豊橋電気 (1894-1921)
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 |
愛知県豊橋市関屋町12番地 |
| 設立 | 1894年(明治27年)2月11日 |
| 業種 | 電気 |
| 事業内容 | 電気供給事業 |
| 代表者 | 福澤桃介(社長) |
| 資本金 | 240万円(うち173万円払込) |
| 株式数 |
旧株:2万1200株(額面50円払込済み) 新株:2万6800株(25円払込) |
| 総資産 | 297万4千円 |
| 純利益 | 21万6千円 |
| 配当率 | 年率12.0% |
| 決算期 | 6月末・12月末(年2回) |
豊橋電気株式会社(とよはしでんきかぶしきがいしゃ)は、明治後期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。中部電力管内にかつて存在した事業者の一つ。
本社は愛知県豊橋市。1894年(明治27年)に豊橋電灯株式会社(豊橋電燈、とよはしでんとう)として設立され、1906年(明治39年)豊橋電気に改称。豊川(寒狭川)などに水力発電所を建設し、愛知県東部の東三河地方や静岡県西部の一部地域に電気を供給した。1921年(大正10年)に名古屋市を地盤とする名古屋電灯(後の東邦電力)に合併された。
渥美半島を供給地域とした豊橋電気(1921 - 1939年、旧・豊橋電気信託)とは直接の関係はないが、本稿で記述する豊橋電気の経営者の一部が改めて1921年に設立した会社が豊橋電気信託である。
目次
沿革[編集]
創業期[編集]
豊橋電気は、「豊橋電灯株式会社」の社名で1894年(明治27年)2月11日に設立された[2]。開業は同年4月のことで、1889年(明治22年)に名古屋市で開業した名古屋電灯以来東海地方では2番目、全国でも15番目に開業した電気事業者である[3]。
豊橋電灯の設立にあたったのは豊橋商業会議所(現・豊橋商工会議所)の有志である。1893年(明治26年)3月に発足した商業会議所では、名古屋市など主要都市で電灯が普及しつつあるのを踏まえ、豊橋にも電灯を導入し町全体を「不夜城」として商工業の発展を目指す、として発足後最初の事業として電灯設置を企画する[4]。有志が各地を調査した結果、豊橋市(当時は渥美郡豊橋町)でも電気事業の起業が可能との結論が得られたことから、資本金1万5000円で豊橋電灯を設立した[4]。
電源として、渥美郡高師村(現・豊橋市)にあった梅田川の農業用水車を買収、これを発電用水車へと改造し、三吉電機工場製の15キロワット交流発電機を併設して水力発電所とした[5]。豊橋市街までは10キロメートルほどの距離があったため、当時としては高圧の2000ボルトという送電電圧を採用[5]。1894年3月に発電所を完成させ、4月1日より開業した[5][4]。開業当初の供給実績は、同年6月末時点で需要家戸数47戸、供給電灯数143灯であった[5]。ところが創業当初は梅田川の渇水と送電距離の長さから満足な供給ができておらず、安定供給にはほど遠い状態であった[5]。そのため蒸気機関を発電所に据え付け、供給を補完せざるを得なかった[5]。
梅田川での発電に失敗したことから、豊橋電灯では水力発電に適する地点を調査し豊川上流(寒狭川)の開発を計画するが、工事費が約25万円にのぼることから断念[6]。替わりに神野水田の牟呂用水を利用して牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)に牟呂発電所を新設する方針を決定した[6]。梅田川発電所の設備を三吉電機工場に返却した上で、新たに30キロワット発電機を購入した[7]。牟呂発電所は1895年(明治28年)9月に運転を開始したが[8]、ここでも水量不足に悩まされ、2か月後に蒸気機関を設置、結果として火力発電中心の発電となった[7]。
初期の供給先としては豊橋に駐屯していた歩兵第18連隊があり、やがて官庁や商店街でも電灯の利用が拡大、一般家庭でも普及していった[6]。配電範囲を拡張すべく豊橋電灯は1896年(明治29年)に増資を行って資本金を2万5000円とし、翌年にはさらに倍額増資を行い5万円とした[6]。供給の拡大につれて収入も増加し、1897年(明治30年)上期より利益をあげうるようになり、同年下期からは配当も始まった[6]。1900年(明治33年)、需要の拡大に応ずるため牟呂発電所にに出力50キロワットの新発電機を設置、1905年(明治38年)4月には蒸気機関を増設し旧発電機を再稼動させて発電所出力を計80キロワットとしている[7]。
明治後期[編集]
1906年(明治39年)11月、新たに動力用電力の販売を営業目的に追加し、豊橋電灯は社名を「豊橋電気株式会社」に変更した[6]。当時は日露戦争後の企業勃興期にあたり、商工業者や役所、一般家庭における電灯需要や工業向けの電力需要が急増していた[6]。需要増に対応するべく南設楽郡作手村(現・新城市)における新水力発電所の建設を決定し、翌1907年(明治40年)に資本金を5万円から15万円へ、2度目の増資で50万円へと拡大[6]。突貫工事の末、1908年(明治41年)5月に見代発電所の運転を開始した[9]。同発電所は豊川支流巴川の水力を利用し、出力は250キロワット(1910年の増設後は360キロワット)[9]。発電所と同時に豊橋郊外の下地町に変電所を建設し、発電所から変電所まで10キロボルトの電圧で送電した上で変電所にて降圧して配電する、という供給方式を整備した[9]。
見代発電所の完成後も、豊橋への陸軍第15師団設置などによって電気の需要は増加を続けた[6]。同発電所の新設にあわせて1907年10月に電灯料金の値下げを実施したこともあり、1907年12月の時点で約1800灯であった供給電灯数が半年後の1908年6月には約5200灯へと増加する、という具合に供給成績は急速に向上した[10]。また1908年上期に動力用電力の供給を初めて実施して以来、精米・製材・製粉・揚水などの用途で電動機の普及が進んだ[10]。急激な需要増加に対処すべく1909年(明治42年)下地町に火力発電所(下地発電所、出力150キロワット)を新設している[6]。
1910年(明治43年)11月、豊橋電気は傍系会社として資本金50万円で寒狭川電気株式会社を設立[6]。同社に通じて寒狭川の開発に着手し、翌1911年(明治44年)5月に同社を吸収した後、1912年(明治45年)2月に南設楽郡長篠村(現・新城市)において出力500キロワットの長篠発電所を完成させた[6]。また発電所完成に前後して豊橋市外への供給拡大を推進し、1911年10月から小坂井村・牛久保町・豊川町(いずれも現・豊川市)にて、1912年4月からは二川町(現・豊橋市)および新城町(現・新城市)にて、それぞれ供給を開始した[10]。これらの結果1912年6月の時点では電灯需要家数は5000戸を上回り、供給灯数は約1万6800灯を数えた[10]。
豊橋電気の資本金は、1907年に50万円、1911年の寒狭川電気合併以後は100万円となったが、この時期になると出資者には地元豊橋の人物以外も名を列ねるようになっていた[11]。その代表格が東京から参加した実業家福澤桃介である。株式投資で得た資金を電気事業へと投資しつつあった福澤は、豊橋電気創業者の一人で社長を務める三浦碧水の勧めで1908年(明治41年)より豊橋電気の筆頭株主となり、翌1909年には社長に就任[11]。1912年まで社長、以降は専務取締役として三浦の要請で経営改革にあたった[11]。なお福澤は、豊橋電気への参入後に名古屋電灯の株式買収に着手し、同社でも筆頭株主となって1910年より取締役に就任している[12]。
大正期[編集]
大正に入ると豊橋電気は静岡県にも進出する。浜名郡新居町をはじめとする浜名湖西部の地域(現・湖西市)にて進行していた電気事業の計画に三浦碧水や福澤桃介ら豊橋電気関係者も参加し、1912年5月西遠電気株式会社を設立[13]。同社は豊橋電気から電力の供給を受けて1913年(大正2年)1月に開業、新居町などに供給を開始した[13]。その後1916年(大正5年)4月になって豊橋電気は西遠電気を合併、この地域の事業を直営とした[13]。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発し、その影響で大戦景気が始まると、豊橋電気の管内でも電灯・電力ともに需要がさらに増加した[11]。特に電力需要は旺盛であり、1916年になると年末に新規供給の受け付けを一時中止するほどであった[11]。対策として浜松市などを供給区域とする日英水電との間で供給契約を締結し、1917年(大正6年)1月より同社からの受電を開始した[11]。同年6月時点での供給実績は、電灯供給約4万3,600灯、電力供給約830馬力に上り、好調な業績を背景に特別配当や増配を実施している[11]。さらなる需要増加に応ずるため、1917年11月、先に水利権を確保していた布里発電所の建設に着手した[11]。
供給力増強の一方で経営の合理化も同時に進められ、下地発電所を廃止したほか、1917年5月には見代発電所と付属設備一切を東三電気へと売却した[11]。この事業譲渡により新城町など新城地区への供給が東三電気の手に移っている[14]。これらの合理化は、三浦碧水の死去(1915年2月)に伴い専務取締役の福澤桃介が実権を握り(1918年より再び社長となる)、1916年より支配人に技師長出身の今西卓が就任してさらなる経営改革を図った結果とされる[11]。
建設中の布里発電所(出力500キロワット)は1919年(大正8年)7月に運転を開始[15]。さらに、寒狭川の布里・長篠両発電所の中間地点に横川発電所(出力800キロワット)の建設を計画したほか、1920年(大正9年)12月に矢作水力が豊川に変電所を建設すると同社から500キロワットの受電を開始し、需要増加に対応できる体制を整備した[14]。
合併と余波[編集]
1920年(大正9年)3月、大戦景気が終焉し戦後恐慌が発生する。それまでの好況期には好業績を上げていた豊橋電気であったが、この恐慌発生により一転して苦境に陥った[16]。その打開策としてまずは電力需要の減少対策に取り組み、余剰電力を水道の送水に転用するということで同年5月上水道の敷設を豊橋市に申請した[16]。しかし私設の上水道については市議会などで反対意見が多く、上水道敷設計画は立ち消えとなった[16]。
一方社長の福澤桃介は、自身が社長を兼ねる名古屋電灯と豊橋電気の合併を計画[16]。そして1920年12月5日付で両社の間に合併契約が締結された[17]。合併条件は、存続会社の名古屋電灯は378万円を増資し解散する豊橋電気(資本金240万円・払込173万円)の株主に対してその持株1株につき名古屋電灯の新株を1.575株の割合で交付するというものであった[17]。翌1921年(大正10年)4月、両社の合併が成立し、豊橋電気は解散した[16]。
名古屋電灯との合併に際し、地元資本が外部の資本に吸収されるとみた地元豊橋では反対の声が上がっていた[16]。反対の動きは合併契約締結の翌日に早くも豊橋市議会にて出現し、議員協議会において豊橋電気の事業を市営化するという決議がなされた[16]。21日に開催された豊橋電気の株主総会でも地元株主から合併反対の意見が出たが、会社側が豊橋市へ2万円を寄付するという条件で合併契約は総会で承認された[16]。翌1921年2月、市議会は事業買収案を豊橋電気へ提出するものの、会社側はすでに当局の合併認可も下りているとして市の提案を拒否し、合併を実行に移す[16]。合併により豊橋電気が名古屋電灯豊橋営業所となった後も合併反対運動は続き、同年7月、市議会は合併不承認を決議するに至った[18]。
豊橋市会と名古屋電灯が対立を続けるうちに市民の間でも名古屋電灯を非難する声が高まり、市会議員による演説会や新聞社主宰の市民大会が相次ぎ開催された[18]。やがて争点は電気料金の値下げへと移行していき、「電気料金値下期成同盟会」が発足[18]。さらには市議会に強固な地盤を持つ、元豊橋電気相談役大口喜六が率いる「同志派」に対する攻撃へと発展し、政治問題と化していった[18]。期成同盟会は名古屋電灯と交渉するが、川口彦治愛知県知事が仲裁に入り、知事から委嘱された宝飯郡長・豊橋警察署長により調停を開始[18]。1921年10月、翌年7月から電灯料金を引き下げる、合併記念として公会堂を建築して市に寄付する、といった内容の仲裁案が示され、同盟会・会社側ともにこれを受諾、同盟会は11月に報告演説会を開いて運動の終結と勝利を宣言してこの問題は一応の決着をみた[18]。
なお、豊橋電気の市営化に賛成する声は社内にもあり、賛成論を唱えていた専務取締役武田賢治と支配人今西卓の2名は合併を機に独立、新たに豊橋電気信託という会社を立ち上げ、1921年11月に渥美半島の電気事業者2社を統合した[19]。同社は翌1922年(大正11年)に社名を変更し、「豊橋電気」という社名を引き継いでいる[19]。
合併後[編集]
豊橋電気合併に先立つ1920年5月、名古屋電灯は一宮市の一宮電気を合併していた[20]。以後同社は周辺事業者の合併を積極化し、1921年には岐阜電気・豊橋電気・板取川電気ほか2社を相次いで吸収[20]。さらに奈良県の関西水力電気と合併し、翌1922年には九州の九州電灯鉄道などを合併して、中京・関西・九州にまたがる大電力会社東邦電力となった[21]。
1930年(昭和5年)になり、豊橋区域(豊橋営業所管内)の事業は東邦電力から分社化され、名古屋区域との間に挟まる岡崎電灯と統合、中部電力(岡崎)が経営するところとなった[22]。1937年(昭和12年)、東邦電力は中部電力を合併し[22]、以降豊橋市に豊橋支店を構えた[23]。
年表[編集]
- 1894年(明治27年)2月11日 - 豊橋電灯株式会社として設立[2]。
- 1894年(明治27年)4月1日 - 梅田川に発電所を建設し開業[4]。
- 1895年(明治28年)9月 - 梅田川発電所に代えて牟呂発電所運転開始[8]。
- 1906年(明治39年)11月 - 豊橋電気株式会社に社名変更[6]。
- 1908年(明治41年)5月 - 見代発電所運転開始[15]。
- 1909年(明治42年) - 下地発電所運転開始[15]。
- 1910年(明治43年)11月 - 傍系会社として寒狭川電気株式会社を設立[6]。
- 1911年(明治44年)5月 - 寒狭川電気を合併[6]。
- 1912年(明治45年)3月 - 長篠発電所運転開始[15]。
- 1912年(明治45年)5月 - 傍系会社として西遠電気株式会社を設立[13]。
- 1915年(大正4年)9月 - 牟呂発電所廃止[8]。
- 1916年(大正5年)4月 - 西遠電気を合併[13]。
- 1916年(大正5年)10月 - 下地発電所廃止[15]。
- 1917年(大正6年)5月 - 見代発電所と新城町周辺における供給権を東三電気へ譲渡[14]。
- 1919年(大正8年)7月 - 布里発電所運転開始[15]。
- 1920年(大正9年)12月5日 - 名古屋電灯との間で合併契約を締結[17]
- 1921年(大正10年)4月 - 名古屋電灯との合併成立、豊橋電気解散[16]。
供給区域[編集]
1919年(大正8年)12月末時点の電灯・電力供給区域は以下の通り[24]。自治体名は当時のものである。
| 愛知県 | 市部 | 豊橋市 |
|---|---|---|
| 宝飯郡 (6町7村) |
下地町・前芝村(現・豊橋市)、 豊川町・牛久保町・八幡村・国府町・御油町・赤坂町・長沢村・萩村・小坂井村・御津村(現・豊川市)、大塚村(現・豊川市・蒲郡市) | |
| 渥美郡 (1町4村) |
二川町・高師村・牟呂吉田村・老津村(現・豊橋市)、杉山村(現・豊橋市・田原市) | |
| 八名郡 (1村) |
三上村(現・豊川市) | |
| 静岡県 | 浜名郡 (2町4村) |
新居町(一部)・白須賀町・吉津村・新所村・入出村・知波田村(現・湖西市) |
区域外では渥美郡田原町(現・田原市)で三河セメント、神戸村(同)で渥美電気・福江電灯へ電力を供給していた[24]。1919年末時点における逓信省の統計によると、電灯供給実績は需要家2万7903戸・取付灯数6万2806灯(休灯中・臨時灯を除く)[25]、電力供給実績は923.0キロワット(うち電動機用電力は817.0キロワット)であった[26]。
1916年8月末時点では、上記市町村のほか南設楽郡新城町・東郷村・作手村(いずれも現・新城市)においても供給していたが[27]、1917年(大正6年)5月にこの地域の供給権は見代発電所とあわせて東三電気に譲渡されている[14]。
発電所[編集]
牟呂発電所[編集]
豊橋電灯創業期の発電所は牟呂発電所といい、1895年(明治28年)9月から1915年(大正4年)9月まで運転された[8]。
1894年(明治27年)4月の豊橋電灯開業に際して建設された発電所は牟呂発電所ではなく梅田川発電所といい、豊橋近郊の渥美郡高師村(現・豊橋市)にあった[5]。梅田川から取水するもので農業用水車を改造した発電用水車と三吉電機工場製の15キロワット発電機(単相交流・周波数100ヘルツ)を設置して発電したが、水量不足と送電距離の長さから供給力不足であり、火力発電設備(ボイラー・蒸気機関)の併設を余儀なくされた[5]。このように設計に欠陥があった梅田川発電所に代わる発電所として建設されたのが牟呂発電所で[7]、牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)に設置[6]。牟呂用水からの取水により三吉工場製の水車と30キロワット発電機にて発電したが、ここでも水量不足のため運転開始2か月後にボイラー・蒸気機関を追加している[7]。
1900年(明治33年)になって需要増加のため50キロワット発電機1台を増設[7]。1905年(明治38年)4月には蒸気機関も増設して休止中の30キロワット発電機を再稼働させて出力計80キロワットの発電所とされた[7]。
見代発電所[編集]
豊橋電気時代、需要増加への対応のために設置されたのが見代(けんだい)発電所である[9]。豊橋市から離れた愛知県南設楽郡作手村大字保永(現・新城市作手保永)字四郎田に位置し、豊川(寒狭川)支流巴川から取水する水力発電所である[9]。
運転開始は1908年(明治41年)5月で、1910年(明治43年)に水車・発電機が1台ずつ増設され2台体制となって発電所出力が250キロワットから360キロワットへと増強された[9]。水車は東西電気製ペルトン水車、発電機はウェスティングハウス・エレクトリック製交流発電機(周波数60ヘルツ)を備え、10キロボルトの電圧で豊橋近郊下地町に新設された変電所へと送電した[9]。だが設計時に水量測定を誤ったため渇水時には出力が200キロワット程度へと減少する、水路に木樋を多用したために水路維持管理に費用・労力を要する、といった欠点があった[9]。
1917年(大正6年)5月に豊橋電気から東三電気へ売却された[14]。その後発電所は三河水力電気、中央電力、中部配電と渡り、中部電力によって1959年(昭和34年)6月に廃止された[15]。
下地発電所[編集]
1909年(明治42年)から1916年(大正5年)10月にかけて、下地発電所という火力発電所が運転された[15]。
下地発電所は見代発電所の渇水時の発電力低下を補給するためのもので、同発電所からの送電を受ける下地町の変電所に隣接して設置された[28]。発電所出力は150キロワットで、芝浦製作所製の蒸気機関・発電機1台を備えた[28]。
長篠発電所[編集]
豊川上流部の寒狭川にある3つの水力発電所のうち最初に建設されたのが長篠発電所である。所在地は南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市横川)の寒狭川左岸[29]。1912年(明治45年)3月に運転を開始した[15]。
設備はフォイト製フランシス水車とシーメンス製発電機を初め1台ずつ[29]、1915年11月の増設以降は2台ずつ備える[14]。発電所出力は当初500キロワット、増設以降は750キロワットである[15]。設計上の特徴として、水量が多いが有効落差が小さいためナイアガラの滝にある水力発電所を参考に、縦軸水車を採用してその垂直上に縦軸発電機を置いている点が挙げられる[29]。送電線は11キロボルト線を見代発電所から豊橋方面へ伸びる送電線の途中に接続した[29]。
中部電力(岡崎)、東邦電力、中部配電を経て中部電力に継承されているが[15]、豊橋電気時代からの発電所建屋・設備は1947年(昭和22年)に落雷で全焼した[30]。現・中部電力長篠発電所(地図)。
布里発電所[編集]
寒狭川の水力発電所のうち2番目に建設されたのは布里(ふり)発電所である。所在地は南設楽郡鳳来寺村大字布里(現・新城市布里)字厚ノ久保で、先に建設された長篠発電所の上流側にあたる[14]。1919年(大正8年)7月の運転開始で、発電所出力は500キロワット[15]。設備は電業社製フランシス水車・芝浦製作所製発電機各1台を備える[14]。布里発電所の完成に伴い豊橋方面への送電電圧は33キロボルトへ昇圧された[14]。
長篠発電所と同様の変遷をたどって戦後中部電力に継承された[15]。豊橋電気時代からの設備は1983年(昭和58年)の改修まで使用されている[31]。現・中部電力布里発電所(地図)。
横川発電所[編集]
寒狭川のうち長篠・布里両発電所の間に建設された発電所が横川発電所である。所在地は長篠村大字横川字大久保[14]。豊橋電気が計画したが名古屋電灯と合併しさらに同社が関西電気となった後の[14]、1922年(大正11年)2月に運転を開始した[15]。なお横川発電所を最後に水量の少ない豊川水系では発電所建設が行われなくなった[31]。
発電所出力は800キロワット[15]。設備は電業社製フランシス水車・芝浦製作所製発電機各1台を備える[14]。長篠発電所と同様の変遷をたどって中部電力に継承され[15]、豊橋電気時代からの設備は1987年(昭和62年)の改修まで使用された[31]。現・中部電力横川発電所(地図)。
歴代社長[編集]
- 杉田権次郎 - 1894年(明治27年)2月就任[4]。
- 三浦碧水 - 1896年(明治29年)就任[6]。初代・4代目豊橋町長(1889 - 1892年、1895 - 1898年)、愛知県会議員(1892 - 1898年)、衆議院議員(1894年、第3回衆議院議員総選挙当選)などを歴任した人物[32]。
- 伊東米作 - 1909年(明治42年)就任[10]。
- 福澤桃介 - 1909年就任。当時の筆頭株主[11]。
3代目までの3人(杉田・三浦・伊東)は8人いた会社発起人の一員である[4]。福澤は1912年以降専務取締役で、再度社長となった三浦碧水の死去(1915年2月)後1918年(大正7年)に社長へと戻った[11]。以来名古屋電灯との合併まで社長を務めた[16]。
脚注[編集]
- ^ 『株式年鑑』大正9年度331頁。NDLJP:975422/210
- ^ a b 『豊橋市史』第8巻620頁
- ^ 『中部地方電気事業史』上巻23頁
- ^ a b c d e f 『豊橋市史』第3巻708-710頁
- ^ a b c d e f g h 『東三河地方電気事業沿革史』1-5頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『豊橋市史』第3巻710-712頁
- ^ a b c d e f g 『東三河地方電気事業沿革史』7-8頁
- ^ a b c d 『中部地方電気事業史』下巻345頁
- ^ a b c d e f g h 『東三河地方電気事業沿革史』10-14頁
- ^ a b c d e 『豊橋市史』第3巻712-718頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 『豊橋市史』第4巻607-610頁
- ^ 『中部地方電気事業史』上巻74-77頁
- ^ a b c d e 『新居町史』第2巻227-229頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 『東三河地方電気事業沿革史』32-34頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『中部地方電気事業史』下巻330-331頁
- ^ a b c d e f g h i j k 『豊橋市史』第4巻610-613頁
- ^ a b c 『名古屋市会史』第4巻584-586頁。NDLJP:1451189/313
- ^ a b c d e f 『豊橋市史』第4巻53-65頁
- ^ a b 『豊橋市史』第4巻613-615頁
- ^ a b 『東邦電力史』39-42頁
- ^ 『東邦電力史』82-111頁
- ^ a b 『東邦電力史』258-269頁
- ^ 『東邦電力史 前史稿本及年譜』353頁(年譜)
- ^ a b 『電気事業要覧』第12回52-53頁。NDLJP:975005/51
- ^ 『電気事業要覧』第13回254-255・280-281頁。NDLJP:975006/157・NDLJP:975006/170
- ^ 『電気事業要覧』第13回280-281頁。NDLJP:975006/170
- ^ 『電気事業要覧』第9回44-45頁。NDLJP:975002/42
- ^ a b 『東三河地方電気事業沿革史』14-15頁
- ^ a b c d 『東三河地方電気事業沿革史』18-23頁
- ^ 杉浦雄司「豊川水系の水力発電史」76-79頁
- ^ a b c 杉浦雄司「豊川水系の水力発電史」79-84頁
- ^ 『豊橋市史』第3巻索引29-30・35頁
参考文献[編集]
- 企業史
- 中部電力電気事業史編纂委員会(編) 『中部地方電気事業史』上巻・下巻、中部電力、1995年。
- 東邦電力史編纂委員会(編) 『東邦電力史』 東邦電力史刊行会、1962年。
- 『東邦電力史 前史稿本及年譜』 東邦電力史刊行会、1961年。
- その他文献
- 新居町史編さん委員会(編) 『新居町史』第2巻通史編下、新居町、1990年。
- 商業興信所(編) 『日本全国諸会社役員録』明治27年版、商業興信所、1894年。
- 逓信省電気局(編)
- 『電気事業要覧』第9回、逓信協会、1917年。
- 『電気事業要覧』第12回、逓信協会、1920年。
- 『電気事業要覧』第13回、逓信協会、1922年。
- 『電気事業要覧』第14回、電気協会、1922年。
- 豊橋市史編集委員会(編)
- 『豊橋市史』第3巻近代編、豊橋市、1983年。
- 『豊橋市史』第4巻現代編、豊橋市、1987年。
- 『豊橋市史』第8巻近代資料編、豊橋市、1979年。
- 名古屋市会事務局(編) 『名古屋市会史』第4巻、名古屋市会事務局、1941年。NDLJP:1451189。
- 野村商店調査部(編) 『株式年鑑』大正9年度、野村商店調査部、1920年。
- 芳賀信男 『東三河地方電気事業沿革史』 芳賀信男、2001年。
- 記事
- 杉浦雄司「豊川水系の水力発電史」、『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第1回講演報告資料集』、中部産業遺産研究会、1993年6月、 70-86頁。