児玉利一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
児玉 利一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県大分市
生年月日 (1919-02-19) 1919年2月19日
没年月日 (2008-09-03) 2008年9月3日(89歳没)
身長
体重
179 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手投手
プロ入り 1951年
初出場 1951年
最終出場 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1954 - 1955)
  • 大洋ホエールズ (1976)

児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 2008年9月3日)は、大分県大分市[1]出身のプロ野球選手内野手)・コーチ解説者

経歴[編集]

大分商業では1932年春の選抜に大分県勢として初出場し、1935年ではベスト8に進出した[1]明治大学では4番・一塁手として活躍する傍ら、清水秀雄のリリーフ投手も務めた[1]。卒業後は終戦を満州で迎え、1946年8月に帰国すると地元の全大分でプレー。

1951年に明大の先輩である天知俊一監督に誘われ、32歳で名古屋ドラゴンズへ入団[1]。1年目の同年は内野手としてプレーしつつ、投手としても1試合の先発を含む4試合に投げた。2年目の1952年からは定位置を確保し主力として活躍し、3年目の1953年からは西沢道夫杉山悟と共に強力クリーンアップを組む。同年にはリーグ8位の打率.303を記録したほか、オールスター初出場も果たす。コーチ兼任となった1954年は4番・三塁手を任されて打率.272、10本塁打、47打点で球団史上初のリーグ優勝及び日本一に貢献。西鉄との日本シリーズでも10月30日の第1戦(中日)で1-1の同点で迎えた8回裏、西村貞朗からバスターで左翼席に勝ち越し2ラン本塁打を放つなど22打数8安打(打率.364)を記録。カーブを打つのが上手く、「カーブ打ちの名人」と言われていた。1955年1956年には2年連続でオールスター出場とベストナイン獲得を果たし、1955年には川上哲治に次ぐリーグ2位の打率.315、選手専任に戻った1956年には3月25日巨人戦(後楽園)から4月12日国鉄戦(長野城山)まで10試合連続四球を選ぶなどリーグ最多の73四球を記録。1957年には大洋ホエールズへ移籍し、4番・一塁手として活躍。同年10月13日の巨人戦(川崎)で大友工1958年8月3日の国鉄戦(川崎)でも金田正一からサヨナラ本塁打を放った。1958年には39歳で打率.275、10本塁打を放ったが、同年限りで現役を引退[1]

引退後はラジオ関東フジテレビ関西テレビ東海テレビ広島テレビ[2]テレビ西日本東海ラジオ千葉テレビで解説者として活躍し、1976年には大洋でコーチを務めた。解説者時代は相次ぐ現場復帰でFNS系列局の解説者が不足した時期には大部分の全国中継を担当していた。

2008年9月3日午前9時30分、前立腺癌のため東京都文京区の病院で死去[3]。89歳没。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1951 名古屋
中日
75 204 166 16 46 7 1 3 64 36 1 0 3 -- 35 -- 0 19 4 .277 .403 .386 .789
1952 119 502 434 67 115 14 2 5 148 54 8 4 5 -- 62 -- 1 39 14 .265 .358 .341 .699
1953 106 404 347 36 105 24 2 5 148 58 6 4 3 -- 51 -- 3 32 5 .303 .397 .427 .823
1954 107 422 353 41 96 21 2 10 151 47 3 3 2 8 54 -- 5 37 9 .272 .376 .428 .804
1955 108 400 355 34 112 21 2 8 161 45 7 5 1 2 40 4 2 28 11 .315 .388 .454 .841
1956 121 448 371 34 102 16 0 3 127 45 3 5 1 1 73 7 2 28 8 .275 .397 .342 .739
1957 大洋 125 493 439 40 110 15 1 7 148 32 1 2 1 1 46 3 6 32 19 .251 .330 .337 .667
1958 107 401 346 34 95 21 1 10 148 35 3 1 0 1 53 3 1 35 7 .275 .373 .428 .800
通算:8年 868 3274 2811 302 781 139 11 51 1095 352 32 24 16 13 414 17 20 250 77 .278 .374 .390 .764
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 名古屋(名古屋ドラゴンズ)は、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1951 名古屋 4 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 27 5.2 6 0 2 -- 0 1 0 1 6 2 3.00 1.41
通算:1年 4 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 27 5.2 6 0 2 -- 0 1 0 1 6 2 3.00 1.41

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 14 (1951年 - 1956年)
  • 5 (1957年 - 1958年)
  • 77 (1976年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、220ページ
  2. ^ クロスネット時代にFNS向け。
  3. ^ 中日の日本一に貢献 児玉利一さん死去 - スポニチ Sponichi Annex

関連項目[編集]

外部リンク[編集]