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{{Infobox
{{改名提案|名古屋電灯|date=2018年2月}}
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|image = [[ファイル:旧建屋2.JPG|250px]]
|caption = 名古屋電灯が建設した[[長良川発電所]]旧建屋
|title = 名古屋電灯株式会社
|label1 = [[会社|種類]]
|data1 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|label2 = 略称
|data2 = 名電、名電灯
|label3 = 本社所在地
|data3 = {{JPN}}<br />[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|新柳町6丁目]]4番地
|label4 = 設立
|data4 = [[1887年]](明治20年)[[9月20日]]
|label5 = [[業種]]
|data5 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|label6 = 事業内容
|data6 = [[電力会社|電気供給事業]]
|label7 = 代表者
|data7 = [[福澤桃介]](社長)<br />[[下出民義]](副社長)
|label8 = 資本金
|data8 = 3375万円<br />(うち2100万円払込)
|label9 = 株式数
|data9 = 67万5000株(額面50円)
|label10 = 総資産
|data10 = 4423万8千円
|label11 = 収入
|data11 = 420万6千円
|label12 = 支出
|data12 = 237万8千円
|label13 = 純利益
|data13 = 182万7千円
|label14 = 配当率
|data14 = 年率14.0%
|label15 = 決算期
|data15 = 5月末・11月末(年2回)
|below = <ul><li>資本金以下は1920年11月期決算による<ref name="kabu1921">[[#kabu1921|『株式年鑑』大正10年度]]310-311頁。{{NDLJP|975423/209}}</ref></li><li>[[1921年]](大正10年)[[10月18日]]付で[[東邦電力|関西電気]](旧[[関西水力電気]])と合併</li></ul>
}}
'''名古屋電灯株式会社'''('''名古屋電燈株式會社'''、なごやでんとう かぶしきがいしゃ)は、[[明治]]から[[大正]]にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。[[愛知県]][[名古屋市]]に本社を置き、[[中京圏|中京地方]]で事業を展開した。戦前期の大手電力会社のうち[[東邦電力]]の前身および[[大同電力]]の母体にあたる。


[[1889年]](明治22年)に日本で5番目の電気事業者として開業。当初は小規模な発電所によって市内へ配電するだけであったが、明治末期以降[[長良川]]や[[木曽川]]に大型発電所を建設して大規模化した。1920年代より周辺事業者の合併を活発化し、[[1921年]](大正10年)に[[奈良県]]の[[関西水力電気]]と合併して関西電気となり、翌年[[九州電灯鉄道]]と合併して中京・[[近畿地方|関西]]・[[九州]]にまたがる電力会社東邦電力へと発展した。
'''名古屋電灯株式会社'''(名古屋電燈株式會社、なごやでんとう)は、[[明治]]から[[大正]]にかけて存在した[[電力会社]]である。[[愛知県]][[名古屋市]]を中心に、愛知県や隣接する[[岐阜県]]および[[静岡県]]において電気事業を展開した。[[昭和]]初期の大手電力会社5社(通称「五大電力会社」)のうち[[東邦電力]]の前身であり、[[大同電力]]の母体である。


東邦電力となる前の[[1918年]](大正7年)、名古屋電灯は水力開発部門を独立させ[[木曽電気製鉄]]を設立した。同社は1921年に大同電力へと発展する。また[[特殊鋼メーカー]]の[[大同特殊鋼]]も名古屋電灯から派生した会社を前身とする。
[[1889年]](明治22年)に[[中部地方]]で最初の電力会社として名古屋市で開業。大正に入ると実業家で「電力王」と呼ばれた[[福澤桃介]]が[[社長]]に就任し、[[木曽川]]などで[[水利権]]を獲得、これらを元に[[1918年]](大正7年)大同電力の前身で電力卸売を主とする[[木曽電気製鉄]]を設立した。あわせて名古屋電灯は周囲の電気事業者を次々と[[合併 (企業)|合併]]して規模を拡大し、[[1921年]](大正10年)、[[奈良県]]を本拠とする[[関西水力電気]]と合併して関西電気株式会社となり、[[1922年]](大正11年)には[[九州]]を地盤とする[[九州電灯鉄道]]と合併して東邦電力株式会社へと発展した。ただし、関西水力電気との合併に際して名古屋電灯は手続き上[[解散]]している(関西水力電気が[[存続会社]]となり関西電気に改称した)。

== 概要 ==
[[ファイル:Advertisement of Nagoya dento.jpg|thumb|220px|名古屋電灯の広告(1914年)]]

名古屋電灯は、大正から昭和戦前期にかけての電力業界大手「五大電力」の一つ[[東邦電力]](1922 - 1942年)の前身である。この東邦電力は[[名古屋市]]を中心に供給区域を広げた名古屋電灯と、[[福岡市]]を中心とする[[北部九州]]を主たる供給区域とする[[九州電灯鉄道]]が合併し成立した。ただしその成立過程はやや複雑で、[[奈良市]]の[[関西水力電気]]がまず[[1921年]](大正10年)に名古屋電灯を吸収合併して名古屋へ移転の上「関西電気」と改称し、この関西電気が翌年に九州電灯鉄道を合併して「東邦電力」に改称する、という過程をたどっている<ref name="toho-1">[[#toho|『東邦電力史』]]1頁ほか</ref>。したがっていずれの合併でも存続会社となった関西水力電気が東邦電力の法律上の前身会社という扱いになるが、名古屋電灯の方が歴史が長く、加えて規模も大きかったので、東邦電力自身は発祥を名古屋電灯が設立された[[1887年]](明治20年)と定義していた<ref name="toho-1"/>。

この名古屋電灯は元は旧[[尾張藩]]の[[士族]]による会社で、1887年設立ののち[[1889年]](明治22年)に開業した。当時すでに[[東京]]と[[近畿地方|関西]]の3都市には電気事業が開業しており、名古屋電灯はこれに続く日本で5番目、[[北陸地方]]を含む[[中部地方]]では最初の電気事業者となった。開業当初は小規模な[[火力発電所]]によって発電所周辺に配電するという程度の事業規模であったが、徐々に拡大し、特に明治末期に[[長良川]]と[[木曽川]]に2つの大型[[水力発電所]]を完成させてからは大型化した。その過程で、のちに「電力王」と呼ばれる実業家[[福澤桃介]]が株式を買収して進出し、[[1914年]](大正3年)から社長に就任。以後関西電気となるまでの7年間、福澤による積極経営が続いた。

福澤時代の名古屋電灯では、社内に「製鋼部」・「製鉄部」・「臨時建設部」という3つの部門が設置された。うち「製鋼部」は[[特殊鋼]]の生産を目指すもので、[[1916年]](大正5年)の工場操業を機に電気製鋼所(後の[[木曽川電力]]、製鋼事業は[[大同特殊鋼]]の前身)として分社化された。「製鉄部」は[[製鉄]]事業の事業化を目指した部門、「臨時建設部」は木曽川・[[矢作川]]の水力開発にあたった部門で、あわせて[[1918年]](大正7年)に[[木曽電気製鉄]]として分社化された。木曽電気製鉄の設立により電源開発は同社が担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった。以後名古屋電灯は周辺事業者の合併を活発化させ1921年までに6社を合併し、[[岐阜県]]や[[静岡県]]にも供給区域を広げた。

事業統合の過程で1921年10月、名古屋電灯は奈良市の関西水力電気と合併した。上記の通り存続会社は関西水力電気側で手続上名古屋電灯は解散したが、本社や経営陣は名古屋電灯時代のままで、実質的には名古屋電灯による関西水力電気の合併である。合併によって関西電気が成立したが、同年12月福澤桃介が社長を退陣し、[[松永安左エ門]]ら九州電灯鉄道の経営陣と交代した。翌[[1922年]](大正11年)5月に関西電気と九州電灯鉄道は合併し、中京・関西・九州の3地域にまたがる大電力会社へと発展する。同年6月、関西電気は東邦電力へと改称した。一方、木曽電気製鉄は関西への送電を志向し[[大同電力]](1921 - 1939年)となった。大同電力は東邦電力への電力供給を継続したが、関西地方への供給を主体とする卸売り会社として以後発展していった。

名古屋電灯の供給区域や発電所は、東邦電力以降の再編を経て基本的に[[中部電力]]へと引き継がれたが、木曽川の発電所のみ[[関西電力]]が継承している。


== 沿革 ==
== 沿革 ==
=== 設立と拡大 ===
=== 設立 ===
[[ファイル:Science-Museum of Chubu Electric Power.jpg|thumb|名古屋電灯本社跡地(名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄2丁目]]2-5)建つ[[電気文化会館]]]]
[[ファイル:Katsumata Minoru.jpg|thumb|220px|名古屋電灯設立助力した愛知県知事[[勝間田稔]]]]

名古屋電灯は[[士族授産]]の取り組みから生まれた電力会社で、はじめは旧[[尾張藩]]の[[士族]]による会社であった。士族授産の活動により設立された電力会社はこの名古屋電灯が唯一である<ref>[[#asano0511|浅野伸一「名古屋電灯創設事情」]]59頁</ref>。

[[明治維新]]により[[秩禄処分|家禄を失い]]困窮した士族たちに対し、その救済と[[殖産興業]]を目的として明治政府は[[1879年]](明治12年)から[[1890年]](明治23年)まで士族授産事業のための勧業資金を貸し下げていた<ref name="asano0511-64">[[#asano0511|浅野伸一「名古屋電灯創設事情」]]64-69頁</ref>。[[愛知県]]へ割り当てられた勧業資金は「勧業資本金」と称するもので、その額は10万円余りであった<ref name="asano0511-64"/>。資金の貸下げが決定すると、士族たちはこれを元にいかなる事業を起こすべきか話し合ったが、様々な意見があり容易に一致をみなかった<ref name="chubu1-9">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]9-15頁</ref>。こうした中、電気事業に関心を持っていた丹羽精五郎が電気事業の起業を提唱する<ref name="chubu1-9"/>。精五郎の甥で[[東京大学工学部|帝国大学工科大学]]に在籍する丹羽正道による[[白熱灯]]・[[アーク灯]]の点灯実験と、旧尾張藩士族で[[工部省]]技師の[[宇都宮三郎]]および開明派として知られた[[勝間田稔]]愛知県知事の勧奨によって士族たちの意見はこの電気事業起業で一致をみた<ref name="chubu1-9"/>。そして勧業資金の7割、7万5000円が電気事業起業資金として士族たちに貸し下げられることとなった<ref name="asano0511-64"/>。

勝間田県知事が勧業資金以外の資本を集めるとともに実務に明るい人材を募る方策として名古屋市内の有力商人に対し電気事業起業への参加を求めたことから、会社の設立願いは士族たちではなく[[奥田正香]](醤油製造<ref group="注釈">奥田も旧尾張藩士族であるが、明治初期に実業家に転身してすでに成功していた([[#meiji|『明治の名古屋人』]]455-457頁)</ref>)・[[タキヒヨー|滝兵右衛門]](呉服商)・[[瀧定名古屋|滝定助]](同)・[[森本善七]](小間物商)ら商人11名によって提出された<ref name="chubu1-9"/>。[[1887年]](明治20年)9月21日のことで<ref name="chubu1-9"/>、前日20日に名古屋電灯会社の創立総会が開かれ[[定款]]が取り決められていた<ref name="toho-8">[[#toho|『東邦電力史』]]8-9頁</ref>。会社設立の許可は22日に下りた<ref name="chubu1-9"/>。

許可を受けた名古屋電灯は開業に向けた準備にとりかかり、1887年10月、丹羽精五郎と工科大学を出たばかりの正道を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ドイツ]]へ派遣し、設備の購入契約を結んだ<ref name="chubu1-9"/>。しかしその一方で、発起人であった商人11名が[[尾張紡績]]への出資などの事情で翌[[1888年]](明治21年)8月に撤退しまい、勧業資金7万5000円と士族のみでの経営を余儀なくされた<ref name="chubu1-9"/>。同年9月、取締役が選出され、士族の三浦恵民が社長に就任した<ref name="chubu1-9"/>。さらに開業までの間に政府の方針変更に伴う勧業資金の清算があり、資金の一部返納を求められた<ref name="asano0511-104">[[#asano0511|浅野伸一「名古屋電灯創設事情」]]104-106頁</ref>。資金的な余裕がない会社側は困惑したが、閉鎖された士族就産所に対する勧業資金1万円の転貸を受け、そこから9447円を県に返納した<ref name="asano0511-104"/>。また就産所の残余金や藩主[[尾張徳川家]]・家老[[成瀬氏|成瀬家]]からの寄付金が名古屋電灯に回ったため、名古屋電灯の資本金は7万8800円となった<ref name="asano0511-104"/>。出資者は9000名以上に及び、旧尾張藩士族をほとんど網羅していたという<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]34頁</ref>。

=== 開業 ===
[[ファイル:Science-Museum of Chubu Electric Power.jpg|thumb|220px|第一発電所跡地に建つ[[電気文化会館]](1986年竣工)]]

名古屋電灯では発電所の用地として名古屋市[[南長島町]]・[[入江町 (名古屋市)|入江町]](現・[[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄二丁目]])にまたがる360坪ほどの土地を購入<ref name="chubu1-9"/>。ここにアメリカから輸入した[[ボイラー]]・[[蒸気機関]]とドイツから輸入した[[発電機]](総出力100[[キロワット]] (kW))を据え付け、「電灯中央局」と名づけた(後の[[#第一発電所|第一発電所]])<ref name="chubu1-17">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]17-19頁</ref>。発電所は[[1889年]](明治22年)11月に竣工し、[[11月3日]]の[[天長節]]を開業日と定めたが<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]28-29頁</ref>、電球を積んだ第一便の船が沈没してしまい第二便を待ったため、開業は1か月遅れて[[12月15日]]となった<ref name="chubu1-17"/>。最初の電力会社である[[東京電灯]]が[[1886年]](明治19年)に[[東京]]で開業してから4年目のことで、[[神戸電灯]]・[[大阪電灯]]・[[京都電灯]]に次いで日本で5番目に開業した電力会社である<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]23頁</ref>。

開業時は[[電灯]]の供給のみを行い、その点灯数は400灯余りであった<ref name="chubu1-17"/>。以後電灯を積極的に宣伝するなど需要の開拓に努め、供給灯数を伸ばしていった<ref name="chubu1-17"/>。他方で開業初期には電灯事業が未開業の地域での出張点火も主たる事業であり、一例として[[1892年]](明治25年)には[[桑名市|桑名]]・[[四日市市|四日市]]([[三重県]])や[[金沢市|金沢]]([[石川県]])に小型発電機を持ち込んで電灯を取り付けている<ref name="chubu1-17"/>。[[1890年]](明治23年)7月14日、[[商法]]施行に備えて「名古屋電灯株式会社」に改称<ref name="toho-15">[[#toho|『東邦電力史』]]15-18・602頁</ref>。経営面では翌[[1891年]](明治24年)1月に役員改選を行い、三浦恵民を専務取締役に選任した<ref name="toho-15"/>。

1891年10月28日、[[濃尾地震]]が発生し、名古屋でも多大な被害が出た。名古屋電灯でも発電所建物が損傷する被害を受け2か月間送電を停止したが、震災がきっかけで火災の心配がないという電灯の利点が周知されたことで電灯の需要に繋がった<ref name="chubu1-17"/>。さらに翌年春に名古屋で相次いだ大火も[[ランプ (照明器具)|石油ランプ]]や[[ろうそく]]が失火の原因と言われたために電灯の普及を後押しした<ref name="chubu1-17"/>。こうした需要拡大に対処するため、名古屋電灯では[[1893年]](明治26年)に初めての発電所の拡張を実施<ref name="chubu1-17"/>。さらに翌年には16万円への倍額増資を伴う発電所の第2次拡張を行っている<ref name="chubu1-17"/>。

=== 競合会社の出現 ===
1892年3月の[[大須の大火|大須大火]]に巻き込まれた同地の[[遊廓]]「旭廓」(大正時代に[[大須]]から転出し[[中村遊廓]]となる)の営業主たちは、大火の反省から石油ランプの全廃と電灯の使用を取り決め、名古屋電灯に対し特別割引料金によって供給を受けたいと申し込んでいた<ref name="chubu1-19">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]19-20頁</ref>。しかし質実な営業方針を採る名古屋電灯は申し込みを拒否する<ref name="chubu1-19"/>。こうした名古屋電灯の経営は、同社に対して不満を持つ人々を糾合した新会社の進出を招いた<ref name="chubu1-19"/>。

競合会社の第一号は愛知電灯株式会社であった<ref name="chubu1-19"/>。同社は[[愛知県議会|愛知県会]]議長小塚逸夫<ref group="注釈">[[中島郡 (愛知県)|中島郡]](現・[[一宮市]])出身。愛知電灯のほか[[名古屋電気鉄道]]の設立にも参加し同社の初代社長となっている([[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]11-13頁)。</ref>を中心に発起され、[[1894年]](明治27年)1月電気事業の許可を取得、3月に資本金7万5000円で発足した<ref name="chubu1-19"/>。開業は同年11月20日で、旭廓などを供給先とした<ref name="toho-18">[[#toho|『東邦電力史』]]18-20・603-605頁</ref>。愛知電灯の出現に伴い名古屋電灯では翌[[1895年]](明治28年)1月より電灯料金を2割近く値下げるという対抗措置を採ったため、名古屋電灯側にもさらなる需要増加をもたらした<ref name="chubu1-19"/>。とはいえ[[日清戦争]]によって燃料[[石炭]]費が上昇している時期であったので、経営面では不利に働いた<ref name="toho-18"/>。

こうした名古屋電灯・愛知電灯の競合について経営・技術両面での危険性を指摘する声は多く、1895年11月より[[日本電気協会]]が両社の合併に向けて動き始めた<ref name="chubu1-19"/>。名古屋電灯社内の意見が一致せず合併交渉は長引いたが、翌[[1896年]](明治29年)1月になってまとまり、名古屋電灯による愛知電灯の吸収合併が決定した<ref name="chubu1-19"/>。両社は3月に合併契約を締結<ref name="toho-18"/>。その合併条件は対等合併で、存続会社の名古屋電灯の資本金16万円に解散する愛知電灯の資本金15万円を加え、さらに両社の株主に割り当て19万円を増資して新資本金を50万円とする、というものであった<ref name="toho-18"/>。合併は5月13日に成立した<ref name="toho-18"/>。

増資によって得た資金は第三発電所([[#水主町発電所|水主町発電所]])の建設に充てられた<ref name="chubu1-20">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]20-22頁</ref>。同発電所は[[1901年]](明治34年)7月に完成<ref name="chubu1-20"/>。この時期より従来の電灯供給に加え動力用電力の供給も始まった<ref name="toho-20">[[#toho|『東邦電力史』]]20-26・605-606頁</ref>。

=== 東海電気の合併 ===
愛知電灯に続く競合会社として出現したのが東海電気株式会社である。同社は[[岡崎電灯]]の経営者が中心となって三河電力の名で1901年3月に設立<ref name="chubu1-61">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]61-63頁</ref>。名古屋進出に伴って[[1905年]](明治38年)10月に東海電気へ改称し、翌[[1906年]](明治39年)3月からは本社を名古屋市内に置いていた<ref name="chubu1-61"/>。

この東海電気は[[矢作川]]支流の田代川に出力200kWの[[#小原発電所|小原発電所]]を建設し、はじめ瀬戸町(現・[[瀬戸市]])への供給を行っていた<ref name="chubu1-61"/>。次いで名古屋市の東に位置する[[千種町]]への供給を[[1903年]](明治36年)12月に開始し、翌[[1904年]](明治37年)1月より名古屋市内での供給に乗り出した<ref name="chubu1-61"/>。名古屋進出にあたっての東海電気の武器は[[水力発電]]による低料金であり、大口需要家である[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]市内駐屯部隊の一部を名古屋電灯から奪うなど勢力を伸ばした<ref name="chubu1-61"/>。このため名古屋電灯でも対抗して東海電気進出地域の料金を引き下げたものの、両社の競合する地域とそうでない地域では道を隔てるだけで料金が異なるといういびつな状況が生まれた<ref name="chubu1-61"/>。また[[日露戦争]]に伴う灯油価格の上昇と電灯料金の引き下げに伴って石油ランプから電灯への転換が進んだため、名古屋電灯は新規申し込みの受付を一時中断するほどの深刻な供給力不足に陥った<ref name="chubu1-61"/>。こうした名古屋電灯の供給力不足も東海電気の進出を招く要因であった<ref name="chubu1-61"/>。

名古屋市内での需要家争奪戦は、配電線架設などで技術的な危険を生じさせ、経営的にも両社を圧迫したことから、愛知電灯の場合と同様両社の間には次第に合併の機運が醸成された<ref name="toho-20"/>。名古屋電灯よりも先に後述の名古屋電力が合併に動くが、名古屋電灯はより有利な条件を示して1906年12月に東海電気と合併契約を締結した<ref name="toho-20"/>。その合併条件は、存続会社の名古屋電灯の資本金100万円に東海電気の資本金25万円を加え新資本金を125万円とし、東海電気株主には新株とともに別途合併費用計15万円を交付するというものであった<ref name="toho-20"/>。合併は[[1907年]](明治40年)6月1日に成立<ref name="toho-20"/>。名古屋電灯は小原発電所を引き継ぐとともに、工事中の[[#巴川発電所|巴川発電所]]も継承し[[1908年]](明治41年)2月に完成させた<ref name="toho-20"/>。

=== 水力発電への転換 ===
[[ファイル:Shitagau Noguchi.JPG|thumb|250px|[[野口遵]]]]

東海電気と合併するまで電源を[[火力発電]]に依存していた名古屋電灯は、日露戦争後になって水力発電への進出を計画し、[[木曽川]]水系について調査の準備に着手した<ref name="chubu1-67">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]67-70頁</ref>。しかしこの動きを察知した[[シーメンス|シーメンス・シュッケルト]]の関係者から1906年2月に[[#長良川発電所|長良川発電所]]の計画が持ち込まれると、[[長良川]]開発の方を優先することとなった<ref name="chubu1-67"/>。

長良川開発は先に旧[[岩村藩|岩村藩士]]の小林重正が構想したもので、[[岐阜県]][[武儀郡]][[洲原村]]立花(現・[[美濃市]]立花)にて出力3,000kWの発電所建設が計画されていた<ref name="chubu1-67"/>。小林の計画は[[水利権]]を得て[[1898年]](明治31年)に「岐阜水力電気株式会社」の事業許可を得るところまで進んだが、そこから先は実現せず、1904年に事業許可が失効した<ref name="chubu1-67"/>。こうした中、小林の事業計画に参画していたシーメンス・シュッケルト元社員の[[野口遵]]が名古屋電灯に対し計画を引き継ぐよう勧誘したのである<ref name="chubu1-67"/>。

1907年5月、名古屋電灯は長良川発電所の建設を決定、工事費とシーメンスからの機械購入費に充てるため一挙に400万円増資した<ref name="chubu1-67"/>。工事中に[[鶴舞公園]]における愛知県主催の第10回[[関西府県連合共進会]]の開催が決定し、共進会会場内外の[[イルミネーション]]点灯を名古屋電灯がすべて請け負うことになった<ref name="meiden-119">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]119-121頁</ref>。県は発電所を共進会開催までに完成させるように要請し、県知事や名古屋市長が工事の進捗状況を視察するなど圧力をかけたという<ref name="meiden-119"/>。名古屋電灯側も社運を賭して工事を急ぎ、共進会開催前の2日前に工事をすべて終了、開催前日の[[1910年]](明治43年)3月15日に長良川発電所からの送電を開始した<ref name="meiden-119"/>。発電所の出力は4,200kWであった<ref name="chubu1-67"/>。


こうして長良川発電所は完成したが、工事中の資金調達は必ずしも順調ではなかった。日露戦争後の不況で株式の払込金徴収が難航したためで、1908年7月には保険会社からの50万円借り入れを株主総会で決定し、その後も発電所建設の進捗にあわせて借り入れを繰り返した<ref name="chubu1-70">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]70-74頁</ref>。こうした資金負担の増加の結果、[[配当|配当率]]は1906年上期の年率14パーセントから1908年上期には年率12パーセントへと低下し、同様に株価も下落した<ref name="chubu1-70"/>。業績低下を受けて株主の不満が高まり、「革新会」と称する一部株主から経営陣の責任を追及する動きが生じた<ref name="chubu1-70"/>。
名古屋電灯は[[1889年]](明治22年)[[12月15日]]、[[名古屋市]]において電気の供給を開始し電力会社として開業した<ref name="chubu1"/>。[[日本]]で最初の電力会社である[[東京電灯]]が[[1886年]](明治19年)に[[東京]]で開業してから4年目で、[[神戸電灯]]、[[大阪電灯]]、[[京都電燈|京都電灯]]に次いで国内5番目の電力会社である<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]、p.23</ref>。


=== 名古屋電力と名古屋瓦斯 ===
同社は、[[士族授産]]の一環として政府が[[士族]]に貸し付けた勧業資金を、士族が[[株主]]として会社に出資することで設立された。士族を代表して三浦恵民(みうら けいみん)が[[社長]]に就任した。[[発電所]]は名古屋の[[入江町 (名古屋市)|入江町]]・[[南長島町]](現・[[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄2丁目]])にまたがる土地を購入しそこに置いた。[[火力発電|火力発電所]]であり、[[ドイツ]]から輸入した[[発電機]]4台、出力計100[[ワット|キロワット]]をもって運転を開始した。開業した名古屋電灯では[[電灯]]の需要開拓に努め、開業後は順調に灯数を拡大した。2度にわたって発電所の増強を行い、[[1897年]](明治27年)の末には供給力は200キロワットへと倍増していた<ref name="chubu1"/>。なお、[[1890年]](明治23年)の商法公布に伴い、社名を「名古屋電灯会社」から「名古屋電灯株式会社」へと変更している<ref>[[#nagoya|『新修名古屋市史』第五巻]]、p.492</ref>。
[[ファイル:Kanematsu Hiroshi.jpg|thumb|220px|[[兼松煕]]]]


長良川発電所の建設が進むころ、木曽川では[[#八百津発電所|八百津発電所]]の建設工事が進んでいた。ただし事業者は名古屋電灯ではなく、新たに設立された名古屋電力株式会社という電力会社であった。
名古屋電灯の好調を受けて、電気事業に参入し名古屋電灯と競合する会社が現れた。[[愛知県議会|愛知県会]]議長小塚逸夫が中心となって[[1894年]](明治27年)3月に設立した'''愛知電灯株式会社'''がそれである。愛知電灯の参入により料金引き下げを伴う競争が名古屋電灯との間に発生したが、競争の弊害を指摘する声もあり、[[1896年]](明治29年)4月、名古屋電灯が愛知電灯を合併した。合併後も[[日清戦争]]後の好況を背景に電灯の需要は増加したため、名古屋電灯では第3発電所([[水主町 (名古屋市)|水主町]]発電所)を[[1901年]](明治34年)7月に新設した<ref name="chubu1">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]、pp.9-21</ref>。


岐阜県[[加茂郡 (岐阜県)|加茂郡]][[八百津町]]での発電所建設計画の歴史は1896年までさかのぼるが、実際に具体化するのは岐阜県選出の衆議院議員[[兼松煕]]が1903年に参画してからである<ref name="chubu1-63">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]63-64頁</ref>。兼松は地元の意見をまとめるとともに東京の[[岩田作兵衛]]らを計画に引き入れ、さらに名古屋所業会議所会頭になっていた[[奥田正香]]の賛同も取り付けた<ref name="chubu1-63"/>。名古屋からは奥田の他に[[日本車輌製造]]の[[上遠野富之助]]、[[東洋紡|三重紡績]]の[[斎藤恒三]]、[[名古屋電気鉄道]]の[[白石半助]]などが発起人に加わっている<ref name="chubu1-63"/>。名古屋電灯代表の三浦恵民も、兼松・奥田に招かれたためこの事業に加わって供給力を増強しようと考えたが、社内の意見が一致せず断念した<ref name="chubu1-63"/>。
=== 水力発電への進出 ===
[[ファイル:長良川発電所.JPG|thumb|名古屋電灯が開発した[[長良川発電所]](2009年)]]
[[ファイル:Yaotsu Old Power Plant Museum.jpg|thumb|名古屋電力が着工、名古屋電灯が完成させた八百津発電所(現・[[旧八百津発電所資料館]])]]


名古屋電力は資本金500万円で1906年10月に設立<ref name="chubu1-63"/>。発起人から奥田・兼松らが役員に選ばれ、奥田が社長となった<ref name="meiden-182">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]182頁</ref>。さらに事業の万全を期するために[[渋沢栄一]]・[[馬越恭平]]・[[雨宮敬次郎]]という大物実業家の3人を[[相談役]]に嘱託している<ref name="meiden-182"/>。この新興の名古屋電力と既存の名古屋電灯を比較すると、名古屋電力八百津発電所の発電力は名古屋電灯長良川発電所の約2倍、払込資本金も名古屋電力425万、名古屋電灯265万円と2倍近い差があり、名古屋電力が開業し名古屋方面への送電を始めると名古屋電灯の著しい脅威となると見られた<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]168頁</ref>。しかし実際には会社設立後の不況で資金難となり、発電所の着工を1908年1月に遅らせざるを得なかった<ref name="chubu1-63"/>。
1900年代に入ると、名古屋電灯の供給区域である名古屋市へ'''東海電気株式会社'''が進出した。同社は先に開業していた[[岡崎電灯]]の関係者らによって、三河電力として[[1901年]](明治34年)[[3月10日]]に設立された。三河電力は[[西加茂郡]][[小原村 (愛知県)|小原村]](現・[[豊田市]])に[[水力発電|水力発電所]]である小原発電所を建設、[[1902年]](明治35年)9月より[[東春日井郡]]瀬戸町(現・[[瀬戸市]])で電気の供給を開始する。続いて[[1903年]](明治36年)12月、名古屋市と東隣の[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[千種町 (愛知県)|千種町]](現・名古屋市)へと供給区域を拡大した。三河電力から東海電気に改称したのは[[1905年]](明治38年)10月である。東海電気は名古屋市内において競合する名古屋電灯に対し、料金の安さを武器に追随し、[[日露戦争]]を契機とする電灯需要の増加に乗って需要家を獲得していった<ref name="chubu2"/>。この東海電気を、[[1907年]](明治40年)6月に名古屋電灯は合併した。


東海電気に続いて名古屋電灯の競合会社となったのは、現実には名古屋電力ではなく、奥田正香がかかわるもう一つの事業[[名古屋瓦斯]](名古屋ガス)であった。同社は名古屋電力に続いて1906年11月に設立、翌1907年10月には[[都市ガス]]の供給を開始した<ref name="chubu1-64">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]64-67頁</ref>。当時のガスの用途は炊事などの熱用ではなく灯火用、すなわち[[ガス灯]]が中心であり、また[[ガスエンジン]]の利用もあって照明・動力の供給という意味では電力会社と競合する関係にあった<ref name="chubu1-64"/>。開業後の名古屋瓦斯は供給を急速に拡大し、開業3年目の1910年には名古屋電灯の電灯数7万6千灯に対し名古屋瓦斯の灯火用孔口数はその3分の1にあたる2万6千口に達した<ref name="chubu1-64"/>。その後名古屋瓦斯は[[1914年]](大正3年)まで名古屋電灯の電灯数の伸びを上回るペースで灯火用の需要を伸ばしている<ref name="chubu1-64"/>。
日露戦争のころから供給力不足が目立っていた名古屋電灯は、[[木曽川]]水系の水力に着目し水力発電所の建設に向けて準備を始めた。この動きを見て、[[岐阜県]]の[[長良川]]における水力開発計画が[[シーメンス|シーメンス社]]関係者から持ち込まれた。1890年代後半に岐阜水力電気により一度着手されたが頓挫していた計画で、[[1906年]](明治39年)3月にシーメンス社名義で[[水利権]]を取得、これの無償譲渡を受けて1907年5月より名古屋電灯の事業として改めて着手された。この[[長良川発電所]]は[[1910年]](明治43年)3月に運転を開始、名古屋電灯の供給力は一挙に4,200キロワット増加した<ref name="chubu2"/>。


電灯とガス灯の競合は、当時普及していた[[白熱電球]]である炭素線電球(発光部分のフィラメントに[[炭素]]繊維を用いる電球)に比してガス灯が価格・明るさ両面で有利であったことから生じたが、大正初期にタングステン電球(フィラメントに[[タングステン]]を用いる電球)が普及すると電灯が優位に立ち、さらに[[第一次世界大戦]]で石炭価格(当時の都市ガスは[[石炭ガス]])が高騰してガス料金が引き上げられるとガス灯は競争力を失って衰退していった<ref name="chubu1-64"/>。
長良川発電所完成翌年の[[1911年]](明治44年)、木曽川に[[八百津発電所]]が完成した。この発電所は名古屋電灯が着工したものではなく、前年に合併した'''名古屋電力株式会社'''が着工したものである。名古屋電力は[[奥田正香]]ら名古屋財界や東京の実業家、それに岐阜県選出の[[衆議院議員]][[兼松煕]]などが参加して[[1904年]](明治37年)10月に設立された。しかし日露戦争後の不況で資金難となり、計画していた八百津発電所の着工は[[1908年]](明治40年)1月にずれ込んだ。さらに着工したものの難工事の連続であった。とはいえ開業した暁には名古屋電灯に対する脅威となり、料金引き下げを伴う競争が発生するおそれがあったことから、名古屋電灯は名古屋電力の合併を計画する。名古屋電力側も資金調達に難のある状況のため合併に応じ、1910年[[10月28日]]付で名古屋電灯は名古屋電力を合併した<ref name="chubu2">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]、pp.61-77</ref>。


=== 福澤桃介の経営参加 ===
=== 福澤桃介の経営参加 ===
[[ファイル:Tosuke Fukuzawa2.jpg|thumb|[[福澤桃介]]]]
[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 48-year-old.jpg|thumb|[[福澤桃介]](名古屋電灯本社応接室にて撮影)]]


明治末期の名古屋電灯では、業績の低下に不満を持つ株主によって「革新会」と称する派閥が形成され、反対に経営陣を支持する株主によって「同盟会」と称する派閥が組織されて社内の主導権争いが発生していた<ref name="chubu1-70"/>。この動きに関連して、1908年8月、長良川発電所建設に向けた借入金50万円を株主総会が承認したことについて、その決議の無効を求める訴訟が株主の一人から起こされた<ref name="chubu1-70"/>。[[1909年]](明治42年)10月の大審院でようやく名古屋電灯が勝訴するも、訴訟中に従業員による社費横領事件が発覚し、不満をさらに高めた株主らは1908年10月に業務状況などを調査させるよう[[名古屋地方裁判所]]に訴えた<ref name="chubu1-70"/>。訴えは認められ、[[三井銀行]]名古屋支店長[[矢田績]]、弁護士[[大喜多寅之助]]らが検査役に選ばれて同年12月より3か月にわたって帳簿などの精査したが、経営陣による不正は無いと結論付けられた<ref name="chubu1-70"/>。
前述の名古屋電力の合併を推し進めたのが、当時名古屋電灯の常務取締役であった[[福澤桃介]]である。福澤は当時の筆頭株主で、1910年5月に常務取締役に就任していた<ref name="chubu2"/>。


こうした混乱の最中、名古屋電灯では東京の実業家[[福澤桃介]]による大規模な株式買収が進んでいた<ref name="chubu1-74">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]74-77頁</ref>。日露戦争後の株式相場で財を成した福澤は、その後各方面に投資を広げており、1907年には名古屋で石炭商を営む友人[[下出民義]]に名古屋電灯への投資を勧められていた<ref name="momo-254">[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]254-255・262-266頁</ref>。このときは下出の誘いを受けなかったものの、慶應義塾の先輩矢田績に検査役となった際の検査書類を見せられ経営しないかと誘われると、福澤は名古屋電灯への投資を決定する<ref name="momo-254"/>。そして1909年2月に名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた<ref name="momo-254"/>。同年3月から福澤は名古屋電灯の株主名簿に登場、以後買収を進め6月末までに5千株余りを持つ株主となり、翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主に躍り出た<ref name="momo-254"/>。下出によれば買収資金の出所は[[三菱銀行]]であったという<ref>[[#simoide|『下出民義自伝』]]32頁</ref>。
[[相場師]]として著名であった福澤は、日露戦争後実業家に転身、日清紡績(現・[[日清紡ホールディングス]])の創設にかかわりその初代常務取締役を1907年から1910年4月まで務めていた<ref>[[#nissin|『日清紡績六十年史』]]、pp.37-47,60-61,109-111</ref>。そのほかにも電力会社に関与し、九州の[[福博電気軌道]](後の九州電灯鉄道)などの経営に参加していた<ref>[[#fukuzawa|「電力王・福沢桃介」]]、pp.7-8</ref>。


福澤の進出に対し名古屋電灯側では、まず1909年7月矢田の勧めに応じて福澤を顧問とし、次いで10月には新設の相談役に就けた<ref name="chubu1-74"/>。翌1910年1月の定時株主総会で福澤は取締役に選出され、5月には常務取締役となった(常務には創業者三浦恵民も在職)<ref name="chubu1-74"/>。この福澤の進出は既存経営陣に批判的な「革新会」側から歓迎された<ref name="chubu1-74"/>。
福澤が経営に参加する直前の名古屋電灯は、経営陣への支持をめぐって株主が2派に分かれて対立していた。新規の電源開発に伴う資金負担増加で株主への配当は減少、日露戦争後の恐慌で株価も下落しており、一部の株主は経営陣への批判を強めた。「革新会」と称する彼らに対抗して、経営陣を支持する株主は「同盟会」を組織し、革新会との間で主導権争いを繰り広げた。この動きに関連して、1908年8月、長良川発電所建設に向けた借入金50万円を[[株主総会]]が承認したことについて、その決議の無効を求める訴訟が起こされた。一審・二審ともに原告の主張を認め、[[1909年]](明治42年)10月に[[大審院]]でようやく名古屋電灯が勝訴した。しかし訴訟中に従業員の不正が発覚し、一部の株主は業務状況を調査する検査役の選任を[[裁判所]]へ申請した。この申請は認められ、1908年12月から[[三井銀行]]名古屋支店長[[矢田績]]、弁護士[[大喜多寅之助]]らが帳簿などを検査することになった<ref name="chubu2"/>。


名古屋電灯の経営陣に加わった福澤であったが、株式を買収した段階では競合会社の名古屋電力が存在することを知らなかったという<ref name="chubu1-74"/>。名古屋電力が開業に至れば料金の引き下げを伴う激しい競争となるのは明らかであったため、福澤はすぐさま名古屋電力の合併に動き出す<ref name="chubu1-74"/>。名古屋電力側も資金難に陥っていたため合併の合意に達するのは容易であったが、反対に、名古屋電灯の株主中の反対論を抑えるのは難航した<ref name="chubu1-74"/>。反対派の中心となったのは士族や旧愛知電灯の株主で、合併による配当率低下を危惧していた<ref name="chubu1-74"/>。このため、解散する名古屋電力の資本金500万円に対し名古屋電灯側の増資を250万円に留めて名古屋電力株主への新株交付を持株2株につき1株とし、これによって生ずる差益金から将来の配当に充てる配当補充金を積み立てる、という合併条件をまとめた<ref name="chubu1-74"/>。
福澤が名古屋電灯の経営に参加する契機となったのが、検査役矢田績の勧めである。矢田は名古屋電灯の経営について、消極的な経営が業績の拡大を妨げていると評価した。矢田の勧めを受けて福澤は長良川発電所の完成後は配当率の上昇が可能であり将来有望であると判断し、名古屋電灯の株式買収に乗り出した。1910年上期までに、福澤は名古屋電灯の最大株主となっていた。会社側では矢田の勧めで1909年7月、福澤を顧問に推薦。10月には[[相談役]]の職に就けた。翌1910年1月には[[取締役]]となり、同年5月に常務取締役に就任したのである<ref name="chubu2"/>。


1910年8月26日の臨時株主総会にて名古屋電力の合併は可決されたが、これに続く役員増員にからみ総会は紛糾した<ref name="chubu1-74"/>。合併に伴う取締役3名・監査役の2名の増員が総会の議題となったが、この賛否をめぐり、福澤の進出を歓迎する革新会改め「電友会」と、福澤系の経営陣を不安視する同盟会改め「愛電会」の両陣営に株主が分裂し収拾がつかなくなったのである<ref name="chubu1-74"/>。対立は総会の1週間前からあり、矢田績や名古屋市長[[加藤重三郎]]らが斡旋に乗り出していたが、当日深夜になっても株主の意見が一致することはなかった<ref name="chubu1-74"/>。合併については同年10月28日に成立<ref name="chubu1-74"/>。その後取締役2名・監査役1名増員という折衷案で妥協がなり、11月の臨時株主総会で可決、兼松熙ら旧名古屋電力の役員が新任された<ref name="chubu1-74"/>。この総会の1週間後、福澤は常務を兼松に譲って辞任し(取締役には留任)、一旦名古屋電灯の経営から退いた<ref name="chubu1-74"/>。
福澤の経営参加は革新会の株主には好評を以て迎えられたが、同盟会側は反発した。常務となった福澤は前述の名古屋電力合併に乗り出し、名古屋電力側とは容易に交渉を進めた。しかし名古屋電灯設立以来の旧士族の株主や旧愛知電灯の株主の中に反対する者が出、株主との交渉は会社間の交渉よりも難航した。合併についてはその後折り合いをつけたものの、合併に関連する問題が討議された1910年8月の臨時株主総会は株主の対立により紛糾した。総会を前に革新会の株主は「電友会」を結成、同盟会の株主も「愛電会」を結成して対抗し、多数派工作を繰り広げていた。総会では福澤ら新規参入の経営者を歓迎して経営刷新を期待する電友会が、福澤系の勢力増加を意味すると見て合併に伴う取締役・監査役の増員に賛成した。しかし福澤の進出に反発する愛電会は会社を不安定にさせるとして増員に反対した。名古屋電力合併後、11月の総会で両派の妥協は成立するが、この混乱を見た福澤は常務取締役を辞任し、名古屋電灯の経営から一旦退くことになる<ref name="chubu2"/>。


=== 福澤の再登場と鉄鋼業 ===
=== 福澤の社長就任 ===
[[ファイル:Shizumo power station.jpg|thumb|名古屋電灯が着工、[[大同電力|木曽電気製鉄]]が完成させた賤母発電所]]
[[ファイル:Juzaburo Kato.jpg|thumb|250px|[[加藤重三郎]]]]
[[ファイル:Shimoide Tamiyoshi.jpg|thumb|250px|[[下出民義]]]]


名古屋電力の合併により八百津発電所の建設工事を引き継いだが、着工当初から難工事が続いていた上、名古屋電灯移行後もトラブル続きで送電を開始したのは1911年12月のことであった<ref name="toho-31">[[#toho|『東邦電力史』]]31-34頁</ref>。工事中の1911年4月、825万円の増資により資本金を1600万円とし、さらに社業の拡大に伴って常務の上に社長を置くこととして同年7月名古屋市長の加藤重三郎<ref group="注釈">加藤は市長時代、商業会議所会頭の奥田正香と深い繋がりのあったことで知られた。なお常務の兼松煕も奥田の腹心と言われた人物である([[#meiji|『明治の名古屋人』]]455-457頁)</ref>を迎えた<ref name="toho-34">[[#toho|『東邦電力史』]]34-35頁</ref>。
[[1913年]](明治45年)1月、福澤桃介は再度常務取締役に就任。翌[[1914年]](大正2年)には取締役社長に昇任した。一部の株主が福澤の復帰を待望していたためであった<ref name="chubu3"/>。


出力4,200kWの長良川発電所に出力7,500kWの八百津発電所が加わった名古屋電灯では、大口需要の開拓に努め、主として電力供給を拡大した<ref name="toho-34"/>。しかし両発電所の建設費負担は重く財務状態はかえって悪化し、配当補充金を取り崩して配当を維持するものの[[1912年]](明治45年)には配当率を年率12パーセントから9パーセントに引き下げざるを得なくなった<ref name="asano1210-18">[[#asano1210|浅野伸一「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化」]]18-20頁</ref>。こうした業績の悪化は株主の経営陣に対する批判を強め、[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]の再建や[[九州電灯鉄道|九州での電気事業]]で好成績を挙げていた福澤桃介の再登板を期待する声を大きくした<ref name="meiden-190">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]190-194頁</ref>。批判の高まりを受けて常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任<ref name="meiden-190"/>。次いで[[大正]]改元を機に経営を一新すべきという声に押されて同年12月取締役10名と監査役6名全員が一斉に辞任し、直後の株主総会で総改選することになった<ref name="meiden-190"/>。
再び名古屋電灯の経営を握った福澤は、積極的な営業拡大を推し進めた。一つは名古屋市周辺地域での電灯供給の拡大、もう一つは、八百津発電所などの完成で供給力に余裕が生じたことに伴う大口の電力供給の拡大である。供給の伸びに対応して、[[1915年]](大正4年)9月に熱田火力発電所を新設した。さらに、[[1917年]](大正6年)には木曽川で賤母発電所の建設に着手した<ref name="chubu3"/>。1920年代に入ると名古屋電灯は周囲の電力会社の統合を進めた。[[1920年]](大正9年)に[[一宮電気]]を合併したのを皮切りに[[1921年]](大正10年)8月までに5社を合併し、電力供給範囲は愛知県のほか隣接する[[岐阜県]]および[[静岡県]]の一部に及んだ。電力会社統合の背景には、[[第一次世界大戦]]終了後の不況の中で地方の電灯会社の経営が悪化していたこと、政府が電気事業の合同を推奨していたことがあった<ref>[[#ayumi|「中部の電力発達史」]]、pp.42-43</ref>。


この役員総改選に際しその指名は福澤に一任された<ref name="meiden-190"/>。加藤重三郎(社長留任)や兼松煕らが再任されたほか、このとき下出民義も取締役に加わっている<ref name="meiden-190"/>。翌[[1913年]](大正2年)1月、福澤は常務に復帰した<ref name="meiden-190"/>。こうして経営を握った福澤は九州電灯鉄道支配人の[[角田正喬]]を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、営業活動や集金方法の改善など経営改革に取り組んだ<ref name="chubu1-123">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]123-129頁</ref>。
福澤の下で名古屋電灯は、本業の電気事業拡大の一方で、余剰電力を活用した工業部門へ進出して経営多角化も推進した。その第一歩となったのが電気製鋼業である。まず社内に製鋼部を組織し、1915年2月熱田火力発電所構内に試験用の[[電気炉]]を設置して[[フェロアロイ]]や[[合金鋼|特殊鋼]]の試作を開始した。試験の結果十分な製品を得られたことから本格的な工場の建設に着手し、[[1916年]](大正5年)8月、工場の操業開始にあわせて製鋼部を分離して電気製鋼所(後の[[木曽川電力]])を設立した<ref>[[#daido|『大同製鋼50年史』]]、pp.42-55</ref>。第一次世界大戦の影響で鉄の価格が高騰していた時期であったため、設立当初の業績は好調であった<ref name="chubu3">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]、pp.123-130</ref>。


こうした中の1913年秋、社長の加藤重三郎、取締役の兼松煕らが大須遊廓移転にからむ[[疑獄事件]]で起訴された<ref name="zaikai-241">[[#sugiura|『中京財界史』]]241-244頁</ref>。加藤らは12月の第1審で有罪となった後、翌1914年の第2審で結局無罪となったが<ref name="zaikai-241"/>、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に福澤を社長代理に指名した<ref name="meiden-190"/>。その後加藤が社長を辞任したため、1914年12月、福澤が後任社長となった<ref name="meiden-190"/>。福澤の昇任とともに下出も常務代理から常務となっている([[1918年]]2月からは副社長)<ref name="meiden-190"/>。福澤は社長就任後も本拠地を東京に置いたため、以後、福澤が人事・金融を担当し、日常の業務のほとんどは下出が代行するという経営体制となった<ref>[[#sugiura|『中京財界史』]]259・262頁</ref>。
電気製鋼所の好調を受けて名古屋電灯では、[[1917年]](大正6年)6月社内に製鉄部を設置して今度は電気製鉄の研究を開始した。電気によって[[銑鉄]]を製造する電気製鉄は、当時[[北欧]]の1・2か国が手がけていたに過ぎない新規事業であった。[[1918年]](大正7年)9月、完成した工場の操業開始にあわせて製鉄部は分離され、[[木曽電気製鉄]]が設立された。電気製鉄に必要な電力は木曽川に新設する発電所から供給するとしたため、製鉄部とともに名古屋電灯の電力開発部門(臨時建設部)も木曽電気製鉄に移った<ref name="daido1">[[#daido|『大同製鋼50年史』]]、pp.66-73</ref>。このため、1917年に名古屋電灯が着工した木曽川の賤母発電所、[[矢作川]]の串原発電所はどちらも木曽電気製鉄の手で完成している<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]、pp.176-183</ref>。この木曽電気製鉄は表向き製鉄業を主目的としていたが、実際には[[大井ダム|大井発電所]]など木曽川水系における大規模な水力開発を目的としており、水利権を獲得するための看板として当時注目されていた電気製鉄が選ばれた、というのが実態である。銑鉄の生産は技術的な問題からしばらくして中止され、会社設立時の看板であった電気製鉄業はあえなく頓挫した<ref name="daido1"/>。


=== 木曽川開発 ===
電気製鉄業に見切りをつけた木曽電気製鉄は本来の本業である水力開発に集中すべく木曽電気興業に社名を変更。[[1921年]](大正10年)2月には、大阪送電・[[日本水力]]との合同に参加して[[大同電力]]へと発展した<ref name="daido2">[[#daido|『大同製鋼50年史』]]、pp.74-77</ref>。後に述べるように福澤は名古屋電灯の経営から離れていくが、[[1928年]](昭和3年)に引退するまで大同電力の社長の座にあった<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]、p.254</ref>。なお、木曽電気製鉄の製鉄業は[[鋳鋼]]の製造に形を変えて残っていた<ref name="daido2"/>が、大同電力発足後に大同製鋼(初代)として分離された。同社は[[1922年]](大正11年)に電気製鋼所の製鋼部門を吸収して大同電気製鋼所となり、後に発展して大同製鋼(2代目)となった。[[第二次世界大戦]]後の[[1950年]](昭和25年)に同社は解体されたが、後継会社として新大同製鋼(現・[[大同特殊鋼]])などが発足している<ref>[[#daido|『大同製鋼50年史』]]、pp.76-79,82-86,129,201</ref>。
{{See also|木曽電気製鉄}}
[[ファイル:Shizumo power station.jpg|thumb|名古屋電灯が着工、[[木曽電気製鉄]]が完成させた賤母(しずも)発電所]]


福澤がまだ社長代理だった1914年初頭、社内に「臨時建設部」が設置された<ref name="daido-73">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]73-76頁</ref>。名古屋電灯は当時すでに木曽川の八百津発電所より上流側([[長野県]]側)に2地点の水利権を確保しており、別の地点での水利権出願や、既得水力地点の開発に向けた実施計画に関する調査などを手がけるための部署であった<ref name="daido-73"/>。
=== 関西電気への改組 ===
[[ファイル:Katsuji Debuchi and Yasuzaemon Matsunaga.jpg|thumb|福澤の後を継いだ[[松永安左エ門]](右)]]


臨時建設部が発足した1914年には[[第一次世界大戦]]が勃発した。その後日本に[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]が訪れると電力需要は急増し、長良川・八百津両発電所の完成以来余剰電力の対策に苦心していた名古屋電灯でも反対に供給力の確保に追われることとなった<ref name="asano1210-18"/>。まず[[1915年]](大正4年)9月、工期の短い火力発電所([[#熱田発電所|熱田発電所]])を新設<ref name="asano1210-18"/>。次いで[[1916年]](大正5年)5月には八百津発電所の放水落差を活用する[[#八百津発電所|放水口発電所]]を建設している<ref name="asano1210-18"/>。同年2月、臨時建設部を拡充して水力開発に着手し、[[1918年]](大正7年)4月[[矢作川]]に突貫工事で[[木曽電気製鉄#串原発電所|串原仮発電所]]を完成させ、木曽川では八百津発電所よりも大きな[[木曽電気製鉄#賤母発電所|賤母発電所]](出力12,600kW)を着工した<ref name="daido-73"/>。
名古屋電灯は1921年10月、[[奈良市]]と本拠とする[[関西水力電気]]と統合し、'''関西電気株式会社'''として再出発した。新社名から「名古屋」が外れたが、この合併は名古屋電灯が本拠としていた名古屋市から、営業の重点を他の地域へと分散させる意図があったと見られる。背景には、1920年代に入って発生した経営の混乱があった<ref name="chubu4"/>。


業績について見ると、大戦勃発以降は供給拡大によって大幅な増収が続き、設備投資も好景気を背景に借入金ではなく株式払込金の徴収によって可能となったため、経営状態は改善に向った<ref name="chubu1-123"/>。大戦前、配当補充金が尽きた1913年下期に配当率を年率9パーセントから7.6パーセントに引き下げていたが<ref name="asano1210-18"/><ref name="toho-35">[[#toho|『東邦電力史』]]35-36頁</ref>、1914年以降増配となり、1918年には年率12パーセントの配当に復した<ref name="toho-35"/>。
社長の福澤桃介は[[1912年]](明治45年)に[[立憲政友会]]から出馬して[[衆議院議員]]を1期務めたことから、[[名古屋市会]]の名古屋電灯系政友会議員、通称「電政派」と親密であった。この電政派は1921年7月、政友会系の大喜多寅之助を名古屋市長の座に就けた。当時、名古屋電灯は名古屋市との間に交わされていた報償契約の破棄ないし改定を目指しており、福澤が名古屋市政に深く関与したことを意味する電政派系の市長登場は反発を招いた。結局、報償契約に関する名古屋電灯の要求は、同年10月の市会議員選での[[憲政会]]の勝利・政友会の敗北と、それに伴う翌年2月の大喜多市長辞任で実現せずに終わった。しかし福澤の一連の政治関与は政界のみならず名古屋財界の反発をも招き、福澤の経営姿勢へも批判が強められた<ref name="chubu4"/>。


1918年9月8日、名古屋電灯は木曽川の水利権、建設中の賤母発電所、矢作川の串原仮発電所、それに準備中の電気製鉄事業(後述)に関する資産を[[現物出資]](評価額計200万円)し、[[木曽電気製鉄|木曽電気製鉄株式会社]](後の木曽電気興業)を設立した<ref name="daido-25">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]25-31頁</ref>。新会社の社長は福澤桃介が兼任<ref name="daido-25"/>。資本金は1700万円であり、名古屋電灯はこのとき資本金1600万円であったから、母体となった名古屋電灯よりも大きな会社であった<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]71頁</ref>。同社の新設で臨時建設部が独立した形となり、以降木曽電気製鉄が一切の電源開発を担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった<ref name="daido-73"/>。なお長良川・八百津両発電所も新会社に引き継がせる案があったが、名古屋電灯の供給責任上実行されていない<ref name="toho-37">[[#toho|『東邦電力史』]]37-39頁</ref>。
この状況を見た福澤は、善後策を講じ、最終的に名古屋電灯の経営から退くことになる。まず名古屋電灯の経営建て直しを目的に、奈良の関西水力電気を傘下に収めた上で、同社に名古屋電灯を合併させた。合併は1921年10月に実施され、手続き上は関西水力電気が存続会社となって関西電気に社名を変更、一方の名古屋電灯は[[解散]]した。しかし実態は名古屋電灯による関西水力電気の吸収で、新発足した関西電気の社長には福澤が就任した。この福澤の社長就任は一時的なもので、同年12月に福澤は社長を辞任、当時[[九州電灯鉄道]]社長の[[伊丹弥太郎]]が新社長に就任し、九州電灯鉄道常務取締役で福澤の弟分[[松永安左エ門]]が実質的なトップである副社長に就任した<ref name="chubu4"/>。


木曽電気製鉄はその後、木曽電気興業と改称した直後の[[1919年]](大正8年)11月、[[京阪電気鉄道]]関係者との共同出資により大阪送電株式会社を設立し、[[関西地方]]への送電を構想する<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]35-38頁</ref>。この大阪送電と木曽電気興業、それに[[山本条太郎]]率いる[[日本水力]]の3社が[[1921年]](大正10年)2月に合併し、[[大同電力|大同電力株式会社]]が発足している<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]45・54頁</ref>。
福澤から松永に経営が移った関西電気は、[[1922年]](大正11年)5月、松永の本拠で九州を拠点とする九州電灯鉄道を合併して'''[[東邦電力|東邦電力株式会社]]'''へと社名を変更した。名古屋電灯以来名古屋市にあった本社は、東邦電力発足とともに[[東京]]へと移っていった。松永の下で東邦電力は大手電力会社「五大電力」の一角へと発展<ref name="chubu4">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]、pp.176-182</ref>。[[太平洋戦争]]下における電力国家管理の進展に伴い[[1942年]](昭和17年)4月に解散するまで、長く活動した<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]、p.352</ref>。


=== 年表 ===
=== 鉄鋼業進出 ===
{{See also|木曽川電力}}
* [[1887年]][[9月20日]] - '''名古屋電灯会社'''創立総会開催<ref name="toho">[[#toho|『東邦電力史』]]、pp.602-609(年譜)</ref>。
* [[1889年]][[12月15日]] - 電気の供給を開始し開業<ref name="toho"/>。
* [[1890年]][[7月14日]] - 社名を'''名古屋電灯株式会社'''に変更<ref name="toho"/>。
* [[1896年]][[5月13日]] - 愛知電灯([[1894年]][[11月20日]]開業)を合併<ref name="toho"/>。
* [[1907年]][[6月1日]] - 東海電気を合併<ref name="toho"/>。
* [[1910年]][[3月15日]] - [[長良川発電所]]運転開始<ref name="toho"/>。
* 1910年[[10月28日]] - 名古屋電力(未開業)を合併<ref name="toho"/>。
* [[1911年]]11月 - 八百津発電所運転開始。
* [[1916年]][[8月19日]] - 製鋼部を分離して電気製鋼所(後の[[木曽川電力]])を設立。
* [[1918年]][[9月8日]] - 製鉄部を分離して[[木曽電気製鉄]](後の木曽電気興業、[[大同電力]]の前身)を設立。
* [[1920年]]5月 - [[一宮電気]]を合併。
* [[1921年]]1月 - [[岐阜電気]]を合併。
* 1921年4月 - [[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]を合併。
* 1921年8月 - [[尾北電気]]・[[板取川電気]]・美濃電化肥料を合併。
* 1921年[[10月18日]] - [[関西水力電気]]が名古屋電灯を合併し'''関西電気株式会社'''に改称(手続き上。実態は名古屋電灯が関西水力電気を吸収)。
* 1922年[[5月31日]] - 関西電気、[[九州電灯鉄道]]を合併。
* 1922年[[6月26日]] - 関西電気、'''[[東邦電力|東邦電力株式会社]]'''に改称。


第一次世界大戦による大戦景気を背景に、福澤は余剰電力を利用した工業の起業を計画し、名古屋電灯顧問となっていた技師[[寒川恒貞]]にその調査を命じた<ref name="steel-42">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]42-51頁</ref>。これに対して寒川が[[フェロアロイ]](合金鉄)や[[特殊鋼]]などを製造する電気製鋼を提案したことから、名古屋電灯では同事業へ進出することとなった<ref name="steel-42"/>。まず1915年2月より熱田発電所の一角において実用化に向けた試験を開始<ref name="steel-42"/>。同年10月には社内に「製鋼部」を新設し、試験結果を受けて工場を着工した<ref name="steel-42"/>。1916年8月19日、工場の操業開始とともに名古屋電灯は製鋼部を独立させ資本金50万円の「株式会社電気製鋼所」を設立する<ref name="steel-42"/>。操業開始が大戦中の鉄鋼価格高騰期に重なったため、開業早々年率10パーセントの配当をなすなど電気製鋼所の業績は当初から順調であった<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]52-55頁</ref>。
== 供給区域 ==
=== 1919年 ===
岐阜電気や豊橋電気を合併する前にあたる[[1919年]](大正8年)12月末時点における名古屋電灯の電灯・電力供給区域は以下の通り。なお、市町村名は当時のものである<ref name="yoran1920">[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]、pp.52-53<!--コマ番号51--></ref>。


このような電気製鋼所の好調を受けて、名古屋電灯では[[1917年]](大正6年)6月社内に「製鉄部」を設置し、電気で[[銑鉄]]を生産するという電気製鉄の研究に着手する<ref name="steel-66">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]66-73頁</ref>(電気製鉄についての詳細は[[木曽電気製鉄#電気製鉄事業の展開]]参照)。工場は名古屋市内に建設され、この製鉄部と先述の臨時建設部をあわせて独立させた木曽電気製鉄の設立(1918年9月8日)とともに操業を開始した<ref name="steel-66"/>。こうして銑鉄の生産を始めたものの、技術的な問題が発生したため間もなく生産は中止されている<ref name="steel-66"/>。そのため木曽川の水利権を確保するための看板として注目を集めていた新事業電気製鉄が利用されただけとも言われる<ref name="steel-66"/>。その後製鉄部は銑鉄製造から[[鋳鋼]]の製造へと転換した<ref name="steel-74">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]74-79頁</ref>。
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木曽電気製鉄はその後大同電力となったが、電気事業に対して副業となった製鉄部門は1921年11月に同社から分離され、大同製鋼(初代)となった<ref name="steel-74"/>。翌[[1922年]](大正11年)7月、大同製鋼が電気製鋼所より鉄鋼部門を現物出資の形で引き受け、名古屋電灯を母体とする鉄鋼メーカーは大同製鋼改め大同電気製鋼所に一元化された<ref name="steel-82">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]82-84頁</ref>。この大同電気製鋼所は後の大同製鋼(2代目)で、現在の[[大同特殊鋼]]の前身にあたる。一方、鉄鋼部門を分離した電気製鋼所は、長野県[[木曽地域]]を供給区域とする[[木曽川電力]]として[[1942年]](昭和17年)まで存続した<ref name="steel-82"/>。

=== 相次ぐ合併 ===
木曽電気製鉄設立後、[[1920年]](大正9年)5月から翌1921年8月までの短期間に名古屋電灯は6社の事業者、すなわち[[一宮電気]]・[[岐阜電気]]・[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]・[[板取川電気|板取川電気・尾北電気・美濃電化肥料]]を相次いで合併した<ref name="toho-39">[[#toho|『東邦電力史』]]39-42頁</ref>。合併前の1919年10月に増資によって資本金を3300万円としていたが<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]608頁</ref>、一連の合併後の名古屋電灯の資本金は4848万7250円に拡大している<ref name="toho-39"/>。

; [[一宮電気|一宮電気株式会社]]
: 1912年2月、愛知県[[中島郡 (愛知県)|中島郡]]一宮町(現・[[一宮市]])に設立<ref name="ichi">[[#ichinomiya|『一宮市史』下巻]]181-183頁</ref>。開業は1913年1月で、一宮町とその周辺や[[丹羽郡]][[古知野町]]・[[布袋町]](現・[[江南市]])などへ供給した<ref name="ichi"/>。発電所を持たず、名古屋電灯から受電し配電に充てていた<ref name="toho-39"/>。資本金は50万円<ref name="ichi"/>。
: 1919年12月合併契約締結<ref>[[#shikai4|『名古屋市会史』第4巻]]435-436頁</ref>、1920年5月合併成立<ref name="toho-39"/>。合併に伴う資本金増加は75万円<ref name="kabu1921"/>。
; [[岐阜電気|岐阜電気株式会社]]
: 前身の岐阜電灯は1894年7月開業<ref>[[#gifu|『岐阜市史』通史編近代]]280頁</ref>。1907年に新会社の岐阜電気へと改組した<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]97-98頁</ref>。供給区域は[[岐阜県]]のうち[[岐阜市]]・[[大垣市]]などで、[[揖斐川]]支流の[[粕川 (岐阜県)|粕川]]に自社の水力発電所を所有していたが<ref name="toho-39"/>、供給力不足のため1918年より名古屋電灯から受電していた<ref>[[#gifu|『岐阜市史』通史編近代]]511-512頁</ref>。資本金は600万円<ref>[[#nenkan1920|『電気年鑑』大正9年]]65頁、{{NDLJP|948316/83}}</ref>。
: 1920年9月合併契約締結<ref name="shikai4-433">[[#shikai4|『名古屋市会史』第4巻]]431-433頁</ref>、1921年2月合併成立<ref name="toho-39"/>。合併に伴う資本金増加は825万円<ref name="shikai4-433"/>。
; [[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気株式会社]]
: 豊橋電灯の名で1894年2月設立、同年4月開業<ref>[[#toyo3|『豊橋市史』第3巻]]708-710頁</ref>。供給区域は[[豊橋市]]や豊川町(現・[[豊川市]])、それに[[静岡県]][[浜名郡]]西部(現・[[湖西市]])などで、名古屋電灯とは電力需給関係はなかったが福澤桃介が社長を兼ねていた<ref name="toho-39"/>。資本金は240万円<ref>[[#nenkan1920|『電気年鑑』大正9年]]54頁、{{NDLJP|948316/78}}</ref>。
: 1920年12月合併契約締結<ref name="shikai4-583">[[#shikai4|『名古屋市会史』第4巻]]583-586頁</ref>、1921年4月合併成立<ref name="toho-39"/>。合併に伴う資本金増加は378万円<ref name="shikai4-583"/>。
; [[板取川電気|板取川電気株式会社]]
: 1909年7月設立、翌1910年12月開業<ref>[[#itadori|横山悦生「板取川水力電気と武藤助右衛門」]]</ref>。供給区域は岐阜県のうち[[武儀郡]][[美濃町 (岐阜県)|美濃町]](現・[[美濃市]])・関町(現・[[関市]])などで、電源は自社の水力発電所であった<ref name="toho-39"/>。資本金は100万円<ref>[[#kaisha29|『日本全国諸会社役員録』第29回]]下編256頁、{{NDLJP|936470/602}}</ref>。
: 尾北電気・美濃電化肥料とあわせて1921年8月合併成立<ref name="toho-39"/>。3社合併に伴う資本金増加は270万7250円<ref name="toho-39"/>。
; 尾北電気株式会社
: 1918年3月に犬山電灯と可児川電気が合併し設立<ref>[[#kani|『可児市史』第3巻]]274-275頁</ref>。供給区域は愛知県[[丹羽郡]]犬山町(現・[[犬山市]])や岐阜県[[可児郡]]の町村(現・[[可児市]]・[[御嵩町]])で、自社の水力発電所や板取川電気・名古屋電灯からの受電を電源とした<ref name="toho-39"/>。資本金は100万円で<ref>[[#kaisha29|『日本全国諸会社役員録』第29回]]下編169頁、{{NDLJP|936470/558}}</ref>、株式の4割を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)<ref name="shikai4-586">[[#shikai4|『名古屋市会史』第4巻]]586-589頁</ref>。
; 美濃電化肥料株式会社
: 1918年6月設立、資本金300万円<ref>[[#kaisha29|『日本全国諸会社役員録』第29回]]下編269頁、{{NDLJP|936470/608}}</ref>。全6万株のうちの1万7000株を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)<ref name="shikai4-586"/>。美濃町に本社を置き、[[板取川]]に白谷発電所を建設して[[炭化カルシウム]](カーバイド)を製造するとともに板取川電気へ電力を供給した<ref name="toho-39"/>。

豊橋電気・板取川電気などとの合併がまだ手続き中の段階にあった1921年3月31日、名古屋電灯は[[関西水力電気]]との間に合併契約を締結した<ref name="toho-82">[[#toho|『東邦電力史』]]82-86頁</ref>。この合併はこれまでのものとは異なり名古屋電灯を被合併会社、相手側(関西水力電気)を存続会社とするものであり、合併に伴って名古屋電灯は解散することとなった<ref name="toho-82"/>。
; [[関西水力電気|関西水力電気株式会社]]
: 1905年11月29日、[[奈良県]][[奈良市]]に設立<ref name="toho-3">[[#toho|『東邦電力史』]]3-7頁</ref>。先に開業していた奈良電灯から事業を引き継ぎ奈良市に供給したほか、[[山辺郡]][[丹波市町]](現・[[天理市]])、[[高市郡]][[八木町 (奈良県)|八木町]](現・[[橿原市]])、[[北葛城郡]]高田町(現・[[大和高田市]])などにも供給区域を広げた<ref name="toho-3"/>。資本金は450万円で、名古屋電灯の合併に伴い6469万9650円増資<ref name="toho-82"/>。

関西水力電気と名古屋電灯との合併は1921年9月14日に[[逓信省]]の認可を得、10月28日の臨時株主総会において同日をもって合併を実行するものとされた<ref name="toho-82"/>。こうして両社の合併が成立し、関西水力電気は「'''関西電気株式会社'''」へと改称した<ref name="toho-82"/>。しかしこの合併は、形式上は関西水力電気を存続会社としたが、実質的には規模の大きい名古屋電灯による関西水力電気の吸収であり、その証左に本店は奈良市から名古屋市に変更され(名古屋市新柳町の旧名古屋電灯本社を引き続き使用)、経営陣も社長福澤桃介、副社長下出民義、常務[[神谷卓男]]・角田正喬など名古屋電灯側の役員が入ったのに対し関西水力電気時代から留任したのは常務の加納由兵衛のみであった<ref name="toho-82"/>。

この合併で関西電気(関西水力電気)の資本金は合併前の450万円から6914万9650円へと一挙に拡大した<ref name="toho-82"/>。

=== 政争 ===
[[ファイル:Okita Toranosuke.jpg|thumb|220px|[[大喜多寅之助]]]]

関西電気(名古屋電灯)が合併路線を採っていた1920年前後の時期は、[[名古屋市会]]を舞台に会社を巻き込む政争が発生していた。その発端は名古屋電灯と名古屋市の間に締結されていた報償契約であった。

福澤が名古屋電灯に参入するよりも前の1908年4月、当時の常務三浦恵民は名古屋市との間に報償契約を締結した<ref name="toho-26">[[#toho|『東邦電力史』]]26-29頁</ref>。その主たる内容は、
* 会社は決算期毎に報償金を市に納付する。その金額は市内における事業にかかる純益金の4パーセント(1917年より5パーセントに改訂)。
* 電気料金の値上げや他事業者の合併は市の承認を必要とする。
* 市は、市が所有もしくは管理する道路・橋梁・営造物・その他市有物件などにおいて会社が電柱・線管を建設することを承認する。その際使用料や特別税を徴収しない。また名古屋電灯・名古屋電力以外の電気事業者にはこの権利を認めない。
* 契約の有効期間は締結から25年間。満期後市は事業を市営化する権利を得る。買収価格は、(1) [[名古屋株式取引所]]における会社株式の3か年平均株価、(2) 3か年の利益・配当の年額平均を20倍したもの、この2つを平均した価格による。
というものであった<ref name="toho-26"/>。

1920年になって、名古屋電灯は会社にとって不利なこの報償契約の破棄ないし改訂を目指して運動を始めた<ref name="chubu1-176">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]176-177頁</ref>。その契機は4月の[[道路法]]施行で、報償契約の効力に疑義が生じた<ref group="注釈">道路法では[[国道]]・[[都道府県道]]などが規定され、道路に対する市の管理権が縮小されたため、市の道路管理を前提とする報償契約は無効になる、として各地でトラブルがあった(「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00095262&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 道路法の影響 報償契約破棄]」『[[中外商業新報]]』1920年4月25日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)</ref>と主張していた<ref name="chubu1-176"/>。会社と市は折衝を続けたが意見は一致をみず、1920年12月、新しい協定に向けて手続きに至急着手するとともにその間は報償金納付と合併承認については従来通り履行する、という旨の覚書きを交わした<ref name="toho-42">[[#toho|『東邦電力史』]]42-44頁</ref>。

このころの名古屋市会について見ると、議会の多数派は[[立憲政友会]]系議員であった<ref>[[#seiso|『名古屋市会政争史』]]26-28頁</ref>。この政友会系の議員には、名古屋電灯副社長の下出民義をはじめ、前社長加藤重三郎、法律顧問[[青山鉞四郎]]など同社の関係者が多くいたことから、「電政派」とも呼ばれていた(ただし監査役の[[磯貝浩]]は[[憲政会]]系)<ref name="seiso-41">[[#seiso|『名古屋市会政争史』]]41-47頁</ref>。1921年4月、名古屋電灯は関西水力電気との合併について報償契約に基づく承認を市に対して求めた<ref name="seiso-41"/>。6月になり合併承認の件が市会に上程されることとなったが、その当日になって青山鉞四郎の緊急動議によって[[佐藤孝三郎]]市長の後任選挙に差し替えらた<ref name="seiso-31">[[#seiso|『名古屋市会政争史』]]31-36頁</ref>。この結果政友会系の議員で議長を務める[[大喜多寅之助]]が市長に就任し、青山が後任議長となった<ref name="seiso-31"/>。名古屋電灯は報償契約改訂・破棄に向けて運動中であったため、電政派市長の擁立は大きな社会的反響を呼んだ<ref name="chubu1-176"/>。

合併承認の件は9月に市会で審議され、そこで非電政派(憲政会系)は、会社が合併を繰り返すのは買収価格を吊上げて市営化を断念させるため策略であり、また先に木曽電気製鉄を独立させたのは水利権を報償契約の範囲外に置くための措置であったなどと電政派および名古屋電灯を激しく批判した<ref name="seiso-41"/>。しかし結局多数を占める電政派の意見が通って委員会付託となり、委員会の結果報償契約を関西水力電気に継承させるなどの条件付での合併承認が決まった<ref name="seiso-41"/>。

10月の市会議員選挙では電政派の市政運営に対する市民の批判が高まり、非電政派が多くの支持を集めた<ref name="seiso-48">[[#seiso|『名古屋市会政争史』]]48-56頁</ref>。非電政派の演説会に参加した市民がその終了後に名古屋電灯の施設や大喜多の邸宅、政友会系の[[新愛知新聞社]]を包囲・襲撃するという事件も発生したという<ref name="zaikai-347">[[#sugiura|『中京財界史』]]347-351頁</ref>。この選挙の結果は加藤重三郎が落選するなど政友会系(電政派)の敗退、憲政会系(非電政派)の勝利であった<ref name="seiso-48"/>。11月には大喜多の市長不信任案が可決され、翌年[[川崎卓吉]]に交代した<ref name="seiso-48"/>。大喜多の退陣によって名古屋電灯(関西電気)の報償契約改訂・破棄運動も失敗に終わった<ref group="注釈">この報償契約はその後も維持され[[1933年]](昭和8年)4月に満期となり更新されず自然消滅した。契約中にあった、名古屋市による事業買収も実施されていない([[#toho|『東邦電力史』]]226頁)。</ref><ref name="chubu1-176"/>。

=== 東邦電力発足 ===
[[ファイル:Itami Yataro.jpg|thumb|220px|[[伊丹弥太郎]]]]
[[ファイル:Matsunaga Yasuzaemon (before 1923).jpg|thumb|220px|[[松永安左エ門]]]]

市会における政争以外にもこの時期の名古屋電灯(関西電気)を取り巻く内外の環境は悪化していた。事業について見ると、関西電気が発足するころになると名古屋では市街地の膨張に対して供給施設が追いついておらず、供給力不足(水力発電が主電源のため渇水期には特に電力不足であった)や送変電・配電設備の不備から停電が頻発しており<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]111-112頁</ref>、地元の不満が高まっていた<ref name="toho-42"/>。また経理面では、事業資金調達の必要性から株価の上昇を狙って1921年上期の配当率を年率20パーセントに引き上げるという高配当策を採ったことで行き詰まりつつあった<ref name="toho-42"/>。その上、この高配当は1921年上期末時点で全体の6.4パーセントの株式を持つ筆頭株主である社長の福澤自身を利するものとして非難の的にもなった<ref name="chubu1-176"/>。

1921年12月23日、関西電気成立後最初の定時株主総会において社長の福澤桃介、副社長の下出民義がそろって辞任し、新たに[[九州電灯鉄道]]社長の[[伊丹弥太郎]]が新社長に、同社常務の[[松永安左エ門]]が新副社長にそれぞれ就任した<ref name="toho-86">[[#toho|『東邦電力史』]]86-89頁</ref>。伊丹は[[佐賀市|佐賀]]の財界人<ref>[[#kyuden|『九州地方電気事業史』]]78-79頁</ref>、松永は福澤の[[慶應義塾]]時代の後輩で、当時は[[福岡市|福岡]]を拠点に電気事業の経営にあたっていた<ref>[[#matsunaga|『私の履歴書』第21集]]松永安左エ門3・4章</ref>。経営陣交代の時点で関西電気と九州電灯鉄道の合併は内定しており<ref name="toho-86"/>、25日に両社の間で合併契約が締結された<ref name="toho-93">[[#toho|『東邦電力史』]]93-95頁</ref>。合併条件は、存続会社の関西電気が九州電灯鉄道の資本金と同額の5000万円を増資して同社株主に対し持株1株につき新株1株を交付する、というものであった<ref name="toho-93"/>。

経営陣交代の経緯は、福澤から引き継いだ松永の回想によると、周囲との対立で行き詰った福澤が状況を打開するために名古屋電灯を関西水力電気と合併させたが、そのようなことでは解決しないところまで事態が悪化していたため、さらなる打開策として九州電灯鉄道と合併させて松永を「[[代打|ピンチヒッター]]」としたのだという<ref name="matsunaga-7">[[#matsunaga|『私の履歴書』第21集]]松永安左エ門第7章</ref>。福澤自身は後年、[[伊藤祐昌|伊藤次郎左衛門]]([[松坂屋]]経営)など名古屋の財界人や憲政会の[[小山松寿]]([[名古屋新聞社]]経営)から排斥されたことに対する反抗心から[[近畿地方|関西]]への進出を企て、木曽川開発つまり大同電力の方に集中するために名古屋電灯を九州電灯鉄道に合併してしまったと語っている<ref>[[#momo|『福澤桃介翁伝』]]逸話篇176-179・184頁</ref>。また同時代の実業家[[青木鎌太郎]]は、福澤らの退陣は、市会の政友会系議員と組んで市政を壟断していると批判を受けた電政派問題の責任をとったことが有力な理由であったようだと述べている<ref>[[#aoki|青木鎌太郎 『中京財界五十年』]]110-114頁</ref>。

関西電気と九州電灯鉄道の合併は翌[[1922年]](大正11年)5月31日付で成立した<ref name="toho-93"/>。資本金は1億円超となり<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]105・109頁</ref>、供給区域は[[九州|九州地方]]を含む12府県に及んだ<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]97-99頁</ref>。このように関西電気は社名の「関西」を超えて営業範囲が広がったため、新社名を公募し同年6月26日の定時株主総会にて社名を変更、「'''[[東邦電力|東邦電力株式会社]]'''」となった<ref name="toho-103">[[#toho|『東邦電力史』]]103-104頁</ref>。同時に定款記載の本店を名古屋市から[[東京市]]へと変更し、本社を[[東京海上日動ビルディング|東京海上ビル]]へと移している<ref name="toho-103"/>。

こうして名古屋電灯から関西電気を経て発展した東邦電力は、以後戦前期の大手電力会社「五大電力」の一角として[[1942年]](昭和17年)に解散するまで活動することとなる。

=== 業績推移表 ===
1904年(明治37年)から関西水力電気と合併する直前の1921年上期までの期別業績の推移は以下の通り。決算期は毎年5月(上期)・11月(下期)の2回である。

{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
|+ style="text-align:right;"|単位:千円
|-
|-
!年度
!rowspan="6" style="white-space:nowrap;"|[[愛知県]]<br />(1市15町31村)
!公称資本金
|colspan="2"|[[名古屋市]]
!払込資本金
!収入
!支出
!純利益
!配当率
!出典
|-
|-
!1904上
|style="white-space:nowrap;"|[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]](4町7村)
|500
|[[千種町 (愛知県)|千種町]]・[[呼続町]]・[[愛知町]]・[[下之一色町]]<!--原文「村」-->・[[御器所村]]・[[東山村 (愛知県)|東山村]]・[[中村 (愛知県)|中村]]・[[常磐村 (愛知県愛知郡)|常磐村]]・八幡村・[[荒子村]]・[[小碓村]](現・名古屋市)
|500
|81
|41
|40
|14.0%
|rowspan="20"|<ref name="kabu1914">[[#kabu1914|『株式年鑑』大正3年度]]286-287頁、{{NDLJP|975418/160}}</ref>
|-
|-
!1904下
|style="white-space:nowrap;"|[[西春日井郡]](5町10村)
|500
|[[枇杷島町]]・[[清水町 (愛知県)|清水町]]・杉村・[[金城村]]・[[六郷村 (愛知県西春日井郡)|六郷村]]・[[萩野村 (愛知県)|萩野村]]・[[山田村 (愛知県)|山田村]]・[[庄内町 (愛知県)|庄内村]]・川中村・[[楠村 (愛知県)|楠村]](現・名古屋市)、<br />[[西枇杷島町]]・[[新川町 (愛知県西春日井郡)|新川町]]・[[清洲町]](現・[[清須市]])、<br />[[北里村 (愛知県)|北里村]](現・[[北名古屋]]市・[[小牧市]])、<br />豊山村(現・[[豊山町]])
|500
|83
|44
|38
|14.0%
|-
|-
!1905上
|style="white-space:nowrap;"|[[東春日井郡]](4町7村)
|1,000
|[[瀬戸市|瀬戸町]]・[[品野町|品野村]]・[[赤津村 (愛知県)|赤津村]]・[[水野村]](現・[[瀬戸市]])、<br />[[守山市 (愛知県)|守山町]](現・名古屋市)、旭村(現・[[尾張旭市]])、<br />[[勝川町]]・[[鳥居松村]]・[[篠木村]](現・[[春日井市]])、<br />[[小牧町]]・[[味岡村]](現・小牧市)
|625
|98
|52
|46
|14.0%
|-
|-
!1905下
|style="white-space:nowrap;"|[[海部郡 (愛知県)|海部郡]](1町4村)
|1,000
|[[蟹江町]]、<br />[[甚目寺町|甚目寺村]](現・[[あま市]])、大治村(現・[[大治町]])、<br />[[富田町 (愛知県)|富田村]]・[[南陽町|南陽村]](現・名古屋市)
|700
|116
|68
|47
|14.0%
|-
|-
!1906上
|style="white-space:nowrap;"|[[丹羽郡]](1町3村)
|1,000
|岩倉町(現・[[岩倉市]])、大口村(現・[[大口町]])、<br />[[西成村]](一部)・[[千秋村 (愛知県丹羽郡)|千秋村]](現・[[一宮市]])
|700
|142
|88
|53
|14.0%
|-
|-
!1906下
!style="white-space:nowrap;"|[[岐阜県]]<br />(1町)
|1,000
|style="white-space:nowrap;"|[[稲葉郡]](1町)
|850
|[[加納町]]<br />(現・[[岐阜市]])
|173
|108
|64
|16.0%
|-
!1907上
|1,250
|1,250
|242
|140
|102
|14.0%
|-
!1907下
|5,250
|2,250
|274
|142
|131
|12.0%
|-
!1908上
|5,250
|2,250
|281
|135
|146
|12.0%
|-
!1908下
|5,250
|2,250
|304
|157
|146
|12.0%
|-
!1909上
|5,250
|2,250
|338
|196
|141
|12.0%
|-
!1909下
|5,250
|2,650
|352
|183
|170
|12.0%
|-
!1910上
|5,250
|3,250
|342
|167
|175
|12.0%
|-
!1910下
|7,750
|6,116
|<!--数字が不正確なため省略-->
|
|207
|12.0%
|-
!1911上
|7,750
|7,750
|461
|180
|280
|12.0%
|-
!1911下
|7,750
|7,750
|499
|253
|246
|12.0%
|-
!1912上
|16,000
|9,812
|562
|306
|255
|9.2%
|-
!1912下
|16,000
|9,812
|655
|350
|305
|9.2%
|-
!1913上
|16,000
|9,812
|762
|431
|331
|9.2%
|-
!1913下
|16,000
|10,637
|824
|413
|410
|7.6%
|-
!1914上
|16,000
|10,637
|937
|491
|446
|8.0%
|rowspan="14"|<ref name="kabu1921"/>
|-
!1914下
|16,000
|10,637
|930
|471
|459
|8.0%
|-
!1915上
|16,000
|10,637
|994
|500
|494
|8.5%
|-
!1915下
|16,000
|10,637
|1,004
|507
|497
|8.5%
|-
!1916上
|16,000
|11,875
|1,081
|536
|545
|9.0%
|-
!1916下
|16,000
|11,875
|
|
|654
|9.0%
|-
!1917上
|16,000
|11,875
|1,413
|628
|785
|10.0%
|-
!1917下
|16,000
|12,700
|1,603
|717
|885
|11.0%
|-
!1918上
|16,000
|13,525
|2,111
|1,246
|865
|12.0%
|-
!1918下
|16,000
|13,525
|2,133
|1,230
|902
|12.0%
|-
!1919上
|16,000
|13,525
|2,557
|1,609
|948
|12.0%
|-
!1919下
|16,000
|16,000
|3,023
|1,717
|1,305
|18.0%
|-
!1920上
|33,750
|21,000
|3,646
|2,325
|1,320
|12.0%
|-
!1920下
|33,750
|21,000
|4,206
|2,378
|1,827
|14.0%
|-
!1921上
|45,780
|28,881
|7,379
|4,188
|3,190
|20.0%
|<ref name="kabu1922">[[#kabu1922|『株式年鑑』大正11年度]]280-281頁、{{NDLJP|975424/198}}</ref>
|}

== 供給の推移 ==
以下、沿革のうち供給の推移について詳述する。

=== 1880・90年代 ===
開業前の[[1889年]](明治22年)6月に名古屋電灯が作成した広告によると、[[名古屋市]][[南長島町]](現・[[栄 (名古屋市)|栄二丁目]])の発電所を起点に北は[[御幸本町通|本町]]、東は[[栄 (名古屋市)|栄町]]、西は[[堀川 (名古屋市)|堀川]]を渡った先([[船入町 (名古屋市)|船入町]]・東柳町など)、南は[[大須]]方面の[[門前町 (名古屋市)|門前町]]・[[橘 (名古屋市)|橘町]]へとまず送電するとされた<ref name="toho-11">[[#toho|『東邦電力史』]]11-15頁</ref>。同年[[12月15日]]に開業した際、配電線の延長は14キロメートル余り<!--3里24町余-->で、需要家数は241戸、電灯の点灯数は400灯余りであった<ref name="chubu1-17"/>。

開業時、電灯の点灯時間は日没から3時間であり、「3時間灯」と称した<ref name="toho-11"/>。翌[[1890年]](明治23年)2月には日没から23時まで点灯する「5時間灯」を新設し、その後0時までの「半夜灯」、翌日2時までの「2時灯」と徐々に供給時間を拡大していき、同年4月から「終夜灯」を設定している<ref name="toho-11"/>。料金は最も需要の多かった10[[燭]]半夜灯を例にとると月額80銭であった(終夜灯の場合1円20銭)<ref name="toho-11"/>。

供給面では1890年11月より[[第3師団 (日本軍)|陸軍第三師団]]の市内各隊への供給を開始し、引き続き官庁や銀行、会社などへ新規の供給を開始すると、これが一般民家の需要も喚起して開業1年間で電灯取付数は3倍に達した<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]39頁</ref>。しかし[[1891年]](明治24年)1月に[[国会議事堂|帝国議会仮議事堂]]火災が発生しその原因が[[漏電]]によるものと伝えられたため、点灯の取り消しが相次いで需要の伸びは一旦停滞した<ref name="toho-15"/>。その対策として名古屋電灯では2月になって官公吏や需要家を招待して安全性をアピールする実地実験を実施している<ref name="toho-15"/>。続いて10月28日に[[濃尾地震]]が発生。名古屋電灯も被災して12月28日まで送電停止を余儀なくされた<ref name="toho-15"/>。

しかしこの震災は、電灯の安全性を市民に周知させる好機となった<ref name="toho-15"/>。それに加えて震災を期に興行場での[[ランプ (照明器具)|石油ランプ]]の使用が制限されたため、震災後は電灯の需要が急増した<ref name="toho-15"/>。さらに翌[[1892年]](明治25年)3月に[[大須大火]]が発生し、その後も大小の火災が続いた際に、出火原因が石油ランプや[[ろうそく]]であると伝えられたために、電灯の需要増加に拍車がかかった<ref name="toho-15"/>。需要増加の結果、[[1893年]](明治26年)2月に名古屋電灯は初めての発電所増設を行っている<ref name="toho-15"/>。

[[1894年]](明治27年)11月に競合する愛知電灯が開業したのに伴い、名古屋電灯では対抗上翌[[1895年]](明治28年)1月より電灯料金を値下げした<ref name="toho-18"/>。値下げの結果さらなる需要を喚起したために同年12月第2次の発電所増設に踏み切っている<ref name="toho-18"/>。しかしこの競争は[[日清戦争]]戦中・戦後の燃料([[石炭]])価格高騰と重なったため、愛知電灯との合併が成立(1896年5月)した後の[[1896年]](明治29年)12月に開業以来初めてとなる料金の値上げを行った<ref name="toho-18"/>。以降も[[1897年]](明治30年)3月、翌[[1898年]](明治31年)3月と料金を値上げた<ref name="toho-18"/>。

開業10周年を迎えた[[1899年]](明治32年)の取付電灯数は8,854灯であった<ref name="toho-29">[[#toho|『東邦電力史』]]29-31頁</ref>。

=== 1900年代 ===
[[1901年]](明治34年)7月、[[交流]]高圧送電方式を採用する[[#水主町発電所|水主町発電所]]が完成した<ref name="toho-18"/>。翌[[1902年]](明治35年)の下期より名古屋電灯では動力用電力の供給を開始する<ref name="toho-20"/>。当初の需要は[[電動機]]1台のみで、しかも夜間送電のみであったが、その後[[日露戦争]]勃発に伴う軍需品製造などで需要は徐々に増加し、[[1904年]](明治34年)10月には昼間の送電も始まった<ref name="toho-20"/>。

1904年1月、瀬戸町(現・[[瀬戸市]])に供給していた三河電力、後の東海電気が名古屋市内でも電気の供給を開始した<ref name="toho-20"/>。同社の進出は[[1906年]](明治39年)3月になって特に激しくなり、市内における名古屋電灯の未開業地域に電線を延長するとともに、名古屋電灯既開業地域では道路外の民有地に電柱を建設し電線を架設して供給地域の拡張を図った<ref name="toho-20"/>。同社の市内における電灯供給数は1906年末時点で465戸・1,877灯に及んだが、急速に拡大した要因は[[水力発電]]による低廉な料金であった<ref name="toho-20"/>。名古屋電灯は1906年2月に電灯料金の値下げを実施し、10燭の終夜灯では月額85銭としていたが、東海電気ではこれを月額65銭で供給していたのである<ref name="toho-20"/>。したがって名古屋電灯は東海電気が配電する地域では同社の料金水準に割引して供給せざるを得なくなった<ref name="toho-20"/>。

東海電灯との競争の傍ら、日露戦争後の好況で電灯・電力ともに需要が増加したため、供給力不足に陥った名古屋電灯は1906年11月から水主町発電所の増設が完成する12月まで、供給の新規申し込みの受付を一時中止する措置をとった<ref name="toho-20"/>。翌[[1907年]](明治40年)7月、東海電気の合併が成立し、名古屋電灯は瀬戸町などを供給区域に追加している<ref name="toho-20"/>。東海電気から引き継いだ電灯数は3,388灯、電力供給馬力数は178馬力である<ref name="toho-20"/>。

開業20周年を迎えた[[1909年]](明治42年)の取付電灯数は5万4,937灯であり、開業時に比して100倍以上、10年前と比べても6倍強に増加していた<ref name="toho-29"/>。また電力供給は1,145馬力であった<ref name="toho-29"/>。

=== 1910年代以降 ===
[[1910年]](明治43年)に竣工した[[#長良川発電所|長良川発電所]]と[[1912年]](大正元年)に運転を開始した[[#八百津発電所|八百津発電所]]という2つの大規模水力発電所の建設により、名古屋電灯では創業以来初めて販売電力に余剰が生じた<ref name="meiden-186">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]186-187頁</ref>。このことから1910年代以降は余剰電力の消化を目的に大口の電力供給に注力し、工場、電気鉄道、他の電気供給事業者など新規需要を開拓、電気の供給地域を名古屋市とその周辺のみならず愛知県外にも拡大した<ref name="meiden-186"/>。

大口供給を具体的に見ると、長良川発電所建設以前の大口需要家は[[瀬戸電気鉄道]](1907年3月供給契約締結)をはじめごく少数であったが、同発電所完成後の[[1911年]](明治44年)に[[名古屋電気鉄道]]と愛知織物・帝国撚糸を加え、その後[[1913年]](大正2年)にかけて[[愛知電気鉄道]]・[[尾張電気軌道]]・[[一宮電気]]・[[尾北電気]]・[[稲沢電灯|稲沢電気]]・[[岐阜電気]]・知多瓦斯(後の[[知多電気]])・[[日英水電]]・[[日本車輌製造]]・三重紡績(後の[[東洋紡|東洋紡績]])半田工場といった大口需要家への供給を開始した<ref name="meiden-186"/>。1913年に電力供給実績は1万馬力を越え<ref name="toho-35"/>、同年以降は消費電力量([[キロワット時]])ベースで電力供給が電灯供給を上回るようになった<ref name="chubu1-123"/>。

電力需要はその後、[[1914年]](大正3年)に[[第一次世界大戦]]が勃発するとさらに増加し、特に大戦中の後期から戦後にかけては著しい増加を示した<ref name="toho-35"/>。この時期には、[[石炭]]価格の高騰や[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]を背景とする事業拡大に伴い動力を[[蒸気機関]]から電動機に転換した[[紡績]]工場が相次いで新規の大口需要家となったほか、社長の福澤桃介が創立にかかわった電気製鋼所や[[ソーダ工業|ソーダ会社]]の東海曹達(桃介の長男[[福澤駒吉]]が経営)などへも供給を開始している<ref name="asano1210-23">[[#asano1210|浅野伸一「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化」]]23-27頁</ref>。電力供給実績は[[1917年]](大正6年)に2万馬力を越え、[[1919年]](大正8年)には3万6千馬力に達した<ref name="toho-35"/>。

一方電灯供給については、[[1911年]](明治44年)に電灯数が10万灯を越えたが、1914年までは[[名古屋瓦斯]](1907年開業)が供給する[[ガス灯]]の方が数では劣るものの電灯数の増加率を越えるペースで普及していた<ref name="chubu1-64"/>。ガス灯との対抗上1912年1月に電灯料金を引き下げ(一例として10燭灯は月額85銭から80銭へ)、2月には電灯勧誘規定を制定して外交員を置き電灯販売に努めた<ref name="chubu1-123"/>。翌1913年9月には創立25周年を記念し増設希望者に福引券を配布するとともに、支配人以下の職員に責任灯数を割り当てて勧誘にあたらせる、という拡販策を実施し、販売促進の努力を続けた<ref name="chubu1-123"/>。

1914年9月、名古屋市内の路面電車を運転する[[名古屋電気鉄道]]に対し、運賃値下げ問題が発端となって[[電車焼き討ち事件]]が発生した<ref name="toho-42"/>。この時期、名古屋電灯に対しても電車運賃と同様に電気料金の値下げ要求があり、対策として1914年2月・1916年2月・1917年2月の3回にわたって電灯料金・電力料金を引き下げた<ref name="toho-42"/>。1917年2月の改訂では定額の8燭灯では月額50銭、16燭灯では65銭、24燭灯では80銭などと電灯料金が定められ、以後東邦電力時代の初期までその料金制度が維持された<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]427頁</ref>。この間、電灯数は1916年に20万灯を越え、1919年には30万灯を突破している<ref name="toho-35"/>。

[[1921年]](大正10年)10月に名古屋電灯と関西水力電気が合併し関西電気が発足した際、新会社の電灯数は旧名古屋電灯区域の87万4,429灯と旧関西水力電気の10万7,990灯をあわせて98万2,419灯となり、電力供給は6万6,285.5馬力と2,237馬力をあわせて6万8,522.5馬力に達した<ref name="toho-82"/>。

=== 供給実績推移表 ===
1904年から関西水力電気と合併する直前の1921年上期までの期別業績の推移は以下の通り。決算期は毎年5月(上期)・11月(下期)の2回で、供給実績の数値は各期末のものである。また「電灯数」は1912年までは取付灯数により計算したものだが、1913年以降は実際の点灯数に基づく。

{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
!年度
!電灯数<br />(単位:灯)
!販売電力<br />(単位:馬力)
!出典
|-
!1904上
|14千
| -
|rowspan="14"|<ref name="kabu1914"/>
|-
!1904下
|16千
|40
|-
!1905上
|17千
|178
|-
!1905下
|19千
|308
|-
!1906上
|25千
|502
|-
!1906下
|30千
|617
|-
!1907上
|35千
|1,159
|-
!1907下
|36千
|1,184
|-
!1908上
|39千
|1,120
|-
!1908下
|44千
|1,222
|-
!1909上
|47千
|1,148
|-
!1909下
|54千
|1,145
|-
!1910上
|93千<!--10燭灯換算?-->
|1,255
|-
!1910下
|76千
|1,435
|-
!1911上
|86,802
|1,780
|rowspan="18"|<ref name="toho-35"/>
|-
!1911下
|100,514
|2,951
|-
!1912上
|120,939
|4,290
|-
!1912下
|141,396
|6,996
|-
!1913上
|141,432
|10,184
|-
!1913下
|161,359
|10,932
|-
!1914上
|184,695
|13,485
|-
!1914下
|188,950
|13,789
|-
!1915上
|186,539
|14,404
|-
!1915下
|192,863
|14,543
|-
!1916上
|203,046
|15,865
|-
!1916下
|212,156
|19,273
|-
!1917上
|228,998
|22,149
|-
!1917下
|251,728
|25,138
|-
!1918上
|266,763
|28,255
|-
!1918下
|284,075
|29,909
|-
!1919上
|307,971
|29,828
|-
!1919下
|334,076
|36,403
|-
!1920上
|407,715
|41,927
|rowspan="2"|<ref name="kabu1921"/>
|-
!1920下
|434,692
|44,998
|-
!1921上
|660千
|60,204
|<ref name="kabu1922"/>
|}

=== 供給区域一覧 ===
==== 1919年 ====
岐阜電気や豊橋電気を合併する前にあたる[[1919年]](大正8年)12月末時点における名古屋電灯の供給区域は以下の通り<ref>[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]52-53頁。{{NDLJP|975005/51}}</ref>。特記のない限り電灯・電力供給区域である。

{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!rowspan="6" style="white-space:nowrap;"|[[愛知県]]
!style="white-space:nowrap;"|市部<br />(1市)
|[[名古屋市]]
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]<br />(4町7村)
|[[千種町 (愛知県)|千種町]]・[[呼続町]]・[[愛知町]]・[[下之一色町]]<!--原文「村」-->・[[御器所村]]・[[東山村 (愛知県)|東山村]]・[[中村 (愛知県)|中村]]・[[常磐村 (愛知県愛知郡)|常磐村]]・[[八幡村 (愛知県愛知郡)|八幡村]]・[[荒子村]]・[[小碓村]](現・名古屋市)
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[西春日井郡]]<br />(5町10村)
|[[枇杷島町]]・[[清水町 (愛知県)|清水町]]・[[杉村 (愛知県)|杉村]]・[[金城村]]・[[六郷村 (愛知県西春日井郡)|六郷村]]・[[萩野村 (愛知県)|萩野村]]・[[山田村 (愛知県)|山田村]]・[[庄内町 (愛知県)|庄内村]]・[[川中村 (愛知県)|川中村]]・[[楠村 (愛知県)|楠村]](現・名古屋市)、<br />[[西枇杷島町]]・[[新川町 (愛知県西春日井郡)|新川町]]・[[清洲町]](現・[[清須市]])、<br />[[北里村 (愛知県)|北里村]](現・[[北名古屋市]]・[[小牧市]])、<br />豊山村(現・[[豊山町]])
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[東春日井郡]]<br />(4町7村)
|[[瀬戸市|瀬戸町]]・[[品野町|品野村]]・[[赤津村 (愛知県)|赤津村]]・[[水野村]](現・[[瀬戸市]])、<br />[[守山市 (愛知県)|守山町]](現・名古屋市)、<br />旭村(現・[[尾張旭市]])、<br />[[勝川町]]・[[鳥居松村]]・[[篠木村]](現・[[春日井市]])、<br />[[小牧町]]・[[味岡村]](現・小牧市)
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]<br />(1町4村)
|[[蟹江町]]、<br />[[甚目寺町|甚目寺村]](現・[[あま市]])、<br />大治村(現・[[大治町]])、<br />[[富田町 (愛知県)|富田村]]・[[南陽町|南陽村]](現・名古屋市)
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[丹羽郡]]<br />(1町3村)
|岩倉町(現・[[岩倉市]])、<br />大口村(現・[[大口町]])、<br />[[西成村]](一部)・[[千秋村 (愛知県丹羽郡)|千秋村]](現・[[一宮市]])
|-
!rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[岐阜県]]
!style="white-space:nowrap;"|市部
|【電力供給区域】[[岐阜市]]
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[稲葉郡]]
|【電力供給区域】[[加納町]](現・岐阜市)
|}
|}


=== 1921年 ===
==== 1921年 ====
名古屋電灯時代の末期、[[1921年]](大正10年)6月末時点の電灯・電力供給区域は以下の通り。この時点では合併していない[[尾北電気]]・[[板取川電気]]の供給区域もあわせて記す<ref name="yoran13">[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]、pp.62-64<!--コマ番号61-62--></ref>。
名古屋電灯時代の末期、[[1921年]](大正10年)6月末時点の電灯・電力供給区域は以下の通り。この時点では合併していない[[尾北電気]]・[[板取川電気]]の供給区域もあわせて記す<ref name="yoran13">[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]62-64頁。{{NDLJP|975006/61}}</ref>。


{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
|-
!colspan="3"|名古屋電灯 電灯・電力供給区域
!rowspan="12" style="white-space:nowrap;"|愛知県<br />(2市26町48村)
|colspan="2"|名古屋市
|-
|-
!rowspan="12" style="white-space:nowrap;"|[[愛知県]]
|colspan="2"|[[豊橋市]]
!style="white-space:nowrap;"|市部<br />(2市)
|名古屋市、[[豊橋市]]
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|愛知郡(4町7村)
!style="white-space:nowrap;"|愛知郡<br />(4町7村)
|千種町・呼続町・愛知町・下之一色町<!--原文「村」-->・御器所村・東山村・八幡村・中村・常磐村・荒子村・小碓村(現・名古屋市)
|千種町・呼続町・愛知町・下之一色町<!--原文「村」-->・御器所村・東山村・八幡村・中村・常磐村・荒子村・小碓村(現・名古屋市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|西春日井郡(5町10村)
!style="white-space:nowrap;"|西春日井郡<br />(5町10村)
|枇杷島町・清水町・杉村・金城村・六郷村・萩野村・山田村・庄内村・川中村・楠村(現・名古屋市)、<br />西枇杷島町・新川町・清洲町(現・清須市)、<br />北里村(現・北名古屋市・小牧市)、<br />豊山村(現・豊山町)
|枇杷島町・清水町・杉村・金城村・六郷村・萩野村・山田村・庄内村・川中村・楠村(現・名古屋市)、<br />西枇杷島町・新川町・清洲町(現・清須市)、<br />北里村(現・北名古屋市・小牧市)、<br />豊山村(現・豊山町)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|東春日井郡(4町7村)
!style="white-space:nowrap;"|東春日井郡<br />(4町7村)
|瀬戸町・品野村・赤津村・水野村(現・瀬戸市)、<br />守山町(現・名古屋市)、旭村(現・尾張旭市)、<br />勝川町・鳥居松村・篠木村(現・春日井市)、<br />小牧町・味岡村(現・小牧市)
|瀬戸町・品野村・赤津村・水野村(現・瀬戸市)、<br />守山町(現・名古屋市)、<br />旭村(現・尾張旭市)、<br />勝川町・鳥居松村・篠木村(現・春日井市)、<br />小牧町・味岡村(現・小牧市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|海部郡(1町4村)
!style="white-space:nowrap;"|海部郡<br />(1町4村)
|蟹江町、<br />甚目寺村(現・あま市)、大治村(現・大治町)、<br />富田村・南陽村(現・名古屋市)
|蟹江町、<br />甚目寺村(現・あま市)、<br />大治村(現・大治町)、<br />富田村・南陽村(現・名古屋市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|丹羽郡(3町3村)
!style="white-space:nowrap;"|丹羽郡<br />(3町3村)
|岩倉町(現・岩倉市)、<br />[[布袋町]]・[[古知野町]](一部)(現・[[江南市]])、大口村(現・大口町)、<br />西成村(一部)・千秋村(現・[[一宮市]]
|岩倉町(現・岩倉市)、<br />[[布袋町]]・[[古知野町]](一部)(現・[[江南市]])、<br />大口村(現・大口町)、<br />西成村・千秋村(現・一宮市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[葉栗郡]](2町3村)
!style="white-space:nowrap;"|[[中島郡 (愛知県)|中島郡]]<br />(4町3村)
|[[浅井町 (愛知県)|浅井町]]・[[木曽川町]]・[[北方村 (愛知県)|北方村]]・[[葉栗]](現・一宮市)、[[宮田町 (愛知県)|宮田村]](現・江南市)
|[[一宮市|一宮町]]・[[奥町]]・[[起町]]・[[萩原町 (愛知県)|萩原町]]・[[今伊勢|今伊勢村]]・[[大和町 (愛知県)|大和村]]・[[朝日村 (愛知県)|朝日村]](現・一宮市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[東加茂郡]](1村)
!style="white-space:nowrap;"|[[葉栗郡]]<br />(2町3村)
|[[浅井町 (愛知県)|浅井町]]・[[木曽川町]]・[[北方村 (愛知県)|北方村]]・[[葉栗村]](現・一宮市)、<br />[[宮田町 (愛知県)|宮田村]](現・江南市)
|[[盛岡村]](一部、電力のみ)(現・[[豊田市]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[宝飯郡]](6町7村)
!style="white-space:nowrap;"|[[東加茂郡]]
|【電力供給区域】[[盛岡村]](一部)(現・[[豊田市]])
|[[豊川町]]・[[牛久保町]]・[[八幡村 (愛知県宝飯郡)|八幡村]]・[[国府町 (愛知県)|国府町]]・[[御油町]]・[[赤坂町 (愛知県)|赤坂町]]・[[長沢村 (愛知県)|長沢村]]・[[萩村]]・[[小坂井町|小坂井村]]・[[御津町 (愛知県)|御津村]](現・[[豊川市]])、<br />[[大塚村 (愛知県宝飯郡)|大塚村]](現・豊川市・[[蒲郡市]])、[[下地町 (愛知県)|下地町]]・[[前芝村]](現・豊橋市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[渥美郡]](14村)
!style="white-space:nowrap;"|[[宝飯郡]]<br />(67村)
|[[豊川町]]・[[牛久保町]]・[[八幡村 (愛知県宝飯郡)|八幡村]]・[[国府町 (愛知県)|国府町]]・[[御油町]]・[[赤坂町 (愛知県)|赤坂町]]・[[長沢村 (愛知県)|長沢村]]・[[萩村]]・[[小坂井町|小坂井村]]・[[御津町 (愛知県)|御津村]](現・[[豊川市]])、[[大塚村 (愛知県宝飯郡)|大塚村]](現・豊川市・[[蒲郡市]])、<br />[[下地町 (愛知県)|下地町]]・[[前芝村]](現・豊橋市)
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[渥美郡]]<br />(1町4村)
|[[二川町 (愛知県)|二川町]]・[[高師村]]・[[牟呂吉田村]]・[[老津村]](現・豊橋市)、[[杉山村]](現・豊橋市・[[田原市]])
|[[二川町 (愛知県)|二川町]]・[[高師村]]・[[牟呂吉田村]]・[[老津村]](現・豊橋市)、[[杉山村]](現・豊橋市・[[田原市]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[八名郡]](2村)
!style="white-space:nowrap;"|[[八名郡]]<br />(2村)
|[[三上村 (愛知県)|三上村]](現・豊川市)、[[下川村 (愛知県八名郡)|下川村]](現・豊橋市)
|[[三上村 (愛知県)|三上村]](現・豊川市)、<br />[[下川村 (愛知県八名郡)|下川村]](現・豊橋市)
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[静岡県]]<br />(2町4村)
!style="white-space:nowrap;"|[[静岡県]]
|style="white-space:nowrap;"|[[浜名郡]](2町4村)
!style="white-space:nowrap;"|[[浜名郡]]<br />(2町4村)
|[[新居町 (静岡県)|新居町]](一部)・[[白須賀町]]・[[鷲津町|吉津村]]<!--原文「町」-->・[[新所村]]・[[入出村]]・[[知波田村]](現・[[湖西市]])
|[[新居町 (静岡県)|新居町]](一部)・[[白須賀町]]・[[鷲津町|吉津村]]<!--原文「町」-->・[[新所村]]・[[入出村]]・[[知波田村]](現・[[湖西市]])
|-
|-
!rowspan="11" style="white-space:nowrap;"|岐阜県<br />(2市12町65村)
!rowspan="10" style="white-space:nowrap;"|岐阜県
!style="white-space:nowrap;"|市部<br />(2市)
|colspan="2"|[[岐阜市]]
|岐阜市、[[大垣市]]
|-
|colspan="2"|[[大垣市]]
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|稲葉郡(1町15村)
!style="white-space:nowrap;"|稲葉郡<br />(1町15村)
|[[本荘村 (岐阜県)|本荘村]]・[[長良村]]・[[島村 (岐阜県稲葉郡)|島村]]・[[三里村 (岐阜県)|三里村]]・加納町・[[北長森村]](一部)・[[南長森村]]・[[木田村 (岐阜県)|木田村]]・[[市橋村 (岐阜県稲葉郡)|市橋村]]・[[茜部村]]・[[鶉村 (岐阜県)|鶉村]]・[[黒野村 (岐阜県稲葉郡)|黒野村]]・[[厚見村]]・[[鏡島村]]・[[佐波村 (岐阜県)|佐波村]](現・岐阜市)、<br />[[更木村 (岐阜県)|更木村]](現・[[各務原市]])
|[[本荘村 (岐阜県)|本荘村]]・[[長良村]]・[[島村 (岐阜県稲葉郡)|島村]]・[[三里村 (岐阜県)|三里村]]・加納町・[[北長森村]](一部)・[[南長森村]]・[[木田村 (岐阜県)|木田村]]・[[市橋村 (岐阜県稲葉郡)|市橋村]]・[[茜部村]]・[[鶉村 (岐阜県)|鶉村]]・[[黒野村 (岐阜県稲葉郡)|黒野村]]・[[厚見村]]・[[鏡島村]]・[[佐波村 (岐阜県)|佐波村]](現・岐阜市)、<br />[[更木村 (岐阜県)|更木村]](現・[[各務原市]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[安八郡]](1町6村)
!style="white-space:nowrap;"|[[安八郡]]<br />(1町6村)
|[[神戸町]](一部)、[[北平野村]](現・神戸町・揖斐郡[[池田町 (岐阜県)|池田町]])、<br />[[北杭瀬村]]・[[南杭瀬村]]・[[安井村 (岐阜県)|安井村]]・[[中川村 (岐阜県)|中川村]]・[[三城村]](現・大垣市)
|[[神戸町]](一部)、[[北平野村]](現・神戸町・揖斐郡[[池田町 (岐阜県)|池田町]])、<br />[[北杭瀬村]]・[[南杭瀬村]]・[[安井村 (岐阜県)|安井村]]・[[中川村 (岐阜県)|中川村]]・[[三城村]](現・大垣市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[羽島郡]](2町11村)
!style="white-space:nowrap;"|[[羽島郡]]<br />(2町11村)
|[[笠松町]]、[[松枝村]](一部)・[[下羽栗村]](現・笠松町)、<br />[[竹ヶ鼻町]]・[[駒塚村]]・[[江吉良村]](一部)・[[正木村 (岐阜県羽島郡)|正木村]]・[[足近村]](現・[[羽島市]])、<br />[[上羽栗村]]・[[八剣村]](現・[[岐南町]])、[[柳津町 (岐阜県)|柳津村]](現・岐阜市)、[[中屋村]]・[[川島町 (岐阜県)|川島村]](現・各務原市)
|[[笠松町]]、[[松枝村]](一部)・[[下羽栗村]](現・笠松町)、<br />[[竹ヶ鼻町]]・[[駒塚村]]・[[江吉良村]](一部)・[[正木村 (岐阜県羽島郡)|正木村]]・[[足近村]](現・[[羽島市]])、<br />[[上羽栗村]]・[[八剣村]](現・[[岐南町]])、<br />[[柳津町 (岐阜県)|柳津村]](現・岐阜市)、<br />[[中屋村]]・[[川島町 (岐阜県)|川島村]](現・各務原市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[養老郡]](1町6村)
!style="white-space:nowrap;"|[[養老郡]]<br />(1町6村)
|[[高田町 (岐阜県)|高田町]]・[[多芸村]]・[[養老村 (岐阜県)|養老村]]・[[笠郷村]]・[[上多度村]]・[[広幡村 (岐阜県)|広幡村]](現・[[養老町]])、[[池辺村]](現・[[海津市]]・養老町)
|[[高田町 (岐阜県)|高田町]]・[[多芸村]]・[[養老村 (岐阜県)|養老村]]・[[笠郷村]]・[[上多度村]]・[[広幡村 (岐阜県)|広幡村]](現・[[養老町]])、[[池辺村]](現・[[海津市]]・養老町)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[揖斐郡]](1町9村)
!style="white-space:nowrap;"|[[揖斐郡]]<br />(1町9村)
|[[揖斐町]](一部)・[[大和村 (岐阜県)|大和村]]・[[清水村 (岐阜県)|清水村]]・[[春日村 (岐阜県)|春日村]](現・[[揖斐川町]])、<br />[[池田村 (岐阜県揖斐郡)|池田村]](一部)・[[本郷村 (岐阜県揖斐郡)|本郷村]]・[[八幡村 (岐阜県揖斐郡)|八幡村]](一部)(現・池田町)、[[養基村]](現・池田町・揖斐川町)、<br />[[大野町|大野村]]・[[豊木村]](現・[[大野町]])<!--原文にある「表佐村」は不破郡-->
|[[揖斐町]](一部)・[[大和村 (岐阜県)|大和村]]・[[清水村 (岐阜県)|清水村]]・[[春日村 (岐阜県)|春日村]](現・[[揖斐川町]])、<br />[[池田村 (岐阜県揖斐郡)|池田村]](一部)・[[本郷村 (岐阜県揖斐郡)|本郷村]]・[[八幡村 (岐阜県揖斐郡)|八幡村]](一部)(現・池田町)、[[養基村]](現・池田町・揖斐川町)、<br />[[大野町|大野村]]・[[豊木村]](現・[[大野町]])<!--原文にある「表佐村」は不破郡-->
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[本巣郡]](1町7村)
!style="white-space:nowrap;"|[[本巣郡]]<br />(1町7村)
|[[北方町]]、[[生津村]](現・北方町・[[瑞穂市]])、[[席田村 (岐阜県)|席田村]](現・北方町・[[本巣市]])、<br />[[穂積町|穂積村]]・[[本田村 (岐阜県)|本田村]]・[[牛牧村]]・[[船木村 (岐阜県)|船木村]](現・瑞穂市)、[[合渡村]](岐阜市)
|[[北方町]]、[[生津村]](現・北方町・[[瑞穂市]])、[[席田村 (岐阜県)|席田村]](現・北方町・[[本巣市]])、<br />[[穂積町|穂積村]]・[[本田村 (岐阜県)|本田村]]・[[牛牧村]]・[[船木村 (岐阜県)|船木村]](現・瑞穂市)、<br />[[合渡村]](岐阜市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[不破郡]](2町6村)
!style="white-space:nowrap;"|[[不破郡]]<br />(2町6村)
|[[赤坂町 (岐阜県)|赤坂町]]・[[青墓村]]・[[静里村 (岐阜県)|静里村]](現・大垣市)、<br />[[垂井町]]、[[宮代村 (岐阜県不破郡)|宮代村]]・[[表佐村]]<!--原文では揖斐郡の欄にあるが不破郡-->(現・垂井町)、[[関ケ原町|関ケ原村]]・[[玉村 (岐阜県)|玉村]](現・[[関ケ原町]])
|[[赤坂町 (岐阜県)|赤坂町]]・[[青墓村]]・[[静里村 (岐阜県)|静里村]](現・大垣市)、<br />[[垂井町]]、[[宮代村 (岐阜県不破郡)|宮代村]]・[[表佐村]]<!--原文では揖斐郡の欄にあるが不破郡-->(現・垂井町)、<br />[[関ケ原町|関ケ原村]]・[[玉村 (岐阜県)|玉村]](現・[[関ケ原町]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]](1町2村)
!style="white-space:nowrap;"|[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]<br />(1町2村)
|[[高富町]]・[[富岡村 (岐阜県山県郡)|富岡村]](現・山県市)、[[岩野田村]](現・[[山県]]
|[[高富町]]・[[富岡村 (岐阜県山県郡)|富岡村]](現・[[山県市]])、<br />[[岩野田村]](現・岐阜市)
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[海津郡]](2町3村)
!style="white-space:nowrap;"|[[海津郡]]<br />(2町3村)
|[[今尾町]]・[[高須町]]・[[城山町 (岐阜県)|城山村]]・[[石津村 (岐阜県)|石津村]]・[[吉里村 (岐阜県)|吉里村]](現・海津市)
|[[今尾町]]・[[高須町]]・[[城山町 (岐阜県)|城山村]]・[[石津村 (岐阜県)|石津村]]・[[吉里村 (岐阜県)|吉里村]](現・海津市)
|-
|-
!colspan="3"|(参考)尾北電気供給区域
!colspan="3"|尾北電気 電灯・電力供給区域
|-
|-
!rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|愛知県<br />(2町6村)
!rowspan="2"|愛知県
!style="white-space:nowrap;"|丹羽郡<br />(2町5村)
|[[犬山町]](一部)・[[城東村 (愛知県)|城東村]]・[[池野村 (愛知県)|池野村]]・[[羽黒村 (愛知県)|羽黒村]]・[[楽田村 (愛知県)|楽田村]](現・犬山市)、<br />扶桑村(現・[[扶桑町]])、<br />古知野町(一部)(現・[[江南市]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|丹羽(2町5村)
!style="white-space:nowrap;"|葉栗<br />(1村)
|[[犬山町]](一部)・[[城東村 (愛知県)|城東村]]・[[池野村 (愛知県)|池野村]]・[[羽黒村 (愛知県)|羽黒村]]・[[楽田村 (愛知県)|楽田村]](現・犬山市)、<br />扶桑村(現・[[扶桑町]])、古知野町(一部)(現・[[江南市]])
|-
|style="white-space:nowrap;"|葉栗郡(1村)
|[[草井村]](現・江南市)
|[[草井村]](現・江南市)
|-
|-
!rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|岐阜県<br />(3町14村)
!rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|岐阜県
!style="white-space:nowrap;"|[[可児郡]]<br />(3町11村)
|[[御嵩町]]・[[上之郷村 (岐阜県)|上之郷村]]・[[中町 (岐阜県)|中村]]・[[伏見町 (岐阜県)|伏見村]](現・御嵩町)、<br />[[錦津村]](現・[[八百津町]])、<br />[[今渡町]]・[[広見町 (岐阜県)|広見村]]・[[平牧村]]・[[久々利村]]・[[土田村 (岐阜県)|土田村]]・[[春里村]]・[[帷子村]]・[[兼山町]](現・[[可児市]])、[[姫治村 (岐阜県)|姫治村]]・(現・可児市・[[多治見市]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[可児郡]](3町11村)
!style="white-space:nowrap;"|[[加茂郡]]<br />(2村)
|[[和知村]](現・[[美濃加茂市]]・八百津町)、<br />[[上米田村]](現・[[川辺町]])
|[[御嵩町]]・[[上之郷村 (岐阜県)|上之郷村]]・[[中町 (岐阜県)|中村]]・[[伏見町 (岐阜県)|伏見村]](現・御嵩町)、[[錦津村]](現・[[八百津町]])、<br />[[今渡町]]・[[広見町 (岐阜県)|広見村]]・[[平牧村]]・[[久々利村]]・[[土田村 (岐阜県)|土田村]]・[[春里村]]・[[帷子村]]・[[兼山町]](現・[[可児市]])、<br />[[姫治村 (岐阜県)|姫治村]]・(現・可児市・[[多治見市]])
|-
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[加茂郡]](2村)
!style="white-space:nowrap;"|[[武儀郡]]<br />(1村)
|[[和知村]](現・[[美濃加茂市]]・八百津町)、[[上米田村]](現・[[川辺町]])
|-
|style="white-space:nowrap;"|[[武儀郡]](1村)
|[[上麻生村]](一部)(現・加茂郡[[七宗町]])
|[[上麻生村]](一部)(現・加茂郡[[七宗町]])
|-
|-
!colspan="3"|(参考)板取川電気供給区域
!colspan="3"|板取川電気 電灯・電力供給区域
|-
|-
!rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|岐阜県<br />(5町26村)
!rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|岐阜県
!style="white-space:nowrap;"|武儀郡<br />(2町15村)
|-
|style="white-space:nowrap;"|武儀郡(2町15村)
|[[美濃町 (岐阜県)|美濃町]]・[[安曽野村]]・[[下牧村]]・[[上牧村]]・[[中有知村]](一部)・[[藍見村]]・[[大矢田村]](現・[[美濃市]])、<br />[[関市|関町]]・[[吉田村 (岐阜県武儀郡)|吉田村]]・[[倉知村]]・[[瀬尻村]]・[[下有知村]]・[[南武芸村]]・[[東武芸村]]・[[洞戸村]]・[[板取村]](現・[[関市]])、<br />[[西武芸村]](現・[[山県市]])
|[[美濃町 (岐阜県)|美濃町]]・[[安曽野村]]・[[下牧村]]・[[上牧村]]・[[中有知村]](一部)・[[藍見村]]・[[大矢田村]](現・[[美濃市]])、<br />[[関市|関町]]・[[吉田村 (岐阜県武儀郡)|吉田村]]・[[倉知村]]・[[瀬尻村]]・[[下有知村]]・[[南武芸村]]・[[東武芸村]]・[[洞戸村]]・[[板取村]](現・[[関市]])、<br />[[西武芸村]](現・[[山県市]])
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|style="white-space:nowrap;"|加茂郡(3町7村)
!style="white-space:nowrap;"|加茂郡<br />(3町7村)
|[[太田町 (岐阜県)|太田町]]・[[古井町|古井村]]・[[下米田村]]・[[加茂野村]](現・美濃加茂市)、<br />[[富田村 (岐阜県加茂郡)|富田村]](現・[[富加町]])、[[富岡村 (岐阜県加茂郡)|富岡村]](現・富加町・関市)、[[田原村 (岐阜県)|田原村]](現・関市)、<br />坂祝村(現・[[坂祝町]])、川辺町、[[下麻生町]](現・川辺町・七宗町)
|[[太田町 (岐阜県)|太田町]]・[[古井町|古井村]]・[[下米田村]]・[[加茂野村]](現・美濃加茂市)、<br />[[富田村 (岐阜県加茂郡)|富田村]](現・[[富加町]])、[[富岡村 (岐阜県加茂郡)|富岡村]](現・富加町・関市)、[[田原村 (岐阜県)|田原村]](現・関市)、<br />坂祝村(現・[[坂祝町]])、<br />川辺町、[[下麻生町]](現・川辺町・七宗町)
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|style="white-space:nowrap;"|山県郡(4村)
!style="white-space:nowrap;"|山県郡<br />(4村)
|[[保戸島村 (岐阜県)|保戸島村]](現・関市)、[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]・[[春近村 (岐阜県山県郡)|春近村]]・[[厳美村 (岐阜県)|厳美村]](現・岐阜市)
|[[保戸島村 (岐阜県)|保戸島村]](現・関市)、<br />[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]・[[春近村 (岐阜県山県郡)|春近村]]・[[厳美村 (岐阜県)|厳美村]](現・岐阜市)
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|}


これらの地域は東邦電力ののち[[1942年]](昭和17年)の[[配電統制令|配電統制]]に伴って[[中部配電]]の供給区域とされ<ref>「配電統制令第三条第二項の規定に依る配電株式会社設立命令に関する公告」『官報』第4413号、1941年9月20日付。{{NDLJP|2960911/17}}</ref><ref name="yoran35">[[#yoran35|『電気事業要覧』第35回]]17・26頁</ref>、さらに[[第二次世界大戦]]後の[[1951年]](昭和26年)からは[[中部電力]]の供給区域になっている<ref name="yoran35"/>。
== 発電所 ==

=== 水力発電所 ===
== 電源の推移 ==
名古屋電灯が運営していた[[発電所]]のうち[[水力発電|水力発電所]]は以下の通り。[[矢作川]]水系・[[豊川]]水系に各2か所、[[木曽川]]水系([[長良川]]水系・[[揖斐川]]水系含む)に12か所の計16か所である。
以下、沿革のうち電源の推移について詳述する。

=== 第一発電所 ===
名古屋電灯最初の発電所は[[火力発電所]]の'''第一発電所'''である。愛知電灯を合併して同社の発電所(第二発電所)を引き継ぐまでは社内唯一の電源で、その当時は「電灯中央局」と称した<ref name="toho-18"/>。場所は[[名古屋市]][[南長島町]]・[[入江町 (名古屋市)|入江町]](現・[[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄二丁目]])で<ref name="chubu1-9"/>、跡地には[[中部電力]]の[[電気文化会館]]が建つ<ref>[[#karyoku|『中部電力火力発電史』]]28頁</ref>。

[[1889年]](明治22年)12月に開業した時点での電灯中央局の設備は、[[アメリカ合衆国|米国]]A・P・ハンプソン製[[ボイラー]]3台、米国アーミングトン・アンド・シムス製[[蒸気機関]]2台、[[ドイツ]][[AEG]]製エジソン型[[直流発電機]](出力25kW)4台であり、[[直流]]250[[ボルト (単位)|ボルト]]にて配電した<ref name="chubu1-17"/>。開業以来の需要増加に対応するため、[[1893年]](明治26年)2月、[[京都電灯]]から譲り受けた設備一式(米国製ボイラー・蒸気機関各1台、[[三吉正一|三吉工場]]製25kWエジソン型発電機2台<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]51頁</ref>)を増設<ref name="chubu1-17"/>。さらに翌[[1894年]](明治27年)7月、[[岡谷鋼機|岡谷商店]]製ボイラー1台・米国製蒸気機関1台とAEG製25kW発電機2台を増設し<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]52-53頁</ref>、[[1895年]](明治28年)12月には[[川崎造船所]]製ボイラー・米国製蒸気機関とAEG製25kW発電機2台を増設している<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]65頁</ref>。

こうして第一発電所は最大で出力250kWの発電所となったが<ref name="chubu2-330">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]330-331頁</ref>、後述の水主町発電所において[[1904年]](明治37年)6月に第2期工事が完成すると発電を休止した<ref name="toho-18"/>。その後は予備発電所として残され、一部が試験室として用いられたが、[[1911年]](明治44年)[[9月27日]]に試験室の失火が原因で全焼した<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]84-85頁</ref>。

=== 第二発電所 ===
[[1896年]](明治29年)5月に愛知電灯の合併によって継承した同社の火力発電所を、名古屋電灯では'''第二発電所'''と称した<ref name="toho-18"/>。所在地は名古屋市下広井町3丁目<ref name="toho-18"/>(現・[[中村区]][[名駅南]]<!--中電名駅南ビルの場所だったはず-->)。

第二発電所の設備は、ボイラー2台、蒸気機関4台、エジソン式直流発電機30kW・25kW各2台、ホプキンソン型600-800灯用[[交流発電機]]1台であった<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]74頁</ref>。特筆すべきは交流発電機の存在で、直流発電機しか導入していなかった名古屋電灯では小規模ながら初めての交流発電機となった<ref name="toho-18"/>。この交流発電機を用いて名古屋電灯では[[熱田町]]方面への長距離送電を試行し、試験結果を受け直流送電の全廃を決定して水主町発電所の建設に取り掛かった<ref name="toho-18"/>。[[1901年]](明治34年)7月、同発電所の運転開始とともに第二発電所は廃止された<ref name="toho-18"/>。

=== 水主町発電所 ===
[[交流]]・高圧送電の採用を目的に建設された火力発電所が'''第三発電所'''で、名古屋市[[水主町 (名古屋市)|水主町3丁目]](現・中村区名駅南、中部電力水主町変電所の位置<ref>[[#karyoku|『中部電力火力発電史』]]29頁</ref>)にて[[1900年]](明治33年)6月に着工、翌年1901年7月22日より運転を開始した<ref name="toho-18"/>。その後1904年6月4日に第2期工事<ref name="toho-18"/>、同年12月27日に第3期工事、[[1906年]](明治39年)12月27日に第4期工事がそれぞれ終了して運転を開始している<ref name="toho-20"/>。この間の1904年7月、第3発電所から'''水主町発電所'''へと改称した<ref name="toho-20"/>。

第1期・第2期工事の際の発電所設備は[[イギリス|英国]]製ボイラー・米国製蒸気機関と米国[[ゼネラル・エレクトリック]] (GE) 製300kW交流発電機(各1台)という組み合わせ<ref name="meiden-81">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]81・85頁</ref>、第3期・第4期工事の際の増設設備は米国[[バブコック・アンド・ウィルコックス]] (B&W) 製ボイラー・米国GE製[[蒸気タービン]]とGE製500kW交流発電機(各1台)という組み合わせであり<ref name="meiden-86">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]86・92頁</ref>、発電所出力は最終的に1,600kWとなった<ref name="chubu2-330"/>。発電機の発生電力は4台とも同じで[[二相交流]]・[[電圧]]2,300ボルト・[[商用電源周波数|周波数]]60[[ヘルツ]]<ref name="meiden-81"/><ref name="meiden-86"/>。

長良川発電所の運転開始に伴い[[1910年]](明治43年)6月14日より運転を休止した<ref name="meiden-125">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]125-127頁</ref>。このため臨時的に水主町発電所から送電する以外は名古屋電灯の電源はすべて水力発電となったが、その後渇水時その他の予備発電所とすることが決まり、[[1913年]](大正2年)5月に発電機が[[三相交流]]発電機に改造された<ref name="meiden-125"/>。しかし旧式化して石炭費が高くつき用水供給も不十分な点があるため、熱田発電所拡張にあわせて撤去が決まり、名古屋電灯は[[1917年]](大正6年)12月22日に廃止許可を得て翌年3月に発電所を撤去した<ref name="meiden-125"/>。

=== 小原発電所 ===
名古屋電灯最初の[[水力発電所]]は'''小原発電所'''といい、元は東海電気(旧・三河電力)が建設したものである<ref name="toho-20"/>。[[矢作川]]の支流田代川を利用する発電所で、1901年3月着工、[[1902年]](明治35年)7月に竣工、9月より瀬戸町(現・[[瀬戸市]])への送電を始めた<ref name="toho-20"/>。所在地は[[愛知県]][[西加茂郡]][[小原村 (愛知県)|小原村]]大字川下<ref name="yoran12-52">[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]52-53頁。{{NDLJP|975005/51}}</ref>(現・[[豊田市]]川下町)。

発電所出力は200kWで<ref name="chubu2-330"/>、設備はペルトン水車会社製[[ペルトン水車]]・[[明電舎]]製100kW交流発電機(三相交流3,450ボルト・周波数60ヘルツ)各2台の組み合わせであった<ref name="meiden-101">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]101-103頁</ref>。[[1914年]](大正3年)8月より瀬戸へも八百津発電所から送電するようになったため発電を休止<ref name="meiden-99">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]99-101頁</ref>。その後の需要増加で一時再稼働するも1917年上期には発電を再停止し、そのまま[[1919年]](大正8年)12月に6万9000円で[[岡崎電灯]]へ売却された<ref name="meiden-99"/>。現・中部電力川下発電所<ref name="chubu2-330"/>({{ウィキ座標|35|12|5.3|N|137|17|56.8|E|region:JP|name=川下発電所|地図}})。

=== 巴川発電所 ===
小原発電所に続く水力発電所である'''巴川発電所'''は、東海電気が着工して名古屋電灯が工事を引き継いだもので、[[1908年]](明治41年)2月11日に運転を開始した<ref name="toho-20"/>。矢作川の支流[[巴川 (矢作川水系)|巴川]]を利用する発電所で<ref name="toho-20"/>、所在地は愛知県[[東加茂郡]][[盛岡村]]大字戸中<ref name="yoran12-52"/>(現・豊田市戸中町)。

発電所出力は750kW<ref name="chubu2-330"/>。設備は[[エッシャーウイス]]製[[フランシス水車]]と[[東芝|芝浦製作所]]製750kW三相交流発電機(電圧3,300ボルト・周波数60ヘルツ)各1台の組み合わせで、11キロボルト (kV) への昇圧用[[変圧器]]も設置する<ref name="meiden-257">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]257-258頁</ref>。発生電力は初め[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[千種町 (愛知県)|千種町]](現・名古屋市[[千種区]])の千種変電所へと送電したが<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]114-116頁</ref>、1913年12月1日より出力全部を[[日英水電]]へと供給するようになった<ref name="meiden-186"/>。その後関西電気成立時点では、途中で熱田発電所と連絡しつつ22kV送電線にて[[知多半島]]方面へと送電していた<ref name="tech-5">[[#tohotech|『東邦電力技術史』]]5-7頁</ref>。

=== 長良川発電所 ===
[[ファイル:発電機.JPG|thumb|長良川発電所前に保存されている名古屋電灯時代からの水車・発電機(1981年まで使用)]]

{{Main|[[長良川発電所]]}}

大型水力発電所のうち名古屋電灯が着工し完成させたのが'''[[長良川発電所]]'''である<ref name="chubu1-67"/>。[[長良川]]を利用する発電所で、所在地は[[岐阜県]][[武儀郡]][[洲原村]]立花<ref name="yoran12-52"/>(現・[[美濃市]]立花)。発電所出力は4,200kW<ref name="chubu2-334">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]334-338・345-346頁</ref>。

設備は[[フォイト]]製フランシス水車と[[シーメンス]]製2,500kW三相交流発電機(電圧2,300ボルト・周波数60ヘルツ)各2台の組み合わせで、33kVへの昇圧用変圧器も備える<ref name="meiden-257"/>。1910年3月15日、水車・発電機各2台(1・2号機)の竣工に伴って発電所は運転を開始した<ref name="meiden-112">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]112-113頁</ref>。さらに同年4月27日に3号機も竣工して水車・発電機は3台となり、3台中1台を予備として運用する体制となったが、2号機は[[1918年]](大正7年)2月になって取り外され、矢作川の臨時建設部串原仮発電所へと転用された<ref name="meiden-112"/>。

長良川発電所からの送電を受ける名古屋方面の変電所は児玉変電所といい、愛知県[[西春日井郡]][[金城村]]大字児玉(現・名古屋市[[西区 (名古屋市)|西区]])に発電所とともに設置された<ref name="meiden-112"/>。長良川発電所から児玉変電所までは33kV送電線にて送電されたほか<ref name="tech-3">[[#tohotech|『東邦電力技術史』]]3-4頁</ref>、関西電気成立時点ではこの長良川送電線から分岐して[[岐阜市|岐阜]]へ至る33kV線と[[北里村 (愛知県)|小木]]・[[一宮市|一宮]]へ至る33kV線が存在していた<ref>[[#tohotech|『東邦電力技術史』]]53-55頁</ref>。

=== 八百津発電所 ===
[[ファイル:Yaotsu Old Power Plant Museum 2.jpg|thumb|旧八百津発電所建屋(手前は旧放水口発電所)]]

{{Main|[[八百津発電所]]}}

大型水力発電所のうち名古屋電灯ではなく名古屋電力が着工したのが'''[[八百津発電所]]'''である<ref name="chubu1-63"/>。[[木曽川]]を利用する発電所で、所在地は岐阜県[[加茂郡]][[八百津町]]字諸田<ref name="yoran12-52"/>。発電所名は1917年6月1日に改称するまでは河川名をとって「木曽川発電所」と称した<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]186頁</ref>。発電所出力は7,500kW<ref name="chubu2-334"/>。

設備はモルガン・スミス製水車とGE製2,500kW三相交流発電機(電圧6,600ボルト・周波数60ヘルツ)各4台の組み合わせで、66kVへの昇圧用変圧器も備える<ref name="meiden-257"/>。水車・発電機2台の完成に伴い1911年12月10日より運転を開始し、残りも翌年7月までに完成した<ref name="meiden-183">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]183-185頁</ref>。八百津発電所の電力を受ける名古屋方面の変電所は萩野変電所(西春日井郡[[萩野村 (愛知県)|萩野村]][[安井 (名古屋市)|大字安井]]=現・名古屋市[[北区 (名古屋市)|北区]])と南武平町変電所(名古屋市[[南武平町]])の2か所で、発電所と同時に建設<ref name="meiden-183"/>。八百津変電所から萩野変電所までを66kV送電線でつなぎ<ref name="tech-3"/>、萩野変電所で降圧した上で市内配電をつかさどる南武平町変電所へ送電した<ref name="meiden-183"/>。

八百津発電所は古い時代の設計に基いて洪水時の水位上昇に配慮し放水口を過度に高い位置に置いたため、洪水時以外はその分の落差を利用していなかった<ref name="jps">[[#jps|『日本の発電所』中部日本篇]]535-540頁。{{NDLJP|1257061/207}}</ref>。このため残留落差を利用した小発電所(放水口発電所)を増設することとなり<ref name="jps"/>、1917年5月25日に竣工させた<ref name="meiden-233">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]233頁</ref>。発電所出力は1,200kW<ref name="chubu2-334"/>。水車・発電機は[[日立製作所]]製で、4台1組のフランシス水車で1台の発電機を駆動<ref name="jps"/>。発生電力は八百津発電所へ送られた<ref name="jps"/>。

関西電気発足時点では、八百津発電所の発生電力は66kV送電線にて萩野変電所と同所から先[[三重県]]北部の[[富田 (四日市市)|富田]]変電所にも送電された<ref name="tech-5"/>。また長良川発電所の系統との連絡用に萩野・児玉両変電所をつなぐ11kV線が存在していた<ref name="tech-5"/>。

なお八百津発電所の工事用発電所として名古屋電力が設置した旅足川(たびそこがわ)発電所があった<ref name="meiden-176">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]176-177頁</ref>。同発電所[[1907年]](明治40年)11月に使用認可<ref name="meiden-176"/>。木曽川支流の旅足川にあり、設備としては水車・75kW発電機各1台があった<ref name="meiden-176"/>。地元八百津町の希望があったため、名古屋電灯は工事終了後の[[1912年]](明治45年)4月5日に水利権もあわせて2500円で町へ売却した<ref name="meiden-176"/>。八百津町は同発電所を元に以後町営電気事業を経営している<ref name="meiden-176"/>。

=== 熱田発電所 ===
{{Main|[[熱田発電所]]}}

老朽化した水主町発電所にかわる渇水時に備えた予備火力発電所として新設されたのが'''熱田発電所'''である<ref name="karyoku-68">[[#karyoku|『中部電力火力発電史』]]68頁</ref>。名古屋市南区熱田東町(現・[[熱田区]])の土地を買収し、1914年6月に設置認可を得て直ちに着工、翌[[1915年]](大正4年)[[9月25日]]に竣工させた<ref name="toho-44">[[#toho|『東邦電力史』]]44-45・607頁</ref>。

主要設備はB&W製ボイラー5台、GE製または[[三菱造船所]]製蒸気タービン・発電機各3台(GE製2台・三菱製1台)<ref name="yoran18-312">[[#yoran18|『電気事業要覧』第18回]]312-315頁。{{NDLJP|1076898/183}}</ref>。運転開始当初は3,000kW発電機1台にて運転<ref name="karyoku-68"/>。その後第一次世界大戦中の需要増加に対処するために増設が重ねられ<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]36頁</ref>、1917年11月に第2期工事として4,000kW発電機1台、1918年6月に第3期工事として3,000kW発電機1台が竣工し、出力10,000kW(常用7,000kW・予備3,000kW<ref name="toho-44"/>)の発電所となった<ref name="karyoku-68"/>。

=== 大同電力からの受電 ===
[[ファイル:Kushihara power station.jpg|thumb|串原発電所]]

1918年4月、名古屋電灯臨時建設部が工事を進めていた串原仮発電所(出力2,000kW)が竣工した<ref name="daido-73"/>。この発電所は、[[矢作川]]での[[木曽電気製鉄#串原発電所|串原発電所]]中、大戦景気による需要急増に伴い設備納入を待つ余裕がなくなったため長良川発電所の予備設備一式を転用して急設された仮設発電所である<ref name="daido-119">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]119-121頁</ref>。名古屋への送電設備として[[六郷村 (愛知県)|六郷村]](現・名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]])に六郷変電所を、発電所から六郷変電所へ77kV送電線を架設し、どちらも同年6月に竣工させた<ref name="daido-138">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]138-140・143-145頁</ref>。同年9月、前述の通り臨時建設部は名古屋電灯から分離されて[[木曽電気製鉄]](後の[[大同電力]])となった<ref name="daido-73"/>。

翌1919年7月、木曽川の[[木曽電気製鉄#賤母発電所|賤母発電所]]が一部竣工し出力4,200kWで運転を始め、同年11月には全面竣工して出力1万2,600kWにより運転開始した<ref name="daido-93">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]93-96頁</ref>。一部運転開始と同時に先の串原・六郷間77kV送電線の途中に接続する送電線が架設されており、発生電力は六郷変電所へと送電された<ref name="daido-138"/>。さらに1921年8月には上流側にて[[木曽電気製鉄#大桑発電所他|大桑発電所]](出力11,000kW)が運転を開始<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]96-98頁</ref>。同時に賤母・六郷間送電線との連絡線も設けられた<ref name="daido-138"/>。

矢作川の串原発電所(出力6,000kW)は1921年2月に完成し仮発電所は廃止された<ref name="daido-119"/>。本発電所建設を機に、木曽川の系統とは別経路で名古屋方面へと輸送する送電線が整備され、呼続町(現・[[昭和区]])に瑞穂変電所が新設されている<ref name="daido-138"/>。


=== 発電所一覧 ===
自社で竣工させた発電所は長良川発電所・八百津発電所など計4か所に過ぎず、他の電気事業者を合併して取得したものの方が多い。東海電気(1907年)および名古屋電力(1910年)の合併により1か所ずつ、[[岐阜電気]]の合併(1921年)により3か所、[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]の合併(同上)により2か所、[[尾北電気]]・[[板取川電気]]・美濃電化肥料の合併(同上)により計5か所をそれぞれ継承している。
最後に、名古屋電灯が運転した発電所のうち関西電気(東邦電力)へと継承されたものを一覧表として纏めた。表には合併した各社から引き継いだものも含まれる。


{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;"
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
|-
|-
!colspan="8"|[[矢作川]]水系
!colspan="6"|[[愛知県]]所在
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|-
!発電所名
!発電所名!!所在地<ref>[[#yoran18|『電気事業要覧』第18回]]、pp.252,254,256<!--コマ番号153-155--></ref>!!取水河川<ref>[[#yoran14|『電気事業要覧』第14回]]、pp.74-77,80-81<!--コマ番号64-65,67--></ref>!!出力<ref name="chubu11">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]、pp.330-331,335-336,345</ref>!!運転開始年月<ref name="chubu11"/>!!前所有者<ref name="chubu11"/>!!備考!!現在名<br />(廃止年月)
!種別
!出力<ref name="chubu2-330"/><br />([[キロワット|kW]])
!所在地<ref name="yoran18-252">[[#yoran18|『電気事業要覧』第18回]]252-253・312-315頁。{{NDLJP|1076898/153}}・{{NDLJP|1076898/183}}</ref>
!運転開始<ref name="chubu2-330"/>
!備考
|-
|-
!巴川
|小原発電所||愛知県[[西加茂郡]][[小原村 (愛知県)|小原村]]<br />(現・[[豊田市]])||田代川<br />(矢作川支流)||200kW||[[1902年]]9月||東海電気||[[1919年]]12月[[岡崎電灯]]に譲渡<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]、p.389</ref>||[[中部電力]]川下発電所<ref name="chubu13">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]、p.353</ref>({{ウィキ座標|35|12|5.3|N|137|17|57.1|E||地図}})
|水力
|750
|[[東加茂郡]][[盛岡村]](現・[[豊田市]])<br />(河川名:[[矢作川]]水系[[巴川 (矢作川水系)|巴川]])
|1908年2月
|現・中電盛岡発電所({{ウィキ座標|35|6|19.4|N|137|19|7.9|E|region:JP|name=盛岡発電所|地図}})
|-
|-
![[豊橋電気 (1894-1921)#布里発電所|布里]]
|巴川発電所||愛知県[[東加茂郡]][[盛岡村]]<br />(現・豊田市)||[[巴川 (矢作川水系)|巴川]]<br />(矢作川支流)||750kW||[[1908年]]2月||(なし)||東海電気が着工<ref>[[#nagoya|『新修名古屋市史』第五巻]]、p.495</ref>||中部電力盛岡発電所<ref name="chubu13"/>({{ウィキ座標|35|6|19.4|N|137|19|7.9|E||地図}})
|水力
|500
|[[南設楽郡]][[鳳来寺村]](現・[[新城市]])<br />(河川名:[[豊川]])
|(1919年7月)
|前所有者:[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]<ref name="chubu2-330"/><br />現・中電布里発電所({{ウィキ座標|34|58|50.8|N|137|32|8.9|E|region:JP|name=布里発電所|地図}})
|-
|-
![[豊橋電気 (1894-1921)#長篠発電所|長篠]]
!colspan="8"|[[豊川]]水系
|水力
|750
|南設楽郡[[長篠村]](現・新城市)<br />(河川名:豊川)
|(1912年3月)
|前所有者:豊橋電気<ref name="chubu2-330"/><br />現・中電長篠発電所({{ウィキ座標|34|56|23.2|N|137|32|59.0|E|region:JP|name=長篠発電所|地図}})
|-
|-
!熱田
|長篠発電所||愛知県[[南設楽郡]][[長篠村]]<br />(現・[[新城市]])||豊川(寒狭川)||750kW||[[1912年]]3月||[[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]||||中部電力長篠発電所<ref name="chubu13"/>({{ウィキ座標|34|56|23.2|N|137|32|59.0|E||地図}})
|火力
|10,000
|[[名古屋市]][[南区 (名古屋市)|南区]]熱田東町(現・[[熱田区]])
|1915年9月
|1944年3月廃止<ref name="chubu2-330"/>
|-
|-
!colspan="6"|[[岐阜県]]所在
|布里発電所||愛知県南設楽郡[[鳳来寺村]]<br />(現・新城市)||豊川(寒狭川)||500kW||1919年7月||豊橋電気||||中部電力布里発電所<ref name="chubu13"/>({{ウィキ座標|34|58|50.8|N|137|32|8.9|E||地図}})
|-
|-
!発電所名
!colspan="8"|[[木曽川]]水系
!種別
!出力<ref name="chubu2-334"/><br />(kW)
!所在地<ref name="yoran18-252"/>
!運転開始<ref name="chubu2-334"/>
!備考
|-
|-
!八百津
|旅足川発電所||[[岐阜県]][[加茂郡]][[八百津町]]||旅足川<br />(木曽川支流)||75kW||[[1907年]]11月||名古屋電力||[[1912年]]4月八百津町に譲渡<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』下編]]、p.388</ref>||([[1928年]]8月廃止<ref name="chubu11"/>)
|水力
|7,500<br />放1,200
|[[加茂郡]][[八百津町]]<br />(河川名:[[木曽川]])
|1911年12月
|1917年5月放水口発電所増設<ref name="chubu2-334"/><br />1974年11月廃止<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]945頁</ref>
|-
|-
!美佐野
|木曽川発電所<br />→八百津発電所||岐阜県加茂郡八百津町||木曽川||10,000kW||[[1911年]]11月||(なし)||名古屋電力が着工<br />1917年5月八百津に改称<ref name="chubu11"/>||rowspan="2"|[[関西電力]]八百津発電所({{ウィキ座標|35|28|20.7|N|137|9|41.0|E||地図}})<br />([[1974年]]11月廃止<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]、p.945</ref>)
|水力
|60
|[[可児郡]][[上之郷村 (岐阜県)|上之郷村]](現・[[御嵩町]])<br />(河川名:木曽川水系[[可児川]])
|(1913年4月)
|前所有者:[[尾北電気]]<ref name="chubu2-334"/><br />1935年7月廃止許可<ref>[[#nenkan1936|『電気年鑑』昭和11年版]]106頁。{{NDLJP|1114969/74}}</ref>
|-
|-
!神淵川
|八百津放水口発電所||岐阜県加茂郡八百津町||木曽川||800kW||[[1917年]]5月||(なし)||
|水力
|160
|[[武儀郡]][[上麻生村]](現・[[七宗町]])<br />(河川名:木曽川水系[[神淵川]])
|(1920年8月)
|前所有者:尾北電気<ref name="chubu2-334"/><br />1969年3月廃止<ref name="chubu2-334"/>
|-
|-
![[長良川発電所|長良川]]
|美佐野発電所||岐阜県[[可児郡]][[上之郷村 (岐阜県)|上之郷村]]<br />(現・[[御嵩町]])||[[可児川]]<br />(木曽川支流)||60kW||[[1913年]]4月||[[尾北電気]]||||(廃止年月不詳<ref name="chubu11"/>)
|水力
|4,200
|武儀郡[[洲原村]](現・[[美濃市]])<br />(河川名:木曽川水系[[長良川]])
|1910年3月
|現・中電長良川発電所({{ウィキ座標|35|34|23.8|N|136|55|45.8|E|region:JP|name=長良川発電所|地図}})
|-
|-
!抜戸
|神淵川発電所||岐阜県[[武儀郡]][[上麻生村]]<br />(現・加茂郡[[七宗町]])||[[神淵川]]<br />(木曽川支流)||160kW||[[1920年]]8月||尾北電気||||中部電力神淵川発電所<br />([[1969年]]3月廃止)<ref name="chubu12">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]、pp.348-349</ref>
|水力
|113
|武儀郡[[安曽野村]](現・美濃市)<br />(河川名:木曽川水系[[板取川]])
|(1910年12月)
|前所有者:[[板取川電気]]<ref name="chubu2-334"/><br />1935年6月廃止<ref name="chubu2-334"/>
|-
|-
!井ノ面
|[[長良川発電所]]||岐阜県武儀郡[[洲原村]]<br />(現・[[美濃市]])||[[長良川]]||4,200kW||[[1910年]]3月||(なし)||||中部電力長良川発電所<ref name="chubu12"/>({{ウィキ座標|35|34|23.8|N|136|55|45.8|E||地図}})
|水力
|300
|武儀郡安曽野村(現・美濃市)<br />(河川名:木曽川水系板取川)
|(1914年1月)
|前所有者:板取川電気<ref name="chubu2-334"/><br />現・中電井ノ面発電所({{ウィキ座標|35|33|36.2|N|136|54|42.4|E|region:JP|name=井ノ面発電所|地図}})
|-
|-
!白谷
|安毛発電所<br />→抜戸発電所||岐阜県武儀郡[[安曽野村]]<br />(現・美濃市)||[[板取川]]<br />(長良川支流)||113kW||1910年12月||[[板取川電気]]||1921年8月抜戸に改称<ref name="chubu11"/>||([[1935年]]6月廃止<ref name="chubu11"/>)
|水力
|1,235
|武儀郡[[板取村]](現・[[関市]])<br />(河川名:木曽川水系板取川)
|(1919年10月)
|前所有者:美濃電化肥料<ref name="chubu2-334"/><br />現・中電白谷発電所({{ウィキ座標|35|39|41.0|N|136|49|7.4|E|region:JP|name=白谷発電所|地図}})
|-
|-
![[岐阜電気#小宮神発電所|小宮神]]
|井の面発電所||岐阜県武儀郡安曽野村<br />(現・美濃市)||板取川||300kW||[[1914年]]1月||板取川電気||||中部電力井の面発電所<ref name="chubu12"/>({{ウィキ座標|35|33|36.2|N|136|54|42.4|E||地図}})
|水力
|350
|[[揖斐郡]][[春日村 (岐阜県)|春日村]](現・[[揖斐川町]])<br />(河川名:木曽川水系[[粕川 (岐阜県)|粕川]])
|(1908年12月)
|前所有者:[[岐阜電気]]<ref name="chubu2-334"/><br />現・中電小宮神発電所({{ウィキ座標|35|27|59.0|N|136|27|44.2|E|region:JP|name=小宮神発電所|地図}})
|-
|-
![[岐阜電気#河合発電所|河合]]
|白谷発電所||岐阜県武儀郡[[板取村]]<br />(現・[[関市]])||板取川||1,235kW||[[1919年]]10月||美濃電化肥料||||中部電力白谷発電所<ref name="chubu12"/>({{ウィキ座標|35|39|41.0|N|136|49|7.4|E||地図}})
|水力
|800
|揖斐郡春日村(現・揖斐川町)<br />(河川名:木曽川水系粕川)
|(1913年5月)
|前所有者:岐阜電気<ref name="chubu2-334"/><br />現・中電河合発電所({{ウィキ座標|35|28|4.3|N|136|27|27.7|E|region:JP|name=河合発電所|地図}})
|-
|-
![[岐阜電気#春日発電所|春日]]
|小宮神発電所||岐阜県[[揖斐郡]][[春日村 (岐阜県)|春日村]]<br />(現・[[揖斐川町]])||[[粕川 (岐阜県)|粕川]]<br />([[揖斐川]]支流)||350kW||1908年12月||[[岐阜電気]]||||中部電力小宮神発電所<ref name="chubu12"/>({{ウィキ座標|35|27|59.0|N|136|27|44.2|E||地図}})
|水力
|-
|1,800
|河合発電所||岐阜県揖斐郡春日村<br />(現・揖斐川町)||粕川||800kW||[[1913年]]5月||岐阜電気||||中部電力河合発電所<ref name="chubu12"/>({{ウィキ座標|35|28|4.3|N|136|27|27.7|E||地図}})
|揖斐郡春日村(現・揖斐川町)<br />(河川名:木曽川水系粕川)
|-
|(1920年1月)
|春日発電所||岐阜県揖斐郡春日村<br />(現・揖斐川町)||粕川||1,800kW||1920年1月||岐阜電気||||中部電力春日発電所<ref name="chubu12"/>({{ウィキ座標|35|28|15.9|N|136|29|58.2|E||地図}})
|前所有者:岐阜電気<ref name="chubu2-334"/><br />現・中電春日発電所({{ウィキ座標|35|28|15.9|N|136|29|58.2|E|region:JP|name=春日発電所|地図}})
|}
|}


これらの発電所のうち、東邦電力時代に廃止されたものを除いて第二次世界大戦中の電力国家管理期は原則[[中部配電]]に帰属したが、八百津発電所(放水口発電所を含む)のみ[[日本発送電]]へ引き継がれた<ref name="chubu2-330"/><ref name="chubu2-334"/>。さらに戦後[[1951年]](昭和26年)の電気事業再編成では中部配電の発電所は[[中部電力]](中電)に継承されたが、八百津発電所は日本発送電から[[関西電力]](関電)へと渡っている<ref name="chubu2-330"/><ref name="chubu2-334"/>。
=== 火力発電所 ===
名古屋電灯が運転していた[[火力発電|火力発電所]]は以下の4か所である。熱田発電所を除いて、名古屋電灯時代に廃止されている。


== 附帯事業の推移 ==
; 電灯中央局
名古屋電灯は電気供給事業以外にも電気機器の製造も手がけていた。創業時期は不明だが、[[逓信省]]の資料『電気事業要覧』記載の1918年時点における電機工場一覧には名古屋電灯の名がある<ref>[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]680頁。{{NDLJP|975005/375}}</ref>。工場(「工作所」と称す)の所在地は名古屋市中区下広井町3丁目(現・[[中村区]]名駅南)、生産品目は[[変圧器]]・[[扇風機]]などであった<ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]422頁。{{NDLJP|975006/241}}</ref>。
: 名古屋電灯の第1発電所。[[1889年]](明治22年)12月運転開始。出力は当初100キロワットであったが[[1895年]](明治28年)12月に250キロワットに増強。[[1911年]](明治44年)9月廃止<ref name="chubu11"/>。
; 下広井発電所
: 名古屋電灯の第2発電所で、[[1894年]](明治27年)11月に愛知電灯の手により運転開始。[[1901年]](明治34年)7月廃止。出力は140キロワット<ref name="chubu11"/>。
; 水主町発電所
: 名古屋電灯の第3発電所。1901年7月運転開始。出力は当初300キロワットであったが徐々に増強され[[1906年]](明治39年)12月には1,600キロワットとなった。[[1918年]](大正7年)3月廃止<ref name="chubu11"/>。
; 熱田発電所
: [[1915年]](大正4年)9月運転開始。当初の出力は3,000キロワットで、[[1917年]](大正6年)11月に6,500キロワット、次いで1918年6月に10,000キロワットに増強された。[[1944年]](昭和19年)3月廃止<ref name="chubu11"/>。


工作所は関西電気成立後、東邦電力と改称した1922年6月26日付で株式会社東邦電機工作所へと分離された<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]96-97頁</ref>。しかし同社は[[昭和恐慌]]下の事業整理で[[1930年]](昭和5年)2月に解散している<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]454頁</ref>。
== 役員 ==
歴代の会長および社長は以下の通り<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]、p.357</ref>。


== 年表 ==
* [[会長]]
* [[1887年]](明治20年)
** 1. 小塚逸夫 - [[1896年]]5月就任、[[1898年]]1月退任。
** [[9月20日]] - '''名古屋電灯会社'''創立総会<ref name="toho-8"/>。
** 2. 宮地茂助 - 1898年1月就任、同年12月退任。
** [[9月22日]] - 発起人に対し会社設立許可<ref name="chubu1-9"/>。
* [[社長]]
* [[1889年]](明治22年)
** 1. [[三浦恵民]] - [[1888年]]8月就任、[[1891年]]1月[[専務取締役]]([[1907年]]1月まで)へ異動。
** [[12月15日]] - 開業<ref name="chubu1-17"/>。
** 2. [[加藤重三郎]] - [[1911年]]7月就任、[[1913年]]12月退任
* [[1890年]](明治23年)
** 3. [[福澤桃介]] - [[1914年]]12月就任、1921年10月退任(関西電気に合併)。
** [[7月14日]] - '''名古屋電灯株式会社'''へ社名変更<ref name="toho-15"/>。
* [[副社長]]
* [[1891年]](明治24年)
** 1. [[下出民義]] - [[1918年]]2月就任、1921年10月退任(関西電気に合併)。
** [[10月28日]] - [[濃尾地震]]で被災し、2か月間送電停止<ref name="chubu1-17"/>。
* [[1894年]](明治27年)
** [[11月20日]] - 競合会社の愛知電灯(同年3月設立)が開業<ref name="toho-18"/>。
* [[1896年]](明治29年)
** [[5月13日]] - 愛知電灯を合併<ref name="toho-18"/>。
* [[1901年]](明治34年)
** [[7月22日]] - [[#水主町発電所|水主町発電所]]運転開始<ref name="toho-18"/>。
* [[1904年]](明治37年)
** 1月 - 三河電力(1901年3月設立、後の東海電気)が名古屋市内への供給を開始<ref name="chubu1-61"/>。
* [[1907年]](明治40年)
** [[6月1日]] - 東海電気を合併<ref name="toho-20"/>。
* [[1908年]](明治41年)
** [[2月11日]] - [[#巴川発電所|巴川発電所]]運転開始<ref name="toho-20"/>。
* [[1910年]](明治43年)
** [[3月15日]] - [[#長良川発電所|長良川発電所]]運転開始<ref name="meiden-112"/>。
** 10月28日 - 名古屋電力(未開業・1906年10月設立)を合併<ref name="chubu1-74"/>。
* [[1911年]](明治44年)
** [[12月10日]] - [[#八百津発電所|八百津発電所]]運転開始<ref name="meiden-183"/>。
* [[1914年]](大正3年)
** [[12月1日]] - [[福澤桃介]]が社長就任<ref name="meiden-235"/>。
* [[1915年]](大正4年)
** [[9月25日]] - [[#熱田発電所|熱田発電所]]竣工<ref name="toho-44"/>。
** 10月 - [[フェロアロイ|合金鉄]]・[[特殊鋼]]の生産を目指し社内に製鋼部を設置<ref name="steel-42"/>。
* [[1916年]](大正5年)
** [[8月19日]] - 製鋼部を独立させ株式会社電気製鋼所(後の[[木曽川電力]])を設立<ref name="steel-42"/>。
* [[1917年]](大正6年)
** [[5月25日]] - 八百津放水口発電所竣工<ref name="meiden-233"/>。
** 6月 - 電気による[[銑鉄]]生産を目指し社内に製鉄部を設置<ref name="steel-66"/>。
* [[1918年]](大正7年)
** [[9月8日]] - 製鉄部と臨時建設部(水力開発部門)を独立させ[[木曽電気製鉄|木曽電気製鉄株式会社]](後の[[大同電力]])を設立<ref name="steel-66"/>。
* [[1920年]](大正9年)
** 5月 - [[一宮電気]]を合併<ref name="toho-39"/>。
* [[1921年]](大正10年)
** 2月 - [[岐阜電気]]を合併<ref name="toho-39"/>。
** [[3月31日]] - [[関西水力電気]]との間に合併契約締結<ref name="toho-82"/>。
** 4月 - [[豊橋電気 (1894-1921)|豊橋電気]]を合併<ref name="toho-39"/>。
** 8月 - [[板取川電気|板取川電気・尾北電気・美濃電化肥料]]を合併<ref name="toho-39"/>。
** [[10月28日]] - 名古屋電灯は関西水力電気に合併され'''解散'''。関西水力電気は名古屋へ移転し'''関西電気株式会社'''へ改称<ref name="toho-82"/>。
** 12月23日 - 関西電気社長福澤桃介辞任、後任に[[伊丹弥太郎]]就任<ref name="toho-86"/>。
* [[1922年]](大正11年)
** [[5月31日]] - 関西電気、[[九州電灯鉄道]]を合併<ref name="toho-93"/>。
** [[6月26日]] - 関西電気、'''[[東邦電力|東邦電力株式会社]]'''へ社名変更<ref name="toho-103"/>。

== 本社・営業所・出張所所在地 ==
1921年1月時点における本社および営業所・出張所の所在地は以下の通り<ref>[[#kaisha29|『日本全国諸会社役員録』第29回]]下編149頁、{{NDLJP|936470/541}}</ref>。
* 本社 : [[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|新柳町六丁目]]
* 中区営業所 : 名古屋市中区[[門前町 (名古屋市)|門前町]]
* 東区営業所 : 名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]][[鍋屋町 (名古屋市)|鍋屋町]]
* 西区営業所 : 名古屋市[[西区 (名古屋市)|西区]]奉公人町
* 南区営業所 : 名古屋市[[熱田区|南区]][[神戸町 (名古屋市)|熱田神戸町]]
* 一宮営業所 : [[愛知県]][[中島郡]][[一宮市|一宮町]]
* 瀬戸営業所 : 愛知県[[東春日井郡]][[瀬戸市|瀬戸町]]
* 小牧営業所 : 愛知県東春日井郡[[小牧市|小牧町]]
* 東京出張所 : [[東京市]][[麹町区]][[丸の内|永楽町]]([[東京海上日動ビルディング|東京海上ビル]])

本社ははじめ名古屋市南長島町にあり(1888年11月設置)、第一発電所と同一敷地内にあった<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]22・24頁</ref>。その後発電の主力が水主町三丁目の水主町発電所に移ったことから同発電所構内に本社社屋を新築し1904年7月移転する<ref>[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]84-85頁</ref>。さらに水主町発電所が廃止されると再び市街地へ本社を移すことになり、1911年6月旧名古屋電力本社([[南武平町|南武平町3丁目]])へ仮移転の後、翌1912年5月新柳町に新本社を新築した<ref name="meiden-187">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]187-189頁</ref>。本社本館は木造4階建てで、水主町の旧社屋も同時に移転して別館とし、追って南武平町の社屋も移築の上別館とされた<ref name="meiden-187"/>。

旧名古屋電灯本社は東邦電力発足により同社名古屋支店となった<ref name="shiryaku">[[#shiryaku|『中部電力史略』]]6-7頁</ref>。支店が[[西松枝町]]へ移転した後、建物は[[1929年]](昭和4年)1月より「電気普及館」(後に「電気百貨店」と改称)として活用されたが、[[1945年]](昭和20年)3月の[[名古屋大空襲|空襲]]で焼失している<ref name="shiryaku"/>。跡地は[[電気文化会館]](第一発電所跡)の[[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]側[[公開空地]]付近にあたる<ref>[[#karyoku|『中部電力火力発電史』]]30頁</ref>。

== 歴代役員一覧 ==
歴代[[社長]]は以下の通りである<ref name="meiden-235">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]235-237頁</ref>。

# [[三浦恵民]] : 1888年8月 - 1891年1月
#: この間専務制
## 三浦恵民 : 1891年1月 - 1907年1月
# [[加藤重三郎]] : 1911年7月 - 1913年12月
# [[福澤桃介]] : 1914年12月 - 1921年10月

また歴代の常務取締役・副社長は以下の通り<ref name="meiden-235"/>。
* 三浦恵民 : 1907年1月 - 1912年6月
* 佐治儀助 : 1910年1月 - 同年6月
* 福澤桃介 : 1910年6月 - 同年11月、1913年1月 - 1914年12月
* [[兼松煕]] : 1910年11月 - 1912年6月
* [[下出民義]] : 1914年12月 - 1918年2月副社長就任(1921年10月まで)
* [[角田正喬]] : 1919年10月 - 1921年10月
* [[神谷卓男]] : 1919年10月 - 1921年10月

歴代役員のうち、上記社長・副社長・専務・常務経験者以外の主な人物は以下の通り<ref name="meiden-235"/>。
* [[上遠野富之助]](取締役・監査役)
* [[藍川清成]](取締役・監査役)
* [[伊藤由太郎]](取締役)
* [[斎藤恒三]](取締役)
* [[富田重助]](取締役)
* [[草郷清四郎]](取締役)
* [[後藤幸三]](取締役・監査役)
* [[下郷久成|下郷伝平]](取締役・監査役)
* [[鈴木善六]](監査役)
* [[磯貝浩]](監査役)
* [[神野金之助 (初代)|神野金之助]](監査役)
* 桂二郎(監査役、[[桂太郎]]弟)

== 社史 ==
* 『名古屋電燈株式會社史』 - 稿本。1928年4月、東邦電力社内の「名古屋電燈株式會社史」編纂員によって纏められる。1913年ごろまでの名古屋電灯の歴史を記すが未完で、出版もされなかったが、名古屋電灯開業100年・中部電力能力開発センター設立20周年を記念して1989年6月同所より復刻刊行された。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 企業史
* {{Cite journal|和書|author=浅野伸一|title=中部の電力発達史|journal=シンポジウム中部の電力のあゆみ|volume=第1回講演報告資料集(中部地方の電力技術史)|publisher=中部産業遺産研究会|year=1993|pages=32-69|ref=ayumi}}
* {{Cite book|和書|author=関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)|title=関西地方電気事業百年史|publisher=関西地方電気事業百年史編纂委員会|year=1987|ref=kansai}}
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* その他文献(戦後)
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** {{Cite book|和書|author=[[日本経済新聞社]](編)|title=[[私の履歴書]] |volume=第21集 |publisher=日本経済新聞社 |year=1964 |ref=matsunaga }}
* 記事
** {{Cite journal|和書|author=浅野伸一 |title=水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化:福沢桃介の電力需要創出事業を中心に |journal=歴史学研究 |number=897 |publisher=歴史学研究会 |date=2012-10 |pages=18-32 |ref=asano1210 }}
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2018年2月27日 (火) 15:01時点における版

名古屋電灯株式会社
名古屋電灯が建設した長良川発電所旧建屋
種類 株式会社
略称 名電、名電灯
本社所在地 日本の旗 日本
名古屋市中区新柳町6丁目4番地
設立 1887年(明治20年)9月20日
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 福澤桃介(社長)
下出民義(副社長)
資本金 3375万円
(うち2100万円払込)
株式数 67万5000株(額面50円)
総資産 4423万8千円
収入 420万6千円
支出 237万8千円
純利益 182万7千円
配当率 年率14.0%
決算期 5月末・11月末(年2回)

名古屋電灯株式会社名古屋電燈株式會社、なごやでんとう かぶしきがいしゃ)は、明治から大正にかけて存在した日本の電力会社である。愛知県名古屋市に本社を置き、中京地方で事業を展開した。戦前期の大手電力会社のうち東邦電力の前身および大同電力の母体にあたる。

1889年(明治22年)に日本で5番目の電気事業者として開業。当初は小規模な発電所によって市内へ配電するだけであったが、明治末期以降長良川木曽川に大型発電所を建設して大規模化した。1920年代より周辺事業者の合併を活発化し、1921年(大正10年)に奈良県関西水力電気と合併して関西電気となり、翌年九州電灯鉄道と合併して中京・関西九州にまたがる電力会社東邦電力へと発展した。

東邦電力となる前の1918年(大正7年)、名古屋電灯は水力開発部門を独立させ木曽電気製鉄を設立した。同社は1921年に大同電力へと発展する。また特殊鋼メーカー大同特殊鋼も名古屋電灯から派生した会社を前身とする。

概要

名古屋電灯の広告(1914年)

名古屋電灯は、大正から昭和戦前期にかけての電力業界大手「五大電力」の一つ東邦電力(1922 - 1942年)の前身である。この東邦電力は名古屋市を中心に供給区域を広げた名古屋電灯と、福岡市を中心とする北部九州を主たる供給区域とする九州電灯鉄道が合併し成立した。ただしその成立過程はやや複雑で、奈良市関西水力電気がまず1921年(大正10年)に名古屋電灯を吸収合併して名古屋へ移転の上「関西電気」と改称し、この関西電気が翌年に九州電灯鉄道を合併して「東邦電力」に改称する、という過程をたどっている[2]。したがっていずれの合併でも存続会社となった関西水力電気が東邦電力の法律上の前身会社という扱いになるが、名古屋電灯の方が歴史が長く、加えて規模も大きかったので、東邦電力自身は発祥を名古屋電灯が設立された1887年(明治20年)と定義していた[2]

この名古屋電灯は元は旧尾張藩士族による会社で、1887年設立ののち1889年(明治22年)に開業した。当時すでに東京関西の3都市には電気事業が開業しており、名古屋電灯はこれに続く日本で5番目、北陸地方を含む中部地方では最初の電気事業者となった。開業当初は小規模な火力発電所によって発電所周辺に配電するという程度の事業規模であったが、徐々に拡大し、特に明治末期に長良川木曽川に2つの大型水力発電所を完成させてからは大型化した。その過程で、のちに「電力王」と呼ばれる実業家福澤桃介が株式を買収して進出し、1914年(大正3年)から社長に就任。以後関西電気となるまでの7年間、福澤による積極経営が続いた。

福澤時代の名古屋電灯では、社内に「製鋼部」・「製鉄部」・「臨時建設部」という3つの部門が設置された。うち「製鋼部」は特殊鋼の生産を目指すもので、1916年(大正5年)の工場操業を機に電気製鋼所(後の木曽川電力、製鋼事業は大同特殊鋼の前身)として分社化された。「製鉄部」は製鉄事業の事業化を目指した部門、「臨時建設部」は木曽川・矢作川の水力開発にあたった部門で、あわせて1918年(大正7年)に木曽電気製鉄として分社化された。木曽電気製鉄の設立により電源開発は同社が担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった。以後名古屋電灯は周辺事業者の合併を活発化させ1921年までに6社を合併し、岐阜県静岡県にも供給区域を広げた。

事業統合の過程で1921年10月、名古屋電灯は奈良市の関西水力電気と合併した。上記の通り存続会社は関西水力電気側で手続上名古屋電灯は解散したが、本社や経営陣は名古屋電灯時代のままで、実質的には名古屋電灯による関西水力電気の合併である。合併によって関西電気が成立したが、同年12月福澤桃介が社長を退陣し、松永安左エ門ら九州電灯鉄道の経営陣と交代した。翌1922年(大正11年)5月に関西電気と九州電灯鉄道は合併し、中京・関西・九州の3地域にまたがる大電力会社へと発展する。同年6月、関西電気は東邦電力へと改称した。一方、木曽電気製鉄は関西への送電を志向し大同電力(1921 - 1939年)となった。大同電力は東邦電力への電力供給を継続したが、関西地方への供給を主体とする卸売り会社として以後発展していった。

名古屋電灯の供給区域や発電所は、東邦電力以降の再編を経て基本的に中部電力へと引き継がれたが、木曽川の発電所のみ関西電力が継承している。

沿革

設立

名古屋電灯設立に助力した愛知県知事勝間田稔

名古屋電灯は士族授産の取り組みから生まれた電力会社で、はじめは旧尾張藩士族による会社であった。士族授産の活動により設立された電力会社はこの名古屋電灯が唯一である[3]

明治維新により家禄を失い困窮した士族たちに対し、その救済と殖産興業を目的として明治政府は1879年(明治12年)から1890年(明治23年)まで士族授産事業のための勧業資金を貸し下げていた[4]愛知県へ割り当てられた勧業資金は「勧業資本金」と称するもので、その額は10万円余りであった[4]。資金の貸下げが決定すると、士族たちはこれを元にいかなる事業を起こすべきか話し合ったが、様々な意見があり容易に一致をみなかった[5]。こうした中、電気事業に関心を持っていた丹羽精五郎が電気事業の起業を提唱する[5]。精五郎の甥で帝国大学工科大学に在籍する丹羽正道による白熱灯アーク灯の点灯実験と、旧尾張藩士族で工部省技師の宇都宮三郎および開明派として知られた勝間田稔愛知県知事の勧奨によって士族たちの意見はこの電気事業起業で一致をみた[5]。そして勧業資金の7割、7万5000円が電気事業起業資金として士族たちに貸し下げられることとなった[4]

勝間田県知事が勧業資金以外の資本を集めるとともに実務に明るい人材を募る方策として名古屋市内の有力商人に対し電気事業起業への参加を求めたことから、会社の設立願いは士族たちではなく奥田正香(醤油製造[注釈 1])・滝兵右衛門(呉服商)・滝定助(同)・森本善七(小間物商)ら商人11名によって提出された[5]1887年(明治20年)9月21日のことで[5]、前日20日に名古屋電灯会社の創立総会が開かれ定款が取り決められていた[6]。会社設立の許可は22日に下りた[5]

許可を受けた名古屋電灯は開業に向けた準備にとりかかり、1887年10月、丹羽精五郎と工科大学を出たばかりの正道をアメリカドイツへ派遣し、設備の購入契約を結んだ[5]。しかしその一方で、発起人であった商人11名が尾張紡績への出資などの事情で翌1888年(明治21年)8月に撤退しまい、勧業資金7万5000円と士族のみでの経営を余儀なくされた[5]。同年9月、取締役が選出され、士族の三浦恵民が社長に就任した[5]。さらに開業までの間に政府の方針変更に伴う勧業資金の清算があり、資金の一部返納を求められた[7]。資金的な余裕がない会社側は困惑したが、閉鎖された士族就産所に対する勧業資金1万円の転貸を受け、そこから9447円を県に返納した[7]。また就産所の残余金や藩主尾張徳川家・家老成瀬家からの寄付金が名古屋電灯に回ったため、名古屋電灯の資本金は7万8800円となった[7]。出資者は9000名以上に及び、旧尾張藩士族をほとんど網羅していたという[8]

開業

第一発電所跡地に建つ電気文化会館(1986年竣工)

名古屋電灯では発電所の用地として名古屋市南長島町入江町(現・中区栄二丁目)にまたがる360坪ほどの土地を購入[5]。ここにアメリカから輸入したボイラー蒸気機関とドイツから輸入した発電機(総出力100キロワット (kW))を据え付け、「電灯中央局」と名づけた(後の第一発電所[9]。発電所は1889年(明治22年)11月に竣工し、11月3日天長節を開業日と定めたが[10]、電球を積んだ第一便の船が沈没してしまい第二便を待ったため、開業は1か月遅れて12月15日となった[9]。最初の電力会社である東京電灯1886年(明治19年)に東京で開業してから4年目のことで、神戸電灯大阪電灯京都電灯に次いで日本で5番目に開業した電力会社である[11]

開業時は電灯の供給のみを行い、その点灯数は400灯余りであった[9]。以後電灯を積極的に宣伝するなど需要の開拓に努め、供給灯数を伸ばしていった[9]。他方で開業初期には電灯事業が未開業の地域での出張点火も主たる事業であり、一例として1892年(明治25年)には桑名四日市三重県)や金沢石川県)に小型発電機を持ち込んで電灯を取り付けている[9]1890年(明治23年)7月14日、商法施行に備えて「名古屋電灯株式会社」に改称[12]。経営面では翌1891年(明治24年)1月に役員改選を行い、三浦恵民を専務取締役に選任した[12]

1891年10月28日、濃尾地震が発生し、名古屋でも多大な被害が出た。名古屋電灯でも発電所建物が損傷する被害を受け2か月間送電を停止したが、震災がきっかけで火災の心配がないという電灯の利点が周知されたことで電灯の需要に繋がった[9]。さらに翌年春に名古屋で相次いだ大火も石油ランプろうそくが失火の原因と言われたために電灯の普及を後押しした[9]。こうした需要拡大に対処するため、名古屋電灯では1893年(明治26年)に初めての発電所の拡張を実施[9]。さらに翌年には16万円への倍額増資を伴う発電所の第2次拡張を行っている[9]

競合会社の出現

1892年3月の大須大火に巻き込まれた同地の遊廓「旭廓」(大正時代に大須から転出し中村遊廓となる)の営業主たちは、大火の反省から石油ランプの全廃と電灯の使用を取り決め、名古屋電灯に対し特別割引料金によって供給を受けたいと申し込んでいた[13]。しかし質実な営業方針を採る名古屋電灯は申し込みを拒否する[13]。こうした名古屋電灯の経営は、同社に対して不満を持つ人々を糾合した新会社の進出を招いた[13]

競合会社の第一号は愛知電灯株式会社であった[13]。同社は愛知県会議長小塚逸夫[注釈 2]を中心に発起され、1894年(明治27年)1月電気事業の許可を取得、3月に資本金7万5000円で発足した[13]。開業は同年11月20日で、旭廓などを供給先とした[14]。愛知電灯の出現に伴い名古屋電灯では翌1895年(明治28年)1月より電灯料金を2割近く値下げるという対抗措置を採ったため、名古屋電灯側にもさらなる需要増加をもたらした[13]。とはいえ日清戦争によって燃料石炭費が上昇している時期であったので、経営面では不利に働いた[14]

こうした名古屋電灯・愛知電灯の競合について経営・技術両面での危険性を指摘する声は多く、1895年11月より日本電気協会が両社の合併に向けて動き始めた[13]。名古屋電灯社内の意見が一致せず合併交渉は長引いたが、翌1896年(明治29年)1月になってまとまり、名古屋電灯による愛知電灯の吸収合併が決定した[13]。両社は3月に合併契約を締結[14]。その合併条件は対等合併で、存続会社の名古屋電灯の資本金16万円に解散する愛知電灯の資本金15万円を加え、さらに両社の株主に割り当て19万円を増資して新資本金を50万円とする、というものであった[14]。合併は5月13日に成立した[14]

増資によって得た資金は第三発電所(水主町発電所)の建設に充てられた[15]。同発電所は1901年(明治34年)7月に完成[15]。この時期より従来の電灯供給に加え動力用電力の供給も始まった[16]

東海電気の合併

愛知電灯に続く競合会社として出現したのが東海電気株式会社である。同社は岡崎電灯の経営者が中心となって三河電力の名で1901年3月に設立[17]。名古屋進出に伴って1905年(明治38年)10月に東海電気へ改称し、翌1906年(明治39年)3月からは本社を名古屋市内に置いていた[17]

この東海電気は矢作川支流の田代川に出力200kWの小原発電所を建設し、はじめ瀬戸町(現・瀬戸市)への供給を行っていた[17]。次いで名古屋市の東に位置する千種町への供給を1903年(明治36年)12月に開始し、翌1904年(明治37年)1月より名古屋市内での供給に乗り出した[17]。名古屋進出にあたっての東海電気の武器は水力発電による低料金であり、大口需要家である第3師団市内駐屯部隊の一部を名古屋電灯から奪うなど勢力を伸ばした[17]。このため名古屋電灯でも対抗して東海電気進出地域の料金を引き下げたものの、両社の競合する地域とそうでない地域では道を隔てるだけで料金が異なるといういびつな状況が生まれた[17]。また日露戦争に伴う灯油価格の上昇と電灯料金の引き下げに伴って石油ランプから電灯への転換が進んだため、名古屋電灯は新規申し込みの受付を一時中断するほどの深刻な供給力不足に陥った[17]。こうした名古屋電灯の供給力不足も東海電気の進出を招く要因であった[17]

名古屋市内での需要家争奪戦は、配電線架設などで技術的な危険を生じさせ、経営的にも両社を圧迫したことから、愛知電灯の場合と同様両社の間には次第に合併の機運が醸成された[16]。名古屋電灯よりも先に後述の名古屋電力が合併に動くが、名古屋電灯はより有利な条件を示して1906年12月に東海電気と合併契約を締結した[16]。その合併条件は、存続会社の名古屋電灯の資本金100万円に東海電気の資本金25万円を加え新資本金を125万円とし、東海電気株主には新株とともに別途合併費用計15万円を交付するというものであった[16]。合併は1907年(明治40年)6月1日に成立[16]。名古屋電灯は小原発電所を引き継ぐとともに、工事中の巴川発電所も継承し1908年(明治41年)2月に完成させた[16]

水力発電への転換

野口遵

東海電気と合併するまで電源を火力発電に依存していた名古屋電灯は、日露戦争後になって水力発電への進出を計画し、木曽川水系について調査の準備に着手した[18]。しかしこの動きを察知したシーメンス・シュッケルトの関係者から1906年2月に長良川発電所の計画が持ち込まれると、長良川開発の方を優先することとなった[18]

長良川開発は先に旧岩村藩士の小林重正が構想したもので、岐阜県武儀郡洲原村立花(現・美濃市立花)にて出力3,000kWの発電所建設が計画されていた[18]。小林の計画は水利権を得て1898年(明治31年)に「岐阜水力電気株式会社」の事業許可を得るところまで進んだが、そこから先は実現せず、1904年に事業許可が失効した[18]。こうした中、小林の事業計画に参画していたシーメンス・シュッケルト元社員の野口遵が名古屋電灯に対し計画を引き継ぐよう勧誘したのである[18]

1907年5月、名古屋電灯は長良川発電所の建設を決定、工事費とシーメンスからの機械購入費に充てるため一挙に400万円増資した[18]。工事中に鶴舞公園における愛知県主催の第10回関西府県連合共進会の開催が決定し、共進会会場内外のイルミネーション点灯を名古屋電灯がすべて請け負うことになった[19]。県は発電所を共進会開催までに完成させるように要請し、県知事や名古屋市長が工事の進捗状況を視察するなど圧力をかけたという[19]。名古屋電灯側も社運を賭して工事を急ぎ、共進会開催前の2日前に工事をすべて終了、開催前日の1910年(明治43年)3月15日に長良川発電所からの送電を開始した[19]。発電所の出力は4,200kWであった[18]

こうして長良川発電所は完成したが、工事中の資金調達は必ずしも順調ではなかった。日露戦争後の不況で株式の払込金徴収が難航したためで、1908年7月には保険会社からの50万円借り入れを株主総会で決定し、その後も発電所建設の進捗にあわせて借り入れを繰り返した[20]。こうした資金負担の増加の結果、配当率は1906年上期の年率14パーセントから1908年上期には年率12パーセントへと低下し、同様に株価も下落した[20]。業績低下を受けて株主の不満が高まり、「革新会」と称する一部株主から経営陣の責任を追及する動きが生じた[20]

名古屋電力と名古屋瓦斯

兼松煕

長良川発電所の建設が進むころ、木曽川では八百津発電所の建設工事が進んでいた。ただし事業者は名古屋電灯ではなく、新たに設立された名古屋電力株式会社という電力会社であった。

岐阜県加茂郡八百津町での発電所建設計画の歴史は1896年までさかのぼるが、実際に具体化するのは岐阜県選出の衆議院議員兼松煕が1903年に参画してからである[21]。兼松は地元の意見をまとめるとともに東京の岩田作兵衛らを計画に引き入れ、さらに名古屋所業会議所会頭になっていた奥田正香の賛同も取り付けた[21]。名古屋からは奥田の他に日本車輌製造上遠野富之助三重紡績斎藤恒三名古屋電気鉄道白石半助などが発起人に加わっている[21]。名古屋電灯代表の三浦恵民も、兼松・奥田に招かれたためこの事業に加わって供給力を増強しようと考えたが、社内の意見が一致せず断念した[21]

名古屋電力は資本金500万円で1906年10月に設立[21]。発起人から奥田・兼松らが役員に選ばれ、奥田が社長となった[22]。さらに事業の万全を期するために渋沢栄一馬越恭平雨宮敬次郎という大物実業家の3人を相談役に嘱託している[22]。この新興の名古屋電力と既存の名古屋電灯を比較すると、名古屋電力八百津発電所の発電力は名古屋電灯長良川発電所の約2倍、払込資本金も名古屋電力425万、名古屋電灯265万円と2倍近い差があり、名古屋電力が開業し名古屋方面への送電を始めると名古屋電灯の著しい脅威となると見られた[23]。しかし実際には会社設立後の不況で資金難となり、発電所の着工を1908年1月に遅らせざるを得なかった[21]

東海電気に続いて名古屋電灯の競合会社となったのは、現実には名古屋電力ではなく、奥田正香がかかわるもう一つの事業名古屋瓦斯(名古屋ガス)であった。同社は名古屋電力に続いて1906年11月に設立、翌1907年10月には都市ガスの供給を開始した[24]。当時のガスの用途は炊事などの熱用ではなく灯火用、すなわちガス灯が中心であり、またガスエンジンの利用もあって照明・動力の供給という意味では電力会社と競合する関係にあった[24]。開業後の名古屋瓦斯は供給を急速に拡大し、開業3年目の1910年には名古屋電灯の電灯数7万6千灯に対し名古屋瓦斯の灯火用孔口数はその3分の1にあたる2万6千口に達した[24]。その後名古屋瓦斯は1914年(大正3年)まで名古屋電灯の電灯数の伸びを上回るペースで灯火用の需要を伸ばしている[24]

電灯とガス灯の競合は、当時普及していた白熱電球である炭素線電球(発光部分のフィラメントに炭素繊維を用いる電球)に比してガス灯が価格・明るさ両面で有利であったことから生じたが、大正初期にタングステン電球(フィラメントにタングステンを用いる電球)が普及すると電灯が優位に立ち、さらに第一次世界大戦で石炭価格(当時の都市ガスは石炭ガス)が高騰してガス料金が引き上げられるとガス灯は競争力を失って衰退していった[24]

福澤桃介の経営参加

福澤桃介(名古屋電灯本社応接室にて撮影)

明治末期の名古屋電灯では、業績の低下に不満を持つ株主によって「革新会」と称する派閥が形成され、反対に経営陣を支持する株主によって「同盟会」と称する派閥が組織されて社内の主導権争いが発生していた[20]。この動きに関連して、1908年8月、長良川発電所建設に向けた借入金50万円を株主総会が承認したことについて、その決議の無効を求める訴訟が株主の一人から起こされた[20]1909年(明治42年)10月の大審院でようやく名古屋電灯が勝訴するも、訴訟中に従業員による社費横領事件が発覚し、不満をさらに高めた株主らは1908年10月に業務状況などを調査させるよう名古屋地方裁判所に訴えた[20]。訴えは認められ、三井銀行名古屋支店長矢田績、弁護士大喜多寅之助らが検査役に選ばれて同年12月より3か月にわたって帳簿などの精査したが、経営陣による不正は無いと結論付けられた[20]

こうした混乱の最中、名古屋電灯では東京の実業家福澤桃介による大規模な株式買収が進んでいた[25]。日露戦争後の株式相場で財を成した福澤は、その後各方面に投資を広げており、1907年には名古屋で石炭商を営む友人下出民義に名古屋電灯への投資を勧められていた[26]。このときは下出の誘いを受けなかったものの、慶應義塾の先輩矢田績に検査役となった際の検査書類を見せられ経営しないかと誘われると、福澤は名古屋電灯への投資を決定する[26]。そして1909年2月に名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた[26]。同年3月から福澤は名古屋電灯の株主名簿に登場、以後買収を進め6月末までに5千株余りを持つ株主となり、翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主に躍り出た[26]。下出によれば買収資金の出所は三菱銀行であったという[27]

福澤の進出に対し名古屋電灯側では、まず1909年7月矢田の勧めに応じて福澤を顧問とし、次いで10月には新設の相談役に就けた[25]。翌1910年1月の定時株主総会で福澤は取締役に選出され、5月には常務取締役となった(常務には創業者三浦恵民も在職)[25]。この福澤の進出は既存経営陣に批判的な「革新会」側から歓迎された[25]

名古屋電灯の経営陣に加わった福澤であったが、株式を買収した段階では競合会社の名古屋電力が存在することを知らなかったという[25]。名古屋電力が開業に至れば料金の引き下げを伴う激しい競争となるのは明らかであったため、福澤はすぐさま名古屋電力の合併に動き出す[25]。名古屋電力側も資金難に陥っていたため合併の合意に達するのは容易であったが、反対に、名古屋電灯の株主中の反対論を抑えるのは難航した[25]。反対派の中心となったのは士族や旧愛知電灯の株主で、合併による配当率低下を危惧していた[25]。このため、解散する名古屋電力の資本金500万円に対し名古屋電灯側の増資を250万円に留めて名古屋電力株主への新株交付を持株2株につき1株とし、これによって生ずる差益金から将来の配当に充てる配当補充金を積み立てる、という合併条件をまとめた[25]

1910年8月26日の臨時株主総会にて名古屋電力の合併は可決されたが、これに続く役員増員にからみ総会は紛糾した[25]。合併に伴う取締役3名・監査役の2名の増員が総会の議題となったが、この賛否をめぐり、福澤の進出を歓迎する革新会改め「電友会」と、福澤系の経営陣を不安視する同盟会改め「愛電会」の両陣営に株主が分裂し収拾がつかなくなったのである[25]。対立は総会の1週間前からあり、矢田績や名古屋市長加藤重三郎らが斡旋に乗り出していたが、当日深夜になっても株主の意見が一致することはなかった[25]。合併については同年10月28日に成立[25]。その後取締役2名・監査役1名増員という折衷案で妥協がなり、11月の臨時株主総会で可決、兼松熙ら旧名古屋電力の役員が新任された[25]。この総会の1週間後、福澤は常務を兼松に譲って辞任し(取締役には留任)、一旦名古屋電灯の経営から退いた[25]

福澤の社長就任

加藤重三郎
下出民義

名古屋電力の合併により八百津発電所の建設工事を引き継いだが、着工当初から難工事が続いていた上、名古屋電灯移行後もトラブル続きで送電を開始したのは1911年12月のことであった[28]。工事中の1911年4月、825万円の増資により資本金を1600万円とし、さらに社業の拡大に伴って常務の上に社長を置くこととして同年7月名古屋市長の加藤重三郎[注釈 3]を迎えた[29]

出力4,200kWの長良川発電所に出力7,500kWの八百津発電所が加わった名古屋電灯では、大口需要の開拓に努め、主として電力供給を拡大した[29]。しかし両発電所の建設費負担は重く財務状態はかえって悪化し、配当補充金を取り崩して配当を維持するものの1912年(明治45年)には配当率を年率12パーセントから9パーセントに引き下げざるを得なくなった[30]。こうした業績の悪化は株主の経営陣に対する批判を強め、豊橋電気の再建や九州での電気事業で好成績を挙げていた福澤桃介の再登板を期待する声を大きくした[31]。批判の高まりを受けて常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任[31]。次いで大正改元を機に経営を一新すべきという声に押されて同年12月取締役10名と監査役6名全員が一斉に辞任し、直後の株主総会で総改選することになった[31]

この役員総改選に際しその指名は福澤に一任された[31]。加藤重三郎(社長留任)や兼松煕らが再任されたほか、このとき下出民義も取締役に加わっている[31]。翌1913年(大正2年)1月、福澤は常務に復帰した[31]。こうして経営を握った福澤は九州電灯鉄道支配人の角田正喬を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、営業活動や集金方法の改善など経営改革に取り組んだ[32]

こうした中の1913年秋、社長の加藤重三郎、取締役の兼松煕らが大須遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された[33]。加藤らは12月の第1審で有罪となった後、翌1914年の第2審で結局無罪となったが[33]、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に福澤を社長代理に指名した[31]。その後加藤が社長を辞任したため、1914年12月、福澤が後任社長となった[31]。福澤の昇任とともに下出も常務代理から常務となっている(1918年2月からは副社長)[31]。福澤は社長就任後も本拠地を東京に置いたため、以後、福澤が人事・金融を担当し、日常の業務のほとんどは下出が代行するという経営体制となった[34]

木曽川開発

名古屋電灯が着工、木曽電気製鉄が完成させた賤母(しずも)発電所

福澤がまだ社長代理だった1914年初頭、社内に「臨時建設部」が設置された[35]。名古屋電灯は当時すでに木曽川の八百津発電所より上流側(長野県側)に2地点の水利権を確保しており、別の地点での水利権出願や、既得水力地点の開発に向けた実施計画に関する調査などを手がけるための部署であった[35]

臨時建設部が発足した1914年には第一次世界大戦が勃発した。その後日本に大戦景気が訪れると電力需要は急増し、長良川・八百津両発電所の完成以来余剰電力の対策に苦心していた名古屋電灯でも反対に供給力の確保に追われることとなった[30]。まず1915年(大正4年)9月、工期の短い火力発電所(熱田発電所)を新設[30]。次いで1916年(大正5年)5月には八百津発電所の放水落差を活用する放水口発電所を建設している[30]。同年2月、臨時建設部を拡充して水力開発に着手し、1918年(大正7年)4月矢作川に突貫工事で串原仮発電所を完成させ、木曽川では八百津発電所よりも大きな賤母発電所(出力12,600kW)を着工した[35]

業績について見ると、大戦勃発以降は供給拡大によって大幅な増収が続き、設備投資も好景気を背景に借入金ではなく株式払込金の徴収によって可能となったため、経営状態は改善に向った[32]。大戦前、配当補充金が尽きた1913年下期に配当率を年率9パーセントから7.6パーセントに引き下げていたが[30][36]、1914年以降増配となり、1918年には年率12パーセントの配当に復した[36]

1918年9月8日、名古屋電灯は木曽川の水利権、建設中の賤母発電所、矢作川の串原仮発電所、それに準備中の電気製鉄事業(後述)に関する資産を現物出資(評価額計200万円)し、木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立した[37]。新会社の社長は福澤桃介が兼任[37]。資本金は1700万円であり、名古屋電灯はこのとき資本金1600万円であったから、母体となった名古屋電灯よりも大きな会社であった[38]。同社の新設で臨時建設部が独立した形となり、以降木曽電気製鉄が一切の電源開発を担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった[35]。なお長良川・八百津両発電所も新会社に引き継がせる案があったが、名古屋電灯の供給責任上実行されていない[39]

木曽電気製鉄はその後、木曽電気興業と改称した直後の1919年(大正8年)11月、京阪電気鉄道関係者との共同出資により大阪送電株式会社を設立し、関西地方への送電を構想する[40]。この大阪送電と木曽電気興業、それに山本条太郎率いる日本水力の3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社が発足している[41]

鉄鋼業進出

第一次世界大戦による大戦景気を背景に、福澤は余剰電力を利用した工業の起業を計画し、名古屋電灯顧問となっていた技師寒川恒貞にその調査を命じた[42]。これに対して寒川がフェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼などを製造する電気製鋼を提案したことから、名古屋電灯では同事業へ進出することとなった[42]。まず1915年2月より熱田発電所の一角において実用化に向けた試験を開始[42]。同年10月には社内に「製鋼部」を新設し、試験結果を受けて工場を着工した[42]。1916年8月19日、工場の操業開始とともに名古屋電灯は製鋼部を独立させ資本金50万円の「株式会社電気製鋼所」を設立する[42]。操業開始が大戦中の鉄鋼価格高騰期に重なったため、開業早々年率10パーセントの配当をなすなど電気製鋼所の業績は当初から順調であった[43]

このような電気製鋼所の好調を受けて、名古屋電灯では1917年(大正6年)6月社内に「製鉄部」を設置し、電気で銑鉄を生産するという電気製鉄の研究に着手する[44](電気製鉄についての詳細は木曽電気製鉄#電気製鉄事業の展開参照)。工場は名古屋市内に建設され、この製鉄部と先述の臨時建設部をあわせて独立させた木曽電気製鉄の設立(1918年9月8日)とともに操業を開始した[44]。こうして銑鉄の生産を始めたものの、技術的な問題が発生したため間もなく生産は中止されている[44]。そのため木曽川の水利権を確保するための看板として注目を集めていた新事業電気製鉄が利用されただけとも言われる[44]。その後製鉄部は銑鉄製造から鋳鋼の製造へと転換した[45]

木曽電気製鉄はその後大同電力となったが、電気事業に対して副業となった製鉄部門は1921年11月に同社から分離され、大同製鋼(初代)となった[45]。翌1922年(大正11年)7月、大同製鋼が電気製鋼所より鉄鋼部門を現物出資の形で引き受け、名古屋電灯を母体とする鉄鋼メーカーは大同製鋼改め大同電気製鋼所に一元化された[46]。この大同電気製鋼所は後の大同製鋼(2代目)で、現在の大同特殊鋼の前身にあたる。一方、鉄鋼部門を分離した電気製鋼所は、長野県木曽地域を供給区域とする木曽川電力として1942年(昭和17年)まで存続した[46]

相次ぐ合併

木曽電気製鉄設立後、1920年(大正9年)5月から翌1921年8月までの短期間に名古屋電灯は6社の事業者、すなわち一宮電気岐阜電気豊橋電気板取川電気・尾北電気・美濃電化肥料を相次いで合併した[47]。合併前の1919年10月に増資によって資本金を3300万円としていたが[48]、一連の合併後の名古屋電灯の資本金は4848万7250円に拡大している[47]

一宮電気株式会社
1912年2月、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市)に設立[49]。開業は1913年1月で、一宮町とその周辺や丹羽郡古知野町布袋町(現・江南市)などへ供給した[49]。発電所を持たず、名古屋電灯から受電し配電に充てていた[47]。資本金は50万円[49]
1919年12月合併契約締結[50]、1920年5月合併成立[47]。合併に伴う資本金増加は75万円[1]
岐阜電気株式会社
前身の岐阜電灯は1894年7月開業[51]。1907年に新会社の岐阜電気へと改組した[52]。供給区域は岐阜県のうち岐阜市大垣市などで、揖斐川支流の粕川に自社の水力発電所を所有していたが[47]、供給力不足のため1918年より名古屋電灯から受電していた[53]。資本金は600万円[54]
1920年9月合併契約締結[55]、1921年2月合併成立[47]。合併に伴う資本金増加は825万円[55]
豊橋電気株式会社
豊橋電灯の名で1894年2月設立、同年4月開業[56]。供給区域は豊橋市や豊川町(現・豊川市)、それに静岡県浜名郡西部(現・湖西市)などで、名古屋電灯とは電力需給関係はなかったが福澤桃介が社長を兼ねていた[47]。資本金は240万円[57]
1920年12月合併契約締結[58]、1921年4月合併成立[47]。合併に伴う資本金増加は378万円[58]
板取川電気株式会社
1909年7月設立、翌1910年12月開業[59]。供給区域は岐阜県のうち武儀郡美濃町(現・美濃市)・関町(現・関市)などで、電源は自社の水力発電所であった[47]。資本金は100万円[60]
尾北電気・美濃電化肥料とあわせて1921年8月合併成立[47]。3社合併に伴う資本金増加は270万7250円[47]
尾北電気株式会社
1918年3月に犬山電灯と可児川電気が合併し設立[61]。供給区域は愛知県丹羽郡犬山町(現・犬山市)や岐阜県可児郡の町村(現・可児市御嵩町)で、自社の水力発電所や板取川電気・名古屋電灯からの受電を電源とした[47]。資本金は100万円で[62]、株式の4割を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)[63]
美濃電化肥料株式会社
1918年6月設立、資本金300万円[64]。全6万株のうちの1万7000株を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)[63]。美濃町に本社を置き、板取川に白谷発電所を建設して炭化カルシウム(カーバイド)を製造するとともに板取川電気へ電力を供給した[47]

豊橋電気・板取川電気などとの合併がまだ手続き中の段階にあった1921年3月31日、名古屋電灯は関西水力電気との間に合併契約を締結した[65]。この合併はこれまでのものとは異なり名古屋電灯を被合併会社、相手側(関西水力電気)を存続会社とするものであり、合併に伴って名古屋電灯は解散することとなった[65]

関西水力電気株式会社
1905年11月29日、奈良県奈良市に設立[66]。先に開業していた奈良電灯から事業を引き継ぎ奈良市に供給したほか、山辺郡丹波市町(現・天理市)、高市郡八木町(現・橿原市)、北葛城郡高田町(現・大和高田市)などにも供給区域を広げた[66]。資本金は450万円で、名古屋電灯の合併に伴い6469万9650円増資[65]

関西水力電気と名古屋電灯との合併は1921年9月14日に逓信省の認可を得、10月28日の臨時株主総会において同日をもって合併を実行するものとされた[65]。こうして両社の合併が成立し、関西水力電気は「関西電気株式会社」へと改称した[65]。しかしこの合併は、形式上は関西水力電気を存続会社としたが、実質的には規模の大きい名古屋電灯による関西水力電気の吸収であり、その証左に本店は奈良市から名古屋市に変更され(名古屋市新柳町の旧名古屋電灯本社を引き続き使用)、経営陣も社長福澤桃介、副社長下出民義、常務神谷卓男・角田正喬など名古屋電灯側の役員が入ったのに対し関西水力電気時代から留任したのは常務の加納由兵衛のみであった[65]

この合併で関西電気(関西水力電気)の資本金は合併前の450万円から6914万9650円へと一挙に拡大した[65]

政争

大喜多寅之助

関西電気(名古屋電灯)が合併路線を採っていた1920年前後の時期は、名古屋市会を舞台に会社を巻き込む政争が発生していた。その発端は名古屋電灯と名古屋市の間に締結されていた報償契約であった。

福澤が名古屋電灯に参入するよりも前の1908年4月、当時の常務三浦恵民は名古屋市との間に報償契約を締結した[67]。その主たる内容は、

  • 会社は決算期毎に報償金を市に納付する。その金額は市内における事業にかかる純益金の4パーセント(1917年より5パーセントに改訂)。
  • 電気料金の値上げや他事業者の合併は市の承認を必要とする。
  • 市は、市が所有もしくは管理する道路・橋梁・営造物・その他市有物件などにおいて会社が電柱・線管を建設することを承認する。その際使用料や特別税を徴収しない。また名古屋電灯・名古屋電力以外の電気事業者にはこの権利を認めない。
  • 契約の有効期間は締結から25年間。満期後市は事業を市営化する権利を得る。買収価格は、(1) 名古屋株式取引所における会社株式の3か年平均株価、(2) 3か年の利益・配当の年額平均を20倍したもの、この2つを平均した価格による。

というものであった[67]

1920年になって、名古屋電灯は会社にとって不利なこの報償契約の破棄ないし改訂を目指して運動を始めた[68]。その契機は4月の道路法施行で、報償契約の効力に疑義が生じた[注釈 4]と主張していた[68]。会社と市は折衝を続けたが意見は一致をみず、1920年12月、新しい協定に向けて手続きに至急着手するとともにその間は報償金納付と合併承認については従来通り履行する、という旨の覚書きを交わした[69]

このころの名古屋市会について見ると、議会の多数派は立憲政友会系議員であった[70]。この政友会系の議員には、名古屋電灯副社長の下出民義をはじめ、前社長加藤重三郎、法律顧問青山鉞四郎など同社の関係者が多くいたことから、「電政派」とも呼ばれていた(ただし監査役の磯貝浩憲政会系)[71]。1921年4月、名古屋電灯は関西水力電気との合併について報償契約に基づく承認を市に対して求めた[71]。6月になり合併承認の件が市会に上程されることとなったが、その当日になって青山鉞四郎の緊急動議によって佐藤孝三郎市長の後任選挙に差し替えらた[72]。この結果政友会系の議員で議長を務める大喜多寅之助が市長に就任し、青山が後任議長となった[72]。名古屋電灯は報償契約改訂・破棄に向けて運動中であったため、電政派市長の擁立は大きな社会的反響を呼んだ[68]

合併承認の件は9月に市会で審議され、そこで非電政派(憲政会系)は、会社が合併を繰り返すのは買収価格を吊上げて市営化を断念させるため策略であり、また先に木曽電気製鉄を独立させたのは水利権を報償契約の範囲外に置くための措置であったなどと電政派および名古屋電灯を激しく批判した[71]。しかし結局多数を占める電政派の意見が通って委員会付託となり、委員会の結果報償契約を関西水力電気に継承させるなどの条件付での合併承認が決まった[71]

10月の市会議員選挙では電政派の市政運営に対する市民の批判が高まり、非電政派が多くの支持を集めた[73]。非電政派の演説会に参加した市民がその終了後に名古屋電灯の施設や大喜多の邸宅、政友会系の新愛知新聞社を包囲・襲撃するという事件も発生したという[74]。この選挙の結果は加藤重三郎が落選するなど政友会系(電政派)の敗退、憲政会系(非電政派)の勝利であった[73]。11月には大喜多の市長不信任案が可決され、翌年川崎卓吉に交代した[73]。大喜多の退陣によって名古屋電灯(関西電気)の報償契約改訂・破棄運動も失敗に終わった[注釈 5][68]

東邦電力発足

伊丹弥太郎
松永安左エ門

市会における政争以外にもこの時期の名古屋電灯(関西電気)を取り巻く内外の環境は悪化していた。事業について見ると、関西電気が発足するころになると名古屋では市街地の膨張に対して供給施設が追いついておらず、供給力不足(水力発電が主電源のため渇水期には特に電力不足であった)や送変電・配電設備の不備から停電が頻発しており[75]、地元の不満が高まっていた[69]。また経理面では、事業資金調達の必要性から株価の上昇を狙って1921年上期の配当率を年率20パーセントに引き上げるという高配当策を採ったことで行き詰まりつつあった[69]。その上、この高配当は1921年上期末時点で全体の6.4パーセントの株式を持つ筆頭株主である社長の福澤自身を利するものとして非難の的にもなった[68]

1921年12月23日、関西電気成立後最初の定時株主総会において社長の福澤桃介、副社長の下出民義がそろって辞任し、新たに九州電灯鉄道社長の伊丹弥太郎が新社長に、同社常務の松永安左エ門が新副社長にそれぞれ就任した[76]。伊丹は佐賀の財界人[77]、松永は福澤の慶應義塾時代の後輩で、当時は福岡を拠点に電気事業の経営にあたっていた[78]。経営陣交代の時点で関西電気と九州電灯鉄道の合併は内定しており[76]、25日に両社の間で合併契約が締結された[79]。合併条件は、存続会社の関西電気が九州電灯鉄道の資本金と同額の5000万円を増資して同社株主に対し持株1株につき新株1株を交付する、というものであった[79]

経営陣交代の経緯は、福澤から引き継いだ松永の回想によると、周囲との対立で行き詰った福澤が状況を打開するために名古屋電灯を関西水力電気と合併させたが、そのようなことでは解決しないところまで事態が悪化していたため、さらなる打開策として九州電灯鉄道と合併させて松永を「ピンチヒッター」としたのだという[80]。福澤自身は後年、伊藤次郎左衛門松坂屋経営)など名古屋の財界人や憲政会の小山松寿名古屋新聞社経営)から排斥されたことに対する反抗心から関西への進出を企て、木曽川開発つまり大同電力の方に集中するために名古屋電灯を九州電灯鉄道に合併してしまったと語っている[81]。また同時代の実業家青木鎌太郎は、福澤らの退陣は、市会の政友会系議員と組んで市政を壟断していると批判を受けた電政派問題の責任をとったことが有力な理由であったようだと述べている[82]

関西電気と九州電灯鉄道の合併は翌1922年(大正11年)5月31日付で成立した[79]。資本金は1億円超となり[83]、供給区域は九州地方を含む12府県に及んだ[84]。このように関西電気は社名の「関西」を超えて営業範囲が広がったため、新社名を公募し同年6月26日の定時株主総会にて社名を変更、「東邦電力株式会社」となった[85]。同時に定款記載の本店を名古屋市から東京市へと変更し、本社を東京海上ビルへと移している[85]

こうして名古屋電灯から関西電気を経て発展した東邦電力は、以後戦前期の大手電力会社「五大電力」の一角として1942年(昭和17年)に解散するまで活動することとなる。

業績推移表

1904年(明治37年)から関西水力電気と合併する直前の1921年上期までの期別業績の推移は以下の通り。決算期は毎年5月(上期)・11月(下期)の2回である。

単位:千円
年度 公称資本金 払込資本金 収入 支出 純利益 配当率 出典
1904上 500 500 81 41 40 14.0% [86]
1904下 500 500 83 44 38 14.0%
1905上 1,000 625 98 52 46 14.0%
1905下 1,000 700 116 68 47 14.0%
1906上 1,000 700 142 88 53 14.0%
1906下 1,000 850 173 108 64 16.0%
1907上 1,250 1,250 242 140 102 14.0%
1907下 5,250 2,250 274 142 131 12.0%
1908上 5,250 2,250 281 135 146 12.0%
1908下 5,250 2,250 304 157 146 12.0%
1909上 5,250 2,250 338 196 141 12.0%
1909下 5,250 2,650 352 183 170 12.0%
1910上 5,250 3,250 342 167 175 12.0%
1910下 7,750 6,116 207 12.0%
1911上 7,750 7,750 461 180 280 12.0%
1911下 7,750 7,750 499 253 246 12.0%
1912上 16,000 9,812 562 306 255 9.2%
1912下 16,000 9,812 655 350 305 9.2%
1913上 16,000 9,812 762 431 331 9.2%
1913下 16,000 10,637 824 413 410 7.6%
1914上 16,000 10,637 937 491 446 8.0% [1]
1914下 16,000 10,637 930 471 459 8.0%
1915上 16,000 10,637 994 500 494 8.5%
1915下 16,000 10,637 1,004 507 497 8.5%
1916上 16,000 11,875 1,081 536 545 9.0%
1916下 16,000 11,875 654 9.0%
1917上 16,000 11,875 1,413 628 785 10.0%
1917下 16,000 12,700 1,603 717 885 11.0%
1918上 16,000 13,525 2,111 1,246 865 12.0%
1918下 16,000 13,525 2,133 1,230 902 12.0%
1919上 16,000 13,525 2,557 1,609 948 12.0%
1919下 16,000 16,000 3,023 1,717 1,305 18.0%
1920上 33,750 21,000 3,646 2,325 1,320 12.0%
1920下 33,750 21,000 4,206 2,378 1,827 14.0%
1921上 45,780 28,881 7,379 4,188 3,190 20.0% [87]

供給の推移

以下、沿革のうち供給の推移について詳述する。

1880・90年代

開業前の1889年(明治22年)6月に名古屋電灯が作成した広告によると、名古屋市南長島町(現・栄二丁目)の発電所を起点に北は本町、東は栄町、西は堀川を渡った先(船入町・東柳町など)、南は大須方面の門前町橘町へとまず送電するとされた[88]。同年12月15日に開業した際、配電線の延長は14キロメートル余りで、需要家数は241戸、電灯の点灯数は400灯余りであった[9]

開業時、電灯の点灯時間は日没から3時間であり、「3時間灯」と称した[88]。翌1890年(明治23年)2月には日没から23時まで点灯する「5時間灯」を新設し、その後0時までの「半夜灯」、翌日2時までの「2時灯」と徐々に供給時間を拡大していき、同年4月から「終夜灯」を設定している[88]。料金は最も需要の多かった10半夜灯を例にとると月額80銭であった(終夜灯の場合1円20銭)[88]

供給面では1890年11月より陸軍第三師団の市内各隊への供給を開始し、引き続き官庁や銀行、会社などへ新規の供給を開始すると、これが一般民家の需要も喚起して開業1年間で電灯取付数は3倍に達した[89]。しかし1891年(明治24年)1月に帝国議会仮議事堂火災が発生しその原因が漏電によるものと伝えられたため、点灯の取り消しが相次いで需要の伸びは一旦停滞した[12]。その対策として名古屋電灯では2月になって官公吏や需要家を招待して安全性をアピールする実地実験を実施している[12]。続いて10月28日に濃尾地震が発生。名古屋電灯も被災して12月28日まで送電停止を余儀なくされた[12]

しかしこの震災は、電灯の安全性を市民に周知させる好機となった[12]。それに加えて震災を期に興行場での石油ランプの使用が制限されたため、震災後は電灯の需要が急増した[12]。さらに翌1892年(明治25年)3月に大須大火が発生し、その後も大小の火災が続いた際に、出火原因が石油ランプやろうそくであると伝えられたために、電灯の需要増加に拍車がかかった[12]。需要増加の結果、1893年(明治26年)2月に名古屋電灯は初めての発電所増設を行っている[12]

1894年(明治27年)11月に競合する愛知電灯が開業したのに伴い、名古屋電灯では対抗上翌1895年(明治28年)1月より電灯料金を値下げした[14]。値下げの結果さらなる需要を喚起したために同年12月第2次の発電所増設に踏み切っている[14]。しかしこの競争は日清戦争戦中・戦後の燃料(石炭)価格高騰と重なったため、愛知電灯との合併が成立(1896年5月)した後の1896年(明治29年)12月に開業以来初めてとなる料金の値上げを行った[14]。以降も1897年(明治30年)3月、翌1898年(明治31年)3月と料金を値上げた[14]

開業10周年を迎えた1899年(明治32年)の取付電灯数は8,854灯であった[90]

1900年代

1901年(明治34年)7月、交流高圧送電方式を採用する水主町発電所が完成した[14]。翌1902年(明治35年)の下期より名古屋電灯では動力用電力の供給を開始する[16]。当初の需要は電動機1台のみで、しかも夜間送電のみであったが、その後日露戦争勃発に伴う軍需品製造などで需要は徐々に増加し、1904年(明治34年)10月には昼間の送電も始まった[16]

1904年1月、瀬戸町(現・瀬戸市)に供給していた三河電力、後の東海電気が名古屋市内でも電気の供給を開始した[16]。同社の進出は1906年(明治39年)3月になって特に激しくなり、市内における名古屋電灯の未開業地域に電線を延長するとともに、名古屋電灯既開業地域では道路外の民有地に電柱を建設し電線を架設して供給地域の拡張を図った[16]。同社の市内における電灯供給数は1906年末時点で465戸・1,877灯に及んだが、急速に拡大した要因は水力発電による低廉な料金であった[16]。名古屋電灯は1906年2月に電灯料金の値下げを実施し、10燭の終夜灯では月額85銭としていたが、東海電気ではこれを月額65銭で供給していたのである[16]。したがって名古屋電灯は東海電気が配電する地域では同社の料金水準に割引して供給せざるを得なくなった[16]

東海電灯との競争の傍ら、日露戦争後の好況で電灯・電力ともに需要が増加したため、供給力不足に陥った名古屋電灯は1906年11月から水主町発電所の増設が完成する12月まで、供給の新規申し込みの受付を一時中止する措置をとった[16]。翌1907年(明治40年)7月、東海電気の合併が成立し、名古屋電灯は瀬戸町などを供給区域に追加している[16]。東海電気から引き継いだ電灯数は3,388灯、電力供給馬力数は178馬力である[16]

開業20周年を迎えた1909年(明治42年)の取付電灯数は5万4,937灯であり、開業時に比して100倍以上、10年前と比べても6倍強に増加していた[90]。また電力供給は1,145馬力であった[90]

1910年代以降

1910年(明治43年)に竣工した長良川発電所1912年(大正元年)に運転を開始した八百津発電所という2つの大規模水力発電所の建設により、名古屋電灯では創業以来初めて販売電力に余剰が生じた[91]。このことから1910年代以降は余剰電力の消化を目的に大口の電力供給に注力し、工場、電気鉄道、他の電気供給事業者など新規需要を開拓、電気の供給地域を名古屋市とその周辺のみならず愛知県外にも拡大した[91]

大口供給を具体的に見ると、長良川発電所建設以前の大口需要家は瀬戸電気鉄道(1907年3月供給契約締結)をはじめごく少数であったが、同発電所完成後の1911年(明治44年)に名古屋電気鉄道と愛知織物・帝国撚糸を加え、その後1913年(大正2年)にかけて愛知電気鉄道尾張電気軌道一宮電気尾北電気稲沢電気岐阜電気・知多瓦斯(後の知多電気)・日英水電日本車輌製造・三重紡績(後の東洋紡績)半田工場といった大口需要家への供給を開始した[91]。1913年に電力供給実績は1万馬力を越え[36]、同年以降は消費電力量(キロワット時)ベースで電力供給が電灯供給を上回るようになった[32]

電力需要はその後、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発するとさらに増加し、特に大戦中の後期から戦後にかけては著しい増加を示した[36]。この時期には、石炭価格の高騰や大戦景気を背景とする事業拡大に伴い動力を蒸気機関から電動機に転換した紡績工場が相次いで新規の大口需要家となったほか、社長の福澤桃介が創立にかかわった電気製鋼所やソーダ会社の東海曹達(桃介の長男福澤駒吉が経営)などへも供給を開始している[92]。電力供給実績は1917年(大正6年)に2万馬力を越え、1919年(大正8年)には3万6千馬力に達した[36]

一方電灯供給については、1911年(明治44年)に電灯数が10万灯を越えたが、1914年までは名古屋瓦斯(1907年開業)が供給するガス灯の方が数では劣るものの電灯数の増加率を越えるペースで普及していた[24]。ガス灯との対抗上1912年1月に電灯料金を引き下げ(一例として10燭灯は月額85銭から80銭へ)、2月には電灯勧誘規定を制定して外交員を置き電灯販売に努めた[32]。翌1913年9月には創立25周年を記念し増設希望者に福引券を配布するとともに、支配人以下の職員に責任灯数を割り当てて勧誘にあたらせる、という拡販策を実施し、販売促進の努力を続けた[32]

1914年9月、名古屋市内の路面電車を運転する名古屋電気鉄道に対し、運賃値下げ問題が発端となって電車焼き討ち事件が発生した[69]。この時期、名古屋電灯に対しても電車運賃と同様に電気料金の値下げ要求があり、対策として1914年2月・1916年2月・1917年2月の3回にわたって電灯料金・電力料金を引き下げた[69]。1917年2月の改訂では定額の8燭灯では月額50銭、16燭灯では65銭、24燭灯では80銭などと電灯料金が定められ、以後東邦電力時代の初期までその料金制度が維持された[93]。この間、電灯数は1916年に20万灯を越え、1919年には30万灯を突破している[36]

1921年(大正10年)10月に名古屋電灯と関西水力電気が合併し関西電気が発足した際、新会社の電灯数は旧名古屋電灯区域の87万4,429灯と旧関西水力電気の10万7,990灯をあわせて98万2,419灯となり、電力供給は6万6,285.5馬力と2,237馬力をあわせて6万8,522.5馬力に達した[65]

供給実績推移表

1904年から関西水力電気と合併する直前の1921年上期までの期別業績の推移は以下の通り。決算期は毎年5月(上期)・11月(下期)の2回で、供給実績の数値は各期末のものである。また「電灯数」は1912年までは取付灯数により計算したものだが、1913年以降は実際の点灯数に基づく。

年度 電灯数
(単位:灯)
販売電力
(単位:馬力)
出典
1904上 14千 - [86]
1904下 16千 40
1905上 17千 178
1905下 19千 308
1906上 25千 502
1906下 30千 617
1907上 35千 1,159
1907下 36千 1,184
1908上 39千 1,120
1908下 44千 1,222
1909上 47千 1,148
1909下 54千 1,145
1910上 93千 1,255
1910下 76千 1,435
1911上 86,802 1,780 [36]
1911下 100,514 2,951
1912上 120,939 4,290
1912下 141,396 6,996
1913上 141,432 10,184
1913下 161,359 10,932
1914上 184,695 13,485
1914下 188,950 13,789
1915上 186,539 14,404
1915下 192,863 14,543
1916上 203,046 15,865
1916下 212,156 19,273
1917上 228,998 22,149
1917下 251,728 25,138
1918上 266,763 28,255
1918下 284,075 29,909
1919上 307,971 29,828
1919下 334,076 36,403
1920上 407,715 41,927 [1]
1920下 434,692 44,998
1921上 660千 60,204 [87]

供給区域一覧

1919年

岐阜電気や豊橋電気を合併する前にあたる1919年(大正8年)12月末時点における名古屋電灯の供給区域は以下の通り[94]。特記のない限り電灯・電力供給区域である。

愛知県 市部
(1市)
名古屋市
愛知郡
(4町7村)
千種町呼続町愛知町下之一色町御器所村東山村中村常磐村八幡村荒子村小碓村(現・名古屋市)
西春日井郡
(5町10村)
枇杷島町清水町杉村金城村六郷村萩野村山田村庄内村川中村楠村(現・名古屋市)、
西枇杷島町新川町清洲町(現・清須市)、
北里村(現・北名古屋市小牧市)、
豊山村(現・豊山町
東春日井郡
(4町7村)
瀬戸町品野村赤津村水野村(現・瀬戸市)、
守山町(現・名古屋市)、
旭村(現・尾張旭市)、
勝川町鳥居松村篠木村(現・春日井市)、
小牧町味岡村(現・小牧市)
海部郡
(1町4村)
蟹江町
甚目寺村(現・あま市)、
大治村(現・大治町)、
富田村南陽村(現・名古屋市)
丹羽郡
(1町3村)
岩倉町(現・岩倉市)、
大口村(現・大口町)、
西成村(一部)・千秋村(現・一宮市
岐阜県 市部 【電力供給区域】岐阜市
稲葉郡 【電力供給区域】加納町(現・岐阜市)

1921年

名古屋電灯時代の末期、1921年(大正10年)6月末時点の電灯・電力供給区域は以下の通り。この時点では合併していない尾北電気板取川電気の供給区域もあわせて記す[95]

名古屋電灯 電灯・電力供給区域
愛知県 市部
(2市)
名古屋市、豊橋市
愛知郡
(4町7村)
千種町・呼続町・愛知町・下之一色町・御器所村・東山村・八幡村・中村・常磐村・荒子村・小碓村(現・名古屋市)
西春日井郡
(5町10村)
枇杷島町・清水町・杉村・金城村・六郷村・萩野村・山田村・庄内村・川中村・楠村(現・名古屋市)、
西枇杷島町・新川町・清洲町(現・清須市)、
北里村(現・北名古屋市・小牧市)、
豊山村(現・豊山町)
東春日井郡
(4町7村)
瀬戸町・品野村・赤津村・水野村(現・瀬戸市)、
守山町(現・名古屋市)、
旭村(現・尾張旭市)、
勝川町・鳥居松村・篠木村(現・春日井市)、
小牧町・味岡村(現・小牧市)
海部郡
(1町4村)
蟹江町、
甚目寺村(現・あま市)、
大治村(現・大治町)、
富田村・南陽村(現・名古屋市)
丹羽郡
(3町3村)
岩倉町(現・岩倉市)、
布袋町古知野町(一部)(現・江南市)、
大口村(現・大口町)、
西成村・千秋村(現・一宮市)
中島郡
(4町3村)
一宮町奥町起町萩原町今伊勢村大和村朝日村(現・一宮市)
葉栗郡
(2町3村)
浅井町木曽川町北方村葉栗村(現・一宮市)、
宮田村(現・江南市)
東加茂郡 【電力供給区域】盛岡村(一部)(現・豊田市
宝飯郡
(6町7村)
豊川町牛久保町八幡村国府町御油町赤坂町長沢村萩村小坂井村御津村(現・豊川市)、大塚村(現・豊川市・蒲郡市)、
下地町前芝村(現・豊橋市)
渥美郡
(1町4村)
二川町高師村牟呂吉田村老津村(現・豊橋市)、杉山村(現・豊橋市・田原市
八名郡
(2村)
三上村(現・豊川市)、
下川村(現・豊橋市)
静岡県 浜名郡
(2町4村)
新居町(一部)・白須賀町吉津村新所村入出村知波田村(現・湖西市
岐阜県 市部
(2市)
岐阜市、大垣市
稲葉郡
(1町15村)
本荘村長良村島村三里村・加納町・北長森村(一部)・南長森村木田村市橋村茜部村鶉村黒野村厚見村鏡島村佐波村(現・岐阜市)、
更木村(現・各務原市
安八郡
(1町6村)
神戸町(一部)、北平野村(現・神戸町・揖斐郡池田町)、
北杭瀬村南杭瀬村安井村中川村三城村(現・大垣市)
羽島郡
(2町11村)
笠松町松枝村(一部)・下羽栗村(現・笠松町)、
竹ヶ鼻町駒塚村江吉良村(一部)・正木村足近村(現・羽島市)、
上羽栗村八剣村(現・岐南町)、
柳津村(現・岐阜市)、
中屋村川島村(現・各務原市)
養老郡
(1町6村)
高田町多芸村養老村笠郷村上多度村広幡村(現・養老町)、池辺村(現・海津市・養老町)
揖斐郡
(1町9村)
揖斐町(一部)・大和村清水村春日村(現・揖斐川町)、
池田村(一部)・本郷村八幡村(一部)(現・池田町)、養基村(現・池田町・揖斐川町)、
大野村豊木村(現・大野町
本巣郡
(1町7村)
北方町生津村(現・北方町・瑞穂市)、席田村(現・北方町・本巣市)、
穂積村本田村牛牧村船木村(現・瑞穂市)、
合渡村(岐阜市)
不破郡
(2町6村)
赤坂町青墓村静里村(現・大垣市)、
垂井町宮代村表佐村(現・垂井町)、
関ケ原村玉村(現・関ケ原町
山県郡
(1町2村)
高富町富岡村(現・山県市)、
岩野田村(現・岐阜市)
海津郡
(2町3村)
今尾町高須町城山村石津村吉里村(現・海津市)
尾北電気 電灯・電力供給区域
愛知県 丹羽郡
(2町5村)
犬山町(一部)・城東村池野村羽黒村楽田村(現・犬山市)、
扶桑村(現・扶桑町)、
古知野町(一部)(現・江南市
葉栗郡
(1村)
草井村(現・江南市)
岐阜県 可児郡
(3町11村)
御嵩町上之郷村中村伏見村(現・御嵩町)、
錦津村(現・八百津町)、
今渡町広見村平牧村久々利村土田村春里村帷子村兼山町(現・可児市)、姫治村・(現・可児市・多治見市
加茂郡
(2村)
和知村(現・美濃加茂市・八百津町)、
上米田村(現・川辺町
武儀郡
(1村)
上麻生村(一部)(現・加茂郡七宗町
板取川電気 電灯・電力供給区域
岐阜県 武儀郡
(2町15村)
美濃町安曽野村下牧村上牧村中有知村(一部)・藍見村大矢田村(現・美濃市)、
関町吉田村倉知村瀬尻村下有知村南武芸村東武芸村洞戸村板取村(現・関市)、
西武芸村(現・山県市
加茂郡
(3町7村)
太田町古井村下米田村加茂野村(現・美濃加茂市)、
富田村(現・富加町)、富岡村(現・富加町・関市)、田原村(現・関市)、
坂祝村(現・坂祝町)、
川辺町、下麻生町(現・川辺町・七宗町)
山県郡
(4村)
保戸島村(現・関市)、
山県郡春近村厳美村(現・岐阜市)

これらの地域は東邦電力ののち1942年(昭和17年)の配電統制に伴って中部配電の供給区域とされ[96][97]、さらに第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)からは中部電力の供給区域になっている[97]

電源の推移

以下、沿革のうち電源の推移について詳述する。

第一発電所

名古屋電灯最初の発電所は火力発電所第一発電所である。愛知電灯を合併して同社の発電所(第二発電所)を引き継ぐまでは社内唯一の電源で、その当時は「電灯中央局」と称した[14]。場所は名古屋市南長島町入江町(現・中区栄二丁目)で[5]、跡地には中部電力電気文化会館が建つ[98]

1889年(明治22年)12月に開業した時点での電灯中央局の設備は、米国A・P・ハンプソン製ボイラー3台、米国アーミングトン・アンド・シムス製蒸気機関2台、ドイツAEG製エジソン型直流発電機(出力25kW)4台であり、直流250ボルトにて配電した[9]。開業以来の需要増加に対応するため、1893年(明治26年)2月、京都電灯から譲り受けた設備一式(米国製ボイラー・蒸気機関各1台、三吉工場製25kWエジソン型発電機2台[99])を増設[9]。さらに翌1894年(明治27年)7月、岡谷商店製ボイラー1台・米国製蒸気機関1台とAEG製25kW発電機2台を増設し[100]1895年(明治28年)12月には川崎造船所製ボイラー・米国製蒸気機関とAEG製25kW発電機2台を増設している[101]

こうして第一発電所は最大で出力250kWの発電所となったが[102]、後述の水主町発電所において1904年(明治37年)6月に第2期工事が完成すると発電を休止した[14]。その後は予備発電所として残され、一部が試験室として用いられたが、1911年(明治44年)9月27日に試験室の失火が原因で全焼した[103]

第二発電所

1896年(明治29年)5月に愛知電灯の合併によって継承した同社の火力発電所を、名古屋電灯では第二発電所と称した[14]。所在地は名古屋市下広井町3丁目[14](現・中村区名駅南)。

第二発電所の設備は、ボイラー2台、蒸気機関4台、エジソン式直流発電機30kW・25kW各2台、ホプキンソン型600-800灯用交流発電機1台であった[104]。特筆すべきは交流発電機の存在で、直流発電機しか導入していなかった名古屋電灯では小規模ながら初めての交流発電機となった[14]。この交流発電機を用いて名古屋電灯では熱田町方面への長距離送電を試行し、試験結果を受け直流送電の全廃を決定して水主町発電所の建設に取り掛かった[14]1901年(明治34年)7月、同発電所の運転開始とともに第二発電所は廃止された[14]

水主町発電所

交流・高圧送電の採用を目的に建設された火力発電所が第三発電所で、名古屋市水主町3丁目(現・中村区名駅南、中部電力水主町変電所の位置[105])にて1900年(明治33年)6月に着工、翌年1901年7月22日より運転を開始した[14]。その後1904年6月4日に第2期工事[14]、同年12月27日に第3期工事、1906年(明治39年)12月27日に第4期工事がそれぞれ終了して運転を開始している[16]。この間の1904年7月、第3発電所から水主町発電所へと改称した[16]

第1期・第2期工事の際の発電所設備は英国製ボイラー・米国製蒸気機関と米国ゼネラル・エレクトリック (GE) 製300kW交流発電機(各1台)という組み合わせ[106]、第3期・第4期工事の際の増設設備は米国バブコック・アンド・ウィルコックス (B&W) 製ボイラー・米国GE製蒸気タービンとGE製500kW交流発電機(各1台)という組み合わせであり[107]、発電所出力は最終的に1,600kWとなった[102]。発電機の発生電力は4台とも同じで二相交流電圧2,300ボルト・周波数60ヘルツ[106][107]

長良川発電所の運転開始に伴い1910年(明治43年)6月14日より運転を休止した[108]。このため臨時的に水主町発電所から送電する以外は名古屋電灯の電源はすべて水力発電となったが、その後渇水時その他の予備発電所とすることが決まり、1913年(大正2年)5月に発電機が三相交流発電機に改造された[108]。しかし旧式化して石炭費が高くつき用水供給も不十分な点があるため、熱田発電所拡張にあわせて撤去が決まり、名古屋電灯は1917年(大正6年)12月22日に廃止許可を得て翌年3月に発電所を撤去した[108]

小原発電所

名古屋電灯最初の水力発電所小原発電所といい、元は東海電気(旧・三河電力)が建設したものである[16]矢作川の支流田代川を利用する発電所で、1901年3月着工、1902年(明治35年)7月に竣工、9月より瀬戸町(現・瀬戸市)への送電を始めた[16]。所在地は愛知県西加茂郡小原村大字川下[109](現・豊田市川下町)。

発電所出力は200kWで[102]、設備はペルトン水車会社製ペルトン水車明電舎製100kW交流発電機(三相交流3,450ボルト・周波数60ヘルツ)各2台の組み合わせであった[110]1914年(大正3年)8月より瀬戸へも八百津発電所から送電するようになったため発電を休止[111]。その後の需要増加で一時再稼働するも1917年上期には発電を再停止し、そのまま1919年(大正8年)12月に6万9000円で岡崎電灯へ売却された[111]。現・中部電力川下発電所[102]北緯35度12分5.3秒 東経137度17分56.8秒)。

巴川発電所

小原発電所に続く水力発電所である巴川発電所は、東海電気が着工して名古屋電灯が工事を引き継いだもので、1908年(明治41年)2月11日に運転を開始した[16]。矢作川の支流巴川を利用する発電所で[16]、所在地は愛知県東加茂郡盛岡村大字戸中[109](現・豊田市戸中町)。

発電所出力は750kW[102]。設備はエッシャーウイスフランシス水車芝浦製作所製750kW三相交流発電機(電圧3,300ボルト・周波数60ヘルツ)各1台の組み合わせで、11キロボルト (kV) への昇圧用変圧器も設置する[112]。発生電力は初め愛知郡千種町(現・名古屋市千種区)の千種変電所へと送電したが[113]、1913年12月1日より出力全部を日英水電へと供給するようになった[91]。その後関西電気成立時点では、途中で熱田発電所と連絡しつつ22kV送電線にて知多半島方面へと送電していた[114]

長良川発電所

長良川発電所前に保存されている名古屋電灯時代からの水車・発電機(1981年まで使用)

大型水力発電所のうち名古屋電灯が着工し完成させたのが長良川発電所である[18]長良川を利用する発電所で、所在地は岐阜県武儀郡洲原村立花[109](現・美濃市立花)。発電所出力は4,200kW[115]

設備はフォイト製フランシス水車とシーメンス製2,500kW三相交流発電機(電圧2,300ボルト・周波数60ヘルツ)各2台の組み合わせで、33kVへの昇圧用変圧器も備える[112]。1910年3月15日、水車・発電機各2台(1・2号機)の竣工に伴って発電所は運転を開始した[116]。さらに同年4月27日に3号機も竣工して水車・発電機は3台となり、3台中1台を予備として運用する体制となったが、2号機は1918年(大正7年)2月になって取り外され、矢作川の臨時建設部串原仮発電所へと転用された[116]

長良川発電所からの送電を受ける名古屋方面の変電所は児玉変電所といい、愛知県西春日井郡金城村大字児玉(現・名古屋市西区)に発電所とともに設置された[116]。長良川発電所から児玉変電所までは33kV送電線にて送電されたほか[117]、関西電気成立時点ではこの長良川送電線から分岐して岐阜へ至る33kV線と小木一宮へ至る33kV線が存在していた[118]

八百津発電所

旧八百津発電所建屋(手前は旧放水口発電所)

大型水力発電所のうち名古屋電灯ではなく名古屋電力が着工したのが八百津発電所である[21]木曽川を利用する発電所で、所在地は岐阜県加茂郡八百津町字諸田[109]。発電所名は1917年6月1日に改称するまでは河川名をとって「木曽川発電所」と称した[119]。発電所出力は7,500kW[115]

設備はモルガン・スミス製水車とGE製2,500kW三相交流発電機(電圧6,600ボルト・周波数60ヘルツ)各4台の組み合わせで、66kVへの昇圧用変圧器も備える[112]。水車・発電機2台の完成に伴い1911年12月10日より運転を開始し、残りも翌年7月までに完成した[120]。八百津発電所の電力を受ける名古屋方面の変電所は萩野変電所(西春日井郡萩野村大字安井=現・名古屋市北区)と南武平町変電所(名古屋市南武平町)の2か所で、発電所と同時に建設[120]。八百津変電所から萩野変電所までを66kV送電線でつなぎ[117]、萩野変電所で降圧した上で市内配電をつかさどる南武平町変電所へ送電した[120]

八百津発電所は古い時代の設計に基いて洪水時の水位上昇に配慮し放水口を過度に高い位置に置いたため、洪水時以外はその分の落差を利用していなかった[121]。このため残留落差を利用した小発電所(放水口発電所)を増設することとなり[121]、1917年5月25日に竣工させた[122]。発電所出力は1,200kW[115]。水車・発電機は日立製作所製で、4台1組のフランシス水車で1台の発電機を駆動[121]。発生電力は八百津発電所へ送られた[121]

関西電気発足時点では、八百津発電所の発生電力は66kV送電線にて萩野変電所と同所から先三重県北部の富田変電所にも送電された[114]。また長良川発電所の系統との連絡用に萩野・児玉両変電所をつなぐ11kV線が存在していた[114]

なお八百津発電所の工事用発電所として名古屋電力が設置した旅足川(たびそこがわ)発電所があった[123]。同発電所1907年(明治40年)11月に使用認可[123]。木曽川支流の旅足川にあり、設備としては水車・75kW発電機各1台があった[123]。地元八百津町の希望があったため、名古屋電灯は工事終了後の1912年(明治45年)4月5日に水利権もあわせて2500円で町へ売却した[123]。八百津町は同発電所を元に以後町営電気事業を経営している[123]

熱田発電所

老朽化した水主町発電所にかわる渇水時に備えた予備火力発電所として新設されたのが熱田発電所である[124]。名古屋市南区熱田東町(現・熱田区)の土地を買収し、1914年6月に設置認可を得て直ちに着工、翌1915年(大正4年)9月25日に竣工させた[125]

主要設備はB&W製ボイラー5台、GE製または三菱造船所製蒸気タービン・発電機各3台(GE製2台・三菱製1台)[126]。運転開始当初は3,000kW発電機1台にて運転[124]。その後第一次世界大戦中の需要増加に対処するために増設が重ねられ[127]、1917年11月に第2期工事として4,000kW発電機1台、1918年6月に第3期工事として3,000kW発電機1台が竣工し、出力10,000kW(常用7,000kW・予備3,000kW[125])の発電所となった[124]

大同電力からの受電

串原発電所

1918年4月、名古屋電灯臨時建設部が工事を進めていた串原仮発電所(出力2,000kW)が竣工した[35]。この発電所は、矢作川での串原発電所中、大戦景気による需要急増に伴い設備納入を待つ余裕がなくなったため長良川発電所の予備設備一式を転用して急設された仮設発電所である[128]。名古屋への送電設備として六郷村(現・名古屋市東区)に六郷変電所を、発電所から六郷変電所へ77kV送電線を架設し、どちらも同年6月に竣工させた[129]。同年9月、前述の通り臨時建設部は名古屋電灯から分離されて木曽電気製鉄(後の大同電力)となった[35]

翌1919年7月、木曽川の賤母発電所が一部竣工し出力4,200kWで運転を始め、同年11月には全面竣工して出力1万2,600kWにより運転開始した[130]。一部運転開始と同時に先の串原・六郷間77kV送電線の途中に接続する送電線が架設されており、発生電力は六郷変電所へと送電された[129]。さらに1921年8月には上流側にて大桑発電所(出力11,000kW)が運転を開始[131]。同時に賤母・六郷間送電線との連絡線も設けられた[129]

矢作川の串原発電所(出力6,000kW)は1921年2月に完成し仮発電所は廃止された[128]。本発電所建設を機に、木曽川の系統とは別経路で名古屋方面へと輸送する送電線が整備され、呼続町(現・昭和区)に瑞穂変電所が新設されている[129]

発電所一覧

最後に、名古屋電灯が運転した発電所のうち関西電気(東邦電力)へと継承されたものを一覧表として纏めた。表には合併した各社から引き継いだものも含まれる。

愛知県所在
発電所名 種別 出力[102]
(kW)
所在地[132] 運転開始[102] 備考
巴川 水力 750 東加茂郡盛岡村(現・豊田市
(河川名:矢作川水系巴川
1908年2月 現・中電盛岡発電所(北緯35度6分19.4秒 東経137度19分7.9秒
布里 水力 500 南設楽郡鳳来寺村(現・新城市
(河川名:豊川
(1919年7月) 前所有者:豊橋電気[102]
現・中電布里発電所(北緯34度58分50.8秒 東経137度32分8.9秒
長篠 水力 750 南設楽郡長篠村(現・新城市)
(河川名:豊川)
(1912年3月) 前所有者:豊橋電気[102]
現・中電長篠発電所(北緯34度56分23.2秒 東経137度32分59.0秒
熱田 火力 10,000 名古屋市南区熱田東町(現・熱田区 1915年9月 1944年3月廃止[102]
岐阜県所在
発電所名 種別 出力[115]
(kW)
所在地[132] 運転開始[115] 備考
八百津 水力 7,500
放1,200
加茂郡八百津町
(河川名:木曽川
1911年12月 1917年5月放水口発電所増設[115]
1974年11月廃止[133]
美佐野 水力 60 可児郡上之郷村(現・御嵩町
(河川名:木曽川水系可児川
(1913年4月) 前所有者:尾北電気[115]
1935年7月廃止許可[134]
神淵川 水力 160 武儀郡上麻生村(現・七宗町
(河川名:木曽川水系神淵川
(1920年8月) 前所有者:尾北電気[115]
1969年3月廃止[115]
長良川 水力 4,200 武儀郡洲原村(現・美濃市
(河川名:木曽川水系長良川
1910年3月 現・中電長良川発電所(北緯35度34分23.8秒 東経136度55分45.8秒
抜戸 水力 113 武儀郡安曽野村(現・美濃市)
(河川名:木曽川水系板取川
(1910年12月) 前所有者:板取川電気[115]
1935年6月廃止[115]
井ノ面 水力 300 武儀郡安曽野村(現・美濃市)
(河川名:木曽川水系板取川)
(1914年1月) 前所有者:板取川電気[115]
現・中電井ノ面発電所(北緯35度33分36.2秒 東経136度54分42.4秒
白谷 水力 1,235 武儀郡板取村(現・関市
(河川名:木曽川水系板取川)
(1919年10月) 前所有者:美濃電化肥料[115]
現・中電白谷発電所(北緯35度39分41.0秒 東経136度49分7.4秒
小宮神 水力 350 揖斐郡春日村(現・揖斐川町
(河川名:木曽川水系粕川
(1908年12月) 前所有者:岐阜電気[115]
現・中電小宮神発電所(北緯35度27分59.0秒 東経136度27分44.2秒
河合 水力 800 揖斐郡春日村(現・揖斐川町)
(河川名:木曽川水系粕川)
(1913年5月) 前所有者:岐阜電気[115]
現・中電河合発電所(北緯35度28分4.3秒 東経136度27分27.7秒
春日 水力 1,800 揖斐郡春日村(現・揖斐川町)
(河川名:木曽川水系粕川)
(1920年1月) 前所有者:岐阜電気[115]
現・中電春日発電所(北緯35度28分15.9秒 東経136度29分58.2秒

これらの発電所のうち、東邦電力時代に廃止されたものを除いて第二次世界大戦中の電力国家管理期は原則中部配電に帰属したが、八百津発電所(放水口発電所を含む)のみ日本発送電へ引き継がれた[102][115]。さらに戦後1951年(昭和26年)の電気事業再編成では中部配電の発電所は中部電力(中電)に継承されたが、八百津発電所は日本発送電から関西電力(関電)へと渡っている[102][115]

附帯事業の推移

名古屋電灯は電気供給事業以外にも電気機器の製造も手がけていた。創業時期は不明だが、逓信省の資料『電気事業要覧』記載の1918年時点における電機工場一覧には名古屋電灯の名がある[135]。工場(「工作所」と称す)の所在地は名古屋市中区下広井町3丁目(現・中村区名駅南)、生産品目は変圧器扇風機などであった[136]

工作所は関西電気成立後、東邦電力と改称した1922年6月26日付で株式会社東邦電機工作所へと分離された[137]。しかし同社は昭和恐慌下の事業整理で1930年(昭和5年)2月に解散している[138]

年表

本社・営業所・出張所所在地

1921年1月時点における本社および営業所・出張所の所在地は以下の通り[140]

本社ははじめ名古屋市南長島町にあり(1888年11月設置)、第一発電所と同一敷地内にあった[141]。その後発電の主力が水主町三丁目の水主町発電所に移ったことから同発電所構内に本社社屋を新築し1904年7月移転する[142]。さらに水主町発電所が廃止されると再び市街地へ本社を移すことになり、1911年6月旧名古屋電力本社(南武平町3丁目)へ仮移転の後、翌1912年5月新柳町に新本社を新築した[143]。本社本館は木造4階建てで、水主町の旧社屋も同時に移転して別館とし、追って南武平町の社屋も移築の上別館とされた[143]

旧名古屋電灯本社は東邦電力発足により同社名古屋支店となった[144]。支店が西松枝町へ移転した後、建物は1929年(昭和4年)1月より「電気普及館」(後に「電気百貨店」と改称)として活用されたが、1945年(昭和20年)3月の空襲で焼失している[144]。跡地は電気文化会館(第一発電所跡)の広小路通公開空地付近にあたる[145]

歴代役員一覧

歴代社長は以下の通りである[139]

  1. 三浦恵民 : 1888年8月 - 1891年1月
    この間専務制
    1. 三浦恵民 : 1891年1月 - 1907年1月
  2. 加藤重三郎 : 1911年7月 - 1913年12月
  3. 福澤桃介 : 1914年12月 - 1921年10月

また歴代の常務取締役・副社長は以下の通り[139]

  • 三浦恵民 : 1907年1月 - 1912年6月
  • 佐治儀助 : 1910年1月 - 同年6月
  • 福澤桃介 : 1910年6月 - 同年11月、1913年1月 - 1914年12月
  • 兼松煕 : 1910年11月 - 1912年6月
  • 下出民義 : 1914年12月 - 1918年2月副社長就任(1921年10月まで)
  • 角田正喬 : 1919年10月 - 1921年10月
  • 神谷卓男 : 1919年10月 - 1921年10月

歴代役員のうち、上記社長・副社長・専務・常務経験者以外の主な人物は以下の通り[139]

社史

  • 『名古屋電燈株式會社史』 - 稿本。1928年4月、東邦電力社内の「名古屋電燈株式會社史」編纂員によって纏められる。1913年ごろまでの名古屋電灯の歴史を記すが未完で、出版もされなかったが、名古屋電灯開業100年・中部電力能力開発センター設立20周年を記念して1989年6月同所より復刻刊行された。

脚注

注釈

  1. ^ 奥田も旧尾張藩士族であるが、明治初期に実業家に転身してすでに成功していた(『明治の名古屋人』455-457頁)
  2. ^ 中島郡(現・一宮市)出身。愛知電灯のほか名古屋電気鉄道の設立にも参加し同社の初代社長となっている(『名古屋鉄道社史』11-13頁)。
  3. ^ 加藤は市長時代、商業会議所会頭の奥田正香と深い繋がりのあったことで知られた。なお常務の兼松煕も奥田の腹心と言われた人物である(『明治の名古屋人』455-457頁)
  4. ^ 道路法では国道都道府県道などが規定され、道路に対する市の管理権が縮小されたため、市の道路管理を前提とする報償契約は無効になる、として各地でトラブルがあった(「道路法の影響 報償契約破棄」『中外商業新報』1920年4月25日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)
  5. ^ この報償契約はその後も維持され1933年(昭和8年)4月に満期となり更新されず自然消滅した。契約中にあった、名古屋市による事業買収も実施されていない(『東邦電力史』226頁)。

出典

  1. ^ a b c d 『株式年鑑』大正10年度310-311頁。NDLJP:975423/209
  2. ^ a b 『東邦電力史』1頁ほか
  3. ^ 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」59頁
  4. ^ a b c 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」64-69頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 『中部地方電気事業史』上巻9-15頁
  6. ^ a b 『東邦電力史』8-9頁
  7. ^ a b c 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」104-106頁
  8. ^ 『名古屋電燈株式會社史』34頁
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『中部地方電気事業史』上巻17-19頁
  10. ^ 『名古屋電燈株式會社史』28-29頁
  11. ^ 『中部地方電気事業史』上巻23頁
  12. ^ a b c d e f g h i j 『東邦電力史』15-18・602頁
  13. ^ a b c d e f g h 『中部地方電気事業史』上巻19-20頁
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『東邦電力史』18-20・603-605頁
  15. ^ a b 『中部地方電気事業史』上巻20-22頁
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『東邦電力史』20-26・605-606頁
  17. ^ a b c d e f g h i 『中部地方電気事業史』上巻61-63頁
  18. ^ a b c d e f g h 『中部地方電気事業史』上巻67-70頁
  19. ^ a b c 『名古屋電燈株式會社史』119-121頁
  20. ^ a b c d e f g 『中部地方電気事業史』上巻70-74頁
  21. ^ a b c d e f g 『中部地方電気事業史』上巻63-64頁
  22. ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』182頁
  23. ^ 『名古屋電燈株式會社史』168頁
  24. ^ a b c d e f 『中部地方電気事業史』上巻64-67頁
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『中部地方電気事業史』上巻74-77頁
  26. ^ a b c d 『福澤桃介翁伝』254-255・262-266頁
  27. ^ 『下出民義自伝』32頁
  28. ^ 『東邦電力史』31-34頁
  29. ^ a b 『東邦電力史』34-35頁
  30. ^ a b c d e 浅野伸一「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化」18-20頁
  31. ^ a b c d e f g h i 『名古屋電燈株式會社史』190-194頁
  32. ^ a b c d e 『中部地方電気事業史』上巻123-129頁
  33. ^ a b 『中京財界史』241-244頁
  34. ^ 『中京財界史』259・262頁
  35. ^ a b c d e f 『大同電力株式会社沿革史』73-76頁
  36. ^ a b c d e f g 『東邦電力史』35-36頁
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  40. ^ 『大同電力株式会社沿革史』35-38頁
  41. ^ 『大同電力株式会社沿革史』45・54頁
  42. ^ a b c d e f g 『大同製鋼50年史』42-51頁
  43. ^ 『大同製鋼50年史』52-55頁
  44. ^ a b c d e f 『大同製鋼50年史』66-73頁
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  47. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『東邦電力史』39-42頁
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  50. ^ 『名古屋市会史』第4巻435-436頁
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  55. ^ a b 『名古屋市会史』第4巻431-433頁
  56. ^ 『豊橋市史』第3巻708-710頁
  57. ^ 『電気年鑑』大正9年54頁、NDLJP:948316/78
  58. ^ a b 『名古屋市会史』第4巻583-586頁
  59. ^ 横山悦生「板取川水力電気と武藤助右衛門」
  60. ^ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編256頁、NDLJP:936470/602
  61. ^ 『可児市史』第3巻274-275頁
  62. ^ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編169頁、NDLJP:936470/558
  63. ^ a b 『名古屋市会史』第4巻586-589頁
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  65. ^ a b c d e f g h i j 『東邦電力史』82-86頁
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  68. ^ a b c d e 『中部地方電気事業史』上巻176-177頁
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  • 記事
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    • 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第13回講演報告資料集』、中部産業遺産研究会、2005年11月、59-110頁。 
    • 横山悦生「板取川水力発電と武藤助右衛門」『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第8回講演報告資料集』、中部産業遺産研究会、2000年11月、57-67頁。