坂本直寛

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坂本 直寛
Naohiro Sakamoto.jpg
生誕 (1853-10-05) 1853年10月5日
日本の旗 日本 土佐国安芸郡安田村
死没 (1911-09-06) 1911年9月6日(満57歳没)
日本の旗 日本 北海道札幌市
国籍 日本の旗 日本
出身校 立志学舎
職業 武士政治家牧師
配偶者 鶴井(坂本春猪の娘)
子供 直意(長女)、直恵(次女)、直道(長男)、勝清(次男)

坂本 直寛(さかもと なおひろ、嘉永6年10月5日1853年11月5日) - 明治44年(1911年9月6日)は明治時代自由民権運動家、キリスト教牧師土佐藩郷士坂本家5代目当主であり、坂本龍馬は叔父に当たる。兄・坂本直は龍馬の養嗣子。

人物[編集]

初期[編集]

嘉永6年(1853年)、土佐国安芸郡安田村に高松順蔵・千鶴(龍馬の長姉)夫妻の次男として誕生。幼名は「習吉」。17歳の時、叔父・坂本権平の養嗣子となって「南海男(なみお)」を名乗った。

自由民権運動[編集]

明治になると立志学舎において西洋の学問を修めたのち、自由民権運動に参加し、高知県会議員となる。『土陽雑誌』などで著述活動に励む一方、東京で「三大事件建白運動」に参加して保安条例違反で投獄されたこともある。

明治11年(1878年)に高知で開催された立志社のキリスト教講演会で、講師として長老派の宣教師J・L・アッキンソンが招かれた。その後も、G・W・ナックスD・タムソンG・フルベッキなどが高知を訪問するようになり、坂本ら民権運動家はキリスト教に接近するようになる。 [1]

最初、坂本は「板垣退助伯の話を聞いて、キリスト教を広めることは外交政策條もっとも都合が良いと思うようになったが、それでも自分自身がキリスト教を信じる気持ちはどうしも起きなかった」と述べている。[2]

しかし、フルベッキ宣教師やG・W・ナックス宣教師との交流によりキリスト教を学ぶようになる。

1888年(明治21年)坂本らが出席していた高知教会での礼拝風景

キリスト者[編集]

明治18年(1885年)5月18日に高知基督教会日本基督教団高知教会)設立に伴い、武市安哉片岡健吉西森拙三板垣鉾太郎らと共に高知教会で洗礼を受け、キリスト教に入信する。[注釈 1] その後立志社の高知県での活動は、政府を攻撃する政談演説会から、キリスト教演説会に切り替えられる

明治20年(1887年)、「南海男」から「直寛」に改名した。この年、34歳で高知県会議員に当選する。高知県内で精力的に伝道を始め、政治家としては官僚主義を痛烈に批判する演説を続ける。

1887年12月26日で、明治政府への建白書を提出するために上京した坂本は、京橋星亨邸で退去命令を拒否したために、片岡健吉、武市安哉と共に京橋警察署保安条例違反で逮捕される。その後、警視庁に送られ、東京地方裁判所で軽禁固2年6か月の判決を受けて、石川島監獄に投獄される。[3][注釈 2]1889年(明治22年)に大日本帝国憲法の発布にあたり大赦により石川島監獄から出獄し、高知に帰る。

北海道開拓[編集]

盟友武市の死後、坂本らが1897年11月浦臼村に建設した日本基督教浦臼教会の新会堂

国会議員をしていた武市安哉が石狩平野視察のきっかけに、1893年(明治26年)7月国会議員を辞職して北海道開拓を始める。武市は北海道浦臼で聖園農場と聖園教会の経営を開始したが、1894年(明治27年)武市が急死する。武市が亡くなって1年半後の明治29年(1896年)夏に、坂本は沢本楠弥と一緒に、浦臼内の聖園農場を訪問し、理事員の前田駒次らと会い、北海道北見国常呂郡クンネップ原野(現・北見市)の開拓の協力を要請した。前田は坂本らをクンネップまで案内し現地調査を行う。[4]

帰郷した坂本と沢本は北海道開拓を呼び掛ける、その結果北海道開拓のための組織である北光社の設置がきまる。設置発起人として片岡健吉、土居勝郎ら16人が集まり、社長に坂本、副社長に沢本が選出される。[5]

明治30年(1897年)春、北海道北見のクンネップ原野に一族を挙げて移住し、北光社農場建設に参加することになった。[5][注釈 3][注釈 4] 明治31年(1898年)1月に高知市で北光社の創立総会が開催された。北光社移民団の入植は3年で合計221戸になった。しかし、坂本は第二次移民団が入植する直前の、明治31年(1898年)5月に聖園農場の前田駒次を社長に招聘し、坂本は社長を辞任し、聖園農場の経営をすることを決意し、高知にいた4人の子供を呼び寄せ共に浦臼に転居した。[6][7]

しかし、その年の秋に、大雨により石狩川が氾濫し畑が大水害に襲われる。坂本は上京し大隈重信内閣内務大臣板垣退助に救済を陳情し、救済金80万円が決定された。その結果、石狩川の治水事業が開始される。[6][7]また、同様に水害で困難にあっていた北海道同志教育会学田農場の集会(現・遠軽教会)ためにG・P・ピアソン宣教師らと援助を行う。[8]

この時、キリスト教系新聞「北辰日報」の主筆への誘いがあり一家で札幌に転出する。[6]

牧師時代[編集]

明治35年(1902年)には、「聖園農場」の経営を義姉・留と甥・直衛に任せて旭川日本キリスト教会旭川教会に転出することになる。翌年には旭川2条通11丁目に新会堂を建設する。[9]

明治38年(1905年)釧路で坂本商会設立。釧路を本拠地とする。 明治40年(1907年)4月にG・P・ピアソン宣教師と共に十勝監獄(現・帯広刑務所)の囚人の伝道をする。[注釈 5]

旭川師団歩兵第27連隊の軍人に対する伝道に尽力している[10]その後、札幌北一条教会の牧師になる。札幌からしばしば聖園教会の応援にも訪れた。[7]

夕張炭鉱の労働者らが結成した大日本労働至誠会の会長も務めた。

明治44年(1911年)9月6日夕方、札幌の病院で亡くなる。墓は札幌市中央区にある。[10]

親戚・家族[編集]

  • 鶴井(坂本春猪の娘)
  • 翠(後妻)
  • 鹿(後妻)
子女
  • 直意(長女)
  • 直恵(次女)
  • 直道(長男、郷士坂本家6代目当主、のちに直の次男・直衛の養嗣子となり、坂本龍馬家を相続、その第4代当主となる)
  • 勝清(次男、土居家に養子)
  • 娘婿:浜武弥太郎(直意の婿養子で郷士坂本家7代目当主)
  • 直行(山岳画家、直意と弥太郎の子で郷士坂本家8代目当主)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 坂本は当時の信仰について、「信仰心は実に薄弱で、人前では祈祷ができず、家にいても心からの祈りをささげることができなかった。私が受洗したのは福音的に神を信じたのではなく理論的に信じ、社会的にキリスト教を受け入れたのである」と語っている。その後、義母の回心の経験を通して、深い悔い改めを知るようになり信仰に目覚める。(守部 2010, pp. 48)
  2. ^ 石川島監獄の劣悪な環境にあって、極限状態で信仰が深められたと言われる。(守部 2010, pp. 51)
  3. ^ 高知の小作人を中心とした第一次移民112戸の住民が坂本と沢本に引率されて、高知を出発し、舟で網走まで行き、そこから100km以上を徒歩で移動しクンネップ原野に到着する。そこに仮小屋を建てて開拓を始めた。(守部 2010, pp. 51)
  4. ^ 年後1903年5月北光社本部で礼拝が開始され、1903年に北光社講義所を設置、橋本宗之進、西堀拙三伝道師らが活動した。1913年には野付牛町(現・北見市)に会堂を設置し、1922年正式に教会を建設した。 (五十嵐 2010, pp. 70)
  5. ^ 仙人もの囚人の前で、十字架にかかったキリストの愛を語る。それを聞いた看守も涙を流し、囚人も罪を悔い改めた。この現象は十勝市内のキリスト教会も飛び火した。(守部 2010, pp. 52)

出典[編集]

  1. ^ 守部 2010, p. 46
  2. ^ 守部 2010, p. 47
  3. ^ 合田 2004, p. 250-252
  4. ^ 合田 2004, p. 255
  5. ^ a b 合田 2004, p. 256
  6. ^ a b c 合田 2004, p. 258
  7. ^ a b c 金田 1988, p. 739
  8. ^ 五十嵐 2011, p. 70
  9. ^ 五十嵐 2011, p. 57
  10. ^ a b 合田 2004, p. 259
  11. ^ 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、昭和60年(1985)。『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006)。[1]

参考文献[編集]

事典[編集]

  • 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年ISBN 4-7642-4006-8 
    • 金田隆一、「聖園教会」 『日本キリスト教歴史大事典』、1988年、123頁。 
    • 金田隆一、「聖園農場」 『日本キリスト教歴史大事典』、1988年、123頁。 
    • 金田隆一、「武市安哉」 『日本キリスト教歴史大事典』、1988年、123頁。 
    • 金田隆一、「坂本直寛」 『日本キリスト教歴史大事典』、1988年、123頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]