立志学舎

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立志学舎(りっしがくしゃ)は、立志社が土佐に開設した教育機関。京都の「天橋義塾」などと並ぶ自由民権運動士族政社の一つ。

概略[編集]

土佐派の軍人・官僚は明治六年政変(征韓論政変)で下野した後藤象二郎板垣退助に同調する者が多く、明治6年(1873年)の年末から翌年初めにかけて続々と帰郷した。片岡健吉植木枝盛林有造らが結成した海南義社を中心にして士族反乱の中核を担っていった。(1874年1月に赤坂喰違岩倉具視を襲ったのは海南義社の土佐士族だった。)江藤新平佐賀の乱で挙兵して敗れると片岡や林を頼って土佐に逃げてきたが、土佐でもかくまいきれず、三月末に甲浦で逮捕された。板垣が高知に帰郷したのは3月26日で、彼を中心にして4月10日に立志社が結成され、士族授産と学校設立による新時代教育を開始した。

教員には慶應義塾を卒業した江口高邦徳富蘇峰の従兄弟)と深間内基矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造久米弘行森春吉が駆けつけ、慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学経済学歴史学地理学などを教授した。明治10年には永田一二吉良亨、明治11年には門野幾之進城泉太郎が赴任した。特徴的なのは、法律研究所や新聞縦覧所を置いて『高知新聞』を発行するなど多様な教育を行っていた事である。

大阪会議での板垣の参議復活や後藤の政府への復帰など、土佐での民権運動が下火になるにつれ自然消滅した。

門下生[編集]

参考文献[編集]