渤海 (国)

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渤海
大震国
渤海
698年 - 926年 遼
後渤海
高麗
渤海の位置
渤海の最大領域
公用語 靺鞨語[1][2][3]
漢語[4][5][6]
宗教 仏教
儒教
道教
巫俗
首都 東牟山(698-742)
中京顕徳府(742-756)
上京龍泉府(756-785)
東京龍原府(785-793)
上京龍泉府(793-926)
国王
698年 - 718年 大祚栄
907年 - 928年大諲譔
変遷
建国 698年
滅亡928年
現在中華人民共和国の旗 中国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
ロシアの旗 ロシア

渤海(ぼっかい、中国語: 渤海朝鮮語: 발해 パレ、満洲語: ᡦᡠᡥᠠ‍ᡳ[要出典]ロシア語: Бохай698年[7] - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。

大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高麗(高句麗)の別種である。高麗が既に滅亡(668年)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し[8][9]、『新唐書』はより具体的に「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗(高句麗)に付属していた。姓は大氏である。)」と記しており[10][11]、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出自とある[12][13]

渤海」の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

歴史

高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。
満洲の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府 靺鞨
五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満洲
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
ソ連
極東
満洲国
ソ連占領下の満洲
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア
北朝鮮
薪島郡
中国朝鮮関係史
Portal:中国

690年に即位した則天武后が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。「震」という国名は『易経』にある「帝は震より出ず」から付けたものであり、「東方」を意味することから渤海の支配層が中国的教養を持っていたことが窺える[14]。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻冊封使として派遣され、大祚栄が「渤海郡王」に冊封された。

2代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(現在の山東省煙台市蓬莱市)を占領したこともあった。また唐・新羅黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。渤海国の高斉徳(大使の高仁義は到着直後に死亡)率いる渤海使節神亀4年(727年)に到着して平城京に入り、翌年の神亀5年に国書と貢物を聖武天皇に奉呈したことを端緒として、この通交は渤海滅亡の延長4年(926年)まで続いた(渤海使遣渤海使)。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、渤海国の毛皮[15]人参、日本の綾絹などが交易された。

大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣(渤海時代を通じて132回)し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京龍泉府(現在の黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華璵が即位するが短命に終わり、続いて大嵩璘が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は大元瑜大言義大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して二十数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。唐は安史の乱後の混乱と地方に対する統制の弛緩のなかで周辺諸国に対する支配体制も弱体化していき、黒水都督府を9世紀初頭に解体した。大仁秀はその政治的空白を埋めるように、拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府などの府州を設置した。また黒水部も影響下に入り、黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった、その状態は渤海の滅亡直前まで続き、渤海は「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国された契丹国(のちの)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡、契丹は故地に東丹国を設置して支配した。渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。

また東丹国の設置と縮小に伴い、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、契丹(遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、その都度多くは遼の保有する遼西や遼東の各地域へ移住させられ、または残留し、一部は高麗へ亡命し、一部は故地の北方へ戻った。黒水靺鞨(女真)が統合を果たしが建てた王朝(1115年1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼしたの代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満洲として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消した。

政治

王権

中央統治機構

地方統治機構に関してはの制度を模倣しており、『新唐書』の記載によれば三省・六部・一台・一院・一監・一局の行政機構が存在しており、名称こそ異なるが、唐の三省を模倣した行政機構が設置されていた[注釈 1]。しかし唐の制度をそのまま移植したのではなく、渤海の現状に基づき、機構を簡略化し、唐の二十四司を十二司に圧縮して編成しているのも特徴である。

宣詔省
唐の門下省に相当し、中台省が提出した政令を審議した。長官は左相であり、品秩は正二品である。その下に左平章政事が置かれ、属官として侍中がいた。
中台省
唐の中書省に相当し、政令の草案起草と修訂を担当した。長官は右相であり、品秩は正二品である。その下に右平章政事が置かれ、属官として内史がいた。
政堂省
唐の尚書省に相当し、政令の執行を担当する行政機関の頂点に位置していた。長官は大内相であり、品秩は正二品の上位であった。助手として左右の司政が置かれ、左右平章事の下に位置していた。属官には左右のニ允がいた。下部に六部を設置し統括していた。
忠部
唐の吏部に相当し、文官の採用・考課・勲封を職責としていた。
仁部
唐の戸部に相当し、土地・銭穀を職責としていた。
義部
唐の礼部に相当し、儀礼・祭祀・貢挙を職責としていた。
礼部
唐の刑部に相当し、最高司法機関を職責としていた。
智部
唐の兵部に相当し、武官人事・地図作成・車馬武器の管理を職責としていた。
信部
唐の工部に相当し、交通・水利・建築及び技術者の管理を職責としていた。
中正台
唐の御史台に相当し、最高監察機構であった。長官を大中正と称し、唐の御史大夫に相当している。
殿中寺
唐の殿中省に相当し、王室の衣食住や行幸などの生活諸般の管理を担当した。長官を大令と称し、唐の殿中監に相当する従三品であった。
宗属寺
唐の宗正寺に相当し、王族の宗親族籍を初めとする事務管理を担当した。長官を大令と称し、唐の宗正卿に相当する従三品であった。
文籍院
唐の秘書省に相当し、経籍・図書の管理を担当した。長官を文籍院監と称し、唐の秘書督に相当する従三品であった。日本に派遣された19次遣日大使の李承英の官名が「文籍院述作郎」とあり、唐の述作局に相当する「述作局」或いは「述作署」が設置されていたことが窺える。
太常寺
唐でも同名の太常寺が存在している。礼楽・郊廟・社稷の管理を担当した。長官は太常卿と称され、正三品であった。
司賓寺
唐の鴻臚寺に相当し、外交と周辺の少数民族関連業務を担当した。長官は司賓卿と称され、唐の鴻臚卿に相当する従三品であった。
大農寺
唐の司農寺に相当し、農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当した。長官は大農卿と称され、唐の司農卿に相当する従三品であった。
司蔵寺
唐の太府寺に相当し、財務、貿易の事務・管理を担当した。長官は司蔵令と称され、唐の太府寺卿に相当する従三品であった。
司膳寺
唐の光禄寺に相当し、王廷の酒食の担当した。長官は司膳令と称され、唐の光禄卿に相当する従三品であった。
冑子監
唐の国子監に相当し、渤海国内の教育を担当した。長官は冑子監長と称され、唐の祭酒に相当した。

地方統治機構

渤海の行政区分

全国は5京(首都)15府62州の行政区分に分けられ、京の下に府、府の下に州が置かれた。

  • 上京龍泉府(現在の中国黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮東京城) - 首都。龍州・湖州・渤州を管轄。
    • 竜州 - 府治が設けられた。
    • 湖州 - 忽汗海(現在の鏡泊湖)付近とされている。
    • 渤州 - 牡丹江市南部の城址に比定されている。管轄県は貢珍県のみが現在に伝わっている。
  • 東京龍原府吉林省琿春市八連城に比定) - 周囲16km、南北3.5km、東西4.5kmの方形で37カ所の宮殿を擁していた。沃沮の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州・塩州・穆州・賀州を管轄。
    • 慶州 - 府治が設けられ、龍原・永安・烏山・壁谷・熊山・白楊の6県を管轄。
    • 塩州 - 現在のポシェト湾岸クラスキノ南方の城址に比定され、日本への出発港が設けられていた。下部に海陽・接海・格川・龍川の4県を管轄。
    • 穆州 - 府の南方120里に位置し、会農・水岐・順化・美県の4県を管轄。
    • 賀州 - 位置は不明であるが、洪賀・送誠・吉理・石山の各県を管轄。
  • 中京顕徳府(吉林省和竜市) - 上京府の南方に位置した。盧州・顕州・鉄州・湯州・栄州・興州の6州を管轄。
    • 顕州 - 府治が設けられ、金徳・常楽・永豊・鶏山・長寧の5県を管轄。
    • 盧州 - 中京府の東方130里に位置し、稲の産地として史書に記録がある。下部に山陽・杉盧(さんろ)・漢陽・白巖・霜巖の5県を管轄。
    • 鉄州 - 中京府の西北100里に位置し、位城・河端・蒼山・龍珍の4県を管轄。
    • 湯州 - 中京府の西北100里に位置し、霊峰・常豊・白石・均谷・嘉利の5県を管轄。
    • 栄州 - 中京府の東北150里に位置し、崇山・水・緑城の3県を管轄。
    • 興州 - 中京府の西南300里に位置し、盛吉・蒜山(さんざん)・鉄山の3県を管轄。
  • 南京南海府北朝鮮咸興市付近) - 沃沮の故地に設けられ、渤海の南端に位置し、沃州・晴州・椒州の3州を管轄。
    • 沃州 - 府治が設けられ、沃沮・鷲巖(じゅがん)・龍山・浜海・昇平・霊泉の6県を管轄。
    • 晴州 - 南京府の西北120里に位置し、天晴・神陽・蓮池・狼山・仙巖の5県を管轄。
    • 椒州 - 南京府の西南200里に位置し、椒山・貊嶺・泉・尖山・巖淵の5県を管轄。
  • 西京鴨緑府(吉林省臨江市) - 高句麗の故地に設けられ、「若忽州」とも称された。神州・桓州・豊州・正州の4州を管轄。
    • 神州 - 府治が設けられ、神鹿・神化・剣門の3県を管轄。
    • 桓州 - 西京府の西南200里に位置し、桓都・神郷・淇水の3県を管轄。
    • 豊州 - 西京府の東北210里に位置し、州府は吉林省安図県の仰臉山城に比定されている。下部に安豊・渤恪・隰壌・硤石の4県を管轄。
    • 正州 - 富爾河の流域に位置し、東那県らを管轄。
長嶺府
高句麗の故地に設けられ、営州道の要所に位置した。現在の樺甸市の蘇密城を府城とし、瑕州、河州の2州が設けられた。
瑕州が府治であり、河州は現在の梅河口市に比定されている。
扶余府
夫余の故地に設けられ、扶州、仙州が設けられていた。
扶州は府治が設けられ扶余、布多、顕義、鵲川の4県を管轄していた。
仙州は強師、新安、漁谷の3県を管轄していた。
頡府
夫余の故地に設けられ、州、高州が設けられていた。
州は府治が設けられ、現在の昌図県の八面城に比定されており、粤喜、万安の2県を管轄していた。
高州に関しての領県については記録が残っていない。
定理府
挹婁の故地に設けられ、定州、潘州が設けられていた。
定州は府治が設けられ、現在の依蘭県城に比定され、定理、平邱、巖城、慕美、安夷の5県を管轄していた。
潘州は潘水、安定、保山、能利の4県を管轄していた。
安辺府
挹婁の故地に設けられ、現在の双鴨山市宝清県富錦市一帯に比定され、安州、瓊州(けいしゅう)を管轄していた。
安州は府治が設けられていたが、瓊州同様詳細については不明である。
率賓府
率賓の故地に設けられ、綏芬河流域に位置し、華州、益州、建州が設けられていた。
華州は府治が設けられ、現在の黒竜江省東寧市大城子に比定されている。
建州は現在のウスリースク(双城子)に比定されている。
東平府
拂涅の故地に設けられ、伊州、蒙州、沱州、黒州、比州が設けられていた。
蒙州が現在の寧城県に比定されていたこと以外、詳細は不明である。
鉄利府
鉄利の故地に設けられ、現在のウスリー江以東の日本海沿岸部に比定されている。
下部に広州、汾州、蒲州、海州、義州、帰州の6州は設けられていたが、詳細は不明である。
安遠府
越喜の故地に設けられ、率賓州の北、興凱湖の東に位置し、寧州、州、慕州、常州の4州が設けられていた。
寧州が府治であったが、それ以外に関しては不明である。
懐遠府
越喜の故地に設けられ、安遠府の北、鉄利府の南に位置し、達州、越州、懐州、紀州、富州、美州、福州、邪州、芝州の9州が設けられていた。
達州は懐福、豹山、乳水などを管轄していた。
富州は富寿、新興、優富などを管轄していた。
美州は山河、黒河、麓河などを管轄していた。
独奏州
独奏州とは府に統括されず、京師に直接上奏できる州である。
渤海では郢州、銅州、州が独奏州として記録に残り、王室に直属していた。
郢州は延慶、白巖の2県を統括していた。
銅州は上京の南、現在のハルバ嶺一帯に比定され、花山県などを管轄していた。
州は現在の吉林市付近に比定されている。

上記州以外に『遼史』に記録されている集州(奉集県を管轄)、麓州(麓郡、麓波、雲山の3県を管轄)を加えることで62州となり、『新唐書』に記載される62州に合致する。しかし前記の地方統治機構は渤海存続期間において絶対的な制度ではなく、『遼史』の地理志に「安寧郡」や「龍河郡」という記録もあり、渤海前期には見られなかった「郡」が出現していることからも明らかである。このほか政治・軍事上の理由から唐制に倣い節度使を設けている。『遼史』太祖紀・下に節度使来朝の記録があり、節度使存在の傍証といえる。

軍事制度

渤海では唐制の16衛に倣い左右猛賁、左右熊衛、左右羆衛、南左右衛、北左右衛の10衛が中央に設けられていた。また地方には府兵制が確立されていたと考えられている。しかし渤海後期になると、府兵制が次第に崩壊し、左右の神策軍、左右三軍が設置された。これらは唐の北衙六軍との関連が認められ、渤海王室が設置した常備軍であった。

の軍事制度を模倣したものであることは『新唐書』の記載によれば、以下の通りである。

其武員有左右猛賁、熊衛、羆衛、南左右衛、北左右衛、各大將軍一、將軍一。大抵憲象中國制度如此。 〈(渤海の)武員には、左右の猛賁(衛)熊衛・羆衛と、南左(衛)・(南)右衛と北左(衛)・(北)右衛(の十衛)があり、それぞれ大将軍一人、将軍一人が置かれた。(渤海の官制の)手本がたいてい中国の制度に倣ったものであるというのは、かこくごとしである[18]。〉 — 『新唐書』渤海伝

司法制度

渤海の司法制度に関しては、文宗の時代に大彝震の治世には法律の運用面で国内が安定していた事を示す史料があり、渤海は法律面でも整備が進んでいた事の傍証となっている。律令格式は他の統治方式同様に唐制を模倣したものと考えられている。

司法機関としては中正台、礼部、大理寺が任務に当った。

中正台
渤海最高の監察機関であり、長官の大中正は官民の監督の他、王室内部の粛清や、礼部、大理寺と重要案件を審議する権限を有していた。
礼部
渤海最高の司法機関であり、徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた。
大理寺
渤海最高の裁判機関であり、訴訟を担当すると共に、礼部とともに裁判員の人選を行っていた。

対外関係

交通

陸上交通

陸上交通は上京府を中心に全国の京・府・州・県に放射状に道路が整備されていた。その交通路は現在の道路、鉄道に沿ったものと考えられている。またこれらの中央からの道路以外にも、5京と旧国の間にも道路が整備されていた。

道路の中で最も重要なのは「営州道」と称されるものである。これは渤海からに向かう朝貢使などが使用するものであり、営州(現在の朝陽市)であり、唐が東北地区を支配する要所とされていた地域であり、燕郡城(現在の義県)、安東都護府(現在の遼陽市)、新城(現在の撫順市付近)、長嶺府(現在の樺甸市付近の蘇密城)を経て上京に至る1200km弱のルートである。

新羅への交通は南京府を中心とする「新羅道」が存在していた。『三国史記』地理志には「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載があり、泉井郡(現在の江原道元山市)より柵城府、則ち上京府までの道路の整備状況をうかがい知ることが出来る。この他契丹との交通には扶余府を起点とする「契丹道」が設けられていた。

水上交通

Kraskino Castleの位置(ロシア内)
Kraskino Castle
Kraskino Castle
渤海使の出発地・塩州城(クラスキノ土城

渤海の海上交通は新羅日本への通交に利用されていた。唐への交通は『新唐書』地理志に登州より渤海への交通路が記録されており、登州(現在の蓬莱市)を起点に亀歆島(現在の砣磯島)を経て烏湖海(現在の渤海海峡)を渡り、更に烏骨江(現在の愛河)を遡上し西京府に至る「朝貢道」と称される道程が示されている。

新羅への海上交通であるが、南海府の吐号浦(現在の鏡城郡)から朝鮮半島の東沿岸を南下するルートと、西京府から鴨緑江に沿って海上に進み、更に朝鮮半島西沿岸を南下するというルートが存在していた。しかし王都から距離のある西ルートは東ルートほど活発に利用されることはなかったようである。

日本への海上交通は「日本道」とよばれるものである。起点は上京府を基点とし陸路塩州(現在のロシア連邦クラスキノ)に至りそこから海上を進むというものである。現地クラスキノのポシェト湾近くには、主発拠点の塩州城跡と推定されるクラスキノ土城遺跡がある[19]。海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)に至るルートである。当時の日本朝廷は外交を管轄する大宰府を筑前に設置していたため、渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった。第2のルートが「南海路」と称されるルートである。南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルートであるが、776年に暴風雨により使節の乗った船団が遭難、120余名の死者を出してからは使用されていない。第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、日本海を一気に東南に渡海し、能登加賀越前佐渡に至るルートである。当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、また航海日数の短縮も実現した。

外交

唐との関係

大祚栄が震国を建国した当初は、武則天夷狄から収奪する方策を執っていたためと対立していた。そのため当初は突厥新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。

招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの良好な待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられる。

この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は自治政権を確立すると同時に、羈縻体制下での外交関係を継続していた。

なお唐滅亡後は、渤海は中原王朝との外交関係を継続している。

突厥との関係

698年の渤海(当時は「震」)建国当初は東突厥の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、東突厥第二可汗国の第2代阿史那默啜を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を東突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は東突厥の属国としての地位を甘受することになり、東突厥から派遣される吐屯(トゥドゥン)により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。

その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると東突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、東突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に東突厥と断交している。

734年、東突厥は渤海に使者を派遣し、契丹の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て東突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後、東突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年回紇により東突厥は滅亡した。

契丹との関係

渤海建国に当たっては営州の反乱と契丹の反唐活動により、大祚栄が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。720年が渤海に対し契丹及びへの攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、これを拒否していることからも推測されるものである。

しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『新唐書』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。

渤海末年、渤海の勢力は衰退し、926年には契丹人による国家、により滅ぼされ、その故地には東丹国が建国された。

新羅との関係

最大領域時代の渤海国と新羅

698年に震国が建国された際に新羅はかつての百済全土及び高句麗の一部を領有すると共に、北進政策を採用して渤海の安定を脅かすようになった。またその渤海はと対立しており、唐の脅威を抑え、同時に新羅の北進を牽制するため新羅に接近する政策を採用した。当初は新羅の藩屏と称し、新羅の五品の官職である大阿を授位されている。しかしその後渤海と唐の関係が好転するに従い、渤海と新羅の関係は変質し、大武芸の時代になると高句麗の故地の回収が目標となり両国関係は緊張、それは721年に新羅が北辺に長城を築城したことに現れている。

渤海と唐が「登州の役」で対立した際、新羅は唐の出兵の求めに応じ渤海を攻撃したが、悪天候に阻まれ新羅軍は大損害を蒙っている。この出来事は新羅の北進政策を抑制すると共に、唐と新羅の対立を政治的に解消させる効果をももたらした。新羅はこの功績により唐から寧海大使の地位を与えられ、浿江以南の高句麗の故地統治を正式に承認させることに成功したが、同時に渤海を牽制する役割をも担うこととなり、渤海と新羅は厳然と対立することとなった。

新羅との対立という状況に際し、渤海は日本と通好することで新羅を背後から牽制することを画策した。安史の乱に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫したことで、軍事的解決の姿勢を放棄し、以降は政治的解決を模索するようになる。新羅側から790年一吉(7品)の伯魚を、812年(9品)の崇正を渤海に派遣していることは、政治的な安定を模索した結果であり、新羅道の発展を創出することになる。

この良好な関係も、大仁秀が即位して渤海の領土拡張を目指すようになると、再び両国の均衡は崩壊することになる。826年には新羅の憲徳王浿江に300里の長城を築城したことからも情勢の変化を読み取ることができる。

次に両国の関係が好転するのは10世紀の契丹の勃興という外的要因による。渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解を図る。しかし当時の新羅は国勢が衰退し、既に後三国の時代に入っており、軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、そればかりか渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。新羅は一面で渤海に同調するそぶりを見せ、反面に使者を送り方物を献じるという二面性の外交を展開した。遼が王都の忽汗城を包囲した際には、新羅は渤海に出兵し、更にこの軍功により耶律阿保機により褒賞を受けている。

新羅と渤海は没交渉であり、史料上では全時代を通じて新羅から渤海へ2回の使節の派遣が確認されるだけであるが、韓国では記録が逸失したに過ぎないという主張もあるが、李成市は「そうした解釈の余地はほとんどない」として以下の2つの理由を挙げている

  1. 新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の長人記事(渤海 (国)#新羅人の渤海認識)は、8世紀から9世紀の新羅・渤海国境付近の政策と新羅人の渤海人に対するイメージを象徴しており、渤海人に対する異形のイメージと新羅が渤海国境付近に強大な軍事施設である西北の浿江鎮典、東北の関門を設置したことから、新羅と渤海に頻繁な交渉を推定することはできない[20]
  2. 渤海衰退期から新羅と渤海の国境付近で靺鞨族が出没・交易を求めた歴史があり、886年に渤海所属の2つの部族が新羅の北鎮に対して、直接の接触を避けながら、文字を記した木片を持って通交を申し出る事件があり[注釈 2]、日常的な交渉があるならば、このような形式の申し出は有り得ず、新羅と渤海の没交渉を反映しており[23]、敵対する新羅国境付近の靺鞨族を管理・統制することは渤海の国家存立に係る事案であり、族(後の靺鞨族)は古来より魚類・毛皮を遥か中国内陸部まで、もたらす遠隔交易を生業とする狩猟・漁労の民であり、渤海の対外交易は、これらを生業にする靺鞨族の交易を国家的に編成したのであり、靺鞨族を包摂・統合した渤海王権は新羅と隣接する靺鞨族の他地域との交易を管理・統制することは政治的安定とって必須であり、従って、渤海滅亡後に高麗と旧渤海人と過剰な交渉がの建国まで展開されるなど渤海衰退期からの新羅と渤海国境付近の交渉活発化は、渤海の衰退・滅亡によってもたらされた現象であることが推察される[24]

渤海の存続期間全体を俯瞰するに、渤海と新羅の両国は対立の歴史と捉える事が可能である。

新羅人の渤海認識

田中俊明李成市古畑徹によると、8世紀の記録には、新羅人が新羅の東北境の住民である渤海人のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この異人視は渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感を示し、それだけの異域であったことの証左であり、新羅および渤海の辺境地帯の地域住民に対して、これだけの異域観がみられることから、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと指摘している[25]。長人記事とは、『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の以下の記事である[26]

新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。 〈新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る[27]。〉 — 『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅
新羅國、東南與日本鄰、東與長人國接。長人身三丈、鋸牙鉤爪、不火食、逐禽獸而食之、時亦食人。裸其軀、黑毛覆之。其境限以連山數千里、中有山峽、固以鐵門、謂之鐵關。常使弓弩數千守之、由是不過。 〈新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず[28]。〉 — 『太平広記』巻四八一・新羅条

李成市は、「関門」或いは「鉄関城」は新羅東北の井泉郡に位置しており、そこには「炭項関門」乃至は「鉄関城」という軍事施設があり、そこに隣接する東の集団は渤海領域民以外にはあり得ず、長人は井泉郡以北の渤海人とみて間違いなく、長人は新羅辺境の軍事的緊張に密接に関係しており、長人の異形、食人描写からみて、長人が恐怖の対象となっており、長人の人間とは異なる身体的特徴、食人描写、人間の女性を捕らえて衣服を作らせるという記事は異形異類の伝承であり、一般的に異民族は、人間と異なる身体的特徴をもつ異形とされ、敵対者は或いは自らの理解を越えたコスモロジーを持つ人は、人間でなく動物或いは妖怪の類であることが指摘され[29]18世紀の『択里志』は朝鮮半島東北について以下記しており、朝鮮半島東北の厳しい自然環境は、飲食・衣類の欠乏に及んでおり人々は犬の毛皮をまとっており、長人記事の「黒毛もて身を覆う」や「婦人を得て、以て衣服を治めしむ」内容は、18世紀に至っても衣服の類が欠乏していた朝鮮半島東北部の実情を仮託して創作されたとみなすこともでき、長人は、朝鮮半島東北の人々の習俗に根ざし、日常的な没交渉と軍事的緊張が加味されて醸成された新羅人の幻影の所産であり、「新羅人にとって国境を接する渤海人とは、異形であり、恐怖の対象」「渤海人を恐怖の対象とするにいたった両者の長期間にわたる没交渉と軍事的緊張が、こうした説話の醸成に深くかかわっていた」と指摘している[30]

〈以北、山川危険にして、風俗勁悍なり、土寒く地痩せ、穀は惟だ粟麦のみ、粳稲少なく、綿絮無し、土人は狗皮を以て冬を禦ぐ、性飢寒を堪えること一に女真の如し、山に貂參饒く、民は貂參を以て南商の綿布と換え、方に衣袴を得んとす、然るに富厚に非ざる者は能わざる也[31]。〉 — 『択里志

との関係

(ウイグル)は鉄勒諸部の一つであり、バイカル湖南方で遊牧を中心に生活していた。8世紀半ばに東突厥を滅ぼし、またを支援して安史の乱を平定するなどの軍事活動を行うと同時に、経済活動も活発に行われ、渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。回商人の足跡は上京府以外にも、率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、古ウスリーク城からは突厥文字が刻字された回人の遺跡が、沿海州チャピゴウ河岸の渤海寺院跡から出土した景教の陶牌からも回人の渤海に於ける活動を示している。しかしその文化・経済交流も840年回鶻(回)の政権崩壊により消滅した。

黒水靺鞨との関係

渤海建国当初は黒水靺鞨諸部は独立した勢力を有しており、またとの対立と、周辺諸部に対する支配強化を推し進める渤海は黒水靺鞨に対し懐柔策を採用した。当初は突厥の支配を受けていた黒水靺鞨であるが、次第に突厥の支配を脱し唐へ帰属する路線への転換を図った。722年に首長の倪属利稽が朝見し、勃利州刺史に冊封され黒水府を設置するに至ると、唐と黒水靺鞨による渤海挟撃を危惧した大武芸は黒水靺鞨に出兵している。

大欽茂が即位すると唐との大幅な関係改善が見られ、必然的に黒水靺鞨との緊張状態の緩和を見るに至った。大仁秀の時代になると、渤海により海北諸部の討伐が行われ、黒水靺鞨は渤海に服属し、独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、渤海の統治に対する反乱が発生し、黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。

渤海末期の9世紀になると、黒水靺鞨は新羅との連盟を模索するなど自立の道を探るようになり、また渤海の衰退により黒水靺鞨に対する統治が弱体化したことで、最終的には渤海の従属的地位を脱し、924年には後唐に使節を送るようになった。

日本との関係

渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための軍事的性格が強く、に対抗するため奈良時代から日本に接触した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義ら[32]を日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。 日本海側の、金沢敦賀秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。

日本では渤海を高句麗の後継国家とみなし、渤海は日本に朝貢する国とみなしていた。ただし、時代によってその態度は微妙に異なっており、宝亀延暦年間には日本側の国書から高句麗とのつながりを示す文言が消えて、代わりに自尊的な表現が出現し、唐風文化に対する関心が高かった弘仁年間には渤海が唐風文化の積極的摂取に努めていることを評価し、日本の天皇が渤海の王に親しみを抱いていることを示すものになっている[33]。また、初期の頃は渤海使の帰国に合わせて遣渤海使を返使として派遣するのが恒例であったが、宝亀年間以降はその原則が崩れてきたこともあり、渤海使は国書と共に中台省牒を持参し、日本側も遣渤海使に国書と太政官牒を持たせるようになった[34]

当時の東アジアでは、中国を親とする周辺諸国である日本と渤海は舅甥関係にあり、「おじ」が「おい」より上位となり、従来日本と渤海のどちらが「おじ」「おい」であるのか議論がわかれていたが、石井正敏は、『続日本紀』『新唐書』の記述を分析し、日本が「おじ」に当たると結論したが、韓国や北朝鮮の研究者が「日本がおじ」と認めることはまずあり得ないと指摘している[35]

新唐書』渤海伝は「大暦中、二十五來、以日本舞女十一獻諸朝」と記し、唐の大暦年間(766年~779年)に渤海国が日本の舞女11人を唐に献上したことを伝えている。

経済

農業

農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される(もちきび)、(きび)、が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏(えごま)、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に渤海人の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。また、渤海の在った時代は有数の満州南部が温暖だった時期であり、この事も農業に寄与した。

牧畜業

渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。

漁業

渤海の漁業は相当の技術発展を遂げており、へ奉献した方物の中に「鯨魚睛」と称される眼球が含まれていたことから規模の大きい捕鯨までを可能とする段階に達していた。また各地の特産品として沱湖(現在の興凱湖)の(フナ)や、忽汗海(現在の鏡泊湖)の「湖」などが記録に残っており、この他文昌魚(鯉の一種)、鰉魚(チョウザメ)、鮭()、斑魚、鯔魚などが記録に残っている。

冶金業

渤海の在った地域はを豊富に産出する地域であり、全域から多数の鉄製農具が出土しており、かなり冶金手工業が発展していたと考えられる。

狩猟業

への朝貢記録にはが進貢されており、特に海東青鷹狩りの珍品とされ、貴重な貢者として唐へ献上されていた。他にも太白山(現在の長白山)の扶余鹿などは特産品として『新唐書』に記録されている。また日本との関係で重要な地位をしめたものが貂である。日本の貴族間で珍重された貂皮は当時の日本における最先端ファッションとして受け入れられていた。

紡績業

手工業

商業

商品経済が発展していく中で渤海では貨幣が使用されていたと考えられている(極少数枚ながら開元通宝が出土している[36])。それは大武芸が日本に送った国書の中で「皮幣」の文字を使用していること、873年に日本で貿易を行った際に、賜銭を得て日本の物産を購入していること、滅亡に際して耶律阿保機が「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたことからも物々交換の段階を超え、貨幣が流通していた事を示すものと考えられている。

貿易

文化

「国を挙げて内属し、子を遣わして来朝し、命を祗みて章を奉り、礼違う者なし」 (『白氏文集』巻52「渤海王子加官制」)というように、 渤海はに臣従して[37]、何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は儒教的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。738年には、『唐礼』、『三国志』、『晋書』、『十六国春秋』の書写を唐に願い出るなど、「渤海は晏寧にして遠く華風を慕う」(『文苑英華』巻471「渤海王大彝震に与うる書」)ように、渤海が唐文化に対する強い憧憬を持ち、官司制や地方行政組織、首都上京のように唐の長安城を真似た都城の建設など、唐の制度に倣った律令国家の建設が推進された[37]。また、773年には、「中華の文物を慕う」(『冊府元亀』巻41・寛怒)あまり渤海の人質皇帝袞竜を盗む事件が起こる[37]。宗教的には仏教の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。渤海文化は唐の影響が非常に強いが、靺鞨文化の継承もされており、他には高句麗文化の影響も窺える、三つの文化から独自の文化を作り出している。

前述したように日本との通使も行われており、初期は新羅に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。実態は別として渤海からの使節を日本は朝貢であると認識しており、日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている(遣渤海使)。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある[38]。なお、首都上京は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である[39]井上和人は、この都の衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した[39]。したがって、首都上京は、長らく中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京の造営は710年、首都上京は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだ可能性がある[39]

教育制度

渤海の教育制度は唐制に倣ったものであったと推察される。日本に派遣された渤海使の随員のなかに大小さまざまな録事官が設けられており、また渤海滅亡後に建国された東丹国に広く博士や助教が設置されていたことから、これら官職に類似するものが渤海にも設置され、それは唐制に類似するものであったことを窺わせる。

また上流階級では女子に対する教育も実施されていた。これは貞恵公主や貞孝公主の墓碑に「女師」の文字があることから推察されている。

これらの教育制度により育成された人材は、一部が唐に留学し、科挙に及第する者を輩出するなど、相当な教育水準を有していたと考えられる。

言語と文字

渤海国の公用語は初め靺鞨語が使用されていた[2]

新唐書』渤海伝には以下の記事がある。

俗謂王曰「可毒夫」、曰「聖王」、曰「基下」。其命爲「教」。 〈俗称では王(を名付けて)可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。(王の)命令を教という[40]。〉 — 『新唐書』渤海伝

ロシアの研究者のエ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、渤海語で王をいう「可毒夫」はおそらくツングース系満州語の「卡達拉」(満州語: ᡴᠠᡩᠠᠯᠠᠮᠪᡳ、kadalambi、カダラ:管理するの意)やツングース系ナナイ語の「凱泰」(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、渤海人靺鞨人の名前の最後に「蒙」の字がついていることがあるが(烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙など)、これは靺鞨語の重要な膠着語尾の一つを示しており、ツングース系民族は氏族を「木昆」「謀克」と称しているが、「蒙」の音が「木」や「謀」の音と近いことを考えると、この「蒙」の音はその人が属する氏族を表す音節であろうと推測できると述べている[41]

しかしその後、言語の漢化が進んで次第に漢語が公用語となった[42]。漢語が使用された証拠として渤海使が来日したときに春日宅成伊勢興房らのように豊富な入唐経験があり、それらの経験によって培われた実用の漢語に習熟した人物が渤海通訳を務めていたことなどが挙げられ[43]、渤海通訳が使用していた言語である漢語を渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した[44]。渤海を構成する靺鞨人や高句麗人は、それぞれ独自の言語を有しており、このような場合は、優位にたつ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を異なる種族間の共通言語にすることもあり、渤海を建国したのは唐に居住していた靺鞨人であることから、その指導層は漢語が話せたとみられ、これを異なる種族の意思疎通に使用していたと考えられ、漢語には当時異なる言語を話す渤海の人々を納得させるだけの権威があった[45]

漢語が公用語であった根拠として以下のことが挙げられる。

  1. 873年3月に薩摩に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、はじめ「言語難通、問答何用」という状態であり、日本人と口頭による意思疎通ができず、筆談で自分達は渤海の遣唐使であると示したが、太宰府は「大唐通事張建忠」を派遣して事情聴取をおこない、間違いなく渤海国入唐使であることがあきらかにされた[注釈 3]。これは崔宗佐・大陳潤ら一行が、漢語をもって通訳する大唐通事張建忠の言葉は理解できたこと、つまり崔宗佐・大陳潤ら一行は漢語が話せたということであり、さらに渤海人と名乗っている者に対して、太宰府は「大唐通事」を遣わす一方、渤海語通訳者を遣わさなかったことから、太宰府は漢語は渤海人と通じる言語と認めていたことが分かる[46][47]
  2. 日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され通訳したが、通訳に指名された伊勢興房は862年7月に高丘親王に従い入唐した経歴があり、伊勢興房は高岳親王とともに長安に赴いたが864年10月9日に、高岳親王の命により一人淮南に却廻し、往路のところどころに預けた寄附功徳の雑物を受け取り広州に向かったが、高岳親王を待たずに865年6月に福州から唐商人李延孝の船に乗り、宗叡とともに帰国した。伊勢興房は在唐4年におよび、しかも一人で長安から広州に向かっていることを考慮するならば、伊勢興房は漢語に通暁していたと考えられ、通訳に任命されたのもその能力を買われたからとみられる[48]
  3. 渤海通事に指名された大和有卿の経歴は詳らかではないが、実質的に最後の遣唐使となった承和の遣唐使の漢語訳語に任じられた人物に大和真人耳主がおり、この大和有卿と大和真人耳主は同一人物とみられ、大和真人耳主は839年8月25日に唐から帰国したが、漢語に通暁している人物とみられること[49]
  4. 渤海通訳を養成した秦朝元は『懐風藻』所載の弁正の略伝によると大宝年中に遣唐使に従い入唐した留学僧弁正の子であり、唐で生まれて718年に帰国し、733年には再度入唐判官として渡唐し、玄宗にも謁見したこともあり、秦朝元が唐で出生した事実から漢語に堪能であったことは疑いない。同じく渤海通訳を養成した陽胡真身は『和名類聚抄』『令集解』に引かれている『楊氏漢語抄』が陽胡真身によるものであることから漢語に通暁した人物であると考えられ、このように渤海通訳の師は漢語に通暁した人物であること[50]
  5. 唐の三省に擬して宣詔・中台・政堂の三省が置かれ、政堂省の下に六部が置かれたように渤海は唐の律令制を導入し、律令制国家をめざしたが、それは7世紀末から8世紀初期の国家生成期に靺鞨諸部内の部落と呼ばれる大小の地域に割拠する在地首長である首領を通して百姓=住民を支配し、その支配は靺鞨社会を解体させることなく、適応しやすい形で唐の律令制をはめ込んで再編し、独自の中央集権体制を形成しようとするものであったことから、律令制国家を指向した渤海の支配者層が国家統一の手段として漢語を導入したと考えられること[51]
  6. 春日宅成は渤海使との通訳を4回任命されたが、春日宅成の経歴からは中国との結びつきが知られる。春日宅成は838年5月7日出航の遣唐使船で入唐し、その後春太郎という中国名を名乗り一行と別行動をとった人物である。春日宅成が帰国の途についたのは847年6月9日であるから約9年間唐に在住したことになる。29回目の来日渤海使は、前回との期間が短すぎるという理由で入京が許されず、日本に対する国書も贈物も朝廷は受け取らなかったが、通訳者だった春日宅成は、贈物について「かつて自分は大唐で数々の珍宝を見てきたが、これほどまでに奇怪なものは見たことがない」と述べており[注釈 4]、このような発言ができるのは、春日宅成が並々ならぬ中国通であり、長期にわたる唐滞在により可能だったためである。春日宅成が優れた漢語話者であり、それゆえ通訳に任命されたことは、渤海使との交渉では漢語が使用されていた蓋然性を示唆している[52]
  7. 渤海使との通訳を選定する際に、大学寮明経学生(大学寮本科である儒学科の学生のこと)である高名を呼びだし、高名に漢語に通じた者は誰かと問い、その高名の言によって大蔵三常が通訳に任命されたが[注釈 5]、大学寮は中国文化摂取による中央官僚養成のための教育機関として設置されたものであることからそこで学ばれる外国語は当然漢語であるが、なぜ渤海使に応対する通訳として漢語に通暁した人物を任命したのか、という疑問が生じるが、それは漢語が日本・渤海間の使用言語だったからである[53]

その他、渤海国に属する高麗人突厥人契丹人室韋人回紇人などはそのまま自己の言語を使用していた[54]

渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族を統一していく手段として漢語の導入をはかったとみられ、表記文字としては当時の東アジアで一般的であった漢字を利用しており、1949年に吉林省敦化県六頂山から発見された大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や1980年に延辺朝鮮族自治州和竜県竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主の墓誌などは優れた駢儷体の漢文で書かれ、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒なども漢文で書かれており、王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることから渤海人が漢字を熟知していたことは確実であり[55]、渤海の皇后、公主の墓誌は現在のところ4つ発見されているが全て漢文で書かれており、墓誌は墓碑と異なり、墓のなかに納めることから、文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけであり、それが読者として想定され、皇后・公主の埋葬にたちあう支配層が共通に読めるのが漢字・漢文であった[56]

上京遺跡から出土した文字瓦には、漢字を簡略化した渤海の文字が記録されているが、独自の文字の存在は確認されておらず、同時期にユーラシアで使用されていた突厥文字ウイグル文字ソクド文字などが渤海で使用された形跡もなく[57]金毓黻は、上京遺跡の瓦に刻された文字を「その(字)体は、とくに異なっていて、海とかかわりがあると思う」として、「これは、日本の漢字の中に『辻』があり、化学の中に『鉀鉀(カリウム)』、『﨨(亜鉛)』などの字があるように、おそらく固有の漢字では用が足りない場合に、別に新しい字を作って、その不便を救ったのである」とし、渤海人自ら「漢字を補充」したとして、「もしこの少数の奇異な字があることによって、ついに渤海人が、別に新しい字を作り、漢字を棄てて用いなかったといえば、それはかえって人を誤解させることになる。契丹と女真は、ともに別に字を作った。しかし、後世にまで長く伝えることができず、したがって間もなくその字を使用しなくなってしまった。渤海は建国した後、唐の文教に染まって、漢字をよく用いたので、別に新しい文字を作る機会が少なかった。そこで契丹と女真を例とすることはできない」と指摘している[58]

エ・ヴェ・シャフクノフは、上京遺址の瓦にある文字を新羅の吏読の方法を採用して創作した独自文字であり、「(この文字は)中国人の漢字に比べて渤海人の言語規範と言語特質にいっそう適応し」、「広い渤海の都邑の民衆が各種貿易の契約や保証を結ぶ際、あるいは公文書にこれらの文字が採用された」が、「漢語と漢字とは主に宮廷内と官吏の狭い範囲でのみ使用された」と主張しているが、朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「残念ながら、エ・ヴェ・シャフクノフ氏の説は主観に基づく憶測を免れず、しかも何らかの証拠による自説の証明もできていない」と批判している[59]

各国の研究者は、この上京遺址の瓦に刻された文字について研究を進めているが結論は一致しておらず、現存史料では、国内外の各地で発見され、記録された渤海の文字瓦の文字は、1文字ずつ刻まれ、300字ほどになり、それらの少数の文字と符合を除くと、大多数の文字はみな正式な漢字であり、これらの漢字の大部分は今日使用されている漢字と同一である[60]。しかし奇異で見分けにくい文字がわずかにあり、最新の研究では、この少数の奇異で判読しがたい文字のうち、相当数が俗字古字略字であり、俗字では、「」が「興」とあるが、すでに321年の東晋の墳墓のには「」とあらわれているように実際は渤海人の発明した文字ではない[61]。古字では「佛」を「仏」とするが、『正字通』には「古文の佛字、宋の張子賢の言く、京口の甘露寺の鉄鑊に文有り。梁の天監に仏殿を造る」とあるようにこれも渤海人の創造ではなく、略字では「環」や「瓌」を「」と書き、また「鳥」を「 」と書くなどの事例や字形が似ているために誤って書かれた文字もあり、「舍」を「舎」と誤った例、「計」を「」と誤った例、「男」を「」や「」と誤った例などがある[62]

渤海人が自らの言語の特殊音や必要性からいくつかの新漢字を作成し、本来の漢字を補充して渤海の言語表現に応えた可能性はあり、その事情は日本人が漢字を使用する過程で作成した特殊な漢字の場合とよく似ており、渤海の末期に日本を訪れた二人の使者は、各々「」と「」という名前であり、当時の日本はこの文字を理解できず、紀長谷雄は「未だ文字を知らずと雖も、呼びて云う。は、木ノヅブリ丸(まろ)。は、石ノザブリ丸(まろ)」と読み、「異国(渤海)の作字なり。当時の会釈を以て之を読む。神妙と謂うべき者なり。異国の人(渤海の使者)聞きて之に感」じたと述べており、まさに渤海人が新たに創造した文字であるが、これらの文字は漢字の系列下あるいはその範囲にある文字であり、これらの文字は他の漢字から離れて単独で使われることがなく、それらの文字を独立の文字とみなすべきでなく、渤海人が創造した本来の漢字を補充する漢字である[63]

ロシアのウスリースクで出土した突厥文字の石刻から、渤海には独自の文字があったとする主張もあるが、朱国忱と魏国忠は「これは真に『蟻を見て象と言う(針小棒大)』ような意見である。実は、その石刻は渤海に来て交易した回鶻人が遺したものである。渤海と回鶻の関係には限界があった。双方はともに領域を接することなく、また隷属・主従の関係もないのに、どうして渤海人が、このようなよく知らない、またいつも見ることのない文字を受容し使用できるのであろうか」と批判している[64]

渤海の姓氏

渤海の姓氏は、王家の大氏を含めて57姓であり、渤海の姓氏の構造は、まず渤海王族の大氏、その次は中原から流れた漢族豪族右姓、さらに靺鞨と一部の高句麗貴族の右姓、最後に漢化した靺鞨平民と高句麗平民と中原から流れた漢族平民の庶姓からなり、渤海の姓氏は靺鞨、高句麗、漢族の姓氏からなる[65]。後期になると、渤海人特有の姓名は消え、中国風の姓名へと統一される[66]。渤海人の姓名には、形容美、叡智への祈願、徳性美への追求、福禄寿への憧憬、儒学仏教への尊崇がみられ、中国の影響を受けている[67]

渤海の首領

9世紀以降の渤海使は105人の人員で構成され、841年の「渤海国中台省牒」の写しによれば、105人の内訳は、使頭1人(政堂省左允・賀福延)、嗣使1人(王宝璋)、判官2人(高文暄、烏孝慎)、録事3人(高文宣、高平信、安寛喜)、訳語2人(季節憲、高鷹順)、史生2人(王禄昇、李朝清)、天文生1人(晋昇堂)、大首領65人、梢工28人である。渤海使の圧倒的多数を占める首領とは、渤海の在地社会に支配者として君臨する靺鞨諸族の首長のことであり、渤海王権は靺鞨諸族の首長を包摂、国家的に再編成することにより、渤海の国家集権的支配を可能とし、渤海は靺鞨諸族の首長を制度的組織化し、日本外交に恒常的に参画させた[68]

延喜式』大蔵省賜蕃客例条に規定される渤海使の構成員と回賜品は、渤海王(30疋、30疋、300絇、綿300屯)、大使(絹10疋、絁20疋、糸50絇、綿100屯)、副使(絁20疋、糸30絇、綿各70屯)、判官(絁各15疋、糸各20絇、綿各50屯)、録事(絁各10疋、綿各30屯)、訳語(絁各5疋、綿各20屯)、史生(絁各5疋、綿各20屯)、首領(絁各5疋、綿各20屯)であり、首領たちは渤海使として来日すると回賜品が与えられ、分量は渤海に対する回賜総量の半分を占めた[69]

歴史論争:渤海の歴史帰属をめぐる問題

概要

渤海建国者の大祚栄は高句麗人だったのか、そうではなく靺鞨人だったのかという出自をめぐり対立しており、決着を見ていない。それとあいまって渤海の帰属をめぐって朝鮮民族の王朝、あるいは中国少数民族による地方政権と看做すかによって大韓民国及び北朝鮮中国の間で歴史論争が発生している。中国側の歴史観については東北工程を、韓国における歴史観については南北国時代をそれぞれ参照されたい。

韓国、北朝鮮は渤海は高句麗を継承して成立した朝鮮民族系の政権であり、新羅と対立し「南北国時代」を形成したとし歴史教育を行っている。これに対し中国は、渤海は高句麗同様に中原王朝より冊封を受けた中国の少数民族による地方政権であるという歴史観を呈示し、両者の間で大きな歴史論争を惹起している。

897年に唐に対して渤海の大封裔朝鮮語: 대봉예)が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して新羅の崔致遠が執筆した新羅王(孝恭王)から唐皇帝へ宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』(朝鮮語: 사불허북국거상표)には「大祚栄は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[70]。『謝不許北国居上表』は渤海が存在していた同時代の史料であること、新羅王から唐皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる[71]

臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流 〈渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[72]。〉 — 『謝不許北国居上表』

李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢王朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否定し、満州の渤海を朝鮮の歴史から除いた金富軾を批判し、渤海は高句麗の「子孫」だったと主張した[73]李圭景朝鮮語版は、渤海の朝鮮の歴史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと主張した[74]。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が高句麗人とは考えられない靺鞨人であったことを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮の歴史に含める歴史家が増えた[75]。18世紀には次のように意見が分かれていた。学者李瀷安鼎福は渤海を朝鮮の歴史の一部と考えることを断固として拒否し、一方、申景濬朝鮮語版柳得恭朝鮮語版はそれを完全に組み込んでいた。1世紀後、韓致奫朝鮮語版韓鎭書は、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮の歴史の中に含めた[76]申采浩は、渤海や夫余王国を朝鮮の歴史から除いたと『三国史記』を批判した[77]。彼は、渤海が女真の金朝に敗れたことを「私たちの祖先『檀君』の古代の土地の半分を…900年以上の間『失った』」と解釈した[78]。北朝鮮の学者、およびより最近の韓国の何人かの学者は、統一新羅が朝鮮を統一したとの見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮の歴史の不可欠な部分として組み込もうとした。この物語によると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった[79][80]

三国史記』では、「先是我与百済、靺鞨侵新羅北境、…」(巻二十二・高句麗本紀十、宝蔵王十四年春正月条)、「以降王爲遼東州都督、(中略)王至遼東、謀叛、潛與靺鞨通開耀元年、召還州、(中略)散徙其人於河南、隴右諸州、貧者留安東城傍、舊城往往沒於新羅、餘衆散入靺鞨及突厥、高氏君長遂絶。」(儀鳳二年丁丑歳春二月条)、「敎百官親入北門奏對。入唐宿衛左領軍衛員外將軍金忠信上表曰、臣所奉進止、令臣執節本國、發兵馬討除靺鞨、有事續奏者。…」(巻八・新羅本紀八聖徳王三十三年春正月条)、「(高句麗)其地多入渤海靺鞨、新羅亦得其南境。」(巻三十七・雑志六)とあり、渤海をすなわち靺鞨であるとみていた[81]

ロシアの学界から渤海に関する正式見解が出されたのは、アレクセイ・オクラドニコフの『シベリアの古代文化』(加藤九祚加藤晋平訳、講談社1974年)においてである[82]。そこでは、「渤海を極東地方諸種族の歴史における彼ら自身の最初の階級社会、つまり、最初の国家」であり、その民族と国家は靺鞨人であるとした。そして靺鞨人は、元来起源を異にし言語も異にするさまざまな種族の集合体であったが、数千年を経て渤海人として単一民族を形成したとした[83][84]

ロシアの研究データによると、渤海の住民の民族構成比の推定値は靺鞨人62%、高句麗人19%、モンゴル人(契丹人などのモンゴル系)7%、ニヴフ人5%、日本人3%、古アジア人3%、新羅人1%である[85]

大祚栄の父である大舎利乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 6][注釈 7]という官職は『五代会要』巻三十渤海上に「有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也」とあるため官名であることがわかり、『遼史』巻一一六国語解に「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。」とあることから舎利とは権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であることがわかり[87]、『遼史』と『資治通鑑』によると契丹[注釈 8][注釈 9][89][87]、『冊府元亀』によると靺鞨[注釈 10]にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗ではまだ舎利という官職の存在が確認されていない[90][91][92][93]。このことから、父の乞乞仲象が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が確認されていない称号をもっている点を考え合わせると、大祚栄は高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当という意見がある[94][95]

冊府元亀』巻九七一・朝貢四・開元元(七一三)年十二月条には、「靺鞨王子来朝して曰く、『臣、市に就て交易し、寺に入りて礼拝せんことを請う』これを許す」とあり、この靺鞨王子とは渤海からの使節とみられる[96]

中国の学界では、大祚栄の父とされる乞乞仲象が靺鞨人の名前であることを靺鞨説の根拠としており[97]、朱国忱・魏国忠は「乞乞仲象は明らかに靺鞨人本来の姓氏の名である」と述べており[98]、日本の鳥山喜一も「それにしても前引の五代会要のいうように乞乞仲象を名とするにしろ、この『新唐書』の如く、乞乞を姓、仲象を名とするにしても、高句麗化していたものとしては、この胡名はどうかと思われる[99]」と述べており、池内宏も「然るに乞乞仲象は明かに胡言の音訳にして、祚栄は漢語として意義のある文字なり。即ち乞乞仲象は漢語として全く無意義なれども、祚栄は国祚の長久を冀へるめでたき文字なれば新たに一国を剏始したるものの名として寔にふさはし[100]」「渤海国の始祖なる乞乞仲象には、何故支那風の名もなく、又た適当なる諡號も附せられざりしか[101]」と述べている。

唐は渤海を「東夷」ではなく、「北狄」に分類しており、『旧唐書』渤海靺鞨伝も、『新唐書』渤海伝も、鉄勒契丹同様、北狄伝のなかの一列伝として扱っている[102]。これは唐が渤海を靺鞨の一種と理解していたためで、『旧唐書』靺鞨伝・『新唐書』黒水靺鞨伝も北狄伝のなかにあり、靺鞨・渤海を北狄に分類するのは『唐会要』も同様で、その原型である唐後半期の史書『会要』『続会要』からそうであったと考えられている[103]。また、700年に出された蕃域・絶域の範囲を規定するには、靺鞨が突厥・契丹とともに「北」の蕃域として扱われている[104]

韓国紙『朝鮮日報』は、日本の学界では1933年白鳥庫吉が提唱した「支配層は高句麗人、被支配層は靺鞨人」という解釈が定説化していると報じているが[105][106]、大祚栄はツングース系靺鞨人という説が日本の学界では広く受け入れられているとする見解があり[107]、「高句麗に居住していた靺鞨人[108]」、「高句麗に属していた粟末靺鞨人[109]」、「高句麗に帰化していた靺鞨人[110]」、「高句麗に同化していた靺鞨人[110]」、「高句麗に付属した粟末靺鞨族[111]」、「高句麗に移住してきた粟末靺鞨[112]」といった記述が見られる。

これらの各国の歴史観は現代の政治情勢と関連し、渤海を自国に有利な歴史観で理解しようとする政治的立場との密接な関係が存在しているためと考えられる。日本では戦前は「渤海建国者およびその出自集団、換言するならば主体民族については、粟末あるいは白山靺鞨の差こそあれ、大勢は靺鞨人の国家」と考えていた[113]

韓国紙『朝鮮日報[105][106]ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所[114]や歴史著述家の윤희진[115]や盧泰敦(ソウル大学[116]や宋基豪(ソウル大学朝鮮語: 송기호英語: Song Ki-ho)によると[117]、ロシアの学界では大祚栄は靺鞨人であり、渤海は靺鞨系国家と考えられており、アレクセイ・オクラドニコフ[118]、エ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов[119][120][121]、 IVLIEV Alexander Lvovich(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所)[122]、KRADIN Nikolay Nikolaevich(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)[122]、Kim Aleksandr Alekseevich(ロシア語: Ким Александр Алексеевич[123][114]などが靺鞨説を支持している。

韓国の学界では大祚栄は高句麗人であるという認識で共通しているが[124]、韓圭哲(慶星大学)は松花江地域の靺鞨のリーダーとみなし[123]、宋基豪(ソウル大学朝鮮語: 송기호英語: Song Ki-ho)は高句麗に同化した靺鞨と合理的に解釈しており[123]、大祚栄集団はもともと粟末靺鞨人であり後に高句麗に編入された、純粋な靺鞨人ではなく、純粋な高句麗人でもなく、区別をつけがたい中性的存在であり、強烈な高句麗への帰属意識を有する靺鞨系の高句麗人と述べている[125]。また、宋基豪は以下の主張をしている[126]

ひとことで「渤海は高句麗的であった」というのが教科書をはじめ、われわれの歴史書における渤海史叙述の態度だ。渤海は高句麗遺民が建て、彼らが政権の枢軸をなし、渤海文化も高句麗文化を継承したというのである。今まで何気なく聞いてきたこの言葉をよく注意してみると、どこか異常だ。新羅や高麗の文化に言及するときは、その文化自体の特性を叙述するのに、渤海だけは高句麗的であるなどと、二百余年間、王朝を維持しながら、どうして高句麗的な生だけを生きてきたといえるだろうか。これをめぐって講義時間に、もし渤海人たちがこの言葉を聞いたら、泣いてしまうだろうと冗談を言ったりもした。渤海人たちは、彼ら自身の文化と生を営み、その中に高句麗的なものであれ、靺鞨的なものであれ、あるいは、またちがう要素なども入っていたというのが正しいのでないか。しかしながら、研究者たちの間ですら、渤海文化にそのような固有の文化が宿っていたという事実がいまだに認識されていない。今ではすでに常識になっているように、渤海は多数の種族で構成された国家で、渤海領土は現在、多数の国家に分かれている。渤海をありのままに解釈するには、それほどに複雑な変数が介在している。中国では中国史として、ロシアではロシア史として、韓国では韓国史として主張していながら、中国とロシアでは靺鞨住民の視覚から解釈するのに反して、韓国では高句麗遺民の視覚から接近している。しかし韓国ではすべてのものが高句麗的だという説明にならざるをえない。中国とロシアの態度が正しくないように、われわれの態度もまた、あまりに民族主義的な視覚を固持しているのである。このような我田引水的な態度からぬけだして渤海史を眺めてみるとき、はたしてその実態はどうなるだろうか。渤海は高句麗遺民と靺鞨族が主軸をなしたのであれば、高句麗の延長線で眺めることもできるが、多数を占めている靺鞨族の歴史からも眺めうる余地は十分にある。靺鞨族は後に女真族となったが、今は満州族と呼ばれているのであるから、かれらの祖先の歴史でもある。(中略)私がアメリカに滞在したときも韓国の歴史学はあまりに民族主義的だという話をしばしば聞いた。これに共感した面もあったが、その一方で、われわれの措置がそうするしかないという事情を理解させなければならない。アメリカの学生にナショナリズムといって浮かんでくるのはなにかと聞いてみたら、ファシズムだという答えが返ってきた。第二次世界大戦で体験したように、民族主義は強者の攻撃的な武器に使用された。それが西欧的な民族主義の観念だ。しかし、われわれの民族主義はふたつの強大国のはざまにある小国として、最小限の生存のための防御的性格をおびたものであって、その性格はまったくちがう。われわれの教科書はあまりに民族主義的だと批判し、渤海史の叙述もそうであるといいつつ、その一方で、民族主義を擁護する発言をしてしまい、すっかり矛盾した格好になってしまった。偏狭な民族主義史観を克服しなければならないのは当然であるが、西欧の観念に追従して民族主義をあたかも犯罪のように扱うような態度もやはり排撃しなければならない。われわれは今、このような両極の間を無事に通過しなければならない危険な航海路に立たされているのである。 — 「民族主義史観と渤海」『歴史批評』58(2002年)、p121〜p122・p124〜p125

西江大学校名誉教授の李鍾旭(朝鮮語: 이종욱)は、渤海には高句麗人が多数暮らし、渤海は高句麗の伝統を受け継ぎ、さらに粟末靺鞨人である大祚栄は高句麗に将軍として勤務したことがあるので新しい王国を建国する情報と力があったが、そのような渤海に住むようになった高句麗人は、朝鮮・韓国人を形成した源流からはかけ離れた韓国との連続性がない集団だと批判した[127]

『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争

日本史料『続日本紀』や『類聚国史』には、日本と渤海の外交交渉において日本が渤海を「高麗」と呼び、大欽茂が「高麗国王」と自称するなど高句麗継承意識を表明していることが記載されている。

1

庚午。帝臨軒。高麗使楊承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍楊承慶。歸徳將軍楊泰師等。令齎表文并常貢物入朝。 — 『続日本紀』巻二二

2

武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。 〈武藝、忝なくも列国に当り、濫りに諸蕃を統べ、高麗の旧居に復して扶余の遺俗を有てり。但だ天崖路阻たり、海漢(漠か)悠々たるを以て、音耗未だ通ぜず、吉凶問を絶つ。仁に親しみ援を結ぶこと、庶くは前経に叶ひ、使を通じ隣に聘すること、今日に始めん[128]。〉 — 『続日本紀』神亀五年正月甲寅条

3

書尾虚陳天孫僣号。 — 『続日本紀』巻三二

4

慕化之勤、可尋蹤於高氏 — 『類聚国史』巻一九三

このうち4は桓武天皇が以下の渤海王宛の勅書で、古の高句麗みたく朝貢形式の臣礼を要求したことを承諾して大嵩璘が述べたものであり、日本の意向に添ってでも交易を円滑に進めたい意思がうかがえ、1、2、3の高句麗継承意識とは異なり、日本に追従・恭順する意思を表明したものとなる(高氏は高句麗王姓、大家は渤海王室)[129]

彼渤海之国、隔以滄溟、世脩聘礼、有自来矣。高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。 〈彼の渤海の国、隔つるに滄溟を以てするも、世よ聘礼を脩め、自来せる有り。往者、高氏緒を継ぎ、毎に化を慕いて相い尋ぎ、大家基を復するや、亦た風を占いて絶ゆる靡し[130]。〉 — 『類聚国史』巻一九三

韓国や北朝鮮の研究者はこの日本史料にある日本が渤海を「高麗」と呼び、渤海王が「高麗国王」と自称していたことこそが渤海王が高句麗人だった、渤海が高句麗の継承国だった最大の証拠だと主張している。

Daum百科事典は以下の主張をしている[131]

건국 초기에는 스스로 진국(震國)이라 칭했으며 일본과의 사절교환시에는 고구려의 계승을 강조하며 '고려'(高麗)로 칭하기도 했다. 〈建国初期は、自ら震國と称し、日本との外交使節交換時には、高句麗の継承を強調し「高麗」と称した。〉 — Daum百科事典

천재학습백과 초등 사회 5-2は以下の主張をしている[97]

그 당시 일본과 오고 간 문서를 보면 정확히 알 수 있어. 분명 고려(고구려)의 후예라고 자처하는 내용이 있고, 일본도 인정을 했지 〈当時の日本との外交文書を見れば正確に知ることができる。明らかに高句麗の後裔を自認する内容があり、日本もそれを認めていた。〉 — 천재학습백과 초등 사회 5-2

斗山世界大百科事典は以下の主張をしている[132]

제3대 문왕은 일본에 보낸 국서에서 스스로를 ‘고구려(高句麗) 국왕’이라고 칭하였다. 이와 같이 발해국은 고구려 계통임을 분명히 밝혔다. 〈第三代の文王は日本に送った国書で自らを高句麗国王と称した。このように渤海は自らを高句麗系であると明らかにした。〉 — 斗山世界大百科事典

브레인스토어は以下の主張をしている[133]

아쉽게도 발해가 자국의 역사서를 편찬하진 않았지만 당시 다른 나라와 교류했던 외교 문서는 남아 있습니다. 좀 있다 보겠지만 발해가 일본이랑 친했거든요. 일본에 보낸 국서를 보면 발해왕이 스스로를 ‘고려 국왕’이라고 합니다. 〈残念ながら渤海は自国の歴史書を編纂していないが、当時の他国との交流において外交文書は残っている。渤海は日本と親交した。日本に送った国書を見ると、渤海王が自らを高麗国王といっている。〉 — 브레인스토어

한국사 개념사전は以下の主張をしている[134]

셋째, 발해 국왕 스스로가 일본에 보낸 국서에 고구려왕임을 밝히고 있고, 일본 기록을 보면 발해가 초기에 일시적으로 ‘고구려’라는 이름을 쓰고 있어. 발해가 일시적이지만 고구려라는 국호를 썼다면 이는 발해의 고구려 계승 의식이 분명했음을 보여주는 것이야. 〈第三に、渤海国王自らが日本に送った国書には高句麗国王であると明らかにしており、日本の史料には、渤海の初期の一時期を「高麗」と書いている。渤海が初期の一時期であるが、高麗という国号を用いたのは、渤海が高麗の継承意識を明らかにしたことを示すためである。〉 — 한국사 개념사전

歴史著述家の윤희진は以下の主張をしている[115]

대조영이 어느 민족 출신인지보다 더 중요한 부분은 발해를 이끌어갔던 집단이 고구려인들이고, 이들이 고구려를 잇고 있음을 분명히 밝혔다는 사실이다. 일본의 기록에 “그 나라는 말갈이 많고 고구려인이 적지만, 고구려인들이 모두 이들을 지배하고 있다.”라고 했고, 최치원도 “옛날의 고구려가 지금의 발해가 되었다.”라고 했다. 또한 758년 발해 사신이 일본을 방문하여 전달한 국서에 당시의 왕인 문왕은 자신을 ‘고려국왕’이라고 했다. 〈大祚栄の民族的出自について重要なのは、渤海を率いた集団が高句麗人であり、彼ら自身が高句麗の継承国であることを明らかにしたという事実である。日本の史料には「その国は靺鞨人が多く高句麗人は少ないが、高句麗人たちは皆靺鞨人を支配している」とあり、崔致遠も「昔の高句麗が今の渤海となった」としており、また758年に渤海使が日本を訪問して伝達した国書では、文王自らが「高麗国王」としている。〉 — 인물한국사

韓国の文化体育観光部の所属機関である海外文化弘報院は以下の主張をしている[135]

渤海は、高句麗を継承したという誇りを持ち、日本に送った文書にも高句麗王を意味する「高麗王」と表現しました。 — 海外文化弘報院

韓国の高等学校教科書『国史』は以下の主張をしている[136]

渤海の建国により、南の新羅と北の渤海とが共存する、南北国の形勢が成された。渤海は領域を拡大し、かつての高句麗領土の大部分を占めた。その領域には靺鞨族が多数居住してはいたものの、日本に送った国書に高麗または高麗国王という名称を使用した事実であるとか、文化の類似性から見て、渤海は高句麗を継承した国家であった。 — 高等学校『国史』p56~p57

韓国政府東北アジア歴史財団は以下の主張をしている[137]

渤海が当時周辺諸国と交流していた歴史事実が盛り込まれている資料の数々からも渤海は高句麗を継承した国であったことが分かる。(中略)渤海は諡号および年号を導入し、皇帝国家を標ぼうしていた。日本と交流した国書を通じては夫餘と高句麗を継承した独立国家であったことを確認でき、南の新羅とは新羅道を置き、国家としての交流をしながら南北国時代が設定される端緒を提供した。 — 東北アジア歴史財団

朴時亨は以下の主張をしている[138]

七二七年、渤海第二代の武王仁安八年に、王は日本との国交を開く最初の国書で渤海国の創建を通告して「渤海国は高麗の旧領土を回復し、夫余の遺俗を所有している」と述べた。「高句麗の旧領土を回復した」のがすなわち渤海であるならば、渤海人すなわち高句麗人でないはずはない。まして、かつての「夫余の遺俗」まで探し出して自己の祖先の系統を究明する人たちであるならば、彼らが高句麗人であることは明かである。次に、七五八年、渤海第三代の文王大興二一年に、王は日本の王への国書の中で、自らを直接「高麗国王大欽茂」と称した。この時の渤海の正式国号はまだ振国であり、対外的には国王が渤海郡王の称号を使いもした時であるが、王は「高麗国王」を自称することもあった。この「高麗国王」なる称号は、当時、対内・外的に通用していたものと思われる。「高麗国王」を自称する者は、もちろん高句麗の後継国の王以外にはあり得ない。これ以後永らく、渤海国王は日本に送る国書の中できまって「高麗国王」を自称し、日本王の答書もまた自然に「高麗国王」への答書とならざるを得なかった。(中略)日本の文献に残っている渤海王室そのものの宣言などによって論断すれば、渤海王室はまさに高句麗人であり、彼らの建国した国名が最初は振国、後に渤海と改称しはしたが、本質において高句麗の後継者であり、また、高句麗国そのものであるという結論を得る。渤海人自身が渤海王室、あるいは渤海国住民の性質について言及したものとしては、日本の史料以外にない。われわれはまず渤海人自身の言葉を聞かねばならない。 — 「渤海史研究のために」

韓国政府東北アジア歴史財団の林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は以下の主張をしている[139]

『続日本紀』をみると、759年に渤海の使節を高麗蕃客と表記して以来、778年に大綱公広道を送高麗客使にするまで、高麗という用語が渤海と併用されていることが分かる。つまり、こうした状況が19年間も続いたということになる。(中略)また、渤海が高句麗の後継者であるという事実を否定するために、中国側の研究者はこの資料が虚構のものであることを強調している。(中略)758年に楊承慶が率いる渤海使節が日本を訪問した際に伝達された国書で、当時の王である文王は自らを「高麗国王」と名のった。翌年、日本朝廷が国に戻る渤海使節を通じ文王に送った国書でも、文王を高麗国王と称した。その後しばらくの間、高麗国王または高麗という名称が日本の記録に登場する。渤海人自らが自国を「高麗」または「高麗国」と呼び、相手も同様の呼び方をしたのには、特別な意味がある。

韓国西京大学校教授の徐吉洙は以下の主張をしている[140]

建国後29年の727年(武王・大武芸9年)、渤海が日本に国交を結ぶために使節を送りつつ、渤海は「高句麗の昔の領土を回復し、夫餘から伝えられて来た風俗を修めている(復高麗之舊居 有夫餘之遺俗)」(『続日本紀』神亀5年1月17日条)とあり、高句麗を継承したことを明らかにしている。一方、渤海の使臣についての事実を記録した日本では、「渤海は昔の高句麗である(渤海郡者 舊 高麗國也)」(『続日本紀』神亀4年9月29日条)は、事実を明白に認識しており、 渤海と高句麗をあたかも同じ国のように混用している記録が非常に多い。

これは第二次世界大戦以前に白鳥庫吉が主張したのが初見であるが、白鳥庫吉はこれを渤海王が高句麗人である根拠としている(ただし赤羽目匡由は、「渤海王が高句麗を継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏が王族及び支配階級が高句麗人であった事実を読み取るのと同様に、決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と述べている[141])。また中国東北部(満州)で興起した民族や国家は、後のに至るまで(函普も参照)起源と王権の正統性を夫余と高句麗から抽出したが、これは政治的に高句麗継承を標榜することにより、対外的な政治的優位性を獲得する意図があり、高句麗継承の標榜をそのまま単純に血統的継承と連結することはできないという指摘もある[142]

この『続日本紀』に記録されている大武芸が日本に送った国書に「高麗の古の土地を回復し、夫余の習俗を持っている」とあることや渤海使を高麗使と表記してあること、大欽茂が自らを高麗国王と自称するなど高句麗継承国であることを日本に標榜していたことを根拠に、一部で渤海は高句麗忌避症にかかったとの摩擦を防止するために対外的な国号であって、対内的な国号は高麗だったという主張があるが、『続日本紀』にでてくる「渤海路」「渤海使」などの用語は隠蔽しており、渤海王が日本に送った国書に「高麗」「高麗使」「高麗国王」とあることをもってして渤海と高句麗の関係性や渤海の帰属問題を極度に単純化しているという批判を受けている[143][144]

しかし第二次世界大戦後石井正敏により、渤海から日本へ贈られた第一回国書の分析を通して渤海王の自称「高麗国王」がかつての附庸国高句麗に位置づけようとする日本の対外政策と要求に迎合したものであるとする説が唱えられ[145][146][147][148]、石井説を支持する研究者(古畑徹[149][150]赤羽目匡由[151]酒寄雅志[152][153]浜田久美子[154]、姜成山[155]浜田耕策[156][157]河添房江[158]菅澤庸子[159]石上英一[160]廣瀬憲雄[161]平野卓治[162]森公章[163]田島公[164]など)が、日本史料の解釈の恣意性を批判しており、日本の学界と韓国の学界で論争になっている。ただし、韓国政府東北アジア歴史財団の林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は、日本の研究者は渤海王が日本との外交交渉において「高麗国王」と自称していたことを単に対日外交交渉のための臨時的な用語だと主張しているが、日本人が当時の外交的策略のために史料を歪曲したと決めつけることはできない、と反論している[139][165][166]

自称「高麗国王」迎合説

渤海王の「高麗国王」自称を伝える史料は以下である。

庚午。帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。①高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。②令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮。不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。 — 『続日本紀』巻二二・淳仁天皇 ・天平宝字三年(七五九)正月

上に述べた楊承慶の奏上のうちの傍線部②の「表文」は、実体が判然としないが、君臣・上下関係を明確にした「上表文」を指す蓋然性が強い[167]。そして「常貢物」はその表現から朝貢的態度が明確にうかがわれる[168]

そのため、楊承慶が「高麗国王大欽茂言す」と奏上したのも、日本にとって高句麗とは古の朝貢国であり、その後身を称することで日本の歓心を買おうとしたと解釈される[169]

実際に日本はこれ以前に度々渤海に古の高句麗のように朝貢することを要求している[170]。すなわち、第一回渤海使に賜った渤海王宛ての国書に「天皇、敬みて渤海郡王に問う。啓を省るに具さに知る、旧壤を恢復し聿に曩好を脩めんことを。朕、以て之を嘉す。」とある[171]

天皇敬問渤海郡王。省啓具知。恢復舊壤。聿修曩好。朕以嘉之。 〈天皇、敬みて渤海郡王に問う。啓を省るに具さに知る、旧壤を恢復し聿に曩好を脩めんことを。朕、以て之を嘉す。〉 — 『続日本紀』巻十・神亀五年(七二八)四月壬午(一六日)

ここに登場する「旧壤」とは高句麗の故地の意味であり、「曩好」とは古の日本と高句麗との朝貢関係を指す[172]

そして直接的に今回の「高麗国王」自称に至る上で重要なのは、前回の753年に渤海使慕施蒙らに賜った日本の国書の内容である[173]

六月丁丑。慕施蒙等還國。賜璽書曰。天皇敬問渤海國王。朕以寡徳虔奉寳圖。亭毒黎民。照臨八極。王僻居海外。遠使入朝。丹心至明。深可嘉尚。但省來啓。無稱臣名。仍尋高麗舊記。國平之日。上表文云。族惟兄弟。義則君臣。或乞援兵。或賀踐祚。修朝聘之恒式。効忠款之懇誠。故先朝善其貞節。待以殊恩。榮命之隆。日新無絶。想所知之。何假一二言也。由是。①先廻之後。既賜勅書②何其今歳之朝。重無上表。以礼進退。彼此共同。王熟思之。季夏甚熱。比無恙也。使人今還。指宣往意。并賜物如別。〈(「天皇敬問…深可嘉尚」及び「季夏甚熱 」以下は外交辞令であるため省略)但し王啓を省るに臣・名を明記していない。そこで『高麗旧記』を繙くと、かつて高句麗が日本に捧呈した上表文がみえ、それには「族惟兄弟、義則君臣。」とあって、日本と高句麗とが君・臣の関係であることを明らかにしている。さらに『高麗旧記』には高句麗が日本に対して、あるいは援軍を乞い、あるいは天皇の践祚を慶賀したことなど、朝貢の礼式を守って通交し、忠誠を示したことを記している。(その高句麗は一度は滅亡して日本との交渉も途絶えたが、神亀四年に至り、先年高句麗を再興し、その遺民を保有したと称する渤海が、かつての高句麗のごとく日本に入朝してきた)故に聖武天皇は前代の親交を忘れることなく入朝してきた渤海を貞節なものとして褒め、特に優遇したのである。これにより、渤海の国運は盛んにして、日々徳を増新して絶えることがないであろう。思うに、渤海王はこのような事情は既に承知のことであろうし、更めて詳しく述べる必要もなかろう。(ところが、渤海王は国交開始に当たって日本に捧呈すべき上表文ー君臣・上下の関係を明示するーを提出しておらず、遺憾に思うところである)是により、かつて高句麗が日本に進めたような君臣・上下の名分関係を明らかにする上表文の提出を要求する旨の勅書を、これより先天平十二年に大伴犬養らに持たせて派遣した。ところが今回の朝貢に際してもまた上表文を携行しなかった。朝貢国として礼儀に則って進退せねばならないことは、渤海もその前身である高句麗と同様である。渤海王はよくよくこの非礼の点ー朝貢国なのに上表文を提出しないーを反省せよ[174]。〉 — 『続日本紀』巻十九・孝謙天皇 ・天平勝宝五年(七五三)

この渤海に賜った国書からは①・②で「先廻の後ち」に勅書を賜って渤海に上表を提出するように命じたにもかかわらず、今回の日本入朝の際に再び上表を提携しなかったことを日本が戒飭していることが分かる[175]

ここに登場する「先廻の後ち」の「先廻」とは、前回天平11年(739年)に来朝した渤海使己珍蒙らが帰国した天平12年(740年)二月己末(2日)のことを指し、その「後ち」に勅書を賜ったというのは、渤海使己珍蒙が帰国した後まもなく天平12年四月丙子に大伴犬養らが渤海に派遣(遣渤海使任命は天平十二年正月庚子(十三日))されたことにあたる[176]

つまり、日本朝廷がこの時、わざわざ単独で渤海へ専使を遣わし、強く君臣・上下関係を明示する上表文の提出を迫ったことから、渤海ではそれを受け、その後初めてやってきた759年の渤海使楊承慶が朝貢的態度を明確にしたのであって「高麗国王」自称もこうした要求に迎合したものと解釈される[177]

その他自称「高麗国王」迎合説の根拠として以下が挙げられる。

  • 日本以外の国、たとえば唐に対して渤海が自国を高麗と称したり、あるいは唐が渤海を高麗とした例がみられないことも、却って対日外交のための設辞として「高麗国王」と称してきたものとする考えを妥当にする[178]
  • 渤海が国書の中で高句麗と夫余を持ち出したのは、大国であった夫余と高句麗の継承国であることをアピールすることで外交を有利に展開しようとした[179]
  • 渤海は日本との交渉の際に、渤海王やその使節は自国の優位性を保つために自らをかつての強国「高句麗」の後継国と標榜したことに異論はないが、『日本後紀』成立の時点まで、20数回にも及ぶ渤海との交渉のうち、日本も渤海と高句麗の相違は認識していたはずであり、むしろそれを認識していたからこそ、史書には「高句麗人」もしくは「高麗人」と書かずに、「土人」と書いた[180]
  • 日本に対して高句麗の名を持ち出したのは、昔交渉のあった国の名で日本側の歓心を買うというのと、「往時の強大国高句麗の再興を誇らかに宣言」することでいわば高句麗の威を借りて円滑に隣交(対等外交)を申し入れようとした[181]
  • 758年来日渤海使の帰国した翌年から実施された藤原仲麻呂の征新羅計画は、唐の安史の乱の混乱を機に日渤共同で計画されたが、この時点での外交の円滑化とは即ち、日渤の軍事協力―征新羅計画―をすすめることであるため[182]、高句麗と称したのは、日渤軍事同盟を結ぶに都合がよかったと考えることができ、天平勝宝四年の渤海への返書には「高麗旧記を尋ねるに」としたなか「或乞援兵」との条があり、高句麗と称したのは日本側のもつ軍事同盟のあった高句麗のイメージを利用した外交政策と考えられる[183]。このことは、天平宝字六年に征新羅計画が中止されてから朝貢を取らなくなった渤海に対して日本が出した国書からも窺われ(『続日本紀』宝亀三年二月二十八日条)、即ち「昔高麗全盛時」と高句麗の例を引いて「又高氏之世兵乱無休、為仮朝威彼称兄弟、方今大氏會無事、故妄称舅甥於礼矣」とあり、高句麗の時は兵乱が続いたため日本の兵力を頼りに「兄弟」と称して阿ねていたが、渤海で兵事が無いと、勝手に舅甥と間柄を変えて礼を失する行動をとっていると戒飭しており、暗に征新羅計画をたて軍事的援助を要する時だけ高句麗の名のもと朝貢を取り、その必要がなくなると態度を翻したと、責めているようにも取れる[184]
  • 正史では渤海使を高麗使・高麗蕃客、渤海王を高麗国王、などと記す例は、奈良時代に集中的にみられるが、正史に依る限り平安時代に入ってからは見当たらない[185]
帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮。不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。 — 『続日本紀』巻二二・淳仁天皇 ・天平宝字三年(七五九)正月

上記の記事で注目されるのは渤海王が使節をして「高麗国王大欽茂」と名乗らせていることであり、正史ではこれ以後、渤海使を高麗使・高麗蕃客、渤海王を高麗国王、などと記す例が頻出するが、このような現象は、奈良時代に集中的にみられ、正史ではこの天平三年(759年)度の例を初見として以前に遡ることが出来ず、従ってこれらは渤海王の「高麗国王」自称に起因するものと考えられる[186]。正史以外では平城宮出土木簡に「依遣高麗使廻来、天平宝字二年十月廿八日進二階叙。」とあるのが渤海を高麗と記す最も古い資料であり、これは渤海王の「高麗国王」自称の二ヵ月ほど前であるが、木簡の性格から判断して、辞令の類と異なり後日製作の可能性を排除できず、必ずしも「十月廿八日」に書かれたものとする必要がないため、これも渤海王の「高麗国王」自称と無関係とはいえない[187]。『日本後紀』以下の正史では、渤海使(王)を高麗使(王)と称する例は皆無に近く次の一例のみであり、『日本文徳天皇実録』嘉祥三年(850年)五月壬午条に、「葬太皇太后干深谷山。……太皇太后、姓橘氏、諱嘉智子。父清友、少而沉厚。渉猟書記。……宝亀八年、高麗国遣使修聘。清友年在弱冠。以良家子、姿儀魁偉、接対遣客。高麗大使献可大夫史都蒙見之而器之。」とあり、橘清友の伝記に登場するが、清友が延暦八年(789年)に病死していることを考えると、前記記事の基礎となった清友の伝記資料も延暦八年を降らず、ここに「高麗使(国)」とみえるのも、奈良時代の記録をそのまま踏襲して叙述したものと考えるべきであり、従って正史にあっては『日本後紀』以降は渤海を高麗と記す事例はみられず、このことは渤海王の「高麗国王」自称に伴う奈良時代後半の一時的な現象と考えられる[188]。この他『続日本紀』宝亀三年二月己卯条「賜渤海王云、天皇敬問高麗国王。」とみえるが、これらも現史料と編修の際の冒頭部分の注記とに分けて考えるべきであり、つまり『続日本紀』編纂時には渤海を高麗と称することが殆どなく、ためにこうした書法を用いていると考えられ、この点からも渤海を高麗とする表記法が一時的な現象であったと推察することが出来る[189]

1963年6月28日周恩来発言論争

韓国のメディアでは、周恩来が1963年6月28日に北京を訪れた北朝鮮の朝鮮科学院代表団に対して「歴史は歪曲できない。 豆満江鴨緑江の西側は有史以来中国の領土であり、さらに昔から朝鮮は中国の属国だったとすることはとんでもない話だ」と話していたことを、「彼らが高句麗と渤海を朝鮮民族が建てた古代国家として認識し、その歴史を朝鮮の歴史と規定した」と主張している[190][191][192]

しかし周恩来は以下のようにも話している[193]

1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会の崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方の考古調査や発掘を進行させるよう要求した。崔の主張の大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義や反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史や文化を持たず、国際的な地位を有しないと中傷した。我々は中国東北地方の考古学を進行させ、自己の歴史を明確にし、古朝鮮の発祥地を探すことを要求する。周総理は一面では同意を示し、他面では婉曲的に古朝鮮が我国の東北地方に起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮の起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省を起源とする可能性がある。朝鮮の同志は、水稲を植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食や生活習慣が福建と同じである。また、朝鮮語の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音と我国福建の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音は同じであり、福建の古代住民が朝鮮半島に渡来した可能性がある」というものであった。

ロシア沿海州クラスキノ土城跡「オンドル」論争

韓国紙『東亜日報』や『中央日報』は渤海のクラスキノ土城では中国にはみられないオンドルが使用されており、これこそが渤海が高句麗の継承国だった証拠としている[107][194][195]。一方、早乙女雅博は「高句麗は、その最大時の領域をみると南は韓国・ソウル市、北は中国吉林省吉林市、西は中国・遼河地域、東は北朝鮮・咸鏡北道咸鏡南道におよんだ。一方、渤海は、大同江以北の遼東を除く旧高句麗領を含めて、北は松花江、東は沿海州におよぶ。そして、旧高句麗領より北に置かれた王都の上京龍泉府は、地理的にみて渤海のほぼ中心的な位置にある。したがって、旧高句麗領内の渤海の遺跡や遺物には、高句麗文化の影響が認められても不思議ではない」と述べており[196]、高句麗の寺院の塔は八角形の基壇をもつのが特徴であるが、吉林省和龍市高産寺址でみつかった渤海の寺院の遺構は、八角形に配置された礎石が二重にまわっており、寺院のなかでの八角形建物という視点からみると高句麗との関係がうかがえ[197]、また吉林省汪清県河北故城から出土した軒丸瓦の文様は平壌の土城里の軒丸瓦と類似していること[198]、旧高句麗領の渤海の土器である把手付鉢は平壌の高句麗時代の把手付鉢の器形を引き継いでいること[199]、高句麗後期の軒丸瓦は、赤褐色であり、接合部は櫛歯状工具で細かい刻み目を入れるものが多いが、これらの技法は渤海にも引き継がれたことを指摘している[200]

『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争

『旧唐書』渤海靺鞨伝は「高麗別種」としているが、『新唐書』渤海伝は「大氏は、粟末靺鞨の高句麗に属する者」となっており、基本史料から見解が異なり[201]、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之」記事は朴時亨を以ってして「『渤海は本来粟末靺鞨人である。そのうち、かつて高句麗に服属していた姓大氏なる者が、高句麗滅亡後靺鞨の衆を率いて挹婁東牟山に拠点を置き国を建てたものである。その後、靺鞨人とは異なる高句麗遺民が次第に帰属するようになった』と読みとる以外ないくだり」であるのに対して[202]、『旧唐書』「高麗別種」表現は曖昧であることから、「高麗別種」とは何かをめぐって論争となっている。

韓国・北朝鮮の研究者

徐吉洙(西京大学校)や朴時亨などの韓国・北朝鮮の研究者は『旧唐書』・『新唐書』にあらわれる「別種」記事を探し出し、「別種」は「どこから出た支流」という意味で使われた用語であると主張している[140]

  1. 「百濟國 本亦夫餘之別種(百済国は本来、夫餘の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・百済国条)
  2. 「鐵勒 本匈奴別種(鉄勒は本来、匈奴の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九下、北狄・鉄勒条)
  3. 「高麗者、出自夫餘之別種也(高句麗は、夫餘から出た別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・高麗条)
  4. 「奚國、蓋匈奴之別種(奚国は大体、匈奴の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九下 北狄・奚条)
  5. 「日本国者、倭国之別種也(日本国は大体、倭国の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・日本国条)
  6. 「室韋、契丹別種(室韋は契丹の別種である)」(『新唐書』列伝一四四上、北狄・室韋条)
  7. 「高麗、本夫餘之別種也(高句麗は本来夫餘の別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷・高麗条)
  8. 「百済、夫餘別種也(百済は夫餘の別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷・百済条)
  9. 「高麗、本夫餘之別種也(高句麗は本来夫餘の別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷・高麗条)

徐吉洙は以下の主張をしている[140]

日本や中国の学者は高句麗の別種とは、「高句麗種族ではない、他の種族」という意味であると考え、韓国・北朝鮮の学者は「高句麗から出た支流」という 意味に解釈するのである。(中略)別種、別類、種などはいずれも「どこから出た支流」という根源を明らかにするために使われた類似語であるということがわかる。

朴時亨は以下の主張をしている[203]

『旧唐書』渤海伝の篇名は「渤海靺鞨」になってはいるが、その内容自体は渤海国の創建者がほかならぬ高句麗人であることを明示している。それはまず、「渤海靺鞨の大祚栄は、もともと高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。)」であると明記した。しかし、ここでいわゆる「別種」とは、いわば動植物にある種があり、それに近い亜種あるいは別種があるように、高句麗人とはやや異なる何らかの別種がある、ということを意味するのではない。同じ『旧唐書』の他の東夷列伝をみれば、「高句麗は夫余から出た別種」、「百済は本来同じ夫余の別種」、「鉄勒は本来匈奴の別種」、「室韋は契丹の別種」、「霫は匈奴の別種」等等に記録されていることからして、このいわゆる別種は、今日歴史学が証明しているように、だいたい原種族と同一種族であって、それ以外の何らかの変種ではない。高句麗はまさに夫余族であって、その他の何らかの変種ではない。大祚栄の場合もほかならぬ高句麗人なのである。 — 「渤海史研究のために」
中国の研究者

これに対して朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)や魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)や韓東育(東北師範大学)や張博泉(吉林大学)や劉毅(遼寧大学)などの中国の研究者から恣意的な史料解釈と批判されている。

1.『新唐書』渤海伝や新羅の崔致遠が作成し、新羅王(孝恭王)から唐皇帝へ宛てた国書『謝不許北国居上表』など大祚栄とその統治集団を「靺鞨人」と記した史料は存在するが、「高麗人」と記した史料は存在しない[204]

2.語法修辞的角度から見れば、「別種」という熟語の中で、「別」と「種」の間は並列関係でなく、従属関係であり、前の「別」の字は間違いなく後の「種」字の説明と限定であり、「別という意味」、「別個の」、「別の」という意味で解釈できるだけであり、「別種」の本来の意味は、元来同じ種類から分かれた「分種」ではなく、むしろ「別種」の種族と称されるものが、種族の源上の分類も同じではなく、「高麗別種」とは乞乞仲象・大祚栄父子とその首領たちの「族属」を指しており、したがって「国籍」・「国別」を意味せず、『旧唐書』「高麗別種」記事から導き出されるのは、乞乞仲象・大祚栄父子とその首領は、高句麗人や高句麗政権と密接な関係を有しているが、高句麗人ではない[205][206]

3.大祚栄一族が「高麗別種」であるというだけで、高句麗人と結論づけるのは、一方に偏り根拠に乏しく、高句麗説支持者が依拠した『旧唐書』「高麗別種」記事の前文には「渤海靺鞨の大祚栄」と明記されており、渤海を樹立した大祚栄は靺鞨人であるという前提で、初めてそれが「高麗別種」と明示され、『新唐書』北狄伝の「渤海は、本粟末靺鞨の高麗に付く者にして、姓は大氏」の記事とは根本的な違いはなく、『新唐書』及び『旧唐書』は両者とも大氏の所属する民族を靺鞨であると明確にしており、『新唐書』はそれが粟末靺鞨だということを指摘しているにすぎず、大氏の系統を「高麗に付く者」とする文言は、『旧唐書』「高麗別種」の概念に対して適切な説明を加えている[207]

4.『隋北蕃風俗記』記事によると、靺鞨諸族の中で、厥稽部・忽使来部など八部の兵数はわずか千人にすぎず、その中の多くは前後して高句麗の属民となるか、高句麗に帰服したのであって、唐が高句麗を滅ぼすと、一部の「高句麗に付く者」が高句麗遺民と共に唐によって遼西及び中原に移され、大氏はこの「高句麗に付く者」の中の有力な一族であり、高句麗に帰服した粟末靺鞨人は、かつて匈奴により征服され、匈奴の属部にされた鉄勒と同様であり、鉄勒が匈奴の「別種」とされたのと同様、靺鞨人は『旧唐書』によって「高麗別種」と記載され、『旧唐書』「高麗別種」と『新唐書』「高句麗に付く者」は同一概念であり、大氏を含む靺鞨諸部の「高句麗に付く者」が、高句麗に隷属していることを指し、「高麗別種」だから高句麗人であるという解釈にはならない[208]

5.『旧唐書』及び『新唐書』の渤海伝は、大祚栄政権樹立の経過を記述するにあたり、大祚栄が「高麗、靺鞨の衆を合わせ」、「祚栄は驍勇にして善く兵を用う。靺鞨の衆及び高麗の余燼は、稍稍(しだい)に、之に帰す」、「高麗の逋残(逃散した敗残兵)、稍く之に帰す」、「高麗、靺鞨の兵に因りて、(李)楷固(将軍)を拒む」と明言し、どれも靺鞨人を「高句麗に付く者」とみなしていた[209]

6.『新唐書』は『旧唐書』に遅れて編纂されていることから『旧唐書』に比して利用できる史料がより多く、唐の張建章の『渤海記』のような第一級史料を包括しており、史料的・学術的価値は『旧唐書』よりも高い。したがって『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。」の記事の方が信頼性が高い[210]。渤海関連記事は『旧唐書』より『新唐書』の方が史料的・学術的価値が高いことは中国や北朝鮮や日本の研究者は認めており、劉毅は「『旧唐書』の唐代後半、とりわけ宣宗(八四六-八五九)以降に関しては史料不足から内容的に粗略で錯誤等も多いとされる。それ以上に、『旧唐書』は五代紛乱の最中に編纂したので、沢山の唐代史料が戦乱で散佚され、それを収録できなかった。そのため北宋から明代まで、ほぼ五百年間間にわたって史書として重視されなかった[211]」「『新唐書』は、宋代新出の諸史料、及び筆記、小説、碑記、家譜、野史の類まで広く採用して、唐代後半に関する記事を補充し、『旧唐書』の後半疎略の弊を解消したこと、列伝を増した他、天文、暦志、地理、食貨、芸文志が詳細になる[212]」「『旧唐書』は、『夷』、『狄』(中国の官修正史の異民族に対する卑称)の記事に関しては史料不足から内容的に疎略で錯誤も多いとされ、中でも日本に関する記事の『倭国』『日本国』両伝を分立することに、最も明らかであろう[213]」「『旧唐書』が五代紛乱の最中に編纂されたので、沢山の唐代史料は戦乱で散佚し、それを収録できなかったが、一方、わずか四年間の編纂期間であり(『新唐書』の方が十七年間)、正史として、なお短かったためであろう[214]」「増村宏氏は中国・日本の諸史料によって、『新唐書・日本伝の記述に当時の新史料であった日本僧奝然日本年代記を参照している』と考証する。それを傍証として、異民族の関連記事については、『新唐書』が『旧唐書』に比べて史料的価値がより高く、正しいと考える[215]」「『新唐書』は、古籍の中では当時の渤海の状況に関する第一級の専著であった張建章の『渤海記』によって、編纂されたとみられるのである[216]」「要するに、多くの関連する内外の古文献からみれば、『新唐書』は良史として、その信憑性が高いであろうと認められる。それゆえ、『新唐書』の渤海人の出自についての判断は、事実に基づいたことである[217]」「約言すれば、『旧唐書』と『新唐書』の編纂した経緯によって、また歴代の中国の歴史学者がそれを論議したことから見ると、『新唐書』が『旧唐書』の改正版で、前者の史料価値は後者よりも高いことが知られる。これによって、『新唐書』渤海伝の『渤海本粟末靺鞨、附高麗者、姓大氏』という渤海記事は全く正しいことだと考えられよう[218]」と述べており、朴時亨は「周知のように、『新唐書』は『旧唐書』の欠陥を是正するために編纂されたものであるが、両者にはそれぞれ長所と短所があると一般に認められている。とくに『新唐書』渤海伝についていえば、それは『旧唐書』渤海伝では参照されなかったと思われる史料(『渤海国記』)を利用して、渤海の文物制度その他に関する事実を補充したのは確か[219]」「世に出るや世の全文筆家から『旧唐書』を完全に圧倒したといわれた『新唐書』[220]」と述べており、和田清は「新旧両唐書の史料的価値については、古来色々の批判があるが、少くとも渤海伝に関する限り、旧唐書の価値は新唐書のそれよりも遥に低いようである。旧唐書渤海伝の記事は誠によく冊府元亀の所伝と一致しているけれども、概して言えば、それは唐朝との交渉の一面に限り、その他の事は殆ど何物も伝えていない。之に反して新唐書渤海伝には、旧唐書にはなくて、新唐書にのみあるような記載が極めて多い。そうしてそれは大抵渤海国内の内情に関することのみである。例えば、渤海内部に行われた歴代国王の諡号や年号や、何王の時どの地方が経略されたとか、もしくは国内の行政区割・官制や地方の名産のこと等がこれである。これによって始めて我々は渤海の国情の大略を察知することが出来る[221]」と述べており、鳥山喜一は「もと新唐書は旧唐書の欠漏謬誤の補正をするための編述であるから、新史料の採録のあったことは当然[222]」「和田清博士は『渤海国地理考』において、この金毓黻氏の説に出発して、新旧両書の渤海伝の史料的価値の批判に触れ、『新唐書渤海伝の記事の旧唐書と違う部分は、殆ど全く張建章の渤海国記に拠ったものであって、しかも張建章は直接これを当時の見聞によって獲て来たのであるから、それは必ず渤海側の所伝と見るべく、中には渤海の記録をそのまま写したものもあること、後に説くが如くで、相当に尊重せられなければならぬ性質のものである』とさえいわれて、渤海国記によったであろうと思われる新唐書の記事を高く評価された[223]」と述べており、新妻利久は「結局は新旧唐書の優劣の比較論に帰することであるが、新唐書の記事は史学研究の常道、否な学問研究の常道にも合致していて、充分に信用価値ありと認めらるべきであるということを、新唐書編纂の事情を研究することによって確認が可能(中略)では次に新唐書の良書たることを追究することにするが、この至難な問題については、幸に、二十二史箚記に新唐書の良史たることの趙翼の見解が述べられていて、贅言を要しないと思うから、それを載せて卑見に換えることにする。『宋仁宗以劉昫等所撰唐書卑弱淺陋。今翰林學士歐陽修。端明殿學士宋祁刊修。曾公亮提舉其事。十七年而成凡二百二十五卷。修撰紀志表。祁撰列傳故事。…祁奉詔修唐書十餘年。出入臥内嘗以稿。自隨爲列傳百五十卷祁傳。論者謂新書事增於前。文省於舊。…至宋時文治大興。殘編故冊次第出見。觀新唐書藝文志所載。唐代史事無慮數十百種。皆五代修唐書時。所未嘗見者。據以參考。自得精詳。…是刊修新書時。又得諸名手佽助。宜其稱良史也。』とあって、新唐書が旧唐書に比して如何に優れており、如何に精詳であったかが知られる。したがって、旧唐書に記されていないことが、新唐書に記されているのは当然で、旧唐書に記されていない乞乞仲象や、元義華璵、及び彝震以後の諸王等が新唐書に記されているのは、その例証[224]」と述べている。

7.高句麗説支持者が依拠した『旧唐書』さえも、渤海と大祚栄を記述するにあたり、これを「渤海靺鞨」と称し、そして渤海を「北狄伝」に収め、漢人からみて東北アジアに住む諸民族の卑称である北狄の一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず、高句麗を収めた「東夷伝」には収めておらず、渤海は「北狄」に収められ、高句麗は漢人からみてみて東アジアに住む諸民族の卑称である東夷として扱い、渤海と高句麗は異種族に属するとする認識があった[225]

渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ[226]。〉 — 『旧唐書』渤海靺鞨伝』

8.韓国・北朝鮮が「別種」解釈において中国の論理に反して使用し「高麗別種」を「もと高句麗人」とみなす論法をとるなら「靺鞨別種」「渤海別種」をどう理解すべきだろうか[227]

立國於大伯山南、國號渤海。按上諸文、渤海乃靺鞨之別種。 — 『三国遺事』巻一・靺鞨[一作勿吉]渤海
女真者、渤海之別種也、契丹謂之虜真。 — 『武経総要』前集巻二十二
女眞者渤海之別種也。 — 『三朝北盟會編中国語版』巻三八・靖康元年條

劉毅は、別種の意味について増村宏の「各史籍について別種の用語を検討すれば、(1)唐代史料に多用され、唐代史書に準じて旧唐書の多用が注意される。(2)別種の多用は唐代史書の一つの書法である。(3)別種は当該民族・国人の自言を表すものではなく、中国側(史書撰述者をふくむ)の判断である」という主張と、朱国忱と魏国忠の「別種と本種、或いは正胤とが違った二つの概念であり、その区別は明かな事であろう」という主張から、「『高麗の別種』という意味は、『高麗の本種』ではないという中国の史書撰述者の判断であったと分かる。『旧唐書』渤海伝の文を見ると、史書撰述者はまず『渤海靺鞨の大祚栄』と明記し、すなわち大祚栄の所属する民族は靺鞨であるとみられ、後の『高麗の別種』の用語は史書撰述者の劉昫などの判断であろう」が、読者の理解には差がある為間違った結論を出す疑いもあり、したがって「『旧唐書』の改正版である『新唐書』が、その渤海関連記事にはさらに大祚栄の所属する民族を、直接に『もと粟末靺鞨』と書き直している。これが事実に基づく定説であろう」と述べている[228]

日本の研究者

石井正敏は、新羅王から唐皇帝に宛てた上表文に「渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記されており、それを前提に1「高句麗ノ殘孽」、2「高麗ノ旧将」、3「惟フニ彼ノ句麗、今ノ渤海タリ」、4「昔ノ句麗ハ則チ是レ今ノ渤海ナリ」などの表現を理解すべきであり、「渤海はいわば『在高句麗靺鞨人』を中心に、高句麗滅亡後建設されたものであるから、これを『かつての高句麗人によって建設された』ということもでき」、「両唐書が、あるいは『高麗ノ別種』のごとく、あるいは『本ト粟末靺鞨』のごとく、一見矛盾した表現をしているかにみえることも、上述のように考えれば、その疑問は氷解するであろう」と述べている[229]

  1. 「高句麗殘孽類聚、北依太白山下、國號爲渤海。」(『三国史記』巻四六・崔致遠伝)
  2. 「新羅古記云。高麗舊將柞榮。姓大氏。聚殘兵。立國於大伯山南。國號渤海。)」(『三国遺事』巻一・靺鞨渤海条)
  3. 「惟彼勾麗、今為渤海。」(『東文選』巻四七・新羅王与唐江西高大夫湘状)
  4. 「則知昔之勾麗、則是今之渤海。」(『東文選』巻四七・与礼部裴尚書瓚状)

日野開三郎は、『旧唐書』巻一九九渤海伝の劈頭に「渤海靺鞨大祚榮者。本高麗別種也。」とあり、大祚栄が「高麗別種」と記しているが、この「高麗別種」という「別種」の内容はこれだけでは判らないが、『新唐書』巻二一九渤海伝の劈頭には「渤海。本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏。」とあり、大祚栄を粟末靺鞨の出身で高句麗に附していた者と説明しており、『旧唐書』にいう「高麗別種」とはこうした関係を表現したものであるが[230]、「高麗別種」が単にこうした臣属関係を表しているだけならば、特に大祚栄を「高麗別種」とする必要はなく、「附高麗者」と特に断る必要もないが、特に「附高麗者」としているのは、「その附隷の関係が一般の者より格別親密であったために相違なく、さらに『高麗別種』と表現せられているのは、その親密な附隷関係を通して彼等が事実上高句麗人化していたため[231]」であり、大祚栄はおそらく粟末靺鞨ではあったが、高句麗本土の遼東に入住し、そこですっかり高句麗化し[232]、「『高麗別種』とは高句麗人化していた粟末靺鞨人を現した語と思われる[233]」と述べている。

鳥山喜一は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨」記事は「一見相違せるに似たれども、実は必しも然らざるものある也。思ふに旧唐書に『高麗別種也』と規定せるものと、新唐書が『本粟末靺鞨』と指したるものとは、其の対象を異にすることに注意せざる可らず、前者は渤海民族の種族を規定せるに非ずして、主権者たる大祚栄の高句麗の別種なることを云へるもの、而して新唐書は国民の所属を指示して粟末靺鞨なりとし、この句に次げる『附高麗者姓大氏』といへる説明にて、主権者と高句麗との関係を指示せる」もので『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種」として「渤海靺鞨」としており、したがって『新唐書』が「粟末靺鞨と云へるにても、論なき所ならんと思惟せらる」と述べており[234]、『新唐書』と『旧唐書』における大祚栄の出自については、表現に違いはあるがどちらも渤海と高句麗の因縁がふかいことを伝えており[235]、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨、附高麗者姓大氏」のニュアンスを考えると、「これは相背反し、相矛盾するものではなく、いずれも渤海が靺鞨族の国であることをいい、旧唐書は大祚栄すくなくとも大氏という渤海の建設者を出した家系の説明に重点を置いたものであり、新唐書はむしろ渤海国の民族的組成面に力点をおき、支配者の家系はこれを従的に取扱ったもの」であり[236]、『旧唐書』「高麗別種」表現から導かれる帰結は、大祚栄はもとより純粋な高句麗人ではなく、靺鞨人の出自であったが、「高句麗との関係-その版籍にあったのは、その父祖にも泝るもので、そういう環境に育った人物と想定させることと」なり[237]、『旧唐書』が大祚栄を「高麗別種」とし、『新唐書』が大氏を「高麗に附せしもの」としたことは高句麗への服事関係が古くからあったとみるべきであり[238]、『旧唐書』「高麗別種」は、「高麗に役隷し其の滅亡と共に唐に降りしものなるが故」であり、大祚栄は高句麗に服事していたと解釈するのは『旧唐書』を充足するだけでなく、『新唐書』「附高麗者姓大氏」とも矛盾なく解くことができる、と述べている[239]

和田清は、『旧唐書』渤海伝「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」と『新唐書』渤海伝「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」は、「一見矛盾している」としつつも、渤海が高句麗の残党と共に唐の擾乱に乗じて建国したことは疑いなく、「旧唐書の編者がこれを『本高麗別種也』といったのは正しくこの意味であらう。しかし高麗の別種といってその同類とはいはなかった」「この時高麗の遺族は遼東の安東都護府の管下にあつて遼西の朝暘(営州)に居たのは寧ろ靺鞨の余類であった。そうして渤海の国祖はその遼西の朝暘から起こったのである。そうして見れば、新唐書に明白に『本粟末靺鞨附高麗者』とあるのがやはり正しいのではないか」「況して新唐書の所伝は渤海側自身の消息を伝へていると思はれるにおいてをやである。尤もこの場合には両唐書の所伝は必ずしも矛盾ではない。『本粟末靺鞨附高麗者』が即ち『本高麗別種也』と解釈出来るからである」と述べている[240]

浜田耕策は、「『旧唐書』伝は『渤海靺鞨大祚栄』と書き始め、大祚栄の所属を『渤海靺鞨』と」しており、「『冊府元亀』外臣部・継襲二では『渤海靺鞨』とあり、また『靺鞨渤海郡王大祚栄』(『冊府元亀』帝王部・来遠、外臣部・褒異、七一八年二月)とも記録され」、「『新唐書』伝も大祚栄を高句麗に付属した粟末靺鞨族の者とみており、両唐書ともに大祚栄の政治、文化的な所属を高句麗に付属した靺鞨族と記録」しており、「唐では大祚栄に率いられた渤海の勢力を靺鞨諸族のなかの一つの大種族とみていたことがわかる」と述べている[241]

河内春人は、高句麗が唐との戦争を繰り広げていた時に靺鞨の北部の衆が高句麗側についており、隋代以来の靺鞨に対する高句麗の軍事的規制が生きていたことを指摘した上で「さらには遺民の一部が突厥よりも近い契丹や営州に移動したと推測するにかたくない。なによりも『旧唐書』渤海伝には大祚栄を『高麗別種』とした上で『高麗既滅、祚栄率家属徒居営州』とあることからも明らかであろう」と述べている[242]

新妻利久は、『旧唐書』渤海伝「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。萬歳通天年、契丹李盡忠反叛、祚榮與靺鞨乞四比羽各領亡命東奔、保阻以自固。盡忠既死、則天命右玉鈐衛大將軍李楷固率兵討其餘黨、先破斬乞四比羽、又度天門嶺以迫祚榮。祚榮合高麗、靺鞨之衆以拒楷固;王師大敗、楷固脱身而還。屬契丹及奚盡降突厥、道路阻絶、則天不能討、祚榮遂率其衆東保桂婁之故地、據東牟山、築城以居之。祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。聖暦中、自立爲振國王、遣使通於突厥。其地在營州之東二千里、南與新羅相接。越熹靺鞨東北至黑水靺鞨、地方二千里、編戸十余萬、勝兵數萬人。風俗瑟高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあるが、『新唐書』渤海伝には「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之。萬歳通天中、契丹盡忠殺營州都督趙文翽反、有舍利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奧婁河、樹壁自固。武后封乞四比羽爲許國公、乞乞仲象爲震國公、赦其罪。比羽不受命、后詔玉鈐衛大將軍李楷固、中郎將索仇撃斬之。是時仲象已死、其子祚榮引殘痍遁去、楷固窮躡、度天門嶺。祚榮因高麗、靺鞨兵拒楷固、楷固敗還。於是契丹附突厥、王師道絶、不克討。祚榮即並比羽之衆、恃荒遠、乃建國、自號震國王」とあり、「旧唐書に比して一層詳細である。両書の記事によって、渤海建国の祖は大祚栄で、その民族は靺鞨と高句麗の遺民とであったことが知られる。又大祚栄父子は靺鞨一方の豪酋で、その祖は早くから高句麗に服属していたことも知られる。これが旧唐書に、『高麗之別種』と記され、新唐書に『附高麗者姓大氏』と記された所以である」と述べている[243]

藤井一二は、『旧唐書』が大祚栄を「渤海靺鞨」、『新唐書』が渤海を「粟末靺鞨」とするのは、前者が大祚栄の出自、後者は渤海領域の由来について説明しているからであり、『旧唐書』では、渤海靺鞨の大祚栄を「高麗別種」、『新唐書』は渤海はもとの粟末靺鞨で高句麗に属し、姓は大氏であると記しているが、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」を「渤海はもと粟末靺鞨の地であり高句麗に属した」と解釈すれば、渤海は粟末靺鞨を主体に建国され、粟末靺鞨はかつて高句麗に隷属していたことを意味し、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」の「A(国)、(本)B之別種也」は、「Aは本来、Bの別種(別の種類)」と解釈され、「A」国の「B」国からの派生関係を示しており、「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」における高句麗の別種としての対象は、個人ではなく「国」としての渤海靺鞨であり、「高麗」はたんに「高句麗人」ではなく、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などの多様な種族を包括していた「高句麗」であり、高句麗を同一種族による国家とみるのは適当ではなく、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などを含めて「高句麗人」と表記したものと理解すべきであり、「本高麗別種」は渤海靺鞨はかつて高句麗を構成した一種族によって建国されたという意味であり、「本‥別種」は、歴史的系譜として「‥国から分岐した一種類」(‥国の系譜を引く別の種類)として理解すべき、と述べている[244]

小川裕人 は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚栄者、高麗別種也」、『唐会要』巻九六渤海「渤海渤海靺鞨、本高麗別種、後徙居營州、其王姓大氏、名祚榮、先天中封渤海郡王、子武藝」[245]、『五代会要』巻三十「渤海本號靺鞨、蓋高麗之別種也」、『新五代史』四夷附録は『五代会要』に従い、『宋会要』「渤海本高麗之別種」、『宋史』は『宋会要』にい従っているが、これらの史書のうち『旧唐書』は後晋時代に成り、『唐会要』は宋初に成り、『五代会要』『新五代史』が宋時代に成り、『唐会要』は唐代に一部が編纂されたが(徳宗の時に蘇冕が四十巻を編纂、武宗の時に崔鉉が続四十巻を編纂、建隆の時に王溥が百巻を成した)、『唐会要』渤海の本文は貞元八年閏十二月から始まっているためこの部分は崔鉉が徳宗貞元年間以後の記事を集めて成したものであり[246]、蘇冕の書には渤海はなく、『唐会要』渤海の序も蘇冕のものではなく、崔鉉か王溥の手により成ったものであり、このことから中国において大祚栄を「高麗別種」としたのは唐末以後のことと分かり、当時の名称を正確に伝えていると推測される『冊府元亀』は、高句麗と渤海は明確に区別され、最後まで渤海は靺鞨或いは渤海としており、この時に大祚栄を冊封するために唐から渤海へ派遣された崔忻の使命を「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻」としていることからも当時の唐人が渤海を靺鞨と称していたことは確実であり[247]、当時渤海は唐よりの封號「渤海郡王」と称して、靺鞨を附称しなかったことは、神亀四年に始めて通交した時の日本史料にみられることから明らかであり、渤海人は先天二年その渤海郡王に封ぜられた頃から単に渤海と號して靺鞨とはいわなかったことから開元年間に至るまで靺鞨と称したのは渤海人ではなく唐人であったと解釈され[248]、『冊府元亀』巻九七の朝貢開元九年十一月の條には「渤海郡靺鞨大首領、鉄利大首領、拂涅大首領、契丹蕃郎将倶来朝、並拜折衝、放還蕃」とあり、鉄利や拂涅と共に来朝した渤海を靺鞨とせず、渤海郡靺鞨と記し、同十年十一月の條には「渤海遺其大臣味勅計来朝、並献鷹」とあり、同十二年二月の條には「渤海靺鞨遣其臣加作慶」とあり、同十三年正月の條には「渤海遣大首領烏借芝蒙」、同十四年には再び渤海靺鞨と記し、その後開元年間にはこの称を以て記し時に渤海とのみ記したものもあるが、天宝以後は大体は渤海とのみ記し、靺鞨の文字を附したものはほとんどなく、このことから唐人は渤海を最初は靺鞨と称したが、その後に渤海郡靺鞨、そして靺鞨または渤海と呼ぶに至り[249]、唐人の渤海に対する名称変遷は、『冊府元亀』巻九七一開元二年二月の條に「是月拂涅靺鞨首領失異蒙、越喜大首領烏施可蒙、鉄利部落大首領闥許離等来朝」とある拂涅・鉄利・越喜などの靺鞨諸族の朝貢は、開元二年二月が始めであり、その後開元年間屢に来朝し、開元元年頃にある靺鞨の称が、他の靺鞨諸族の来朝した同二年以後なく、渤海の名称変遷は他の靺鞨諸族の来朝と関連しており、唐人は他の靺鞨諸族と渤海を区別する必要上から渤海郡靺鞨と記し、次いで渤海或いは渤海靺鞨と称するに至ったと考えられ、『新唐書』は粟末靺鞨の高句麗に属したもの、『文献通考』もそれと同様であるが、『新唐書』『文献通考』記事が根拠なきものとは考えられないことから、粟末靺鞨も高句麗領内に在ったと推測される[250]、と述べている。

『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条「土人」論争

正史四夷伝を始めとする中国史料を元に日本が渤海や唐との交流で得た渤海知識が記載してある日本史料『類聚国史』沿革記事には[251]、靺鞨人の部落が多く、土人が少ないと記載されている。

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、土人は少なく、みな土人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない[252]。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条

そこで、現在土人の解釈をめぐって論争となっている。沿革記事は本来は840年に完成した『日本後紀』の文であったが、『日本後紀』巻四が散逸したため、現在は『類聚国史』のみ伝えられている[253]。在唐学問僧・永忠は渤海を経由して入唐したが、渤海を経由した際に得た渤海に関する見聞録をまとめた永忠の書状とこれまでの日本朝廷と渤海との交渉を通じて得た情報及び唐との交渉で得た情報及び中国の正史や古典を基に沿革記事は作成されたが[254]、この沿革記事により『旧唐書』『新唐書』の中国史料では曖昧だった建国年が698年であることが決着するなど、記事は正確で信頼性が高い、とされている[255]

韓国・北朝鮮の研究者
土人=高句麗人説

土人が高句麗人であれば、多数の靺鞨人に対して少数の高句麗人が支配層を形成していたことになるため、当然韓国・北朝鮮の研究者は土人=高句麗人を主張しており[256]朴時亨は「元来、日本人には渤海は高句麗人の国として知られていたため、かれらが土人と記したのはいうまでもなく高句麗人[257]」と主張している。

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、高句麗人は少なく、みな高句麗人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
中国の研究者
土人=士人説

韓東育(東北師範大学)や劉毅(遼寧大学)など中国の研究者は土人は脱字であり、実際は士人(士人=官員)であると主張している[258]。なお、大系本『類聚国史』頭注に「土、大永本伊本大本作士、下同」とあり、土人を士人とする写本もある[259]。士人であれば、靺鞨人は人数的に絶対的優位を占めるという事実は、靺鞨人が士人(官員)の隊中の大部分を占めていたということになる[260]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、官員は少なく、みな官員を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=粟末靺鞨人説

王成国と楊軍は、『類聚国史』記事から渤海は靺鞨人が主体で、粟末靺鞨人が統治者であることがわかり、また渤海は粛慎の故地に建国し、その後挹婁の故地とも称しており、そこで日本人は土人=粟末靺鞨人と理解したと、土人=高句麗人を批判して、土人=粟末靺鞨人説を唱えている[261][262]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、粟末靺鞨人は少なく、みな粟末靺鞨人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=建国に中心的役割を果たした粟末靺鞨人を主体とする渤海人説

張博泉と程妮娜は、土人の本来の意味は土着の人であり、渤海は挹婁の故地に建国され、したがって土着の人とはそこに代々居住している靺鞨人となり、渤海建国時に渤海人は当地の靺鞨人より少数であり、このことから土人=建国に中心的役割を果たした粟末靺鞨人を主体とする渤海人と解釈している[263]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、渤海人は少なく、みな渤海人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=率賓管内に居住する靺鞨人説

劉振華は、『類聚国史』記事は渤海に赴いた日本人使者の見聞が出典であり、日本人使者が見聞したのは、「土地極寒、不宜水田」という部分から地理的に率賓一帯の状況であり、土人とは本土人を意味し、文化的程度が低く、獰猛な人を意味するするから、高句麗人の文化的程度は靺鞨人より高く、さらに高句麗は城池宮闕があるため「無州県館駅」は不自然として、土人=高句麗人を批判して土人=率賓管内に居住する靺鞨人と解釈した[264]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、率賓人は少なく、みな率賓人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=高句麗滅亡後に移住してきた靺鞨人に対する原住靺鞨人説

朱国忱と魏国忠は、渤海に赴いた日本使者は政府を代表者であり、靺鞨人と高句麗人の区別できないはずがなく、『類聚国史』編纂者の菅原道真は学者であり、また渤海使とも交流があったため渤海と高句麗について理解しており、土人が高句麗人であるなら高句麗人と直接書くはずであり[265]、日本使者が往来したのは日本道であり、南京を経由する場合でも、いずれも率賓の故地であり、高句麗の故地ではなく[266]、「極寒、不宜水田」とあることから渤海の偏北を述べており、渤海の偏北は沃沮人挹婁人であり、高句麗人ではなく、それ以外の地域の考古学的調査でも高句麗時代の遺構は発見されておらず[267]、これは高句麗人が住んでいない証拠であり、渤海建国後多数の靺鞨人が帰服し、震国初興地は靺鞨の故地でもあるため、高句麗滅亡後に移住してきた靺鞨人は原住靺鞨人と生活するようになったが、原住靺鞨人は久しく居住しており、土人は高句麗滅亡後に移住してきた靺鞨人に対する原住靺鞨人と主張している[268]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、原住靺鞨人は少なく、みな原住靺鞨人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=靺鞨人と高句麗人が融合した渤海族説

孫進己は、土人は靺鞨人と対称されているため、土人=靺鞨人ではないが、高句麗人とも断定できず[269]、『類聚国史』記事は796年に記され、建国後100年が経過しているため渤海は自己の民族形成した渤海族であり、土人は高句麗滅亡後100年も経過した高句麗人とはならない[270]。そして773年以降「渤海靺鞨」名称から渤海とのみ称され、渤海人が形成されたことを意味すし、渤海は粟末靺鞨人により建国されたことから、建国の主体者である粟末靺鞨人が都督・刺史にならないのはおかしく、建国の主体者ではない高句麗人が都督・刺史になるとは考えにくく、したがって土人=高句麗人ではない、と主張しており[271]、796年時の状況を記す沿革記事は、渤海族が形成された後の記事となり、したがって土人は靺鞨人でも高句麗人でもなく、靺鞨人と高句麗人が融合した渤海族であると主張している[272]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。」
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、渤海族は少なく、みな渤海族を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=原住民説

王健群は、『類聚国史』編纂者の菅原道真は漢学を理解しているため高句麗の状況を理解しており、同じ『類聚国史』において高句麗滅亡を述べている編纂者が高句麗人を土人と称するはずがなく、土人とは当地の居民・原部落人の意味であり[273]、『新唐書』「王師取平壤、其衆多入唐、汨咄、安居骨等皆奔散、浸微無聞焉」と『旧唐書』「祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之」記事から靺鞨部落民は散逸し、そして新たな部落に来帰した者は、もとの部落の名称を失ってただ靺鞨と通称するが、当地の原住民は原部落人の名称を保持したことから、土人=原住民であると主張している[274]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。」
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、原住民は少なく、みな原住民を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
日本の研究者
土人=高句麗人説

石井正敏は、土人=高句麗人説批判論者には、渤海は高句麗の故地に復興した国ということが当時の日本人の基本的認識だったという視点が欠落しており、沿革記事冒頭の「渤海国者、高麗之故地也」とある「高麗之故地」という前提では土人=高句麗人がもっとも無理のない解釈であり、同じ靺鞨人を一方は「靺鞨」、一方は「土人」と表現したとする解釈は無理があり[275]、「大祚栄(あるいは父の乞乞仲象も)が粟末靺鞨人であることは間違いない」という前提のもと、大祚栄はじめ渤海王家はかつて高句麗に所属していた靺鞨人、いわば高句麗系靺鞨人(靺鞨系高句麗人)であったととして[276]、日本人が渤海は高句麗の継承者であり、渤海の支配層は高句麗人と認識したのは、渤海王家や支配層が高句麗化した靺鞨人という実体があり、実際に渤海との交渉で体験したことも沿革記事に反映され、支配層の高句麗度が相当高かったことが「土人」と「靺鞨」の区別表記となり[277]、沿革記事の「土人」=高句麗人、「百姓」は百官=役人、「首領」=中央及び地方の下級役人の総称であり、在地では村長(都督・刺史)のもとで庶務にあたる階層であるとして、以下のように沿革記事を意訳している[278]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。
〈州や県(といった地方)には館や駅(といった宿駅の施設)はない。処々に村里があるが、それはみな靺鞨人の部落である。部落の役人には靺鞨人が多く任用され、土人すなわち高句麗人(高句麗系靺鞨人・靺鞨系高句麗人)は少ないが、村長として支配にあたるのは少数の高句麗人である。大きな部落の村長を都督といい、次に大きな部落の村長を刺史という。村長の下で庶務にあたる役人を首領と総称している[279]。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=渤海人説

浜田耕策は、「渤海国は大祚栄が高句麗の故地に建国し、713年に唐から册封を受けた国家であること、また、渤海の社会は処々に村里があって、靺鞨人が多く、渤海人は少く、これらの部落では、渤海人がその村長となっており、この村長を部落では首領とも呼んでいた」と解釈している[280]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、渤海人は少なく、みな渤海人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=渤海人説

池内宏は、「玆に土人とあるは治者階級に立てる渤海人を指したるなるべく、治者たる渤海人と被治者たる靺鞨との関係は、朝鮮の両班の平民に於けるが如くなりしなるべし」と述べている[281]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、渤海人は少なく、みな渤海人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
土人=その土地の人

姜成山は、沿革記事は840年代成立の『日本後紀』の逸文であり、当該記事は773年前後の情報と考えられ、891年頃成立の『日本国見在書目録』「正史家」三〇によれば、『旧唐書』及び『新唐書』の記載がないため、当該記事成立の時点で『旧唐書』及び『新唐書』が参考されなかったことは明らかであるが、『旧唐書』及び『新唐書』「本紀」は、唐代の官撰史料の『起居注』及び『実録』などを援用して編纂されたと考えられており、『日本国見在書目録』「雑史家」には、『唐実録』及び『高宗実録』、『日本国見在書目録』「起居注家」には『大唐起居注』があり、したがって『旧唐書』及び『新唐書』「本紀」を編纂する際に参考した原史料を、『日本後紀』の編纂者も参考した可能性が高く、そのため『旧唐書』『新唐書』の用例が非常に重要な意味をもつが、沿革記事の「延袤」「朝貢不絶」などの用語は、『隋書』巻八二林邑伝との類似性が指摘されており、したがって『隋書』そのものが沿革記事作成においてもっとも参考にされた可能性が高いと考えられ[282]、「土人」用語を台湾中央研究院二十四史データベースにアクセスし、『史記』から『新唐書』までの各正史における使用例を考察したところ、「土人」は『隋書』のなかで三つの用例しかなく、すなわち巻三一・地理志下「屈原以五月望日赴汨羅、土人追至洞庭不見、湖大船小、莫得済者、乃歌曰:『何由得 渡湖』因爾鼓櫂争帰、競会亭上、習以相伝、為競渡之戯。」、巻八一・靺鞨伝「皇初、相率遣使貢献。高祖詔其使曰:『朕聞彼土人庶多能勇捷、今来相見、実副朕 懐。朕視爾等如子、爾等宜敬朕如父。」、巻八一・流求國伝「歓斯氏、名渇剌兜、不知其由来有国代数也。彼土人呼之為可老羊、妻曰多抜荼。 所居曰波羅檀洞。」とあり、『隋書』巻三一・地理志下は春秋時代の屈原に由来する熙平郡の習俗のことを述べてたものであり、ここでは「土人」は汨羅の人の意味で使用され、その他2つの「土人」用例は巻八一の靺鞨伝と琉球伝で使用され、ここでもその土地の人という意味では使用されており[283]、また日本史料『田令』には、「凡給田。非其土人、皆不得狭郷受。」とあり、古代日本の給田制度ではその土地の人でなければ面積が狭い地域では土地を受けられないという規定があり、土人であるなら狭郷であっても国家がもともと在地社会にいた人々に権利を与えられ、このことから国家より在地での地位を保障され、その地に居住したものを「土人」と解釈するならば、「土人」は国家と緊密な関係を持つ在地の人々となり、したがって「土人」を「その土地の人」と解釈するのが妥当と述べている[284]

延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。
〈州・県や館・駅は無く、処どころに村里が有るだけで、みな靺鞨の部落である。その百姓は、靺鞨(人)が多く、その土地の人は少なく、みなその土地の人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領と曰う。土地がらは極めて寒く、水田に宜しくない。〉 — 『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条

靺鞨説支持者

石井正敏

石井正敏は、渤海の建国前後状況を「およそ次のように理解されている」として、「七世紀の末、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人の大祚栄は、高句麗滅亡後強制的に移住させられていた唐の営州から一族を率いて東方へ逃れた。唐は追討軍を差し向けたが、軍略に長じた祚栄は靺鞨人やかつて高句麗に属していた人々を率いて迎え討ち、ついに今日の吉林省敦化市付近を根拠地として独立し、震(振)国と号して自立を宣言した。(後略)」として、「以上が渤海建国前後の状況の通説であり、筆者もおよそこのように理解している」「大勢としては、通説のように考えてよいと思う[285]」と述べており、「渤海は、西暦六九八年に高句麗の遺民大祚栄を中心として、現在の中国の東北地方に建設され、九二六年契丹に滅ぼされるまで存続した、主に靺鞨種族より成る国[286]」「渤海は、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人である大祚栄によって六九八年に建国[287]」「渤海の建国者大祚栄は靺鞨人であるが、かつて高句麗領内に居住しており、自立後は高句麗人も彼のもとに集まった[288]」「7世紀の末、かつて高句麗に属していた靺鞨人の大祚栄[289]」「渤海は、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人である大祚栄によって六九八年に建国され、祚栄は七一三年に唐から冊封された[290]」「渤海はいわば『在高句麗靺鞨人』を中心に、高句麗滅亡後建設されたもの[291]」「(『高麗別種』あるいは『附高麗者』と表現されているのは)同じく靺鞨人であっても、すでに高句麗化が進んでいることから、区別されているのであろう[292]」「唐の羈絆を脱した靺鞨人を中心とする渤海が高句麗の旧地に興ったわけである[293]」「大祚栄(あるいは父の乞乞仲象も)が粟末靺鞨人であることは間違いないと思われる。しかしその一方で『高麗別種』あるいは『附高麗者』とされている。すなわちこれらの表現するところは大祚栄をはじめとする王族はかつて高句麗に所属していた靺鞨人、いわば高句麗系靺鞨人(靺鞨系高句麗人)であったということ[294]」そして、大祚栄が「高麗別種」・「附高麗者」というのは、日野開三郎が主張している「その附隷の関係が一般の者より格別親密であったために相違なく、…その親密な附隷関係を通して彼等が事実上高句麗人化していたためでなければならぬ[295]」という理解でまず間違いない、と述べている[296]

森安孝夫

森安孝夫は、大舎利乞乞仲象が保有していた舎利という官職が「父の方が舎利という靺鞨にはあって[注釈 11]、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当かと思われる[297]」「その建国の立役者となった乞四比羽が純粋の靺鞨人、大舎利乞乞仲象と大祚栄が高句麗の強い影響を蒙ってはいたもののやはり靺鞨人と考えられること、さらにその初期の本拠となった地方が、従来より靺鞨(勿吉)人の住地であったこと等よりみても、その基盤となった民族が靺鞨人であったことは当然考えられよう[298]」「渤海の建国とはツングース系民族国家の建設、言いかえれば高句麗国の再興をはかったものであって、その中核となり、後の支配層となった王族大氏に代表される旧高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人[299]」「渤海の支配階級を形成していたのが、大氏に代表される旧高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人[300]」「大祚栄の出身については異論が多いが、かつての高句麗国時代から高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当と思われる[301]」と述べている。

浜田耕策

浜田耕策は、大祚栄を冊封するために渤海に派遣された唐の冊封使の崔忻の使命を「宣労靺鞨使」と命じたこと、『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚栄」と始まり、大祚栄の所属を「渤海靺鞨」とし、『冊府元亀』外臣部・継襲二では「渤海靺鞨」とあり、『冊府元亀』帝王部・来遠、外臣部・褒異、七一八年二月では「靺鞨渤海郡王大祚栄」と記録されていること、『新唐書』も大祚栄を高句麗に付属した粟末靺鞨人とみており、新旧両唐書ともに大祚栄の政治・文化的所属を高句麗に隷属した靺鞨人と記録していることなど、唐は大祚栄及び渤海を靺鞨諸族のなかの一つの大種族とみていたこと、大祚栄を靺鞨人とみるのは中国史料だけでなく、897年に渤海の席次を新羅よりも上位にして欲しいと唐に要請したのに対し、唐はこれを却下し、旧来のごとくせよと命じたことに関して新羅の崔致遠が作成し、新羅王(孝恭王)から唐へ贈られた国書の『謝不許北国居上表』も大祚栄を高句麗の内部に移住した粟末靺鞨と主張していることなどを理由に「崔致遠がこの上表文のなかで粟末靺鞨族の者とみなすことで、渤海は唐の文化に遅れて浸透した、いわば文化度が低いと主張していることを差し引いても、おそらくこれらの記録の言うように、渤海王家の大氏は靺鞨族のなかでも粟末部の出自であろう」と述べており[302]、「建国は靺鞨諸族を統治していた高句麗の滅亡に始まる。建国の運動は粟末靺鞨の首領のひとり乞乞仲象とその子の大祚栄を中心とした勢力[303]」「高句麗の末期、その中央部にあって高句麗に付属していた粟末靺鞨族の有力な部族の首領(舎利)であった乞乞仲象[304]」「粟末靺鞨族は首領の乞乞仲象と乞四比羽らに率いられ[305]」と述べている。

藤井一二

藤井一二は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」が大祚栄を渤海靺鞨、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」が渤海を粟末靺鞨とするのは『旧唐書』が大祚栄の出自、『新唐書』が渤海の領域の由来を説明しており、唐は黒水靺鞨の南の渤海郡の領域を黒水と区別した呼称であり、「渤海靺鞨」は渤海郡王が領域とする靺鞨或いは靺鞨の中の渤海郡領域とみる認識が存在しており[306]、「渤海靺鞨」の「靺鞨」は『新唐書』の「粟末靺鞨」を指すとみるのが至当であり、粟末靺鞨を主体に建国された「震国」=「渤海郡王」領域に対して「渤海靺鞨」として表示したものであり[307]、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」を「渤海はもと粟末靺鞨の地であり高句麗に属した」と解釈すれば、渤海は粟末靺鞨を主体に建国され、その粟末靺鞨はかつて高句麗の支配下にあったことを意味する[308]。『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」は「A(国)、(本)B之別種也」は、「高句麗‥夫余別種」(『後漢書』東夷伝七五・高句麗条)、「突厥者‥蓋匈奴之別種」(『周書』列伝四二異域下・突厥条)、「日本国者、倭国之別種也」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・日本国条)、「室韋、契丹別種」(『新唐書』列伝一四四上、北狄・室韋条)のように「Aは本来、Bの別種(別の種類)」であり、それは系譜の別の種類と解釈され、「A」国の「B」国からの派生を示しており[309]、『新唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」において高句麗の別種としたのは個人ではなく国としての渤海靺鞨と解釈され、高句麗は多様な種族を包括し構成された国であるため、高句麗建国と領域拡張過程において、夫余沃沮拘茶蓋馬などが包摂され、従って高句麗を同一民族・種族による国家とみるのは適当ではなく、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などを含めて高句麗人と表記したものであり、高句麗の645年の安市城における唐との戦い、654年の契丹との戦い、655年の新羅との戦いに際して高句麗と靺鞨が連合軍を結成しており[310]、靺鞨人の一部が高句麗領に編入されていたことは確実であり、唐から渤海郡王を冊立された段階では、渤海領には高句麗時代に北で隣接した粟末靺鞨が組み込まれており、「本高麗別種」は「渤海靺鞨はかつて高句麗を構成した一種族によって建国されたとの意味であり、また『本‥別種』は、歴史的な系譜として『‥国から分岐した一種類』(‥国の系譜を引く別の種類)として理解すべきもの」と述べている[311]

小嶋芳孝

小嶋芳孝は、「敦化の市街地から西南約二〇キロの大石河南岸の低平な丘陵の上には、周囲の畑地から約七〇メートルの高さに聳える独立丘陵があり、山腹に土塁がめぐっている。この山城は城山小山城と呼ばれ、乞乞仲象らが立て籠った東牟山に比定する説がある。(中略)この遺跡を東牟山に比定することの是非はともかくとして、靺鞨山城の形式をよく残していることは旧国の問題を考える上で重要である[312]」「旧国が牡丹江水系に置かれたという従来の説に従えば、建国時は靺鞨主導で旧国が置かれたが、唐から冊封を受け国内諸制度を整備する過程で高句麗人のノウハウを必要とした渤海は、宮都を図們江水系の顕州に遷して中京顕徳府と号した[313]」「都城周辺の遺跡を見ると、上京の周辺では中京や東京に比べて遺跡の数が少なく、牡丹江の下流域でも川沿いの平地に地方支配の拠点となる土城が点在しているだけである。西古城や八連城の周辺に見られるような鉄や塩、米などの生産は、上京から北の世界では見ることができない。このような生活基盤の差がありながら宮都を牡丹江水系に置き、しかも長期の安定を見た背景には、渤海の社会構造が産業を基盤にしていなかった事を示唆するものである。鈴木靖民氏が先に指摘しているごとく、渤海社会は靺鞨の小部族を単位として構成されており、部族長は首領と呼ばれて支配構造に組み込まれていた[314]」「上京龍泉府は高句麗的な産業基盤を否定し、靺鞨の伝統的な生活基盤である交易を国家の基軸としていた[315]」と述べている。

日野開三郎

日野開三郎は、「当時粟末・白山等の濊貊系靺鞨と奥地の高句麗遺衆とを統合していた渤海国[316]」「渤海は節度使発展期たる開元天宝時代を通じて渤海靺鞨と呼ばれ、純通古斯系の上述靺鞨と対立する一団の靺鞨勢力として扱われ、且つ最も有力な代表的靺鞨と見なされていた。単に靺鞨と称して渤海国を指している事例はすこぶる多い[317]」「白山靺鞨は粟末靺鞨(北流松花江本支流域に居住)とともに高句麗に征服さられ、久しくその直轄領民として協力し来った同種族人である。ところで新唐書巻二一九渤海伝には渤海本粟末靺鞨。附高麗者。姓大氏。云々。とあり、旧唐書巻一九九渤海伝にも渤海靺鞨大祚榮者。本高麗別種也。高麗既滅。祚榮率家屬徙居營州。とあるによれば粟末靺鞨人もまた駆遷せられ、営州に置かれていたものの如く解せられる[318]」「『高麗別種』とは高句麗人化していた粟末靺鞨人を現した語と思われる[319]」「靺鞨国或いはその略称としての靺鞨は、渤海国またはその前身たる震(振)国を指す[320]」「ところで粟末・白山両靺鞨の裔に一部の高句麗遺民が加わって震国を建てると、その国勢は遽に強大となって靺鞨中の最強勢力に発展した。やがてこの国の王は唐から渤海郡王に封ぜられ、よってこの国は中国人に渤海靺鞨と呼ばれた。震→渤海は満州通古斯系諸族、即ち靺鞨諸族の間に懸絶した実力を有して覇を称えていたため、単に靺鞨といえば諸靺鞨の代表的勢力たるこの国を指し、この国はまた単に靺鞨と呼ばれていた。但し他の靺鞨と混同する恐れのある場合、或いは峻別する必要のある場合は渤海靺鞨と呼ばれていた。そしてやがて靺鞨の名を棄てて、もっぱら渤海と称せられるようになるのであるが、それは渤海靺鞨に対立していた他の諸靺鞨を征服して渤海国民に編入統一して終わったからである[321]」「聖暦二年に先立つこと三年、万歳通天元年に勃発した営州の契丹人李尽忠・孫万栄等の叛乱を機として営州の城傍に居た靺鞨人大祚栄は満州に逃入し、粟末・白山両靺鞨と高句麗人とを糾合して大震国を建てた[322]」「靺鞨(震国)[323]」「(『通典』巻一八六にある「靺鞨暇遐方。更為鶏肋。」の一句は)この靺鞨とは靺鞨諸族全体と見るよりも、大祚栄の勢力を指しているものと解すべき[324]」「大震国、即ち後の渤海国を建て、またその支配層を構成したのは高句麗人と粟末・白山両靺鞨であった[325]」「震国が出現して靺鞨諸族を代表する強大な勢力となり、さらに名を渤海国と改めて他の靺鞨諸族に懸絶した発展を遂げると、靺鞨には従来の総名としての用法のほかに、この新興勢力たる震→渤海を特定的に指す用法をも生ずることとなった[326]」「渤海はこの両地区の高句麗人と粟末・白山両靺鞨人とが一体となって建国し、後に北方の純通古斯系靺鞨諸族をも併合して国勢を張ったものである。王家は粟末靺鞨出身の大氏、これに次ぐ国の右姓は高氏であった。粟末・白山両靺鞨は高句麗人と同血・同語の同種族(濊貊種)であり、久しく高句麗に服していたのが今や渤海国民として一体となり、かくて次第に相混融して渤海人に帰一して行った。渤海王家は粟末の出身であったが、国の指導階級として最も勢力を有していたのは高句麗の王族高氏を中心とする高句麗系渤海人であった[327]」「唐の則天武后の万歳通天中、営州城傍の契丹人が乱を作し営州を占領すると、そこにいた高句麗人・粟末靺鞨人の各集団はそれぞれ酋長に率いられて同族の住む満州奥地に遁入した。この時、粟末靺鞨人を率いていた酋長が大祚栄で、彼はやがて高句麗人集団をも収め、今の敦化附近と推測せられる地に拠って建国し、国号を震と称した[328]」「唐人は渤海人をこれら諸靺鞨と対置して渤海靺鞨と呼んだ。隋以来、中国人は高句麗人以外の在満純通古斯系諸族をすべて某靺鞨と呼んで来たので、渤海人をも他の靺鞨と対置して渤海靺鞨とと呼んだものと思われる。かくて渤海人は渤海靺鞨と呼ばれたが、その内容はかつての粟末、白山両靺鞨と高句麗人とより成っていたのである[329]」「渤海の始祖大祚栄及びその一党は粟末靺鞨人であるが、遼東に入ってそこに住みつき、高句麗に協従して活躍しつつ著しく高句麗人化していたものと解せられ、それが唐の営州に連れ去られ、後に脱走して敦化地区に逃入し、そこで建国したものである[330]」「小高句麗国の王家高氏は大高句麗以来の王統で、渤海国の王家たる夫余系粟末靺鞨出身の大氏にとってもとの主筋の家柄[331]」「小高句麗の王室高氏は大高句麗以来の高氏の嫡統であったのに対し、渤海の王室大氏はかつての大高句麗の隷民粟末靺鞨の出身[332]」「渤海の始祖大祚栄は、旧唐書巻一九九渤海伝に『本高麗別種也』とあり、新唐書巻二一九渤海伝に『本粟末靺鞨附高麗者』とある如く、永らく高句麗に投じて高句麗人化していた粟末靺鞨の出身であった[333]」「渤海の始祖大祚栄は粟末靺鞨の出身であり、またこの国を建国し支持した民族は濊貊系たる粟末・白山の両靺鞨と高句麗人とであったが、その主力をなし大多数を占めていたのは粟末・白山の両靺鞨であった。従って彼等が合体して渤海国なる一勢力を構成した際、これが靺鞨族の集団として渤海靺鞨と呼ばれたことになんら不思議はない[334]」「渤海が小高句麗を抹殺して名実ともにその本土としなかった理由は判らないが、小高句麗の王家高氏は粟末出身の渤海王家大氏にとって旧の主筋に当たり、この渤海国の内部においても高氏が一大巨姓として支配層の中に大きな力を占めていたことがその重要な一因であったのではないかと思われる[335]」と述べている。

旗田巍

旗田巍は渤海を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られており[336]1975年朝鮮史研究会の例会において酒寄雅志による日本と渤海の関係史についての報告後に、「渤海史は朝鮮史でしょうか?」と漏らしたことがあり、これについて酒寄雅志は「今思えば何とも含蓄の深い一言であった」と評している[337]

池内宏

池内宏は、「唐代に於いて靺鞨の諸部族を打ち固めた渤海国[338]」「渤海国滅亡の後ち再び政治上の統一を失った靺鞨族[339]」「粟末靺鞨の酋長大祚栄は、唐の則天武后の久視元年(A.D.700)、長白山の北方なる瑚爾喀河の上流の地に拠り、国を振と號した[340]」「然かも乞四比羽と祚栄とは李尽忠の営州に反せし時東方に遁走したる靺鞨にして、之をしも尽忠の餘黨となすこと能はざればなり[341]」「而して女直と渤海人とは明かに区別せらるれども、本来人種上の相違の存せしにはあらず。女直は即ち唐代の靺鞨にして、彼等を支配したる渤海人は所謂『渤海靺鞨』として亦た靺鞨人に外ならざりしなり[342]」「然るに上にいえる如く忽汗の称が亦た華爾騰湖にも竜泉府にも適用せられしを以て之を観れば、それ等は何れも唐人の便宣的称呼にして、渤海靺鞨の土名にはあらざるべし[343]」「女真はいうまでもなく隋唐時代の靺鞨であって、則天武后の時、もと靺鞨人であった大祚栄が渤海国を建設するに及び、其の領内に編入せられた。渤海国は半島統一以後の新羅と時代を同じくし、これと我が国との間に特別なる国際関係のあったことは周知の事実である[344]」「渤海時代の土民であった靺鞨が、女真の名で新たに頭を擡げだした[345]」「渤海国の風俗を叙べたる松漠記聞中国語版の一条に『婦人皆悍妬、大氏興他姓相結』といえるは、靺鞨族の間に此の風習の存せしことを証するものなる[346]」「完顔部の威力は、世祖より康宗に至る四主の間に、満州及び高麗の長城外の女直の諸部族に及びしことを知れり。実に是等の四主は、渤海国滅亡の後、始めて女直民族統一の大業を遂げたるなり[347]」「阿骨打は彼れの挙兵の初め渤海人及び係遼籍女直を招諭し、渤海人に対しては『女直・渤海本同一家』といいて其の来帰を促せりという。渤海国の大氏と生女直の完顔氏とは其の祖を同じくせざること勿論なれども、渤海人と女直とは共に古への靺鞨にして、元と同一種族なれば、一時の方便としては亦た斯くいうを得べし[348]」「女真民族の間に於いて、渤海国は思想上容易く滅びざるなり。完顔氏の始祖の兄を隣境の大国たる高麗に留まれりとなしたる祖宗実録の編者が、渤海の古都の附近を其の弟の徒住地に擬せしは、即ちこれが為めならずんばあらず[349]」と述べている。

今西龍

今西龍朝鮮史編修会の1930年の委員会において「朝鮮史の起源と密接な関係ある」「民族」を広く編纂するようにとの希望を述べた崔南善に対して、「渤海も朝鮮史に関係のない限りは省きます」返答している[350]

津田左右吉

津田左右吉は、「祚栄が営州を脱し契丹に入り、かくて遠く東方に来れるは何等かの縁故が其の地方にありし故なるべし。此の地方は『勿吉考』の終に述べしが如く隋書に所謂白山部なるべく思はるるが、祚栄が太白山の東北に来りて居城を築きしは此の地方が彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか。こはもとより一片の想像に過ぎざるも、上に述べしが如く白山部の靺鞨が高麗の滅亡と共に唐に入れりとせられ、而して唐はかかる夷民を営州に置くが慣例なりしより見れば、初め高麗に属し、後に営州に住せし祚栄を以て白山部の靺鞨なりとするは故なきにあらざるなり。彼が靺鞨にして高麗人ならざるは、高句麗の遺民の営州に置かれしこと無きにても推知せらる。旧唐書に『高麗別種』といへるは、高麗に役隷し其の滅亡と共に唐に降りしものなるが故にして、従ってまた其の白山部に属せしを暗示するものの如し。(『別種』の語は支那の史籍に於いて塞外民族の由来を説くに当り慣用せらるる語法にして杜撰なるもの多ければ必ずしも之に拘泥するを得ずと雖も、かく解すれば極めて恰好の説明たるなり。また新唐書渤海伝には『渤海本粟末靺鞨、附高麗者』とあれど果して信ずべしや否や疑なき能はず。なお同伝には舎利乞乞仲象とあるが、地理志なる安東都護府の属州に舎利州ありてそが靺鞨の部落名なるが如く思はるれば、乞乞仲象の故郷は此の舎利州ならんかとも推せらるれど確信し難く、且つ舎利州の位置も知る能はず)[351]」「而して旧唐書に『白山部素附於高麗、因收平壤後、部眾多入於中國』と見え、新唐書にも同じ記事あれば、概ね高句麗に隷属せしなるべく、此の関係は隋代もしくは魏代よりして既に然りしならんか。されば隋・唐の高句麗戦役に当りて麗軍に参加せし靺鞨の多数は此の部のものなりしに似たり[352]」として、「靺鞨人たる祚栄[353]」と記している。

和田清

和田清は、『旧唐書』と『新唐書』の渤海に関する史料的価値は「旧唐書の価値は新唐書のそれよりも遥に低いようである」と評しており[354]、『旧唐書』の記事は冊府元亀の記事と一致しているが、唐との交渉の一面だけでありそれ以外は何も伝えておらず、しかし『新唐書』は『旧唐書』にはない『新唐書』にのみある記事が極めて多く、それは唐の遣渤海史張建章の手記『渤海国記』を利用しているためであり[355]、「それは大抵渤海国内の内情に関することのみである。例えば、渤海内部に行われた歴代国王の諡号年号や、何王の時どの地方が経略されたとか、もしくは国内の行政区割・官制や地方の名産のこと等がこれである。これによって始めて我々は渤海の国情の大略を察知することが出来る」として[356]、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」は矛盾しているようにみえるが、「渤海が高句麗の余類を以て唐初の擾乱に乗じて起こったことは疑問のないことで、だからこそその日本に朝貢するや、自ら『高麗の旧居を復し、夫余の遺俗を有つ』といい、自らも高麗国王と称し、我が国でもこれを待つに高麗国王を以てした」のであるが[357]、「しかし高麗の別種といってその同類とはいはなかった。この時高麗の遺族は遼東の安東都護府の管下にあつて遼西の朝暘(営州)に居たのは寧ろ靺鞨の余類であった。そうして渤海の国祖はその遼西の朝暘から起こったのである。そうして見れば、『新唐書』に明白に『本粟末靺鞨附高麗者』とあるのがやはり正しいのではないか」と述べており、それは『新唐書』が渤海自らの消息を伝へているとみられるためであり、この場合「両唐書の所伝は必ずしも矛盾ではない。『本粟末靺鞨附高麗者』が即ち『本高麗別種也』と解釈出来るからである」と述べている[358]

鳥山喜一

鳥山喜一は、『五代会要』巻三十は「渤海本号靺鞨。蓋高麗之別種也」と伝えており、これは靺鞨が発展して渤海になったことを伝えたものであり、『旧唐書』「大祚榮者、高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨、附高麗者姓大氏」の記事は「静かにに考えると、これは相背反し、相矛盾するものではなく」、新旧唐書はいずれも渤海が靺鞨族の国であるとしており、「『旧唐書』は大祚栄すくなくとも大氏という渤海の建設者を出した家系の説明に重点を置いたものであり、新唐書はむしろ渤海国の民族的組成面に力点をおき、支配者の家系はこれを従的に取扱ったものと見られはしまいか」として[359]、『旧唐書』「高麗別種」から導かれる帰結は「大祚栄はもとより純粋な高句麗人ではなく、靺鞨族の出身であったが、高句麗との関係-その版籍にあったのは、その父祖にも泝るもので、そういう環境に育った人物と想定させることとなろう」と述べている[360]。この場合、大祚栄が李尽忠の反乱に乗じて、遼西から遼河へ東走するときに、その根拠地を求めるならば、自らの故地になることは自然の情であり、大祚栄が太白山(白頭山)の東北から来て居城を築いた根拠地が元々は白山靺鞨の住地だったことから「彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか」「わたくしは大祚栄はもと白山靺鞨の出身で、古く高句麗に服事していた家の出身であったと推定する」、高句麗滅亡後に白山部は粟末部の支配におかれたのではないか、『旧唐書』「高麗の別種」と『新唐書』「高麗に附せしもの」は「高句麗への服事関係が古くからあったと見ることにも関連して、白山部というものを強く押し出させることになりはしまいか」と述べている[361]

稲葉岩吉

稲葉岩吉は、「渤海の始祖は、乞乞仲象といった。この乞乞は、『女直』の初音であると考える。乞四比羽の乞四亦た然り、同じくChi-Chi,Chi-suで、粛慎よりの音転とみてよいものと思う。かつてわたくしは、東鑑の異体文字の頭一字を二字に分解しChi-Chi,Chu-Chuとなし、それは女直(女真)であるとしたが、新唐書が、乞四比羽にのみ靺鞨の酋としているのは当たらない、乞乞仲象も同一種人であったのである。それは、仲象の子祚栄を同じく靺鞨といっているので判る[362]」「新唐書渤海列伝の書き出しに、『渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏』といい、他書も略は同一であるが、わたくしは、この大氏は、靺鞨の訳字であり、靺鞨大氏は、いわゆる畳言であるとする。靺鞨は、梵語のマハ(Makha、大の意)に相当し、かれら女真の種類は、巨酋をば、マハ即ち大人といった、それ故に祚栄を指してマハ祚栄と呼び、マハの部衆であるから、当時の支那人は、靺鞨々々と指称したのである。マハなる尊称の佛名よりであることは、釈教東伝の既に悠久なりしを証示し、北魏の昔にも遡り得べく、渤海では、遂に君主を可毒夫といった、可毒夫はクトクトの対音で、蒙古の呼図克図中国語版のごとし。かくて多くの寺院関係の遺物の、東京古城より見出されるのは、毫も怪むに当たらない。かの清の太祖ヌルハチを、朝鮮で、建州衛馬法大人と認めたということなどを思い合わせると、一層興味があろう。故に、わたくしは、大祚栄は、女真人の巨酋であって、この巨酋を中心として渤海国は成立したものと考える[363]」「旧唐書を見ると、『大祚榮者、本高麗別種』とし、新書は、『渤海本粟末靺鞨附高麗者』とし、五代会要また同一の文字を掲げ、記事は、不一致ながら、建国者の出自に、高句麗の色彩の附著していることは、注意すべきである。つまり、唐の勢力のいかようがであるかを體認した長白山以東の種人即ち女直の大人たちは、叛旗を上げ、之に高麗の亡人が馳せ加わったという姿である[364]」「渤海の主権者及び支配階級は、松花黒龍両江の女直人をもって占めていたらしいが、その文化は、幾分、高麗人に占められていた[365]」と述べている。

小川裕人

小川裕人は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚栄者、高麗別種也」としているが、『唐会要』巻九六渤海には「渤海渤海靺鞨、本高麗別種、後徙居營州、其王姓大氏、名祚榮、先天中封渤海郡王、子武藝」とあり[366]、『五代会要』巻三十には「渤海本號靺鞨、蓋高麗之別種也」とあり、『新五代史』四夷附録はこれに従い、『宋会要』は「渤海本高麗之別種」として『宋史』はこれに従っているが、これら史書の『旧唐書』は後晋時代に成り、『唐会要』は初に成り、『五代会要』『新五代史』が宋時代に成り、『唐会要』は唐代に一部が編纂されたが(徳宗の時に蘇冕が四十巻を編纂、武宗の時に崔鉉が続四十巻を編纂、建隆の時に王溥が百巻を成した)、しかし『唐会要』渤海の本文は貞元八年閏十二月から始まっており[367]、したがってこの部分は崔鉉が徳宗貞元年間以後の記事を集めて成したものと考えられ、蘇冕の書には渤海はなく、『唐会要』渤海の序も蘇冕のものではなく、崔鉉か王溥により成ったものであり、したがって中国において渤海大祚栄を高句麗の別種としたのは、唐末以後のこととなり、日本の遣唐使は交通安全のため、渤海経由で中国に往復することが多く、日本の遣唐使などの渤海に対する知識が中国において指導的地位を占めたことが推測され[368]、中国人が渤海を高句麗の別種と考えるになったのは、日本の遣唐使などが渤海経由で中国に行くようになって以後であり、『旧唐書』『唐会要』における編纂物の序ではなく、当時の名称を正確に伝えていると推測される『冊府元亀』は、高句麗と渤海は明らかに区別され、最後まで渤海は靺鞨或いは渤海としており、この時に唐より渤海へ派遣された崔忻が、大祚栄を冊封するために渤海に派遣された唐の冊封使の崔忻の使命を「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻」としており、当時の唐人が渤海を靺鞨と称していたことは確実であり[369]、『唐書』渤海伝は「睿宗先天二年、遣郎將崔訢往冊拜祚榮爲左驍衛員外大將軍、渤海郡王、仍以其所統爲忽汗州、加授忽汗州都督」としており、続いて「自是始去靺鞨號、専称渤海」とあり、『文献通考』『三国遺事』所引の通典もこれを記しているが[370]、当時渤海は唐よりの封號「渤海郡王」と称して、靺鞨を附称しなかったことは、神亀四年に始めて通交した時の日本史料にみられることから明らかであり、渤海人は先天二年その渤海郡王封ぜられた頃から後は、単に渤海と號して靺鞨とはいわず、開元年間に至るまで靺鞨と称したのは渤海人ではなく唐人であったと考えられ[371]、『冊府元亀』巻九七の朝貢開元九年十一月の條には「渤海郡靺鞨大首領、鉄利大首領、拂涅大首領、契丹蕃郎将倶来朝、並拜折衝、放還蕃」とあり、鉄利や拂涅と共に来朝した渤海を靺鞨とせず、渤海郡靺鞨と記したのを始として同十年十一月の條には「渤海遺其大臣味勅計来朝、並献鷹」とあり、同十二年二月の條には「渤海靺鞨遣其臣加作慶」とあり、同十三年正月の條には「渤海遣大首領烏借芝蒙」とし同十四年には再び渤海靺鞨と記し、その後開元年間にはこの称を以て記し時に渤海とのみ記したものもあるが、天宝以後は大体は渤海とのみ記し、靺鞨の文字を附したものはほとんどなく、このことから唐人は渤海を最初は靺鞨と称したが、その後に渤海郡靺鞨、そして靺鞨または渤海と呼ぶに至り、唐人の渤海に対する名称変遷は、『冊府元亀』巻九七一開元二年二月の條に「是月拂涅靺鞨首領失異蒙、越喜大首領烏施可蒙、鉄利部落大首領闥許離等来朝」とある拂涅・鉄利・越喜などの靺鞨諸族の朝貢は、開元二年二月が始めであり、その後開元年間屢に来朝し、開元元年頃にある靺鞨の称が、他の靺鞨諸族の来朝した同二年以後なく、渤海の名称変遷は他の靺鞨諸族の来朝と関連しており、唐人は他の靺鞨諸族と渤海を区別する必要上から渤海郡靺鞨と記し、次いで渤海或いは渤海靺鞨と称するに至ったと考えられ[372]、『冊府元亀』巻九七四の褒異開元七年六月の條に「靺鞨渤海郡王大祚栄卒」とあり、『冊府元亀』巻九七一の朝貢開元九年十一月の條に「渤海郡靺鞨大首領」とあるのは、名称変遷の過渡をなすものと考えられ、そして『新唐書』は粟末靺鞨の高句麗に属したものとし、『文献通考』もまた同様であるが、『新唐書』『文献通考』記事が根拠のないものとは考えられないから、粟末靺鞨もその中に在ったと推測され、大祚栄の建国の地が、白山部の故地であり[373]、「靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之」とあるから靺鞨もまた渤海靺鞨の中に含まれていたとみるべきであり、「祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之」とあるように、大祚栄の部下に高句麗遺衆が多くいたことは疑いなく、しかしこれが靺鞨と称されていたことをみると、靺鞨諸族がその主要分子であったとみるのが妥当であり[374]、「渤海国建国者の主要分子が、靺鞨族であっても、少しも支障ないのである[375]」「渤海国の治者階級は粟末・白山両靺鞨より成る所謂渤海靺鞨に高句麗の遺衆の混じったものがその主要分子を成し、之に漢人分子の幾分かが文化的指導者或は担当者として加入して居たと見られる[376]」「隋初から靺鞨七部の中に数えられた粟末・白山両部に属するを主要分子として成った所謂渤海靺鞨に高句麗の遺衆を加えたもの[377]」「女真系民族の政治的に活躍したのものは最初には渤海があり、次に小規模ながら烏惹・鉄利の相次いだ覇業があり、更に金・清の大国家的活動があった[378]」「靺鞨族の武力を主動力とする渤海建国[379]」と述べている。さらに靺鞨人は最初唐に服していただけでなく、高句麗にも服し、高句麗軍の主要部として、唐に抗したことが『唐史』に記されているから、高句麗も靺鞨も唐に対する関係は同様で渤海が実は高句麗人であったなら、唐に対し靺鞨と偽称しても利益はなく、『冊府元亀』巻九六四には「玄宗先天二年二月拜高麗大首領高定伝為特進、是月封靺鞨大祚栄為渤海郡王」とあり、靺鞨大祚栄と同じく、高句麗人高定伝にも特進という称号を授与されており、若い大祚栄が実は高句麗人であったなら自ら高句麗人と称しても不利益になる情勢ではなく、大祚栄が実は高句麗人であるのを、靺鞨人と偽称したとの憶測は深入り過ぎているとみるべき、と述べている[380]

新妻利久

新妻利久は、『旧唐書』に「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。萬歳通天年、契丹李盡忠反叛、祚榮與靺鞨乞四比羽各領亡命東奔、保阻以自固。盡忠既死、則天命右玉鈐衛大將軍李楷固率兵討其餘黨、先破斬乞四比羽、又度天門嶺以迫祚榮。祚榮合高麗、靺鞨之衆以拒楷固;王師大敗、楷固脱身而還。屬契丹及奚盡降突厥、道路阻絶、則天不能討、祚榮遂率其衆東保桂婁之故地、據東牟山、築城以居之。祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。聖暦中、自立爲振國王、遣使通於突厥。其地在營州之東二千里、南與新羅相接。越熹靺鞨東北至黑水靺鞨、地方二千里、編戸十余萬、勝兵數萬人。風俗瑟高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあり、『新唐書』は「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之。萬歳通天中、契丹盡忠殺營州都督趙文翽反、有舍利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奧婁河、樹壁自固。武后封乞四比羽爲許國公、乞乞仲象爲震國公、赦其罪。比羽不受命、后詔玉鈐衛大將軍李楷固、中郎將索仇撃斬之。是時仲象已死、其子祚榮引殘痍遁去、楷固窮躡、度天門嶺。祚榮因高麗、靺鞨兵拒楷固、楷固敗還。於是契丹附突厥、王師道絶、不克討。祚榮即並比羽之衆、恃荒遠、乃建國、自號震國王」とあって『旧唐書』より詳細であり、「両書の記事によって、渤海建国の祖は大祚栄で、その民族は靺鞨と高句麗の遺民とであったことが知られる。又大祚栄父子は靺鞨一方の豪酋で、その祖は早くから高句麗に服属していたことも知られる。これが旧唐書に、『高麗之別種』と記され、新唐書に『附高麗者姓大氏』と記された所以」であり、「乞乞仲象と共に一方の首領として唐軍と戦ったが、戦利あらずして唐軍に降参し、そのために、乞四比羽及び部民の靺鞨人と共に、営州に徒されたことが知られるし、又営州に徒されて唐の監視下に置かれたことによって、靺鞨族中でも有力な豪酋であったことが推想できる」と述べている[381]

高句麗説支持者

白鳥庫吉

白鳥庫吉は、昭和8年10月の講演「渤海国について」において、「当時高句麗の遺衆が靺鞨族と通謀し、朝陽から東に走って国を建てた。元来高句麗は久しく支那文化を容れて来ている。靺鞨はこれに反して野蛮人といってよい。併し武勇である。そこで高句麗の遺臣は靺鞨族を利用して之と結んでその国の興復を計り、それが成功した。その中心人物が大祚栄で、旧唐書のいふ通り高句麗人であらう。新唐書に見える舎利乞乞仲象は乞四比羽と同じく靺鞨の酋長と思はれる」と述べており、また「唐の徳宗の貞元年間に出来た『梵語雑名』に、高麗と書いて悉曇文字でムクリ(Mokuri)と音を出し、漢字畝倶梨と当てている。従来これは高句麗とのみ考へていたため、どうしても分からなかったが、これは高句麗の故地にそのまま拠った渤海のことを指せるもので、渤海は靺鞨即ち勿吉の後裔であるからである。この勿吉または靺鞨が訛って発音され、漠北の民族を通って、『梵語雑名』の編者に聞えたときに、 Mokuriとなっていたものであらう。それは渤海の王室即ち治者階級は、大祚栄の率い来れる高句麗人の一味であり、被治者たる庶民は、勿吉の後裔たる靺鞨人であったからである。支那の方に於いては、公式に国家としては、渤海と呼んでいたであらうが、普通の人は常に高(句)麗と呼んでいたことであらう。何となれば渤海国は高句麗の故地に、高句麗人の大祚栄が建てた国であるからである」と述べている[382]

白鳥庫吉の高句麗説の根拠は以下である。

  1. 日本へ来朝した使者の多くは、漢名を有し、満州人名を有する者が少ない。
  2. 唐貞元年間に作られた『梵語雑名』には、高句麗をMokuriとしているが、これは渤海のことである。
  3. 渤海王と日本との間で往復した国書に渤海王を「高麗国王」と記したものがある。

対して小川裕人は以下のように反論している。

  1. 渤海には高句麗人がある程度存在したのは確かであるから、それらが対外交渉の時に活躍したと見ることもでき、『松漠記聞中国語版』に「其王旧以大為姓、右姓曰、高・張・楊・賓・烏・李、不過数種、部曲・奴婢無姓者、皆従其主」とあり、渤海貴族に漢名がいたことを伝えており、阿骨打が渤海人懐柔のために用いたスローガンは「女直渤海本同一家」(『金史』巻二)であり、それは渤海人懐柔に過ぎなかったかもしれないが、「そのために『女直渤海本同一家』という語を必要としたということは、当時でも女直人と渤海人は懸隔のある種族ではなく、言語的にも外観的にも同一視できる程度のものであり、このことから渤海人を女真系種族から区別すべき理由はな」く、さらに遼では拂涅靺鞨の後身の烏惹の酋長が烏昭度烏昭慶という烏姓を称したことが有るように、また金初期に生女直人までが競って漢名を称したこともあり、靺鞨人が高句麗人や漢人に倣い、漢名を称したこともあり得、渤海人が漢名を称したとしても高句麗の遺臣と考える必要はない[383]
  2. 『梵語雑名』に高句麗と書いてMokuriと読むことを、Mokuriとはmot-kit(勿吉)の最後のtがrに変化したものであるとして、渤海(=勿吉)が高句麗の根拠としたが、岩佐精一郎突厥碑文にあるBokliとテオフィラクトゥスの突厥人から得た所伝にあるmoukriは共に高句麗を指していると指摘しており、高句麗をBokli或いはmoukriとしたのは突厥碑文によると渤海出現以前であり、MokuriはBokli・moukriと同語と考えられるからmot-kit(勿吉)の転音ではなく、moはBoと同じく貊、kriはkliと同じく高句麗の「句麗」と充て、貊人の句麗=貊句麗と解釈するのが妥当[384]
  3. 渤海の第4回目の遣使における「高麗国王」は前回の遣使の際の先例と違うことを諭した詰問により、日本が渤海を高句麗の後継と信じているのを知って、調子に合わせたに過ぎない[385]

また赤羽目匡由は、「渤海王が高句麗を継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏が王族及び支配階級が高句麗人であった事実を読み取るのと同様に、決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と指摘している[386]

三上次男

三上次男は、戦後間もない頃には「純乎たる満州王朝」「渤海の王族大氏の出自には二説があり、池内(池内宏)博士は靺鞨族とせられ、白鳥(白鳥庫吉)博士は高句麗人とせられた。鳥山(鳥山喜一)教授は両博士の説の長所をとられ、大氏は純粋の高句麗人でないにしても、恐らく父祖以来高句麗に帰附してその教養の中に生長した靺鞨族の出身者でなからうかと推測されている。姑く鳥山教授の説に賛したい[387]」としていたが、瓦や仏像等の考古の分析から、次第に渤海と高句麗との共通性を主張するようになり[388]、727年に日本に使者を送った大武芸の国書に「武芸は忝いことには多くの国をつかさどり、また身にあまることですが諸藩をすべました。そうして高句麗の旧土を復興し、夫余の遺俗のある国を建てました」とあることと、759年の大欽茂の使のたずさえた国書に「高麗王大欽茂」とあることを根拠にして、「渤海国の建国に至るまでの歴史的経緯や建国者の大祚栄がが高句麗人と考えられていたこと[389]」「この文辞のなかには、明瞭に渤海は高句麗の後継国であるという意がふくまれている[390]」「初期の渤海国王が、建国の目的を高句麗の復興にあるようにいい、あるいは渤海国王みずからが『高麗王』を称したのは、決してたんなるわが国に対する外交上の措置にとどまるものではなく、高句麗の後継者としての現実的な意識にもとづいてのこと[391]」「当時のわが国が、渤海の使者を『高麗使』とよび(そのころ、渤海国という呼び名が通用していたにもかかわらず)、あるいは七六一年渤海国に遣された使者を『遣高麗使』と称したのは、わが国でも高句麗の継承国としての渤海の地位を認めていたからであろう[392]」「渤海国の王族が高句麗の後継者としての意識を持っていたことは、前節に述べたところによって明らかになったであろう[393]」と述べている。

松井等

松井等國學院大學)は、「渤海の始祖大祚栄は高句麗人なりき[394]」と述べているが、理由や根拠は触れていない[395]

上田雄

上田雄(元高校教諭、阪急学園池田文庫学芸員)は、共同研究者の孫栄健の「大祚栄の出自について」の見解である「従来は靺鞨を一つの民族的な呼称として捉えていたが、これは民族名というよりも、中国から見た、その東北部一帯に居住する者全体を呼ぶ呼称であって、実際にはいくつかの民族に分かれており、だからこそ、その居住地や特性を冠して、黒水靺鞨とか粟末靺鞨とかいう名を与えていたのである。そして同じ靺鞨という名で呼ばれている部族の中には大きく分けて狩猟民族系と農業民族系とがあり、前者はツングース系の狩猟民族(例・黒水靺鞨)、後者は夫余・高句麗系の農耕民族で、これが粟末靺鞨と呼ばれた存在であり、渤海の支配者層を形成していた」「靺鞨人というのは、中国から見て東北方の地域に割拠する非常に廣い範囲の住民を指す総称で、その中にはいろいろな民族が包括されているので、靺鞨族という特定の民族は存在しない。そして大祚栄の出自とされる粟末靺鞨は高句麗を構成していた同族である昔の夫余人であるから、大祚栄は高句麗別種の粟末靺鞨人、すなわち夫余系の朝鮮族である」という考えを紹介して[396]、大祚栄は高句麗別種の粟末靺鞨人、夫余系の朝鮮族であるということが理解できるのではないか、渤海王は夫余系高句麗人(高麗別種)の家系だったのである、と述べており、この地域に高句麗系民族による国家である渤海が成立したことにより、支配者層は夫余・高句麗系がほぼ独占したが、「版図内には支配者層の高句麗系民族に数倍するツングース系の狩猟民族の、いわゆる靺鞨族が存在したため、高句麗族が靺鞨族を支配して建てた国である、と見られたのはもっともなこと」であり、渤海の民族構成は「夫余・高句麗系の農業系民族と、ツングース系の狩猟系民族とに大別され、人口的には後者の方が多かったと推定されるのである」と述べている[397]

その他支持者(契丹説、不明説)

鳥山喜一

鳥山喜一は、『旧唐書』には大祚栄の父とされる乞乞仲象の名前は出てこないこと、乞乞仲象は胡名であるが、大祚栄は漢名であることなどを理由に乞乞仲象と大祚栄は父子関係にないそれぞれ別個の存在という立場であり、乞乞仲象の舎利は『遼史』巻一一六国語解から、契丹族において、権威的な頭飾を欲した民が、牛駝十頭・馬百疋を納める代償として得られた官称であることが分かり、乞乞仲象は「恐らく契丹系の豪民で、舎利として優越な地位を有していたものであったと見られないか。それが契丹の乱に乗じて起こったので特に人種別をいわず、乞四比羽をいうのに、靺鞨と註することとしたのであろう」として、乞乞仲象は契丹人であるが、大祚栄は白山靺鞨であり、高句麗に隷属し、漢名の大氏を名乗る家系に属していた、と述べている[398]。これについて森安孝夫は、「舎利を契丹の官職名とみなして大舎利乞乞仲象を契丹人となし、これと大祚栄をまったくの別人と考える説には賛成できない」と述べており[399]、その理由を「中国史料には靺鞨にも舎利なる語を含む官名の存在を示すものがあるし[注釈 12]、また渤海の建国に、異民族である契丹人が指導的な役割を果たしたとは、この場合は考えにくい」として、「大舎利乞乞仲象と大祚栄とはおそらくは父子であり、(中略)父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当」と述べている[400]

萬歳通天中,契丹盡忠殺営州都督趙文翽反,有舎利乞乞仲象者,與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走,度遼水,保太白山之東北,阻奥婁河,樹壁自固[401]
〈万歳通天(六九六)年間に、契丹の(李)尽忠は営州都督の趙文翽に反逆して彼を殺した。(この乱に乗じた)舎利の乞乞仲象は、靺鞨の酋長の乞四比羽や高(句)麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って、太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奥婁河(牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた[87]。〉 — 『新唐書』渤海伝
井上秀雄

井上秀雄は、『新唐書』渤海伝に、乞乞仲象は舎利という官職を保有していたと記されており、かかる事実から「舎利は『五代会要』巻三十渤海上に『有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也』とあるので、官名であることがわかる。また『遼史』巻一一六国語解は『契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。』と記し、舎利とは、権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であったことがわかる。したがって乞乞仲象は、契丹系の豪族であったといえるだろう」と述べている[87]。しかし舎利を契丹固有の官職とみなして乞乞仲象を契丹人とする説については批判的見解がある(上述)。

鈴木靖民

鈴木靖民は、「粟末靺鞨の首長の乞乞仲象が、六六八年に滅んだ高句麗の遺民たちとともに、六九六年、遼東半島営州で起こった、契丹人で松漠都督の李尽忠・帰誠刺史の孫万栄たちの反乱に乗じて東走し、則天武后の配下の唐軍を撃退して、六九八年、吉林省敦化市に政権を立てて、振国(震国)と称した。その根拠地はと東牟山といい、のち『旧国』とも呼ばれたが、粟末の居住地であり、多分、乞乞仲象の出身地であったであろう[402]」「彼(大祚栄)は乞乞仲象と同一人とも、子とも、あるいは契丹系とも考えられ、出自が明らかでない[403]」「大祚栄は、もと高麗(高句麗)の別種とされ(『旧唐書』渤海伝)、あるいは粟末靺鞨の高麗に属したものといわれ(『新唐書』渤海伝)、これが渤海は靺鞨人の国か否かの属族問題の議論のもととなっている。両書の伝えるところから、彼は靺鞨人であっても、彼、ないしその政権が高句麗に深い関係を有していたとみなされたことは疑いない[404]」と述べている。

古畑徹

古畑徹は、「最大公約数を取り、高句麗遺民で、出自は高句麗人か粟末靺鞨人かは不明、という理解に留めておきたい。そもそも王家の種族系統など、その国家の種族系統とは無関係で、これを争うこと自体ナンセンスである[405]」「高句麗系であろうか、靺鞨系であろうか。あるいは朝鮮民族につながる国家であろうか、それとも漢族や満族などの中国の諸民族につながる国家であろうか。私はこのどれでもなく、またどれでもあると考える。渤海が複数の種族によって構成された多種族国家であることは、いうまでもない[406]」「どの種族も渤海史という舞台の上で主役を務めたのであり、そうした主役たちがそれぞれのあり方のもとに活動する多種族国家として渤海を捉えるべき[407]」と述べている。

酒寄雅志

酒寄雅志は、「大祚栄の出自については、議論の分かれるところ」であるが、「韓国における大祚栄の出自にたいする認識は、高句麗人とする点では共通しているが、韓圭哲氏(慶星大学)は松花江出身の高句麗人(『渤海의対外関係史』)とし、宋基豪氏(ソウル大学)は靺鞨系の高句麗人とする(『渤海政治史研究』一潮閣、1995年)など若干の相違がある。そうしたなかで盧泰敦朝鮮語版氏(ソウル大学)は大祚栄を靺鞨の血統を受け継いだ人物としている点は興味深い(「渤海國의住民構成과渤海人의族源」『韓國古代의國家와社會』一潮閣、1985年)」と述べている[408]

佐藤信

佐藤信は、「古代の渤海(六九八〜九二六)は、今日の中国・朝鮮(北朝鮮)・ロシアの領域にまたがる国家であり、北方民族の靺鞨族やかつての高句麗の末裔などにより建国されたといわれ、近代の国民国家の枠組みを越えた存在[409]」「渤海の歴史自体が、今日の国境線や漢(中国)民族・朝鮮(韓)民族・北方民族といった民族的な境界を越えた同時代的な視点から検討されなくてはならない[410]」「今日の国境を超越した存在であった渤海や渤海との関係史を語るとき、現代の一国の立場だけを強調することは合理性を欠く[411]」と述べている。

河内春人

河内春人は、「渤海にとって粟末靺鞨は当初からの主力構成員であり、乞四比羽に率いられた集団は粟末靺鞨とみなしうる。そうであるとすれば乞四比羽とその一団は突地稽に率いられた靺鞨集団の一部であったと推測される。そして乞四比羽とともに行動した大祚栄もその近辺に居住していたと考えられる。高句麗滅亡によってその民は各地に分散したが、大氏集団も営州に内附した契丹や靺鞨に分投した遺民とみなすのがもっとも穏当であろう」と述べている[412]

森公章

森公章は、「渤海は七世紀末に高句麗遺民が朝鮮半島北部から中国東北部にかけて靺鞨諸族を支配下に組み込みながら建国したもの」と述べている[413]

渤海史主要年表

渤海王

渤海王系図

渤海国の継承国家

  • 皇帝を称したもの
  • 王を称したもの
    • 後渤海
      • 渤海(復興)928年 - 976年
      • 渤海(大光顕の勢力)930年 - 934年
      • 渤海(再興)989年 - 1018年
    • 定安 938年 - 1003年
    • 兀惹(烏舎城渤海)981年 - 996年以後
  • その他、渤海遺民によるもの
  • 契丹によって渤海の故地に設置されたもの
  • 渤海国の王室である大氏の後裔を称したもの
    •  1115年 - 1234年

渤海の元号

脚注

  1. ^ 朱・魏 1996, pp. 248朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「文献に記録されている言語は未詳であって、その全体を究明することは難しい。わずかに『新唐書』渤海伝および『旧五代史』渤海靺鞨などの史書に、渤海では王を『可毒夫』と呼び、王に対面する時は『聖』と呼び、上表する時は『基下』と書くとあるが、この『聖』は明かに漢語からの借用語である。ソ連(ロシア)の学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、『可毒夫』とはおそらく満州語の『卡達拉』(管理するの意味)やナナイ語の『凱泰』と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う。また、渤海人と靺鞨人の名前には最後に『蒙』の字の一音節を持つ『烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙』などの例がある。この『蒙』の音は靺鞨語の中で重要な膠着語尾の一つであることが知られる。ツングース語系の各民族は氏族を『木昆』『謀克』と称するが、『蒙』の音が『木』や『謀』の音と近いことを考えると、この『蒙』の音は、その人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる。当時、靺鞨語が国家の公用語であり、広汎に使用されていたことは間違いない」と述べている。
  2. ^ a b 上田雄渤海使の研究明石書店、2001年12月27日、126頁。ISBN 978-4750315072https://books.google.com/books?id=rT8zAQAAIAAJ&q=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%95%E3%80%80%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E8%AA%9E&dq=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%95%E3%80%80%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E8%AA%9E&hl=ja&sa=X&redir_esc=y 上田雄は「『可毒夫』について、朱国忱・魏国忠の『渤海史』では『ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、“可毒夫”とはおそらく満州語の“卡達拉カダラ”(管理するの意)やナナイ語の“凱泰カイタイ”と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う」と紹介している。(同書二四八頁及び注31)また石井正敏は可毒夫とは『仏陀対音であろう(稲葉岩吉『増訂満州発達史』)とする見解もあるが、あるいは全くの憶測に過ぎないが、原語で「大王」のごとき意味をもっていたものではなかろうか。識者のご教示をまちたい。』と、している(『日本渤海関係史の研究』第二部第二章の注31)。」と述べている。
  3. ^ 劉毅『渤海国の族源について-中国・日本・朝鮮関連史料の考察-國學院大學〈国学院雑誌〉、1997年7月、60頁https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=DYeGAAAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E5%8F%AF%E6%AF%92%E5%A4%AB 劉毅(遼寧大学)は「渤海国の風俗について、『新唐書』渤海伝に、「俗謂王曰可毒夫、曰聖王、曰基下。其命爲教。王之父曰老王、母太妃、妻貴妃、長子曰副王、諸子曰王子。」とあり、王を可毒夫と称する風俗のあることが知られる。この可毒夫と呼ぶ用語については、ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)氏の研究によれば、可毒夫とはおそらく満州語の卡達拉(管理するの意味)や、ナナイ語の凱泰(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、この可毒夫を仏陀の対音であろうと説く学者もある。いずれにしても、可毒夫と呼ぶ用語が朝鮮についての歴史文献である両唐書の高句麗伝、百済伝、新羅伝には、見られないことは事実である。これこそ、渤海人の出自が高句麗人ではなかった反証であろう」と述べている。
  4. ^ 月刊しにか 1998, p. 42-43 酒寄雅志は「八七三年(貞観一五)五月に、肥後国天草郡に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、大宰府の遣わした大唐通事の張建忠の取り調べを受け、渤海の入唐使であることが判明した。このことは崔宗佐らが、唐語=漢語を話せたことを示している。もっとも崔宗佐らは入唐使であるから、唐語を話せたのは当然ともいえるが、渤海人が唐語を話したことの微証にはなるであろう。また一九四九年に吉林省敦化県の六頂山から発見された渤海第三代王大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や、一九八〇年、延辺朝鮮族自治州和竜県の竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主墓誌などをみると優れた駢儷体の漢文で書かれていることや、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒などが漢文で書かれ、また王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることを想起すると、渤海人が漢字を熟知していたことは確かである。もとより漢字を使用していたことが、ただちに唐語を話し言葉として使っていたとはいえないが、渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族や民族集団を統一していく手段として、漢語の導入をはかったのであろう。日本へ派遣された渤海使たちも、唐語で日本人と意思の疎通をはかっていた。だからこそ春日宅成や伊勢興房、また、大蔵三常のように、豊かな在唐経験に裏打ちされた唐語に秀でた人物が渤海通事に任じられたのである」と述べている。
  5. ^ 浜田 2000, p. 127-128 浜田耕策は「渤海の遣日本使の一行は、日本側との意思疎通のために、文字言語では中国文(漢文)の外交文書等を交換していた。しかし、音声言語はどうであったか、交渉記録にはこれに関する言及はない。双方の音声言語になんら支障がなかったかのようである。そこに通事が仲介して中国語で対話したからであろう」と述べている。
  6. ^ 古畑 2017, p. 89-90 古畑徹は「渤海が国家の意思を表現し、記録を遺すのに使用した文字は、漢字である。独自の文字の存在は確認できないし、同時期にユーラシアで使用されていたほかの文字(突厥文字、ウイグル文字、ソクド文字など)が国内で使用された形跡もない。記録を残すのに漢字が使用されたことを証明するのが、墓誌である。渤海の墓誌は、現在、四つ発見され、いずれも皇后・公主のもので、漢文で書かれている。墓誌は、墓の外に立てる墓碑と違い、墓のなかに納めてしまう。そのため、その文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけで、それが読者として想定されている。ということは、皇后・公主の埋葬に集まる支配層の人々が共通に読めるのが、漢字・漢文だったということである。文字文化という点でみれば、渤海が漢字文化圏に属すことは明白である。それだけでなく、渤海の支配層は漢語で会話ができたとみられる。それを窺わせるのが、日本と渤海との外交交渉の共通言語が漢語だった点である。日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され、通訳をした。この渤海通事の使用言語が漢語であり、渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した。そもそも渤海を構成する高句麗人や靺鞨諸族は、それぞれ独自の言語を有しており、渤海は多重言語世界であったとみられる。このような場合、優位性を持つ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を相互の意思疎通のための共通言語にすることもある。渤海の場合、建国集団は、唐領域内に居た高句麗人・靺鞨人の混成集団であったから、その指導層は漢語が話せたはずで、これを異なる種族間の意思疎通に使っていたと思われる。そのあり方が、その後の多様な種族の吸収にあたって有効に機能し、そのまま継続したのであろう。一方、渤海に独自言語が存在したことも、『日本紀略』弘仁元年(八一〇)五月丙寅条に、越中国の史生と習語生を渤海人高多仏(こうたぶつ)に師事させて『渤海語』を習得させたという記事があるから、間違いない。ちなみにこの高多仏は、渤海使の一員として来日したが、脱出して日本に残り、越中国に安置された者である。ともかくも、渤海には、漢語と『渤海語』という二種の共通言語があったと想定され、なかでも漢語は支配層による公用語的位置にあったとみられる。漢語には当時、異なる言語を話す渤海領域内の人々を納得させるだけの権威があったのであろう」と述べている。
  7. ^ 元来は700年建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。
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  145. ^ 石井正敏は「第一次渤海使の齎らした武王の国書は、往時の大国高句麗を再興したことを誇らかに宣言し、かつ古典に則った盟友・友好関係を以て通交したい旨を表明したものと理解され、従来のように、朝貢の意思・服従的態度を示すとすることはできない。しかし、渤海をあくまでかつての附庸国高句麗の再興と理解する日本は、これを朝貢国として待遇しようとし、以後国書の辞句・外交形式をめぐって紛糾したが、七五九年ころから渤海が日本の主張する君臣関係を認め、朝貢形式を取ることにより解決に向かった。このころになると、文王のもと渤海と唐との関係は最円滑期を迎え、渤海の対日交渉における政治的目的も減少し、貿易を中心とする経済的目的へと変化していく。つまり、渤海はたとえ朝貢とされようとも貿易を円滑に進めることが得策と判断するに至ったものであろう。渤海王が一時『高麗国王』と自称するのも(七五九年初見)、こうした経済的目的のために日本の歓心をかう政策の一環にすぎない」と述べている。石井正敏『新羅・渤海との交渉はどのように進められたか』日本書籍〈海外交渉史の視点1原始・古代・中世〉、1975年、150-151頁。 
  146. ^ 石井 2001, p. 421、石井正敏は「渤海王が日本に対して『高麗国王』と自称してくるのを、単に渤海が強く高句麗継承国であることを認識していた証左とすることはできず、その自称の経緯を考慮すると、あくまで日本側の意識(渤海=高句麗=朝貢国とする)を利用した、外交を円滑にし、貿易を振興するための、一種の外交辞令的性質をもつにすぎないと結論される」と述べている。
  147. ^ 石井 2001, p. 204、石井正敏は「渤海王が使者をして『高麗国王』と名乗らせていることも、外交辞令的要素があることを考慮しておかなければならない」と述べている。
  148. ^ 石井正敏『古代東アジアの外交と文書』東京大学出版会〈アジアのなかの日本史Ⅱ〉、1992年7月。 327頁-328頁、石井正敏は「七五二年(天平勝宝四)来日の第三次渤海使の帰国に託された慰労詔書によれば、第二次渤海使のもたらした渤海王大欽茂の文書に不満をもった日本は、その返礼の使者に勅書(慰労詔書であろう)をもたせたが、その主旨は渤海王啓に『臣名』つまり『臣欽茂』と明記させることにあった。しかし欽茂が第三次渤海使に託した啓でも日本の要求に応えなかったため、あらためて指摘したことが知られる。日本(天皇)と渤海(王)との関係が君臣関係であることを文書で確認させるためであることはいうまでもない。この日本側の要求にたいして、次回七五八年(天平宝字二)来日の渤海使は口頭で、『高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。……令齎表文并常貢物入朝』と述べるが、肝心の『表文』が掲載されていないため、具体的にはどのような文書か明らかにすることができない。あるいは『臣名』を明記した啓を『表文』と称しているのかとも思われるが、定かではない。しかし欽茂がみずから高麗国王と名乗り、『表文』を提出はしたが、それが本意でなかったことは確かである」332頁「日本は唐の皇帝と同じ書式を用いて、中華意識を前面に押し出し、華夷秩序を新羅・渤海に強要した。その結果はまことに対照的であり、新羅は文書外交に応じず、ついに対日外交を放棄し、一方の渤海は日本の主張を全面的に受け入れて外交を継続した。日本との貿易を最重要課題として、日本との上下関係を容認することも厭わなかった渤海の現実的な外交方針がそこに表れている」と述べている。
  149. ^ 古畑徹は「八世紀半ばの一時期に日本に対して『高麗国王』を名乗るが、これは単純な高句麗継承意識の表明ではなく、かつての『朝貢国』高句麗の復活として渤海を位置づけようとする日本の対外政策への迎合であることが、石井正敏氏によって指摘されている」「韓国ではこの石井見解に対し、渤海の継承意識を日本が政治的に利用したのであって、対日国書などの外交文書に見える高句麗継承意識はそのまま渤海国の意識と解するのが一般的に思われる。例えば、宋基豪(浅井良純訳)『日本・渤海の国書に反映された内紛期の渤海社会』(『朝鮮学報』一五九、一九九六)は、七九八年来日の大昌泰一行がもたらした国書の『慕化之勤、可尋 於高氏』(『類聚国史』巻一九三・延暦一七年一二月壬寅条)を、『日本に使臣を派遣する誠意の根源を高句麗にもとめた』と解し、渤海の継承意識が毅然として現れたものと見る。しかし、この文言はその前に出された桓武天皇の国書中の文言と対応するものであり、宋氏の解釈は朝貢の年限をめぐる一連の交渉中の文言であることを考慮しておらず、方法的に問題がある」と述べている。古畑徹後期新羅・渤海の統合意識と境域観朝鮮史研究会三六巻、1988年https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=220&file_id=26&file_no=1 41頁、52頁
  150. ^ 古畑 2017, p. 158、古畑徹は「渤海使の史料を見ると、八世紀後半に、日本が渤海を『高麗』と呼び、渤海王も『高麗国王』を自称する時期がある。日本は、第一次渤海使がもたらした国書で渤海が高句麗の後継を自認していることを知るが、そこでイメージした高句麗像は、かつて臣属朝貢していた高句麗であった。そのため、日本は渤海を朝貢国とみなして『高麗』と称することを要求し、渤海も円滑な外交関係を最優先し、第四次渤海使から『高麗国王』を自称する。『高麗国王』自称は高句麗継承の強い自己認識の表れとする異論もあるが、石井正敏の丁寧な考証によるこの理解は揺るがない」と述べている。
  151. ^ 赤羽目 2011、7頁、赤羽目匡由は「日本史料にみえる日本に対する渤海王の『高麗国王』自称に関する解釈に顕著にみられるように、日本史料のなかの渤海関係記事を、当時の日本における政治状況の文脈で理解する。渤海王の『高麗国王』自称の問題も、日本との外交関係に配慮した渤海王の迎合とされる」209頁「渤海王の『高麗国王』自称について、現在問題となるのは、それが自発的なものであるか、そうではなく日本に迎合したものに過ぎないかという点になろう。ただこうした問題点は現在、日本ではほとんど議論の対象とされない。それは先述の石井説がきわめて説得力に富むために定説となっているからである」212頁「日本朝廷がこのとき、わざわざ単独で渤海へ専使を遣わし、強く君臣・上下関係を明示する上表文の提出を迫ったことから、渤海ではそれを受け、その後はじめてやってきた七五九年の渤海使楊承慶が朝貢的態度を明確にしたのであって、『高麗国王』自称も日本のこうした要求に迎合したものとされるのである。以上みてきたように、渤海王の『高麗国王』自称に至るまでの日渤交渉過程の分析は合理的であり、日本と渤海との交渉過程を中心に追うかぎりは、『高麗国王』自称を迎合とする解釈には疑問の余地がないようにみえる」と述べている。
  152. ^ 酒寄雅志は「渤海王は八世紀の中頃から日本にたいして『高麗国王』と自称するなど、高句麗の継承意識を表明している(石井正敏『日渤交渉における渤海高句麗継承意識について』『中央大学大学院研究年報』四、一九七五年)が、これはあくまで日本の外交政策に迎合するためで、むしろ高句麗文化の影響を払拭して国内支配を貫徹するための唐制の導入を積極的に進めたのではあるまいか」と述べている。酒寄雅志『華夷思想の諸相』東京大学出版会〈アジアのなかの日本史ⅴ〉、1993年1月、55頁。 
  153. ^ 酒寄 2001, p. 20、酒寄雅志は「石井正敏氏は日本にもたらされた第一回の国書を分析して、渤海が日本に迎合するための高句麗継承意識があったことを論じる」468-469頁「渤海王は八世紀の中ごろから日本にたいして『高麗国王』と自称するなど、高句麗の継承意識を表明している(石井正敏『日渤交渉における渤海高句麗継承意識について』『大学院研究年報<中央大学>』四、一九七五年三月)が、これは日本との外交政策を有利に展開するためで、国内的にはむしろ高句麗文化の影響を払拭して唐制の導入を積極的に進めたのではあるまいか」と述べている。
  154. ^ 浜田久美子は「(石井正敏「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」は)渤海を高句麗の継承国とする認識が日渤双方にあるものの、大国高句麗の継承国を自負する渤海と、かつての附庸国高句麗の継承国として渤海を捉える日本とでは内容が異なると指摘する」「(石井正敏「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」と「第一回渤海国書について」は)渤海を朝貢国とみる日本と、日本を対等視する渤海という両国の認識の違いが石井の日渤関係史研究の基本であり、その後長く通説とされている」と述べている。荒野泰典川越泰博鈴木靖民村井章介編著『前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学』勉誠出版、2017年9月。ISBN 978-4585226802 152頁、154頁
  155. ^ 姜 2014, p. 24、姜成山は「渤海が国書の中で高句麗と扶余を持ち出したのは、石井正敏が指摘するとおり大国であった扶余と高句麗の継承国であることをアピールすることで外交を有利に展開しようとしたものであろう」p. 43-p. 44「石井説はみずから提唱している『渤海の高句麗継承意識』説と関係がある。つまり、渤海が日本に来た時、自らをかつての強国『高句麗』の後継国であると標榜したという説である。渤海王やその使節は自国の優位性を保つため、『高句麗』を標榜したことに異論はない。しかし、『日本後紀』成立の時点まで、付表4(pp.188~189)でわかるように、20数回にも及ぶ渤海との交渉のうち、日本も渤海と高句麗の相違は認識していたはずである。むしろそれを認識していたからこそ、『高句麗人』もしくは『高麗人』と書かずに、『土人』と書いたのだと思われる」と述べている。
  156. ^ 浜田 200053頁、浜田耕策は「小野田守らと同船した大使の楊承慶ら一行二三人は、七五八年十二月、越前から入京した。翌年正月には楊承慶らは方物を貢ぎ、ついで口奏して『高麗国王の大欽茂言(もう)す』と切り出し、孝謙天皇の弔意のために表文と貢物をもたらしたことを述べた。さて、ここでは楊承慶が口奏ながらも大欽茂を『高麗国王』と冠称したことが注目される。渤海郡王とせず高麗国王としたのは、先の慕施蒙が持ち帰った孝謙天皇の璽書に『高麗旧記』を引き出して、君臣の義による渤海の対日外交を強いていたが、口奏とはいえ楊承慶が日本の姿勢に従ったのである。ただ、渤海使が自国の王を高麗国王と冠称したのは日本に対面した次元でのそれであって、渤海本国において称したことではない」59頁「楊承慶が外交交渉の緊張関係のなかで渤海を高句麗の復興とみなす日本側に仮に迎合して『高麗国王大欽茂言す』と口奏したことがあった」93頁「光仁天皇が壱万福に託して大欽茂に宛てる璽書には『天皇、敬いて高麗国王に問う』とあり、また七五三年に慕施蒙が託された孝謙天皇の璽書と同じく高句麗王との『親しきこと兄弟の如く、義は君臣の若(ごと)し』という朝貢形式を復活することを強い、渤海国王を『舅』、天皇を『甥』と設定した今回の上表文の両国関係の規定は礼を失ったものと咎めていた」と述べている。
  157. ^ 浜田耕策日本における渤海認識の変遷東北アジア歴史財団、2010年12月、120頁https://www.nahf.or.kr/jpn/gnb03/snb02_02.do?mode=view&page=14&cid=52585&hcid=49263 浜田耕策は「この初めてとなる渤海使者の属性とその国書の情報は、その後の日本の渤海認識を決定したと言える。それは、石井正敏氏が説くように、渤海使者の来日とその外交形式と、そして大武芸の国書に言う渤海の建国事情とは、日本側に滅亡した高句麗と日本との朝貢関係を復活させるものと認識させたのである。日本からすれば、律令国家の体制を歩み出した時代に、日本に朝貢する国家と認識されていた亡国の高句麗に変わって渤海が新たに朝貢国として登場したと認識されたのである。そのことは初回の渤海国の使節を渤海に送った引田朝臣虫麻呂らが730年8月に渤海から帰国するや、大武芸から受領した信物を6ヶ所の山陵や諸国の神社に奉納したことにも現れている」と述べている。
  158. ^ 河添房江は「渤海国は、日本に対しても高句麗の後裔として『高麗』を名乗り、国交を求めてきました。隣国の新羅とは当然のように敵対関係にあったので、唐や日本との友好な関係を築くことで、国家を維持しようとしていたわけです。渤海国が日本に使節を派遣したのは、神亀四年(七二七)九月にはじまります。出羽に使節が到着し、翌年正月には、渤海王の大武芸の啓書(国書)を聖武天皇に差し出しました。その際、国書には、高句麗の再興をめざした王権であることと、日本と隣好の交流を求めることが書かれてあり、あわせて貂皮三百張も献上されました。つづいて、大武芸の子、大欽茂の使節が天平十一年(七三九)七月に出羽に到着します。『続日本紀』には、同十月、平城京に入京し、大使が死亡していたため、副使が国書と、信物とよばれる献上品として、「大虫皮(虎皮)・羆皮各七張・豹皮六張・人参三十斤、蜜三斛」を差し出したと記されています。さらに大欽茂は、天平勝宝四年(七五二)に第二回目の使節を送り、九月に佐渡ヶ島に着いた使節は、翌年五月に入京して、啓書と信物を差し出します。この時、孝謙天皇から返された勅書には、『高麗旧記』を引用して、かつて日本と高句麗とは君臣の関係にあり、高句麗の後裔を名乗る渤海の啓書に、日本の臣下であることを示す表現がないことを咎めています。その経緯は、唐との関係から日本と対等の外交関係を求める渤海と、臣下として朝貢の関係を求める日本の朝廷との間で葛藤が生じはじめたことをものがたっています。その後、渤海国からの次の使節は、天平宝字二年(七五八)十二月に越前から入京し、大使の楊承慶は口奏で大欽茂を『高麗国王』とし、表面上は日本の姿勢にしたがっています。そもそも唐に遣唐使を派遣し、朝貢をしている立場の日本が、三韓時代の神話に固執して、渤海や新羅に日本への朝貢を求めたことは、国際外交の上では滑稽であったというべきでしょう。そのため新羅との国交が断絶したのに対して、渤海国は結局のところ実利を選んだというべきかもしれません。渤海国の使節がなぜ日本の朝廷で『高麗人』として扱われたのか、その起源をたどれば、以上のような次第であったわけです」と述べている。河添房江光源氏が愛した王朝ブランド品KADOKAWA〈角川選書〉、1993年1月、30-31頁https://books.google.co.jp/books?id=k8FcJhOlbucC&pg=PA30#v=onepage&q&f=false 
  159. ^ 菅澤庸子は「天平勝宝四年の紛糾後、天平宝字二年来日した渤海使は、次のように国書を奏した。(『続日本紀』天平宝字三年正月三日条)『高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍楊承慶。歸徳將軍楊泰師等。令齎表文并常貢物入朝。』『高麗国王大欽茂言』と高麗国王の名のもと『表文并常貢物』を齎すとあり、朝貢の形をとっている。これは国号を高麗と改めたのではなく、日本が渤海を朝貢国としての高麗の後身とみなす考えが強いのを知って、その心情を利用したいわば外交辞令として自らを高麗と称したのであるとの石井氏の適格な考証がある」と述べている。菅澤庸子『古代日本における高麗の残像』京都女子大学文学部史学会〈史窓 (47)〉、1990年、108頁。 
  160. ^ 石上英一は「渤海は七二七年(神亀四)はじめて日本に遣使してきたが、その国書は上長に奉ずる書式をとりながらも内容は朝貢の意向を表明したものでなく対等の隣交を求めてきたものであった(石井正敏「第一回渤海国書について」)。ところが、日本は高句麗を継承すると称する点をとらえて、渤海も朝貢国と位置づけていた(石井正敏「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」)。かくして、八世紀の日本の対外関係は『「隣国」=唐国、「諸藩」=朝鮮諸国、「夷狄」=隼人・蝦夷等という三類型』(石母田正『日本古代国家論』第一部)から成りたっていたのである。しかし、唐を隣国とし、新羅・渤海を諸藩の朝貢国と位置づけることが、現実の国家関係においてはいかに実体のないものであったかも指摘しなくてはならない」と述べている。石上英一『古代国家と対外関係』東京大学出版会〈講座日本歴史2 古代2〉、1984年11月、270-272頁。 
  161. ^ 廣瀬憲雄は「その過程において重要な役割を果たしたのが、渤海の『始祖伝承』としての渤海高句麗継承国意識である。前述の通り、仕奉観念では、現在の奉仕は始祖がかつての大王に行った奉仕の継承として説明されているため、『服属』の正当化のためには、貢納・奉仕関係の起点となる始祖伝承が不可欠である。新羅に関しては神功皇后伝承がその役割を果たしていたことは疑いないが、渤海に関して同様の役割を果たしたのは、日本が渤海を『かつての付庸国高句麗の後継者』と位置付ける、渤海高句麗継承国意識であったと思われる。日本と新しく国交を開いた渤海との間には、当然ながら始祖伝承は存在せず、そのままでは仕奉観念は有効に機能しない。そこで日本は国内において、渤海高句麗継承国意識を始祖伝承として創出・介在させることで、渤海を『高句麗の後継者として、かつての高句麗同様に』天皇に対して仕奉するべき存在として位置付けたといえる」と述べている。廣瀬憲雄『東アジアの国際秩序と古代日本』吉川弘文館、2011年10月、174頁。ISBN 978-4642024853 
  162. ^ 42頁、平野卓治は「神亀四年(七二七)に渤海使が初めて来朝した。渤海は黒水靺鞨部との間に紛糾が生じ、唐・新羅に対抗するに日本に軍事援助を求めたと考えられるが、渤海側は朝貢形式ではなく日本と対等に近い形での通交を求めていた。しかし、日本側は渤海を高句麗の継承国として認識し、朝貢国として位置付けることによって、自らの『小帝国』構造を充足させたのである」43頁「高句麗に対する先例を依拠すべき『旧例』としたのである」と述べている。平野卓治『山陽道と蕃客』国学院大学〈国史学135〉、1988年5月。 
  163. ^ 佐藤 2003, p. 131-133、森公章は「渤海側には日本とは異なった意味での高句麗継承国意識が存しており、外交形式は臣下の礼をとる上下関係、上表文を奉呈する朝貢関係ではなく、対等の国としての通交を求めるものであった」佐藤 2003, p. 157、森公章は「石井正敏『日本・渤海交渉と渤海高句麗継承国意識』(『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、二〇〇一年、初出は一九七五年)では、日本が渤海をかつての日本の付庸国である高句麗の継承国であると認識して、日本に朝貢してきたとみなしていることを指摘する」と述べている。
  164. ^ 田島公は「『続日本紀』天平宝字三年(七五九)正月庚午条によれば『方物を貢ず。奏して曰く。高麗国王大欽茂、言す。……』とあり、渤海使は王言の口奏しか行っていないように見えるが、王言のなかに『表文と常貢を齎して入朝せしむ』とあり、使者に表文(国書)を持たせたことが記されており、また天平勝宝五年(七五三)五月乙丑条には『拝朝し幷びに信物を貢ず、奏して稱く。渤海王、日本照臨せる聖天皇の朝に言す。……』とあるのみだが、六月丁丑条の日本からの国書には『来啓を省みるに』とあり、石井正敏氏も指摘しているように(「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」『中央大学大学院研究年報』四)、このとき、渤海使は啓(国書)をもたらしていた。したがって『続日本紀』の用例では、使者の奏上に王言(某国王言す)が引用されることが多いが、拝朝の儀では、これだけの表現しかなくても、国書を持参しないとはっきりわかる場合以外は、王言の口奏とともに国書の捧呈が行われており、逆に国書の捧呈のみがみえる場合も、それとほぼ同内容の王言の口奏が行われたと考えてよいと思われる」と述べている。田島公『外交と儀礼』中央公論社〈日本の古代第7巻〉、1986年12月、235頁。ISBN 978-4124025408 
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  412. ^ 佐藤 2003, p. 29
  413. ^ 佐藤 2003, p. 130

注釈

  1. ^

    官有宣詔省,左相、左平章事、侍中、左常侍、諫議居之。中台省,右相、右平章事、内史、詔誥舎人居之。政堂省,大内相一人,居左右相上;左、右司政各一,居左右平章事之下,以比僕射;左、右允比二丞。左六司,忠、仁、義部各一卿,居司政下,支司爵、倉、膳部,部有郎中、員外;右六司,智、礼、信部,支司戎、計、水部,卿、郎准左:以比六官。中正台,大中正一,比御史大夫,居司政下;少正一。又有殿中寺、宗属寺,有大令。文籍院有監。令、監皆有少。太常、司賓、大農寺,寺有卿。司蔵、司膳寺,寺有令、丞。胄子監有監長。巷伯局有常侍等官。[16](『新唐書』渤海伝)

    官職(は次のようになっている)。宣詔省には左相(長官)・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中台省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、(その下に)左右司政が各一人、左右平章事の下に配置される。これは(唐制の左右)僕射に相当する。左右允は(唐制の)二丞(左丞と右丞)に当たり、左(允)六司は忠・仁・義部(の三部を統率し)、おのおの一人の卿(長官)が配属され、これ(左右允)は司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳(の三)部があって、(それぞれ)部(の長官)は郎中で、員外(郎)もあった。右(允)六司は智・礼・信(の三部を統率し)、その支司に戎・計・水(の三)部があり、(その長官)卿郎は左(允)に準ずるもので、(いずれも唐制の)六官(部)に相当する。中正台には大中正(長官)が一人置かれ、(これは唐制の)御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には(それぞれ長官に当たる)大令がいた。文籍院(の長官)は監令といい、監にはすべて少(監)が属していた。太常(寺)・司賓(寺)・大農寺(の長官)は卿である。司蔵(寺)・司膳寺(の長官)は令で、(次官は)丞といった。胄子監(の長官)は監長といわれた。また、巷伯局には常侍(長官)等の官(名)があった[17]

  2. ^

    北鎭奏 狄國人入鎭 以片木掛樹而歸 遂取以獻 其木書十五字云 寶露國與黑水國人 共向新羅國和通[21](『三国史記』巻十一・新羅本紀・憲康王十二年条)

    北鎮奏す、「狄国人、鎮に入り、片木を以て樹に掛けて帰る。遂に取り以て献ず」と。其の木、一五字を書して云う、「宝露国と黒水国人、共に新羅国に向きて和通せんとす」と[22]

  3. ^

    太宰府言。去三月十一日。不知何許人。船二艘載六十人。漂着薩摩国甑鴫郡。言語難通。問答何用。其首崔宗佐。大陳潤等自書日。宗佐等。渤海国人。彼国王差人大唐。同七月八日 太宰府馳駅言。渤海国人崔宗佐。門孫。宰村等漂着肥後国天草郡。遣大唐通事張建忠。覆問事由。審実情状。是渤海国入唐之使。去三月着薩摩国。逃去之一艦。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)五月二七日)

  4. ^

    (渤海)大使(楊)中遠欲以珍翫玳瑁洒盃等。奉献天子。皆不受之。通事園地正春日朝臣宅成言。昔往大唐。多観珍宝。末有若此之奇怪。(『日本三代実録』八七七年(元慶元)六月二五日)

  5. ^

    明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。(『扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日)

  6. ^

    有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也。(『五代会要』巻三十渤海上)

  7. ^

    萬歳通天中、契丹盡忠殺営州都督趙文翽反、有舎利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奥婁河、樹壁自固[86]。(『新唐書』渤海伝)

  8. ^

    契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利燼、勿吉雜流[88]。(『遼史』巻一一六国語解)

  9. ^

    契丹捨利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称(『資治通鑑』長興三(九三二)年三月条)

  10. ^

    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)

  11. ^

    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)

  12. ^

    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)

参考文献

関連項目

外部リンク

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