ヤクザ映画
ヤクザ映画(ヤクザえいが)は、犯罪映画の中でも日本のヤクザ・暴力団の対立抗争、任侠などをモチーフとするカテゴリーである[出典 1]。
仁侠映画(にんきょうえいが)とも称される[出典 2]。東映を中心に1960年代から70年代にかけて一大ジャンルを築いた[出典 3]。
本項では、その東映を筆頭に各社がこのジャンルの映画を量産した[1]1960年代から70年代を中心に、その後の状況までを記述する。
歴史
[編集]やくざ自体を主題とする映画は、長谷川伸の『瞼の母』や子母澤寛の股旅物[出典 4]、伊藤大輔監督の『忠次旅日記』など、戦前からあった[出典 5]。また戦後も『清水の次郎長伝』『次郎長意外伝』『次郎長富士』『国定忠治』など[10]、盛んに制作された[出典 6]。清水の次郎長が登場する映画は約200本[10]、国定忠治が登場する映画は約130本ぐらいあるとされる[10]。ヤクザ映画は日本人の心情になじんだ主題を現代に置き換えたもので[6]、制作が本格化するのは日本経済が高度成長に向けて走り始めた1960年代に入ってからである[出典 7]。
ヤクザ映画という呼称
[編集]「やくざ映画」という呼称が一般化したのは、1963年当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)所長・岡田茂が鶴田浩二主演・沢島忠監督でプロデュースした『人生劇場 飛車角』を大ヒットさせてからである[出典 8]。「やくざ路線」という呼称は『人生劇場 飛車角』封切時の文献に既に見られる[出典 9]。
欧米のギャングやマフィアを描いたジャンルはギャング映画と称され[26]、東映でも任侠路線を敷く前史として岡田が「東映ギャング路線」を敷いていた時期があった[出典 10]。
東映任侠路線
[編集]翌1964年に岡田茂が東映京都撮影所(以下、東映京都)所長に復帰すると同撮影所のリストラを進め[出典 11]、不振の続く従来型の時代劇はテレビに移し[出典 12]、時代劇映画からヤクザ映画(任侠映画)路線の転換を行う[出典 13]。東映東京で成功した任侠路線を東映京都改革の切り札として持ち込み[出典 14]、その任侠二大路線として、初の本格的ヤクザ映画、鶴田浩二主演「博徒シリーズ」と高倉健主演「日本侠客伝シリーズ」を企図した[出典 15]。『日本侠客伝』は岡田が、亡き主君のために復讐を成し遂げた義理堅い武士たちの物語、日本の古典『忠臣蔵』をモデルに構想したものである[2]。『映画ジャーナル』は1965年10月号で「東映の岡田茂は、沈滞した京都でひとり奮闘し、鶴田浩二、高倉健を主軸に新時代劇ともいうべき明治・大正ものを生み出して、近年稀なヒットシリーズを連作して気を吐いている」と評されている[31]。同号は岡田と鈴木炤成大映プロデューサーとの対談であるが[31]、岡田は「ぼくが京都の撮影所所長になって、時代劇ファンを呼び戻そうと、いろいろテを替え品を替えやってみたんですが、どうも結果がよくない。それで大映の『座頭市』というヒット時代劇を見て、『これはほんとうの時代劇なのだろうか、非常に特殊な作品系列に属するものでないか』などと考えたんです。それで思い切って、時代を明治、大正に求めてやってみた。『日本侠客伝』や『関東流れ者』のような大正やくざは、時代劇だという観念で作ったわけです」などと述べている[31]。岡田は博打シーンのリアルさを求め[41]、撮影所に本職のヤクザを招いて、キャスト・スタッフに演技指導させた[41]。本職が撮影所内を大勢で闊歩するようになったのはこれが始まり[出典 16]。これらは大成功し、次々に人気任侠シリーズが生まれ[1]、観客動員No.1に返り咲き、興行的にも大成功した[出典 17]。こうして東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた[43]。この東映任侠路線の成功が他社にも波及し[24]、その数が急増するにつれて、この「やくざ路線」的な企画が他社にも波及しはじめたとき、ジャーナリズムがそれらを一括して「やくざ映画」と呼びはじめたのである[43]。佐藤忠男は「この一連のやくざ映画を、それまでにもあった時代劇のやくざものや現代劇の暴力団ものとは違う独特の美学を持つものとして区別するために呼んだのが任侠映画という呼称」と述べている[3]。これらは少しは誤りで『人生劇場 飛車角』公開時のプレスシートに「東映やくざ路線の第一弾として重厚味を持った意欲作である」と明記され[24]、『月刊明星』1963年4月号の『人生劇場 飛車角』を紹介する頁にも「東映が新しく打ち出した"やくざ路線"の第一弾」と書かれており[44]、『人生劇場 飛車角』を公開する際に「やくざ映画」や「やくざ路線」という言葉は使用されていた[出典 18]。
それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである[43]。やくざ映画は日本映画史の一角を占め、一つの様式美を作った[45]。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降[43]。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる[46]。
1966年、大手新聞がヤクザ映画を誌上で批判しても結局、映画の題名を新聞の発行部数だけ撒き散らすことになり、ヤクザ映画に利するだけという判断に立ち[47]、ヤクザ映画の批評を一切しないという密約を交わし[47]、ヤクザ映画はエロダクション並みにミニコミ扱いを受けた[47]。この処置に腹を立てた東映は、「それならヤクザ映画の試写会は一切やらない」と開き直った[47]。今日の試写会状況は分からないが、1990年代ぐらいまでは、新聞記者や映画評論家は各社の新作の試写をタダで見て、その引き換えとして新聞や雑誌に記事を載せていたため[47]、東映のヤクザ映画が好きな映画評論家はもとの庶民に戻り、ゼニコを払ってヤクザ映画を見なければならなくなった[47]。
1973年、「政治の季節」もピークアウトした段階で、東映は実際の暴力団の実態をドキュメンタリーに近い質感で描く『仁義なき戦い』を製作し大ヒットさせると[出典 19]、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼び[出典 20]、それまでのヤクザ映画は“任侠映画”と呼び区別されるようになった。「60年代の着流し任侠もの」と「70年代実録もの」を合わせて「ヤクザ映画」と呼ぶケースもある[51]。
"任侠映画"というと今日東映作品を指すケースも多く[52]、1960年代に始まって同年代後半にはプログラムピクチャーの過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルを指す[出典 21]。例外もあるが、東映の"任侠映画"は、大正や明治時代を舞台にしているため、登場人物は着流しが多いが、"実録映画"は昭和の戦後を舞台にするため着流しではなく、スーツなどの洋服が多い[12]。これらはほぼ全て岡田茂(元東映社長)と俊藤浩滋の両プロデューサーによって製作された[出典 22]。
任侠路線は通常は明治から昭和初めを時代背景とし[1]、着流し姿の主人公ががまんを重ねて最後に義理人情に駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てで[出典 23]、『人生劇場 飛車角』シリーズに始まって[3]、『博徒』、『日本侠客伝』[3]、『関東流れ者』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』[3]、『兄弟仁義』、『博奕打ち』、『緋牡丹博徒』[3]、『日本女侠伝』の各シリーズで頂点を迎えた[出典 24]。俳優は鶴田浩二・高倉健・藤純子・北島三郎、村田英雄らが主役になり[出典 25]、池部良・若山富三郎・田中邦衛・待田京介・丹波哲郎・嵐寛寿郎・安部徹・松方弘樹・梅宮辰夫、大原麗子・三田佳子・佐久間良子らが脇を添えた[出典 26]。マキノ雅弘・佐伯清・加藤泰・小沢茂弘・石井輝男・山下耕作らがメガホンを取った[出典 27]。任侠路線は当時、サラリーマン・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝さいを送った」という学生もいた[42]。『博奕打ち』シリーズ第4作『博奕打ち 総長賭博』は三島由紀夫に絶賛された[出典 28]。当時のヤクザ映画は、60年安保に揺れる「政治の季節」を反映していた[2]。村上春樹は、早稲田大学に在学中の1960年代の後半は「大学へはほとんど行かず、新宿でアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観ていた」と話している[59]。また大島渚や山田太一[60]、倉本聰らも東映任侠映画のファンだったと話している。柏原寛司は「メインの高倉健さん、鶴田浩二さんがいて、ゲストに嵐寛寿郎とか北島三郎とか、みんな立てて見せ場を作って、徐々に整理していって、最後、メインの対決にいく。すごいテクニック。東映の任侠映画は、プロのシナリオ術の基本」と述べている[61]。1970年代前半には、東映はそれまでの高倉健による着物に日本刀といった任侠路線から、菅原文太の現代ヤクザが主役となった『仁義なき戦い』へと路線変更をおこない[出典 29]、選手交替する形で任侠映画は消えた[3]。
東映東京
[編集]1963年の東映東京撮影所による『人生劇場 飛車角』を皮切りに、義理人情に厚くヤクザの人間模様を描く作品が続々と製作されていった[出典 30]。同撮影所では『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『子守唄シリーズ』、『現代やくざシリーズ』、『関東テキヤ一家シリーズ』を[出典 31]、高倉健・菅原文太・千葉真一の主演で、石井輝男・佐伯清・鷹森立一・降旗康男・鈴木則文が監督として参画している[出典 32]。
東映京都
[編集]一方の東映京都撮影所は1950年代、時代劇ブームで絶好調だったものの、1961年と1962年に、仲代達矢主演の本格時代劇『用心棒』、『椿三十郎』がヒットすると、東映京都で製作された時代劇では浪人も貧しい町人もヤクザもきれいな厚化粧をしており、刀で斬っても血も音も出ない旧来の歌舞伎なため、客足はみるみる減っていった。「時代劇の東映」と言われ、観客動員No.1だった東映は、他社のように現代劇でカバーできず、深刻な影響を受けた。東映京都では、客が入らなくなっていた時代劇を止め、ヤクザ映画に切り替え、量産し始める[出典 33]。『博徒シリーズ』、『日本侠客伝シリーズ』、『極道シリーズ』、『緋牡丹博徒シリーズ』を鶴田浩二・若山富三郎・高倉・藤純子の主演で[出典 34]、メガホンを小沢茂弘・マキノ雅弘・山下耕作・鈴木・加藤泰が執った[出典 35]。
両撮影所の上記作品には、助演として片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・丹波哲郎・池部良・安部徹・田中邦衛・待田京介・山城新伍・梅宮辰夫・三田佳子・松方弘樹・大原麗子・渡瀬恒彦らが出演していた[出典 36]。映画プロデューサーには岡田茂と俊藤浩滋がおり[出典 37]、特に俊藤は任侠路線を定着させ、次々とヒット作を世に送り出し、その功績は大きい[65]。サラリーマン・自営業・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝采を送った」という学生もいた[42]。1968年の東京大学駒場際のポスターでは『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』の主題歌の歌詞を捩った「とめてくれるなおっかさん/背中のいちょうが泣いている/男東大どこへ行く」(橋本治)というキャッチコピーが掲げられるなど[66]、東映任侠映画は時代の空気をいっぱいに孕んだサブカル的アイコンでさえあった。東映任侠路線は1973年の「現代任侠史」まで約10年続いた[3]。
松竹・東宝
[編集]ホームドラマ・文芸作品が得意の松竹はジリ貧だったが、1960年代中盤に安藤昇主演の『血と掟』など、僅かながらヤクザ映画が制作される[出典 38]。渥美清がTVで演じたテキヤが主人公の『男はつらいよ』を1969年に映画化し、成功[54]。『男はつらいよ』は東映ヤクザ映画のパロディとして企画されたといわれる[出典 39]。ヤクザ臭をなくし松竹得意のほのぼのとした人情喜劇とし、1990年代まで続くロングシリーズとなった[54]。
東宝は、1960年代には鶴田浩二主演の『暗黒街』シリーズを制作。1971年には傍系会社の東京映画が東映の倍以上の予算をかけ、仲代達矢主演(脇には他社では主演級の安藤・丹波・江波杏子らを揃えた)の『出所祝い』を制作した[24]。しかし、同時期に東映が制作した高倉の『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』の前に惨敗。その後はヤクザ路線から撤退し、東宝が得意とする特撮映画『ゴジラ』シリーズや『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』といったパニック映画を制作した。
日活・大映
[編集]深刻な客離れにあった日活は、石原裕次郎・小林旭・渡哲也・高橋英樹・野川由美子らを主演にした「擬似東映路線」といえるヤクザ映画を量産したが[出典 40]、いずれも東映ヤクザ映画の人気には遠く及ばなかった[出典 41]。その中で日活を代表するシリーズとしては高橋英樹の『男の紋章シリーズ』があった[出典 42]。また、渡哲也の『無頼』シリーズについては、評論家西脇英夫が、「延々とくりひろげられる追っかけ、泥まみれ、血まみれになり、斬られても斬られても立ち上がり短いドスをふりかざし青筋を立てて飛びかかって来る渡の顔には、鶴田浩二の冷ややかさも、高倉健の豪放さもなく、狂気としか言いようのない孤独な寂しさがある」[72]と評した。
大映は、江波杏子の『女賭博師』シリーズや勝新太郎の『座頭市シリーズ』『悪名シリーズ』がヒットし[出典 43]、東映と競り合った[54]。しかし勝新太郎、市川雷蔵の二人以外に人気男優もおらず、主役を支える脇役もいなかった[54]。『悪名』に出演していた田宮二郎が1968年に大映を離れ、翌年に『若親分シリーズ』の市川雷蔵が病死した頃には苦境に陥っていた[54]。ヤクザ映画ブームの流れに乗り、延命のため「ダイニチ映配」を設立してヤクザ映画を市場へ供給した両社だったが、1971年に大映は倒産。日活も同年からロマンポルノ路線に転進し、著名な俳優は日活を離れた。
1980年代
[編集]1980年代はヤクザ映画にとっては昭和期のラストランといえる時期で[2]、本家東映は『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たちシリーズ」など、女優を押し出したヤクザ映画を量産した[2]。1980年代からレンタルビデオによる映画供給が可能となり、これを受けて東映は、映画館での上映を考慮せず、ビデオカセットのみで発売される作品として、東映の子会社「東映ビデオ」から「東映Vシネマ」と呼ばれる多数のヤクザ映画を発売し、成功をおさめた[出典 44]。これを見て、他の大手映画会社もオリジナルビデオを製作し、GPミュージアムソフトなど独立系も追従して、オリジナルビデオの制作会社が多数設立された[2]。哀川翔・竹内力・松方弘樹・小沢仁志・清水健太郎・中条きよし・白竜・清水宏次朗・的場浩司ら主演の、低予算ヤクザ映画が量産され、竹内力主演の『難波金融伝・ミナミの帝王』など「金融ヤクザ映画」とも呼ぶべき新ジャンルも存在する[2]。1980年代後半からの北野武監督による一連のヤクザ映画も評価を受けた[2]。
日本のヤクザ映画は海外でも注目を集め、その影響を強く受けた映画も登場した。ハリウッドではロバート・ミッチャムが、高倉健主演の『ザ・ヤクザ』や[45]『ブラック・レイン』(1989年)を制作。米国以外ではフランス・イタリア・香港・台湾・韓国でヤクザ映画を意識した作品が製作されている。代表的な監督にはクエンティン・タランティーノがいる(キル・ビルなど多数)。
1990年代以降
[編集]テレビ放映など
[編集]現在はレンタルビデオ・DVDでの鑑賞が中心だが、かつては「ヤクザ映画」の上映に特化した映画館もあった。東京では新宿昭和館(2002年閉館)・浅草名画座(2012年10月閉館[74])、大阪の新世界東映・日劇会館(2012年8月にゲイ映画館に転換)、神戸の福原国際東映(現在は成人映画を上映)などが有名であった。
2006年4月より経済産業省の指導でCESA、コンピュータソフトウェア倫理機構、日本アミューズメントマシン工業協会、映倫管理委員会、日本ビデオ倫理協会と映像コンテンツ倫理連絡会議(仮称)において審査基準・表示の一本化を協議することが決定している。それに伴い、年齢指定が変わる可能性がある。
沖縄県では1990年代前半に県内で起きた暴力団抗争以後、テレビ放送並びに上映を自粛している。東京キー局でテレビ放送される場合は、沖縄のみ差し替えられることも少なくない(特に他系列ネットの場合)。
また暴力団対策法以後は全国の地上波テレビにおいてヤクザ映画(特に“実録シリーズ”)に関しては、再放映でも放映することが極めて困難であるとされ、高倉健が死去した際にも『網走番外地シリーズ』等数多くのヤクザ映画の出演映像は放送されなかった。菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫の死去の際も同様にヤクザ映画の出演映像は一切放送されなかった[75]。現在では、スポンサーやコンプライアンスの関係から、テレビにおいてヤクザやヌードを取り上げることがタブーとなる傾向にある。ただ、テレビ東京やTOKYO MX、BS / CS放送においては、ヤクザ映画やロマンポルノが放映される可能性がある。
21世紀の製作状況
[編集]1992年の暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴力団対策法)施行[6]、2010年に全都道府県で暴力団排除条例(暴排条例)の施行があり、ヤクザ映画の製作本数はめっきり減った[6]。ヤクザは警察による壊滅の対象となるばかりで、大衆の共感や憧れを集めることはなくなった[6]。『孤狼の血』『孤狼の血 LEVEL2』の紀伊宗之東映プロデューサーは、「1980年代に入ってバブルへと突き進む中で、バンカラもダサいと言われ、恋愛することが青春のように変わっていった。時代が豊かになっていくと同時に衰退していきました。ヤクザ映画もドロップしていきました。Vシネマという形に変わり、2000年代に入ってもしばらくは生き残っていたけれど、やがてそれも見られなくなって、時代に取り残されていった。映画としてのクオリティーを担保できなかったこともあると思う。今の若い人にとってみれば、ヤクザはファンタジー」などと述べている[5]。
現実のヤクザの命脈が途絶えようとしている平成の終わりから令和にかけて、『ヤクザと憲法』(2016年)、『孤狼の血』(2018年)、『ヤクザと家族 The Family』(2021年)、『すばらしき世界』(2021年)、『孤狼の血 LEVEL2』(2021年)と5本ものヤクザを主人公とする映画が撮られ[2]、いずれも作品として内容も評価され、世間に取り上げられたことでの注目を集めてヒットした[出典 45]。『ヤクザと憲法』は、劇映画ではなく、ヤクザの生活に密着し、そのシノギ(稼業)を描いた初めてといえる異色のドキュメンタリーだった[76]。『孤狼の血 LEVEL2』は製作にあたり、多田憲之東映会長が「時代に風穴を開ける作品を作り続けることが東映の使命ですので、続編の決定を致します」とコメントした[77] 。白石和彌監督は「昔は本物のヤクザから色々聞けたそうですが、今は聞けない。それこそもう『仁義なき戦い』を見てくださいになる。時代劇として作っていくものになりつつあります。役者は皆、広島の言葉で怒鳴り合いたい、がなり合いたいという、憧れのような気持ちがあります。いろんな役者に私も『広島に連れて行ってください』って言われるんです。刑事役でオファーすると断られたりもして。ヤクザ役がいいそうです。楽しいんだと思いますよ。そこは皆一様に言いますね。プロデューサーからは『長らくこういう作品を作っていない。とにかく暴れ倒してほしい』と言われました。『韓国映画に先に行かれているので、尻尾をつかんでほしい』と言われました」などと述べている[出典 46]。『ヤクザと家族 The Family』では、元ヤクザの作家・沖田臥竜が監修を務めた[78]。『すばらしき世界』の西川美和監督は、「日本のヤクザ映画は1つのジャンルになっていますが、いまはヤクザ映画がエンターテイメントとして成し得てきたカタルシスが通用しなくなっています。脚本を書くうえで、日本のヤクザ映画を直接的に参照はしていません」などと述べている[79]。
評価
[編集]- 佐藤忠男は「日本映画は大正初期から任俠映画の流行の直前まで、作られる映画の半数近くが時代劇だったが、任俠映画の流行とともに時代劇専門のスターやスタッフはこぞってこれに移り、そしてその流行が終わったときには、一部のリアリズム系時代劇は別として、チャンバラを主にした大衆時代劇はもう復活しなかった。つまり任俠映画は、大衆時代劇が消えてゆく前の最後の世にも鮮やかな大輪の花火のようなものであった。単なる暴力団とは一線を画した、やくざではあっても非道なことはしない、義理人情にあついいい男たちと女たち。権力に媚びて非道なことをする新興暴力団とは厳しく対立して、“弱きを助け、強きを挫く”任俠道に生きようとする高倉健や鶴田浩二や藤純子の俠客たち。彼らが爽やかな表情で死地に乗り込んでゆく姿の、その恰好の良さと淋しさと悲愴さ。それらは、それ以前の東映時代劇のメインの流れだった清水次郎長ものや一心太助もの、『旗本退屈男』などの、あくまで陽気なお祭り騒ぎ気分とは違って、夢のように楽しく美しかったひとつの世界がいまや消えて失われてゆく、という予感に充ちていた。消えてゆくのはなにか。義理人情の結びつきか、親分子分の、それなしにはこの世は闇だと思えるような熱い心の絆か。いずれにしろそこには、来るべきグローバリゼーションの時代にはどうなるか分らない古い人情の良さを惜しむ気持があふれていた。任俠映画くらい、日本人の立居ふるまいを折目正しく描いたものはない。高倉健も鶴田浩二も藤純子も池部良も、着物で美しく見えるための、すっくと立った姿勢の良さにほれぼれとさせる。とくにどの作品にもある斬り込みに行く場面。それは西洋派のやたら頭を高くする背の伸ばしかたとは違う。またサムライ流に左様しからばとかしこまったのとも違う。肩の力をそっと抜いたような、謙虚な自然体である。負けん気で肩ひじを張ろうとする気持と、所詮は自分はやくざなのだとへり下る気持との合い間に、あの姿勢が成りたつ。やくざ映画、と言っても、そこには時代の転換期、社会の転換期の夢と真実が鮮やかに刻み込まれていたのだ」などと論じている[3]。
- 菅原文太は、1976年に川本三郎との対談[80]で「テレビが出来てから活動屋はそれに立ち向かって映画独自のヒーローを探してきました。テレビと対立して、ヒーローを作ろうとすると暴力的な人物にいかざるをえなかった。ここ何年か東映が他社に比してお客さんに映画としては支持されてきたし、健さんが代表する任侠映画の10年というのはそうだったと思うんですけどね。周期の短い時代にしては任侠映画の時代ってのは、割りと長く続いたろうと思うんです。まあそういうものが飽きられた時点で、ぼくなんか『人斬り与太』なんかで出てきたわけなんですけど、もちろんサクさんもぼくも中島貞夫も鈴木則文なんかもそうだけど、そういうものから抜け出そうとしたわけです。ぼくなんか任侠映画に三分の一ぐらいは時代としては関わってきたわけですから、そうやって『人斬り与太』から『仁義なき戦い』へきて、まあいま『トラック野郎』をやってる。何かますます短くなってますね。そういう意味でのヒーローというのは健さんでやっぱり終わったんだろうと思うんです、一応ね。またいつの時代に健さんを凌駕するというか、長谷川一夫、阪妻、大河内傳次郎から鶴田浩二へ受け継がれた、そういうヒーロー時代がまた来るのか分からないけど、いずれにしても大きな意味での映画の中のヒーローってのは、ぼくはやっぱり健さんで終わりを告げたんだろうと思いますね」などと述べている[81]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y “任侠映画 にんきょうえいが- コトバンク”. 朝日新聞社. 2021年3月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 轟夕起夫・森直人、久野剛士・原里実(CINRA, Inc.)編 (2021年9月30日). “ヤクザ映画入門前編:ヒーローからアンチヒーローへ”. JFF Plus. 国際交流基金. 2022年8月日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 佐藤忠男、金澤誠「【特集】 任侠 任侠映画の夢と現実/高倉健/藤純子/鶴田浩二」『東映キネマ旬報 2007年春号 vol.2』2007年、東映ビデオ、1–9頁。(東映キネマ旬報 vol.2)
- ^ “社会の不条理、いまヤクザ映画で 排除・格差…「はみ出し者」を通して”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2011–05–10). オリジナルの2021年2月3日時点におけるアーカイブ。 2021年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g 土井恵里奈 (2021–09–16). “なぜ、今ヤクザ映画か 東映「孤狼の血」続編から考える”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの2022年8月2日時点におけるアーカイブ。 2022年8月2日閲覧。いまヤクザ映画は当たるのか 東映「孤狼の血」プロデューサーに聞く
- ^ a b c d e f g h i 伊藤彰彦 (2022年2月26日). “新連載「仁義なきヤクザ映画史」(1) 日本百年の闇をあばく”. 文藝春秋digital. 文藝春秋. 2022年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月2日閲覧。
- ^ 山根貞男「東映やくざ映画の最後か 『首領を殺った男』の現場へ」『映画の貌』みすず書房、1996年、194-201頁。ISBN 4-622-04412-9。
- ^ 山平重樹『高倉健と任侠映画』徳間書店、2015年、438-446頁。ISBN 978-4-19-907028-0。
- ^ a b c d e f g h i 永田 2021, pp. 183–379, 466–471, 「無法者(アウトロー)狂騒曲/東映」
- ^ a b c d e f 永田 2021, pp. 13–179, 「仁義に生きる侠客たち」
- ^ 傑作選 2018, p. 465
- ^ a b 押井守 (2020年4月24日). “押井守の「映画で学ぶ現代史」 映画大量生産時代ならではの傑作「仁義なき戦い」 「仁義なき戦い」(1973)前編”. 日経ビジネス. 日経BP. 2020年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月27日閲覧。
- ^ a b c 時代 1998, pp. 11–45
- ^ 東映ポスター集 1980, p. 188
- ^ a b c d e f g h i j k l m キネ旬1971320 1971, pp. 29–71
- ^ a b c d e f g h i j k l m 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)、滅びの美学 任侠映画の世界 - シネマヴェーラ渋谷(Internet Archive)、コラム|東映京撮・盟友対談② | 合同通信オンライン、緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(14)東映スターからの転換期、隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション 特設ページ(Internet Archive)、U–NEXT 東映昭和映画傑作選“高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。それより若い「反社」の今後、どうなる?”. 現代ビジネスプレミアム. 講談社 (2015–01–15). 2022年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)(Archive)早見俊 (2021年1月23日). “「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月25日閲覧。“岡田茂・東映名誉会長が死去”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011–05–09). オリジナルの2015年9月27日時点におけるアーカイブ。 2021年2月27日閲覧。“【産経抄】5月14日”. 産経新聞. (2011年5月14日1面、産経抄). オリジナルの2011年5月18日時点におけるアーカイブ。 2021年2月25日閲覧。“「日本映画界のドン」岡田茂氏逝く”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2011–05–10). オリジナルの2011年5月13日時点におけるアーカイブ。 2021年2月25日閲覧。樋口尚文 (2020年11月21日). “追悼 岡田裕介さん 東映カラーのルネッサンスを夢見て”. ぴあニュース (ぴあ). オリジナルの2020年11月21日時点におけるアーカイブ。 2021年2月25日閲覧。伊藤彰彦 (2020年12月14日). “【映画に生きた男 岡田裕介という異才】2代目の悲哀 豪放磊落な父と正反対、しなやかさと忍耐を武器に (1/2ページ)”. 夕刊フジ. 2020年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月25日閲覧。岡田茂 | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス(2011年5月)、【訃報】“任きょう映画の父”が87歳で(Archive)、「やくざ映画の父」東映岡田茂氏死去87歳、気配り忘れない繊細な人/岡田さん偲ぶ、『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)、『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第5回 / 全5回)、金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9。(NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)、 あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)(Archive)、草柳大蔵「やくざ映画と映画やくざ やくざ映画批判」『キネマ旬報』1966年1月上旬号、キネマ旬報社、73頁。石井輝男、福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、118-119頁。ISBN 4948735086。中原早苗『女優魂 中原早苗』ワイズ出版、2009年、176頁。ISBN 9784898302354。「戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27-28頁。松島利行 (1992年3月17日). “〔用意、スタート〕 戦後映画史・外伝 風雲映画城/54 『人生劇場』で新境地”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 5浜田奈美 (2011年5月17日). “『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1斉藤勝寿 (2011年9月3日). “(そこに、スターがいた東京撮影所物語:12) 『映画は商品』東映 任侠路線の幕開く/東京都”. 朝日新聞東京版 (朝日新聞社): p. 28「今週のスクープ最小版 父親の東映社長就任で息子の岡田裕介は…」『週刊平凡』1971年9月9日号、平凡出版、165頁。三鬼陽之助「三鬼陽之助のトップ会談〈第95回〉 "任侠路線で観客頂戴いたします" ゲスト・東映社長岡田茂氏」『週刊サンケイ』1971年11月5日号、産業経済新聞社、134-137頁。草壁久四郎「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田 松竹・東宝、日活などの老舗に比べ新参だった東映は、岡田茂を中心に試行錯誤を繰り返しながら逞しく成長してきた...」『宝石』1983年1月号、光文社、201-203頁。「シリーズ人間の内幕31 ゼニと人情はかりにかけりゃ… 鶴田浩二『只今、帰って参りました』」『週刊サンケイ』1977年1月613日号、産業経済新聞社、52頁。深作欣二「東映現代劇12年を舞台裏からみれば 昭28~40年-1953~1964-」『映画芸術』1965年8月号 No215、映画芸術社、64頁。「映画監督 深作欣二の軌跡」『キネマ旬報臨時増刊』第1380号、キネマ旬報社、2003年、152頁。FB編集同人編「小特集 追悼/笠原和夫・深作欣二 『東映のゴールデン・トライアングル』 文・重政隆文」『FB 映画研究誌』2003年 第18号、行路社、153-154頁。梅宮辰夫『不良役者 梅宮辰夫が語る伝説の銀幕俳優破天荒譚』双葉社、2019年、94-95頁。ISBN 9784575315035。94. 第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
- ^ a b c d e クロニクル東映1 1992, pp. 170–171, 「証言 製作現場から 『人生劇場 飛車角』監督 沢島正継 監督31本目、起死回生の作品」
- ^ a b クロニクル東映2 1992, p. 37, 「1963–1964 『人生劇場 飛車角』を出発点に東映任侠映画、全盛期へ』
- ^ a b 東映の軌跡 2016, p. 133, 「鶴田浩二を飛車角に配し『人生劇場 飛車角』公開 任侠路線スタート」
- ^ a b c d 松島 1992, pp. 105–109
- ^ a b c d 佐藤 2007, p. 122
- ^ a b 相原 2015, pp. 69–90
- ^ a b c d e f g h i j k l m 北浦 2018, pp. 142–153
- ^ 「今月の映画案内『人生劇場 飛車角』」『月刊明星』1963年4月号、集英社、232頁。
- ^ 双葉十三郎「にっぽん・ギャング映画論」『キネマ旬報』1963年3月上旬号、キネマ旬報社、34-38頁。
- ^ a b c 石井 1992, pp. 118–119, 「岡田茂(おかだ・しげる)1924~」
- ^ 竹中労「岡田東映社長に聞く」『日本映画縦断 II 異端の映像』白川書院、1975年、31-135,251-267頁。
- ^ a b c d e 岡田1 2001, pp. 136–140
- ^ a b c d 岡田2 2004, pp. 153–156
- ^ a b c d e f g h 岡田3 2012, pp. 297–300, 312–325
- ^ a b 春日 2013, pp. 205–209、215–252
- ^ 東映の軌跡 2016, p. 564, 「変革期を見据えて 東映株式会社代表取締役グループ会長 岡田裕介」
- ^ 多田憲之 (2023年8月7日). “映画は死なず 実録的東映残俠伝/連載 【五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀】 チケットを売るのではない、映画を売るのだ 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)”. CONEX ECO-Friends. オリジナルの2023年8月18日時点におけるアーカイブ。 2023年8月22日閲覧。
- ^ 二階堂 2020, pp. 247–256
- ^ a b c 笠原 2003, pp. 11–25
- ^ a b c d e 斉藤 2016, pp. 184–189, 「実録路線とブルース・リー 『実録』というウリ」
- ^ a b c 渡邊 1991, pp. 101, 139–150
- ^ a b c 東映の軌跡 2016, pp. 129–130, 「『暗黒街最後の日』公開とギャング路線の確立」
- ^ a b 内藤 2010, pp. 268–270
- ^ a b c 小林俊之「八名信夫 【侠気インタビュー】 『不良より悪く』」『実話ナックルズ』第44巻2012年3月号(2012年2月10日発行)、ミリオン出版、65–67頁。
- ^ a b c 東映京都のあゆみ - 東映京都ナビ(Internet Archive)
- ^ a b c d e f キネ旬1971810 1971, pp. 116–126
- ^ a b 「今月の映画案内『人生劇場 飛車角』」『月刊明星』1963年(昭和39年)4月号、集英社、232頁。
- ^ a b 轟夕起夫 (2021年2月8日). “元ヤクザ者の再起を描く『すばらしき世界』で、西川美和監督が光を当てた“見えない人々””. MOVIE WALKER PRESS. ムービーウォーカー. 2021年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月2日閲覧。
- ^ 楠本憲吉編『任侠映画の世界』荒地出版社、1969年。『キネマ旬報増刊』1971年3月20日号「任侠映画大全集」など。
- ^ a b c d e f 石堂淑朗「深夜に甦る"やくざな男" 鶴田浩二」『怠惰への挑発』三一書房、1966年、111頁。
- ^ a b c 多田憲之 (2021年8月20日). “第3回〝不良性感度〟という二代目社長岡田茂のビジョン 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.1-2”. CONEX ECO-Friends. オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2023年8月22日閲覧。
- ^ 伊藤彰彦 (2022年12月16日). “伊藤彰彦 「山口組の戦後史──日本最大の任侠組織を描いた映画」 仁義なきヤクザ映画史10”. 文藝春秋digital. 文藝春秋. 2022年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。
- ^ “東映ヤクザ映画傑作選”. 日本映画専門チャンネル. 日本映画放送 (2022年). 2022年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月2日閲覧。
- ^ 「総特集=菅原文太-反骨の肖像- /暴力の使い途 俳優・菅原文太 文・鈴木一誌」『現代思想』2015年4月臨時増刊号、青土社、94頁、ISBN 978-4-7917-1298-4。
- ^ a b 女優富司 2013, p. 83
- ^ 多田憲之 (2021年6月30日). “第1回 プロローグとしての私小説的映画体験 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2023年8月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、192-201頁、doi:10.18999/muls.4.191、ISSN 13463462、NAID 120000974864、2021年12月1日閲覧。
- ^ 俊藤山根 1999, pp. 66–75, 116
- ^ マキノ雅弘「マキノ雅裕の映画界内緒ばなし(1)」『週刊文春』1981年9月3日号、文藝春秋、139-142頁。
- ^ a b 佐藤忠男 (2014年12月19日). “佐藤忠男の映画人国記 時代劇に任侠映画 日本映画の歴史を作った京都の監督たち”. WEDGE Infinity. ウェッジ. 2014–12–21時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月27日閲覧。
- ^ 楠木建 (2012年9月11日). “楠木建の「戦略読書日記」 『映画はやくざなり』(1)”. PRESIDENT Online. プレジデント社. 2012年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月25日閲覧。
- ^ “【特別インタビュー】村上春樹が語った60~70年代、音楽、若者へのメッセージ連載 「RADIO PA PA」スペシャル RADIO PA PA”. AERA dot.. 朝日新聞出版. p. 3 (2023年6月4日). 2023年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月3日閲覧。
- ^ 内藤, pp. 281.
- ^ 「『われらの時代』 脚本家フリートーク 第3回 師弟対談 柏原寛司×米村正二」『シナリオ』2013年7月号、日本シナリオ作家協会、34頁。
- ^ 仁義なき戦い 2022年9月28日閲覧
- ^ a b 東映の軌跡 2016, pp. 134–135, 「『昭和残侠伝』公開東映映画の主力 任侠路線に心血注ぎ」
- ^ a b 永田 2021, pp. 483–507, 「無法者(アウトロー)狂騒曲/悪役」
- ^ 伊藤博敏 (2014年12月4日). “高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る東映『やくざ映画』名プロデューサー俊藤浩滋の功績”. 現代ビジネス. 講談社. 2020年8月10日閲覧。
- ^ “第19回駒場祭(1968年:昭和43年)”. 駒場際情報館. 2020年11月16日閲覧。
- ^ 永田 2021, pp. 461–465, 472–482, 「無法者(アウトロー)狂騒曲/松竹」
- ^ 四方田犬彦「第一章 『寅さん、無頼の零落」『日本映画と戦後の神話』岩波書店、2007年、114頁。ISBN 4-00-024254-7。
- ^ 永田 2021, pp. 415–460, 「無法者(アウトロー)狂騒曲/日活」
- ^ 永田 2021, pp. 508–564, 「無法者(アウトロー)狂騒曲/女侠」
- ^ トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」【4】 - 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan(Internet Archive)
- ^ 西脇 1976, p. 72
- ^ 永田 2021, pp. 380–414, 「無法者(アウトロー)狂騒曲/大映」
- ^ “閉館のお知らせ”. 中映株式会社 (2012年8月1日). 2012年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月15日閲覧。
- ^ “松方弘樹の追悼番組でも出せない……「ヤクザ映画」をめぐるテレビの厳しい現状とは”. 日刊サイゾー (株式会社サイゾー). (2017年2月1日) 2020年8月10日閲覧。
- ^ a b 伊藤彰彦 (2022年3月17日). “《新連載》仁義なきヤクザ映画史(2)「狐狼の血」”. 文藝春秋digital. 文藝春秋. 2023年3月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。
- ^ a b 土井恵里奈 (2021–09–22). “「孤狼の血」シリーズ第3弾制作決定 白石和彌監督の語るヤクザ映画”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの2022年8月2日時点におけるアーカイブ。 2021年9月22日閲覧。
- ^ 沖田臥竜 (2021年2月16日). “『ヤクザと家族』監修者・沖田臥竜が見た『すばらしき世界』とスーパー脇役・北村有起哉の凄み”. 日刊サイゾー. サイゾー. 2021年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月2日閲覧。
- ^ “犯罪者を描くことで見えた日本社会の課題。西川美和監督が語る『すばらしき世界』”. JFF Plus. 国際交流基金 (2022年2月14日). 2022年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月2日閲覧。
- ^ 初出は『ユリイカ 詩と批評 特集映画 ヒーローの条件』1976年6月号、青土社
- ^ 新版再録「総特集=菅原文太-反骨の肖像- /【討議】ヒーローの虚像と実像(1976年)菅原文太+川本三郎」『現代思想』2015年4月臨時増刊号、青土社、35–38頁、ISBN 978-4-7917-1298-4。
出典(リンク)
[編集]- ^ [1][2][3]
- ^ [1][3]
- ^ [1][3][4][5][6][7][8][9]
- ^ [10][11]
- ^ [2][3][6][10][12][13][14]
- ^ [6][3][10]
- ^ [2][15]
- ^ [1][2][16][17][18][19][20][21][22][23]
- ^ [24][25]
- ^ [24][27][28]
- ^ [17][21][29][30][31][32]
- ^ [18][19][21][22][23][24][32][33][34][35]
- ^ [17][18][20][27][22][24][29][31][36][37]
- ^ [16][17][18][24][29][30][31][36][38][39]
- ^ [13][16][22][24][29][30][31][36][38][40]
- ^ [5][41]
- ^ [3][5][17][29][24][30][31][38][39][42]
- ^ [24][44]
- ^ [1][2][3][17][37][48]
- ^ [1][48][49][50]
- ^ [52][53]
- ^ [1][16][17][18][21][24][39][40][54][55]
- ^ [1][56]
- ^ [1][16][37][54]
- ^ [1][5][15][16][37]
- ^ [1][15][16]
- ^ [1][15][16][57]
- ^ [2][16][58]
- ^ [1][37][48][62]
- ^ [1][3][27][9][15][16][17][57][63]
- ^ [9][63]
- ^ [1][9][15][16]
- ^ [1][3][9][15][43]
- ^ [1][3][9][15][43]
- ^ [1][9][15][16]
- ^ [15][9][64]
- ^ [1][9][16][17]
- ^ [2][15][24][67]
- ^ [2][13][68]
- ^ [1][2][15][54][64][69][70]
- ^ [54][71]
- ^ [1][2]
- ^ [1][15][73]
- ^ [2][6]
- ^ [2][5][6][76]
- ^ [5][77]
参考文献
[編集]- 高沢瑛一「任侠映画大全集 任侠映画三八二選」『キネマ旬報』1971年3月20日増刊号。
- 渡辺武信「任侠藤純子 おんなの詩 やくざ映画十年の系譜」『キネマ旬報』1971年8月10日増刊号。
- 西脇英夫『アウトローの挽歌 黄昏にB級映画を見てた』白川書院、1976年。
- 東映ポスター集製作委員会「東映任侠路線興亡史」『ポスターでつづる東映映画史』青心社、1980年。ISBN 4-948735-08-6。
- 渡邊達人(元東映プロデューサー)『私の東映30年』1991年。
- 岡田茂『クロニクル東映 1947-1991』 1巻、東映、1992年。
- 岡田茂『クロニクル東映 1947-1991』 2巻、東映、1992年。
- 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年。ISBN 4062062267。
- 石井輝男、福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年。ISBN 4-948735-08-6。
- 斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』筑摩書房、1998年。ISBN 4-480-05750-1。
- 俊藤浩滋、山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年。ISBN 4-06-209594-7。
- 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。ISBN 4-87932-016-1。
- 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年。ISBN 978-4104609017。
- 岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年。ISBN 4-04-883871-7。
- 佐藤忠男 編『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 978-4-8169-2035-6。
- 黒沢清、四方田犬彦、吉見俊哉、李鳳宇(編集)「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 2.任侠やくざ映画の時代 文・内藤誠」『日本映画は生きている』 4巻、岩波書店、2010年。ISBN 978-4-00-028394-6。
- 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。
- 『女優 富司純子』キネマ旬報社、2013年。ISBN 978-4873764191。
- 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4-1637-68-10-6。
- 日刊スポーツ文化社会部 相原斎と日刊スポーツ特別取材班『健さんを探して 最後の銀幕スターの秘密』青志社、2015年。ISBN 978-4-86590-007-1。
- 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映、2016年。
- 斉藤守彦『映画を知るための教科書 1912~1979』洋泉社、2016年。ISBN 978-4-8003-0698-2。
- 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 978-4-8158-0905-8。
- 笠原和夫「解題 『映画三国志 映画に夢をかける男たち』 文・伊藤彰彦」『笠原和夫傑作選 第一巻 博奕打ち 総長賭博―初期~任侠映画篇』国書刊行会、2018年。ISBN 978-4-336-06309-0。
- 二階堂卓也『日本映画裏返史』彩流社、2020年。ISBN 9784779126567。
- 永田哲朗『血湧き肉躍る任侠映画』国書刊行会、2021年。ISBN 978-4-336-06562-9 。