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[[1962年]]に[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]に入団。[[1965年]]にトップチームの公式戦にデビュー。同年、19歳で[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]に初選出され[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦に出場した。
[[1962年]]に[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]に入団。[[1965年]]にトップチームの公式戦にデビュー。同年、19歳で[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]に初選出され[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦に出場した。


[[1970年]]の[[1970 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]]では、左ウイングのレギュラーとして3得点をあげるなど活躍、優勝に貢献した。[[ペレ]]、[[トスタン]]、[[ジャイルジーニョ]]、[[ジェルソン・デ・オリヴェイラ・ヌーネス|ジェルソン]]、[[クロドアウド・タバレス・デ・サンターナ|クロドアウド]]らを擁したブラジルは、7戦全勝と強さを見せつけ、史上最強のブラジル代表といわれた。
[[1970年]]の[[1970 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]]では、左ウイングのレギュラーとして、グループリーグ初戦で1ゴール、準々決勝の[[サッカーペルー代表|ペルー]]戦では1ゴール2アシスト、準決勝の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦でも1ゴール<ref name=transfer>{{cite web | url =https://www.transfermarkt.co.uk/roberto-rivelino/nationalmannschaft/spieler/10201| title=Rivelino| publisher=transfermarket| accessdate =17 March 2021}}</ref>、決勝の[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦では1アシストと3ゴール3アシストの活躍で<ref name=transfer/>、優勝に貢献した。[[ペレ]]、[[トスタン]]、[[ジャイルジーニョ]]、[[ジェルソン・デ・オリヴェイラ・ヌーネス|ジェルソン]]、[[クロドアウド・タバレス・デ・サンターナ|クロドアウド]]らを擁したブラジルは、7戦全勝と強さを見せつけ、史上最強のブラジル代表といわれた。


ペレの引退後のブラジル代表ではトップ下の位置で背番号10をつけ、ペレの後継者として活躍した。[[1974年]]の[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]でも3得点をげた。この大会では対[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]戦では、相手選手の作った壁の間にはいったジャイルジーニョがリベリーノがボールを蹴る直前にしゃがみ込み、そのわずかなすき間を通過させるという、トリッキーなゴールを決めた[http://www.youtube.com/watch?v=Rm9aKk3hTKw]。
ペレの引退後のブラジル代表ではトップ下の位置で背番号10をつけ、ペレの後継者として活躍した。[[1974年]]の[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]でも2次リーグの3試合で2ゴールを挙げるなど、合計3得点をげた<ref name=transfer/>。この大会では対[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]戦では、相手選手の作った壁の間にはいったジャイルジーニョがリベリーノがボールを蹴る直前にしゃがみ込み、そのわずかなすき間を通過させるという、トリッキーなゴールを決めた[http://www.youtube.com/watch?v=Rm9aKk3hTKw]。


[[1978年]]の[[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]では大会に入ってからの足の負傷で3試合の出場にとどまった。リベリーノはワールドカップに3度出場、15試合6得点。代表公式戦には通算122試合出場、43得点をあげた。
[[1978年]]の[[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]では初戦[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]戦ではフル出場するも<ref name=transfer/>、足の負傷で3試合の出場にとどまった。リベリーノはワールドカップに3度出場、15試合6得点。代表公式戦には通算122試合出場、43得点をあげた。


晩年は[[サウジアラビア]]の[[アル・ヒラル]]でプレーし[[1982年]]に引退。
晩年は[[サウジアラビア]]の[[アル・ヒラル]]でプレーし[[1982年]]に引退。


=== その後 ===
=== その後 ===
[[1994年]]セカンドステージから[[清水エスパルス]]の監督に就任したが,成績不振のためこの年限りで辞任した。
[[1994年]]セカンドステージから[[清水エスパルス]]の監督に就任したが,成績不振のためこの年限りで辞任した。また、後にブラジル代表選手となる[[ジャウミーニャ]]を入団させた。
[[澤登正朗]]へFKの個人指導をする等、自らの技術をチームに伝える指導に熱心であった。
また、後にブラジル代表選手となる[[ジャウミーニャ]]を入団させた。彼はチーム在籍1年であったが、ドリブルからシュートまで持っていける個人技でチームの攻撃を担った。(その後、彼は[[パルメイラス]]を経て、[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]で1997年~2004年まで在籍。(2002-2003年のレンタル移籍も含む)ピッチの魔術師と言われ、ヨーロッパの舞台に活躍した。)


[[1999年]]、 [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]誌の[[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人]]で38位に選出された。
[[1999年]]、 [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]誌の[[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人]]で38位に選出された。

2021年3月25日 (木) 05:09時点における版

リベリーノ
名前
本名 ロベルト・リベリーノ
Roberto Rivelino
愛称 リーバ
ラテン文字 RIVELINO
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1946-01-01) 1946年1月1日(78歳)
出身地 サンパウロ市
身長 169cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション FW/MF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1962-1975 ブラジルの旗 コリンチャンス 471 (141)
1975-1978 ブラジルの旗 フルミネンセ 158 (53)
1979-1982 サウジアラビアの旗 アル・ヒラル 57 (23)
代表歴
1965-1978 ブラジルの旗 ブラジル 122 (43)
監督歴
1994 日本の旗 清水エスパルス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ロベルト・リベリーノ(Roberto Rivelino, 1946年1月1日 - )は、ブラジルサンパウロ出身の元サッカー選手、指導者である。元ブラジル代表で、現役時のポジションはフォワードミッドフィールダーだった。ニックネームはリーバ(ヒーヴァ)。名前はホベルト・ヒヴェリーノとも表記される。1978年のワールドカップメンバーに共に名を連ねたゼ・セルジオは甥にあたる[1]イタリアモリーゼ州イゼルニア県マッキアゴーデナにルーツを持つイタリア系ブラジル人である[2]

利き足である左足から巧みなフェイント、正確なパスや強烈なシュートを放ち、またフリーキックの名手でもあることから左足の魔術師と呼ばれた。三浦知良が幼少の頃憧れを抱いていた選手として名を挙げている[3]

経歴

選手

1962年コリンチャンスに入団。1965年にトップチームの公式戦にデビュー。同年、19歳でブラジル代表に初選出されハンガリー戦に出場した。

1970年メキシコワールドカップでは、左ウイングのレギュラーとして、グループリーグ初戦で1ゴール、準々決勝のペルー戦では1ゴール2アシスト、準決勝のウルグアイ戦でも1ゴール[4]、決勝のイタリア戦では1アシストと3ゴール3アシストの活躍で[4]、優勝に貢献した。ペレトスタンジャイルジーニョジェルソンクロドアウドらを擁したブラジルは、7戦全勝と強さを見せつけ、史上最強のブラジル代表といわれた。

ペレの引退後のブラジル代表ではトップ下の位置で背番号10をつけ、ペレの後継者として活躍した。1974年ワールドカップでも2次リーグの3試合で2ゴールを挙げるなど、合計3得点を挙げた[4]。この大会では対東ドイツ戦では、相手選手の作った壁の間にはいったジャイルジーニョがリベリーノがボールを蹴る直前にしゃがみ込み、そのわずかなすき間を通過させるという、トリッキーなゴールを決めた[2]

1978年ワールドカップでは初戦のスウェーデン戦ではフル出場するも[4]、足の負傷で3試合の出場にとどまった。リベリーノはワールドカップに3度出場、15試合6得点。代表公式戦には通算122試合出場、43得点をあげた。

晩年はサウジアラビアアル・ヒラルでプレーし1982年に引退。

その後

1994年セカンドステージから清水エスパルスの監督に就任したが,成績不振のためこの年限りで辞任した。また、後にブラジル代表選手となるジャウミーニャを入団させた。

1999年ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で38位に選出された。

2003年から2004年までコリンチャンスでゼネラルマネージャーを務めた。

エラシコ

エラシコはリベリーノが得意にしていたフェイントの一種で[5]ポルトガル語で輪ゴムの意。 リベリーノのエラシコは左足のアウトサイドをボールに軽く当て相手にその方向へ行くと思わせ、すぐ次の瞬間に同じ足のインステップで切り返し相手を抜き去るという難易度の高い技である。インステップで切り返した時にボールが指ではじいた輪ゴムのように素早く移動することからエラシコと名付けられた。 リベリーノがエラシコの発明者と広くいわれているが、リベリーノは後にコリンチャンスのチームメイトであったセルジオ越後が教えたと語っている。リベリーノが、テストマッチで初めて越後のエラシコを見た時、フルバックのエドアルドがピッチ外に出されそうになるほどのフェイントになった。リベリーノは見たものが信じられず、越後に何をしたか問うと、越後はリベリーノにやり方を教えた。越後はリベリーノに「僕が発明し、君が完璧にした」と言っている。今ではクリスティアーノ・ロナウドズラタン・イブラヒモビッチが度々使用していることでも有名である。[6][7] 最もポピュラーな使い手としては同じブラジルのロナウジーニョが有名である。彼によってエラシコの名が有名になった。

代表歴

出典

  1. ^ キリンカップサッカー 1985年 大会公式パンフレット p.24-25
  2. ^ [1]-Forche Caudine
  3. ^ カズ史上最高のゴールとゲームは? Jリーガー一問一答 三浦知良(横浜FC)-スポーツナビ 2020.2.24
  4. ^ a b c d Rivelino”. transfermarket. 2021年3月17日閲覧。
  5. ^ カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉 必殺ドリブルと“日本のガリンシャ””. number.bunshun.jp. 2020年4月9日閲覧。
  6. ^ Japan's home away from home” (英語). FIFA.com. 2014年3月21日閲覧。 '"Though the popular belief is that Ronaldinho inherited the trick from the one and only Roberto Rivellino, the fact is that it was patented by Sergio Echigo, a nisei – a child of Japanese immigrants – who played for Corinthians in the 1960s."'
  7. ^ RIVELINO Rivelino: A very special left foot” (英語). FIFA.com. 2012年8月12日閲覧。 '"Rivelino has been attributed with inventing the elástico, although he has always maintained that he learned the dribbling trick from Sergio Echigo, a midfielder of Japanese descent who was a youth-team colleague of his at Corinthians."'

外部リンク