ジョージ・H・W・ブッシュ
| ジョージ・H・W・ブッシュ George H. W. Bush | |
| 任期 | 1989年1月20日 – 1993年1月20日 |
|---|---|
| 副大統領 | ダン・クエール |
| 任期 | 1981年1月20日 – 1989年1月20日 |
| 元首 | ロナルド・レーガン |
| 任期 | 1976年1月30日 – 1977年1月20日 |
| 元首 | ジェラルド・R・フォード ジミー・カーター |
| 出生 | 1924年6月12日 |
| 死去 | 2018年11月30日(94歳没) |
| 政党 | 共和党 |
| 配偶者 | バーバラ・ブッシュ(2018年に死別) |
| 子女 | ジョージ・W・ブッシュ ポーリン・ロビンソン・ブッシュ ジェブ・ブッシュ ニール・ブッシュ マーヴィン・P・ブッシュ ドロシー・コック |
| 署名 | |
殿堂表彰者 | |
|---|---|
| 選出年 | 2011年 |
| 選出部門 | 特別功労 |
ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - 2018年11月30日)は、アメリカ合衆国の政治家。下院議員、CIA長官、第43代副大統領、第41代大統領を歴任。日本では、第43代大統領でありファーストネームが同じである長男のジョージ・ウォーカー・ブッシュと区別するために、「父ブッシュ(パパブッシュ)」「大ブッシュ」「ブッシュ・シニア」と呼ばれることもある。死去したアメリカ大統領経験者を含めても最高齢であった。身長6フィート2インチ(約188cm)[1]。
人物・来歴[編集]
生い立ち[編集]
ブッシュ家は、女系の先祖がイギリス王室に連なる家柄である。プレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の次男として生まれた。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親はコネチカット州のリベラルな共和党上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン」に在籍していた。
学校[編集]
ブッシュはグリニッジのグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後、国への義務を果たすべく海軍に志願。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、アベンジャー雷撃機のパイロットに任命される。
軍歴[編集]
ブッシュは1942年より空母サン・ジャシントに乗り組み太平洋戦線に従軍した。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、二度の被撃墜も経験した。
少尉時代の1944年マリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機を撃墜されているが、いずれも味方に救助され生還している。
二度目の際には敵地近くであり、同乗していた代理銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等軍曹は戦死し自身も四時間にわたって漂流し捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦「フィンバック」に救助された。この父島では後に小笠原事件が起きたと見られる。この経験から「神はなぜ自分を生かしたのか?自分に示された神の意図は何か?」と自問するようになる[2]。
翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月、サン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、殊勲飛行十字章(2度目の被撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらにエア・メダルを3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章 (Presidential Unit Citation) 1回と全部で5個の勲章を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。
帰還後[編集]
太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日にバーバラ・ピアスとライ(ニューヨーク州)で結婚し、6人の子供をもうけた。カップルの最初の住居はミシガン州トレントンの小さな賃貸アパートだった。
帰国後はイェール大学に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは、試合前にベーブ・ルースとも対面している。
入学した年には父プレスコット・ブッシュも属した秘密結社スカル・アンド・ボーンズに加入した。 1948年には経済学の学士号を取得し卒業している。その後は地元テキサス州で、オイルビジネスに従事した。
CIAとの関わり[編集]
ジョージ・ブッシュはイェール大学卒業後、土木・建築事業のコングロマリットで、CIAと緊密に協力していたドレッサー・インダストリーズ社の子会社アイデコ(インターナショナル・デリック・アンド・エクイップメント・カンパニーの略)のセールスマンになり、アイデコ社のサービスを共産圏も含めた世界各国で営業して回るという仕事を与えられた。ブッシュは、アレン・ダレスのスパイだったジョージ・ド・モーレンシルツというロシアの伯爵と頻繁に接触し、CIAが欲しがるような共産圏の石油関連情報を収集し、CIAに提供していたという。彼にこの重要な仕事を与えたのはドレッサー・インダストリーズ社のヘンリー・ニール・マロン社長であった。マロン社長は父のプレスコットのイェール大学の同級生で、ブッシュ家と親しい間柄であった。またマロン社長は、アレン・ダレスとも親密な関係を持ち、将来有望なスパイ候補者を頻繁にダレスのもとに送ったり、CIAの工作のためにスパイに偽装の職場を提供したりと、CIAと緊密に協力していた。 ジョージ・ブッシュは1953年にはザパタ石油会社を立ち上げ、CIAがメキシコでの工作活動に乗り出した1959年には、CIAの活動に積極的に協力した[3]。
政治経歴[編集]
下院議員[編集]
1964年にブッシュは、テキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローに対抗して上院議員選に出馬し、政治家に乗り出した。
ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。
ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から下院議員に選任された。彼はその後1970年に、民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに、二度目の上院議員選挙で敗れた。
CIA長官[編集]
ブッシュは1970年代を通して、リチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォードの2人の共和党の大統領の下で、共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)、危機委員会評議員などの要職を歴任した。
また、1年間と短い期間ではあったが、CIA長官(1976年1月30日 – 1977年1月20日)を務め、初の中華人民共和国への特命全権公使の直後であったため驚きを持って受け取られた。
就任後最初に直面した問題は、アンゴラの共産化を防ぐことであった。アンゴラ内戦は、1975年11月にソ連とキューバの大規模な軍事的支援を受けたアンゴラ解放人民運動(MPLA)が軍事的勝利しそうであった。ベトナムでの軍事介入に懲りた米議会は、米兵をアンゴラに送ることにも、CIAの秘密工作にも反対であった。そこでブッシュCIA長官は、イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の元隊員で構成される傭兵部隊を使ってアンゴラの対ソ秘密作戦を展開した。この秘密作戦は一定の成功を収め、アンゴラの内戦は泥沼化した[4]。
副大統領(1981年 - 1989年)[編集]
レーガンからの信頼[編集]
1980年にブッシュは、共和党の大統領指名を争う予備選に出馬する。そこでブッシュは、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗してしまう。
共和党大会直前に、ロナルド・レーガンに副大統領候補として指名され、1981年に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断ったことをきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。
外交[編集]
ブッシュは、元CIA長官や元危機委員会評議員を務めていたように、外交・安全保障に並々ならぬ関心をもった副大統領であり、後に敵対することになるサッダーム・フセイン大統領のイラクとの関係強化の決定にも関わっている[5]。結果として2期8年間をレーガン政権の副大統領として勤めた。
ブッシュは、ホワイトハウス内の危機管理センターという独自情報機関の責任者に就任し、様々な危機への対応策を計画・実施した。その一つがイラン・コントラ秘密工作であった。この悪名高い工作は、ブッシュ副大統領率いる危機管理センターのSSGで計画が練られ、ウィリアム・ケーシーCIA長官が中心となって実施した。ブッシュやケーシーらは反共勢力を支援するために麻薬王とも手を組んだため、アメリカ国内への麻薬の流入も急増した[6]。
アフガニスタンのムジャヒディンと呼ばれるイスラム教徒のゲリラに対する支援は、カーター政権で開始されたが、レーガン政権になると、ブッシュ副大統領とケーシーCIA長官が中心となって、さらに大がかりな支援活動を行った。アメリカ製のスティンガー対空ミサイルを供与し、軍事訓練を施すために米軍特殊部隊を派遣した。そして世界中から約3万5千人の急進派のイスラム教徒をパキスタンに呼び集めて軍事訓練を施し、アフガニスタンでソ連軍と戦わせた。その中にはオサマ・ビン・ラディンがいた。また、サウジアラビアからイスラム急進派をアメリカに入国させ、軍事訓練を施してアフガニスタンに送り込むという工作も行った[7]。
ブッシュらの秘密工作はソ連を弱体化させ冷戦終結に貢献したが、麻薬の氾濫、犯罪銀行の膨張、イスラム・テロリストの増長という負の遺産を残した[8]。
バーバラの貢献[編集]
バーバラも副大統領夫人として、様々な公務にあたった。力を入れた事業として、識字率の向上を推進する活動があった。動機として三男のニールが識字障害に苦しんだことがあった。バーバラは識字率を高めることは貧困を減らすことだと信じていた[9]。
1988年の大統領選挙[編集]
2期8年にわたりレーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選では、共和党選ではボブ・ドールやドナルド・ラムズフェルドなどを破って選出された。
大統領選挙本選では、ロイド・ベンツェンを大統領候補に選択したマサチューセッツ州知事・マイケル・デュカキスに地滑り的な大勝をおさめた。
現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来144年ぶり4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶり2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選が不利になる」というジンクスを覆した。
→ 詳細は「1988年の大統領選挙」の項を参照。
大統領職[編集]
大統領就任[編集]
1989年1月20日に、ブッシュはダン・クエールを副大統領に第41代大統領に就任した。保守派からの支持をと中西部諸州での得票が見込まれることからクエールに白羽の矢が立った。
パナマ侵攻[編集]
ブッシュが最初に取り組んだのは国内における麻薬の浄化であった。ブッシュはその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのマヌエル・ノリエガ政権との対立を深めた。
ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派のカルロス・ドゥケを出馬させたが、当選したのは反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラであった。しかしノリエガはアメリカの干渉があったとして軍をあげて選挙の無効を宣言し、フランシスコ・ロドリゲス会計院長を大統領とし、権力の保持を図った。この動きをうけて5月には暴動が発生しただけでなく、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。12月15日、ノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した[10]。
12月20日、ブッシュ大統領はパナマ在住アメリカ人の保護、パナマ運河条約の保全、ノリエガの拘束を主目的とする「ジャスト・コーズ作戦」(Operation Just Cause)の発動を命令した。15分前にはエンダラを大統領として宣誓させている。ブッシュ大統領はこの侵攻をノリエガの煽動に対するアメリカの自衛権発動であると主張している。2万4千人のアメリカ軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、翌1990年1月に逮捕され、アメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。
冷戦終結[編集]
1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」という。
この会談には、ソ連側からはエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣、アメリカ側からはジェイムズ・ベイカー国務長官及びブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官などが同席している。
ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では当初からマルタ会談は「時期尚早」として、ソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領、イギリスのマーガレット・ヒルダ・サッチャー首相をはじめとするヨーロッパ首脳、及びアメリカ合衆国議会はゴルバチョフとの対談を説得し実現した。
湾岸戦争[編集]
マルタ会談から8ヶ月後、1990年8月2日にイラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた[11]。さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。
国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談とともに当時の冷戦の終結を象徴した。
1991年1月17日にブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」[12])を開始。同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。これをブッシュは新世界秩序と呼んだ。このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。
アメリカ軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した。ただし、イラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで制裁戦争であった。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した(湾岸戦争)。
ファーストレディー[編集]
ジョージが大統領選に当選し、ファーストレディーとなったバーバラは贅沢品に囲まれ高慢なイメージのナンシー・レーガンとは全く異なり、就任式後の晩餐会に29ドルの靴を履いて出たと報じられるなど、親しみやすいキャラクターとして人気を得た[9]。
その「親しみやすさ」は決して作られたイメージではなく、率直な物言いと鷹揚な性格で、ホワイトハウスの中でも職員たちを家族のように分け隔てなく接した[13]。また、初めてアフリカ系アメリカ人の秘書官を任命したファーストレディとなった[9]。
ファーストレディとして、セカンドレディ時代の事業を更に格上げし、「バーバラ・ブッシュ・ファミリー・リテラシー財団」を設立し、多くのホームレス、移民を援助した[9]。識字、教育こそが貧困を無くすと、人気番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』に出演して、教育の重要性を訴え、ABCラジオにて自身の冠番組Mrs. Bush's Story Timeを持ち、子供たちに語りかけた[9]。 1990年に出版したMillie's Book: As Dictated to Barbara Bush(邦題:『ミリー・ブッシュはファースト・ドッグ』)はベストセラーとなり、この本から得た印税は財団に寄付された[14]。
1990年にウェルズリー大学で行った演説は大きな反響を呼んだ。多くの学生は彼女を「つまらない主婦」と見做し、決して歓迎されなかったのだが、演説が終わると本人も驚くような喝采を浴びた。この演説は「20世紀のアメリカの演説ベスト100」において45位に選ばれている[15]。長女のロビンを白血病で亡くしたことから、白血病患者への支援も熱心に行った[9]。
外交[編集]
対日[編集]
対日関係ではアメリカ国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に、日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物とりわけコメ、牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業の対米輸出を大幅に規制させるなど、日本に対してアメリカ大統領としては異例といえる保護貿易主義を取った。
ジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員等からも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり後に年次改革要望書が作成される事になる。なお、1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席した。
国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題や、資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し多額の資金援助を行ったにも関わらず日本への謝意が演説で述べられなかった事などから「金だけ出して人出さない」「大枚をはたかされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。
対中[編集]
対中関係では六四天安門事件で経済制裁を行うも議会と対立してまで最恵国待遇を更新し、ボーイング[16]や人工衛星の輸出を許可[17]するなど制裁全面化に消極的であり、かつて米中連絡事務所所長も務めたことから、兄のプレスコットや息子のニールが中国共産党政府とビジネスもしていたため、後の北京オリンピック開会式の親子揃っての出席に象徴されるように親中派だったともされる。
ブレント・スコウクロフト補佐官を北京に派遣して秘密交渉を行っていたこともあって、第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した日本の海部俊樹首相に同調した[18]。
ブッシュ政権の閣僚[編集]
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | ジョージ・H・W・ブッシュ | 1989 - 1993 |
| 副大統領 | ダン・クエール | 1989 - 1993 |
| 国務長官 | ジェイムズ・ベイカー | 1989 - 1992 |
| ローレンス・イーグルバーガー | 1992 - 1993 | |
| 財務長官 | ニコラス・ブレイディ | 1989 - 1993 |
| 国防長官 | リチャード・チェイニー | 1989 - 1993 |
| 司法長官 | リチャード・ソーンバーグ | 1989 - 1991 |
| ウィリアム・バー | 1991 - 1993 | |
| 内務長官 | マヌエル・ルージャン | 1989 - 1993 |
| 商務長官 | ロバート・モスバカー | 1989 - 1992 |
| バーバラ・フランクリン | 1992 - 1993 | |
| 労働長官 | エリザベス・ドール | 1989 - 1991 |
| リン・マーティン | 1991 - 1993 | |
| 農務長官 | クレイトン・キース・ヤイター | 1989 - 1991 |
| エドワード・レル・マディガン | 1991 - 1993 | |
| 保健福祉長官 | ルイス・ウェイド・サリヴァン | 1989 - 1993 |
| 教育長官 | ラウロ・フレッド・カヴァゾス | 1989 - 1990 |
| アンドルー・ラマー・アレグザンダー | 1991 - 1993 | |
| 住宅都市開発長官 | ジャック・ケンプ | 1989 - 1993 |
| 運輸長官 | サミュエル・スキナー | 1989 - 1991 |
| ジェームズ・ブゼイ | 1991 - 1992 (代理) | |
| アンドルー・カード | 1992 - 1993 | |
| エネルギー長官 | ジェームズ・ワトキンス | 1989 - 1993 |
| 退役軍人長官 | エドワード・ダーウィンスキー | 1989 - 1992 |
| アンソニー・プリンシピ | 1992 - 1993 (代理) | |
1992年の大統領選挙[編集]
再選をかけた1992年の大統領選では、1991年2月28日に湾岸戦争に勝利し中東和平会議を開き、1992年からソマリア内戦にも介入し、北米自由貿易協定調印したことなど対外的成果を強調して同年の大統領選挙に挑んだ。
しかし、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出たことなどの条件が重なり、アーカンソー州知事で民主党のビル・クリントンに敗北した。本人は敗因として景気が悪化しているのにFRB(連邦準備制度理事会)が利下げを行わなかったためだと不満を示した。なお、現職大統領としては1976年のジェラルド・フォード、1980年のジミー・カーターに続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。
→ 詳細は「1992年の大統領選挙」の項を参照。
大統領退任後[編集]
後任との仲[編集]
左から息子のジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)、本人、施工主ノースロップ・グラマン社長のマイク・ペタース、娘のドロシー・ブッシュ・コッチ。2006年10月7日。
大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからは、その妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。
そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、2005年に行われたスマトラ島沖地震の津波災害救援特使としてブッシュと特別機で同行した際に、選挙戦でのわだかまりが解け、「元大統領」としてブッシュをさまざまな非政治的な式典や被災地の慰問などに誘うこととなった[19]。
そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁のローラ夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスタープレジデントが3人もいるんですよ」と評したこともある。
親子大統領[編集]
息子も2代目後の大統領となった。息子のジョージ・W・ブッシュは、2001年9月に発生した同時多発テロ事件の後の同年10月に、世界的な「テロとの戦い」を発表して米国愛国者法を成立させた。湾岸戦争時の父親同様に、ジョージ・W・ブッシュも「戦時大統領」と呼ばれた。
そしてアフガン侵攻に臨み、ターリバーン政権を倒しアルカーイダを壊滅させて、ウサーマ・ビン・ラーディンをデッド・オア・アライブ[20] として逮捕あるいは殺害することを命じた。
2003年3月17日にブッシュはフセインと側近に対して、48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対し侵攻(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、その後も戦闘は続いた。
2004年にブッシュは再び大統領選挙に立候補し、父が果たせなかった2回目の当選を果たした。しかし1回目ほどの支持を得られないまま、2009年1月20日に任期満了で大統領を退任した。
施設名・艦名など[編集]
ブッシュは1期限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設や艦船につけられることになった(逆にウォーターゲート事件の揉み消しスキャンダルで辞任したニクソンや、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展したビル・クリントンの名は忌避される傾向にある)。
1999年4月26日にCIA出身の初の大統領だったジョージ・H・W・ブッシュの功績を称えてCIA本部はジョージ・ブッシュ情報センターと命名された[21]。
1997年には地元テキサス州ヒューストンの空港が「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」と改名され、2002年にはニミッツ級航空母艦の10番艦が「ジョージ・H・W・ブッシュ」と命名されることになった。
なお、存命中の元大統領の名前が合衆国海軍の艦船に冠せられるのは、カーター、レーガンに続き史上3人目となる。
晩年[編集]
2012年11月23日に気管支炎でのためテキサス州ヒューストンの病院に入院[22]。12月中旬頃に容態が悪化し、集中治療室へと移ったが[23]、その後持ち直し一般病棟に戻っている[24]。
2013年4月25日には、息子の関連資料を集めた記念図書館の開館式に他の歴代大統領経験者とともに車椅子で出席し、久しぶりに公の場に姿を現した[25][26]。
2017年1月に肺炎により入院している事が報じられたが[27]順調に快方に向かい、同月30日に無事退院した。なお、出席する予定だった20日のドナルド・トランプ大統領の就任式には、息子のウォーカー・ブッシュが代理として出席した[28]。
退院の数日後には、第51回スーパーボウルの試合前のコイントスを務め、妻のバーバラと共に元気な姿を見せた[29]が、バーバラは2018年4月17日に死去している[30]。
死去[編集]
2018年11月30日にテキサス州ヒューストンにて死去。94歳没[31]。息子のジョージ・ブッシュは「わが父、ジョージ・H・W・ブッシュは高潔な人格で、最高の父親だった。友人や仲間たちの哀悼の意に対し、ブッシュ家の全員が深く感謝している」という声明を出した。トランプ大統領は「ブッシュ氏は正確な判断と良識、そして、確固たるリーダーシップで平和裏にアメリカと世界を冷戦の勝利に導いた。ブッシュ氏の家族に国民とともに祈りをささげ、その生涯と功績に敬意を表したい」と述べた。
海部元首相は「私が総理大臣に就任してまもなく訪米した際、ブッシュ氏は自宅で家族そろって出迎えてくれ、大変有意義な時間を過ごす事ができた。今は亡きバーバラ夫人が隣に寄り添い、時にブレーキ役になっていたことも印象深い。ブッシュ氏が日本を訪れた際には必ず連絡をくれた、語りきれないほどのたくさんの思い出があり、心より御冥福をお祈りします」と述べた。
ゴルバチョフ元大統領は「われわれは大きな責任が求められる劇的な変化の時代に共に仕事をやり遂げ、冷戦と核軍拡競争に終止符を打った。歴史的な偉業に対するブッシュ氏の貢献をたたえたい。ブッシュ氏は政治家としても、ひとりの人間としても、人々の心に長く残るだろう」と語った[32]。
2018年12月5日、ワシントン大聖堂で国葬が執り行われ、ジミー・カーター、ビル・クリントン、バラク・オバマ、ドナルド・トランプの歴代大統領が参列[33]。日本からは特使として元首相の福田康夫が参列した[33]。遺体は即日エアフォースワンでテキサス州ヒューストンへ運ばれ、翌12月6日には聖マーティン教会でテキサス州葬の後、列車「BUSH 4141」で70マイル先のカレッジステーションへは運ばれて、テキサスA&M大学のブッシュ大統領図書館脇の幼児で亡くなった娘、バーバラ婦人も眠る墓地に埋葬された。
個人生活[編集]
バーバラ[編集]
最愛の妻であるバーバラとの逸話は有名である。また、敬虔なクリスチャン(聖公会)で、友人を教会へ連れて行くことを好んだ。マーガレット・サッチャーを連れていったこともある。[34]
ブッシュ一家は結婚後29回、ワシントンD.C.や北京まで29回転居した。ブッシュが様々な政府の仕事に従事して家族から離れている間、バーバラは単独で家族の面倒を見た。政治家の妻として様々なチャリティーにも関わった[9]。
一方で、ブッシュがCIA長官になった後、家庭内でも仕事の話を一切共有できなくなったために、会話が減ったことからうつ病を患った[9]。夫の薦めでホスピスでボランティア活動に勤しみ、中華人民共和国での生活を講演したりしたことで病から回復した[35]。
家族[編集]
父親の上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュのテキサス州知事および大統領、次男ジェブ・ブッシュのフロリダ州知事などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、ジョン・アダムズおよびケネディ家と比較された。
バーバラ夫人との間には、幼児(3才)で亡くなった2番目の子供Robin(女子)を除くと[36]、子供が6人ある。
- ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(George Walker Bush, 1946年7月6日 - 長男。第43代大統領)
- “ロビン”ポーリン・ロビンソン・ブッシュ('Pauline Robinson "Robin" Bush, 1949年12月20日 - 1953年10月11日。長女。白血病で死去。)
- “ジェブ”ジョン・エリス・ブッシュ(John Ellis "Jeb" Bush, 1953年2月11日 - 次男。フロリダ州知事)
- ニール・マローン・ブッシュ (Neil Mallon Pierce Bush - 三男)
- マーヴィン・ブッシュ (Marvin Bush - 四男)
- ドロシー・ウォーカー・ブッシュ・コッチ(Dorothy Walker Bush Koch, 1959年8月18日 - 次女)
逸話[編集]
訪日時の事件[編集]
1992年1月7日の来日では、今上天皇、宮澤喜一首相とそれぞれ会談した。この来日では、最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加。翌日、今上天皇と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。
その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。妻バーバラがとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は、慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側は、ただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。
ブロッコリー嫌い[編集]
大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した[37]。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したところ[37]、怒ったブロッコリー農家からトラックで大量のブロッコリーを送りつけられた。なお、大量のブロッコリーはホームレスらへの炊き出しに用いられた[38]
撃墜体験[編集]
太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日9時前、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔は米軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、米軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。
父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。
すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15〜20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因ではなかったかと語っている。
救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後一ヶ月、潜水艦の目として、撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。
なお、このとき他にも4機の米軍機が撃墜されたが、搭乗員の8人の米軍兵士捕虜の内5人が小笠原事件において処刑された後食人されたとされ、ブッシュの対日観に長く影を落としたといわれている。ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。ブッシュ機を撃墜した砲台は、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった[39]。
ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、食人などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している[40]。
脚注[編集]
- ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
- ^ Gary S. Smith: The Faith of George HW Bush The Christian Post(2017年6月26日)
- ^ 菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.231-239
- ^ 菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.239-242
- ^ アラン・フリードマン「だれがサダムを育てたか アメリカ兵器密売の10年」
- ^ 菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.242-259
- ^ 菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.260-264
- ^ 菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.265-268
- ^ a b c d e f g h First Lady Biography: Barbara Bush
- ^ 富田与 2003, pp. 159.
- ^ “平成3年度 防衛白書”. 防衛省. 2010年11月15日閲覧。
- ^ 英: Operation Desert Storm
- ^ 『使用人が見たホワイトハウス』ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 光文社 2016年 p82、185-192
- ^ 'Millie's Book' Makes First Lady the Big Breadwinner AP通信、1992年4月16日
- ^ American Rhetoric's Top 100 Speeches of the 20th Century
- ^ “U.S. GRANTS BOEING A WAIVER TO SELL JETLINERS TO CHINA”. ニューヨーク・タイムズ (1989年7月8日). 2017年12月26日閲覧。
- ^ “PRESIDENT WAIVES SOME CHINA CURBS”. ニューヨーク・タイムズ (1989年12月20日). 2017年12月26日閲覧。
- ^ “COLUMN ONE : China Taps Into World Coffers : The story of Beijing's successful run on the World Bank is a tale of persistence (by China), of avarice (in Western Europe and Japan) and of intrigue (by the Bush Administration)”. ロサンゼルス・タイムズ (1992年10月30日). 2017年12月26日閲覧。
- ^ “故ブッシュ元大統領とクリントンとの友情「敵はいつまでも敵ではない」”. Forbes (2018年12月7日). 2018年12月7日閲覧。
- ^ Bush: Bin Laden Wanted Dead or Alive - ABC News
- ^ Courson, Paul (1999年4月26日). “Former President Bush honored at emotional ceremony renaming CIA headquarters”. CNN. 2019年1月20日閲覧。
- ^ “元米大統領「父ブッシュ」、クリスマスも入院継続-退院は未定”. bloomberg.co.jp (ブルームバーグ). (2012年12月25日) 2013年1月13日閲覧。
- ^ “ブッシュ元米大統領、発熱し容体悪化 集中治療室に”. CNN.co.jp (CNN). (2012年12月27日) 2013年1月13日閲覧。
- ^ “ブッシュ元大統領、快方に 一般病室へ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2012年12月30日). オリジナルの2012年12月30日時点によるアーカイブ。 2013年1月13日閲覧。
- ^ “ブッシュ記念館が完成 歴代大統領、勢ぞろい”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2013年4月26日) 2013年4月27日閲覧。
- ^ “ブッシュ氏の記念図書館開館、歴代大統領が一堂に会す”. CNN.co.jp (CNN). (2013年4月26日) 2013年4月27日閲覧。
- ^ “ブッシュ元米大統領、肺炎で集中治療室に 夫人も入院”. ロイター. ロイター. (2017年1月18日) 2018年4月18日閲覧。
- ^ ブッシュ元大統領が退院 肺炎で治療受け回復 CNN 2017年1月31日付
- ^ ブッシュ元大統領(父)が大歓声の中でコイントス スーパーボウル 産経ニュース 2017年2月6日付
- ^ “バーバラ・ブッシュ夫人が死去 92歳”. AFPBB News. フランス通信社. (2018年4月18日) 2018年4月18日閲覧。
- ^ “ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去 94歳”. 朝日新聞. (2018年12月1日14時9分) 2018年12月1日閲覧。
- ^ 米ブッシュ元大統領死去 東西冷戦の終結を宣言(NHK NEWS WEB 2018年12月1日 2018年12月5日閲覧)
- ^ a b “ブッシュ元大統領に別れ 国葬に3000人参列”. 日本経済新聞. (2018年12月6日) 2018年12月6日閲覧。
- ^ TEXAN TAKES WORLD LEADERS BY THE HORNS (The Chicago Tribune, 1990)
- ^ Barbara Bush: I Overcame Depression Philly.com、1990年5月22日
- ^ 3 things to know about Robin Bush, George H. W. Bush's daughter who died young
- ^ a b MAUREEN DOWD (1990年3月23日). “'I'm President,' So No More Broccoli!”. ニューヨーク・タイムズ. 2018年12月2日閲覧。
- ^ Tim Walker (2013年7月10日). “How broccoli became a political hot potato: Provocative remarks by President Obama about his favourite vegetable have reignited a bitter ideological debate”. 2018年12月2日閲覧。
- ^ 多田実『何も語らなかった青春「学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの若者たち」』123-126頁(三笠書房、1993)
- ^ 澤田猛 父島事件 真相の一端 ~米捕虜の処刑に立ち会ったある少尉の証言~ POW研究会
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Inaugural Address
- Photos of George Bush during the Gulf War.
- The American Presidency Project at UCSB: The Most Comprehensive Resource on the Web
- Audio recordings of Bush's speeches
- Page discussing the scanner story
- George Bush: The Unauthorized Biography by Webster G. Tarpley & Anton Chaitkin
- George Bush's political donations
- White House biography
- Medical and Health History of George H. W. Bush
- George Bushの作品 - プロジェクト・グーテンベルク
- ブッシュ ジョージ:作家別作品リスト(青空文庫)
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ロナルド・レーガン |
第41代:1989年 - 1993年 |
次代: ビル・クリントン |
| 先代: ウォルター・モンデール |
1985年7月13日に大統領代行 第43代:1981年 - 1989年 |
次代: ダン・クエール |
| 先代: ウィリアム・コルビー(en) |
第11代:1976年 - 1977年 |
次代: スタンズフィールド・ターナー (en) |
| 外交職 | ||
| 先代: フランソワ・ミッテラン フランス |
先進国首脳会議議長 1990年 |
次代: ジョン・メージャー イギリス |
| 先代: デービッド・ブルース (en) |
1974年 - 1976年 |
次代: トーマス・ゲイツ・ジュニア (en) |
| 先代: チャールズ・W・ヨスト (en) |
第10代:1971年 - 1973年 |
次代: ジョン・A・スカーリー (en) |
| 党職 | ||
| 先代: ロナルド・レーガン |
共和党大統領候補者 1988年、1992年 |
次代: ボブ・ドール |
| 先代: ボブ・ドール |
共和党副大統領候補者 1980年、1984年 |
次代: ダン・クエール |
| 先代: ボブ・ドール |
共和党全国委員会委員長 第48代:1973年 - 1974年 |
次代: メアリー・スミス (en) |
| 先代: ロイ・ウィッテンバーグ |
共和党テキサス州上院議員候補者 1964年、1970年 |
次代: アラン・スティールマン (en) |
| 受賞 | ||
| 先代: ルドルフ・ジュリアーニ |
ロナルド・レーガン自由賞 2007年 |
次代: ナタン・シャランスキー |
| 名誉職 | ||
| 先代: ジェラルド・フォード |
アメリカ合衆国大統領経験者の最高齢 2006年 - 2018年 |
次代: ジミー・カーター |
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