パシフィック・リーグ
パシフィック・リーグ | |
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競技 | 日本プロ野球 |
開始年 | 1950年 |
参加チーム | 6 |
国 | 日本 |
前回優勝 | 福岡ソフトバンクホークス(19回目) |
最多優勝 | 埼玉西武ライオンズ(21回) |
パシフィック・リーグ(Pacific League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。
正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部。パ・リーグと呼称される。
沿革
誕生
1949年11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である[1]。初年度の1950年は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。
当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの対読売ジャイアンツ戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した。こちらが現在のセントラル野球連盟、セントラル・リーグである。
1950年代 黎明期
この時代は南海・西鉄の黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ(1955年のみトンボユニオンズを名乗っていた)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、現在に至る。
1960年代 衰退期
1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、マスメディアを親会社に持たないパ・リーグには逆風となった(毎日新聞社は1960年11月に大毎オリオンズの経営から撤退)。そんな中、大毎のオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年「東京スタジアム」を完成させた。それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった。
1970年代 暗黒時代
1969年オフに勃発した黒い霧事件は西鉄ライオンズに致命的なダメージを与え、パ・リーグ全体のイメージダウンとなった(西鉄は1972年にライオンズを中村長芳に譲渡し撤退)。また映画産業の衰退で球団を支える経営体力がなくなり、大映(永田雅一→中村長芳)→ロッテ、東映→日拓ホーム→日本ハムと球団譲渡が相次いだ(プロ野球再編問題 (1973年)を参照)。更にロッテに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテ参照)。そして1975年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと2シーズン制の採用(1973年 - 1982年)、指名打者制の採用(1975年 - )などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。1970年代は阪急の黄金時代で特に1975~77年は3年連続日本一になっていたが、関西ではスポーツ紙が阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪急を始め関西パの3球団の観客は増えず、1977年の6月南海―阪急戦の関西球団同士の首位攻防戦が行われ(当時は前述したように2シーズン制で事実上の優勝争いになっていた)、その日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だったと当時南海の監督だった野村克也は著書に書いている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。
1980年代 西武黄金時代
1978年、西鉄から譲渡を受けたものの経営難に陥っていた中村長芳からライオンズを買収した西武グループは、球団経営に革命を起こす。大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実、金に糸目をつけない選手補強など。それらの施策が功を奏し多くの観客が詰め掛け、1980年代には実に5回の日本一を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局も巨人戦一辺倒から西武戦をも放送するようになった。またその頃は清原和博、阿波野秀幸、西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。しかし、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景が展開され、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞でも格好のネタになっていた。また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年初の日本球界マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。それでも観客増には結びつかず、南海・阪急は球団を持つ使命は終えたとしてダイエー・オリックスに球団譲渡を行った。 当時のパ・リーグの不人気ぶりはコンピューターゲームにも反映され、任天堂が1983年に発売したベースボールはモチーフがセ・リーグ6球団のみであり[2]、後にナムコ(後のバンダイナムコゲームス)から発売されたプロ野球ファミリースタジアムでも、1986年版と1987年版はソフト容量の問題から、セ・リーグをモデルとしたチームは6球団すべて単独で収録されたのに対し、パ・リーグをモデルとしたチームは連合チームが多く見受けられた[3]。尚1980年に名称をパシフィック野球連盟に改称している。
1990年代 イチロー&ドーム時代
1990年代前半は西武の黄金時代が続き、1990~1994年までパ・リーグ史上唯一の5連覇を飾ることになる。その頃のペナントレースは、西武に近鉄・日本ハムが追う展開であったが、1994年に彗星のごとく登場したイチローは1シーズン200本安打を超える大活躍でファンの人気を集める。またイチローの所属するオリックスも阪神淡路大震災後の復興のシンボルとして、ファンからの後押しもあり1995年・1996年と連続優勝を成し遂げる。イチローばかりではなく野茂英雄・松坂大輔など全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。また90年代になると、築40年以上過ぎた本拠地の老朽化が顕著な問題となり始め、その一方でプロ野球規格の新球場が相次いで完成した為、地元の誘致もありオリックスとロッテは本拠地をそれぞれ神戸総合運動公園野球場(1991年)と千葉マリンスタジアム(1992年)に移転した。更に1990年代半ばになると 福岡ドーム・大阪ドーム・西武ドームなどパ・リーグの本拠地が相次いでドーム球場になり、日本ハムを含めると6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数が増えセ・リーグの70%近くまで持ち上げることとなる。
2000年代 - 2010年代 地域密着&IT時代
1999年の福岡ダイエーホークスの日本一と、翌2000年のリーグ連覇で「地域密着球団」の成功例として球界に大きなインパクトを与え、これが後の日本ハムが地域密着型球団を目指し北海道へ移転(2004年)する大きな契機になった(移転とともに球団名に「北海道」が追加された)。ただ、この頃はまだ地域密着があまり注目されておらず、ロッテも1992年に川崎から千葉に移転後、球団名に「千葉」を追加するなどしていたものの、長年の低迷で観客動員数も伸び悩んでいた。
地域密着が本格的に注目されるようになったきっかけは、2004年6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表されたことである。これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア(仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げ、同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定した(プロ野球再編問題 (2004年))。これにより、2005年以降も6球団制が維持され、現在に至っている。ちなみに、大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体が変換されたことのない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。
パ・リーグの各球団はこの反省を教訓に様々な地域密着方針を打ち出した。既に川崎から千葉に移転していたものの観客動員数が伸び悩んでいたロッテは、行政側と協力して千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」を打ち出したり、熱烈な応援や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンも増やし2005年には31年ぶりに日本一に輝き、5年後の2010年にも再び日本一を達成した。東京ドームを本拠地としていた時代に、観客動員数の低迷にあえいでいた日本ハムは2004年にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転した。当初、北海道では長年の巨人戦中心のテレビ中継の影響もあって巨人のファン層が圧倒的に多く、新規のファン開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや自治体のバックアップと移転後の球団及び監督や選手らによるファン獲得への努力により、既存の野球ファンをはじめ、女性などこれまで野球に関心のなかった層の獲得、ファンの定着化に成功した。本拠地移転を契機に僅か3年で、久しく遠ざかっていたリーグ優勝と日本一を達成、翌2007年にはリーグ連覇を果たし、近年は優勝争いに絡むなど、飛躍的な変化を遂げた。当時のダイエーやロッテなどに続いて、日本ハムがプロ野球球団のなかった地域に移転して境地を開き、結果を出したことによって、フランチャイズ球団が地域にもたらす効果や球団にもたらした変化など、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。また、2005年には楽天の参入、経営陣が刷新された西武は、2008年から球団名に「埼玉」を掲げ県内の大宮で主催試合を行うなど地域密着の姿勢を打ち出し、新たな地域密着型のリーグとしての型が確立されることとなった。また、2005年からはセントラル・リーグとの交流試合を開始した。
2007年5月にパ・リーグ所属6球団により共同事業会社パシフィック・リーグマーケティング株式会社(PLM)を設立。当初は携帯電話向けの動画配信サービス「プロ野球24」を主業務としていたが、2008年シーズンからはパ・リーグ全球団のウェブサイト、携帯電話向けウェブサイト、インターネット動画配信、携帯電話向け動画配信がPLMにより統合管理され、「クライマックス・パ」をはじめとした共同プロモーション展開などを担うこととなった。現在はメジャーリーグベースボールのビジネスモデルを手本にしたリーグ統合型のビジネスを、球団の垣根を越えパ・リーグ全体で模索している。
2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された[4](セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。
2010年、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年、2012年シーズンも継続していた。
2013年はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」にも協賛することになりモブキャストの冠を添えることになった。
現存する加盟球団
球団名 | 創設 年度 |
優勝 回数 |
---|---|---|
北海道日本ハムファイターズ (Hokkaido Nippon-Ham Fighters) |
1946年 | 6 |
東北楽天ゴールデンイーグルス (Tohoku Rakuten Golden Eagles) |
2005年 | 1 |
埼玉西武ライオンズ (Saitama Seibu Lions) |
1950年 | 21 |
千葉ロッテマリーンズ (Chiba Lotte Marines) |
1950年 | 5 |
オリックス・バファローズ (Orix Buffaloes) |
1936年 | 12 |
福岡ソフトバンクホークス (Fukuoka SoftBank Hawks) |
1938年 | 19 |
- 優勝回数は2015年まで
- 球団表記順は野球協約の保護地域表記順
球団名 | 遍歴 |
---|---|
オリックス・ バファローズ |
1936年1月23日に阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を親会社として阪急軍(阪急職業野球団)を結成。宝塚球場を本拠地とする |
福岡ソフトバンク ホークス |
1938年3月29日に南海鉄道(後の南海電気鉄道)を親会社とした南海軍が日本野球連盟に加盟。堺大浜球場を本拠地とする |
北海道日本ハム ファイターズ |
1945年11月6日にセネタースが日本野球連盟に加盟 |
千葉ロッテ マリーンズ |
1949年11月26日に毎日新聞社を親会社とした毎日オリオンズがパシフィック・リーグに加盟。後楽園球場を本拠地とする |
埼玉西武 ライオンズ |
1949年11月26日に西日本鉄道を親会社とした西鉄クリッパースがパシフィック・リーグに加盟。平和台野球場を本拠地とする |
東北楽天 ゴールデンイーグルス |
2004年11月2日に楽天を親会社とした東北楽天ゴールデンイーグルスがパシフィック・リーグに加盟。宮城球場を本拠地とする |
- 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
- 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記
過去に存在した加盟球団
- パシフィック・リーグの消滅球団と成績
球団名 | 創設年度 | 優勝回数 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
大阪近鉄バファローズ (Osaka Kintetsu Buffaloes) (1950年 - 2004年) |
1949年 | 4 | 7119 | 3261 | 3720 | 271 | .467 |
大映ユニオンズ (Daiei Unions) (1950年 - 1957年) |
1946年 | 0 | 1029 | 415 | 586 | 28 | .415 |
高橋ユニオンズ (Takahashi Unions) (1954年 - 1956年) |
1954年 | 0 | 435 | 147 | 280 | 8 | .344 |
- 成績はリーグが結成された1950年以降のもの
- 球団名・本拠地・親会社の遍歴
球団名 | 遍歴 |
---|---|
大映ユニオンズ |
1946年2月18日にゴールドスターが日本野球連盟に加盟。後楽園球場を本拠地とする |
大阪近鉄バファローズ |
1949年11月26日に近畿日本鉄道を親会社とした近鉄パールスがパシフィック・リーグに加盟。藤井寺球場を本拠地とする |
高橋ユニオンズ |
1954年2月4日に高橋ユニオンズがパシフィック・リーグに加盟。川崎球場を本拠地とする |
- 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
- 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記
試合方式
総当り回数
1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度が採用された後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。
- 1950年 - 1951年:20回 120試合
- 1952年:18回(予選:全チーム)108試合+4回(決勝:上位4チーム) 12試合 ※1
- 1953年 - 1955年:20回 (1953年:120試合、1954年・1955年:140試合)
- 1956年 - 1957年:22回 (1956年:154試合 1957年:132試合)
- 1958年 - 1960年:26回 130試合
- 1961年:28回 140試合
- 1962年:26回 130試合
- 1963年 - 1964年:30回 150試合
- 1965年:28回 140試合
- 1966年 - 1996年:26回 130試合
- 1997年 - 2000年:27回 135試合 ※2
- 2001年 - 2003年:28回 140試合
- 2004年:27回 135試合 ※2
- 2005年 - 2006年:20回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)6回 136試合
- 2007年 - 2014年:24回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)4回 144試合
- 2015年:25回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)3回 143試合 ※2、3
※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった
※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年<リーグ間の対戦>は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997-2000、2004年は14試合、2015年は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年の場合[7]を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。
※3:2015年のセ・パ交流戦は3回総当たりとなるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。
- 引き分けに関する扱い
- 引き分け再試合制度実施年:1952年、1955年、1959年 - 1960年、1962年、1966年 - 1968年
- 引き分けを0.5勝0.5敗で勝率計算した年:1956年 - 1958年、1961年
上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。
指名打者制度
1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。
時間・回数制限
年 | 内容 |
---|---|
1950年 - 1951年 |
シングルの場合は時間・回数制限なし(デーゲームの場合日没まで) |
1952年 |
変則ダブルヘッダー第1試合は9回まで。それ以外は時間・回数無制限 |
1953年 |
シングルでのデーゲームの場合は時間・回数制限なし。(日没まで。以後1970年まで同じ) |
1954年 |
ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1958年まで同じ) |
1955年 - 1958年 |
ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない |
1959年 - 1960年 |
ダブルヘッダー第1試合は9回まで(延長戦なし) |
1961年 - 1964年 |
ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1965年も同じ) |
1965年 |
ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1967年まで同じ) |
1966年 - 1967年 |
ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで |
1968年 - 1970年 |
ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで |
1971年 - 1973年 |
ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで |
1974年 - 1987年 |
ダブルヘッダー第1試合は9回まで |
1988年 - 1989年 |
ダブルヘッダー第1試合は9回。それ以外は原則として延長12回まで。ただし、以下の規定がある |
1990年 - 1993年 |
延長12回まで。ただし、以下の規定がある |
1994年 - 2010年 |
延長12回まで、時間制限なし |
2011年 - 2012年 |
延長12回まで。ただし、東日本大震災に伴う節電対策として以下の規定がある
|
2013年 - |
延長12回まで、時間制限なし |
備考
1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。
1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。
2004年以降は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行う。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)・パシフィック・リーグの項を参照。
プレーオフ制度導入の背景
プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。
- 1952年
- プロ野球の場合は、現在サッカーなど他の球技のような2部リーグが存在しないので、優勝争いが絞られる後半戦は、優勝争いに関係のない消化試合は観客動員数が大幅に減ってしまい、試合の質も落としてしまうことが課題となった。そこで1952年シーズンに、7チームで18回総当り・108試合の予選リーグを行った後で上位4チームが4回総当り・12試合の決勝リーグを行って優勝を決める方式を取り入れた。
- しかし、上位4チームの成績は予選・決勝を合わせた120試合の通算成績で争うものだったために予選落ちの下位3チームとの比較が出来ず、また予選落ちの球団から予選リーグ終了後は試合がないことで「置き去りにされた感じがした」などの批判が出たため、1年で取りやめとなってしまった。
- 1973年 - 1982年
- 1973年には2シーズン(前後期)制を採用。年間130試合(当時)のペナントレースを4-6月の前期ステージと7-9月の後期ステージ、それぞれ65試合ずつに分けることにして、前期・後期各ステージ優勝チームによる5戦3勝制の決勝戦(プレーオフ)で優勝を決める方式を取り入れた。それぞれのステージごとの優勝争い、そしてプレーオフと1年で3つのクライマックス(山場)を設けて観客動員の確保に努めようという考えである。
- 導入当初は概ね好評で観客動員が比較的よく入ったが、日程面での課題もあった(前期が終了しないうちに後期が始まってしまったため、後期終了後に前期の未消化試合をこなすことがしばしば見られた)。
- 1973年度のペナントレースは、雨天中止になった場合の予備日程を確保するという名目で、前期終了から後期の開幕まで約2週間ものインターバルを取ったことがあった。しかし日程が余りにも空きすぎるとして翌1974年からインターバルをなくした連続開催形式での日程に変更している。また従来の半分の試合数で優勝が決まってしまうため、結果として消化試合が増加する(更に極端な話、前期優勝したチームは後期全ての試合を消化試合に出来てしまう)という問題もあった。
- 1980年代に入ると極端に観客動員が減少してしまったため2シーズン制を行う意義が薄れたとして1982年度の大会を最後にそれを打ち切った。
- なお、前後期制については1962年のオフにも「営業的にプラスが見込める」としてリーグ理事会で導入を検討したことがあったが、日程作成の困難を理由に見送りとなった。
- 1983年-1985年
- 1983年から2シーズン制に代えて変則1シーズン制を導入することとなった。これはいわば2シーズン制と通常の1シーズン制(同勝率の場合にのみプレーオフを行う)の中間に位置する折衷案として企画されたもので、130試合終了時に1位と2位のゲーム差が5ゲーム以内である場合、5戦3勝制を原則としたプレーオフを行うというものだった。但し勝率の計算はプレーオフを含めた成績ではじき出すため、1位のチームが1勝した後、2位のチームが残り4試合に全勝しても勝率が1位のチームに届かない場合はその時点で1位チームの優勝となるといった複雑なルールがあった。
- しかし、実際には優勝した各チーム(83年、85年は西武、84年は阪急)が2位以下に大差を付けて圧倒的な優勝を決めたことからプレーオフの実施には至らず、この制度は1度も実施されぬまま廃止となり、「幻のプレーオフ」といわれた。
- 2004年 - 2006年
- その後セ・リーグ同様に通常の1シーズン制に戻して開催することとなったが、シーズンによっては独走で1位チームが優勝することもあり、前述のように試合の質を落とす懸念から2004年シーズンに上位3チームによるトーナメント方式のプレーオフ制度が導入された。このときは、第1ステージ勝ち上がりチームが日本シリーズに出場した場合、そのチームがリーグ優勝チームという扱いであった。
- しかしこの制度に関しても、1位通過チームに対する第2ステージのアドバンテージ(2005年度までは1位チームと第1ステージ勝ち上がりチームのレギュラーシーズンのゲーム差が5ゲーム以上付いていた場合、1位チームに1勝分のアドバンテージが与えられる)の扱いや、2005年に「勝ってしまうと3位チームがプレーオフに出場できない」という事態が発生した(詳細はプレーオフ制度内の脚注参照)ことなどから、2006年度は以下のようにルールを改正した。
- 1位通過チームはゲーム差に関係なく、第2ステージのアドバンテージ1勝分を与える。
- 1位通過チームが複数同率で発生した場合でも第1ステージを行う。その場合、同率1位チームの当該チーム間のその年度の対戦成績の勝ち越しチーム(同数は前年度の順位を参考)を1位と見なし、2位扱いのチームと3位チームとで第1ステージを行うこととする。
- また、第2ステージの第3・4戦は、第1ステージ勝ち上がりチームのホームスタジアムを使用して行うことにする。
- 2007年 - 現在
クライマックスシリーズを参照。
「実力のパ」
人気球団の読売ジャイアンツ・阪神タイガースを擁するセントラルリーグが「人気のセ」と言われることに対して、オールスターゲームの勝利数、対抗意識から「実力のパ」といわれている。
パ・リーグ各球団の私設応援団やファンがリーグとしての結束力を強固なものにすることを目的とし、パ・リーグをこよなく愛するファンの団体として「純パの会」という組織が存在する。
交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く[8]、2010年に至っては、交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであった。一方で「実力のパ」と言われた所以である、オールスターの成績は2000年代以降、8連敗や6連敗などもあり大きく負け越している。
ファンサービス
パ・リーグの球団はセ・リーグの読売ジャイアンツや阪神タイガースに比べ観客動員が少なく、それ以上にテレビ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。
パ・リーグ各球団のファンクラブは、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では広島東洋カープがホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を東京ヤクルトスワローズがホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも日本ハムファイターズが1973年に結成したのが日本初)。
また、スタジアム内でも、ヤフードームや西武ドームの勝利の花火、千葉マリンスタジアムの特定曜日花火、京セラドーム大阪のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチームノベルティプレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行うなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。
各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でもヒーローインタビューを場内に流していたが、北海道日本ハムファイターズのホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている[9]。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)
近年ではインターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。
2007年5月14日にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「パシフィックリーグマーケティング(PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名でYahoo!動画の野球中継により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社モブキャストが協賛スポンサーとなった。
また、2009年8月からはニコニコ生放送で楽天主催試合の一部を配信開始。2010年からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。
携帯電話向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合をNTTドコモ・ソフトバンクの従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。
2009年6月から、当時J SPORTSで主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題してYouTubeで配信している。同年8月からは、楽天がニコニコ動画において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。YouTubeでは2010年からは楽天、日本ハムも加わり、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。
マンデー・パ・リーグ
2001年から2005年まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。
長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日開催並びにシーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。
しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週木曜日を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、火・水の2連戦となるケースが一般的だった。しかし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多く、また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が(普段からパ・リーグの試合を中継している局以外)ほとんど無く、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。
年度別順位
- 金地は日本シリーズ優勝、2007年以降の水色地はクライマックスシリーズで優勝したものの日本シリーズで敗退。
- 球団名が複数併記されているのは同率同順位。
- 1950年の湯浅禎夫、1951年 - 1952年の山本一人、1963年の中西太、1973年の野村克也は選手としての出場記録有り(いわゆる「プレイング・マネージャー」である)。
- 1950年の湯浅禎夫の球団内での役職名は「総監督」。
- 2位以下のチームの監督は1950年を除き、監督が交代した年のみ記載。☆はシーズン途中より就任。
年度 | リーグ優勝 (優勝監督) |
2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 毎日 81勝34敗5分 (湯浅禎夫) |
南海 66勝49敗5分 (山本一人) |
大映 62勝54敗4分 (藤本定義) |
阪急 54勝64敗2分 (浜崎真二) |
西鉄 51勝67敗2分 (宮崎要) |
東急 51勝69敗 (安藤忍) |
近鉄 44勝72敗4分 (藤田省三) | |
1951 | 南海 72勝24敗8分 (山本一人) |
西鉄 53勝42敗10分 (三原脩) |
毎日 54勝51敗5分 |
大映 41勝52敗8分 |
阪急 37勝51敗8分 |
東急 38勝56敗8分 |
近鉄 37勝56敗5分 | |
1952 | 南海 76勝44敗1分 (山本一人) |
毎日 75勝45敗 (☆別当薫) |
西鉄 67勝52敗1分 |
大映 55勝65敗1分 |
阪急 49勝58敗1分 |
東急 49勝59敗 (井野川利春) |
近鉄 30勝78敗 | |
1953 | 南海 71勝48敗1分 (山本一人) |
阪急 67勝52敗1分 |
大映 63勝53敗4分 |
西鉄 57勝61敗2分 |
毎日 56勝62敗2分 (若林忠志) |
東急 50勝67敗3分 |
近鉄 48勝69敗3分 (芥田武夫) | |
1954 | 西鉄 90勝47敗3分 |
南海 91勝49敗 |
毎日 79勝57敗4分 (別当薫) |
近鉄 74勝63敗3分 |
阪急 66勝70敗4分け (西村正夫) |
高橋 53勝84敗3分 (浜崎真二) |
東映 52勝86敗2分 |
大映 43勝92敗5分 |
1955 | 南海 99勝41敗3分 (山本一人) |
西鉄 90勝50敗4分 |
毎日 85勝55敗2分 |
阪急 80勝60敗2分 |
近鉄 60勝80敗2分 |
大映 53勝87敗1分 |
東映 51勝89敗3分 (保井浩一) |
トンボ 42勝98敗1分 (☆笠原和夫) |
1956 | 西鉄 96勝51敗7分 (三原脩) |
南海 96勝52敗6分 |
阪急 88勝64敗2分 |
毎日 84勝66敗4分 |
近鉄 68勝82敗4分 |
東映 58勝92敗4分 (岩本義行) |
大映 57勝94敗3分 (☆松木謙治郎) |
高橋 52勝98敗4分 |
1957 | 西鉄 83勝44敗5分 (三原脩) |
南海 78勝53敗1分 |
毎日 75勝52敗5分 |
阪急 71勝55敗6分 (藤本定義) |
東映 56勝73敗3分 |
近鉄 44勝82敗6分 |
大映 41勝89敗2分 | |
1958 | 西鉄 78勝47敗5分 (三原脩) |
南海 77勝48敗5分 |
阪急 73勝51敗6分 |
大毎 62勝63敗5分 |
東映 57勝70敗3分 |
近鉄 29勝97敗4分 (加藤久幸) | ||
1959 | 南海 88勝42敗4分 (鶴岡一人) |
大毎 82勝48敗6分 |
東映 67勝63敗5分 |
西鉄 66勝64敗14分 |
阪急 48勝82敗4分 (☆戸倉勝城) |
近鉄 39勝91敗3分 (千葉茂) | ||
1960 | 大毎 82勝48敗3分 (西本幸雄) |
南海 78勝52敗6分 |
西鉄 70勝60敗6分 (川崎徳次) |
阪急 65勝65敗6分 |
東映 52勝78敗2分 |
近鉄 43勝87敗1分 | ||
1961 | 南海 85勝49敗6分 (鶴岡一人) |
東映 83勝52敗5分 (水原茂) |
西鉄 81勝56敗3分 |
大毎 72勝66敗2分 (宇野光雄) |
阪急 53勝84敗3分 |
近鉄 36勝103敗1分 | ||
1962 | 東映 78勝52敗3分 (水原茂) |
南海 73勝57敗3分 |
西鉄 62勝68敗6分 (中西太) |
大毎 60勝70敗2分 |
阪急 60勝70敗1分 |
近鉄 57勝73敗1分 (別当薫) | ||
(同率4位) | ||||||||
1963 | 西鉄 86勝60敗4分 (中西太) |
南海 85勝61敗4分 |
東映 76勝71敗3分 |
近鉄 74勝73敗3分 |
大毎 64勝85敗1分 (本堂安次) |
阪急 57勝92敗1分 (西本幸雄) | ||
1964 | 南海 84勝63敗3分 (鶴岡一人) |
阪急 79勝65敗6分 |
東映 78勝68敗4分 |
東京 77勝68敗5分 |
西鉄 63勝81敗6分 |
近鉄 55勝91敗4分 | ||
1965 | 南海 88勝49敗3分 (鶴岡一人) |
東映 76勝61敗3分 |
西鉄 72勝64敗4分 |
阪急 67勝71敗2分 |
東京 62勝74敗4分 |
近鉄 46勝92敗2分 (岩本義行) | ||
1966 | 南海 79勝51敗3分 (鶴岡一人) |
西鉄 75勝55敗8分 |
東映 70勝60敗6分 |
東京 61勝69敗4分 (田丸仁) |
阪急 57勝73敗4分 |
近鉄 48勝82敗3分 | ||
1967 | 阪急 75勝55敗4分 (西本幸雄) |
西鉄 66勝64敗10分 |
東映 65勝65敗4分 |
南海 64勝66敗3分 |
東京 61勝69敗7分 (☆濃人渉) |
近鉄 59勝71敗2分 (小玉明利) | ||
1968 | 阪急 80勝50敗4分 (西本幸雄) |
南海 79勝51敗6分 |
東京 67勝63敗9分 |
近鉄 57勝73敗5分 (三原脩) |
西鉄 56勝74敗3分 |
東映 51勝79敗5分 (大下弘) | ||
1969 | 阪急 76勝50敗4分 (西本幸雄) |
近鉄 73勝51敗6分 |
ロッテ 69勝54敗7分 |
東映 57勝70敗3分 (松木謙治郎) |
西鉄 51勝75敗4分 |
南海 50勝76敗4分 (飯田徳治) | ||
1970 | ロッテ 80勝47敗3分 (濃人渉) |
南海 69勝57敗4分 (野村克也) |
近鉄 65勝59敗6分 |
阪急 64勝64敗2分 |
東映 54勝70敗6分 (☆田宮謙次郎) |
西鉄 43勝78敗9分 (稲尾和久) | ||
1971 | 阪急 80勝39敗11分 (西本幸雄) |
ロッテ 80勝46敗4分 (☆大沢啓二) |
近鉄 65勝60敗5分 (岩本堯) |
南海 61勝65敗4分 |
東映 44勝74敗12分 |
西鉄 38勝84敗8分 | ||
1972 | 阪急 80勝48敗2分 (西本幸雄) |
近鉄 64勝60敗6分 |
南海 65勝61敗4分 |
東映 63勝61敗6分 |
ロッテ 59勝68敗3分 |
西鉄 47勝80敗3分 | ||
1973 ※1 |
南海 68勝58敗4分 (野村克也) |
阪急 77勝48敗5分 |
ロッテ 70勝49敗11分 (金田正一) |
太平洋 59勝64敗7分 |
日拓 55勝69敗6分 (☆土橋正幸) |
近鉄 42勝83敗5分 | ||
1974 ※1 |
ロッテ 69勝50敗11分 (金田正一) |
阪急 69勝51敗10分 (上田利治) |
南海 59勝55敗16分 |
太平洋 59勝64敗7分 |
近鉄 56勝66敗8分 (西本幸雄) |
日本ハム 49勝75敗6分 (中西太) | ||
1975 ※1 |
阪急 64勝59敗7分 (上田利治) |
近鉄 71勝50敗9分 |
太平洋 58勝62敗10分 (江藤愼一) |
ロッテ 59勝65敗6分 |
南海 57勝65敗8分 |
日本ハム 55勝63敗12分 | ||
1976 ※1 |
阪急 79勝45敗6分 (上田利治) |
南海 71勝56敗3分 |
ロッテ 63勝56敗11分 |
近鉄 57勝66敗7分 |
日本ハム 52勝67敗11分 (大沢啓二) |
太平洋 44勝76敗10分 (鬼頭政一) | ||
1977 ※1 |
阪急 69勝51敗10分 (上田利治) |
南海 63勝55敗12分 |
ロッテ 60勝57敗13分 |
近鉄 59勝61敗10分 |
日本ハム 58勝61敗11分 |
クラウン 49勝73敗8分 | ||
1978 ※1 |
阪急 82勝39敗9分 (上田利治) |
近鉄 71勝46敗13分 |
日本ハム 55勝63敗12分 |
ロッテ 53勝62敗15分 |
クラウン 51勝67敗12分 (根本陸夫) |
南海 42勝77敗11分 (広瀬叔功) | ||
1979 ※1 |
近鉄 74勝45敗11分 (西本幸雄) |
阪急 75勝44敗11分 (梶本隆夫) |
日本ハム 63勝60敗7分 |
ロッテ 55勝63敗12分 (山内一弘) |
南海 46勝73敗11分 |
西武 45勝73敗12分 | ||
1980 ※1 |
近鉄 68勝54敗8分 (西本幸雄) |
ロッテ 64勝51敗15分 |
日本ハム 66勝53敗11分 |
西武 62勝64敗4分 |
阪急 58勝67敗5分 |
南海 48勝77敗5分 | ||
1981 ※1 |
日本ハム 68勝54敗8分 (大沢啓二) |
阪急 68勝58敗4分 (上田利治) |
ロッテ 63勝57敗10分 |
西武 61勝61敗8分 |
南海 53勝65敗12分 (D.ブレイザー) |
近鉄 54勝72敗4分 | ||
1982 ※1 |
西武 68勝58敗4分 (広岡達朗) |
日本ハム 67勝52敗11分 |
近鉄 63勝57敗10分 (関口清治) |
阪急 62勝60敗8分 |
ロッテ 54勝69敗7分 (山本一義) |
南海 53勝71敗6分 | ||
1983 | 西武 86勝40敗4分 (広岡達朗) |
阪急 67勝55敗8分 |
日本ハム 64勝59敗7分 |
近鉄 52勝65敗13分 |
南海 52勝69敗9分 (穴吹義雄) |
ロッテ 43勝76敗11分 | ||
1984 | 阪急 75勝45敗10分 (上田利治) |
ロッテ 64勝51敗15分 (稲尾和久) |
西武 62勝61敗7分 |
近鉄 58勝61敗11分 (岡本伊三美) |
南海 53勝65敗12分 |
日本ハム 44勝73敗13分 (☆大沢啓二) | ||
1985 | 西武 79勝45敗6分 (広岡達朗) |
ロッテ 64勝60敗6分 |
近鉄 63勝60敗7分 |
阪急 64勝61敗5分 |
日本ハム 53勝65敗12分 (高田繁) |
南海 44勝76敗10分 | ||
1986 | 西武 68勝49敗13分 (森祇晶) |
近鉄 66勝52敗12分 |
阪急 63勝57敗10分 |
ロッテ 57勝64敗9分 |
日本ハム 57勝65敗8分 |
南海 49勝73敗8分 (杉浦忠) | ||
1987 | 西武 71勝45敗14分 (森祇晶) |
阪急 64勝56敗10分 |
日本ハム 63勝60敗7分 |
南海 57勝63敗10分 |
ロッテ 51勝65敗14分 (有藤道世) |
近鉄 52勝69敗9分 | ||
1988 | 西武 73勝51敗6分 (森祇晶) |
近鉄 74勝52敗4分 (仰木彬) |
日本ハム 62勝65敗3分 |
阪急 60勝68敗2分 |
南海 58勝71敗1分 |
ロッテ 54勝74敗2分 | ||
1989 | 近鉄 71勝54敗5分 (仰木彬) |
オリックス 72勝55敗3分 |
西武 69勝53敗8分 |
ダイエー 59勝64敗7分 |
日本ハム 54勝73敗3分 (近藤貞雄) |
ロッテ 48勝74敗8分 | ||
1990 | 西武 81勝45敗4分 (森祇晶) |
オリックス 69勝57敗4分 |
近鉄 67勝60敗3分 |
日本ハム 66勝63敗1分 |
ロッテ 57勝71敗2分 (金田正一) |
ダイエー 41勝85敗4分 (田淵幸一) | ||
1991 | 西武 81勝43敗6分 (森祇晶) |
近鉄 77勝48敗5分 |
オリックス 64勝63敗3分 (土井正三) |
日本ハム 53勝72敗5分 |
ダイエー 53勝73敗4分 |
ロッテ 48勝77敗5分 | ||
1992 | 西武 80勝47敗3分 (森祇晶) |
近鉄 74勝50敗6分 |
オリックス 61勝64敗5分 |
ダイエー 57勝72敗1分 |
日本ハム 54勝73敗3分 (土橋正幸) |
ロッテ 54勝74敗2分 (八木沢荘六) | ||
1993 | 西武 74勝53敗3分 (森祇晶) |
日本ハム 71勝52敗7分 (大沢啓二) |
オリックス 70勝56敗4分 |
近鉄 66勝59敗5分 (鈴木啓示) |
ロッテ 51勝77敗2分 |
ダイエー 45勝80敗5分 (根本陸夫) | ||
1994 | 西武 76勝52敗2分 (森祇晶) |
オリックス・近鉄 68勝59敗3分 (同率2位) |
ダイエー 69勝60敗1分 |
ロッテ 55勝73敗2分 |
日本ハム 46勝79敗5分 | |||
1995 | オリックス 82勝47敗1分 (仰木彬) |
ロッテ 69勝58敗3分 (B.バレンタイン) |
西武 67勝57敗6分 (東尾修) |
日本ハム 59勝68敗4分 (上田利治) |
ダイエー 54勝72敗4分 (王貞治) |
近鉄 49勝78敗3分 | ||
1996 | オリックス 74勝50敗6分 (仰木彬) |
日本ハム 68勝58敗4分 |
西武 62勝64敗4分 |
近鉄 62勝67敗1分 (佐々木恭介) |
ロッテ 60勝67敗3分 (江尻亮) |
ダイエー 54勝74敗2分 | ||
1997 | 西武 76勝56敗3分 (東尾修) |
オリックス 71勝61敗3分 |
近鉄 68勝63敗4分 |
日本ハム・ダイエー 63勝71敗1分 (同率4位) |
ロッテ 57勝76敗2分 (近藤昭仁) | |||
1998 | 西武 70勝61敗4分 (東尾修) |
日本ハム 67勝65敗3分 |
ダイエー 67勝67敗1分 |
オリックス 66勝66敗3分 |
近鉄 66勝67敗2分 |
ロッテ 61勝71敗3分 | ||
(同率3位) | ||||||||
1999 | ダイエー 78勝54敗3分 (王貞治) |
西武 75勝59敗1分 |
オリックス 68勝65敗2分 |
ロッテ 63勝70敗2分 (山本功児) |
日本ハム 60勝73敗2分 |
近鉄 54勝77敗4分 | ||
2000 | ダイエー 73勝60敗2分 (王貞治) |
西武 69勝61敗5分 |
日本ハム 69勝65敗1分 (大島康徳) |
オリックス 64勝67敗4分 |
ロッテ 62勝67敗6分 |
近鉄 58勝75敗2分 (梨田昌孝) | ||
2001 | 近鉄 78勝60敗2分 (梨田昌孝) |
ダイエー 76勝63敗1分 |
西武 73勝67敗 |
オリックス 70勝66敗4分 |
ロッテ 64勝74敗2分 |
日本ハム 53勝84敗3分 | ||
2002 | 西武 90勝49敗1分 (伊原春樹) |
近鉄・ダイエー 73勝65敗2分 (同率2位) |
ロッテ 67勝72敗1分 |
日本ハム 61勝76敗3分 |
オリックス 50勝87敗3分 (石毛宏典) | |||
2003 | ダイエー 82勝55敗3分 (王貞治) |
西武 77勝61敗2分 |
近鉄 74勝64敗2分 |
ロッテ 68勝69敗3分 |
日本ハム 62勝74敗4分 (T.ヒルマン) |
オリックス 48勝88敗4分 (☆R.リー) | ||
2004 ※2 |
西武 74勝58敗1分 (伊東勤) |
ダイエー 77勝52敗4分 |
日本ハム 66勝65敗2分 |
ロッテ 65勝65敗3分 (B.バレンタイン) |
近鉄 61勝70敗2分 |
オリックス 49勝82敗2分 (伊原春樹) | ||
2005 ※2 |
ロッテ 84勝49敗3分 (B.バレンタイン) |
ソフトバンク 89勝45敗2分 |
西武 67勝69敗 |
オリックス 62勝70敗4分 (仰木彬) |
日本ハム 62勝71敗3分 |
楽天 38勝97敗1分 (田尾安志) | ||
2006 ※2 |
日本ハム 82勝54敗 (T.ヒルマン) |
西武 80勝54敗2分 |
ソフトバンク 75勝56敗5分 |
ロッテ 65勝70敗1分 |
オリックス 52勝81敗3分 (中村勝広) |
楽天 47勝85敗4分 (野村克也) | ||
2007 ※3 |
日本ハム 79勝60敗5分 (T.ヒルマン) |
ロッテ 76勝61敗7分 |
ソフトバンク 73勝66敗5分 |
楽天 67勝75敗2分 |
西武 66勝76敗2分 |
オリックス 62勝77敗5分 (T.コリンズ) | ||
2008 ※3 |
西武 76勝64敗4分 (渡辺久信) |
オリックス 75勝68敗1分 (☆大石大二郎) |
日本ハム 73勝69敗2分 (梨田昌孝) |
ロッテ 73勝70敗1分 |
楽天 65勝76敗3分 |
ソフトバンク 64勝77敗3分 | ||
2009 ※3 |
日本ハム 82勝60敗2分 (梨田昌孝) |
楽天 77勝66敗1分 |
ソフトバンク 74勝65敗5分 (秋山幸二) |
西武 70勝70敗4分 |
ロッテ 62勝77敗5分 |
オリックス 56勝86敗2分 | ||
2010 ※3 |
ソフトバンク 76勝63敗5分 (秋山幸二) |
西武 78勝65敗1分 |
ロッテ 75勝67敗2分 (西村徳文) |
日本ハム 74勝67敗3分 |
オリックス 69勝71敗4分 (岡田彰布) |
楽天 62勝79敗3分 (M.ブラウン) | ||
2011 ※3 |
ソフトバンク 88勝46敗10分 (秋山幸二) |
日本ハム 72勝65敗7分 |
西武 68勝67敗9分 |
オリックス 69勝68敗7分 |
楽天 66勝71敗7分 (星野仙一) |
ロッテ 54勝79敗11分 | ||
2012 ※3 |
日本ハム 74勝59敗11分 (栗山英樹) |
西武 72勝63敗9分 |
ソフトバンク 67勝65敗12分 |
楽天 67勝67敗10分 |
ロッテ 62勝67敗15分 |
オリックス 57勝77敗10分 | ||
2013 ※3 |
楽天 82勝59敗3分 (星野仙一) |
西武 74勝66敗4分 |
ロッテ 74勝68敗2分 (伊東勤) |
ソフトバンク 73勝69敗2分 |
オリックス 66勝73敗5分 (森脇浩司) |
日本ハム 64勝78敗2分 | ||
2014 ※3 |
ソフトバンク 78勝60敗6分 (秋山幸二) |
オリックス 80勝62敗2分 |
日本ハム 73勝68敗3分 |
ロッテ 66勝76敗2分 |
西武 63勝77敗4分 (伊原春樹) |
楽天 64勝80敗 | ||
2015 ※3 |
ソフトバンク 90勝49敗4分 (工藤公康) |
日本ハム 79勝62敗2分 |
ロッテ 73勝69敗1分 |
西武 69勝69敗5分 (田邊徳雄) |
オリックス 61勝80敗2分 |
楽天 57勝83敗3分 (大久保博元) |
※1:1973年 - 1982年は、プレーオフ優勝(もしくは前後期優勝)チームが1位、2位以下は前後期通算の勝率による順位。
※2:2004年 - 2006年は、プレーオフ優勝チームが1位。
※3:2007年 - は、レギュラーシーズン優勝チームが1位。クライマックスシリーズ優勝チームが日本シリーズ出場。
1973年 - 1982年の前・後期の順位
- 球団名が複数併記されているのは同率同順位。
年 | 期 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1973 | 前 | 南海 38勝26敗1分 |
ロッテ 35勝27敗3分 |
阪急 34勝29敗2分 |
太平洋 32勝30敗3分 |
日拓 25勝37敗3分 |
近鉄 23勝38敗4分 |
後 | 阪急 43勝19敗3分 |
ロッテ 35勝22敗8分 |
南海・日拓 30勝32敗3分 |
太平洋 27勝34敗4分 |
近鉄 19勝45敗1分 | ||
1974 | 前 | 阪急 36勝23敗6分 |
ロッテ 31勝27敗7分 |
太平洋 30勝30敗5分 |
南海 27勝28敗10分 |
近鉄 27勝32敗6分 |
日本ハム 25勝36敗4分 |
後 | ロッテ 38勝23敗4分 |
南海 32勝27敗6分 |
阪急 33勝28敗4分 |
太平洋・近鉄 29勝34敗2分 |
日本ハム 24勝39敗2分 | ||
1975 | 前 | 阪急 38勝25敗2分 |
太平洋 30勝29敗6分 |
近鉄 31勝30敗4分 |
日本ハム 27勝30敗8分 |
南海 27勝32敗6分 |
ロッテ 27勝34敗4分 |
後 | 近鉄 40勝20敗5分 |
ロッテ 32勝31敗2分 |
南海 30勝33敗2分 |
太平洋・日本ハム 28勝33敗4分 |
阪急 26勝34敗5分 | ||
1976 | 前 | 阪急 42勝21敗2分 |
南海 35勝29敗1分 |
ロッテ 29勝28敗8分 |
日本ハム 26勝31敗8分 |
近鉄 27勝35敗3分 |
太平洋 21勝36敗8分 |
後 | 阪急 37勝24敗4分 |
南海 36勝27敗2分 |
ロッテ 34勝28敗3分 |
近鉄 30勝31敗4分 |
日本ハム 26勝36敗3分 |
太平洋 23勝40敗2分 | |
1977 | 前 | 阪急 35勝25敗5分 |
南海 33勝26敗6分 |
近鉄 31勝26敗8分 |
日本ハム 31勝29敗5分 |
ロッテ 27勝33敗5分 |
クラウン 20勝38敗7分 |
後 | ロッテ 33勝24敗8分 |
阪急 34勝26敗5分 |
南海 30勝29敗6分 |
日本ハム 27勝32敗6分 |
クラウン 29勝35敗1分 |
近鉄 28勝35敗2分 | |
1978 | 前 | 阪急 44勝20敗1分 |
近鉄 32勝26敗7分 |
日本ハム 29勝31敗5分 |
クラウン 28勝31敗6分 |
ロッテ 25勝33敗7分 |
南海 22勝39敗4分 |
後 | 阪急 38勝19敗8分 |
近鉄 39勝20敗6分 |
ロッテ 28勝29敗8分 |
日本ハム 26勝32敗7分 |
クラウン 23勝36敗6分 |
南海 20勝38敗7分 | |
1979 | 前 | 近鉄 39勝19敗7分 |
阪急 39勝21敗5分 |
日本ハム 34勝26敗5分 |
ロッテ 26勝34敗5分 |
南海 23勝39敗3分 |
西武 18勝40敗7分 |
後 | 阪急 36勝23敗6分 |
近鉄 35勝26敗4分 |
ロッテ 29勝29敗7分 |
日本ハム 29勝34敗2分 |
西武 27勝33敗5分 |
南海 23勝34敗8分 | |
1980 | 前 | ロッテ 33勝25敗7分 |
近鉄・日本ハム 33勝28敗4分 |
阪急 29勝34敗2分 |
南海 28勝34敗3分 |
西武 27勝34敗4分 | |
後 | 近鉄 35勝26敗4分 |
日本ハム 33勝25敗7分 |
ロッテ 31勝26敗8分 |
西武 35勝30敗0分 |
阪急 29勝33敗3分 |
南海 20勝43敗2分 | |
1981 | 前 | ロッテ 35勝26敗4分 |
西武 33勝28敗4分 |
阪急 32勝30敗3分 |
日本ハム 31勝31敗3分 |
南海 29勝32敗4分 |
近鉄 25勝38敗2分 |
後 | 日本ハム 37勝23敗5分 |
阪急 36勝28敗1分 |
ロッテ 28勝31敗6分 |
近鉄 29勝34敗2分 |
西武 28勝33敗4分 |
南海 24勝33敗8分 | |
1982 | 前 | 西武 36勝27敗2分 |
阪急 33勝28敗4分 |
近鉄 30勝27敗8分 |
日本ハム 32勝29敗4分 |
南海 27勝34敗4分 |
ロッテ 23勝36敗6分 |
後 | 日本ハム 35勝23敗7分 |
近鉄 33勝30敗2分 |
西武 32勝31敗2分 |
ロッテ 31勝33敗1分 |
阪急 29勝32敗4分 |
南海 26勝37敗2分 |
2004年 - 2006年のレギュラーシーズン勝率首位の球団
レギュラーシーズン勝率首位の球団には、優勝ペナントとは別に優勝フラッグが贈呈される。チームは翌シーズンの間、これを掲げる事が許される。レギュラーシーズン首位の球団がプレーオフも制すれば優勝ペナントと優勝フラッグを同時に掲げる事が出来る。
- 2004年 福岡ダイエーホークス(※)
- 2005年 福岡ソフトバンクホークス(※)
- 2006年 北海道日本ハムファイターズ(完全優勝)
- (※)同一球団。2005年に球団売却のため改名
名称の由来
1950年のベースボール・マガジン新年特大号で東急フライヤーズの猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である[1]。
低勝率罰金制度
低勝率罰金制度とは1953年にパシフィック・リーグ理事会総裁・永田雅一の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。
1954年に永田の球団である大映スターズが勝率.319で第1号となった。翌1955年にトンボユニオンズが勝率.300で第2号となった(これがきっかけでトンボ鉛筆は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が高橋ユニオンズに戻った。)。
なお、この制度は1956年に廃止となった。
歴代リーグ会長(代表者)
(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)
(専任職移行後)
- 2代目:中澤不二雄(1959年 - 1965年/野球解説者)
- 3代目:松浦晋(1965年 - 1968年)
- 4代目:岡野祐(1968年 - 1978年/元阪急ブレーブス代表)
- 5代目:工藤信一良(1978年 - 1981年/元毎日新聞社副社長)
- 6代目:福島慎太郎(1983年 - 1987年/元共同通信社社長、元ジャパンタイムズ社長)
- 7代目:堀新助(1987年 - 1991年/元駐イタリア大使)
- 8代目:原野和夫(1991年 - 2000年/元時事通信社社長)
- 9代目:小池唯夫(2000年 - 2008年/元毎日新聞社社長)【リーグ会長職廃止により退任】
リーグ運営部長
- 初代:花井史朗光(2009年 - )
関連項目
- パシフィック・リーグ個人タイトル獲得者一覧
- セントラル・リーグ
- 白いボールのファンタジー(連盟の公認テーマソング)
- 伊東一雄(元・広報部長)
- 山内以九士(元・記録部長)
- 千葉功(元・記録部長)
- 永田雅一
- パ・リーグオールスター東西対抗
- パ・リーグ親子ヒーロープロジェクト
脚注
- ^ a b 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号62ページ「セ・パ分立当時の連盟旗」
- ^ その一方、メジャーリーグをモチーフとした北米版はアメリカンリーグ(オークランド・アスレチックス・カンザスシティ・ロイヤルズ・ニューヨーク・ヤンキース)とナショナルリーグ(セントルイス・カージナルス・ロサンゼルス・ドジャース・フィラデルフィア・フィリーズ)から3球団ずつが選出されている。
- ^ 1984年に発売されたエポック社のスーパーカセットビジョンのスーパーベースボールではパ・リーグをモデルとしたチームはF・H・Lの3チームが登場しているが、BとOは阪急ブレーブスとロッテオリオンズではなく、アトランタ・ブレーブスとボルチモア・オリオールズがモデルとなっている。その他「CAPCOMベースボール 助っ人外人大暴れ!」なるアーケードゲームでも、西武ライオンズに相当するチームは「ライオネッツ」として単独で収録されていたが、他の5チームは連合チームとされた(日本ハム・ロッテの連合チームをモチーフとした「オールイースタン」と、近鉄・オリックス・ダイエーの連合チームをモチーフとした「オールウェスタン」)。
- ^ セ、パ両事務局が廃局[リンク切れ] サンケイスポーツ 2008年12月27日閲覧
- ^ 2007年までの暫定措置として、大阪ドーム(後の京セラドーム大阪)と神戸総合運動公園野球場を本拠地とした
- ^ ただし1973年は公式には地域保護権は東京都に残り、準本拠地扱いであった。1974年に保護権を暫定的に宮城県に移すが、特例として東京都でも半数程度開催することがあった。
- ^ 本来は2005年も実施予定だったが、近鉄のオリックスへの合併、楽天の加盟と、セ・パ交流戦の開催により総当たり回数が変更となったため行われなかった
- ^ なお、交流戦開始以降は「交流戦で優勝するのも毎年パリーグのチーム」という状況が続いていたが、2012年に読売ジャイアンツが交流戦開始以後では初のセ・リーグで交流戦を制覇したチームとなった。
- ^ 例外もある。詳細は田中将大の項を参照。
参考文献
「ベースボールマガジン」2009年11月号「パ・リーグ60年 魂の物語」(ベースボールマガジン社刊)