エドセル

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エドセル・レンジャー(1958年型)
フロント中央の巨大なグリル開口部に代表される、癖の強いデザインは悪評を買った

エドセルEdsel )はアメリカフォード・モーター1950年代後半に製造・販売していた自動車ブランド名。

概要[編集]

エドセル・コルセア(1959年型)ヘッドライト位置を下げ、中央の馬蹄グリルも含めて水平基調のラインを入れるなど手直しされたが、販売改善には結びつかなかった
1959年型レンジャー・クーペのダッシュボード。自動変速機のシフトはこの時代のアメリカで短期間流行ったボタン操作式だが、ステアリング中央配置というギミックの極致だった

新ブランド[編集]

フォード・モーター社のブランドは、大衆車ブランドのフォード(w:Full-size Ford)と高級車ブランドにあたるリンカーンの間の中級価格帯が大きなギャップとなっていたが、1938年には中級車種としてマーキュリーが新設され、第二次世界大戦後もこのラインナップは維持されていた。だが当初、フォードのデラックスモデルの上位相当であったマーキュリーは、1949年以降はむしろリンカーンに近いアッパーミドルクラスの価格帯を占めるようになっており、新たなギャップが生じつつあった。フォード社副社長のアーネスト・R・ブリーチは、この中級価格帯のギャップを埋めるモデルが必要であると1950年代初期から考えていた。

エドセルはフォードとマーキュリーの間に位置する中級車という位置付けとされ、同様の位置づけのもと好調な販売を続けていたゼネラル・モーターズポンティアックオールズモビルなどに対抗して、フォードの車種の多様化を行うという目的のもとにフォード・モーター内で一から立ち上げられたブランドである。これに伴い、フォード・モーター社内での独立部門(エドセル・ディヴィジョン)立ち上げ、新型車開発、ディーラー網整備などが進められた。

車名[編集]

ブランド名「Edsel」(実際の発音は「エゼル」に近い)は、フォード社創業者ヘンリー・フォードの息子で1919年からフォード社2代目社長を務めたエドセル・フォードにちなむ。

エドセルは社長時代、リンカーンへの様々なテコ入れやマーキュリーブランドの新設などで1930年代フォード社の経営建て直しを進めた功労者で、流麗なパーソナルカー「リンカーン・コンチネンタル」の開発も自ら起案した粋人であったが、病弱だったうえ、第二次大戦中にフォード社が担ったB-24爆撃機工場建設という難事業のストレスも抱え、1943年に病死している。エドセル発売時のフォード社社長ヘンリー・フォード2世は、エドセル・フォードの長男に当たる。

エドセルという車名には、社長のヘンリー2世をはじめ創業家のフォード一族が反対していた。ヘンリー2世は「自分の父親の名前を(大量に生産される自動車の)ハブキャップに付けて回転させたくない」と不快の念を示したという。マーケティング部門や広告代理店も、車名としては決して響きのよくない「エドセル」案には否定的で、一般受けのする代案を多々提示したが、それらはフォードやマーキュリーのグレード名に転用された。「エドセル」案を推進していたのは、ほかならぬ新中級車開発を推進してきたアーネスト・ブリーチらであり、最後にはそれが通ってしまった。

大キャンペーン[編集]

エドセルは、フォードで開発された共通のプラットフォームは使うものの、デザインに変更を加えて別ブランドで売るという、フォードがこれまでに行い一定の成功を収めてきた手法を取り入れ、綿密なマーケティング計画を元にフォードの社運をかけて開発された。

メカニズム自体は、当時の中級以上のアメリカ車で標準的なレイアウトである、前輪独立懸架V型8気筒エンジンにオートマチックトランスミッションを合わせた後輪駆動であるが、インパクトの強いボディデザインと多くの新機構・アクセサリーを備え、市場へのアピールを図った。

当時の最新メディアであるTVを使った大々的な広告キャンペーンとともに1958年モデルとして1957年9月に「ペーサー」、「レンジャー」、「サイティーション」、「コルセア」の4モデルの発売が開始された。

失敗と消滅[編集]

エドセル・レンジャー(1960年型)。フォードやマーキュリーのバッジエンジニアリングによる、販売終了までの場つなぎのモデルであった

しかし1958年型エドセルの実績は惨憺たるものとなった。

年次デザインの過激化が進んでいた当時のアメリカ車の中でも、エドセルのデザインは特に尖鋭的なものであったが、中央に馬蹄形の開口部を持つ奇異なフロントグリルデザインは「(荷役用の)駄馬の首輪」「オールズモビルがレモンを噛んだような顔」「(洋式)便器の便座」、そして甚だしくは「まるで女性器のよう」と揶揄され、酷評を買って、消費者には受け入れられなかった。

またエドセルは大衆車のフォードと同じ工場、同じラインで生産されており、現場の工員たちは製造時間帯によって部品や治具などをフォード用とエドセル用とで交換せねばならなかった。このため技術・意識の両面で品質管理が行き届かないという深刻な問題が生じ、斬新なインテリアや豊富な各種アクセサリーを装備して顧客アピールを図ったにもかかわらず、肝心の製造品質には多くの粗が目立ったと伝えられる。アメリカで広範に読まれた科学雑誌「ポピュラー・メカニクス」1958年5月号でも、エドセルについてボディの溶接不良、パワーステアリングや電装系等のトラブルなどが指摘された。

またエドセルが発表された1957年暮れから1958年にかけての一時的な景気低迷の影響を受け、低価格帯への需要シフトが生じ、エドセルを含む各社の中級価格帯のモデルがこの景気動向を顕著に受けた。なおかつエドセル自体、フォードの上、マーキュリーの下という位置付けにもかかわらず価格設定があいまいで、実際にはマーキュリーの中・下位モデル、フォードの上級モデルと殆ど変わらぬ価格で、差別化に失敗していた。これら販売戦略のまずさに、デザインと品質の問題が重なり、エドセルの販売実績は低迷した。合衆国内とカナダで売れた1958年型エドセルの合計は6万8,000台余りで、期待を大きく下回る結果であった。

1959年型エドセルは、発売後わずか1年しかたっていないにもかかわらず大幅にデザインが変更されたが、グリル中央の馬蹄型モチーフは形を変えつつも維持された。しかし販売は好転せず、1959年型の北米販売実績は4万8,000台足らずに落ちた。

結局1958年型以来のシャーシと馬蹄形グリルを捨て、マーキュリー・フォードのバッジエンジニアリングで急遽用意された1960年型を短期間、わずかに2,846台製造したのを最後に、販売が取りやめられることが発表された。こうして「エドセル」ブランドはわずか3年で消滅した。

エドセルの失策によって生じたフォード社の損失は、1960年当時でも異常な巨額の3億5,000万ドルに達したとされる。

「歴史に残る大失敗」[編集]

上記のように綿密なマーケティングを元に莫大な開発予算と広告予算をかけ、しかもわざわざ創業者の息子の名を採用してまで市場に投入されたものの、販売が全く振るわなかったことから、「エドセル」の名は自動車業界のみならず「マーケティング史上に残る最大の失敗の実例」として語り継がれることとなった。

参考[編集]

関連項目[編集]

1946年に入社後フォード社において経営分析の経営計画の立案に従事。フォード社を立て直した功績者のひとりとされ、1960年には社長となるが、エドセルに関しては失敗であった。
アメリカ空軍の超音速戦闘爆撃機。マクナマラが国防長官時代に計画を推進した。いくつかの異名の中に「フライング・エドセル」というものがある。「エドセル・ブランドと同様のマクナマラの失敗だ」という揶揄である。

外部リンク[編集]