志度寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Leo219 (会話 | 投稿記録) による 2022年11月29日 (火) 11:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (GIA CORM FILLIPPO DIA (DEVIL'S CARNIVAL) (会話) による ID:92650481 の版を取り消し)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

志度寺


本堂

地図
所在地 香川県さぬき市志度1102番地
位置 北緯34度19分27.5秒 東経134度10分46.7秒 / 北緯34.324306度 東経134.179639度 / 34.324306; 134.179639座標: 北緯34度19分27.5秒 東経134度10分46.7秒 / 北緯34.324306度 東経134.179639度 / 34.324306; 134.179639
山号 補陀洛山
院号 清浄光院
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗善通寺派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 (伝)推古天皇33年(626年
開基 (伝)尼凡薗子
正式名 補陀洛山清浄光院志度寺
札所等 四国八十八箇所86番
文化財 本堂、仁王門、木造十一面観世音菩薩両脇士立像ほか(国の重要文化財)
閻魔堂・奪衣婆堂、木造如来形坐像、木造金剛力士立像(県文化財)
絹本著色十一面観世音菩薩(市文化財)
生駒親正墓塔、海女の墓五輪塔群(市史跡)
法人番号 5470005004465 ウィキデータを編集
テンプレートを表示

志度寺(しどじ/しどうじ)は、香川県さぬき市志度にある真言宗善通寺派寺院四国八十八箇所霊場の第八十六番札所。山号は補陀洛山、院号は清浄光院。本尊十一面観音菩薩。

本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか

ご詠歌:いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ

納経印:当寺本尊、閻魔大王

概要

藤原不比等に関わる伝説は謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』(志寺の段/しどうじのだん)などの舞台にもなっている。 また、江戸時代、当地の出身の平賀源内を長崎に遊学させるため、当時の住職が尽力したという。本堂の背後で境内の北は志度湾で瀬戸内海が広がり、ひとつ前の札所である八栗寺のある五剣山屋島が臨める。

歴史

本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊・十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。626年推古天皇33年)のことで創建とされている。

681年天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。また、693年持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。

その後、巡錫に来た、弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。

室町時代には四国管領細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し、室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。のちの戦乱により寺院は荒廃するも、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり、慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。1671年寛文10年)、高松藩松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興。これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。

1962年昭和37年)に重森三玲による枯山水「無染庭」が造られている。

伽藍

ここでは、参拝順路の順番に表示する。

  • 山門仁王門)- 仁王像を安置。
  • 手水舎・鐘楼堂
  • 五重塔 - 高さ33m。1973年から着工され、1975年5月に落成。地元出身の実業家竹野二郎によって寄進された。本尊は胎蔵大日如来坐像。
  • 奪衣婆堂 - 奪衣婆が拝観できる。脇侍は地蔵菩薩・太山府君
  • 本堂 - 毎年、7月16日と17日午前中、本尊と脇仏の開帳をし堂内を見学できる。向かって右奥には凡薗子尼像が鎮座し、宮殿の背後には大きい阿弥陀如来図が直接描かれ、本堂奥の壁には伝持の八祖の掛け軸がかかっている。
  • 大師堂 - 以前は中に入れたが、納経所が移動してからは外からの参拝となった。
  • 三尊仏 - 阿弥陀・薬師・観音の金属製坐像。藩主松平頼重が切腹させた家来三人を祀る。
  • 閻魔堂 - 十一面閻魔大王が鎮座。毎月17日開帳。
  • 三社(祠)
  • 薬師堂 - 薬師如来坐像を拝観できる。
  • 書院 - 浄瑠璃『花上野誉の石碑』の舞台となった。
  • 無染庭 - 枯山水庭園。細川勝元によって完成された。納経所の中からも眺めれる。
  • お辻の井戸 - 歌舞伎『花上野誉石碑』[注釈 1]に出てくるお辻が水垢離した井戸。無染庭の南側にあり。
  • 曲水式庭園 - 室町時代、四国管領であった細川氏によって造成。
  • 納経所

仁王門をくぐり、左側の2つ目の通路を行き手水舎と鐘楼堂の間を進むと五重塔の前に出る。その先にある奪衣婆堂を参拝後、右前に進むと本堂があり、その右に大師堂がある。大師堂を背に左に三尊仏があり、進むと閻魔堂がある、さらに進むと三社の祠を過ぎ薬師堂がある。右に曲がり左のピンク色の納骨堂を越えて左側の宝物館と書院の間を入って行くと右側に垣根に囲まれた無染庭があり前方に曲水式庭園が広がる。 無染庭の垣根に沿って右に進んだ先にお辻の井戸が前方にある。薬師堂前の参道に戻り、納経所は書院を過ぎて左手の白壁の蔵との間の小径を入って行くとある。

  • 句碑 - 山頭火「月の黒鯛ぴんぴんはねるよ」が本堂の右前にある。

<北西の駐車場方向>

  • 生駒親正の墓所[6] - 境内の北側の墓地の中にあり、海女の墓を囲む柵の右側に沿って奥。
  • 海女の墓 - 「海女の玉取り」伝説:藤原不比等は唐より授かった「面向不背の珠」という宝珠を沖で龍神に奪われた。これを取り戻すためこの地の海女に後に藤原房前となる子を産ませる。その海女は龍神の棲む龍宮へ向かい我が子と引き換えに宝珠を取り戻して亡くなる。不比等は薗子尼が建てた堂の傍らに海女の墓を造り弔った。その後、大人になった藤原房前は当地に訪れ母の供養のために千基の石塔を建立したと伝えられる。その残った一部の20基余が海女の墓といわれてる。
  • 句碑 - 高浜年尾「盆に来て海女をとむらふ心あり」が海女の墓び前にある、
  • 弁財天堂(祠) - 境内の北西端にある。
  • 宿坊 - なし
  • 駐車場 - 仁王門の直前を右へ入った納経所の前は普通車までで、境内の海側にバスも可能な駐車場が2ケ所にあり、いずれも無料[6]

文化財

重要文化財
  • 本堂(附 棟札2枚) - 1670年(寛文10年)建立。初代藩主松平頼重の寄進。桁行七間、梁間五間、入母屋造。1983年(昭和58年)6月2日指定。
  • 仁王門 - 本堂と同様の年代と寄進。三間一戸の八脚門。 1983年(昭和58年)6月2日指定。
  • 木造十一面観音立像および両脇侍(不動明王立像・毘沙門天)立像 - 1901年明治34年)3月27日指定。
    (十一面147.0cm榧の一木造り彩色・藤原時代、不動78.2cm、毘沙門79.4cm)
  • 絹本著色十一面観音像 - 鎌倉時代(13世紀)作。202.5cm×85.8cm。1901年(明治34年)3月27日指定。
  • 絹本著色志度寺縁起 6幅(附:紙本墨書志度寺縁起等付属文書9巻)=[7][8][9][10][10] - 鎌倉末期から室町初期作、120cm×170cmが6幅の大作。1901年(明治34年)3月27日指定、附の文書は昭和39年1月28日追加指定。
県指定有形文化財
  • 閻魔堂 - 1984年(昭和59年)8月14日指定。
  • 奪衣婆堂 - 1984年(昭和59年)8月14日指定。
  • 木造如来形坐像(五重塔内) - 像高101cm、欅材の一木造、漆箔。寺伝では胎蔵大日如来であるが、通常の大日如来像と異なり装身具をつけていない。1969年(昭和44年)3月28日指定。
  • 木造金剛力士立像(仁王門内) - 1969年(昭和44年)3月28日指定。
さぬき市指定有形文化財
  • 絹本著色十一面観音立像 - 1986年(昭和61年)2月27日指定。
さぬき市指定史跡
  • 生駒親正墓塔 - 1991年平成3年)3月6日指定。
  • 海女の墓五輪塔群 - 1990年(平成2年)12月26日指定。

塔頭寺院

志度寺・石門(門内に塔頭寺院を含む。奥に仁王門)

上述した志度寺の僧坊を起源に持ち、後に塔頭として独立した寺院が3つある。志度寺西側の隣接敷地(志度寺の旧敷地)内にあることから、広義における志度寺として、これらを含む場合がある。

圓通寺(えんつうじ)
正式には「福聚山世尊院圓通寺」、宗派は志度寺と同じ真言宗善通寺派、本尊は観世音菩薩。さぬき市二十一ヶ所霊場第5番札所、讃岐三十三観音霊場第3番札所。志度寺石門より入って左側にある。御詠歌は「まいりてぞ 願いをかけよ圓通寺 佛の誓い あらたなりせば」[11]
奈良時代頃に行基によって志度寺僧坊「西林坊」として開基されたと伝わる。江戸時代の初めに志度寺の住職を務めた宥忍和尚が住職の座を次代に譲った折、のちに隠棲する際、西林坊を居とした事で寺院として独立[12]。江戸時代の初中期、特に宝永に至るまでには、現在の寺号を持つようになったとされる[11]。本堂には西国三十三所の本尊の写し仏が奉納されている[12]
自性院(じしょういん)
正式には「微雲窟自性院常楽寺」、宗派は志度寺と同じ真言宗善通寺派、本尊は不動明王新四国曼荼羅霊場第10番札所(9番 玉泉寺・11番 田村神社)。志度寺石門より入って右側にある。本寺の元・御影堂(大師堂)跡地で、天正年間に摂津兵庫の豪族である多田和泉守によって復建され同時に塔頭として独立開基されたと伝わる。塔頭時代の名残から院号である自性院を通名とされている。
讃岐(白石)平賀家の菩提寺であり、平賀源内の墓がある。ただし源内が実際に葬られている墓は東京都板橋区にある総泉寺の橋場墓地(台東区)であるとされ、この墓は平賀家および地元の人間が源内を悼み弔うための参り墓とされている。(ただし分骨等による分祀墓であるなど諸説アリ)
2010年1月9日早朝、失火により本堂と客殿が全焼失した。これらは後に再建されている。
中国西安市の青龍寺を「四国零番札所」と名付けた蓮生善隆(1915年(大正4年)~2005年(平成17年)、1977年真言宗長者・真言宗善通寺派第3代管長・もと四国霊場会会長)の自坊であった(のちに與田寺へ転ずる)。また2012年に真言宗長者を務めた真言宗善通寺派第5代管長である樫原禅澄(1940年(昭和15年)~ )の出生坊であり、同氏が善通寺派管長を退いた(2018年(平成30年)3月)後に帰郷して住職へと就いた自坊でもある。
普門院(ふもんいん)
正式には「法性山普門院金剛寺」、宗派は志度寺とは異なる真言宗御室派、本尊は大日如来。自性院の南に隣接し、山門は石門内には存在せず、志度寺石門から市道を50m南下した位置にある。宗派が本寺と違うため塔頭扱いをされず、広義の志度寺においても含まれない場合がある。
奈良時代頃に行基によって志度寺末院「華厳坊」として開基されたと伝わる。また、イサム・ノグチゆかりの寺として知られ、屋内には「AKARIシリーズ」が数作置かれている。

奥の院

地蔵寺

前後の札所

四国八十八箇所
85 八栗寺 -- (6.5km)-- 86 志度寺 -- (7.0km)-- 87 長尾寺

前後の札所 (塔頭)

新四国曼荼羅霊場
9 玉泉寺 -- (4.1km)-- 10 自称院 -- (18.0km)-- 11 田村神社
さぬき三十三観音霊場
2 洲崎寺 -- (6.5km)-- 3 圓通寺 -- (6.0km)-- 4 長福寺

年中行事

志度寺の柴燈護摩
  • 藤原房前忌    04月17日[6]
  • 柴燈大護摩  05月13日[6] - 護摩法要を屋外の本堂前で執行する柴燈護摩
  • 凡園子忌    06月16日[6][13]
  • 志度寺の十六度市 07月16日[6] - 海女の命日旧暦6月16日)にあわせ、境内に市が立ち、また年に1度、本尊十一面観音の御開帳を行う[注釈 2]
  • 藤原不比等忌   08月03日[6]
  • 永代土砂加持法要 12月10日[6][注釈 3]

交通アクセス

鉄道
バス
さぬき市コミュニティバス 「市役所前」下車 (0.7km)
道路

脚注

注釈

  1. ^ 浄瑠璃『花上野誉の石碑』[1][2]は全十段、司馬芝叟筒井半平(半二)作の坊太郎の親の仇討ちの物語に、幼い坊太郎を守ろうとして命を落とす乳母お辻のストーリーが盛り込まれている。お辻は寺に預けられた坊太郎の病い(実は仇をだます偽病)が癒えるように、金比羅宮に平癒を祈願し命を落とす[3]床本が多く出版され[4]、歌舞伎に仕立てられ、華やかな演出が人気の演目である[5]
  2. ^ 「玉取り伝説」を伝える縁起の研究が進んでいる[7][8][9][10][10]
  3. ^ 土砂加持(どしゃかじ・どさかじ)とは密教で行う加持のひとつ。土砂を洗い清めて護摩を焚き上げたのち、本尊の前に供して光明真言を唱える。清めた砂は病人の苦しみをやわらげ、死体の硬直を解いたりすると伝わり、あるいは祖先の罪過をすすぐため墓に撒く[14]

出典

  1. ^ 国立文楽劇場営業課『花上野誉碑 ; 恋娘昔八丈 ; 日高川入相花王 ; 増補忠臣蔵 ; 艶容女舞衣 ; 勧進帳』平成28年10・11月、日本芸術文化振興会〈文楽床本集 / 国立劇場事業部編〉、2016年。 NCID BB22632836 
  2. ^ 飯田叶 (編)「花上野誉の石碑 志度寺の段」『浄瑠理天狗佐和理独稽古 : 附・浄瑠理語の秘伝』名倉亀楠、1893年7月、74-75頁。doi:10.11501/856545  - 国立国会図書館デジタルコレクションよりコマ番号 47/69。
  3. ^ 「ArtWiki」花上野誉石碑”. 立命館大学アート・リサーチセンター. 2018年11月22日閲覧。
  4. ^ 前田鹿之助 (編)『花上野誉石碑志度寺段』00014号、加島屋竹中清助、大阪〈浄瑠璃丸本: 断五行双床本〉、1913年。全国書誌番号:40074251https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8565752018年11月22日閲覧  - 国立国会図書館デジタルコレクションより
  5. ^ 絵金蔵『絵金』パルコエンタテインメント事業局出版担当、2009年。ISBN 9784891947996NCID BA91193024  - 高知・赤岡の通称〈絵金〉が描く芝居絵屏風より、「花上野誉石碑―志度寺」を収載。
  6. ^ a b c d e f g h いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ 補陀洛山 志度寺”. 四国八十八ヶ所霊場会. 2018年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月22日閲覧。
  7. ^ a b 南谷敬 1980, pp. 1–30.
  8. ^ a b 逵日出典 1991, pp. 20–41.
  9. ^ a b 谷原博信 1998, pp. 58–66.
  10. ^ a b c d 大橋直義 2001, pp. 43–66.
  11. ^ a b 圓通寺公式サイトより
  12. ^ a b さぬき三十三観音霊場公式サイトより
  13. ^ 公益社団法人日本青年会議所 四国地区協議会 (2017年9月5日). “第86番志度寺 瓦に隠された悲しい物語とは?”. 2018年11月22日閲覧。
  14. ^ 松村明 (監修)、三省堂編修所 (編集)『大辞林』(3版)三省堂、2006年。ISBN 9784385139050NCID BA78867520全国書誌番号:21125525 

参考文献

  • 南谷敬「志度寺縁起絵考」『待兼山論叢』第14巻、大阪大学大学院文学研究科、1980年、1-30頁、ISSN 0387-4818NAID 120005463101 
  • 逵日出典「讃岐志度寺縁起と長谷寺縁起」『日本仏教史学』第25巻、大正大学、1991年3月、20-41頁、ISSN 0385-5805NAID 110000305541 
  • 谷原博信「志度寺縁起--御衣木縁起と漂着神について」『四国民俗』第31号、四国民俗学会、1998年2月、58-66頁、ISSN 1343-733XNAID 40005039068 
  • 大橋直義「珠取説話の伝承圏 : 志度寺縁起と南都・律僧勧進」『藝文研究』第80巻、慶應義塾大学、2001年6月1日、43-66頁、ISSN 0435-1630NAID 110000422412 
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 : 空海の史跡を尋ねて』(地図編 第8版 (改訂増補))へんろみち保存協力会、松山、2007年。 NCID BA82465123 
  • 松岡心平「南都律宗と能 (その1)『志度寺縁起』の律宗性と能「海人」 (特集 南都の文学)」『文学』第11巻第1号、岩波書店、2010年1月、34-42頁、ISSN 0389-4029NAID 40016980319 

関連文献

志度寺の伝承
  • 市古貞次; 野間光辰 (監修)『日本古典文学大辞典』日本古典文学大辞典編集委員会 (編集)、岩波書店、1983年。 NCID BN00217799全国書誌番号:84021743 
  • 乾克己志村有弘『日本伝奇伝説大事典』角川書店、1986年。ISBN 4040313003NCID BN00387642 
  • 人形浄瑠璃文楽座むつみ会『生写朝顔話・花上野誉碑 (ショウウツシ アサガオバナシ ハナ ノ ウエノ ホマレ ノ イシブミ)』(ビデオディスク 1枚 (169分) : DVD; 付随資料 リーフレット1枚 (18cm))NHKエンタープライズ〈NHK DVD 人形浄瑠璃文楽名演集〉、2016年4月。 NCID BB25840250全国書誌番号:22756880 

関連項目

外部リンク

外部リンク (塔頭)