中曽根弘文
中曽根弘文 なかそね ひろふみ | |
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生年月日 | 1945年11月28日(78歳) |
出生地 | 群馬県高崎市 |
出身校 | 慶應義塾大学商学部 |
前職 |
旭化成工業社員 中曽根康弘衆議院議員秘書 |
所属政党 | 自由民主党(伊吹派→無派閥) |
称号 | 商学士 |
親族 | 父・中曽根康弘 |
公式サイト | 中曽根弘文ホームページ |
第141代 外務大臣 | |
内閣 | 麻生内閣 |
在任期間 | 2008年9月24日 - 2009年9月16日 |
第126・127代 文部大臣 | |
内閣 |
小渕内閣 第2次改造内閣 第1次森内閣 |
在任期間 | 1999年10月5日 - 2000年7月4日 |
第59・60代 科学技術庁長官 | |
内閣 |
小渕内閣 第2次改造内閣 第1次森内閣 |
在任期間 | 1999年10月5日 - 2000年7月4日 |
選挙区 | 群馬県選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1986年7月8日 - 現職 |
中曽根 弘文(なかそね ひろふみ、1945年(昭和20年)11月28日 - )は、日本の政治家。参議院議員(5期)、自由民主党参議院議員総会長(第27代)、自由民主党群馬県連会長。父は中曽根康弘元首相。
外務大臣(第141代)、文部大臣(第126・127代)、科学技術庁長官(第59・60代)を歴任。
経歴
生い立ち
中曽根康弘・蔦子夫妻の長男として群馬県高崎市に生まれる。高崎高校、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学商学部卒業。学位は商学士。大学では、陸上ホッケー部に所属していた。大学卒業後、1968年旭化成入社。1983年退社し、以後は父親の秘書を務める。
参議院議員
父・中曽根康弘が首相であった1986年の衆参同時選挙で群馬県選挙区から出馬し、初当選した。自民党内では文教族で知られ、小渕再改造・第1次森両内閣で文部大臣・科学技術庁長官を務めた。1996年6月には参議院議院運営委員長に就任した。
参院亀井派会長
2004年参院選後、参院の森派(当時)幹部は、参議院議員会長に青木幹雄参院幹事長(当時)、参議院議長に中曽根を充てる人事を構想し、中曽根が所属する亀井派(当時)もこれに追随する。しかし、参議院議員会長に就任した青木は事前の約束を反故にし、扇千景を参院議長に推した。森派会長の森喜朗は当初から扇を推しており、直前まで扇を国土交通大臣に起用していた小泉首相も森に同調。結局、青木の後押しにより扇が参院議長に就任し、中曽根は参議院予算委員長、参院亀井派会長になった。
2005年の郵政国会では、参院亀井派会長である中曽根の動向が注目された。衆議院では綿貫民輔や亀井静香ら大物議員が造反し、参議院での可決が微妙な情勢の中で執行部・反執行部双方の説得が続いていた。参議院では郵政法案反対結集の中心人物になりうる大物議員が存在しない状況下で、中曽根が8月5日法案への反対票を投じることを明言し、法案否決への決定的な大きな流れをつくった。これについて、父・康弘は「息子は私の言うことは聞かない人だから」と評した。8月8日、郵政民営化法案の参議院本会議では、予告通り反対票を投じ法案は否決された。だが、その後の衆議院解散に伴う9月11日の第44回衆議院議員総選挙で、自由民主党が圧勝したことを受けて、翌12日に法案に賛成する意向を表明し、反対票を投じた参院旧亀井派の残り10人も賛成に回る、と会見で明らかにした。これを受けて、10月14日の参議院本会議において賛成票を投じ、郵政民営化法案は可決された。その後、国会参議院予算委員長を辞任。年齢、実績、当選回数から次期参議院議長候補の筆頭に目されていたが、郵政採決での参議院の戦犯と党内で槍玉に挙げられたことから、党内での地位が大幅に低下した。一方、郵政法案に最後まで反対した平沼赳夫は「親子2代の風見鶏」と中曽根の変節ぶりを激しく批判している。
2006年1月参議院教育基本法に関する特別委員長に就任。2007年、参議院選惨敗の引責辞任を表明していた青木幹雄参議院議員会長の後任に、尾辻秀久元厚労相が浮上すると、これに対抗して名乗りを上げたが、支持が広がらず出馬を断念。2007年9月参議院懲罰委員長に就任した。
2007年12月、北朝鮮との国交正常化実現を目指す議員連盟、自民党朝鮮半島問題小委員会を立ち上げ、副委員長に就任した。
2008年9月、麻生内閣で外務大臣に就任。自民党には「参議院議員の入閣は一度きり」という慣例があるが、それを破り、重要閣僚の外務大臣に就任したことは極めて異例である。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で自民党は惨敗を喫し、麻生内閣の退陣に伴って外務大臣を退任。総選挙後、自民党党紀委員長に就任した。2010年4月には、自民党に離党届を提出し、それぞれたちあがれ日本・新党改革の結党に参加した与謝野馨元財務大臣[1]、舛添要一元厚生労働大臣の除名処分を決定した[2]。
第22回参議院議員通常選挙
2010年7月、第22回参議院議員通常選挙に自民党公認で群馬県選挙区から5選を目指し出馬。群馬県選挙区は第20回参議院議員通常選挙までは2人区であったが、改選議席数が1議席に減ったため、群馬県選挙区は全国で唯一、自民党の中曽根、民主党の富岡由紀夫の現職同士が対決する1人区となった。
中曽根陣営は、選挙対策本部の最高責任者である選挙対策事務長に福田康夫元首相、選挙対策本部長に小渕優子を据え、他にも群馬県選出の佐田玄一郎や山本一太、自民党公認の大澤正明群馬県知事ら、自民党群馬県連総出の組織型選挙を展開。福田や小渕が加わったこの選挙対策本部の布陣は、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三が長年、熾烈な争いを繰り広げてきた上州戦争の雪解けの象徴として注目された。
中曽根は民主党の現職富岡由紀夫にダブルスコアの大差をつけ、参議院群馬県選挙区史上最多の55万票を獲得して5選を果たし、群馬県選挙区の議席を死守した。
自民党参議院議員総会長
この参院選挙の結果、参院では再び与野党が逆転したため野党側から参議院議長、議院運営委員長のポストの獲得を目指す動きが起こり、次期参議院議長候補に山東昭子、尾辻秀久らとともに名前が挙がったが[3]が、野党共闘が不調に終わり、自民党は議院運営委員長に鈴木政二参院国会対策委員長を送り込んだものの、議長のポストは獲得できず、参院議長には民主党の西岡武夫が選出された。あわせて尾辻秀久が副議長に就任したため、空席となった参議院議員会長に町村・額賀・古賀の3派閥が推す谷川秀善参院幹事長が名乗りを上げると、中曽根は「派閥均衡や年功序列によらない人事」[4]を掲げて立候補した。中曽根の出馬により従来の無投票選出の慣例が破られ、8月11日に自民党結党以来初めて、参議院議員会長選挙が実施された[5]。なお、初当選以来一貫して父・康弘が率いる中曽根派及びその後継の派閥(渡辺美智雄派 - 村上・亀井派 - 江藤・亀井派 - 亀井派 - 伊吹派)に所属していたが、2010年8月、「脱・派閥」を掲げて参議院議員会長選挙に出馬するために伊吹派を退会した。
参議院自民党の所属議員83人のうち82人(山田俊男は海外出張中であり、期日前投票の制度が設けられていないため棄権)の投票の結果谷川、中曽根の両者が40票で同数だったためくじ引きが行われ、中曽根が参議院議員会長に就任した[6]。
2010年9月14日、新しい取り組みとして、長時間をかけて今後の党運営や参議院の在り方について党所属参議院議員と自由に意見交換する目的で自民党参議院議員総会が開催された。旧来の自民党参議院議員総会では本会議の15分前からスタートして短時間で終わることがほとんどであった。
2011年10月、参院自民党役員人事で当初小坂憲次幹事長、山本一太政策審議会長の再任を模索していたが、町村・額賀・古賀3派の反対により断念し、「鴻池祥肇幹事長・山本一太政策審議会長」の人事案を提案するも、議員総会で否決され、人事の再考を余儀なくされる。結局小坂、山本のいずれも退任させ、元国家公安委員会委員長の溝手顕正を参院幹事長に、元内閣官房副長官の岩城光英を参院政策審議会長に、町村・額賀・古賀3派の意向を汲んで起用した。
人物
- 親韓派であった父・中曽根康弘元首相の韓国人脈を受け継いでおり、全斗煥元大統領ら韓国政界に強いパイプを持っている。そのため、戦後の文相として初めて訪韓することができた[7]。
- 胆力に欠けるとの評もある反面、気配りの政治家といわれる[8]。
親族
- 祖父 小林儀一郎(元明治大学教授、理学博士)
- 父 中曽根康弘(元首相)
- 子 文子、2009年10月に川鍋一朗(日本交通第3代社長)と結婚
- 甥 双川正文(フジテレビプロデューサー、お笑い芸人「ふたじろう」)
- 義理の兄弟 渥美直紀(鹿島建設代表取締役副社長、鹿島守之助の孫)
所属団体・議員連盟
- 北京オリンピックを支援する議員の会副幹事長
- 自民党朝鮮半島問題小委員会副委員長
- 日韓議員連盟副幹事長
- 群馬県銃剣道連盟会長
- 日本会議国会議員懇談会会長代行
- 真の人権擁護を考える懇談会
- 創生「日本」
- 親学推進議員連盟(副会長)
秘書
- 山崎学/AIU保険代理 ヤマザキ産業
脚注
- ^ たちあがれ日本共同代表に就任するも2011年1月に離党し、無所属のまま菅再改造内閣に入閣
- ^ なお、この2名を除く、総選挙後に離党した園田博之ら5人の離党届は受理された。
- ^ “参院選:野党、統一の議長擁立へ調整 臨時国会に向け”. 毎日新聞. (2010年7月12日) 2010年7月12日閲覧。
- ^ 私の決意 2010年08月06日
- ^ “参院会長、選出へ=谷川、中曽根氏が立候補-自民” (日本語). 時事通信. (2010年8月11日) 2010年8月11日閲覧。
- ^ “自民参院会長に中曽根弘文氏、同数でくじ引き” (日本語). 読売新聞. (2010年8月11日) 2010年8月11日閲覧。
- ^ 産経新聞 2008年9月24日[リンク切れ]
- ^ 中曽根弘文氏の横顔 気配りの政治家 産経新聞 2010年8月11日
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 高村正彦 |
外務大臣 第141代:2008年 - 2009年 |
次代 岡田克也 |
先代 有馬朗人 |
文部大臣 第126・127代:1999年 - 2000年 |
次代 大島理森 |
先代 有馬朗人 |
科学技術庁長官 第59・60代:1999年 - 2000年 |
次代 大島理森 |
先代 有馬朗人 |
総理府原子力委員会委員長 第59・60代:1999年 - 2000年 |
次代 大島理森 |
議会 | ||
先代 簗瀬進 |
参議院懲罰委員長 2007年 - 2008年 |
次代 藤井孝男 |
先代 片山虎之助 |
参議院予算委員長 2004年 - 2005年 |
次代 小野清子 |
先代 下稲葉耕吉 |
参議院議院運営委員長 第49代:1997年 - 1998年 |
次代 岡野裕 |
先代 斎藤文夫 |
参議院商工委員長 1993年 - 1994年 |
次代 久世公堯 |
党職 | ||
先代 尾辻秀久 |
自由民主党参議院議員会長 第27代:2010年 - |
次代 現職 |