パシフィック・リーグ

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パシフィック・リーグ
競技日本プロ野球
開始年1950年
参加チーム6
日本の旗 日本
前回優勝福岡ソフトバンクホークス(19回目)
最多優勝埼玉西武ライオンズ(21回)

パシフィック・リーグPacific League)は、日本プロ野球リーグのひとつ。

正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部パ・リーグと呼称される。

沿革

誕生

1949年11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である[1]。初年度の1950年は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。

当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの対読売ジャイアンツ戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した。こちらが現在のセントラル野球連盟セントラル・リーグである。

1950年代 黎明期

この時代は南海・西鉄の黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ1955年のみトンボユニオンズを名乗っていた)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、現在に至る。

1960年代 衰退期

1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、マスメディアを親会社に持たないパ・リーグには逆風となった(毎日新聞社1960年11月に大毎オリオンズの経営から撤退)。そんな中、大毎のオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年東京スタジアム」を完成させた。それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった。

1970年代 暗黒時代

1969年オフに勃発した黒い霧事件は西鉄ライオンズに致命的なダメージを与え、パ・リーグ全体のイメージダウンとなった(西鉄は1972年にライオンズを中村長芳に譲渡し撤退)。また映画産業の衰退で球団を支える経営体力がなくなり、大映(永田雅一→中村長芳)→ロッテ、東映→日拓ホーム→日本ハムと球団譲渡が相次いだ(プロ野球再編問題 (1973年)を参照)。更にロッテに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテ参照)。そして1975年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと2シーズン制の採用(1973年 - 1982年)、指名打者制の採用(1975年 - )などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。1970年代は阪急の黄金時代で特に1975~77年は3年連続日本一になっていたが、関西ではスポーツ紙が阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪急を始め関西パの3球団の観客は増えず、1977年の6月南海―阪急戦の関西球団同士の首位攻防戦が行われ(当時は前述したように2シーズン制で事実上の優勝争いになっていた)、その日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だったと当時南海の監督だった野村克也は著書に書いている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。

1980年代 西武黄金時代

1978年、西鉄から譲渡を受けたものの経営難に陥っていた中村長芳からライオンズを買収した西武グループは、球団経営に革命を起こす。大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実、金に糸目をつけない選手補強など。それらの施策が功を奏し多くの観客が詰め掛け、1980年代には実に5回の日本一を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局も巨人戦一辺倒から西武戦をも放送するようになった。またその頃は清原和博阿波野秀幸西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。しかし、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景が展開され、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞でも格好のネタになっていた。また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年初の日本球界マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。それでも観客増には結びつかず、南海・阪急は球団を持つ使命は終えたとしてダイエー・オリックスに球団譲渡を行った。  当時のパ・リーグの不人気ぶりはコンピューターゲームにも反映され、任天堂が1983年に発売したベースボールはモチーフがセ・リーグ6球団のみであり[2]、後にナムコ(後のバンダイナムコゲームス)から発売されたプロ野球ファミリースタジアムでも、1986年版と1987年版はソフト容量の問題から、セ・リーグをモデルとしたチームは6球団すべて単独で収録されたのに対し、パ・リーグをモデルとしたチームは連合チームが多く見受けられた[3]。尚1980年に名称をパシフィック野球連盟に改称している。

1990年代 イチロー&ドーム時代

1990年代前半は西武の黄金時代が続き、1990~1994年までパ・リーグ史上唯一の5連覇を飾ることになる。その頃のペナントレースは、西武に近鉄・日本ハムが追う展開であったが、1994年に彗星のごとく登場したイチローは1シーズン200本安打を超える大活躍でファンの人気を集める。またイチローの所属するオリックスも阪神淡路大震災後の復興のシンボルとして、ファンからの後押しもあり1995年1996年と連続優勝を成し遂げる。イチローばかりではなく野茂英雄松坂大輔など全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。また90年代になると、築40年以上過ぎた本拠地の老朽化が顕著な問題となり始め、その一方でプロ野球規格の新球場が相次いで完成した為、地元の誘致もありオリックスとロッテは本拠地をそれぞれ神戸総合運動公園野球場(1991年)と千葉マリンスタジアム(1992年)に移転した。更に1990年代半ばになると 福岡ドーム大阪ドーム・西武ドームなどパ・リーグの本拠地が相次いでドーム球場になり、日本ハムを含めると6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数が増えセ・リーグの70%近くまで持ち上げることとなる。

2000年代 - 2010年代 地域密着&IT時代

1999年の福岡ダイエーホークスの日本一と、翌2000年のリーグ連覇で「地域密着球団」の成功例として球界に大きなインパクトを与え、これが後の日本ハムが地域密着型球団を目指し北海道へ移転(2004年)する大きな契機になった(移転とともに球団名に「北海道」が追加された)。ただ、この頃はまだ地域密着があまり注目されておらず、ロッテも1992年に川崎から千葉に移転後、球団名に「千葉」を追加するなどしていたものの、長年の低迷で観客動員数も伸び悩んでいた。

地域密着が本格的に注目されるようになったきっかけは、2004年6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表されたことである。これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、楽天東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げ、同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定した(プロ野球再編問題 (2004年))。これにより、2005年以降も6球団制が維持され、現在に至っている。ちなみに、大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体が変換されたことのない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。

パ・リーグの各球団はこの反省を教訓に様々な地域密着方針を打ち出した。既に川崎から千葉に移転していたものの観客動員数が伸び悩んでいたロッテは、行政側と協力して千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」を打ち出したり、熱烈な応援や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンも増やし2005年には31年ぶりに日本一に輝き、5年後の2010年にも再び日本一を達成した。東京ドームを本拠地としていた時代に、観客動員数の低迷にあえいでいた日本ハムは2004年にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転した。当初、北海道では長年の巨人戦中心のテレビ中継の影響もあって巨人のファン層が圧倒的に多く、新規のファン開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや自治体のバックアップと移転後の球団及び監督や選手らによるファン獲得への努力により、既存の野球ファンをはじめ、女性などこれまで野球に関心のなかった層の獲得、ファンの定着化に成功した。本拠地移転を契機に僅か3年で、久しく遠ざかっていたリーグ優勝と日本一を達成、翌2007年にはリーグ連覇を果たし、近年は優勝争いに絡むなど、飛躍的な変化を遂げた。当時のダイエーやロッテなどに続いて、日本ハムがプロ野球球団のなかった地域に移転して境地を開き、結果を出したことによって、フランチャイズ球団が地域にもたらす効果や球団にもたらした変化など、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。また、2005年には楽天の参入、経営陣が刷新された西武は、2008年から球団名に「埼玉」を掲げ県内の大宮で主催試合を行うなど地域密着の姿勢を打ち出し、新たな地域密着型のリーグとしての型が確立されることとなった。また、2005年からはセントラル・リーグとの交流試合を開始した。

2007年5月にパ・リーグ所属6球団により共同事業会社パシフィック・リーグマーケティング株式会社(PLM)を設立。当初は携帯電話向けの動画配信サービス「プロ野球24」を主業務としていたが、2008年シーズンからはパ・リーグ全球団のウェブサイト、携帯電話向けウェブサイト、インターネット動画配信、携帯電話向け動画配信がPLMにより統合管理され、「クライマックス・パ」をはじめとした共同プロモーション展開などを担うこととなった。現在はメジャーリーグベースボールビジネスモデルを手本にしたリーグ統合型のビジネスを、球団の垣根を越えパ・リーグ全体で模索している。

2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された[4](セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。

2010年、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年2012年シーズンも継続していた。

2013年はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」にも協賛することになりモブキャストの冠を添えることになった。

現存する加盟球団

パシフィック・リーグの加盟球団とリーグ優勝回数
球団名 創設
年度
優勝
回数
北海道日本ハムファイターズ
Hokkaido Nippon-Ham Fighters
1946年 6
東北楽天ゴールデンイーグルス
Tohoku Rakuten Golden Eagles
2005年 1
埼玉西武ライオンズ
Saitama Seibu Lions
1950年 21
千葉ロッテマリーンズ
Chiba Lotte Marines
1950年 5
オリックス・バファローズ
Orix Buffaloes
1936年 12
福岡ソフトバンクホークス
Fukuoka SoftBank Hawks
1938年 19
  • 優勝回数は2015年まで
  • 球団表記順は野球協約の保護地域表記順
球団名・本拠地・親会社の遍歴
球団名 遍歴
オリックス・
バファローズ

1936年1月23日阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を親会社として阪急軍(阪急職業野球団)を結成。宝塚球場を本拠地とする
1937年阪急西宮球場に本拠地を移転
1947年、球団名を阪急ベアーズに改称。(シーズン中に球団名を阪急ブレーブスに改称)
1988年、阪急電鉄がオリエント・リース(後のオリックス)に球団を譲渡
1989年、球団名をオリックス・ブレーブスに改称
1991年、球団名をオリックス・ブルーウェーブに改称。神戸総合運動公園野球場(後のほっともっとフィールド神戸)に本拠地を移転
2004年、シーズン終了後に大阪近鉄バファローズと合併
2005年、球団名をオリックス・バファローズに改称。ダブルフランチャイズ制を採用[5]
2007年京セラドーム大阪を本拠地に、神戸総合運動公園野球場を準本拠地とする

福岡ソフトバンク
ホークス

1938年3月29日南海鉄道(後の南海電気鉄道)を親会社とした南海軍日本野球連盟に加盟。堺大浜球場を本拠地とする
1939年中百舌鳥球場を本拠地とする
1944年陸上交通事業調整法による近畿日本鉄道の誕生(南海鉄道と関西急行鉄道との合併企業)に伴い、シーズン中に球団名を近畿日本軍に改称
1946年、球団名をグレートリングに改称
1947年、近畿日本鉄道による南海電気鉄道への事業譲渡に伴い、シーズン中に球団名を南海ホークスに改称
1948年阪神甲子園球場に本拠地を移転
1950年大阪球場に本拠地を移転
1988年、南海電気鉄道の球団株式売却によりダイエーが経営権を持つ
1989年、球団名を福岡ダイエーホークスに改称。平和台野球場に本拠地を移転
1993年福岡ドーム(後の福岡 ヤフオク!ドーム)に本拠地を移転
2005年、ダイエーの球団株式売却によりソフトバンクが経営権を持つ。球団名を福岡ソフトバンクホークスに改称

北海道日本ハム
ファイターズ

1945年11月6日セネタースが日本野球連盟に加盟
1946年東京急行電鉄が経営権を持つ
1947年、球団名を東急フライヤーズに改称
1948年、大映野球が経営参加を表明。球団名を急映フライヤーズに改称。後楽園球場を本拠地とする
1949年、大映野球の経営撤退に伴い、球団名を再び東急フライヤーズに改称
1953年、シーズン中に駒澤野球場に本拠地を移転
1954年東映に球団経営を委託。球団名を東映フライヤーズに改称
1962年明治神宮野球場に本拠地を移転
1964年、後楽園球場に本拠地を再移転
1973年、東映の球団株式売却により日拓ホームが経営権を持つ。球団名を日拓ホームフライヤーズに改称
同年、シーズン終了後に日拓ホームが球団株式売却。日本ハムが経営権を持つ
1974年、球団名を日本ハムファイターズに改称
1988年後楽園競輪場跡地に開場した東京ドームに本拠地を移転
2004年北海道移転に伴い球団名を北海道日本ハムファイターズに改称。札幌ドームに本拠地を移転

千葉ロッテ
マリーンズ

1949年11月26日毎日新聞社を親会社とした毎日オリオンズがパシフィック・リーグに加盟。後楽園球場を本拠地とする
1957年、シーズン終了後に大映ユニオンズと合併
1958年、球団名を毎日大映オリオンズに改称
1962年、シーズン中に東京スタジアムに本拠地を移転
1964年、球団名を東京オリオンズに改称
1969年ロッテが経営参加を表明。球団名をロッテオリオンズに改称
1973年宮城球場(後の楽天Koboスタジアム宮城)に本拠地を移転[6]
1978年川崎球場に本拠地を移転
1992年千葉県移転に伴い球団名を千葉ロッテマリーンズに改称。千葉マリンスタジアム(後のQVCマリンフィールド)に本拠地を移転

埼玉西武
ライオンズ

1949年11月26日西日本鉄道を親会社とした西鉄クリッパースがパシフィック・リーグに加盟。平和台野球場を本拠地とする
1951年、シーズン開幕前に西日本パイレーツと合併。球団名を西鉄ライオンズに改称
1972年中村長芳(ロッテオリオンズオーナー)が球団を買収。太平洋クラブとの提携を表明
1973年、球団名を太平洋クラブライオンズに改称
1976年クラウンガスライターとの提携を表明
1977年、球団名をクラウンライターライオンズに改称
1978年国土計画西武鉄道の元親会社)が球団を買収
1979年、球団名を西武ライオンズに改称。西武ライオンズ球場に本拠地を移転
1999年、西武ライオンズ球場のドーム化工事が完了。西武ドームとなる
2008年、球団名を埼玉西武ライオンズに改称

東北楽天
ゴールデンイーグルス

2004年11月2日楽天を親会社とした東北楽天ゴールデンイーグルスがパシフィック・リーグに加盟。宮城球場を本拠地とする

  • 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
  • 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記

過去に存在した加盟球団

パシフィック・リーグの消滅球団と成績
球団名 創設年度 優勝回数 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
大阪近鉄バファローズ
Osaka Kintetsu Buffaloes
(1950年 - 2004年)
1949年 4 7119 3261 3720 271 .467
大映ユニオンズ
Daiei Unions
(1950年 - 1957年)
1946年 0 1029 415 586 28 .415
高橋ユニオンズ
Takahashi Unions
(1954年 - 1956年)
1954年 0 435 147 280 8 .344
  • 成績はリーグが結成された1950年以降のもの
球団名・本拠地・親会社の遍歴
球団名 遍歴
大映ユニオンズ

1946年2月18日ゴールドスターが日本野球連盟に加盟。後楽園球場を本拠地とする
1947年、球団名を金星スターズに改称
1949年大映が球団を買収。球団名を大映スターズに改称
1957年、シーズン開幕前に高橋ユニオンズと合併。球団名を大映ユニオンズに改称
同年、シーズン終了後に毎日オリオンズと合併。合併球団名は毎日大映オリオンズとなる

大阪近鉄バファローズ

1949年11月26日近畿日本鉄道を親会社とした近鉄パールスがパシフィック・リーグに加盟。藤井寺球場を本拠地とする
1950年、シーズン中に大阪球場に本拠地を移転
1958年日本生命球場に本拠地を移転
1959年、球団名を近鉄バファローに改称
1962年、球団名を近鉄バファローズに改称
1984年、藤井寺球場に本拠地を再移転
1997年、大阪ドームに本拠地を移転
1999年、球団名を大阪近鉄バファローズに改称
2004年、シーズン終了後にオリックス・ブルーウェーブと合併。合併球団名はオリックス・バファローズとなる

高橋ユニオンズ

1954年2月4日高橋ユニオンズがパシフィック・リーグに加盟。川崎球場を本拠地とする
1955年トンボ鉛筆との提携を表明。球団名をトンボユニオンズに改称
1956年、トンボ鉛筆の経営撤退に伴い、球団名を再び高橋ユニオンズに改称
同年、シーズン開幕前に大映スターズと合併。合併球団名は大映ユニオンズとなる

  • 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
  • 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記

試合方式

総当り回数

1952年フランチャイズホームタウン)制度が採用された後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。

  • 1950年 - 1951年:20回 120試合
  • 1952年:18回(予選:全チーム)108試合+4回(決勝:上位4チーム) 12試合 ※1
  • 1953年 - 1955年:20回 (1953年:120試合、1954年・1955年:140試合)
  • 1956年 - 1957年:22回 (1956年:154試合 1957年:132試合)
  • 1958年 - 1960年:26回 130試合
  • 1961年:28回 140試合
  • 1962年:26回 130試合
  • 1963年 - 1964年:30回 150試合
  • 1965年:28回 140試合
  • 1966年 - 1996年:26回 130試合
  • 1997年 - 2000年:27回 135試合 ※2
  • 2001年 - 2003年:28回 140試合
  • 2004年:27回 135試合 ※2
  • 2005年 - 2006年:20回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)6回 136試合
  • 2007年 - 2014年:24回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)4回 144試合
  • 2015年:25回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)3回 143試合 ※2、3

※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった
※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年<リーグ間の対戦>は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997-2000、2004年は14試合、2015年は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年の場合[7]を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。
※3:2015年のセ・パ交流戦は3回総当たりとなるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。

引き分けに関する扱い
  • 引き分け再試合制度実施年:1952年、1955年、1959年 - 1960年、1962年、1966年 - 1968年
  • 引き分けを0.5勝0.5敗で勝率計算した年:1956年 - 1958年、1961年

上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。

  • 1951年:同年10月20日より開催の日米野球に伴う日程上の都合で同月7日限りでペナントレースを打ち切り。
  • 2004年:プロ野球ストライキの関係で2試合を中止。

指名打者制度

1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。

時間・回数制限

内容
1950年 - 1951年

シングルの場合は時間・回数制限なし(デーゲームの場合日没まで)
ダブルヘッダー第1試合の延長は原則として12回。ただしナイトゲーム(薄暮含む)は9回まで

1952年

変則ダブルヘッダー第1試合は9回まで。それ以外は時間・回数無制限

1953年

シングルでのデーゲームの場合は時間・回数制限なし。(日没まで。以後1970年まで同じ)
変則ダブルヘッダー第1試合は12回まで。ナイトゲームは23:45を過ぎて次のイニングに入らない

1954年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1958年まで同じ)
ナイトゲームは22:45を過ぎて次のイニングに入らない

1955年 - 1958年

ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない

1959年 - 1960年

ダブルヘッダー第1試合は9回まで(延長戦なし)
ナイトゲームは22:30を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1964年まで同じ)

1961年 - 1964年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1965年も同じ)

1965年

ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1967年まで同じ)

1966年 - 1967年

ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで

1968年 - 1970年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで
ナイトゲームは22:20を過ぎて次のイニングに入らない

1971年 - 1973年

ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで
それ以外の試合(ダブルヘッダー第2試合含む)は試合開始から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある
(1):19:00以後開始の場合は経過時間に関係なく22:20を過ぎて次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1974年 - 1987年

ダブルヘッダー第1試合は9回まで
それ以外の試合は原則として試合開始から3時間を経過して次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある
(1):19:00以後開始の試合は経過時間に関係なく22:00を過ぎて次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1988年 - 1989年

ダブルヘッダー第1試合は9回。それ以外は原則として延長12回まで。ただし、以下の規定がある
(1):試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1990年 - 1993年

延長12回まで。ただし、以下の規定がある
(1):試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1994年 - 2010年

延長12回まで、時間制限なし

2011年 - 2012年

延長12回まで。ただし、東日本大震災に伴う節電対策として以下の規定がある
(1):試合開始から3時間30分(雨天等による中断時間も含む)が経過した場合は次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

※ただしクライマックスシリーズでは時限なし。
2013年 -

延長12回まで、時間制限なし

備考

1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。

1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。

2004年以降は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行う。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)・パシフィック・リーグの項を参照。

プレーオフ制度導入の背景

プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。

1952年
プロ野球の場合は、現在サッカーなど他の球技のような2部リーグが存在しないので、優勝争いが絞られる後半戦は、優勝争いに関係のない消化試合は観客動員数が大幅に減ってしまい、試合の質も落としてしまうことが課題となった。そこで1952年シーズンに、7チームで18回総当り・108試合の予選リーグを行った後で上位4チームが4回総当り・12試合の決勝リーグを行って優勝を決める方式を取り入れた。
しかし、上位4チームの成績は予選・決勝を合わせた120試合の通算成績で争うものだったために予選落ちの下位3チームとの比較が出来ず、また予選落ちの球団から予選リーグ終了後は試合がないことで「置き去りにされた感じがした」などの批判が出たため、1年で取りやめとなってしまった。
1973年 - 1982年
1973年には2シーズン(前後期)制を採用。年間130試合(当時)のペナントレースを4-6月の前期ステージと7-9月の後期ステージ、それぞれ65試合ずつに分けることにして、前期・後期各ステージ優勝チームによる5戦3勝制の決勝戦(プレーオフ)で優勝を決める方式を取り入れた。それぞれのステージごとの優勝争い、そしてプレーオフと1年で3つのクライマックス(山場)を設けて観客動員の確保に努めようという考えである。
導入当初は概ね好評で観客動員が比較的よく入ったが、日程面での課題もあった(前期が終了しないうちに後期が始まってしまったため、後期終了後に前期の未消化試合をこなすことがしばしば見られた)。
1973年度のペナントレースは、雨天中止になった場合の予備日程を確保するという名目で、前期終了から後期の開幕まで約2週間ものインターバルを取ったことがあった。しかし日程が余りにも空きすぎるとして翌1974年からインターバルをなくした連続開催形式での日程に変更している。また従来の半分の試合数で優勝が決まってしまうため、結果として消化試合が増加する(更に極端な話、前期優勝したチームは後期全ての試合を消化試合に出来てしまう)という問題もあった。
1980年代に入ると極端に観客動員が減少してしまったため2シーズン制を行う意義が薄れたとして1982年度の大会を最後にそれを打ち切った。
なお、前後期制については1962年のオフにも「営業的にプラスが見込める」としてリーグ理事会で導入を検討したことがあったが、日程作成の困難を理由に見送りとなった。
1983年-1985年
1983年から2シーズン制に代えて変則1シーズン制を導入することとなった。これはいわば2シーズン制と通常の1シーズン制(同勝率の場合にのみプレーオフを行う)の中間に位置する折衷案として企画されたもので、130試合終了時に1位と2位のゲーム差が5ゲーム以内である場合、5戦3勝制を原則としたプレーオフを行うというものだった。但し勝率の計算はプレーオフを含めた成績ではじき出すため、1位のチームが1勝した後、2位のチームが残り4試合に全勝しても勝率が1位のチームに届かない場合はその時点で1位チームの優勝となるといった複雑なルールがあった。
しかし、実際には優勝した各チーム(83年、85年は西武、84年は阪急)が2位以下に大差を付けて圧倒的な優勝を決めたことからプレーオフの実施には至らず、この制度は1度も実施されぬまま廃止となり、「幻のプレーオフ」といわれた。
2004年 - 2006年
その後セ・リーグ同様に通常の1シーズン制に戻して開催することとなったが、シーズンによっては独走で1位チームが優勝することもあり、前述のように試合の質を落とす懸念から2004年シーズンに上位3チームによるトーナメント方式のプレーオフ制度が導入された。このときは、第1ステージ勝ち上がりチームが日本シリーズに出場した場合、そのチームがリーグ優勝チームという扱いであった。
しかしこの制度に関しても、1位通過チームに対する第2ステージのアドバンテージ(2005年度までは1位チームと第1ステージ勝ち上がりチームのレギュラーシーズンのゲーム差が5ゲーム以上付いていた場合、1位チームに1勝分のアドバンテージが与えられる)の扱いや、2005年に「勝ってしまうと3位チームがプレーオフに出場できない」という事態が発生した(詳細はプレーオフ制度内の脚注参照)ことなどから、2006年度は以下のようにルールを改正した。
  1. 1位通過チームはゲーム差に関係なく、第2ステージのアドバンテージ1勝分を与える。
  2. 1位通過チームが複数同率で発生した場合でも第1ステージを行う。その場合、同率1位チームの当該チーム間のその年度の対戦成績の勝ち越しチーム(同数は前年度の順位を参考)を1位と見なし、2位扱いのチームと3位チームとで第1ステージを行うこととする。
  3. また、第2ステージの第3・4戦は、第1ステージ勝ち上がりチームのホームスタジアムを使用して行うことにする。
2007年 - 現在

クライマックスシリーズを参照。

「実力のパ」

人気球団の読売ジャイアンツ阪神タイガースを擁するセントラルリーグが「人気のセ」と言われることに対して、オールスターゲームの勝利数、対抗意識から「実力のパ」といわれている。

パ・リーグ各球団の私設応援団やファンがリーグとしての結束力を強固なものにすることを目的とし、パ・リーグをこよなく愛するファンの団体として「純パの会」という組織が存在する。

交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く[8]、2010年に至っては、交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであった。一方で「実力のパ」と言われた所以である、オールスターの成績は2000年代以降、8連敗や6連敗などもあり大きく負け越している。

ファンサービス

パ・リーグの球団はセ・リーグの読売ジャイアンツや阪神タイガースに比べ観客動員が少なく、それ以上にテレビ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。

パ・リーグ各球団のファンクラブは、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では広島東洋カープがホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を東京ヤクルトスワローズがホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも日本ハムファイターズ1973年に結成したのが日本初)。

また、スタジアム内でも、ヤフードームや西武ドームの勝利の花火、千葉マリンスタジアムの特定曜日花火、京セラドーム大阪のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチームノベルティプレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行うなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。

各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でもヒーローインタビューを場内に流していたが、北海道日本ハムファイターズのホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている[9]。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)

近年ではインターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。

2007年5月14日にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「パシフィックリーグマーケティング(PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名でYahoo!動画の野球中継により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社モブキャストが協賛スポンサーとなった。

また、2009年8月からはニコニコ生放送で楽天主催試合の一部を配信開始。2010年からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。

携帯電話向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合をNTTドコモソフトバンクの従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。

2009年6月から、当時J SPORTSで主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題してYouTubeで配信している。同年8月からは、楽天がニコニコ動画において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。YouTubeでは2010年からは楽天、日本ハムも加わり、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。

マンデー・パ・リーグ

2001年から2005年まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。

長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日開催並びにシーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。

しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週木曜日を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、の2連戦となるケースが一般的だった。しかし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多く、また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が(普段からパ・リーグの試合を中継している局以外)ほとんど無く、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。

セ・パ交流戦が実現したことで2005年を最後に廃止された。

年度別順位

  • 金地は日本シリーズ優勝、2007年以降の水色地はクライマックスシリーズで優勝したものの日本シリーズで敗退。
  • 球団名が複数併記されているのは同率同順位。
  • 1950年の湯浅禎夫、1951年 - 1952年の山本一人、1963年の中西太、1973年の野村克也は選手としての出場記録有り(いわゆる「プレイング・マネージャー」である)。
  • 1950年の湯浅禎夫の球団内での役職名は「総監督」。
  • 2位以下のチームの監督は1950年を除き、監督が交代した年のみ記載。☆はシーズン途中より就任。
年度 リーグ優勝
(優勝監督)
2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位
1950 毎日
81勝34敗5分
湯浅禎夫
南海
66勝49敗5分
山本一人
大映
62勝54敗4分
藤本定義
阪急
54勝64敗2分
浜崎真二
西鉄
51勝67敗2分
宮崎要
東急
51勝69敗
安藤忍
近鉄
44勝72敗4分
藤田省三
1951 南海
72勝24敗8分
(山本一人)
西鉄
53勝42敗10分
三原脩
毎日
54勝51敗5分
大映
41勝52敗8分
阪急
37勝51敗8分
東急
38勝56敗8分
近鉄
37勝56敗5分
1952 南海
76勝44敗1分
(山本一人)
毎日
75勝45敗
(☆別当薫
西鉄
67勝52敗1分
大映
55勝65敗1分
阪急
49勝58敗1分
東急
49勝59敗
井野川利春
近鉄
30勝78敗
1953 南海
71勝48敗1分
(山本一人)
阪急
67勝52敗1分
大映
63勝53敗4分
西鉄
57勝61敗2分
毎日
56勝62敗2分
若林忠志
東急
50勝67敗3分
近鉄
48勝69敗3分
芥田武夫
1954 西鉄
90勝47敗3分
南海
91勝49敗
毎日
79勝57敗4分
(別当薫)
近鉄
74勝63敗3分
阪急
66勝70敗4分け
西村正夫
高橋
53勝84敗3分
浜崎真二
東映
52勝86敗2分
大映
43勝92敗5分
1955 南海
99勝41敗3分
(山本一人)
西鉄
90勝50敗4分
毎日
85勝55敗2分
阪急
80勝60敗2分
近鉄
60勝80敗2分
大映
53勝87敗1分
東映
51勝89敗3分
保井浩一
トンボ
42勝98敗1分
(☆笠原和夫
1956 西鉄
96勝51敗7分
(三原脩)
南海
96勝52敗6分
阪急
88勝64敗2分
毎日
84勝66敗4分
近鉄
68勝82敗4分
東映
58勝92敗4分
岩本義行
大映
57勝94敗3分
(☆松木謙治郎
高橋
52勝98敗4分
1957 西鉄
83勝44敗5分
(三原脩)
南海
78勝53敗1分
毎日
75勝52敗5分
阪急
71勝55敗6分
(藤本定義)
東映
56勝73敗3分
近鉄
44勝82敗6分
大映
41勝89敗2分
1958 西鉄
78勝47敗5分
(三原脩)
南海
77勝48敗5分
阪急
73勝51敗6分
大毎
62勝63敗5分
東映
57勝70敗3分
近鉄
29勝97敗4分
加藤久幸
1959 南海
88勝42敗4分
鶴岡一人
大毎
82勝48敗6分
東映
67勝63敗5分
西鉄
66勝64敗14分
阪急
48勝82敗4分
(☆戸倉勝城
近鉄
39勝91敗3分
千葉茂
1960 大毎
82勝48敗3分
西本幸雄
南海
78勝52敗6分
西鉄
70勝60敗6分
川崎徳次
阪急
65勝65敗6分
東映
52勝78敗2分
近鉄
43勝87敗1分
1961 南海
85勝49敗6分
(鶴岡一人)
東映
83勝52敗5分
水原茂
西鉄
81勝56敗3分
大毎
72勝66敗2分
宇野光雄
阪急
53勝84敗3分
近鉄
36勝103敗1分
1962 東映
78勝52敗3分
水原茂
南海
73勝57敗3分
西鉄
62勝68敗6分
中西太
大毎
60勝70敗2分
阪急
60勝70敗1分
近鉄
57勝73敗1分
(別当薫)
(同率4位)
1963 西鉄
86勝60敗4分
(中西太)
南海
85勝61敗4分
東映
76勝71敗3分
近鉄
74勝73敗3分
大毎
64勝85敗1分
本堂安次
阪急
57勝92敗1分
(西本幸雄)
1964 南海
84勝63敗3分
(鶴岡一人)
阪急
79勝65敗6分
東映
78勝68敗4分
東京
77勝68敗5分
西鉄
63勝81敗6分
近鉄
55勝91敗4分
1965 南海
88勝49敗3分
(鶴岡一人)
東映
76勝61敗3分
西鉄
72勝64敗4分
阪急
67勝71敗2分
東京
62勝74敗4分
近鉄
46勝92敗2分
(岩本義行)
1966 南海
79勝51敗3分
(鶴岡一人)
西鉄
75勝55敗8分
東映
70勝60敗6分
東京
61勝69敗4分
田丸仁
阪急
57勝73敗4分
近鉄
48勝82敗3分
1967 阪急
75勝55敗4分
(西本幸雄)
西鉄
66勝64敗10分
東映
65勝65敗4分
南海
64勝66敗3分
東京
61勝69敗7分
(☆濃人渉
近鉄
59勝71敗2分
小玉明利
1968 阪急
80勝50敗4分
(西本幸雄)
南海
79勝51敗6分
東京
67勝63敗9分
近鉄
57勝73敗5分
(三原脩)
西鉄
56勝74敗3分
東映
51勝79敗5分
大下弘
1969 阪急
76勝50敗4分
(西本幸雄)
近鉄
73勝51敗6分
ロッテ
69勝54敗7分
東映
57勝70敗3分
(松木謙治郎)
西鉄
51勝75敗4分
南海
50勝76敗4分
飯田徳治
1970 ロッテ
80勝47敗3分
(濃人渉)
南海
69勝57敗4分
野村克也
近鉄
65勝59敗6分
阪急
64勝64敗2分
東映
54勝70敗6分
(☆田宮謙次郎
西鉄
43勝78敗9分
稲尾和久
1971 阪急
80勝39敗11分
(西本幸雄)
ロッテ
80勝46敗4分
(☆大沢啓二
近鉄
65勝60敗5分
岩本堯
南海
61勝65敗4分
東映
44勝74敗12分
西鉄
38勝84敗8分
1972 阪急
80勝48敗2分
(西本幸雄)
近鉄
64勝60敗6分
南海
65勝61敗4分
東映
63勝61敗6分
ロッテ
59勝68敗3分
西鉄
47勝80敗3分
1973
※1
南海
68勝58敗4分
野村克也
阪急
77勝48敗5分
ロッテ
70勝49敗11分
金田正一
太平洋
59勝64敗7分
日拓
55勝69敗6分
(☆土橋正幸
近鉄
42勝83敗5分
1974
※1
ロッテ
69勝50敗11分
(金田正一)
阪急
69勝51敗10分
上田利治
南海
59勝55敗16分
太平洋
59勝64敗7分
近鉄
56勝66敗8分
(西本幸雄)
日本ハム
49勝75敗6分
中西太
1975
※1
阪急
64勝59敗7分
(上田利治)
近鉄
71勝50敗9分
太平洋
58勝62敗10分
江藤愼一
ロッテ
59勝65敗6分
南海
57勝65敗8分
日本ハム
55勝63敗12分
1976
※1
阪急
79勝45敗6分
(上田利治)
南海
71勝56敗3分
ロッテ
63勝56敗11分
近鉄
57勝66敗7分
日本ハム
52勝67敗11分
(大沢啓二)
太平洋
44勝76敗10分
鬼頭政一
1977
※1
阪急
69勝51敗10分
(上田利治)
南海
63勝55敗12分
ロッテ
60勝57敗13分
近鉄
59勝61敗10分
日本ハム
58勝61敗11分
クラウン
49勝73敗8分
1978
※1
阪急
82勝39敗9分
(上田利治)
近鉄
71勝46敗13分
日本ハム
55勝63敗12分
ロッテ
53勝62敗15分
クラウン
51勝67敗12分
根本陸夫
南海
42勝77敗11分
広瀬叔功
1979
※1
近鉄
74勝45敗11分
(西本幸雄)
阪急
75勝44敗11分
梶本隆夫
日本ハム
63勝60敗7分
ロッテ
55勝63敗12分
山内一弘
南海
46勝73敗11分
西武
45勝73敗12分
1980
※1
近鉄
68勝54敗8分
(西本幸雄)
ロッテ
64勝51敗15分
日本ハム
66勝53敗11分
西武
62勝64敗4分
阪急
58勝67敗5分
南海
48勝77敗5分
1981
※1
日本ハム
68勝54敗8分
大沢啓二
阪急
68勝58敗4分
(上田利治)
ロッテ
63勝57敗10分
西武
61勝61敗8分
南海
53勝65敗12分
D.ブレイザー
近鉄
54勝72敗4分
1982
※1
西武
68勝58敗4分
広岡達朗
日本ハム
67勝52敗11分
近鉄
63勝57敗10分
関口清治
阪急
62勝60敗8分
ロッテ
54勝69敗7分
山本一義
南海
53勝71敗6分
1983 西武
86勝40敗4分
(広岡達朗)
阪急
67勝55敗8分
日本ハム
64勝59敗7分
近鉄
52勝65敗13分
南海
52勝69敗9分
穴吹義雄
ロッテ
43勝76敗11分
1984 阪急
75勝45敗10分
(上田利治)
ロッテ
64勝51敗15分
(稲尾和久)
西武
62勝61敗7分
近鉄
58勝61敗11分
岡本伊三美
南海
53勝65敗12分
日本ハム
44勝73敗13分
(☆大沢啓二)
1985 西武
79勝45敗6分
(広岡達朗)
ロッテ
64勝60敗6分
近鉄
63勝60敗7分
阪急
64勝61敗5分
日本ハム
53勝65敗12分
高田繁
南海
44勝76敗10分
1986 西武
68勝49敗13分
森祇晶
近鉄
66勝52敗12分
阪急
63勝57敗10分
ロッテ
57勝64敗9分
日本ハム
57勝65敗8分
南海
49勝73敗8分
杉浦忠
1987 西武
71勝45敗14分
(森祇晶)
阪急
64勝56敗10分
日本ハム
63勝60敗7分
南海
57勝63敗10分
ロッテ
51勝65敗14分
有藤道世
近鉄
52勝69敗9分
1988 西武
73勝51敗6分
(森祇晶)
近鉄
74勝52敗4分
仰木彬
日本ハム
62勝65敗3分
阪急
60勝68敗2分
南海
58勝71敗1分
ロッテ
54勝74敗2分
1989 近鉄
71勝54敗5分
仰木彬
オリックス
72勝55敗3分
西武
69勝53敗8分
ダイエー
59勝64敗7分
日本ハム
54勝73敗3分
近藤貞雄
ロッテ
48勝74敗8分
1990 西武
81勝45敗4分
(森祇晶)
オリックス
69勝57敗4分
近鉄
67勝60敗3分
日本ハム
66勝63敗1分
ロッテ
57勝71敗2分
(金田正一)
ダイエー
41勝85敗4分
田淵幸一
1991 西武
81勝43敗6分
(森祇晶)
近鉄
77勝48敗5分
オリックス
64勝63敗3分
土井正三
日本ハム
53勝72敗5分
ダイエー
53勝73敗4分
ロッテ
48勝77敗5分
1992 西武
80勝47敗3分
(森祇晶)
近鉄
74勝50敗6分
オリックス
61勝64敗5分
ダイエー
57勝72敗1分
日本ハム
54勝73敗3分
(土橋正幸)
ロッテ
54勝74敗2分
八木沢荘六
1993 西武
74勝53敗3分
(森祇晶)
日本ハム
71勝52敗7分
(大沢啓二)
オリックス
70勝56敗4分
近鉄
66勝59敗5分
鈴木啓示
ロッテ
51勝77敗2分
ダイエー
45勝80敗5分
(根本陸夫)
1994 西武
76勝52敗2分
(森祇晶)
オリックス・近鉄
68勝59敗3分
(同率2位)
ダイエー
69勝60敗1分
ロッテ
55勝73敗2分
日本ハム
46勝79敗5分
1995 オリックス
82勝47敗1分
(仰木彬)
ロッテ
69勝58敗3分
B.バレンタイン
西武
67勝57敗6分
東尾修
日本ハム
59勝68敗4分
(上田利治)
ダイエー
54勝72敗4分
王貞治
近鉄
49勝78敗3分
1996 オリックス
74勝50敗6分
(仰木彬)
日本ハム
68勝58敗4分
西武
62勝64敗4分
近鉄
62勝67敗1分
佐々木恭介
ロッテ
60勝67敗3分
江尻亮
ダイエー
54勝74敗2分
1997 西武
76勝56敗3分
東尾修
オリックス
71勝61敗3分
近鉄
68勝63敗4分
日本ハム・ダイエー
63勝71敗1分
(同率4位)
ロッテ
57勝76敗2分
近藤昭仁
1998 西武
70勝61敗4分
(東尾修)
日本ハム
67勝65敗3分
ダイエー
67勝67敗1分
オリックス
66勝66敗3分
近鉄
66勝67敗2分
ロッテ
61勝71敗3分
(同率3位)
1999 ダイエー
78勝54敗3分
(王貞治)
西武
75勝59敗1分
オリックス
68勝65敗2分
ロッテ
63勝70敗2分
山本功児
日本ハム
60勝73敗2分
近鉄
54勝77敗4分
2000 ダイエー
73勝60敗2分
(王貞治)
西武
69勝61敗5分
日本ハム
69勝65敗1分
大島康徳
オリックス
64勝67敗4分
ロッテ
62勝67敗6分
近鉄
58勝75敗2分
梨田昌孝
2001 近鉄
78勝60敗2分
(梨田昌孝)
ダイエー
76勝63敗1分
西武
73勝67敗
オリックス
70勝66敗4分
ロッテ
64勝74敗2分
日本ハム
53勝84敗3分
2002 西武
90勝49敗1分
伊原春樹
近鉄・ダイエー
73勝65敗2分
(同率2位)
ロッテ
67勝72敗1分
日本ハム
61勝76敗3分
オリックス
50勝87敗3分
石毛宏典
2003 ダイエー
82勝55敗3分
(王貞治)
西武
77勝61敗2分
近鉄
74勝64敗2分
ロッテ
68勝69敗3分
日本ハム
62勝74敗4分
T.ヒルマン
オリックス
48勝88敗4分
(☆R.リー
2004
※2
西武
74勝58敗1分
伊東勤
ダイエー
77勝52敗4分
日本ハム
66勝65敗2分
ロッテ
65勝65敗3分
B.バレンタイン
近鉄
61勝70敗2分
オリックス
49勝82敗2分
伊原春樹
2005
※2
ロッテ
84勝49敗3分
B.バレンタイン
ソフトバンク
89勝45敗2分
西武
67勝69敗
オリックス
62勝70敗4分
仰木彬
日本ハム
62勝71敗3分
楽天
38勝97敗1分
田尾安志
2006
※2
日本ハム
82勝54敗
T.ヒルマン
西武
80勝54敗2分
ソフトバンク
75勝56敗5分
ロッテ
65勝70敗1分
オリックス
52勝81敗3分
中村勝広
楽天
47勝85敗4分
野村克也
2007
※3
日本ハム
79勝60敗5分
(T.ヒルマン)
ロッテ
76勝61敗7分
ソフトバンク
73勝66敗5分
楽天
67勝75敗2分
西武
66勝76敗2分
オリックス
62勝77敗5分
T.コリンズ
2008
※3
西武
76勝64敗4分
渡辺久信
オリックス
75勝68敗1分
(☆大石大二郎
日本ハム
73勝69敗2分
(梨田昌孝)
ロッテ
73勝70敗1分
楽天
65勝76敗3分
ソフトバンク
64勝77敗3分
2009
※3
日本ハム
82勝60敗2分
梨田昌孝
楽天
77勝66敗1分
ソフトバンク
74勝65敗5分
秋山幸二
西武
70勝70敗4分
ロッテ
62勝77敗5分
オリックス
56勝86敗2分
2010
※3
ソフトバンク
76勝63敗5分
秋山幸二
西武
78勝65敗1分
ロッテ
75勝67敗2分
西村徳文
日本ハム
74勝67敗3分
オリックス
69勝71敗4分
岡田彰布
楽天
62勝79敗3分
M.ブラウン
2011
※3
ソフトバンク
88勝46敗10分
(秋山幸二)
日本ハム
72勝65敗7分
西武
68勝67敗9分
オリックス
69勝68敗7分
楽天
66勝71敗7分
星野仙一
ロッテ
54勝79敗11分
2012
※3
日本ハム
74勝59敗11分
栗山英樹
西武
72勝63敗9分
ソフトバンク
67勝65敗12分
楽天
67勝67敗10分
ロッテ
62勝67敗15分
オリックス
57勝77敗10分
2013
※3
楽天
82勝59敗3分
星野仙一
西武
74勝66敗4分
ロッテ
74勝68敗2分
(伊東勤)
ソフトバンク
73勝69敗2分
オリックス
66勝73敗5分
森脇浩司
日本ハム
64勝78敗2分
2014
※3
ソフトバンク
78勝60敗6分
(秋山幸二)
オリックス
80勝62敗2分
日本ハム
73勝68敗3分
ロッテ
66勝76敗2分
西武
63勝77敗4分
(伊原春樹)
楽天
64勝80敗
2015
※3
ソフトバンク
90勝49敗4分
工藤公康
日本ハム
79勝62敗2分
ロッテ
73勝69敗1分
西武
69勝69敗5分
(田邊徳雄)
オリックス
61勝80敗2分
楽天
57勝83敗3分
大久保博元

※1:1973年 - 1982年は、プレーオフ優勝(もしくは前後期優勝)チームが1位、2位以下は前後期通算の勝率による順位。
※2:2004年 - 2006年は、プレーオフ優勝チームが1位。
※3:2007年 - は、レギュラーシーズン優勝チームが1位。クライマックスシリーズ優勝チームが日本シリーズ出場。

1973年 - 1982年の前・後期の順位

  • 球団名が複数併記されているのは同率同順位。
1位 2位 3位 4位 5位 6位
1973 南海
38勝26敗1分
ロッテ
35勝27敗3分
阪急
34勝29敗2分
太平洋
32勝30敗3分
日拓
25勝37敗3分
近鉄
23勝38敗4分
阪急
43勝19敗3分
ロッテ
35勝22敗8分
南海・日拓
30勝32敗3分
太平洋
27勝34敗4分
近鉄
19勝45敗1分
1974 阪急
36勝23敗6分
ロッテ
31勝27敗7分
太平洋
30勝30敗5分
南海
27勝28敗10分
近鉄
27勝32敗6分
日本ハム
25勝36敗4分
ロッテ
38勝23敗4分
南海
32勝27敗6分
阪急
33勝28敗4分
太平洋・近鉄
29勝34敗2分
日本ハム
24勝39敗2分
1975 阪急
38勝25敗2分
太平洋
30勝29敗6分
近鉄
31勝30敗4分
日本ハム
27勝30敗8分
南海
27勝32敗6分
ロッテ
27勝34敗4分
近鉄
40勝20敗5分
ロッテ
32勝31敗2分
南海
30勝33敗2分
太平洋・日本ハム
28勝33敗4分
阪急
26勝34敗5分
1976 阪急
42勝21敗2分
南海
35勝29敗1分
ロッテ
29勝28敗8分
日本ハム
26勝31敗8分
近鉄
27勝35敗3分
太平洋
21勝36敗8分
阪急
37勝24敗4分
南海
36勝27敗2分
ロッテ
34勝28敗3分
近鉄
30勝31敗4分
日本ハム
26勝36敗3分
太平洋
23勝40敗2分
1977 阪急
35勝25敗5分
南海
33勝26敗6分
近鉄
31勝26敗8分
日本ハム
31勝29敗5分
ロッテ
27勝33敗5分
クラウン
20勝38敗7分
ロッテ
33勝24敗8分
阪急
34勝26敗5分
南海
30勝29敗6分
日本ハム
27勝32敗6分
クラウン
29勝35敗1分
近鉄
28勝35敗2分
1978 阪急
44勝20敗1分
近鉄
32勝26敗7分
日本ハム
29勝31敗5分
クラウン
28勝31敗6分
ロッテ
25勝33敗7分
南海
22勝39敗4分
阪急
38勝19敗8分
近鉄
39勝20敗6分
ロッテ
28勝29敗8分
日本ハム
26勝32敗7分
クラウン
23勝36敗6分
南海
20勝38敗7分
1979 近鉄
39勝19敗7分
阪急
39勝21敗5分
日本ハム
34勝26敗5分
ロッテ
26勝34敗5分
南海
23勝39敗3分
西武
18勝40敗7分
阪急
36勝23敗6分
近鉄
35勝26敗4分
ロッテ
29勝29敗7分
日本ハム
29勝34敗2分
西武
27勝33敗5分
南海
23勝34敗8分
1980 ロッテ
33勝25敗7分
近鉄・日本ハム
33勝28敗4分
阪急
29勝34敗2分
南海
28勝34敗3分
西武
27勝34敗4分
近鉄
35勝26敗4分
日本ハム
33勝25敗7分
ロッテ
31勝26敗8分
西武
35勝30敗0分
阪急
29勝33敗3分
南海
20勝43敗2分
1981 ロッテ
35勝26敗4分
西武
33勝28敗4分
阪急
32勝30敗3分
日本ハム
31勝31敗3分
南海
29勝32敗4分
近鉄
25勝38敗2分
日本ハム
37勝23敗5分
阪急
36勝28敗1分
ロッテ
28勝31敗6分
近鉄
29勝34敗2分
西武
28勝33敗4分
南海
24勝33敗8分
1982 西武
36勝27敗2分
阪急
33勝28敗4分
近鉄
30勝27敗8分
日本ハム
32勝29敗4分
南海
27勝34敗4分
ロッテ
23勝36敗6分
日本ハム
35勝23敗7分
近鉄
33勝30敗2分
西武
32勝31敗2分
ロッテ
31勝33敗1分
阪急
29勝32敗4分
南海
26勝37敗2分

2004年 - 2006年のレギュラーシーズン勝率首位の球団

レギュラーシーズン勝率首位の球団には、優勝ペナントとは別に優勝フラッグが贈呈される。チームは翌シーズンの間、これを掲げる事が許される。レギュラーシーズン首位の球団がプレーオフも制すれば優勝ペナントと優勝フラッグを同時に掲げる事が出来る。

(※)同一球団。2005年に球団売却のため改名

名称の由来

1950年のベースボール・マガジン新年特大号で東急フライヤーズの猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である[1]

低勝率罰金制度

低勝率罰金制度とは1953年にパシフィック・リーグ理事会総裁・永田雅一の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。

1954年に永田の球団である大映スターズが勝率.319で第1号となった。翌1955年トンボユニオンズが勝率.300で第2号となった(これがきっかけでトンボ鉛筆は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が高橋ユニオンズに戻った。)。

なお、この制度は1956年に廃止となった。

歴代リーグ会長(代表者)

(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)

  • 初代:大川博東映社長/東急フライヤーズ・東映フライヤーズオーナー)

(専任職移行後)

リーグ運営部長

関連項目

脚注

  1. ^ a b 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号62ページ「セ・パ分立当時の連盟旗」
  2. ^ その一方、メジャーリーグをモチーフとした北米版はアメリカンリーグ(オークランド・アスレチックスカンザスシティ・ロイヤルズニューヨーク・ヤンキース)とナショナルリーグ(セントルイス・カージナルスロサンゼルス・ドジャースフィラデルフィア・フィリーズ)から3球団ずつが選出されている。
  3. ^ 1984年に発売されたエポック社スーパーカセットビジョンのスーパーベースボールではパ・リーグをモデルとしたチームはFHLの3チームが登場しているが、BとOは阪急ブレーブスロッテオリオンズではなく、アトランタ・ブレーブスボルチモア・オリオールズがモデルとなっている。その他「CAPCOMベースボール 助っ人外人大暴れ!」なるアーケードゲームでも、西武ライオンズに相当するチームは「ライオネッツ」として単独で収録されていたが、他の5チームは連合チームとされた(日本ハム・ロッテの連合チームをモチーフとした「オールイースタン」と、近鉄・オリックス・ダイエーの連合チームをモチーフとした「オールウェスタン」)。
  4. ^ セ、パ両事務局が廃局[リンク切れ] サンケイスポーツ 2008年12月27日閲覧
  5. ^ 2007年までの暫定措置として、大阪ドーム(後の京セラドーム大阪)と神戸総合運動公園野球場を本拠地とした
  6. ^ ただし1973年は公式には地域保護権は東京都に残り、準本拠地扱いであった。1974年に保護権を暫定的に宮城県に移すが、特例として東京都でも半数程度開催することがあった。
  7. ^ 本来は2005年も実施予定だったが、近鉄のオリックスへの合併、楽天の加盟と、セ・パ交流戦の開催により総当たり回数が変更となったため行われなかった
  8. ^ なお、交流戦開始以降は「交流戦で優勝するのも毎年パリーグのチーム」という状況が続いていたが、2012年に読売ジャイアンツが交流戦開始以後では初のセ・リーグで交流戦を制覇したチームとなった。
  9. ^ 例外もある。詳細は田中将大の項を参照。

参考文献

「ベースボールマガジン」2009年11月号「パ・リーグ60年 魂の物語」(ベースボールマガジン社刊)

外部リンク