サーマン・マンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。たいすけ55 (会話 | 投稿記録) による 2015年11月19日 (木) 07:52個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:最優秀選手 (MLB)を除去; Category:アメリカンリーグMVPを追加 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

サーマン・マンソン
Thurman Munson
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国 オハイオ州アクロン
生年月日 1947年6月7日
没年月日 (1979-08-02) 1979年8月2日(32歳没)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1968年 ドラフト1巡目
初出場 1969年8月8日
最終出場 1979年8月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

サーマン・マンソンThurman Lee Munson , 1947年6月7日 - 1979年8月2日)はアメリカメジャーリーグで活躍した野球選手。捕手。右投右打。アメリカ合衆国オハイオ州出身。1970年代ニューヨーク・ヤンキースで活躍した捕手。主将を務めたが、現役選手だった1979年に飛行機事故で亡くなった。

人物・来歴

マンソンのロッカー。現・ヤンキースタジアム内のヤンキースミュージアムにて保管されている。

ケント州立大学では、後のサイ・ヤング賞投手スティーブ・ストーンとバッテリーを組む。1968年ドラフト会議ニューヨーク・ヤンキースから1巡目に指名され、入団。翌1969年に早くもメジャーに昇格し、8月9日に初出場を果たす。

1970年に本格デビューし、132試合に出場して打率.302の活躍でア・リーグ新人王に選ばれた。

当時のヤンキースはかつての黄金時代の看板選手だったミッキー・マントルらが相次いで引退、またチームも低迷期に入っていたため、看板選手が不在だったヤンキースにおいてマンソンはマントルらの後継者として期待されるようになる。1971年には初のオールスター出場を果たし、1973年には初のゴールドグラブ賞を受賞し、この後3年連続で受賞。オールスターは死の前年まで6年連続で出場を果たした。

1976年には打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁の活躍でア・リーグMVPに選ばれる。この年チームは久々にワールドシリーズに進出。マンソン自身は打率.529を記録したが、チームは「ビッグレッドマシン」と言われ、当時全盛を誇ったシンシナティ・レッズに敗れた。

持ち前のリーダーシップで、ヤンキースではルー・ゲーリッグ以来のキャプテンに任命され、ジョージ・スタインブレナーフリーエージェント(FA)で買い集めてきた「ブロンクス動物園」とも言われた個性豊かなチームを統率した。しかしながら、マンソン自身がマスコミ嫌いで、ロッカールームに取材しに来た記者に対して「失せろ」と言い放つほどであったため、FA移籍してきた主砲でマスコミ受けが良かったレジー・ジャクソンとはついに最後まで不仲であった。

加えて、当時の監督は武闘派としてならしていたビリー・マーチンであったが、キャプテンの立場からマーチンとはあわや殴り合い寸前の口論を演じたこともあった。しかし、マーチンとの関係はむしろ良好で、その気概をマーチンも買っていたともいわれる。

チームは1977年1978年にいずれもロサンゼルス・ドジャースを破り、2年連続ワールドチャンピオンに輝いた。この3年間、マンソンはリーグチャンピオンシップシリーズでは通算.339、ワールドシリーズでは.373の高打率をマーク。1978年の最終戦では、9回2死からドジャースのロン・セイのフライ(ウイニング・ボール)をキャッチ。

翌1979年も、7年連続のオールスター出場こそ逃したものも、開幕から97試合に出場して打率.288と活躍していた。同年8月2日にマンソンはオフのためオハイオ州の自宅に帰った。そこでマンソンは所有する自家用セスナ機を操縦していたが、飛行中に木に接触し、機体は墜落、炎上した。同乗していた2人は救助されたが、機体から出られなかったマンソンは死亡した。32歳没。当初は墜落炎上による焼死と思われたが、のちの検死で、炎上した際に起きた発煙をマンソンが吸い込んだために、その時点で死亡したという。

その夜のヤンキー・スタジアムではボルチモア・オリオールズとの試合前に、先発メンバー全員がキャッチャーボックスの前に立って、帰らぬキャプテンに敬意を表する。

8月6日にマンソンが住んでいたオハイオ州カントンで行われた葬儀には、ヤンキースの全選手が参列。マンソンの親友、ルー・ピネラ(のち監督)とボビー・マーサーが弔辞を読んだ。その夜の試合で、マーサーは7回に3ラン本塁打。3-4のビハインドで迎えた9回裏には逆転のサヨナラ2点タイムリー安打を放ち、一人で全5得点をたたき出し、マンソンに捧げた。しかし、同年のヤンキースはこれで終戦ムードとなってしまい、後年、ピネラはこの1979年シーズンのヤンキースを「マンソンの死で終わってしまった」と述懐している。

その死とともに、ヤンキースはマンソンの背番号15」を永久欠番に指定した。死後もヤンキース・クラブハウスにてマンソンのロッカーは当時のまま保管され、現在は新・ヤンキースタジアム内のヤンキースミュージアムにて保管されている。

もし現役があと5、6年ほど長ければ殿堂入りは確実だったであろうと言われており、現在もベテランズ委員会の殿堂入り選考にマンソンの名前が挙がるほどである。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1969 NYY 26 97 86 6 22 1 2 1 30 9 0 1 0 1 10 1 0 10 5 .256 .330 .349 .679
1970 132 526 453 59 137 25 4 6 188 53 5 7 5 4 57 6 7 56 13 .302 .386 .415 .801
1971 125 517 451 71 113 15 4 10 166 42 6 5 4 3 52 1 7 65 10 .251 .335 .368 .703
1972 140 568 511 54 143 16 3 7 186 46 6 7 4 2 47 5 3 58 13 .280 .343 .364 .707
1973 147 576 519 80 156 29 4 20 253 74 4 6 1 4 48 4 4 64 12 .301 .362 .487 .849
1974 144 571 517 64 135 19 2 13 197 60 2 0 1 8 44 12 1 66 14 .261 .316 .381 .697
1975 157 661 597 83 190 24 3 12 256 102 3 2 3 10 45 8 6 52 23 .318 .366 .429 .795
1976 152 665 616 79 186 27 1 17 266 105 14 11 1 10 29 6 9 38 17 .302 .337 .432 .769
1977 149 638 595 85 183 28 5 18 275 100 5 6 0 2 39 8 2 55 18 .308 .351 .462 .813
1978 154 667 617 73 183 27 1 6 230 71 2 3 1 10 35 6 3 70 20 .297 .332 .373 .705
1979 97 419 382 42 110 18 3 3 143 39 1 2 1 4 32 2 0 37 15 .288 .340 .374 .714
通算:11年 1423 5905 5344 696 1558 229 32 113 2190 701 48 50 21 58 438 59 42 571 160 .292 .346 .410 .756

受賞歴・記録

脚注

関連項目

外部リンク