エリック・コマス

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エリック・コマス
基本情報
フルネーム Érik Gilbert Comas
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・ロマン=シュル=イゼール
生年月日 (1963-09-28) 1963年9月28日(60歳)
F1での経歴
活動時期 1991-1994
所属チーム '91-'92 リジェ
'93-'94 ラルース
出走回数 59
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 7
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1991年アメリカGP
初勝利
最終勝利
最終戦 1994年日本GP
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エリック・ギルバート・コマスÉrik Gilbert Comas1963年9月28日 - )は、フランス人の元F1ドライバー。

経歴

F1以前

1983年レーシングカートデビュー。1985年にフランス国内のフォーミュラ・ルノー選手権にステップアップし、1986年には同選手権のチャンピオンに輝く。1988年にはフランスF3選手権にステップアップしシリーズチャンピオン。

1989年には、国際F3000DAMSから参戦を開始し、ジャン・アレジとチャンピオン争いを繰り広げた。同年チャンピオンのアレジと同ポイントを獲得したが、2勝に留まったコマスは勝利数の差でシリーズ2位に終わった。

1990年もDAMSから参戦し、国際F3000のシリーズチャンピオンを獲得した。

同じ国籍のアレジ(Alesi)、エリック・ベルナールBernard)と共に「フランスのABC[1]」と呼ばれ、アラン・プロストの後継として大いに期待された。

F1

リジェ時代

1991年

1991年にリジェから参戦を開始したが、開幕戦アメリカGPでは予選落ちし、第2戦のブラジルGPがデビュー戦となった(結果はリタイヤ)。参戦初年度はチーム体制が整わず、開幕戦を含め予選落ちを計3回経験。決勝進出したレースでも下位に埋もれることが多く、最高位が第5戦カナダGPの8位と、ポイントは獲得できなかった。

1992年

元々は残留が決まっていたにもかかわらず、ネルソン・ピケアラン・プロストとのシート争いに巻き込まれるかたちで、シートが不安定な状態でオフを過ごす結果となるが、最終的にはピケが引退、プロストも1年の休養を発表した為、引き続きリジェから参戦した。

チームがエンジンを前年のランボルギーニから、ルノーエンジンを獲得したことで成績は向上し、予選では中盤や上位につけることも多くなった(ベストグリッドは第10戦ドイツGPの7位)。決勝では、第7戦カナダGPで6位に入り初入賞を果たすと、続く第8戦フランスGPでも5位に入り連続入賞。第10戦ドイツGPでも6位と、年間3度の入賞を果たした。

ベテランのチームメイト、ティエリー・ブーツェンが霞む活躍を見せたが、一方で第3戦ブラジルGP・第11戦ハンガリーGPでのブーツェンとの同士討ち[2]、第9戦イギリスGP予選でのイエローフラッグ無視によるリカルド・パトレーゼとの接触事故、第12戦ベルギーGP予選での大クラッシュ等、事故の多さ・走りの荒さも指摘された。

ラルース時代

1993年

1993年ラルースに移籍。しかし体制に恵まれず、参加台数の減少もあって予選落ちこそなかったものの、16戦中8戦でリタイヤを喫した。それでも、第8戦フランスGPで予選で9位につけ、第13戦イタリアGPで6位に入るなど存在をアピールする走りも見せた。

1994年

1994年も残留。第2戦パシフィックGP・第9戦ドイツGPと2度6位入賞を果たし、他にも4度のシングルフィニッシュを記録するなど、体制が苦しい中でも結果を残したが、シーズン終了後にコマスへのオファーはなく、そのままF1から去ることになった。また資金難のラルース・チームが(結局この年をもって撤退となる)、最終戦オーストラリアGPではジャン・ドゥニ・ドゥレトラーズを起用した為、第15戦日本GPが最後のF1となった。

来日後

1995年に来日。以後全日本GT選手権(JGTC)→SUPER GTを中心に活躍している。全日本GT選手権では通算6勝を挙げ、1998年1999年に2年連続でシリーズチャンピオンを獲得した。

またドライバー活動の傍ら、2001年には「コマス・レーシング・マネジメント株式会社」を設立。ステファン・サラザンジェレミー・デュフォアロニー・クインタレッリなど多くの若手ドライバーのマネジメントも手がけているほか、欧州におけるJGTC・SUPER GTのテレビ放映権も獲得し、ユーロスポーツMotors TVといった欧州のスポーツ専門TVチャンネル向けに放映権を再販したりしている[3]

2006年もSUPER GTに参戦したものの、急性腰痛症により第5戦を欠場し、第6戦は参戦したものの、コマスの体調は改善できず、残りの3戦を断念。コマスの代役は荒聖治が務めた。

現況

2007年以降、コマスはSUPER GTをはじめ、日本のレース活動を行っていない。そのためか日本語版の公式ホームページも削除されているほか、コマス・レーシング・マネジメントも2007年限りで業務を終了した(なお業務は「グローバル・レーシング・マネージメント」という別会社に引き継がれている)。

しかし2012年3月には、同年のル・マン24時間レースに参戦するデルタウィング - ニッサンのテストドライバーに起用されることが発表され[4]、テストドライバーながらレース活動を再開している。

レース戦績

国際F3000選手権

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1989 DAMS SIL
5
VAL
4
PAU
DNQ
JER
2
PER
Ret
BRH
3
BIR
Ret
SPA
2
BUG
1
DIJ
1
2位 39
1990 DAMS DON
1
SIL
2
PAU
Ret
JER
1
MNZ
1
PER
Ret
HOC
4
BRH
Ret
BIR
Ret
BUG
1
NOG
2
1位 51

F1

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1991年 リジェ JS35 USA
DNQ
BRA
Ret
SMR
10
MON
10
CAN
8
MEX
DNQ
FRA
11
GBR
DNQ
GER
Ret
HUN
10
BEL
Ret
ITA
11
POR
11
ESP
Ret
JPN
Ret
AUS
18
29位 0
1992年 JS37 RSA
7
MEX
9
BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
9
MON
10
CAN
6
FRA
5
GBR
8
GER
6
HUN
Ret
BEL
DNQ
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
11位 4
1993年 ラルース LH93 RSA
Ret
BRA
10
EUR
9
SMR
Ret
ESP
9
MON
Ret
CAN
8
FRA
16
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
6
POR
11
JPN
Ret
AUS
12
21位 1
1994年 LH94 BRA
9
PAC
6
SMR
Ret
MON
10
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
6
HUN
8
BEL
Ret
ITA
8
POR
Ret
EUR
Ret
JPN
9
AUS
23位 2

JGTC,SUPER GT

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1995 TOYOTA TEAM CERUMO トヨタ・スープラ GT1 SUZ
5
FUJ
14
SEN
15
FUJ
Ret
SUG
11
MIN
DSQ
19位 8
1996 TOYOTA Castrol TEAM トヨタ・スープラ GT500 SUZ
16
FUJ
4
SEN
1
MIN
Ret
SUG
4
MIN
2
3位 55
1997 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
1
FUJ
SEN
2
FUJ
10
MIN
9
SUG
3
6位 50
1998 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
1
FUJ
C
SEN
1
FUJ
10
MOT
4
MIN
4
SUG
6
1位 67
1999 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
2
FUJ
5
SUG
6
MIN
1
FUJ
3
TAI
7
MOT
3
1位 77
2000 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 MOT
1
FUJ
6
SUG
Ret
FUJ
4
TAI
3
MIN
3
SUZ
5
2位 68
2001 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 TAI
13
FUJ
4
SUG
10
FUJ
2
MOT
Ret
SUZ
3
MIN
2
4位 53
2002 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 TAI
12
FUJ
6
SUG
4
SEP
16
FUJ
14
MOT
17
MIN
Ret
SUZ
8
19位 19
2003 TOYOTA TEAM TOM'S トヨタ・スープラ GT500 TAI
6
FUJ
10
SUG
2
FUJ
7
FUJ
5
MOT
2
AUT
8
SUZ
8
5位 61
2004 ハセミモータースポーツ 日産・フェアレディZ GT500 TAI
6
SUG
6
SEP
4
TOK
3
MOT
7
AUT
Ret
SUZ
3
4位 50
2005 ハセミモータースポーツ 日産・フェアレディZ GT500 OKA
3
FUJ
9
SEP
Ret
SUG
15
MOT
13
FUJ
4
AUT
3
SUZ
4
8位 42
2006 KONDO RACING 日産・フェアレディZ GT500 SUZ
10
OKA
10
FUJ
10
SEP
8
SUG
SUZ
5
MOT
AUT
FUJ
18位 18

エピソード

  • 来日してからあまり時間をかけずに日本語でのほぼ完璧なコミュニケーションを身につけたことで、日本のレース関係者を大いに驚かせた。しかし、コマスは元々F1参戦中からある程度の日本語を習得しており、川井一仁が1994年のスペインGPで「パドックでコマスを見かけて声を掛けたら、全て日本語で会話が成立した」というエピソードを当時『F1グランプリ特集』(ソニー・マガジンズ)の連載で披露したこともある[5]
  • フォーミュラルノー時代のライバルには、当時渡仏していた片山右京がいる。片山は「F1に行ってからもお互いにライバル意識がある」とフジテレビの番組内で話している。
  • コマスをもじった「エリック・コマツ」なるライセンスネームを持つ日本人ドライバーが存在する。
  • F3000時代までは母国語読みの「エリック・コマ」で報じられていたが、F1デビューに当たり、フジテレビが「エリック・コマス」と表記し、これが日本では一般化している。
  • F1を経験していることもあって、ドライビングテクニックには定評がある。全日本GT選手権で確認できるのは、1999年の美祢での片山右京、2003年の菅生での脇阪寿一との数十周とのサイドバイサイドのトップ争いにおいてもコマスのテクニックの高さが伺える。反面、タイヤやマシンを労わらない走行が目立つ。上記の寿一との争いはタイヤを労わらずに走行しており、終盤では苦戦気味に走行しており、逆に寿一のほうはタイヤや燃費に労わりつつ、コマスについていきながら隙をうかがう戦法で走行していたため、ファイナルラップで寿一はコマスの僅かな隙を見逃さずにオーバーテイクしてしまい、コマスの敗因の原因の一つともいえる。また、2000年の鈴鹿においては、金石勝智との争いでは、コマスは何回も金石に接触しながらもオーバーテイクしたが、接触によってクルマのバランスが崩れるのと、上記と同じくタイヤやミッションに労わらない走行が目立ち、前述の接触も相まって、後半スティントを担当する影山はクルマのバランスが崩れた状態に加えて、ロングスティントを担当したため、苦戦を余儀なくされた。
  • ドライバーからはマナーがとても良いとの評判である。
  • リジェ在籍当時のエピソードとして、当時「荒法師」「無冠の帝王」などと呼ばれていたナイジェル・マンセルから走りについて非難された事があり、その際コマスは、泣いてしまったという。(当時のF1雑誌より)
  • リジェ在籍当時のエピソードとして、チーム対抗戦の自転車レースで優勝した事があるという。(当時のF1雑誌より)


脚注

  1. ^ ヤニック・ダルマスDalmas)を加え、「ABCD」とも言われた。
  2. ^ もっとも、この件はブーツェンに非があるとの見方が多い。
  3. ^ JGTCレース欧州でTV放送開始
  4. ^ 日産、実験レーサー「デルタウイング」でル・マン24時間へ - CAR Watch・2012年3月14日
  5. ^ 『F1ワハハ読本3』(ソニー・マガジンズ)p.64に収録。

関連項目

外部リンク