朴趾源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
ぼくしげん
朴趾源
Park Jiwon.JPG
生誕 1737年
死没 1805年
職業 思想家
朴趾源
各種表記
ハングル 박지원
漢字 朴趾源
発音: パク・チウォン
日本語読み: ぼくしげん
ローマ字 Park Ji-won
テンプレートを表示

朴趾源(ぼくしげん、ハングル: 박지원1737年 - 1805年)は、李氏朝鮮時代の思想家は仲美。は燕巌[1]

著書『両班伝』において、朝鮮の儒者知識人両班を痛烈に風刺する。しかし、両班や知識人それ自体を否定しているのではないという[2]

による侵略戦争丙子胡乱丁卯胡乱によって、李氏朝鮮では反清感情が渦巻いているなか、清の先進文物を積極的に取り入れることを提唱した[3]

いまの人々が、まことに攘夷がしたいなら、なによりもまず中華の遺法をことごとく学び、まず、わが民衆の愚純を変革することだ。農耕、養蚕、製陶、冶金から工芸、商業までことごとく学びとる。人が十回やるなら己は百回やって、まず、わが人民に利益を与え、わが人民に棍棒を作らせて相手の堅甲と利兵を撻たせることが可能になってこそはじめて、中国は観るべきところはないといってよい。わたしは下等の士である。わたしはこう言いたい。壮観は瓦礫にある。壮観は糞壌にあると[4]

このように朴趾源は、清から見習おうという思想を唱える。当時の朝鮮人は、清に頭を下げながらも、内心では小中華思想からくる野蛮人と侮蔑しており、両班は「朝鮮こそがの正統継承者」と認識していたが、清を野蛮人とみなす風潮では生まれることができない思想を朴趾源が生み出したのは、朴趾源自身が両班から疎外されていたからだという[5]。しかし、清から先進文物を取り入れることを提唱したが、性理学に反する思想と侮蔑・誹謗され、受け入れてもらえなかったという[6]

脚注[編集]

[ヘルプ]

参考文献[編集]