慶應義塾中等部

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慶應義塾中等部
慶應義塾中等部.jpg
国公私立 私立学校
設置者 慶應義塾
校訓 気品の泉源 智徳の模範
設立年月日 1947年(前身である慶應義塾商工学校は1905年開校)
共学・別学 男女共学
中高一貫教育 連携型
学期 3学期制
所在地 108-0073
東京都港区三田二丁目17番10号
公式サイト 慶應義塾中等部
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慶應義塾中等部(けいおうぎじゅくちゅうとうぶ、英語: Keio Chutobu Junior High School)は、東京都港区三田二丁目にある私立中学校

概要[編集]

慶應義塾大学三田キャンパスに隣接する。前身は実業学校であった1905年(明治38年)設置の慶應義塾商工学校で、1947年(昭和22年)に新制の中等部が開校した。慶應義塾商工学校は、現在の三田キャンパス内にあったが、現在の中等部になった際に移転し、現在は元々普通部があった所に存在する。なお、慶應義塾商工学校があった所には、現在、石碑がある。同じ一貫教育中学校の普通部男子校だが、同校は湘南藤沢中等部と同じ男女共学校である。また、一貫教育中学校の3校の中で唯一、東京都内にある。

グレーの制服は式典用で、内部では基準服と呼ばれる。普段は中等部らしい気品のある服装を基本とし、襟・袖付きシャツ(ポロシャツ可)とスカート/スラックスを着用(ジーンズ不可)。

基本的に校則が存在せず、自由な校風である。

部長(校長職に該当)
井上逸兵

歴史[編集]

慶應義塾の内部において、中等部の前身は慶應義塾商工学校であるとする見解がある。この項では商工学校の概略について述べる。

商工学校は1904年に、「慶應義塾実業学校」の名称で設置申請、認可を受けたが、日露戦争により開校が延期され、翌年に商工学校の名で第1期生を受け入れた。甲種商業学校の認定を受け、当初は予科2年・本科4年の6年制(通常の実業学校は5年制)を敷いていた。

実業学校という性格から、本来は中等教育の段階で職業人を育成するのが目的であったが、1920年、慶應義塾大学が大学令による大学に昇格すると、同予科に進学することも可能となった(後期には大学医学部に進学する者も現れたという)。そのため、同年修業年限を1年縮めて工業科目も大幅に廃止、2年後には予科・本科を一本化するなどの改革が行われた。

1944年太平洋戦争末期には、募集停止となり、工業学校が置かれた。戦後の学制改革で、義務課程での専門教育は行わないことが決まったため、商工学校の下級生は暫定的に作られた新制の商工学校併設中学校の生徒となり、同時に新しく設立された中等部に委託される形で授業を受けた。よって、厳密には商工学校と中等部の間で制度上の連続性はないが、実情に鑑みて中等部は商工学校の後身と見ることが可能である。なお、上級生は新制の慶應義塾第二高等学校(後の慶應義塾高等学校)に編入扱いとなった。商工学校は1949年に廃止、教職員は中等部や各高等学校に転属された。

入試[編集]

募集定員は例年、男子約140名、女子約50名であるが、慶應義塾幼稚舎からの内部進学者数により、多少変動する。幼稚舎から中等部への進学者は、例年、男子は約160名中20名程度、女子は約100名中半分程度である。

例年、2月3日に行われる一次の筆記試験と、同月5日に行われる二次の体育実技と面接からなる。合格最低点などは公表していない。受験生の層に対して筆記試験は比較的易しめであり[1]、一次と二次試験を総合して合否が決まるとされる[2]。一次試験で定員の数倍の合格者を出すため、普通部と異なり、2次面接が重視されるといえるが、一次での学力が縁故などと比べどの程度重視されるかは不明である。

進路[編集]

卒業生は、慶應義塾の設置・運営する高等学校のうち希望する学校に進学することができる。2017年度卒業生のうち、慶應義塾女子高(女子高)に92人、慶應義塾高校(塾高)に137人、慶應義塾志木高(志木高)に15人、慶應義塾湘南藤沢高等部 (SFC) に3人、慶應義塾ニューヨーク学院(慶應ニューヨーク)に3人が進学した[3]。男子は塾高へ、女子は女子高(慶應義塾女子高等学校)への進学者が比較的多い。

男子:塾高(日吉)・志木高・SFC・慶應ニューヨーク

女子:女子高(慶應義塾女子高等学校)・SFC・慶應ニューヨーク

主な卒業生[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]