)、ローズ(2001年(平成13年)に55本)がそれぞれ、本塁打王を獲得している。
  • 1970年(昭和45年)前後に日生球場のナイター使用がプロ野球機構で問題になり、近鉄沿線の三重県愛知県へのフランチャイズ移転も検討されたが、愛知県は中日ドラゴンズの保護地域であるため許可を得られず断念した(但し名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年(平成11年)まで行われていた。これは近鉄の営業圏内であった事と、中京にパ球団を持たないリーグ事情も勘案されていた)。1973年(昭和48年)に藤井寺球場のナイター工事が着手されたが、地元の反対で完成は11年後の1984年(昭和59年)にずれこんだ。
  • 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。
  • 2004年(平成16年)9月、北海道で行われた世界ラリー選手権(WRC)、ラリージャパンに「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦したが、リタイヤした。当時の監督の梨田がプジョーを愛車としていたことが縁だった。
  • 最下位になったことが非常に多いチームであり、1950年(昭和25年)の2リーグ分立以降では19回。2010年(平成22年)に横浜ベイスターズが最下位20回を更新するまでは消滅したチームも含めて両リーグワーストだった。
  • シーズン90敗以上を5シーズンで記録している。2010年(平成22年)に横浜ベイスターズが6シーズンで90敗以上を更新するまでワースト記録だった。
  • 近鉄在籍経験選手による日本シリーズのMVP獲得は、近鉄が日本一を経験しなかったので、長い間輩出されなかったが、2007年の日本シリーズで中村紀洋が中日で初めて達成した。
  • プロ野球に理解のないフロントの体質に関して不満を持つ選手も多かった。野茂は先発日に藤井寺球場の駐車場に車を止めたところ、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求されたり、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」(理由については野茂の項を参照)と言われたこともある。佐々木は入団後初めてグランドに集まった際、フロントの訓示で「お前達野球クラブの選手は」と言われ、頭に血が上ったと述懐している。「ドン・マネー事件」での外国人選手に対する待遇のみならず、監督に三原が就任する以前、近鉄選手の移動は列車では当時の二等車(後の普通車)のみ(西鉄ライオンズ等は一等車、後のグリーン車を既に利用していた)だったことからも、選手に対する待遇の悪さは伝統的なことであったといえる。金村義明も著書「在日魂」の中で1989年のパリーグ優勝旅行はハワイ4泊6日の旅だったが、飛行機は往復ともエコノミークラス(金村は球団側に「ビジネスクラスにして欲しい」と要望していたが、球団側が「ビジネスクラスは満員でチケットが取れない」と拒否、しかし当日金村らが搭乗した便のビジネスクラスはガラガラだったらしい)であったり、選手の子どもの飛行機代は選手の自腹だったらしい。後年金村は西武でも優勝旅行を経験したが、近鉄と西武の優勝旅行は同じハワイでも雲泥の差だったとしている。

応援スタイル

  • 打者に対する基本的な応援コールは「かっとばせー、○○(選手名)!××(対戦相手チーム)倒せー、オー!」だった。このスタイルは1980年代までは近鉄のみならず大半のチームで採り入れられていたが、1990年代以降は年々少なくなっていき、遂には近鉄でしか使われなくなった。一方で、近鉄は球団解散時までこのスタイルを通した(ちなみに、現在この応援コールを使っているのは中日ドラゴンズ福岡ソフトバンクホークスで、共に読売ジャイアンツ主催試合のみである)。
  • 球団解散時には「暴れん坊将軍」のオープニングテーマを原曲とするI(1995年(平成7年)~)、タオルマフラーを持って踊るII(2000年(平成12年)~)、2種類の歌詞があるIII(2001年~)、ビハインドの場面で使われるIV(2002年(平成14年)~)、ビッグイニングの時に使われるV(2003年(平成15年)~)と5種類のチャンステーマが存在。III以降は「踊る牛」「笑う牛」(以上III)「紅の丑」(IV)「パニ牛」(V)とタイトルもついていた(代打のテーマにも「働く牛」というタイトルがついている)。IIはオリックスファンからも「ぜひ残して欲しい」という声が多かったため、球団合併後も引き続き使われており、「紅の丑」と合わせて高校野球の応援歌として耳にすることもある。

球団名変遷と年度別成績

※銀地はリーグ優勝、順位の欄は左の数字が順位、右の数字はリーグ所属球団数。

年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 打率 防御率 本塁打
近鉄パールス
1950年 藤田省三 7/7 120 44 72 4 .379 37.5 .242 3.85 86
1951年 藤田省三 7/7 98 37 56 5 .398 33.5 .223 3.13 37
1952年 藤田省三
芥田武夫(注1)
7/7 108 30 78 0 .278 40.0 .243 4.06 37
1953年 芥田武夫 7/7 120 48 69 3 .410 22.0 .246 2.93 31
1954年 芥田武夫 4/8 140 74 63 3 .540 16.0 .247 2.66 23
1955年 芥田武夫 5/8 142 60 80 2 .429 39.0 .252 3.45 35
1956年 芥田武夫 5/8 154 68 82 4 .455(注2) 29.5 .226 3.17 48
1957年 芥田武夫
加藤春雄(注3)
6/7 132 44 82 6 .356(注2) 38.5 .225 3.22 35
1958年 加藤久幸(注4) 6/6 130 29 97 4 .238(注2) 49.5 .215 4.04 41
近鉄バファロー
1959年 千葉茂
林義一(注5)
6/6 133 39 91 3 .300 49.0 .229 3.68 48
1960年 千葉茂 6/6 131 43 87 1 .331 39.0 .236 3.61 69
1961年 千葉茂 6/6 140 36 103 1 .261(注2) 51.5 .229 3.96 68
近鉄バファローズ
1962年 別当薫 6/6 131 57 73 1 .438 21.0 .252 3.40 70
1963年 別当薫 4/6 150 74 73 3 .503 12.5 .256 3.44 98
1964年 別当薫 6/6 150 55 91 4 .377 28.5 .254 3.63 112
1965年 岩本義行 6/6 140 46 92 2 .333 42.5 .235 3.61 91
1966年 岩本義行 6/6 133 48 82 3 .369 31.0 .228 3.60 100
1967年 小玉明利 6/6 132 59 71 2 .454 16.0 .251 3.83 104
1968年 三原脩 4/6 135 57 73 5 .438 23.0 .234 3.28 84
1969年 三原脩 2/6 130 73 51 6 .589 2.0 .243 2.78 118
1970年 三原脩 3/6 130 65 59 6 .524 13.5 .233 2.98 108
1971年 岩本堯 3/6 130 65 60 5 .520 18.0 .241 3.21 151
1972年 岩本堯 2/6 130 64 60 6 .516 14.0 .248 3.07 123
1973年 岩本堯
島田光二(注6)
6/6 130 42 83 5 .336 6・6(注7) .237 3.83 113
1974年 西本幸雄 5/6 130 56 66 8 .459 5・4(注7) .230 3.63 131
1975年 西本幸雄 2/6(注8) 130 71 50 9 .587 3・1(注7) .246 3.09 115
1976年 西本幸雄 4/6 130 57 66 7 .463 5・4(注7) .245 3.04 102
1977年 西本幸雄 4/6 130 59 61 10 .492 3・6(注7) .245 3.31 92
1978年 西本幸雄 2/6 130 71 46 13 .607 2・2(注7) .266 3.21 115
1979年 西本幸雄 1/6(注8) 130 74 45 11 .622 1・2(注7) .285 3.70 195
1980年 西本幸雄 1/6(注8) 130 68 54 8 .557 2・1(注7) .290 4.96 239
1981年 西本幸雄 6/6 130 54 72 4 .429 6・4(注7) .253 4.10 149
1982年 関口清治 3/6 130 63 57 10 .525 3・2(注7) .258 4.11 151
1983年 関口清治 4/6 130 52 65 13 .444 29.5 .262 4.49 134
1984年 岡本伊三美 4/6 130 58 61 11 .487 16.5 .257 4.36 174
1985年 岡本伊三美 3/6 130 63 60 7 .512 15.5 .272 5.10 212
1986年 岡本伊三美 2/6 130 66 52 12 .559 2.5 .271 4.34 183
1987年 岡本伊三美 6/6 130 52 69 9 .430 21.5 .270 4.22 135
1988年 仰木彬 2/6 130 74 52 4 .587 0.0 .253 3.23 154
1989年 仰木彬 1/6 130 71 54 5 .568 0.0(注9) .261 3.86 157
1990年 仰木彬 3/6 130 67 60 3 .528 14.5 .275 4.34 181
1991年 仰木彬 2/6 130 77 48 5 .616 4.5 .265 3.46 157
1992年 仰木彬 2/6 130 74 50 6 .597 4.5 .247 3.69 155
1993年 鈴木啓示 4/6 130 66 59 5 .528 7.0 .258 3.62 145
1994年 鈴木啓示 2/6 130 68 59 3 .535 7.5 .274 4.24 169
1995年 鈴木啓示
水谷実雄(注10)
6/6 130 49 78 3 .386 32.0 .234 3.97 105
1996年 佐々木恭介 4/6 130 62 67 1 .481 14.5 .255 4.01 146
1997年 佐々木恭介 3/6 135 68 63 4 .519 7.5 .274 3.79 112
1998年 佐々木恭介 5/6 135 66 67 2 .496 5.0 .267 4.28 126
大阪近鉄バファローズ
1999年 佐々木恭介 6/6 135 54 77 4 .412 23.5 .257 4.54 151
2000年 梨田昌孝 6/6 135 58 75 2 .436 15.0 .262 4.66 125
2001年 梨田昌孝 1/6 140 78 60 2 .565 2.5(注9) .280 4.98 211
2002年 梨田昌孝
真弓明信(注11)
2/6 140 73 65 2 .529 16.5 .258 3.93 177
2003年 梨田昌孝 3/6 140 74 64 2 .536 8.5 .274 4.30 187
2004年 梨田昌孝 5/6 133 61 70 2 .466 17.0(注12) .269 4.46 121
年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 打率 防御率 本塁打
1950年から2004年までの順位のグラフ
  • 注1 開幕から9月16日まで藤田、9月24日から閉幕まで芥田
  • 注2 引分は0.5勝0.5敗で計算
  • 注3 開幕から6月20日まで芥田、6月22日から閉幕まで加藤(代行)
  • 注4 加藤春雄から改名
  • 注5 開幕から6月18日まで千葉、6月20日から閉幕まで林(代行)
  • 注6 開幕から9月26日まで岩本、9月28日から閉幕まで島田(代行)
  • 注7 前後期制のため、前期順位・後期順位の順で表示
  • 注8 ポストシーズン成績を参照
  • 注9 2位とのゲーム差
  • 注10 開幕から8月8日まで鈴木、8月9日から閉幕まで水谷(代行)
  • 注11 開幕から8月14日まで・8月17日から閉幕まで梨田、8月16日のみ真弓(代行)
  • 注12 レギュラーシーズン1位とのゲーム差

ポストシーズン成績

年度 試合名 成績 対戦相手
1975年 プレーオフ ○●●● 阪急
1979年 プレーオフ ○○○ 阪急
日本シリーズ ○○●●●○● 広島
1980年 プレーオフ ○○○ ロッテ
日本シリーズ ○○●●○●● 広島
1989年 日本シリーズ ○○○●●●● 巨人
2001年 日本シリーズ ●○●●● ヤクルト

タイトルホルダー

最優秀選手

最優秀新人

首位打者

本塁打王

打点王

盗塁王

最多安打

タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。 タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。

  • 土井正博(1964、1967)
  • 永淵洋三(1969)
  • 新井宏昌(1987)
  • ジム・トレーバー(1990)
  • 石井浩郎(1993)

最高出塁率

最多勝利打点

1981年(昭和56年)制定、1989年から廃止

最多勝利

最優秀防御率

  • 久保征弘(1963)
  • 清俊彦(1972)
  • 鈴木啓示(1978)
  • 山口哲治(1979)
  • 野茂英雄(1990)
  • 赤堀元之(1992)

最多奪三振

タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。

  • 阿波野秀幸(1989)
  • 野茂英雄(1990-1993)
  • ジェレミー・パウエル(2002)

タイトル制定以前の該当者は以下の通り。

  • 鈴木啓示(1967-1972、1974、1978)
  • 阿波野秀幸(1987)

最優秀勝率

2001年(平成13年)で廃止され、翌年からは最優秀投手となった。

最優秀投手

  • ジェレミー・パウエル(2002)
  • 岩隈久志(2004)

最優秀救援投手

※1974年に最多セーブとして制定、1977年(昭和52年)よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年(平成17年)より最多セーブ投手に。

なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年(昭和49年)以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。

  • 鈴木康二朗(1984-1985)
  • 石本貴昭(1986)
  • 赤堀元之(1992-1994)
  • 大塚晶文(1998)

沢村賞

  • 野茂英雄(1990)

正力松太郎賞

完全試合

ノーヒットノーラン

ベストナイン

  • 小玉明利三塁手:1960、1962-1965)
  • ジャック・ブルーム(二塁手:1962-1963)
  • 高木喬一塁手:1965)
  • 土井正博(外野手:1967-1968)
  • 鈴木啓示(投手:1969、1975、1978)
  • 永淵洋三(外野手:1969)
  • クラレンス・ジョーンズ(一塁手:1974)
  • 佐々木恭介(外野手:1975、1978)
  • 石渡茂遊撃手:1977、1979)
  • 梨田昌孝捕手:1979-1981)
  • 栗橋茂(外野手:1979-1980、1982)
  • チャーリー・マニエル(指名打者:1979-1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1983-1984、1990)
  • リチャード・デービス(一塁手:1985)
  • 新井宏昌(外野手:1986-1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • 山下和彦(捕手:1989)
  • ラルフ・ブライアント(外野手:1989、指名打者:1993-1994)
  • 野茂英雄(投手:1990)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 石井浩郎(一塁手:1993-1994)
  • 中村紀洋(三塁手:1996、1999-2002)
  • フィル・クラーク(一塁手:1997-1998、指名打者:1999)
  • タフィ・ローズ(外野手:1997、1999、2001-2003)
  • 大村直之(外野手:1998)
  • 礒部公一(外野手:2001)
  • ジェレミー・パウエル(投手:2002)
  • 岩隈久志(投手:2004)

ゴールデングラブ賞

1972年(昭和47年) - 1985年(昭和60年)はダイヤモンドグラブ賞

  • 有田修三(捕手:1975-1976)
  • 梨田昌孝(捕手:1979-1981、1983)
  • 平野光泰(外野手:1979-1980)
  • 小川亨(一塁手:1980)
  • 羽田耕一(三塁手:1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1982-1984)
  • 新井宏昌(外野手:1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 大村直之(外野手:1998、2003)
  • 中村紀洋(三塁手:1999-2002、2004)

サイクル安打

その他のチーム記録

  • 初試合 1950年(昭和25年)3月12日・藤井寺球場(対毎日、2-6)
  • 初勝利 1950年(昭和25年)3月13日・藤井寺球場(対南海、4-3)
  • リーグ優勝 4回(1979年 - 1980年、1989年、2001年)
  • 日本一 0回
  • Aクラス 22回(1954年、1969年 - 1972年、1975年、1978年 - 1980年、1982年、1985年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1997年、2001年 - 2003年)
  • Bクラス 33回(1950年 - 1953年、1955年 - 1968年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年、1981年、1983年 - 1984年、1987年、1993年、1995年 - 1996年、1998年 - 2000年、2004年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 5年(1988年 - 1992年)
  • 連続Bクラス最長記録 14年(1955年 - 1968年)
  • シーズン最多勝利 78(2001年)
  • シーズン最少敗戦 45(1979年)
  • シーズン最高勝率 .622(1979年)
  • シーズン最少勝利 29(1958年)
  • シーズン最多敗戦 103(1961年)
  • シーズン最低勝率 .238(1958年、当時は引き分けを0.5勝0.5敗で計算していたため、現在の勝率に換算すると.230)
  • シーズン最高打率 .290(1980年)
  • シーズン最多得点 791(1980年)
  • シーズン最多安打 1332(2001年)
  • シーズン最多二塁打 249(2002年)
  • シーズン最多三塁打 40(1953年、1954年)
  • シーズン最多本塁打 239(1980年、当時日本新記録。現在はパ・リーグ記録)
  • シーズン最多四球 581(2001年、日本記録)
  • シーズン最多四死球 644(2001年、日本記録)
  • シーズン最多盗塁 223(1954年)
  • シーズン最多犠飛 52(1978年、日本記録)
  • シーズン最高防御率 2.66(1954年)
  • シーズン最低防御率 5.10(1985年)
  • シーズン本塁打数200本以上3回(日本記録。1980年、1985年、2001年)
  • 最大連勝 13(1994年(平成6年)7月26日・対ロッテ~8月10日・対ロッテ)
  • 最大連敗 13(1952年(昭和27年)5月25日・対毎日第1試合~6月15日・対西鉄第1試合)
  • 1試合最多得点 21(1980年6月30日・対ロッテ第1試合、2000年9月5日・対オリックス)
  • 1試合最多失点 25(1985年9月18日・対南海)
  • 1試合最多安打 26(2003年8月18日・対日本ハム)
  • 1試合最多二塁打 8(1963年6月19日・対東映、1963年10月3日・対阪急)
  • 1試合最多三塁打 3(1984年5月24日・対南海 他4度)
  • 1試合最多本塁打 8(2003年7月12日・対日本ハム)
  • 1試合最多犠打 7(1987年・対南海、日本記録)
  • 1試合最多盗塁 9(1954年7月27日・対毎日)

歴代オーナー

歴代監督名は「球団名変遷と年度別成績」の項目を参照。

歴代本拠地

  • 1950年 藤井寺球場
  • 1950年 - 1957年 大阪球場
    • 1950年9月より使用
  • 1958年 - 1983年 日本生命球場
    • 収容人員が日本野球機構主催によるオールスターや日本シリーズを開催する時の最低下限である3万人よりも少なかったので、近鉄主管で行われる場合(1979、80年のプレーオフも)大阪球場を使った他、オールスターについては近鉄が主管となる順番となった回は南海ホークスに開催権を譲渡していた。但し、1975年のプレーオフは藤井寺で開催しており、仮に日本シリーズ出場が決まった場合も藤井寺を使う予定だった。
  • 1984年 - 1996年 藤井寺球場
    • 形式上は藤井寺、日生のダブルフランチャイズだったが(専用球場の届出もこの2ヶ所で登録された)、1983年までは日生をメインに日曜・祝日などのデーゲーム時に藤井寺を使用。1984年以後は藤井寺をメインに年10-20試合程度を日生で開催した。1997年にメインを大阪ドームに移した後も1999年までは藤井寺とのダブルフランチャイズで登録された。なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。
    • また、1989年と1990年度は大阪球場で10試合前後の主催ゲームがあった。
  • 1997年-2004年 大阪ドーム

永久欠番

#1 鈴木啓示

2004年(平成16年)当時はパ・リーグ唯一の永久欠番だったが、吸収合併先のオリックスでは当時1番をつけていた後藤光尊が引き続き着用を希望したため、引き継がれず消滅(オリックス側は念のため鈴木本人に確認したが、「自分の永久欠番はあくまで近鉄での記録によるもの」とし、後藤の継続着用を承諾)。

また、近鉄として最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような名言が残されている。

「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

主な歴代球団歌

  • 大阪近鉄バファローズの歌(旧題:近鉄バファローズの歌)(作詞:竹中郁、作曲:米山正夫、歌:クールボナール)
  • 炎えろ!近鉄バファローズ(作詞:西沢爽、作曲:城賀イサム)
    • 上記2曲はCD「大阪近鉄バファローズオフィシャル球団歌・応援歌」では高橋元太郎が歌っている。「近鉄バファローズの歌」のクールボナールが歌うバージョンでは、キダ・タローが編曲を担当している。
  • ドリーム&パワー(作詞・作曲:岡田誠司、歌:イエスマン・ブギー・バンド フィーチャリング JUN)
  • RED de HUSTLE(作詞:キユサマ☆ワカルフ、作曲:パパ・ダイスケ、歌:大西ユカリと新世界

エピソード

ミケンズ・ルール

1960年(昭和35年)5月24日駒澤野球場での対東映フライヤーズ戦。6-0と近鉄リードで迎えた9回裏の東映の攻撃で、近鉄先発のグレン・ミケンズは1アウトから毒島章一を四球で出塁させる。続く吉田勝豊は一塁ゴロに打ち取ったものの、これを一塁手が悪送球したために一・三塁となる。張本勲の二塁ゴロで吉田を二塁で封殺する間に毒島が生還。完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。試合はこのまま近鉄が6-3で逃げ切り、ミケンズには自責点2が記録された。しかしこれに納得のいかないミケンズは翌日の同カードの試合前、ネット裏記録席にパ・リーグ記録部長の山内以九士を訪ね、「吉田の一塁ゴロが失策でなければこれで2アウト、張本の二塁ゴロで3アウトとなるから、以降の失点は投手の責任ではない。したがって私の自責点は0だ」と抗議したが、山内は「記録は規則どおりで、君の主張は自己流に解釈したものだ」とミケンズの主張を却下した。当時の野球規則10.18(a)には「自責点は安打、犠打、犠飛、盗塁、刺殺、野選、四死球、ボーク、暴投によりプレーヤーが本塁に達するたびごとに記録される。ただし守備側と攻撃側と入れ替わる機会を逸したあとはこの限りではない」と明記されており、後半(太字)部分は「2死後、第3アウトとなるはずの走者が失策で生きた場合(例えば三振-三振-遊ゴロ失)、以降の失点は自責点とならない」と解釈されていた。この解釈だと「山本が失策で出塁した場合に、失点がミケンズの責任ではなくなる」となるのだが、山内が原文やメジャーリーグの実例を調査していくうちに実はこの解釈が誤りで、「アウトカウントにかかわらず、失策がなければ当然アウトとなるはずの走者が生きた場合(例えば三振-遊ゴロ失-三振と順序が変わっても)はそれぞれ1アウトと仮定して計算、仮定の3アウト目以降の失点は自責点とならない」とするのが正しいことが分かった。これだとミケンズの主張どおり、自責点は0となる。当時ミケンズは球団側と防御率による出来高契約を結んでいたため、このような規則には相当詳しかったといわれる。この解釈の変更は翌1961年(昭和36年)から行われた。

巨人はロッテより弱い

ネーミングライツ問題

2004年(平成16年)のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年(平成17年)以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案だったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。

ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季 - 1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)<中村長芳オーナー率いる福岡野球が経営母体>、ロッテオリオンズ(1969年 - 1970年に前出の中村がオーナーだった。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融アコムだったため、青少年への影響面から認められなかった理由の1つに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。

過去の合併計画

2004年(平成16年)にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。
1965年(昭和40年)オフには当時のオーナー・佐伯勇広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では

  1. 近鉄と広島が合併
  2. 本拠地を広島県広島市に置き、セ・リーグ所属とする
  3. 球団事務所・フロントや首脳陣は両オーナー相談の上で決定し、新しい首脳陣が選手50人を人選
  4. 資本は近鉄・広島で半々
  5. 球団愛称は公募する

と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年(昭和27年)以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。

幻の移転計画

本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。

  • 1960年代には近鉄の東端である名古屋への移転を計画したが、愛知県を保護地域としている中日ドラゴンズの反対で実現しなかった。ナゴヤ球場及びナゴヤドームでは1990年代後半まで、年数試合の主催試合を開催していた。
  • 1970年代に西本幸雄佐伯勇オーナーに、近鉄沿線の花園ラグビー場周辺を整備して野球場を建設し、本拠地を移転することを進言したところ、「(お金が)幾らかかると思っているんだ」と返されたという。
  • 1980年代初頭の藤井寺ナイター問題時には、東大阪市が受け入れに名乗りを上げたことが新聞報道されたが、藤井寺のナイター設備設置計画がまとまったことで立ち消えとなった。

また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年(昭和54年)頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している[18]

参考文献

  • ベースボール・マガジン社刊 週刊ベースボール別冊冬季号「さらば大阪近鉄バファローズ」
  • 日刊スポ-ツ出版社 「サヨナラ近鉄バファロ-ズ」

脚注

  1. ^ 二軍も、ウエスタン・リーグを1度制覇するもファーム日本一は達成できなかった。
  2. ^ 2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる(鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』恒文社、1984年、P308)。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。
  3. ^ 最下位は大映で、この年のオフに毎日と合併している。
  4. ^ 仰木就任以前の近鉄は西武に対しては西武創立の1979年(昭和54年)に勝ち越して以降、1988年(昭和63年)に勝ち越すまで86年の5分以外、すべて負け越しているなど相性は良くなかった。
  5. ^ 当時は試合時間が4時間を越えると新しいイニングに入らないというルールがあった。
  6. ^ また、この日は後に近鉄と球団合併することになるオリエント・リース(現:オリックス)が阪急を買収することを発表した日でもあった。
  7. ^ オリックスが負けて、西武の2連勝で西武の優勝
  8. ^ 1979、80年はナイター設備が未整備で、大阪球場での開催となっている。
  9. ^ 詳しい経緯は「野茂英雄の近鉄退団」を参照
  10. ^ 近鉄電車阪神なんば線への乗り入れで大阪ドームの最寄り駅に来るようになったのは、近鉄球団消滅後の2009年(平成21年)である。
  11. ^ 岡本太郎デザインの幻の猛牛マークを展示 南青山で
  12. ^ これはデザインを担当したコシノが、事前にバファローズのイメージカラーを調査したところ、「赤」という意見が大半を占めたため。
  13. ^ これと前後して週刊ベースボール誌がコシノにインタビューした際、コシノが「あたしが作ったユニフォームなんだから誰が着たって似合うに決まってるわよ」と放言した記事が載り、これが異論の火に油を注ぐ格好となった。
  14. ^ 但し、1999年の最終戦で試合の終盤にトランペットを使用するなど、いくつかの例外もある。
  15. ^ 株式会社大阪近鉄バファローズ 「感動の軌跡 大阪近鉄バファローズ50周年記念誌」
  16. ^ 開場から1975年までの名称は「中日スタヂアム」
  17. ^ 現:わかさスタジアム京都
  18. ^ 青木一三『ダイエー/オリックス球団買収の真相』ブックマン社、1989年、P107 - 108

出典

  1. ^ さらば P52
  2. ^ さらば P49
  3. ^ さらば P50-51
  4. ^ サヨナラ P94

関連項目