江藤智 (野球)

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江藤 智
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都東大和市
生年月日 (1970-04-15) 1970年4月15日(54歳)
身長
体重
182 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手捕手
プロ入り 1988年 ドラフト5位
初出場 1990年4月7日
最終出場 2009年8月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2010 - 2018)

江藤 智(えとう あきら、1970年4月15日 - )は、東京都東大和市出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・プロ野球コーチ

現役時代は主に広島東洋カープ本塁打王2回・打点王1回を獲得するなど主軸打者として活躍し、読売ジャイアンツ(巨人)・西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズでもプレーした。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

関東高等学校(現:聖徳学園高等学校)では通算61本塁打を記録。2年時に投手から捕手へ転向したが、「東の江藤、西の谷繁」と言われるほどの強打の捕手として名を馳せた。

その長打力を買われ、1988年度ドラフト会議にて広島東洋カープから5位指名を受け、捕手として入団。関東高校の野球部からプロ入りした初の選手となった (前年に練習生として西武ライオンズに入団し、同校出身者として初のプロ野球選手となった日月哲史は陸上部だったため) [1]

指名翌日には契約を済ませ、1988年度指名選手の中では12球団入団第1号となった[1]。当時の背番号は51

広島時代[編集]

1989年(1年目)は一軍未出場に終わるが、二軍ウエスタン・リーグ)ではジュニアオールスターゲームに出場するなど、一定の活躍を見せた。同年オフに背番号が33へ変更される[2][3]

1990年4月に一軍初出場。6月に初めてのスタメン出場を経験したが、このときの守備位置は右翼手だった。その後も右翼手・一塁手として38試合に出場し、5本塁打を打ってアピールした。

1991年、肩を故障したのと打撃を生かすためにこの年から捕手から内野手(主に三塁手)に転向。正捕手に達川光男がいたなどの理由もあった。7番三塁手で初の開幕スタメン出場。初の2桁本塁打(このシーズンチーム最多の11本)を記録(2003年まで13年連続)、打率は開幕当初は好調に推移したが、後半は不調に陥り、2割前半と振るわず、レギュラー定着はならなかった。

1992年山崎隆造山田和利らと三塁手のレギュラーを争った。5月・6月は不調で一歩後退したが、後半になるにつれ打率を急上昇させ、9月はほとんどの試合で4番に抜擢され翌年への期待を抱かせた。

1993年はレギュラーに定着し、開幕の3試合を除いてすべての試合で4番の座を守り抜き、初めて全試合に出場した。この年初めて規定打席に到達すると、前年の倍以上の34本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得、さらに初のベストナインに選ばれた。

1994年は前半に故障で出遅れたが、6月に復帰して以降不動の4番に定着。8月には月間16本塁打の日本タイ記録を残した。打率も、残り1試合を残して.32216で、アロンゾ・パウエルの.32143を抑えて僅差で1位であった。しかし、最終戦では同時に行われていた10.8決戦でパウエルが3打数2安打だったのに対し、江藤はパウエルの動向を見ながら途中出場して2打数0安打だったため、同僚前田智徳にも抜かれて3位に終わった。それでも、自己最高の打率.321を記録した。

1995年は2度目の本塁打王に加え、打点王も獲得したことで二冠王となったが、シーズン終盤に急性虫垂炎で離脱したため、40本塁打には届かなかった。また、自己最多の14盗塁も記録した。OPSはリーグ1位。

1996年はシーズン前半から打撃好調で打率3割をキープし、本塁打も32本に達した。後述の戦線離脱までは開幕から4番打者としてチームで唯一、全イニング出場を続け[4]、同年は中日の山崎武司大豊泰昭や、読売ジャイアンツ(巨人)の松井秀喜とともに本塁打王争い[注 1](およびそれぞれの所属チームのリーグ優勝争い)を繰り広げていたが[5]、打率.314・32本塁打に達していた8月29日の対巨人23回戦(広島市民球場)で、3回表の守備中に仁志敏久が打ったゴロを処理しようとしたところ、不規則にバウンドしたボールを顔面に当てて[6]右目眼窩底を骨折し、戦線離脱[注 2][7]。結果、優勝争いの時期には欠場を強いられ、同年オフ(12月10日)の契約更改では「チームに迷惑をかけたから」との理由から、提示額(1億9,000万円)より300万円を自ら返上する形(前年比2,700万円増額の年俸1億8,700万円)で更改した[8]。しかし同年は初めて最高出塁率ゴールデングラブ賞を獲得し、OPSも2年連続で1位を記録した。また、同年12月6日には挙式している[8]

1997年、出塁率は3割8分と高かったが、打率は.252に終わり、前年まで4年連続で受賞していたベストナインを逃した。

1998年、自己最多の100四死球を記録し、出塁率はこの年も3割8分を超えたが、やはり自己最多となる103三振も記録し、打率は.253となかなか復調せず、終盤は金本知憲に4番を譲る試合もあった。

1999年8月12日の対横浜ベイスターズ戦で1試合10打点のセ・リーグタイ記録をマーク[9]。同年は3割に迫る打率を残した。オフにFA権を行使し、横浜、阪神の他、この年の11月19日には中日も獲得に名乗りを上げる。しかし本人は在京球団希望だったということで[10][11]一時は横浜への移籍が確実視されていたが、同じ三塁手でありFAでオリックス・ブルーウェーブへの移籍が有力視されていた横浜の進藤達哉が急遽残留に至ったことなどから一転し、12月6日に巨人への移籍が決まった。背番号33を当時巨人でつけていた監督の長嶋茂雄から「33番を江藤君に譲り、僕は3番をつけます」として譲り受けている[3]

巨人時代[編集]

2000年、前半戦は不振に悩む高橋由伸に代わり3番打者として活躍、リーグ最多の勝利打点を挙げ(最多勝利打点のタイトル表彰はこの年限りであったため、江藤が最後の受賞者となった)、セ・リーグ優勝と日本一に貢献。特にリーグ優勝を決めた9月24日の中日戦(東京ドーム)では、4点ビハインドで迎えた9回裏に当時の守護神エディ・ギャラードから同点満塁本塁打を放つなど、勝負強さを発揮した。これは2000年巨人の通算200本塁打であった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでもホームランを放っている。同年はシーズンの打率は.256と低調だったが32本塁打、91打点をマークした。

2001年、移籍後2年連続のベストナイン・30本塁打を記録。スラッガーとして結果を残した。

2002年、2割台前半・本塁打18本とレギュラー定着以降最低の成績に終わり、この年から徐々に成績が低迷。

2003年、前年からの不振が続き、二軍イースタン・リーグ)への降格も経験するなど11年ぶりに規定打席に到達しなかった。代打での起用も多くなり、2004年には三塁手である小久保裕紀がダイエーから移籍してきたことで出場機会はさらに減少、スタメン出場は15試合にとどまった。同年は本塁打も4本にとどまり、前年まで13年連続で続いていた2桁本塁打も途切れた。

2005年には、打率も2割を切り、スタメン出場は8試合で完全に代打要員となった。通算350本塁打にあと1本に迫っていたが、7月30日の対中日12回戦で本塁打性の当たりを放ったものの、天井に当たり左翼フライとなり、通算350号本塁打は幻となったため、結局本塁打を1本も打てなかった。同年オフの契約更改では野球協約の限度である40%を超える減俸となった。その直後の2006年1月5日、FAで巨人へ移ってきた豊田清の人的補償として西武ライオンズへの移籍が決定。「FA移籍」と「別の選手のFA移籍に伴う人的補償選手として移籍」の両方を経験したプロ野球史上初の選手となった。

西武時代[編集]

2006年、西武では年齢、キャリア年数ともチーム最高となり、豊富な経験に人柄も手伝い、若い選手の多いチームで貴重な存在感を示した。36歳の誕生日となる4月15日千葉ロッテマリーンズ戦では内竜也から2年越しとなる通算350号本塁打も放った。また7月19日のソフトバンク戦では、主軸のアレックス・カブレラ和田一浩といった主力打者が先発から外れたため5年ぶりに4番に座り(松井秀喜清原和博らの存在もあり、巨人時代は一度も4番を打たなかった)、6回表に佐藤誠からレフトへの二塁打を放ち、通算1500安打を達成した。移籍後は主に代打(対左投手)としての起用が多く、時には指名打者や一塁手として先発出場した。

2007年も代打や指名打者として活躍。西武移籍後初めて三塁の守備につき三塁手として9試合にスタメン起用され、カブレラがエラーを繰り返した際はカブレラが指名打者に回り、江藤が一塁手を守るなど、大ベテランだが守備でも健在ぶりを示した。9月29日の対オリックス・バファローズ22回戦で、プロ野球史上33人目の通算1000打点を達成。「一生懸命振った。迷惑をかけたけど伊東監督、みんなに感謝です」とコメントした。

2008年、前年までと同じく代打の切り札として、また、クレイグ・ブラゼルが故障したときなどは4番一塁手でスタメン起用された。打率は.206と低かったが、20本の安打のうち本塁打が7本と、長打力は発揮した。この年に再度FA権を取得したが、行使せず残留することで合意。日本シリーズ制覇や球団史上初のアジアチャンピオンに貢献した。

2009年、代打での出場が多かったが、打率1割台と不振に陥り、8月6日に二軍へ降格。その後は再度一軍に昇格することなく、10月2日に現役引退を発表、11月4日に任意引退選手として公示された。

引退後[編集]

2009年11月10日に古巣巨人の二軍育成担当コーチに就任し、2010年シーズンを迎えた。

2011年からは一軍打撃コーチを務めていたが、2014年に二軍打撃コーチへ配置転換となった。

2015年10月27日、2016年から巨人の一軍打撃コーチに再び就任することが発表された[12]

2018年からは三軍監督に配置転換されたが、10月22日に2019年シーズンのコーチ契約を結ばないことが発表され、そのまま退団した。

2022年3月21日MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(江藤退団後の2009年より、広島市民球場に代わるカープの本拠地になっている)で開催されたカープのOB戦「Carp Legend Game」に出場[13]。1999年オフにカープをFAで去って以来、久々にカープのユニフォームを着用してプレーした[14][15]。江藤本人は尾関高文(ザ・ギース)の取材に対し、当初は「FAで出ていった自分が出場する資格はない」という理由から参加を辞退するつもりでいたが、周囲の友人から強く出場を勧められたことや、同じくFAでカープを去った金本知憲も参加することを聞いたことから、自身も参加を決意したと述べている[16]

選手としての特徴・人物[編集]

夏場に強い「夏男」として知られ、歴史的猛暑となった1994年8月をはじめ、夏季に月間MVPを複数回獲得している。チームメイトだった前田智徳は、夏の気候が特に厳しい旧広島市民球場のロッカールームで、真夏に体力が落ちてフルーツしか食べられない自分を後目に、江藤がうどんやラーメンを平気で平らげる姿に驚愕したと語っている[17]

安打に比しての本塁打が多く、通算のIsoPは0.236になる。しかし、巨人時代は一度も4番でのスタメン出場はなかった[18]。自身が巨人に在籍していた時期には、清原和博松井秀喜、高橋由伸、ペタジーニ、小久保裕紀などが4番を打っていたためである。

西武時代は精神的支柱として若手選手から慕われ、5歳年上の渡辺久信監督からも「江藤さん」とさん付けで呼ばれていたという[19]

プロ入り以来サヨナラヒットに縁がなく、初めてのサヨナラは巨人時代の2001年8月7日の阪神20回戦で、サヨナラ本塁打に関しては引退まで1本も打てなかった。また、2002年4月11日の対ヤクルト戦(東京ドーム)ではサヨナラエラーを記録したことがある[20]。なお、サヨナラ本塁打「ゼロ」の選手では、通算で最多の本塁打を打っている。

広島時代に対戦した巨人の斎藤雅樹に弱く、本塁打はおろか、対斎藤の初安打は1999年4月15日の巨人3回戦に第3打席にレフト前にヒットを打つまで45打席かかり、ヒットはこの1本だけだった。

体型はどちらかというと筋肉と共に脂肪が付いたアンコ型であった[21]

高校の同級生に漫画家安野モヨコと元バレーボール日本代表の泉川正幸、また2年先輩にMr.Children桜井和寿がいる。

西武入団会見で少年時代にライオンズ友の会(ファンクラブ)に加入していたことを明らかにした。

西武での登場テーマ曲はジョン・レノンの「Power to the people」で、間に「江藤!」という合いの手が入る。

文化放送文化放送ライオンズナイター』では江藤を「微笑みのバズーカ」と称している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1990 広島 38 81 71 11 17 3 2 5 39 10 0 0 1 0 8 0 1 16 2 .239 .325 .549 .874
1991 91 317 260 33 56 9 1 11 100 31 0 4 4 1 46 0 6 87 5 .215 .345 .385 .730
1992 89 317 277 41 80 14 0 16 142 45 2 2 3 2 32 2 3 51 4 .289 .366 .513 .879
1993 131 569 482 88 136 15 1 34 255 82 7 4 0 3 78 1 6 94 9 .282 .387 .529 .916
1994 105 466 390 83 125 21 0 28 230 81 7 1 0 6 69 1 1 81 6 .321 .418 .590 1.008
1995 127 566 462 92 132 30 1 39 281 106 14 5 0 12 90 8 2 93 6 .286 .396 .608 1.004
1996 106 469 388 93 122 19 1 32 239 79 8 3 0 1 73 2 7 68 2 .314 .431 .616 1.047
1997 110 479 393 78 99 12 3 28 201 76 3 0 0 1 81 4 4 92 6 .252 .384 .511 .896
1998 132 580 475 88 120 17 0 28 221 81 7 3 0 5 97 1 3 103 7 .253 .379 .465 .845
1999 121 517 437 82 127 29 3 27 243 79 9 3 0 2 75 2 3 80 5 .291 .397 .556 .953
2000 巨人 127 528 457 84 117 17 1 32 232 91 7 1 4 6 58 0 3 92 4 .256 .340 .508 .847
2001 134 568 485 86 138 21 1 30 251 87 9 7 3 3 73 0 4 72 11 .285 .381 .518 .898
2002 125 471 414 53 100 12 1 18 168 56 5 3 5 2 49 0 1 63 12 .242 .322 .406 .728
2003 105 296 269 30 72 4 1 17 129 43 2 1 1 4 20 0 2 43 3 .268 .319 .480 .798
2004 55 111 97 14 22 4 0 4 38 15 1 0 0 0 13 0 1 25 1 .227 .324 .392 .716
2005 81 111 93 7 16 4 0 0 20 4 0 0 0 2 16 0 0 25 3 .172 .288 .215 .503
2006 西武 52 146 124 15 30 7 0 5 52 19 1 0 0 1 21 0 0 31 2 .242 .349 .419 .769
2007 43 118 109 10 25 5 1 3 41 17 0 0 0 0 8 0 1 28 2 .229 .288 .376 .664
2008 42 111 97 9 20 1 0 7 42 17 0 0 0 1 13 0 0 21 2 .206 .297 .433 .730
2009 20 44 39 4 5 2 0 0 7 1 0 0 1 0 3 0 1 10 0 .128 .209 .179 .389
NPB:20年 1834 6865 5819 1001 1559 246 17 364 2931 1020 82 37 22 52 923 21 49 1175 92 .268 .370 .504 .874
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]



捕手 一塁 三塁 外野


















































1990 広島 2 2 0 0 0 0 1.000 6 16 0 0 3 1.000 - 17 14 0 0 0 1.000
1991 - 24 170 14 1 17 .995 53 37 82 11 7 .915 -
1992 - 19 78 8 2 6 .977 69 43 97 8 6 .946 -
1993 - 50 262 19 4 28 .986 110 72 163 7 13 .971 -
1994 - - 105 82 177 13 19 .938 -
1995 - - 127 94 235 11 24 .968 -
1996 - - 106 63 208 14 23 .951 -
1997 - - 110 82 165 13 13 .950 -
1998 - - 132 100 248 18 23 .950 -
1999 - 24 200 13 2 15 .991 100 83 157 10 13 .960 -
2000 巨人 - 26 57 2 1 0 .983 123 78 180 15 16 .945 -
2001 - 22 43 3 0 2 1.000 133 85 185 15 13 .947 -
2002 - 79 502 31 3 37 .994 73 35 71 6 10 .946 -
2003 - 29 111 8 1 14 .992 67 31 95 6 7 .955 -
2004 - 10 58 3 1 2 .984 15 11 21 0 3 1.000 -
2005 - 33 133 5 1 9 .993 1 0 0 0 0 - -
2006 西武 - 7 48 4 0 4 1.000 - -
2007 - 20 111 9 3 11 .976 9 3 14 0 2 1.000 -
2008 - 24 163 7 0 12 1.000 - -
2009 - 4 35 0 1 1 .972 - -
通算 2 2 0 0 0 0 1.000 383 1987 126 20 161 .991 1342 889 2093 147 192 .953 17 14 0 0 0 1.000

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:6回 (1993年、1995年、1996年、1998年、1999年、2001年) ※2000年も選出されるも出場辞退[22]
  • シーズン12犠飛:1995年 ※セ・リーグタイ記録
  • 1試合10打点:1999年8月12日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)※セ・リーグタイ記録

背番号[編集]

  • 51 (1989年)
  • 33 (1990年 - 2009年)
  • 80 (2010年 - 2017年)
  • 77 (2018年)

登場曲[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 8月22日時点で山崎は33本塁打、大豊・松井はともに32本塁打、江藤は30本塁打[5]
  2. ^ 最終的には松井の所属する巨人がリーグ優勝を果たし、本塁打王は山崎(39本塁打)が大豊・松井(ともに38本塁打)を抑えて獲得した。

出典[編集]

  1. ^ a b https://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=672306&comment_sub_id=0&category_id=1174
  2. ^ 江藤は背番号変更の理由について「球団がホセ・カンセコをイメージした」と述べている。
  3. ^ a b ベースボールマガジン2006年夏季号75ページ
  4. ^ 朝日新聞』1996年8月31日東京朝刊第14版第一運動面29頁「広島いきなり10失点 投手もいない、江藤もいない 横浜12-3広島 横浜スタジアム 21回戦(横浜11勝10敗)」(朝日新聞東京本社
  5. ^ a b 中日新聞』1996年8月22日夕刊三面3頁「セ本塁打王だれ?山崎<33>、大豊<32>、松井<32>、江藤<30> V争い絡み過熱 競り合いに強い『経験者』」(中日新聞社
  6. ^ 『朝日新聞』1996年8月30日東京朝刊第14版第一運動面29頁「江藤(広)が負傷退場」(朝日新聞東京本社)
  7. ^ 『中日新聞』1996年8月31日朝刊第一運動面37頁「江藤は今季絶望 眼窩底骨折」(中日新聞社)
  8. ^ a b 『中日新聞』1996年12月11日朝刊第一運動面22頁「プロ野球契約更新 【広島】江藤が300万円返上」(中日新聞社)
  9. ^ 【8月12日】1999年(平11) ハマスタで1試合3本塁打!江藤、3度目の正直”. スポーツニッポン (2007年8月12日). 2012年9月12日閲覧。
  10. ^ 中日新聞 1999年11月20日付26面「竜 江藤獲得へ名乗り」
  11. ^ 読売新聞 1999年11月20日付25面
  12. ^ 来季の一、二軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月27日)
  13. ^ Carp Legend Game 〜共に立ち上がろう。広島は屈しない〜”. 広島テレビ放送 (2022年3月21日). 2022年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月21日閲覧。
  14. ^ 広島江藤智氏、OB戦で現役時代ほうふつ打撃披露「達川さんがお前やれって」最終回に捕手も」『日刊スポーツ日刊スポーツ新聞社、2022年3月21日。2022年11月21日閲覧。オリジナルの2022年11月21日時点におけるアーカイブ。
  15. ^ 広島レジェンドゲーム 江藤智氏が捕手で出場「やらせてもらって良かったなと」」『東京スポーツ』東京スポーツ新聞社、2022年3月21日。2022年11月21日閲覧。オリジナルの2022年11月21日時点におけるアーカイブ。
  16. ^ ザ・ギース尾関高文「「殺されそうな練習でも、ただただありがたかった」江藤智とカープの記憶」『文春オンライン文藝春秋、2022年4月7日。2022年11月21日閲覧。オリジナルの2022年11月21日時点におけるアーカイブ。
  17. ^ 【最強の男】前田智徳が憧れた天才バッター!!球界一美しいHRのその裏で…「後輩 荒木雅博は◯◯しない!!」 2022/4/13 (2024年2月29日閲覧)
  18. ^ 微笑みのバズーカ、江藤智の野球人生に迫る。”. Baseball Crix. 2018年3月12日閲覧。
  19. ^ 「星一徹」に育てられて…西武・江藤智内野手(上) 夕刊フジ2008年11月29日付。
  20. ^ 延長12回裏、一死満塁という場面で相手投手の高津臣吾からの三球目を弾き返すも一塁への平凡な打球となるが、この打球を一塁手のロベルト・ペタジーニが後逸。この間に三塁ランナーの鈴木尚広がホームインし、巨人のサヨナラ勝ちが決まった。この時、打った江藤本人は一体何が起こったのか瞬時に分からなかったのか、一塁に到達しても不思議そうな顔で周囲を見渡していた。ベンチにいた原監督も江藤が打った瞬間に明白な諦めの表情を浮かべていたが、ペタジーニが後逸したのを見た瞬間、一転して歓喜の表情へと変わっていった。またサヨナラ勝ちが決まった瞬間、巨人ナインはベンチから飛び出てきたは良いものの一瞬誰を祝福すれば良いのか分からない状況になっていた。(最終的には江藤に向かって手荒い祝福をしていた。)
  21. ^ “アニキ”金本知憲も驚愕した 球界の飛ばし屋とは?【ザ・伝説の野球人大全集】 フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】 2021/11/09 (2021年8月30日閲覧)
  22. ^ ベースボール・レコード・ブック2001(ベースボール・マガジン社 2000年12月)862ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]