中山裕章
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県高知市 |
生年月日 | 1967年11月4日(56歳) |
身長 体重 |
176 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1985年 ドラフト1位 |
初出場 |
NPB / 1986年5月8日 CPBL / 2002年3月9日 |
最終出場 |
NPB / 2001年8月22日 CPBL / 2003年9月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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中山 裕章(なかやま ひろあき、1967年11月4日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手(投手)[1]。
1986年にドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団して以降リリーフ・先発で主力投手として活躍したが、1991年オフに幼女への強制わいせつ事件を起こして神奈川県警察に逮捕され[2][3]、後に横浜地方検察庁から不起訴処分となるものの球団を解雇された[4][5]。
この事件を受けてセントラル・リーグは日本野球機構(NPB)全12球団に対し「無期限契約回避措置を要望する声明」を通達したが[6]、声明が2年後の1993年オフに解除され中日ドラゴンズで打撃投手として球界復帰し[7]、翌1994年シーズン途中に現役復帰(支配下選手登録)を果たしてからは中日でリリーフとして活躍し1999年のリーグ優勝に貢献した。
経歴
プロ入り前
高知市愛宕町で生まれ[8]、高知市立一ツ橋小学校・高知市立城北中学校を経て高知市立高知商業高等学校へ進学した[9]。大洋時代の監督・須藤豊は高知商高の大先輩にあたるほか、阪神タイガース・藤川球児は城北中・高知商高の後輩である[10]。
城北中学校野球部に入部した直後、後に中学・高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人と出会ったが、岡村は当時の中山に対して「いけ好かない奴」と悪印象を抱いており、岡村の勘違いから大喧嘩に発展したこともあった[11]。過ちに気付いた岡村が謝罪したところ中山は快く許し、それ以降は仲良くなったが、中山は「何事にも執着を示さない」性格から練習に身が入らず、1年生の夏休み前には野球部の練習を休みがちになってしまった[11]。岡村が「もう退部するのか?」と心配していたところ、中山は母親とともに野球部のグラウンドに姿を見せ、母親が顧問に「引き続き指導してください」と頼みに来たため、中山は辛うじて野球を続けることとなった[11]。1982年秋、中学の高知県大会決勝が雨天順延の影響を受けて偶然、後に中山が進学した高知商業高校のグラウンドで開かれたが、そこに当時の高知商高野球部監督・谷脇一夫が偶然顔を出していた[12]。谷脇は「普段は中学生を自校の部に勧誘することはしない」性格だったが、圧倒的な速球を投げる中山の姿を見て「中学生同士の対決なのに対戦打者のバットにかすりもさせない」ほどの素質に惚れ込み、後に中山が在籍していたチームが再び高知商高のグラウンドへ練習に来たことがあったため、谷脇はこの時に中山に「うちに来てほしい」と声を掛けた[12]。
高校進学の際、高知商高以外にも明徳義塾高校など高知県内の高校野球強豪校から進学の誘いを受けたが、「自宅から通える」という理由で高知商高に進学した[11]。女房役の岡村も甲子園の舞台で活躍することに憧れ、1978年の夏の甲子園で準優勝を遂げた高知商高に進学した[11]。高知商高1年生の1983年春、谷脇は新入部員の中にいた中山を見て「彼がいれば5回甲子園へ行くチャンスがあるうち3回は行ける。そのうち1回は優勝できる。夏の全国初制覇も夢ではない」と確信し、その期待に違わず入学直後からベンチ入りした中山は1年の夏に甲子園のマウンドを経験した[12]。
1983年夏には早くもエース津野浩(3年生)の控え投手としてメンバー入りし、夏の甲子園に高知県代表として出場した[8]。同大会で高知商高は準々決勝に進出し、中山は桑田真澄・清原和博(KKコンビ)を擁したPL学園(大阪代表)との対戦で津野をリリーフして甲子園に初登板した[8]。この試合では5対10とリードされた6回1死から登板し、チームは9対10の接戦で敗退したが中山は3回2/3イニングを投げて清原・桑田との対戦を含めて被安打1・無失点に抑える好投を見せ[13]、それ以降はプロ野球関係者から「土佐の怪腕」と注目を集めた[14]。しかし1歳年下の野村貴仁(→高知県立高岡高校宇佐分校進学→三菱重工三原→オリックス・巨人)は自著『告白』(KADOKAWA・2016年)にて「自分が高校進学する際には高知商高からも勧誘されたが、中山さんに興味を持って高知商高の練習を見学した際には『土佐の怪腕』と呼ばれるほどの剛速球を投げているようには思えなかった。何より中山さんが入学後の校内テストで毎回のように白紙答案を提出していたことが問題視されたため、その次の代である自分たちが高校受験する年(1984年)からは『(高知商高野球部が)一定以上の学力成績を残せる者』しか受け入れなくなったことが許せなかったから自分で『ここ(高知商高)はダメだ』とすぐに断念した」と述べている[14]。
津野が引退した同年秋にはエースとなるがそれ以降は故障が続き、2年生の1984年夏には県大会初戦で高知高校に敗戦した[8]。それに先立つ同年春の紅白戦で、それまで「層の厚い名門の中で埋もれており、中山のボールを受ける機会すらつかめていなかった」女房役・岡村は「ずっと補欠のままかもしれない」と危機感を抱いたため「ここで結果を出そう」と意気込んだが、二塁にスライディングした際に二塁手と交錯し、岡村の胸が二塁手の膝に激突した[15]。いったんはグラウンドで激痛とともにうずくまり「肋骨が折れたかもしれない」と悟った岡村だったが、「メンバー入りが懸かった紅白戦だから絶対に最後までやらないといけない」と痛みをこらえつつ練習を強行してしまい、練習後に血尿が出たことから中山とその父親に連れられて病院で診察を受けた結果、医師から腎臓破裂と診断された上に「一生スポーツはしない方が良い」と事実上のドクターストップを掛けられ、帰宅後にも父親から「もう野球はできないだろう。別の高校に転向して教師になるために勉強した方がいい」と諭されてしまった[15]。しかし岡村は野球部でレギュラーになる夢を諦めきれず、周囲の反対を押し切って3か月後には練習に復帰すると3年生に進級する直前には正捕手の座、即ち再び中山のボールを受ける機会を手にした[15]。名門の高知商高とはいえ、中山の投げる球は「暴れ馬のような剛速球」だったため、それを捕球できるノウハウを持つ捕手は中学時代から中山とバッテリーを組んでいた岡村以外にいなかったことが理由だった[16]。しかし中山・岡村らが最上級生となった2年生秋の県大会当時、高知県内の高校には伊野商業・渡辺智男をはじめ全国屈指の逸材が揃っていたことから甲子園の土を踏むことは容易なことではなく[17]、同大会では準々決勝で[8]その渡辺を擁する伊野商に敗れて翌年のセンバツ出場を逃してしまった[17]。「残されたチャンスはあと1つ(1985年の夏の甲子園)しかない」と焦った谷脇は伊野商に敗戦した直後、中山を呼んで「お前は甲子園に行かなければいけない」と叱咤し、その後には岡村を呼んで「甲子園に行きたかったら、明日から毎朝中山を連れてランニングをしろ。高知城に毎朝『おはようございます』と挨拶してこい」と命令した[17]。これを受けて2人は「朝6時に高知城二の丸前で落ち合い、約200段の階段を5往復してから学校まで走って登校する」日課を定めたが、しかし2週間後に中山がその練習をしなくなったことから、これを岡村から報告させた谷脇は「引っ張ってでもやらせろ」と命令し、岡村は毎朝のように中山を母親に起こさせてともにランニングをした[17]。当時の中山は岡村・谷脇ともにそれぞれ「投げるボールの才能はプロ級」「素質は桑田より上」と認めていたものの「純粋に野球を楽しみたいだけ」という性格から厳しい練習には身が入らなかった[17]。谷脇は「最後の勝負どころで力以上のものが出せなければ甲子園では活躍できない。それが出せるのは『普段から他人がやらないことをやる者』だけだ」と考えていたため、その中山に「期待の裏返し」として厳しい練習を科した[17]。
3年生となった1985年春、高知商高は同年のセンバツ優勝校となった伊野商を破って春季四国地区高等学校野球大会に進出し、四国大会も圧勝で優勝した[8]。同年夏、エース中山は岡村とバッテリーを組んで全国高等学校野球選手権高知大会を勝ち進み、決勝戦でセンバツ優勝校の伊野商相手に雪辱を果たして5対1で勝利したことにより夏の甲子園への出場を果たした[17]。甲子園では初戦の藤嶺藤沢(神奈川代表)戦で最速150km/hの速球を投げるなどして9対2で勝利した[18]。続く第2回戦では同じく四国勢で香川県代表・志度商業相手に初回先頭打者から6連続奪三振を記録するなどして2被安打12奪三振の好投で[8]4対0の完封勝利を記録すると[18]、3回戦では同じく四国勢の愛媛県代表・川之江戦で立ち上がりの不調をつかれて2点を先制されるも8回には同点に追いつき[8]、延長11回裏にサヨナラ勝ちを決めた[18]。中山はこのようにして快進撃を続け「攻守ともに高知商史上最強レベル」とうたわれたチームのベスト8進出の原動力となった[18]。
準々決勝では再びPL学園の桑田と投げ合ったが[13]、5回裏の最初の打順で[19]「この試合の目玉」と注目された4番・清原と対戦し[13]、146km/hを記録した[20]真ん中高めに投げた渾身の速球をバットの真っ芯で捉えられ[21]、左翼席上段に達する推定飛距離140メートルの特大ホームランを被弾した[13]。この時、清原の金属バットはボールが当たった部分がへこみひび割れた[20]。さらにこの回には続く6番・桑田にも右翼ラッキーゾーンへのホームランを被弾したことで「KKコンビ相手に初めて1イニングでアベック本塁打を被弾した投手」となってしまい、試合は3対6で敗退した[13]。この試合で清原が中山から放ったホームランは1985年8月20日付『スポーツニッポン』にて「甲子園史上最大(推定飛距離)140メートル」「100段ある左翼スタンドの下から数えて64段目に突き刺さった」と報道されたほか[22]、「推定飛距離160メートル」「プロ野球の試合を含めても甲子園球場開場以来最大の飛距離」などの声も上がった[21]。また清原自身は2009年に刊行した自著『男道』(幻冬舎)にて「少年時代から現役引退までに打ち続けた何百本の本塁打の中でも最も記憶に残る一発だ。高校時代にはそれまでも球場にいる全員の度肝を抜くようなホームランを何本も打っていたが、『何の混じり気も不純物もない、ホームランそのものの感触』を味わったのは初めてだった」と評価したほか[23]、2018年5月にスポーツニッポンから取材を受けた際にも「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返った[24]。
谷脇は大会前に他校の監督から「PL学園のグラウンドを練習試合で訪れた際、他のメンバーたちが練習を終えてからも桑田がずっと1人でランニングをしていたのを見て驚いた」と聞いたことから、大会後に「中山には桑田以上の素質があったが、桑田以上の努力が足りなかった。だからPLに勝てなかったし清原という“怪物”を抑えられなかった。だが、仮に清原・桑田がPLに揃っていなければ優勝できていたかもしれない」と振り返った[25]。
1985年秋の第40回国民体育大会高等学校野球競技では桑田に投げ勝って甲子園の雪辱を果たし[26]、優勝の原動力となった[1][3]。この時の控え投手に1年下の岡林洋一がいる。
1985年のドラフト会議では清原・桑田とともに目玉選手として注目され、横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団した[8][1]。背番号は19でルーキーイヤーの推定年俸は430万円・契約金は5,200万円だった[1]。
横浜大洋時代
- 1986年
- 入団1年目、本格派として期待された中山は近藤貞雄監督の下でルーキーイヤーから一軍で18試合に登板して0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3セーブを挙げた[27]。
- 1986年5月6日に同い年の相川英明とともに出場選手登録されるとその2日後の1986年5月8日に対読売ジャイアンツ(巨人)5回戦(後楽園球場)にて若菜嘉晴とバッテリーを組み一軍初登板・初先発を果たし、初マウンドで巨人先発・江川卓と投げ合った[28]。この試合では試合開始直前の1時間前に先発登板を告げられたが「力を抑えて低めを狙う」冷静な投球で1・2回を無失点に抑えた[28]。その後5回裏から疲れが見えたところを巨人打線に痛打され、相川に交代するまでに5回3分の2を投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点(自責点4)で敗戦投手となったが[28][29]、近藤監督は中山の投球を「合格点。(チャンスに主力が外野にすら打球を飛ばせなかった)打線が情けない」[29]「中山は打線の援護が思うように入らなくてもよく投げた」と高く評価し[28]、中山本人も『朝日新聞』の取材に対し「江川さんと投げ合えて楽しかった。原さんには打たれる気がしなかった」と語った[29]。またこの試合では打撃でも2回表2死一・二塁の場面で江川から三塁線に抜ける二塁打(二塁走者・田代富雄が生還し1点適時打。一塁走者・若菜は本塁で憤死)を放ちプロ初安打・初打点を記録した[28]。
- 1986年10月13日、ナゴヤ球場で開かれた中日ドラゴンズ戦で初セーブを記録した[30]。
- 同年、中山は二軍(イースタン・リーグ)の試合で登板した際[26]、平塚球場でジュースの差し入れを受けたことをきっかけに、差し入れ主で当時大洋ファンだった後の婚約者女性(後の不祥事により婚約破棄、告訴合戦に)と交際を開始した[31]。
- 1987年
- 推定年俸590万円(前年比160万円増)で臨んだプロ入り2年目シーズンは[27]、古葉竹識監督の下で33試合に登板し5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越すも、著しい成長を遂げて投手陣の軸に近づく飛躍の1年となった[32]。大洋球団の投手が高卒2年目で5勝を挙げたのは中山が最後となり、その後は大洋→横浜球団の「高卒2年目の5勝投手」はチーム名が「横浜DeNAベイスターズ」に変更された後の2018年に京山将弥が7月28日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で5勝目を記録するまで31年間にわたり現れなかった[33]。
- 同年5月9日、本拠地・横浜スタジアムで開かれた読売ジャイアンツ(巨人)戦で先発して堀場秀孝とバッテリーを組み6回3分の2を投げ、疲れが出た7回表に連打を浴びて4失点するなどして5失点を喫するもチームは8対6で勝利して連敗を5で止め、中山自身もプロ初勝利を飾った[34]。
- 同年5月21日には横浜スタジアムで開かれたヤクルトスワローズ戦にて堀場とバッテリーを組んで6被安打・5奪三振・1与四球・1失点でプロ入り初の完投勝利(シーズン2勝目)を記録し[35]、同年6月27日には後楽園球場で開かれた巨人戦で若菜嘉晴とバッテリーを組み、巨人打線を6回2死まで無安打・合計4被安打に抑え完投してプロ入り初完封勝利(シーズン3勝目)を記録した[36]。10歳代(未成年)の投手が巨人戦で完封勝利を記録したのは、1968年4月20日に阪神タイガース・江夏豊が同じ後楽園球場で記録して以来20年ぶりだった[32]。このころには当時のエース投手・遠藤一彦と同数の勝利数を稼ぐことを目標に掲げていた[35]。
- 1988年
- 推定年俸1,180万円(前年比590万円増)で臨んだプロ入り3年目のこの年[32]、リーグ最多の70試合に登板して10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、中日ドラゴンズ・郭源治やロッテオリオンズ・牛島和彦に並んで「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた[37]。
- 同年は救援投手ながら規定投球回に到達する活躍を見せたほか、オールスターゲームでは第2戦・ナゴヤ球場(7月25日)、第3戦・東京ドーム(7月26日)と2戦連続で勝利投手となった[38]。
- 同年は11月5日開幕の日米野球大会(読売新聞社主催)全日本メンバーに選出されたほか[39]、11月19日に平和台野球場で行われたセ・リーグの第10回東西対抗戦東軍にも選出された[40]。
- 同年オフは防御率リーグ3位など好成績を残したことを高く評価され、12月2日に推定年俸2,520万円(前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した[41]。
- 1989年
- 右投げの速球派投手として活躍していた中山だったが[3]、大洋にとっては「即戦力」とみなされたため古葉監督時代にリリーフで酷使されたことから肩・腰を痛めてしまい[26]、同年は45試合に登板して1勝10敗17セーブ・防御率4.10と大乱調に終わった[42]。
- 同年オフには推定年俸2,200万円(前年比320万円減)で契約更改した[42]。
- 1990年
- 故障から「これで終わり」と言われた中山だったが[26]、高校の大先輩・須藤豊が監督に就任して以降は先発ローテーション投手として復活した[26]。
- 1990年4月7日にナゴヤ球場で開かれた中日ドラゴンズとの開幕戦で開幕投手を務めたが[43]、それから3週間にわたり未勝利に終わっていた[44]。
- 1990年4月28日、高校時代に活躍した思い出の地・阪神甲子園球場にて開かれた阪神タイガース戦で市川和正とバッテリーを組み、投げては完投して阪神打線をわずか4安打に抑え、打っては5回表に一死三塁の場面で自らセンター犠牲フライを打って1点を取り、その点を決勝点として守り切ったことで同年初勝利を3年ぶりの完封勝利で飾った[44]。完封勝利はプロ入り2度目で[45]、それまで開幕投手を務めながらも苦戦していた中山に対し、須藤監督は「甲子園は彼にとって思い出の場所だろう。本来は試合に勝ってからだが、中山へのおまじないでマウンドに立つ前に(母校の校歌を)歌ってやろう」と母校の校歌を口ずさんでおり、試合後にも中山とともにベンチ裏で再び校歌を歌った[44]。
- 同年は27試合に登板して8勝12敗・防御率3.92の成績を残し[46]、オールスターゲームにも通算2度目の出場を果たした[3]。
- 同年オフの契約更改では12月6日に推定年俸2,450万円(前年比270万円増)を保留[47]、12月25日になって推定年俸2,630万円(前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改し、更改後には婚約を発表した[48]。逮捕されるちょうど1年前となったこの日、入団後まもなく知り合った当時21歳の女性と婚約し[26]、翌1991年オフに女性と挙式する予定だったが[49]、同年は成績不振だったため、中山は巻き返しを期して挙式を1992年オフに延期していた[49]。
- 1991年
- 同年も2年連続で開幕投手を務め、同年は先発20試合を含め27試合に登板して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位の成績だったが[50]、プロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算32勝53敗44セーブの成績を挙げ[3]、大洋球団のエース級投手として活躍していた[2]。
- シーズン終了後の1991年12月6日、中山は翌1992年度の契約について推定年俸2,650万円(現状維持)で契約更改していた[51][52]。
- これに加え、1991年10月には横浜市緑区若草台(現・横浜市青葉区若草台)に約1億1,800万円で2階建ての新築住宅を建て[53]、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉も含めて5人で新生活を送っていた[49]。
わいせつ事件
- ※以下、肩書などはいずれも当時のものとする。
- 1991年11月12日、横浜市金沢区内で少女に対する連続強制わいせつ事件
- しかし1991年11月12日午後3時10分ごろ、中山は神奈川県横須賀市内の横浜大洋ホエールズ総合練習場から横浜市緑区内の自宅に車で帰宅していた途中、横浜市金沢区六浦町の住宅街路上で小学5年生の少女(当時11歳)に対し[26]、自分の下半身を露出する[26]・スカートの上から体を触るなどのわいせつな行為をした[2][3]。その5分後、中山は同じ場所で帰宅途中の幼稚園女児(当時6歳)に対し[2]、抱き上げて下着を脱がせるなど[26]わいせつな行為をした[2][3]。
- 横浜市内では同年秋ごろから女児への連続強制わいせつ事件が発生していたことから[54]、神奈川県警察が捜査本部を設置し[54]、12日の事件を同一犯の仕業とみて[3]、被害が多発した時間帯に現場付近を捜査員が警戒するなど、張り込み捜査を進めていた[54]。その結果、事件2日後の11月14日午後3時ごろ、白とグレーのベンツに乗った男が現場付近を約15分間うろついたり[2]、女児に声を掛けたりするなど[3]、不審な行動をしているのを[54]捜査員が目撃し[2][54]追跡捜査したところ[3]、その車のナンバープレートから中山が捜査線上に浮上した[54]。
- 1991年12月25日、神奈川県警が中山を逮捕
- その後も同月中に中山が計4回現場に現れたのが目撃されたため[2]、神奈川県警が被害者の子どもたちに中山の顔写真を見せたところ、証言から「中山に間違いない」との結論が出た[54]。同年11月中旬過ぎ時点では一部マスメディアに対し、「大洋の選手が逮捕される」という情報が流れてはいたが、地元紙記者は『週刊文春』(文藝春秋社)の取材に対し「同年10月1日に旭区内で行方不明になった小学6年生少女の事件との関連を捜査したが、これはすぐに白と判明した。逮捕が年末までずれ込んだ最大の理由は、神奈川県警が『中山が地元球団のエース級投手である』ことから社会的影響を考え、テレビのワイドショー・週刊誌の休みとなる年末年始に逮捕・釈放できるように慎重にタイミングを計ったためだ」と証言した[26]。
- これを受けて捜査本部は1991年12月25日朝から中山を被疑者として任意同行した上で追及したところ[54]、中山は1991年11月12日の2事件について容疑を認める供述をした[2][54]。このため1991年12月25日夕方、神奈川県警捜査一課・金沢警察署は強制わいせつなどの疑いで中山を逮捕した[2][54][3]。取り調べに対し中山は、「11月上旬に腰などを痛めたため沖縄の秋季キャンプから帰ってきたが、婚約者の女性と会えず欲求不満が溜まっていた。(女性の)年齢が高いと、自分が『大洋の中山投手だ』と分かってしまうので小さな子を狙った。大変恥ずかしいことをしてしまった。深く反省している」などと供述した[2][54][3]。
- 逮捕を受けて同日夜、大洋球団代表・桜井薫が横浜市中区内の球団事務所で会見し、「青少年に夢を与えるプロ野球選手がこのような事件を起こしてしまい誠に申し訳なく、深くお詫びする。球団としても管理不行き届きを陳謝したい。処分はあす(26日)決めるが、厳しい処分を考えざるを得ない」という、球団社長・岡崎寛のコメントを読み上げた[2][54]。
- 逮捕時のファンなどの反応
- プロ野球の現役スター選手が性犯罪で逮捕されたこの事件は大洋球団のみならず、神奈川県民・横浜市民や、プロ野球選手に憧れる少年を含めた野球ファン・球界関係者らにも大きな衝撃を与えた[55]。
- 地元・横浜市の高秀秀信市長は「ファンとして『将来の大洋ホエールズを背負って立つ若手投手』として期待していただけに、事実とすれば非常に残念だ。市長としては子供に対するそういう事件(性犯罪事件)は『市内で起きてはならないこと』と思う」[55]、日本野球機構(NPB)・吉國一郎コミッショナーは「驚いた。事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。球団などからはまだ事情を聴いていないが『甚だ遺憾』の一言だ」と、それぞれ声明を出した[2]。
- また逮捕のニュースを受け、当時同市磯子区の少年野球チームに投手として所属していた大洋ファンであった12歳の男子児童は『朝日新聞』の取材に対し、「中山投手には2年前(1990年)、抑えを務めていた時に握手してもらいサインももらった。初めて会ったプロ野球選手なので嬉しかったのにショックだ。大洋は投手の層もそれほど厚くないし、若手中心のチームだから大切な投手の1人なのに…」とコメントした[55]。熱烈な大洋ファンとして知られていた作家の中野孝次は「これからのチームを担う中心選手として中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、八百長みたいな事件ならまだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と憤った[55]。
- 逮捕後の大洋球団などの対応
- 翌26日午前9時から[52]、大洋球団は球団事務所で[52]、岡崎球団社長、若生照元・球団本部長ら球団幹部6人と、弁護士2人の計8人で[56]、中山に対する処分を決める緊急幹部会議を開いた[52]。その結果、球団は中山との翌年度の契約を白紙に戻し[52]、日本プロフェッショナル野球協約第66条に基づき「次年度選手契約締結の権利を保留する選手」(保留選手)、すなわちこの時点では「契約未更改の大洋選手」扱いとした[57]。そして処分は捜査当局の結論を待った上で、解雇も含めた厳しく対応することを決めた[52][56][57]。約1時間半の会議終了後、記者会見に応じた岡崎球団社長は「夢を与えるプロ野球関係者がこのような事件を起こしたことに対し、深く反省するとともに、被害者やその家族の皆様に深くお詫びする」とコメントし、深々と頭を下げた[52]。
- 同日、故郷・高知県に帰省中だった須藤監督も事件を受けて急遽横浜市へ戻り球団事務所入りした[56]。須藤は高校の後輩である中山の不祥事に責任を痛感し、身柄を球団に一任した上で、監督解任を含め自身へのペナルティを申し出た[56]。これに対し、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが須藤の監督解任は考えていない」と語った[56]。同日、夕方から岡崎・須藤両名に加え、桜井球団代表・岡田典一総務部長らが加わり善後策の協議を重ねた[56]。
- また東京都中央区銀座の日本野球機構(NPB)会議室でも吉國一郎NPBコミッショナー・川島廣守セントラル・リーグ会長・原野和夫パシフィック・リーグ会長ら球界首脳が出席し、実行委員会を開いた[56]。セ・リーグは実行委員会後、緊急理事会を招集し、川島が「さらに管理の徹底に注意してほしい」と強く訴え、桜井球団代表が「迷惑をかけて申し訳ない」と、全理事に対し謝罪した[56]。その後、川島・桜井両名が記者会見し、川島は「今回の事件でプロ野球の信用が失われ、取り返しがつかない。同情の余地は全くない。球団は厳重に処分すべきだ」と語った[56]。
- 神奈川県警捜査一課・金沢署は同日(1991年12月26日)午後、強制わいせつなどの容疑で中山を横浜地方検察庁に送検した[58]。中山は同日、金沢署の取り調べに対し、逮捕容疑の強制わいせつ事件2件に加え「2件の事件と同じ1991年11月12日、金沢区内で小学4年生の女子児童(当時10歳)に対し体を触るなどのいたずらをした」ことを自供した[59]。同事件は神奈川県警もこの時点まで把握していなかったため、余罪を追及すべく[26]、捜査一課などは金沢区内で発生した別の少女らへのわいせつ事件との関連などを調べるとともに[58]、3件目の犯行についても裏付けが取れ次第、被疑者・中山を追送検する方針を決めた[59]。その上で神奈川県警金沢署捜査本部は事件証拠の裏付けとして被疑者・中山の血液を採取した上で、事件の際に残された犯人の資料とともに科学警察研究所に提出し、DNA型鑑定を実施することを決めた[60][61]。
- 同年12月27日、岡崎球団社長・桜井球団代表は東京都千代田区大手町の大洋漁業本社にて中部慶次郎球団オーナーに事件の報告をした[62]。さらに両者は東京・内幸町のコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局もそれぞれ訪れ、吉國NPBコミッショナーや川島セ・リーグ会長に対し、それぞれ「ご迷惑をおかけします」と陳謝した[62]。岡崎はこの際、苦渋に満ちた声で「今年は(開幕投手を務めた)中山で始まり、中山の大暴投で終わった」と話した[63]。
- また大洋球団は同日、所属全選手に中山の契約白紙処分について球団の方針を説明した上で、岡崎社長名義で自己管理を呼び掛けた文書を発送した[62]。同日、吉國NPBコミッショナーはコミッショナー事務局にて記者会見し、日本プロ野球の最高責任者として初めて本事件についての考えを明らかにした[62]。吉國は「中山投手が再びマウンドに立つのは難しいでしょうか?」との質問に対し、「事件が事件だけに難しいでしょう。DNA型鑑定もするというし、報道されている警察の発表が事実なら残念だ」と、厳しい見解を示した[62]。
- 1992年1月、横浜地検が不起訴処分、神奈川県警が中山を釈放
- 翌1992年1月4日までに逮捕容疑の強制わいせつ罪2件について[64]、中山と被害者との間で示談が成立したため、いずれも被害者側が告訴を取り下げた[65][66][64]。
- これを受けて横浜地検は同日、親告罪である同罪について被疑者・中山を1992年1月6日付で不処分とした上で、残る公然わいせつ罪については「既に社会的制裁を受けており本人も深く反省している」として、同じく1992年1月6日付で起訴猶予処分とすることを決めた[65][66][64]。その上で横浜地検は同日、勾留期限の切れる翌5日付で中山を釈放することを決めた[65][66][64]。
- 同じく1992年1月4日、中日・落合博満選手が横浜市内でトークショーを開いた[67]。中山の事件はプロ野球のスター選手が引き起こした事件とあって、社会的影響は計り知れなく大きく、球界の風当たりも「解雇」「永久追放」が囁かれるなど厳しい情勢にあったが、事件について言及した落合は「情状酌量の余地があるならば」と前置きした上で、「(中山を)切り捨てるのは簡単だが、将来のことを考えると球界復帰への道をつけてやってもいいのではないか」と『中日新聞』曰く「注目すべき発言」をした[67]。その上で落合は「この事件で(球界を引退して)社会に復帰したとしても中山を受け入れてくれるところはもうないだろう。それなら『更生の道は野球から着けてやるべきでは』と思うんだ」と訴えた[67]。
- 1992年1月5日未明[68]、横浜地検の取り調べを受けていた中山は処分保留のまま拘置先の金沢署から釈放された[69][70]。中山は釈放後、緑区内の自宅に帰宅し、午後になって若生球団本部長・荒木球団管理部長と面接した[68]。約1時間にわたって中山から事情を聴いた若生は「中山は反省の色が濃い」と語った[68]。これに先立ち岡崎球団社長は球団事務所で記者会見し、100人近い報道陣を前に「事件の被害者やご家族に多大なご迷惑をおかけし、社会をお騒がせしましたことを心からお詫び申し上げます」と陳謝した[68]。球団側は中山の事情聴取を終えたことで、翌6日にも処分を決めることとなった[68]。
- 翌1992年1月6日、横浜地検は公然わいせつ容疑について「既に社会的制裁を受けている」として起訴猶予処分とした[71]。不起訴処分が決まったことを受けて同日、大洋球団は須藤監督の「中山を何とか更生させたい」という思いの下、中山を球団に所属させたまま「無期限謹慎処分」に処する上で、著しい反省の色・社会情勢の変化などを見て処分を有期限に緩和することをセ・リーグ連盟に打診したが、連盟は「球団の処分は甘すぎる。社会的な償いを受けることは避けられない」として、処分差し戻しを求めた[72]。これを受けて須藤監督は戸惑ったが、結果的には連盟の対応に従い中山の契約解除に至った[72]。
- 大洋球団が中山を解雇、川島廣守セ・リーグ会長が「無期限契約自粛」を呼び掛け、NPBが自由契約公示
- この事件は野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることから[56]、大洋球団は野球協約に基づき[56]、1992年1月7日付で保留選手扱いだった中山を解雇し、中山の保留権を放棄した上で[4]、統一契約書式第26条に基づき[6]、中山を自由契約選手とすることを発表した[4][5][73]。横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放されており前途もある中山に対し、あえて「野球生命を事実上絶つ」という厳しい処罰を下した背景には、「子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯した」という社会的影響の大きさを深く考慮した結果だった[73]。
- 野球協約上「自由契約選手」の中山は他11球団とは契約できる形式ではあったが、「世間を騒がせ球界のイメージを著しく汚した破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:会田豊彦)で逮捕された中山の獲得に直ちに動く球団はなく[6][73]、推定年俸2,650万円という収入が絶たれた中で孤独な練習を長期間続けて「プロの投手の実力」を保つのは、精神的・物理的にも至難の業だった[73]。
- また、川島セ・リーグ会長が声明文の中で「中山選手本人が社会的に立派に更生できるということが確認される時点まで『全12球団が中山選手との選手契約を無期限に行わないようにお願いしたい』」(無期限契約自粛)と要望したことから、球界復帰は可能性こそ残されたものの極めて困難なものとなった[6]。その一方で中山は「失格選手」の烙印を押されれば今後、「野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になる」ことから、実質的に形式上とはいえ復帰への道を残したのは「せめてもの温情」とされた[73]。
- またこれに加えて、大洋球団は須藤監督に戒告処分、岡崎社長・桜井球団代表に対しては同日からの1年間にわたり8%の減俸処分をそれぞれ科した[4]。
- 球団事務所で記者会見した岡崎は「中山投手は被害者やそのご家族に多大なご迷惑をかけ、社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」と沈痛な面持ちで語った上で、「彼はまだ若く野球しかわかっていない。本人とご両親に相談の上で彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」と話した[4]。
- この処分を受け、川島廣守セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は球団の温情ある措置だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」とコメントした[4]。また吉國NPBコミッショナーは「『更生への道に障害にならないように』と失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。同会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」とコメントした[4]。
- 吉國NPBコミッショナーは1992年1月8日付で中山を自由契約選手公示した[74]。
- 中山の退団後、着用していた背番号19は1992年は「事実上の永久欠番」となったが、「横浜ベイスターズ」への球団名変更が決まった直後の同年のドラフト会議で1位指名された日本石油・小桧山雅仁が「19にまつわる縁起の良いエピソード」を多く有していたことから、球団側は「これを機に次世代を担うルーキーに19番を背負わせることで中山の忌まわしい出来事を払拭しよう」と19番を提示し、小桧山自身も快諾したために欠番状態は1年で解消した[75]。その後、小桧山・戸叶尚・杉本友・染田賢作と19番を着用した選手は芳しい成績を残せなかったが[75]、「横浜DeNAベイスターズ」に名称を変更してからは2015年に入団してから19番を着用している山崎康晃が抑え投手として活躍している。
- 球界関係者の反応
- 処分を受けて福岡ダイエーホークス・田淵幸一監督は『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)の取材に対し「処分については我々はコメントする立場にはないが、事件の内容が内容だけに厳しい処分はやむを得ないだろう」とコメントした[72]。野球評論家・堀内恒夫は「この罪は一生背負わねばならないし、中山はこの罪の重さを考えるべきだ。本人がどう思っているかは知らないが、もう彼は野球界でやるべきではないだろう。彼の今後のことは先輩なり後輩なりが手を差し伸べてやればよいと思う」とコメントし、球界復帰に否定的な見解を示した[72]。
- 一方、後に中山に救いの手を差し伸べた中日・高木守道監督は「本来なら永久追放でも仕方のないところだ。野球界の人気低迷が囁かれている中で起きた事件であり、球界が襟を正すための1つの契機になるのではないかとは思う。ただ、自分としては『甘い』と言われるだろうが、アメリカのように球界復帰への道を残してやるのも必要ではないかと思う」とコメントした[72]。また、野球評論家・千葉茂は「中山は故郷・高知で四万十川の清掃に取り組むといい。『日本最後の清流』と言われる四万十川で身も心も清め、しかも川の汚濁を防ぐ仕事をすることこそが『更生』というものだろう」とコメントした[72]。
婚約者・家族のその後
- 事件当時22歳の婚約者女性は事件後「健気に中山を支えた」として一部マスメディアから「美談」として報道された[31][49]。
- しかし事件から半年後、婚約者側は「婚約不履行の場合は中山が自分に慰謝料5,000万円を渡す」という念書を根拠に、「婚約不履行」を主張して中山を提訴した[31]。しかしこの「念書」は、『週刊新潮』(新潮社)の取材に応じた中山の知人曰く「中山が無理矢理元婚約者に書かされたようなもの」であり、「事件後に中山が運送会社に就職してアパートに引っ越して以降、婚約者はアパートに来なくなったため、中山が『こちらに来ないなら別れる』と言ったところ、元婚約者の母親が慰謝料を要求した」という[31]。
- これに対して中山側も元婚約者に対し「勝手に選手会への積立金500万円・自動車(ベンツ)・家財道具などを持ち出された」と反論し、双方が民事訴訟を起こす訴訟合戦状態となった[31][49]。
- この民事訴訟合戦は1993年末になって[31]、中山側が2,500万円の慰謝料を支払う形で和解した[31][49]。前述の中山の知人は『週刊新潮』の取材に対し「本来なら離婚訴訟でさえ慰謝料の相場は500万円程度だが、中山は『裁判が長引くのは困るし、彼女に持ち逃げされた500万円・ベンツなど計約5,000万円の被害はなかったことにする』として、和解金額2,500万円を提示した」と語った[31]。
- 元婚約者は1994年8月、『週刊新潮』の取材に対し「自分の尻ぬぐいさえ満足にできないような中山が再びマウンドに立ったことだけは許せないし、自分も信じられない思いだ。事件の被害者・家族は見ていられないだろう」とコメントし、中日で現役復帰した中山を非難した[31]。
- また、高知市内に在住していた両親・姉も事件当時は中山やその婚約者と同居していたが、事件後に帰郷した[49]。
球界復帰へ
- 解雇から一般企業への再就職まで
- 解雇後の1992年1月18日、中山は希望により「事件に関しての質問には一切触れない」という条件で、緑区内の自宅にて事件後初めて報道関係者との会見に応じた[76][77]。会見は「担当記者1人の代表質問に対し本人が答える」という非公開形式で行われたが、「釈放後は自宅にこもりきりだった」という中山は、体重が5kg近く減り、顔色も悪くなっていた[76]。中山は会見で「球団関係者やファンに申し訳ない」と改めて謝罪した上で[76][77]、今後の身の振り方について「まだ決まっていない。また野球がしたいというのが本心」と心情を語った[76][77]。古巣・大洋の須藤監督は同日、中山について「自らを戒め世に尽くす精神・行動力を身に着けてほしい」とコメントした[76]。
- なお中山が不祥事を起こした後、高知商高時代にバッテリーを組んでいた岡村英人は中山宛に「俺はお前がプロ野球選手だろうと何だろうと関係ない。俺の中でお前はいつも“中山裕章”だ。高知に帰って来い」と手紙を書いて送った[20]。
- 1992年2月8日から、中山は古巣・大洋の亀井進スカウトに連れられ、静岡県伊東市物見が丘の仏現寺へ修業に入った[78]。亀井は『中日新聞』の取材に対し「本人からお寺で修行したいと言っていたので仏現寺を紹介した。住職に性格を見ていただき修行内容・期間を決めてもらう」と語った[78]。その後、約3週間の修行により中山は「これから自分はプロ野球選手ではないのだから一般の社会人として暮らしていこう」と悟ったため「この時点ではまだ中山に社会に出る勇気はなかった」が、生活費を稼ぐため働きに出ることを決意した[49]。
- 1992年2月13日、アメリカ合衆国・メジャーリーグベースボール(MLB)のコミッショナー事務局がNPBコミッショナー事務局に対し、ファクシミリ(FAX)通信で「MLBの1球団が大洋の中山投手に関心を持っているので身分照会をしたい」という内容の文書を送信した[79]。これに対しNPBコミッショナー事務局は同日、「中山投手は同年1月7日に大洋を解雇された」との事実のみを通知した上で、身分について翌週早々に回答する方針を決めた[79]。
- NPBコミッショナー事務局は同月18日、「川島セ・リーグ会長が12球団に対し更生するまで中山と契約しないように要望している」ことを踏まえ、MLBコミッショナー事務局からの身分照会に対し「NPB球団と同様に中山との契約を見合わせるように要望する」回答書を送った[80]。吉國NPBコミッショナーはこの件を受け「事件の経緯を説明した上でNPB球団と同様に対応するよう善処を求めた」と語った[80]。中山自身は『週刊現代』(講談社)の取材に対し「アメリカ・韓国・台湾など海外に行けばすぐに野球ができるかもしれないが」と記者から質問されると、「海外に行くのは苦しい環境から逃げるようだから嫌です。いくら批判を浴びても日本で修業をして厳しい声に耐えていきたいと思います」と回答した[53]。
- 寺で修行を終えた後、中山は就職先を探したが、事件の影響により数社から断られた[49]。その中で大洋球団職員の紹介を受け、元読売ジャイアンツ(巨人)投手・入谷正典が経営していた横浜市内の運送会社に就職した[49]。入谷は中山を採用した際、事件のことには触れず「婚約者との告訴問題などをすべてきちんとしてから丸裸になって出直せ」とアドバイスした[49]。中山は磯子区内のアパートに住み、午前6時半に起床しては鶴見区内の職場まで電車通勤する毎日を送り[81]、横浜港にて輸出用の自動車を貨物船に積み込んだり、港湾に運搬するなどの仕事をしていた[49]。社内には中山と同年代の若者も約30人いたため、溶け込むのは早かったという[81]。
- 現役復帰に向けた動向
- その一方で事件後、中山は「野球道具を見る気にもなれず、だからといって捨てることもできなかった」ために押し入れの奥に押し込んでいたが、就職から丸1年が経過したころ社内の野球チームから「一緒にやろう」と誘われたことがきっかけでグラブを押し入れから取り出した[49]。そして1993年3月以降、現役復帰に向けた練習を開始していた[82]。中山はこの時「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」と思う一方で、「どうしても野球をやりたい気持ちも強かった」という[83]。
- また入谷が中心となり[49]、横浜市内の財界人グループ・中山の母校である高知商高のOBらが[84]、「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成し[82]、1993年1月7日から中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始し、同年2月末までに10万人分を集めることを目標に署名を集め始めた[84]。このころ入谷は中山に対し「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスしていた[49]。そのため、中山は昼休みには同僚とキャッチボールをしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった[81]。
- 1993年3月、当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が、解雇直後に声明でNPB全12球団に中山との無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長に手渡された[82]。1993年5月28日、この動きを受け川島セ・リーグ会長は「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認めた上で、声明に示した無期限契約回避措置を早ければ同年6月中旬にも解除することを明らかにした[82][85][86]。社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難と見られた球界復帰の道を開くことは、賛否両論が渦巻くのは必至だったが、川島は「彼は1年半汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした[82][85]。後に中山を獲得した中日ドラゴンズはこの時点で中山に関心を示しており[85]、中山了・球団社長は「獲得を考えてみようという気持ちはある」とコメントした[86]。
- しかし同年6月29日、川島からの諮問を受けて東京・銀座のセ・リーグ連盟事務所で開かれた「セ・リーグ懇話会」は[87][88][89]、元婚約者との民事訴訟が継続中であったことなどから[89]、「いずれは要請を解除する必要があるが、中山の更生には精神的安定を含めた身辺整理が不可欠で、元婚約者との訴訟問題を解決することが前提条件として求められる」として[87]、声明の解除に対し「現時点では時期尚早」との結論を出した[88][87][89]。
- なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚した神奈川県川崎市在住の20歳代家事手伝い女性と知り合った[90]。
- 1993年12月、セ・リーグが球界復帰を承認
- その後「セ・リーグ懇話会」(座長・中村稔セ・リーグ顧問弁護士)は1993年12月10日、川島の声明を撤回することを答申した[91][92]。これを受けて川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として球界復帰を事実上認める発言をした[92][91]。記者会見した中村座長は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も事件から2年以上経って社会的に更生できる実績を示したと理解している」と答申理由を説明した上で、「復帰後は試練に晒される中山投手に対し、(獲得する)球団は精神面でも生活面でも十分な配慮・サポートをお願いしたい」とする声明を発表した[91]。これを受けて中山は、後見人を通じて「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう精進してまいります」とコメントを発表した[91]。
- 1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・児童心理学専攻の大学教授とともに横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境・生活状態などを聴いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した[93][94]。中山はこの際、川島に対し「起こしてしまった事件はとんでもないことだが、自分に情を注いでくださる人もいるので、それを支えに耐えていきたい」[94]「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので野球人として更生させていただきたい」と話した[93]。これを受けて川島は同日午後の球界三首脳会談で吉國一郎NPBコミッショナー・原野和夫パ・リーグ会長に報告して了承を得た上で[94]、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定し、17日の実行委員会で報告後、各球団に要望の解除を通知することを決めた[93]。
- 川島は1994年12月24日、選手契約自粛を要請した声明を解除する[95]1993年12月25日付の文書を[96]、各12球団に郵送した[95][96]。川島はこれに加え、同じく契約自粛を求めていたアメリカ合衆国・メジャーリーグベースボール(MLB)に対しても同種の要請解除文書を郵送した[96]。これを受けて以前から獲得を検討していた中日・加藤巳一郎オーナーは同日、「川島会長から『何とかしてほしい』という話は聞いている」とコメントした[96]。これに加え伊藤修・同球団代表も「いきなり選手契約するのではなく、打撃投手など球団職員として採用しようと思う」として積極的な姿勢を見せた[96]。
- その一方で事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は、中山の球界復帰の話が持ち上がった際、『毎日新聞』の取材に対し、同年に発覚した江夏豊の覚醒剤事件を引き合いに出し「覚醒剤は(直接の)被害者がいないからなぁ…」と不快感を示した[97]。
- また『毎日新聞』記者・中島章隆は1993年12月11日朝刊記事にて「事件の恐怖に震え続けた被害地域住民の親たちの怒りがわずか2年で消え去ったのだろうか?『若者の過ちを一生許さない』という偏屈な考えを持つつもりはないが、一般大衆やマスコミへの露出度が高いプロ野球選手への復帰が本当に『更生の道』なのだろうか?」と、球界復帰を認めた懇話会に疑問を投げかけた上で「平凡な一市民として普通の生活を送らせてやることが、被害者のためであり若者(中山)のためにもなるのではないか」と主張した[97]。
- 『読売新聞』記者・長谷川一雄も1993年12月12日東京朝刊記事にて「2年間のブランクを経てプロで通用する球が投げられるだろうか。まだ残る世間の厳しい目に耐えられるだろうか。それ以前にセ・リーグのある球団(中日)が獲得の意向を示しているらしいが、本当に獲得してくれるのだろうか」と疑問を投げかけた上で「『プロ野球選手である前に、常識ある一社会人であれ』と改めて願わずにいられない」と述べた[98]。
- 1993年12月27日、中日ドラゴンズと打撃投手として契約
- 処分解除を受け中日ドラゴンズ(高木守道監督)は1993年12月27日、中山を打撃投手(球団職員身分、1年契約)として採用したことを発表した[99][7][100]。同日午後、岡田英津也編成部長が横浜市内で中山と両親同席で面会した[100]。中山は「新人のつもりでやり直したい」として中日の提示条件を全面的に受け入れ、契約に合意した[100]。
- 中日・中山了球団社長は「裕章の獲得が球団のイメージに悪影響を及ぼさないとは言い切れない」としつつも[99]、「彼(裕章)はやってはならない過ちを犯したが、真摯な反省と自戒の2年間を過ごし社会的制裁も受けた。許すことがあってもいい」と獲得に至った経緯を説明した上で「即戦力とまではいかないが、早ければ来年の後半か再来年にも(一軍のマウンドに)出てきてくれるだろう」と話した[100]。球団は中山について「2年間のブランクを解消するため、基本的には三軍でコーチをつけて練習させ、『実戦で通用する』と判断した時点で支配下選手登録する」方針を固めた[99]。裕章は同日、球団を通して「これまでのことは深く反省している。どうしても野球を忘れることはできなかった。1から出直す覚悟で一生懸命やる」とコメントした[7]。
- 一方、『毎日新聞』記者・中島章隆は1993年12月28日朝刊記事で「私企業である中日が誰とどんな契約をしようと勝手だが、現時点で『更生のための契約ではない』として早くも『戦力』として裕章を計算している中山社長の発想は、契約自粛を撤回した川島セ・リーグ会長の『更生プログラム』に明らかに違反しているし、社会的な反発は免れまい。事件は不起訴になり社会的制裁は受けたが、この事件でもそうであるように、親告罪である強制わいせつ罪は被害者が裁判沙汰を嫌い示談にするケースが多い。不起訴でも『被害者』がいることを忘れてはならない。事件を『忘れたい』と示談に応じた同種事件の被害者・家族が、新聞・テレビなどで加害者の姿・名前を見た時、どんな感情に囚われるだろう?」「無節操な戦力のそろばん勘定のレベルで今回の問題を捉えた中日の契約は、(青少年の野球人口の先細りによる)プロ野球離れを一段と加速させる結果にしかなるまい」と、中日球団に対し批判的な論調の記事を執筆した[101]。
中日時代
- 1994年
- 中山は同年春、二軍の打撃投手として串間市営球場で行われた春季二軍キャンプに参加しつつ実戦復帰を目指してきた[102]。
- 同年6月10日、中日球団は「練習態度が真面目で、そろそろチャンスを与えてもいいだろう」と判断したことから、球団職員・打撃投手だった中山と[102]契約金なし[103]、年俸800万円(推定)・背番号125で選手契約を結び、中山を同日付で支配下選手登録した[102][104][103][105]。
- ファンの運動により再び現役選手としてプレーする事が可能になった中山は「再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいです。でも被害者がいる以上、罪は反省し自分の中でも消えるものではない」とコメントした[102][105]。
- 中山了・中日球団社長は同日、「事件は絶対に犯してはならない過ちだったが、本人は2年以上も深く反省していたし、『もうチャンスを与えてもいいだろう』と考えた。二軍で打撃投手を務めさせつつ、投手としての実力のみならず性格も観察した上で復帰を承認した」と語った[102]。川島セ・リーグ会長は同日、「中山君は『過去』というものを償いあまりある努力をしたに違いない。新生・中山が生まれることをファンも期待しているだろう」と談話を発表した[104]。
- 正式に選手登録が発表された際、ドラフト同期の巨人・桑田真澄は中山に電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けた[83]。
- 一方で野球解説者・豊田泰光は週刊誌『AERA』(朝日新聞社)の取材に対し「はっきり言って不愉快だ。彼が投げるときは口をつぐむ」「中山は人前に出るべきではない。ましてや一軍投手として栄光の座を与えるなんてあり得ない」と、中山に対して厳しい反応を示した[83]。
- また、受け入れ先となった中日でも投手コーチ・水谷啓昭は同誌の取材に「中山が懸命に努力している姿を見てからは応援する気になったが、初めは『冗談じゃないよ』というのが本音だった。『例えば黒い霧事件で永久追放になった選手もいるのに、なんで性犯罪を犯したような選手を雇うのか』と球団への不満もあったし、(結果的に杞憂には終わったが)選手の士気が萎えるなどチームメートへの悪影響も懸念した」と語った[83]。
- 中山は中日入団以降、当時空白となっていた抑え投手の座を得るため抑え投手に必要な瞬発力を得るべく、ランニングではダッシュを重視するなど重点的なトレーニングを積み重ねてきた[106]。二軍でのトレーニング中、かつて阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブスを解雇された後3年間の球界ブランクを経て台湾プロ野球・中華職業棒球聯盟(CPBL)テスト生から復活した経歴を持つ同僚・野中徹博は、中山に対し「体が(感覚を)覚えているものだから大丈夫だ。指はボールを忘れてはいない」とアドバイスした[49]。
- 中山は同年6月21日、ウエスタン・リーグの福岡ダイエーホークス戦(ナゴヤ球場)で先発し、1991年10月10日の阪神戦以来となる現役復帰後初登板を果たした[107]。この試合では3回を投げ、打者14人と対戦して5被安打・4奪三振の結果で、山之内健一に高め速球を打たれて本塁打を記録されるなど3失点を喫したが、ブランクを差し引けばまずまずの投球内容だった[107]。
- 同年7月21日、中山は高木守道監督ら首脳陣立ち会いの下、ナゴヤ球場で昇格テストを受けた[108]。その結果、高木監督は「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ、様子を見たい」と判断し、後半戦からの一軍合流を決定した[108]。
- 翌7月22日、中山は現役復帰後初[109]、大洋時代の1991年10月以来となる33カ月ぶりの一軍選手登録を受けた[110]。同日付で背番号も67に変更された[110]。
- 中山は同日、ナゴヤ球場で開かれた読売ジャイアンツ(巨人)戦からベンチ入りし[110]、翌24日の試合で6回表、5回13被安打5失点の投球内容で降板した先発・山本昌に代わって中継ぎとして1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えた[111]。中山は35,000人の観衆が来場したナゴヤ球場で「前日から『ヤジを飛ばされるのも覚悟して思い切って投げろ』と自分に言い聞かせていた」が[83]、マウンドの土を踏んだ際、多少のヤジこそあったものの[31]、耳に届いたのは思いがけず割れるような拍手と「頑張れ」という声援だったため、涙がこぼれかけたという[83]。当時、中山は『週刊新潮』取材に対し、「現時点ではまだ80%ほどの出来で、速球・カーブとも今一つであり、やはりフォークが一番だ。ゆくゆくは先発で投げてみたいし、お世話になった方のためにも早く1勝を挙げたい」と語った[31]。
- 同年は一軍6試合に登板して0勝0敗0セーブ・防御率5.79の成績で[112]、古巣・大洋時代の本拠地球場・横浜スタジアム(大洋は1993年より「横浜ベイスターズ」に球団名を変更)で登板することはなかった。また同年10月8日にナゴヤ球場で開かれた巨人との優勝決定戦「10.8決戦」でも登板機会はなかった。
- 同年オフには推定年俸1,200万円(前年比400万円増)で契約更改し、背番号を大洋時代と同じ19番に変更した[112]。
- 1995年
- 球界復帰2年目の同年はアメリカ・アリゾナ州春季キャンプにて600球を投げ込むなど、抑え投手の座を得るべくトレーニングを積み重ねていった[106]。同年3月に発売された『ホームラン』1995年3月号『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』(日本スポーツ出版社)では「右の先発ローテーションに入るか?」と記載されたが[112]、中日時代は先発で登板する機会はなかった。
- 同年4月12日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)にて大洋時代・1989年8月11日の阪神戦(横浜スタジアム)以来2,070日ぶり、球界復帰後初となるセーブを挙げた[113]。
- 同年5月1日には、運送会社に勤務しつつ球界復帰を目指していた1993年に知人の紹介で知り合った20歳代家事手伝い女性(当時・神奈川県川崎市在住)と入籍したことを明らかにした[90]。
- 同年5月24日、古巣・大洋の後身である横浜ベイスターズ戦にて現役復帰後初めて横浜スタジアムで登板を果たした。この試合では延長12回裏から登板したが、二死満塁の場面で波留敏夫から右翼線へ抜けるサヨナラタイムリー安打を被弾し敗戦投手となった[114]。
- 同年6月6日、中山は広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて1点ビハインドの8回裏に中継ぎで登板すると、9回表に山崎武司の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた[115]。延長12回裏、仁村徹の決勝打によってチームが勝ち越すと中山の後を継いだ抑え・古池拓一が1点リードを守ったことにより、中山は1991年9月29日の巨人戦以来1,346日ぶりとなる球界復帰後初勝利を飾った[115]。この勝利は中山のプロ復帰への門戸を開いた恩人・高木守道監督のシーズン途中解任を受けて監督代行を務めていた徳武定祐コーチにとって、指揮を執り始めて2試合目にしての初勝利でもあった[115]。
- 同年はチームの低迷(終盤近くまで最下位低迷、最終順位は5位)を受けて後に徳武もシーズン閉幕を待たずに解任され、その後は島野育夫コーチが監督代々行を務めたため、2度にわたって監督が交代したが、中山はこの初勝利を含めて3勝6敗4セーブ・防御率3.27の成績を挙げ、中継ぎ・抑えとしてチーム最多の44試合に登板[116]、7セーブポイントを記録した[117]。同年オフ、推定年俸2,000万円(前年比800万円増)で契約更改した[116]。このころには大洋時代の活躍の片鱗が窺えるところまで速球の威力が回復してきたが、本人は「まだムラがあり、イメージ通りの速球には程遠い」と満足しておらず、全盛期の「速球で相手打者を追い込み、独特の揺れるフォークで抑える」というパターンを取り戻すべく腐心した[9]。
- 1996年
- 新監督として星野仙一が就任した同年はチームの投手陣で唯一、前半戦77試合で二軍落ちすることなく一貫して一軍で過ごした[118][119]。
- 同年は抑え投手候補として韓国球界のヘテ・タイガースから加入した宣銅烈の不調を受け、力のある速球・フォークを武器に宣に代わる抑え投手として活躍した[120]。後半戦には前半戦に比べて調子を落としたものの球界復帰から3年目で完全復調の手応えを掴み[120]、36試合に登板して4勝4敗14セーブ・18セーブポイント・防御率2.88の数字を残した[117]。
- 同年7月11日、セ・リーグ代表監督・野村克也(当時・ヤクルト監督)の推薦によりサンヨーオールスターゲーム全セ(オールセントラル・リーグ)に選出されたことが発表され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たした[121]。野村はこの時、中山の選出について「現在・未来が大切で過去は問わない」とする談話を発表した上で[121][122]、「本人は魔が差してしまったこともあったが、(社会的制裁を受けるなどして)苦しんだことであり、現在は自分としては問題視はしていない。喜んでオールスターに出場してほしい」と激励した[121]。中山は同日、野村が監督を務めるヤクルトとの試合前に野村に挨拶し、「選出されるとは思っていなかったので感謝しています。(高校時代に甲子園で対決した)清原和博選手(西武ライオンズ所属)と対決して抑えたい」と抱負を語った[121]。
- そのオールスターゲームでは1996年7月23日に富山市民球場アルペンスタジアムで行われた第3戦にて3回表に登板し、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した[123]。
- 同年オフ、推定年俸4,500万円(前年比2,000万円増)で契約更改した[117]。
- 1997年
- 中日の本拠地がナゴヤドームに移転した同年はチームが最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板し投球回76イニング2分の3を記録した[124]。
- 同年は前年不調だった宣が一転して守護神として活躍したため、中山自身のセーブはゼロに終わった[124]。しかし守護神・宣へつなぐセットアッパーとして1年を通じて活躍し[125]、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり、球界復帰後では初となるシーズン7勝を挙げ、7勝6敗・防御率4.34の成績を残した[124]。投球回数76イニングは阪神・伊藤敦規に次ぎリーグ2位だったが、江川卓は「防御率が4.34と高いこと」「奪三振数が(それまで1イニング1個に近い割合だったのが)54個と減ったこと」「速球の力強さが失われたこと」「暴投が6回と多いこと」を課題点として挙げていた[126]。
- 同年オフ、推定年俸4,400万円(前年比100万円減)で契約更改した[124]。
- 1998年
- 中継ぎエースの座を確立すべく臨んだ1998年シーズンだったが[125]、同年は故障のため一軍戦では7月に7試合(合計7イニング)登板したのみで[127]二軍戦でもわずか6試合の登板に留まった[128]。当時の投手陣では豊富な実績・経験から落合英二とともに中継ぎエースとして期待されていたがシーズンの大半を棒に振ってしまったことから、中山の古巣・横浜とのリーグ優勝争いに敗れ2位に終わったチームの首脳陣からは幾度となく「あいつがいれば…」とため息が漏れた[129]。
- 同年オフにはフリーエージェント(FA)資格を取得したが残留し[130]、推定年俸4,200万円(前年比200万円減)で契約更改した[127]。
- 1999年
- 同年はリリーフのみで31試合に登板して3勝1敗・防御率3.16の成績を挙げ、自身初・中日球団史上11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝に貢献した[131]。
- 福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦(ナゴヤドーム)にて9回表に敗戦処理として登板した[132]。
- 同年11月24日には名古屋市内の病院に入院して両膝半月板の手術を受けた[133]。同年オフ、推定年俸4,400万円(前年比200万円増)で契約更改した[131]。
- 2000年
- 同年もリリーフで25試合に登板したが[134]、徐々にチームが投手王国となり、落合英二・正津英志・岩瀬仁紀らが台頭するにつれて登板機会が減少していった。
- 同年11月28日、来季の契約について推定年俸4,300万円(前年比100万円減)で更改した[135]。
- 2001年
- 一軍でわずか4試合の登板に終わった同年の10月12日、小池秀郎・鈴木平・永田能隆とともに球団から戦力外通告を受けた[136][137]。
- 同年12月2日にNPBコミッショナー事務局により自由契約選手として公示され、同年限りで退団した[138]。同日までに開かれた12球団合同トライアウトには計2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、台湾プロ野球・韓国のKBOリーグへの移籍を視野に現役続行を目指した[139]。
中日退団後
合同トライアウト受験後の2001年12月、横浜を退団した小桧山雅仁(中山の退団後、ベイスターズで最初に背番号19を着用)とともに台湾・中華職業棒球大聯盟(CPBL)の和信ホエールズ(翌2002年シーズンより「中信ホエールズ」に球団名を変更)に入団した[140]。
中信では大洋時代の1991年以来となる先発投手に転向してエース格投手として活躍し[141]、2002年は12勝10敗、翌2003年も13勝4敗と2年続けて好成績を残した[142]。『毎日新聞』2003年10月7日東京夕刊・大阪夕刊記事「憂楽帳」(記者:飯田和郎)は当時の中山に関して「台湾プロ野球はNPBに設備・待遇面で劣ることから試合後は夜食にコンビニ弁当を食べて空腹を満たしたこともあったが、『野球をやらせてもらっている』喜びが体に満ちた」と報道している[143][144]。
2003年9月時点で12勝を挙げていたが[145]、肘の故障に加え[143][144]「妊娠5ヶ月の妻が5か月後(翌2004年2月ごろの)第一子出産を控えて日本に帰国しているため、出産前に帰国して面倒を見たい」という事情から同月には中信球団に「今季限りで退団・帰国する」と申し入れた[145]。これに対し中信球団側は「主力投手として活躍し、郭李建夫(元阪神)とともに若手にアドバイスを送るなどしてチームに貢献している上、台湾の公用語である北京語も覚えてチームの人気者になっている貴重な選手だ。来季(2004年)も台湾でプレーしてほしい」と慰留したが、退団の決意を翻意することはなかった[145]。
郭李は中山の退団を惜しみ「奥さんが日本で出産する事情があるとは言ってもまだ台湾で現役続行してほしかった」とコメントした[146]。2003年9月21日、台北市立天母棒球場で開かれた兄弟エレファンツ戦で同じく日本人投手の横田久則(元西武・ロッテ・阪神)と投げ合い、3失点を喫するも完投して13勝目を挙げて有終の美を飾った[146]。この試合前、中信・林仲秋監督は中山に「この試合が台湾でのラストゲームだから今日は絶対に勝て。勝たなかったら日本に帰国させないぞ」とハッパをかけていた[146]。試合後、中山はヒーローインタビューで満員のファンに対し「2年間ご声援いただきまして本当にありがとうございました。残念ながら総冠軍戦(台湾シリーズ)には出場できませんでしたが、来年こそはチームの優勝を祈っています」とコメントし[146]、同年限りで現役を引退した[143][144]。この引退試合を観戦していた『毎日新聞』記者・飯田和郎は前述の記事「憂楽帳」にて「『日本で二度死んだ男(大洋・中日をそれぞれ解雇された)』=中山は『人生の新しいイニング』をどう投げるのだろうか。大洋時代の事件の罪を償ってもその過去は重く、日本に帰国しても他人の視線を覚悟しなければならないが、彼がヒーローインタビューで述べた『“台湾で過ごした日々が自分を成長させてくれた”と思えるようになりたい』という言葉を信じたい」と記している[143][144]。
現役引退後はメディアへの露出を控えているが[20]、『週刊アサヒ芸能』2015年8月20日号(徳間書店)は「現役引退後は貿易業を行っている」と報道しているほか[147]、高知商業高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人(現・高知商業高校野球部部長)は2016年に『Sports Graphic Number』(文藝春秋社)記者・鈴木忠平の取材に対し「(中山は現在)自分で事業を頑張っている」と証言した[20]。
選手としての特徴・人物
高校時代は最速150km/hを記録する速球を武器に甲子園で活躍し[1][18]、1985年に夏の甲子園で対戦した清原は自著で中山を「当時から桑田と並ぶ大会屈指の好投手として注目されていたが、肝っ玉も超高校級だった」と評した[19]。
大洋時代は右投げの速球派投手としてリリーフ・先発で活躍し、1989年1月16日付の『読売新聞』朝刊記事では「時に帽子を振り飛ばすほどの力強い力投は“弱小大洋”の中で1人気を吐いた『和製ライアン』」と紹介され、同紙の取材に対しては同じ速球派投手としてノーラン・ライアンを「尊敬する投手」として挙げていた[148]。また大洋時代は「金太郎」の愛称で親しまれたほか「営業マンとしてもやっていける」と言われる腰の低さから、1991年の事件当時は「球界でも屈指の好青年」として知られていた[2]。
中日時代は力のある速球に加えて「ストライクを取るフォークと空振りを取るフォーク」の2種類のフォークボールを武器に中継ぎ投手として活躍した[120]。1997年は速球・フォークに加えてカーブ・スライダーも持ち球としていた[126]。1991年の事件当時は前述のようにベンツが愛車だったが、中日時代の1999年選手名鑑(ベースボール・マガジン社)では「愛車はトヨタ・クラウン」と紹介されていた[128]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 | 大洋 | 18 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | -- | .000 | 194 | 44.0 | 44 | 3 | 15 | 0 | 3 | 15 | 1 | 0 | 34 | 25 | 5.11 | 1.34 |
1987 | 33 | 20 | 2 | 1 | 0 | 5 | 12 | 0 | -- | .294 | 568 | 132.1 | 147 | 17 | 44 | 2 | 0 | 81 | 8 | 2 | 78 | 76 | 5.17 | 1.44 | |
1988 | 70 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 6 | 24 | -- | .625 | 597 | 142.1 | 124 | 11 | 52 | 10 | 3 | 118 | 9 | 1 | 40 | 36 | 2.28 | 1.24 | |
1989 | 45 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 17 | -- | .091 | 346 | 79.0 | 81 | 17 | 32 | 6 | 3 | 68 | 2 | 0 | 39 | 36 | 4.10 | 1.43 | |
1990 | 27 | 21 | 5 | 3 | 0 | 8 | 12 | 0 | -- | .400 | 653 | 153.2 | 157 | 14 | 44 | 5 | 8 | 89 | 3 | 1 | 71 | 67 | 3.92 | 1.31 | |
1991 | 27 | 23 | 3 | 2 | 0 | 8 | 10 | 0 | -- | .444 | 672 | 156.1 | 152 | 25 | 58 | 1 | 6 | 107 | 4 | 0 | 77 | 73 | 4.20 | 1.34 | |
1994 | 中日 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 20 | 4.2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 | 5.79 | 1.71 |
1995 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 4 | -- | .333 | 225 | 52.1 | 56 | 7 | 11 | 2 | 2 | 49 | 8 | 0 | 23 | 19 | 3.27 | 1.28 | |
1996 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 14 | -- | .500 | 170 | 40.2 | 32 | 3 | 16 | 2 | 0 | 42 | 3 | 0 | 15 | 13 | 2.88 | 1.18 | |
1997 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 6 | 0 | -- | .538 | 330 | 76.2 | 67 | 10 | 32 | 3 | 7 | 54 | 6 | 1 | 41 | 37 | 4.34 | 1.29 | |
1998 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 27 | 7.0 | 4 | 0 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.86 | |
1999 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | .750 | 146 | 37.0 | 31 | 2 | 12 | 1 | 1 | 16 | 2 | 0 | 13 | 13 | 3.16 | 1.16 | |
2000 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 116 | 28.1 | 23 | 3 | 9 | 1 | 2 | 22 | 1 | 0 | 10 | 7 | 2.22 | 1.13 | |
2001 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 27 | 6.2 | 7 | 1 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 5.40 | 1.35 | |
2002 | 中信 | 34 | 24 | 7 | 3 | 0 | 12 | 10 | 1 | -- | .545 | 728 | 176.2 | 172 | 13 | 40 | 3 | 10 | 117 | 10 | 1 | 76 | 55 | 2.80 | 1.20 |
2003 | 25 | 25 | 6 | 2 | 1 | 13 | 4 | 0 | -- | .765 | 729 | 180.0 | 169 | 5 | 29 | 1 | 8 | 106 | 3 | 1 | 56 | 44 | 2.20 | 1.10 | |
NPB:14年 | 423 | 70 | 10 | 6 | 0 | 51 | 71 | 62 | -- | .418 | 4091 | 961.0 | 933 | 114 | 329 | 34 | 35 | 669 | 47 | 5 | 448 | 409 | 3.83 | 1.31 | |
CPBL:2年 | 59 | 49 | 13 | 5 | 1 | 25 | 14 | 1 | -- | .641 | 1457 | 356.2 | 341 | 18 | 69 | 4 | 18 | 223 | 13 | 2 | 132 | 99 | 2.50 | 1.15 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- CPBL
- 月間MVP:2回 (2002年9月、2003年4月)
記録
- 初登板・初先発:1986年5月8日、対読売ジャイアンツ5回戦(後楽園球場)、捕手:若菜嘉晴[28]
- 初セーブ:1986年10月13日、対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤ球場)、捕手:市川和正[30]
- 初勝利:1987年5月9日、対読売ジャイアンツ4回戦(横浜スタジアム)、捕手:堀場秀孝[34]
- 初完投勝利:1987年5月21日、対ヤクルトスワローズ9回戦(横浜スタジアム)、捕手:堀場秀孝[35]
- 初完封勝利:1987年6月27日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、4被安打、捕手:若菜嘉晴[36]
- オールスターゲーム(NPB)
- オールスターゲーム出場:3回 (1988年、1989年、1996年)
背番号
- NPB
- 19 (1986年 - 1991年、1995年 - 2003年)
- 125 (1994年6月10日 - 7月21日)
- 67 (1994年7月22日 - 同年終了)
脚注
- ^ a b c d e 『'86プロ野球 12球団全選手百科名鑑』 第10巻第3号(通算:第97号、1986年3月号)、日本スポーツ出版社、1986年3月31日、53頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『中日新聞』1991年12月26日朝刊第一社会面23面「大洋・中山投手を逮捕 神奈川 少女に連続いたずら 『彼女に会えず不満』」
- ^ a b c d e f g h i j k l 『読売新聞』1991年12月26日東京朝刊第一社会面23面「プロ野球の中山裕章投手(大洋)を逮捕 幼女いたずら容疑」
- ^ a b c d e f g 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第二社会面26面「大洋 中山投手を解雇 球団社長らも処分 復帰は事実上無理」
- ^ a b 『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊第一社会面31面「わいせつの中山投手を解雇処分/大洋球団」
- ^ a b c d 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23面「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(記者:会田豊彦)
- ^ a b c 『中日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21面「中山元投手が復帰 中日 『打撃投手』として契約」
- ^ a b c d e f g h i 森岡(2004) p.216-217
- ^ a b 『中日ドラゴンズ '96ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1996年3月13日、47頁。ISBN 978-4806203131。
- ^ “【1月3日】1999年(平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」”. スポニチアネックス(スポーツニッポン) (スポーツニッポン新聞社). (2009年1月1日). オリジナルの2018年12月25日時点におけるアーカイブ。 2018年12月25日閲覧。
- ^ a b c d e 鈴木(2016) p.120-122
- ^ a b c 鈴木(2016) p.122-123
- ^ a b c d e 上杉(2015) p.43
- ^ a b 野村(2016) p.33-34
- ^ a b c 鈴木(2016) p.123-125
- ^ 鈴木(2016) p.125-126
- ^ a b c d e f g 鈴木(2016) p.126-129
- ^ a b c d e 上杉(2015) p.42
- ^ a b 清原(2009) p.98
- ^ a b c d e 鈴木(2016) p.134-135
- ^ a b 清原(2009) p.98-99
- ^ 和田裕司 (2018年7月26日). “【高知】「打てない」苦しんだ清原 鍵穴にはまった高知商・中山の剛速球 第67回大会準々決勝 高知商 3―6 PL学園 ( 1985年8月19日 甲子園)”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). オリジナルの2018年9月18日時点におけるアーカイブ。 2018年9月18日閲覧。
- ^ 清原(2009) p.100
- ^ 和田裕司; 松井いつき (2018年5月19日). “【高校野球メモリアルイヤー】PL・清原和博 史上初の1試合3発「はっきり覚えている」”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). オリジナルの2018年9月18日時点におけるアーカイブ。 2018年9月18日閲覧。
- ^ 鈴木(2016) p.132-133
- ^ a b c d e f g h i j k 『週刊文春』1992年1月16日新春特別号 p.191-193「下半身吠えーるず 問われる大洋の身の下管理 哀れ!人生を棒に振ったロリコンエース中山裕章」(文藝春秋社)
- ^ a b 『'87プロ野球 12球団全選手百科名鑑』 第11巻第3号(通算:第106号、1987年3月号)、日本スポーツ出版社、1987年3月31日、53頁。
- ^ a b c d e f 『毎日新聞』1986年5月9日東京朝刊第14版第一スポーツ面「大胆、大洋 対Gに“初投手”2人 セ・リーグ第6節8日 巨人5-2大洋」「ダッグアウト:初見せルーキーリレー 中山裕章投手・相川英明投手(大洋)感動と無念と18歳コンビ」
- ^ a b c 『朝日新聞』1986年5月9日東京朝刊第14版第一スポーツ面「江川4勝 またまた勝ったよ 中山見参 原さんに打たれる気がしなかった 近藤監督演出打線がつぶす 巨人5-2大洋 5回戦」
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参考文献
関連書籍
- 森岡浩『甲子園高校野球人名事典 選手・監督から審判・解説者まで』(初版)東京堂出版、2004年7月15日、216-217頁。ISBN 978-4490106503。
- 清原和博『男道』(初版)幻冬舎、2009年1月15日、98-100頁。ISBN 978-4344016095。
- 上杉純也『甲子園最強の投手は誰だ?』(初版)竹書房、2015年3月13日、42-43頁。ISBN 978-4801902459。
- 「中山裕章(高知・高知商) 高校野球史上最大アーチを打たれた男」
- 野村貴仁『告白』(初版)KADOKAWA、2016年9月25日、33-34頁。ISBN 978-4041045800。
- 鈴木忠平『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』(初版)文藝春秋社、2016年12月15日、114-135頁。ISBN 978-4163905785。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 中山裕章 - NPB.jp 日本野球機構