コンテンツにスキップ

那珂 (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
那珂
就役直前、公試時の那珂 (1925年11月、横浜での撮影)
就役直前、公試時の那珂
(1925年11月、横浜での撮影)
基本情報
建造所 横浜船渠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 二等巡洋艦軽巡洋艦
級名 川内型
艦歴
発注 1920年計画
起工 1922年6月10日(公表日)[1]
1922年6月14日(実際)[2][3]
進水 1925年3月24日[1]
竣工 1925年11月30日[1]
最期 1944年2月17日沈没
除籍 1944年3月31日
要目
基準排水量 5,195英トン
常備排水量 5,595英トン
全長 162.46m
最大幅 14.2m
吃水 4.8m(常備)
主機 三菱パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸
出力 90,000馬力
速力 35.3ノット
乗員 竣工時定員446名[4]
兵装

竣工時
50口径14cm単装砲7基7門
61cm連装魚雷発射管4基8門
40口径8cm単装高角砲2基2門
6.5mm単装機銃2挺
九三式機雷56個
1941年12月
50口径14cm単装砲7門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
九六式25mm連装機銃2基4門
保式13mm四連装機銃1基4門
7.7mm単装機銃2挺
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機

1943年4月
50口径14cm単装砲6門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
八九式12.7cm連装高角砲1基2門
九六式25mm三連装機銃2基6門
九六式25mm連装機銃2基4門
九三式13mm連装機銃1基2門
九四式爆雷投射機1基
爆雷投下軌条2基
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機
21号電探
装甲 水線64mm、甲板29mm
搭載機 1機
テンプレートを表示

那珂(なか)は、日本海軍軽巡洋艦[5]川内型軽巡洋艦の3番艦[6]。艦名は栃木県から茨城県へと流れて太平洋に至る那珂川に因んで命名された[7]進水時に発行された絵葉書には那珂川と、茨城県の名所の一つ筑波山が描かれた[8]

艦内神社は、那珂川河口に近い大洗磯前神社が祀られており、その境内には戦没乗組員を追悼する忠魂碑がある[9][10]

太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活動した。1942年昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところトラック島空襲に遭遇、アメリカ海軍空母機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した[11]

艦歴

[編集]

建造経緯

[編集]

大正時代の日本海軍は、排水量7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[12]1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻(川内型軽巡洋艦)に、それぞれ加古、那珂川内神通の艦名が与えられる[13]。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された[14]。 同年9月、日本海軍は知床型給油艦佐多を建造した横浜船渠(後の三菱重工業横浜製作所)に二等巡洋艦1隻(那珂)と砲艦1隻を発注した[8]

川内は1922年(大正11年)2月26日に長崎三菱造船所[15]、那珂は横濱船渠で同年6月10日[1][8] もしくは6月14日[2]に、神通は同年8月4日に神戸川崎造船所[16]、それぞれ起工した。

だが佐世保海軍工廠で建造予定の川内型軽巡加古は同年3月に建造中止の通達があり[17]、10月9日に一等巡洋艦加古型(古鷹型)加古として神戸川崎造船所で建造されることが正式に決まった[18]。これをもって加古は二等巡洋艦(川内型軽巡)から一等巡洋艦に類別変更され、川内型軽巡洋艦は3隻(那珂、川内、神通)となった[19]

前述のように、那珂は加古型軽巡の2番艦(加古、那珂、川内、神通)として横浜船渠で建造が始まった[1]が、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災[20]。当初の火災は鎮火したものの、桜木町方面からの延焼により横浜船渠は施設の大部分を焼失した[20]。同年10月10日の進水(横浜船渠側によれば9月2日進水計画)[21]を予定して建造最終段階の船体は、盤木の焼失により船台上に落下して右に傾いた[22][23]。復旧の見込みなしと判定される[21][24]。また周辺の工場も大被害を受けた[注釈 1][25]

日本海軍側は他社に再建造させる意向だったが、横浜船渠側の要請により、同社で再建造することが決まる[26]。旧那珂は解体の上[注釈 2]、川内型3番艦として改めて起工し、1924年(大正13年)5月24日に工事が再開された[26][27]

1925年(大正14年)3月24日、海軍大臣代理安保清種海軍次官列席のもと[26]、午後4時30分に進水した[28]。最初の起工から約3年が経過した11月30日に就役した[1][26]。その際に艦首形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。

呉鎮守府[29]となり、1925年(大正14年)12月5日、第一艦隊第三戦隊に編入された[29]。翌1926年(大正15年)12月1日には、第二艦隊第五戦隊に編入された[29]

美保関事件

[編集]

1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖の日本海で行われた夜間無灯火演習において、那珂は第五戦隊を編成した(うち第1小隊は重巡洋艦加古」「古鷹」、第2小隊は「神通」「那珂」)[30]。また那珂には観戦武官として伏見宮博義王が乗艦した[31]

夜間演習では、第一戦隊(戦艦長門」「陸奥」)、第三戦隊(軽巡「鬼怒」「阿武隈」)、第四戦隊(戦艦「金剛」「比叡」「伊勢」「日向」)、第六戦隊(軽巡「由良」「龍田」)を仮想敵にみたてて接近中[32]、戦艦伊勢および軽巡由良、龍田等から探照灯照射を受けた第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵[33]。すると2隻は後続していた第五戦隊第1小隊(「加古」「古鷹」)および第二水雷戦隊(旗艦:軽巡「夕張」)、第26駆逐隊、第27駆逐隊(「」「」「」「」)の一群に突っ込んだ[34]。神通と、第27駆逐隊2番艦の蕨が衝突(蕨は沈没)。それを避けようとして左に転舵した那珂は、衝突艦を避けようとして右に転舵していた同駆逐隊3番艦の葦の左舷後部に衝突し、両艦ともに大破した。

自力航行可能だった那珂は比叡と古鷹に護衛され舞鶴へ回航され、損傷激しい神通は重巡加古による護衛下で金剛に曳航され、葦は阿武隈に曳航されて、それぞれ帰投した[35]

のちに、事件当時の神通艦長水城圭次大佐は自決した。これを美保関事件という。修理にあたって神通の艦首は那珂と同様の形状に改められた[25]

1928年(昭和3年)12月10日、那珂は予備艦となった[36]。1929年(昭和4年)11月30日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[36]。1930年(昭和5年)12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[36]。1932年(昭和7年)2月2日、第三艦隊第三戦隊に編入[36]。同年3月20日、再び予備艦となった[36]。1933年(昭和8年)11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[36]。1934年(昭和9年)11月15日付で横須賀鎮守府に転籍となるとともに警備練習艦となった[36]

第四艦隊事件

[編集]

1935年 (昭和10年) 9月25-27日、那珂は第四艦隊事件に遭遇した。第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪白雪)、第12駆逐隊(白雲薄雲叢雲)、第7駆逐隊()、第8駆逐隊(天霧夕霧)に所属する駆逐艦群を率いて、岩手県沖の太平洋で演習を行なっていた[37]。9月25日、初雪で溺者1名が発生、那珂は「此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ」と各艦に注意した[38]

9月26日夕刻、荒天により夕霧が艦首を切断(行方不明27名)、その救援中に初雪よりSOSが発せられた(艦首切断行方不明24名)。夜が明けたのち夕霧は軽巡大井に、初雪は重巡羽黒に曳航され、青森県大湊軍港へ向かった[39]。この事件で那珂は若干の損傷を受けた[40]

1935年(昭和10年)11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[36]。1936年(昭和11年)12月1日、予備艦となった[36]。1937年(昭和12年)12月15日、第一艦隊第八戦隊に編入[36]。1938年(昭和13年)12月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された[36]

1939年(昭和14年)11月15日、第二水雷戦隊旗艦は那珂から神通に変更された[41]。那珂は新編の第四水雷戦隊に編入された。11月25日、第一水雷戦隊司令官栗田健男少将は第四水雷戦隊司令官に任命された[42]。栗田は11月29日より那珂に将旗を掲げた[43]

1941年(昭和16年)には姉妹艦の神通と共に雷装の強化が行われ、九三式酸素魚雷の発射能力を得た。

第四水雷戦隊

[編集]

1941年(昭和16年)11月26日、那珂は第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将)の旗艦となった。当時の日本は対米英蘭開戦(太平洋戦争)を決意しており、第四水雷戦隊には以下の各駆逐隊が所属していた。

だが第4駆逐隊は、東南アジア攻略を担当する南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官が率いる南方部隊本隊(旗艦愛宕)に引き抜かれる形で同部隊に所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった[44]

なお、太平洋戦争が起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は第四水雷戦隊(四水戦)から第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)へ転出[45]、その代わりに朝潮型駆逐艦4隻の第8駆逐隊(朝潮満潮大潮荒潮)および夕雲型駆逐艦を基幹とする第10駆逐隊(秋雲夕雲巻雲風雲)が四水戦に配備され那珂の指揮下に入る予定であった[46][47]

太平洋戦争緒戦では、米領フィリピン占領をめざす比島部隊第二急襲隊の一隻としてビガン攻略に参加した[48]。第四水雷戦隊の一部(那珂および駆逐艦村雨、夕立、春雨、五月雨、朝雲、夏雲、峯雲)などからなる第二急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月7日に台湾馬公より出撃した[49]。12月10日に目的地に到着し、上陸部隊は飛行場を占領した[50]。同日、アメリカ陸軍B-17爆撃機8機とP-40EおよびP-35戦闘機がビガンに来襲[51]第十号掃海艇が沈没するなど日本側の艦船に被害が生じた[52]。那珂は至近弾により死者2名負傷者7名を出した[52]。12月12日に第四水雷戦隊はビガンを離れた[53]。馬公へ戻る途中、12月13日にアメリカ潜水艦セイルフィッシュを発見し、那珂も爆雷攻撃を行った[54]

続いてリンガエン湾への上陸作戦に参加。上陸部隊を運ぶ船団は3つに別れ、それぞれ第一護衛隊から第三護衛隊が護衛する計画であった[55]。第四駆逐隊、第二十四駆逐隊および山雲を除く第四水雷戦隊は漁船5隻と共に第二護衛隊を編成した[56]。第二護衛隊は輸送船32隻を護衛して12月18日に馬公より出撃[57]。3つの部隊は途中で合流してリンガエン湾へと向かい、12月22日に船団は投錨して上陸が行われた[58]。海上では潜水艦の発見が相次ぎ、那珂、村雨、五月雨も潜水艦を探知して攻撃を行った[59]。同日、第四水雷戦隊は馬公へ向かった[60]

12月26日に比島部隊の大半は、オランダ領東インド制圧を担う蘭印部隊となり、第四駆逐隊を除く第四水雷戦隊などは西方攻略部隊の第一護衛隊を編成[61]。蘭印攻略部隊はダバオに集合予定で、那珂は1942年1月2日にダバオに到着した[62]。那珂はタラカンバリクパパン攻略に参加した。

タラカン攻略部隊は1月7日にダバオから出撃し、1月10日にタラカンに到着した[63]。1月12日にタラカンの守備隊司令官より降伏の申し出があった[64]。これを受け掃海隊が掃海作業に向かったが、第十三号掃海艇第十四号掃海艇砲台からの砲撃により撃沈された[65]。この戦闘は那珂や第二駆逐隊から目撃されていたが、敵が降伏したものと思っていたなかで起きた短時間の戦闘であったことや、機雷が敷設されている場所であったことから救援は行なえなかった[66]

続いてバリクパパン攻略が行われた。攻略部隊は1月21日にタラカンより出撃し、途中空襲で被害が出たものの1月23日に目的地に到着した[67]。24日0040分、悪天候のため浮上中であったオランダ海軍の潜水艦K XVIIIが那珂に対して魚雷4本を発射した[68][出典無効]。00時45分、那珂南西約1kmに停泊していた輸送船敦賀丸が被雷して沈没[69]。西村提督は那珂と駆逐隊および哨戒艇部隊に対しK XVIIIの追跡を命じたが、失敗に終わった。この後、那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊は泊地東海面の哨戒を実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープパロットポール・ジョーンズ)が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈している事に気付かなかった[69]。米艦隊が脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦、魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している[69]。船団は輸送船5隻沈没(敦賀丸、呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37号沈没、輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害を受けた[69]。本海戦(日本側呼称バリクパパン沖海戦、連合国軍呼称マカッサル海戦)は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的に宣伝した[68]

1月30日に那珂は第二駆逐隊(駆逐艦1隻を除く)とともにバリクパパンを離れ、2月2日にリンガエン湾に到着[70]。続いて2月8日から第48師団を乗せた船団を護衛した[71]。船団は2月13日にホロに着いた[71]

スラバヤ沖海戦

[編集]

1942年2月末、ジャワ島占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(那智、羽黒、妙高)、第二水雷戦隊(旗艦:神通)、第四水雷戦隊(旗艦:那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた[72]

2月27日、輸送艦隊はマカッサル海峡を南下してジャワ海を航行していた[73]。連合国軍のABDA艦隊はこれを迎撃すべくスラバヤを出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、カレル・ドールマン司令官は補給のため、いったん艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。基地航空隊から「敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻接近」の報告を受けた第五戦隊司令官高木武雄少将は、第五戦隊(那智、羽黒)と第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊「雪風」「時津風」「初風」「天津風」および臨時編入艦「潮」「」「山風」「江風」)、第四水雷戦隊の各隊に戦闘準備を下令した[73]。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水上偵察機が連合軍艦隊を発見し日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を若鷹に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水戦は反転していったん輸送船団護衛に戻った[73]

一方、連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転。日本艦隊も那智機の報告を受けて敵艦隊との会敵予想針路を取った[73]。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、西村司令官は船団護衛を第24駆逐隊司令と指揮下2隻(海風、夏雲)に任せると那珂と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)および第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)を率い、第五戦隊と第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった[73]

16時(1750)ごろ第四水雷戦隊は戦闘戦域に到着し、退避する神通以下第二水雷戦隊の前を突っ切って連合国軍艦隊に接近した[74]。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射、神通は四水戦の外側から魚雷4本を発射したがいずれも命中前に爆発してしまったものの、日本側は大口径砲か機雷の爆発とみて混乱する[74]。遠距離砲戦を繰返しながら時間が経過していくうち、連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、高木少将は「全軍突撃セヨ」を下令した[74]。日本艦隊は、四水戦―二水戦―第五戦隊という順番で突撃を開始[75]。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退、四水戦の子隊である第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は更に接近した[75]。第2駆逐隊は距離10000〜7500mで魚雷を発射、佐藤康夫9駆司令指揮下の第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は距離6000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった[75]。しかしドールマン少将が重巡エクセターを避退させるために英駆逐艦2隻(エレクトラエンカウンター)に攻撃を下令し、英駆逐艦2隻と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は3000mで砲戦を交えた[75][76]。第9駆逐隊(朝雲、峯雲)はエレクトラを撃沈、エンカウンターを避退させたが朝雲も損傷した[76]。この頃の戦闘海域は砲煙と煙幕と日没が重なって視界は極度に悪化、日本艦隊司令官達は輸送船団の反転と、配下駆逐隊の集結を命じた[75]。スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらに四水戦は関わっていない。

3月、第四水雷戦隊はジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。

クリスマス島攻略作戦

[編集]

3月末から4月初めにかけて那珂はクリスマス島攻略作戦に参加した。

3月15日、第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編成され、3月31日の攻略を目指した[77]。主隊/第十六戦隊(名取長良)、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊那珂、第9駆逐隊第1小隊《峯雲夏雲》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊天津風という兵力部署であった[77]

攻略作戦中の3月31日早朝、軽巡3隻(名取、長良、那珂)は水上偵察機を投入して偵察・哨戒と対地支援攻撃を行い、また那珂は艦砲射撃を行なった[78]。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する[78]。20時30分、天津風が到着して対潜哨戒に加わった[78]

日本の船団はアメリカ潜水艦サーモンに発見され、その情報は潜水艦シーウルフへと伝えられた[79]。シーウルフは3月31日に那珂に対して4本、4月1日に名取に対して3本の魚雷を発射したが、これらは命中しなかった[80]。シーウルフは4月1日には那珂に対して2度目の雷撃も行い、残っていた魚雷2本を発射して1本を命中させた[81]。 4月1日18時4分、那珂は第九駆逐隊第一小隊とともにクリスマス島北方海面を哨戒中に雷撃を受け、右舷中央部缶室に魚雷が命中[82]。 一時航行不能となり2隻(天津風、哨戒艇34号)が護衛した[82]。那珂は名取に曳航され、第九駆逐隊第一小隊と天津風の護衛でバンタム湾へ向かった[83]。途中で那珂は自力航行可能となり、4月3日昼過ぎにバンタム湾に到着した[83]

クリスマス島攻略部隊は4月3日、名取のバンタム湾到着をもって解散(那珂、夏雲、峯雲は4月2日附で除かれる)[84][85]。四水戦(那珂、夏雲、峯雲)は4月6日にバンタム湾を経ちシンガポール(日本軍占領期の呼称は「昭南島」)へ移動した[86]。4月10日着後、西村司令官は那珂を工作艦朝日に托し、第四水雷戦隊旗艦を駆逐艦夏雲に変更して内地へ向かった[87]

また艦隊の再編により第24駆逐隊(海風江風山風涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮荒潮、《大潮満潮》5月15日除籍[88])が第四水雷戦隊に編入された。那珂修理中の5月9日、軽巡洋艦由良が第四水雷戦隊に編入された[89][90]。5月20日、四水戦旗艦は夏雲から由良に変更される[91]

一方、那珂は6月3日にシンガポールを出発[92]。台湾の馬公を経由して12日に横須賀帰着[93][94]。15日附で第四水雷戦隊から除かれた[95]。6月21日、舞鶴に到着[96]舞鶴海軍工廠での修理に入った。

当時の舞鶴海軍工廠は、秋月型駆逐艦2隻(秋月初月)、夕雲型駆逐艦複数隻、島風型駆逐艦島風の建造[97]、軽巡洋艦や駆逐艦複数隻(薄雲大潮《8月13日舞鶴着》[98]不知火《9月3日舞鶴着》[99]初春《11月6日舞鶴到着》[100]。)等の修理整備工事を抱えており[96]、那珂の修理と改造もその中で行なわれた。近代化改装にあたっては、5番主砲が撤去され、5番主砲の位置には12.7cm連装高角砲1基が搭載された。小発動艇を4隻搭載、中甲板以下の舷窓を閉塞するなど、輸送作戦や対空戦闘に対応する改修を実施して、その訓練に従事する[101]1943年(昭和18年)3月31日、修理完成[102]

第十四戦隊

[編集]

1943年(昭和18年)4月1日、那珂と五十鈴の軽巡2隻で第十四戦隊が新編された[103]。ただし五十鈴は第三次ソロモン海戦等で受けた損傷を横浜で修理中だった[104]。第十四戦隊は第四艦隊に編入され、4月2日に司令官伊藤賢三少将は那珂に将旗を掲げた[105]。那珂は4月25日に空母2隻(雲鷹冲鷹)を護衛して横須賀を出発し、4月30日にトラック島に着いた[105]

敵潜水艦の跳梁等から警戒が下令されると、那珂は5月18日にヤルートへ進出し、マーシャル諸島ギルバート諸島方面への敵来襲に備えた[106]。那珂は6月18日にトラックに戻った[105]

敵潜水艦による被害増加に対し、戦艦「大和」や第十四戦隊などの水偵をパラオへ派遣して対潜掃蕩にあたらせる命令が6月21日に出された[107]。それによってパラオへ向かった那珂の搭載機は、7月4日にソロール島で故障し、使用不能となった[108]

6月22日より、第十四戦隊はトラック島からナウルへの兵員輸送を命じられた[109][110]。この輸送作戦のため、第四水雷戦隊より軽巡長良、第16駆逐隊(雪風)と第17駆逐隊(浜風谷風)、第27駆逐隊(有明:22日附で時雨と交代)が選抜され、第十四戦隊(那珂、五十鈴)と行動を共にする[109]。第一次輸送隊(那珂400名、五十鈴453名、浜風70名、谷風70名)は22日、第二次輸送隊(長良350名、雪風70名)は23日、第三次輸送隊(時雨69名、駆潜艇28号、秋葉山丸50名)は24日にそれぞれトラック泊地を出発、25日-26日-29日ナウル着、28日午前-28日午後-7月3日トラック泊地帰着という輸送任務を達成した[109][111]

続いて那珂と駆逐艦朝凪ミレ増強部隊約600名を乗せて7月17日にトラック島を出発し、ミレへ輸送した[112]

8月15日、アメリカ軍はベララベラ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いは緊迫の度合いを増した[113]。同日より五十鈴はラバウル方面に緊急輸送を実施した[113]。8月25日、那珂と高雄および第24駆逐隊(海風涼風)という戦力でラバウルへの輸送任務を実施[114]。29日にトラックへ戻った[113][115]。9月は3日から兵員輸送を担う輸送船2隻(日枝丸、富士山丸)をトラック島からクェゼリンへ護衛する[116]。さらに第7駆逐隊のが途中まで同行した[116]。7日にクェゼリンへ到着、引き続きマロエラップへの兵員輸送に従事[116][117]。12日、那珂と駆潜艇2隻、輸送船香取丸等は北緯08度23分 東経165度12分 / 北緯8.383度 東経165.200度 / 8.383; 165.200にて米潜水艦パーミットの雷撃により損傷した特務艦知床と特設航空機運搬艦富士川丸の救援に赴いた[117][118]。なお救援中にパーミットから雷撃されたが、魚雷は那珂左舷30mを通過するなどして、命中しなかった[119]。知床は香取丸に曳航されてクェゼリンへ向かい、富士川丸は自力でルオット(ロイ=ナムル島)へ向かった[118]。19日からはミレ、ウオッゼへの兵員輸送を行なった[120]

10月5日、連合艦隊司令長官は、第十四戦隊司令官伊澤少将を指揮官として陸軍第十七師団の南東方面派遣任務「丁四号輸送部隊」の編成を下令した[121]。那珂を旗艦とする部隊戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻(木曾多摩)、駆逐艦3隻(野分舞風山雲)、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった[121][122]。上海から回航された第一輸送部隊(木曾、多摩)はトラック泊地で駆逐艦卯月を合同後、ラバウルへ向かうが爆撃により木曾は損傷[123]、駆逐艦2隻(卯月、五月雨)の救援を得てラバウルへたどりついた[121][124]。23日附で軽巡2隻(木曾、多摩)は丁四号輸送部隊から除かれた[125]

第二輸送隊(那珂、五十鈴、山雲、護国丸、清澄丸)は10月11日にトラック泊地を出発し、中国大陸上海市へ向かった[121]。途中、五十鈴は被雷した給糧艦間宮の救援に向かい、艦隊から分離した(18日上海着)[126][127]。10月21日、第二輸送隊はトラックを出発[121]。10月22日、輸送船団は東シナ海で敵潜に襲撃された[128]。2隻(那珂、山雲)は爆雷攻撃を行った[129]。この米潜水艦はシャード (USS Shad, SS-235) であった。那珂右舷側に魚雷1本が命中していたが、不発だったという[130]。28日、トラック泊地へ到着する[121]

同地にて戦力の再編が行なわれ山雲は第三輸送隊(野分、舞風、日威丸、神威丸)に編入、代艦として第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(磯風浦風)が第二輸送隊へ編入され、那珂の指揮下に入った[121][131]。11月1日、第二輸送隊はトラックを出港した[132]。11月3日、第二輸送隊はカビエンの北60浬にてアメリカ第13空軍所属B-24爆撃機のべ40機[要出典]の空襲を受け、機銃掃射により那珂は十四戦隊首席参謀以下戦死7名・重傷者20名という損害を出し、ほかに特設巡洋艦清澄丸が被弾浸水して航行不能となった[133][134]

空襲後、五十鈴は清澄丸の曳航を実施、3隻(那珂、磯風、水無月《途中合流》)はその警戒と護衛にあたった[135]。4日0時40分、秋月型駆逐艦若月が合流するが、同艦は午前4時に分離してラバウルへ向かった[136]。伊澤少将は健在艦2隻(浦風、護国丸)を分離、先行してラバウルに向かわせた[121][137]

11月4日午前7時、カビエンに到着[138]ラバウルより到着した軽巡夕張を含め、各艦は清澄丸搭載物件と兵員を転載した[121]。同日、五十鈴と磯風は触雷して小破[139][140]。磯風はカビエンに残置された[141]。ラバウルへは那珂、五十鈴、夕張、水無月が向かった[121]。同日附をもって第17駆逐隊(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入され、第十四戦隊の指揮下を離れた(磯風は内地回航、浦風はラバウル残留)[142]

輸送船団は11月5日にラバウルに到着したが、ちょうどその日にラバウル空襲があり、ラバウル停泊中の重巡洋艦部隊(指揮官栗田健男中将:旗艦愛宕摩耶高雄最上筑摩阿賀野第二水雷戦隊各艦)は大損害を受けた[143]。第十四戦隊(那珂、五十鈴)は被害なく対空戦闘を実施、撃墜15機(重複含む)を記録している[144]

11月6日に第十四戦隊と護国丸はラバウルを出発し、9日にトラックへ戻り原隊へ復帰した[145][146]。改編第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸、日威丸、神威丸)は11月3日にトラック泊地を出発したもののラバウル大規模空襲やアメリカ軍潜水艦に反復攻撃された事などから、命令によりトラック泊地へ引き返した[147]。9日になり、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は輸送船日枝丸を護衛して再びラバウルへ向かった[148]

11月21日、アメリカ軍はギルバート諸島タラワ環礁へ攻撃を開始、「タラワの戦い」が始まった[149]。連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた[149]。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日にポナペ島に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した[150]。26日までに軽巡長良、第6駆逐隊()はクェゼリンに集結、第十四戦隊(那珂)の指揮下に入った[150]。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した[150]が、タラワは既にアメリカ軍により陥落させられており、逆上陸作戦は実行されなかった[151]。タラワの陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦の敗北により、日本軍はこの方面における制海権制空権も失いかけていた[152]

このような状況下、陸軍部隊の一部を各方面に転用することになり、3隻(那珂、五十鈴、雷)は28日にクェゼリン発、12月1日にミレへ到着した[151]。12月5日、アメリカ軍空母機動部隊艦載機がルオットを襲撃し、軽巡2隻(五十鈴、長良)を損傷させ、多数の輸送船を撃沈・撃破した(マーシャル諸島沖航空戦[153]。損傷艦はトラック泊地へ回航された[153]。2隻の損傷により随伴艦は雷のみとなり、2隻(那珂、雷)はポナペ島の陸軍部隊をクサイ島(コスラエ島)へ転進させる輸送作戦に従事する[151]。輸送任務終了後の10日、2隻はトラックに到着してマーシャル方面での行動を終えた[154]

12月17日、空母瑞鳳がトラック泊地に到着、同艦から基地物件を受け入れた[155]。19日にトラック泊地を出発し、22日にルオット着[155]。その後、アメリカ軍機の空襲によりサイパン輸送作戦は中止、24日にトラック泊地へ戻った[156]

沈没

[編集]

1944年(昭和19年)1月10日、第十四戦隊司令官は伊藤賢三少将から清田孝彦少将に交代した[157]松永市郎(当時は那珂通信長)によれば、那珂は内地帰投の予定だった[158]。2月16日にアメリカ潜水艦スケートの雷撃で、内地へ向け回航中の軽巡洋艦阿賀野がトラック泊地北方で航行不能となり[159]、2月17日午前1時45分に沈没した[160]。那珂は阿賀野救援の下令を受けてトラック泊地を出港したが[161]、途中で阿賀野沈没の連絡を受けてトラック泊地に引き返した[162]。なお、阿賀野の生存者は駆逐艦追風や哨戒艇に救助されている[163]

2月17日未明、アメリカ海軍第58任務部隊がトラック島を空襲した。トラックへ入泊寸前(北水道を航行中)だった那珂は空襲警報を受けて反転、外洋に出ようとした[164]。だが、既にアメリカ軍空母機動部隊に捕捉されており、午前7時に爆装の艦上攻撃機(艦攻)が約20機、9時に艦上爆撃機(艦爆)が十数機、正午に艦爆・艦攻約20機、午後2時に艦爆4機の反復攻撃を受けてしまう[159]。当時の天候は全曇でうねりが高く、アメリカ軍機は雲を利用して攻撃をかけてきたという[164]。空母バンカー・ヒルおよびカウペンス 艦載機部隊の波状攻撃を受けた[165]。魚雷1本と爆弾1発が那珂の艦中央部に命中[166]、艦前部(艦首から約50m、約1/4)を喪失した[166][167]。前部乗組員は総員退去となり、脱出者はカッターボートで那珂の後部へ移動した[167]。対空戦闘を目撃していた哨戒艇が「那珂は艦橋切断、今なお奮戦中」と打電するほどの対空戦闘を続けたが再び直撃弾を受けて浸水が進み、那珂は午後2時頃に沈没した[166]。地点北緯07度15分 東経151度15分 / 北緯7.250度 東経151.250度 / 7.250; 151.250[168]。約240人が戦死し、末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。トラック泊地北水道周辺では、空襲と米戦艦部隊の艦砲射撃により第4215船団より3隻(練習巡洋艦香取、駆逐艦舞風、特設巡洋艦赤城丸)が沈没、駆逐艦1隻(野分)のみサイパン方面へ脱出した[169]。第4215船団と同時刻に北水道を通過した第27駆逐隊(時雨春雨)は空襲により損傷しつつもパラオ方面へ脱出していった[170]

2月28日、末沢慶政大佐は那珂艦長の職務を解かれた[171]

3月4日、第十四戦隊は解隊され、清田少将(十四戦隊司令官)は横須賀鎮守府附となった[172][173]

3月31日、トラック島空襲で沈没した艦艇群(那珂、阿賀野、舞風、太刀風追風文月)等は同日附で除籍された[174]。また、川内はブーゲンビル島沖海戦、神通はコロンバンガラ島沖海戦で既に沈没しており、那珂の沈没により川内型軽巡洋艦3隻は全隻喪失、艦艇類別等級別表からも除籍された[175]

歴代艦長

[編集]

※『艦長たちの軍艦史』166-169頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長

[編集]
  1. 井上肇治 大佐:1925年4月15日 -

艦長

[編集]
  1. 井上肇治大佐:1925年11月30日 - 1926年12月1日
  2. 中村亀三郎大佐:1926年12月1日 - 1927年4月5日
  3. 三戸基介大佐:1927年4月5日 - 1927年11月1日
  4. 毛内効大佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
  5. 伴次郎大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  6. 南雲忠一大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  7. 山田定男大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  8. 山本弘毅大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  9. 園田滋大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  10. 後藤英次大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  11. 阿部嘉輔大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
  12. 醍醐忠重大佐:1935年5月25日 - 1935年11月15日
  13. 五藤存知大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  14. 阿部孝壮大佐:1936年12月1日 - 1937年8月2日
  15. 中邑元司大佐:1937年8月2日 - 1937年12月1日
  16. 河野千万城大佐:1937年12月1日 - 1938年11月15日
  17. (兼)宮里秀徳大佐:1938年11月15日 - 1938年12月15日
  18. 高間完大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
  19. 秋山輝男大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日
  20. 伊集院松治大佐:1940年10月15日 - 1941年8月11日
  21. 田原吉興大佐:1941年8月11日 -
  22. 中里隆治大佐:1942年7月10日 -
  23. 高木伴治郎大佐:1942年10月1日 -
  24. 今和泉喜次郎大佐:1943年3月25日 -
  25. 末沢慶政大佐:1944年1月7日 - 1944年2月28日[171]

戦後

[編集]

艦内神社であった大洗磯前神社には1983年(昭和58年)に忠魂碑が建てられ、那珂が戦没した2月17日には慰霊祭が開催されている[9][10]

注釈

[編集]
  1. ^ 近隣の浦賀で艤装中の軽巡阿武隈は工場の被害によって完成が約1年遅れた。
  2. ^ なお、被災炎上した船体部のうち、損傷の比較的軽微な部分は起重機船の船体として再利用され、120トン起重機船として横浜船渠でその後も長らく使用されている。
    (『三菱重工横浜製作所百年史』)

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『那珂|二等巡洋艦|(艦要目略)|横浜船渠會社|大正11-6-10|大正14-3-24|大正14-11-30|(艦装備略)』
  2. ^ a b #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.13『軽巡那珂本日(六月十四日)午前十時起工濟』
  3. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(艦船名)那珂|(起工年月日)大正十一年六月十四日|(工程百分比)約五五(以下略)』
  4. ^ 大正14年11月30日付 海軍内令 第309号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  5. ^ #日本軍艦集2600年版p.31『二等巡洋艦 那珂(なか) 基準排水量5,195噸、長さ152.4米、幅14.4米、平均吃水4.84米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正11年6月10日、進水大正14年3月24日、竣工大正14年11月30日、建造所横濱船渠會社-神通と同型。この級はいはゆる球磨級の改良型といはれる軽巡である。
  6. ^ #艦艇類別等級(昭和16年12月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|川内型|川内、神通、那珂』
  7. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.137『那珂(なか)|艦種 二等巡洋艦 球磨改良型|艦名考 川名に採る、那珂川は又中川に作る、下野國那須郡男鹿岳の頂、男鹿沼及び根室村山谷に発源し常陸に入りて海に注ぐ。(以下略)』
  8. ^ a b c #三菱、20話2頁『二等巡洋艦「那珂」を建造開始』
  9. ^ a b 軍艦那珂忠魂碑 大洗磯前神社ホームページ(2024年2月17日閲覧)
  10. ^ a b きょう巡洋艦「那珂」慰霊祭/80年節目 国防に思い/本土空襲本格化や特攻隊編成産経新聞』朝刊2024年2月17日(社会面)同日閲覧
  11. ^ #軽巡二十五隻81頁
  12. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵斎藤實 |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』
  13. ^ #達大正10年3月p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』
  14. ^ #達大正10年6月p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄鬼怒ノ下ニ、加古、那珂、川内、神通ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  15. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『川内|二等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-2-16|大正12-10-30|大正13-4-29|(艦装備略)』
  16. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『神通|二等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-8-4|大正12-12-8|大正14-7-31|(艦装備略)』
  17. ^ #軍艦加古工事に関する件p.3『大正十一年三月十七日 佐鎮司令長官宛 二等巡洋艦一隻建造ノ件取止メ』
  18. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  19. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ加古、衣笠、古鷹ヲ加ヘ同二等ノ欄加古、ヲ削ル』
  20. ^ a b #三菱、20話3-4頁『関東大震災により会社は火の海』
  21. ^ a b #三菱、20話4頁『船体のほとんどを焼失』
  22. ^ #連合艦隊第1艦隊(9)p.12『那珂ノ船体工事ハ来ル十月十日頃進水セシム可キ豫定ニテ船台上ニ盤木ヲ作リ進水用意中ナリシモ該盤木ニ延焼シタル為メ裸体トナリ船台上ニ約十度右舷ニ傾キ横掛ス船体鋲板ハ赤銅色ニ変色シ「ビーム」ト共ニ波状ヲ呈スル處多シ機関ハ主トシテ陸上ニアリ損害ハ比較的小ナリ主機械ハ完全ノ状態ニアリ』
  23. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(災害後ノ現状及災害概要)船体 盤木支柱全焼シ船台上ニ墜落シ右舷ニ約十二度傾斜ス船底局部ノ屈曲ハ全長ニ亘リ全体ノ屈曲モ約二尺ニ及ブ(以下略)』
  24. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(復旧能否ノ見込並所見)船体ハ尚詳細ナル計測ヲ為スニアラサレバ確言スル能ハザルモ復旧ノ見込ミ覺束ナキモノヽ如シ』
  25. ^ a b #日本巡洋艦物語275頁
  26. ^ a b c d #三菱、20話4-5頁『「那珂」の再建造が決まる』
  27. ^ #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.37『軍艦那珂工事豫定概括表』
  28. ^ #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.12『軍艦那珂午後四時三十分無事進水ス御届ス』
  29. ^ a b c 軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表、37ページ
  30. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.4『乙軍ノ行動(略)左翼隊タル神通那珂ハ神通艦長之ヲ率ヰ…』
  31. ^ #黒き日本海に消ゆ62頁
  32. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16』
  33. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』
  34. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.43『…当時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』
  35. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
  36. ^ a b c d e f g h i j k 軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表、38ページ
  37. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.3『航行隊形』/pp.42-45『別紙第三、主ナル被害損傷調』
  38. ^ #初雪遭難詳報(5)p.2『那珂|四水戦|1255|初雪ノ溺者ニ鑑ミ人ヲ落サザル様一層厳重ナル注意ヲナセ此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』
  39. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.5『然ルニ午後5時40分初雪ヨリ「SOS」「初雪艦首切断救助頼ム」ノ電ニ接シ夕霧ノ安全ナルヲ確メタル後初雪捜索ニ向ヒシガ夕霧救助ノ為現地ニ急行中ノ五戦隊近キニ在ルヲ以テ之ニ初雪救助ヲ依頼シ再ビ夕霧ニ近接セシモ当時風浪尚大ニシテ近寄レズ夜ヲ徹シテ之ガ監視警戒ニ任ジタリ。27日風浪稍々静マルヲ待テ初雪ハ薄雲護衛ノ下ニ羽黒ニ曳航セラレ又夕霧ハ天霧護衛ノ下ニ大井ニ曳航セラレ何レモ大湊ニ向ヘリ』
  40. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.42『那珂|一.自11番至18番各重油「タンク」海水漏入/二.前部発射甲板左舷後部隔壁亀裂(約25糎)/三.第二通舷及舷架流失/四.四番聯管八年式方位盤流失』
  41. ^ 昭和14年11月15日(水)海軍公報(部内限)第3360号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○将旗移揚 第二水雷戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ那珂ヨリ神通ニ移揚セリ』
  42. ^ 昭和14年11月25日(発令11月25日付)海軍辞令公報(部内限)第406号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077000 
  43. ^ 昭和14年11月30日(木)海軍公報(部内限)第3372号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C12070382100 『○将旗掲揚 第四水雷戰隊司令官ハ十一月二十九日将旗ヲ那珂ニ掲揚セリ』
  44. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
  45. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.3『聯合艦隊|第一艦隊|第一水雷戦隊|阿武隈、第二驅逐隊、第二十一驅逐隊、第二十四驅逐隊、第二十七驅逐隊』
  46. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.3『聯合艦隊|第二艦隊|第四水雷戦隊|那珂、第四驅逐隊、第八驅逐隊、第九驅逐隊、第十驅逐隊』
  47. ^ #昭和17年戦時編制・駆逐隊他p.1『横須賀|第四驅逐隊/嵐、萩風、野分、舞風|第八驅逐隊/朝潮、満潮、大潮、荒潮|第十驅逐隊/秋雲、夕雲、巻雲、《風雲》|第四水雷戦隊』
  48. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』208-209ページ
  49. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』209、211ページ
  50. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』211ページ
  51. ^ The Army Air Forces in World War II, Volume One, pp.215-216
  52. ^ a b 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』213ページ
  53. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』215ページ
  54. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』215ページ、『日本水雷戦史』49ページ
  55. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』255ページ
  56. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』253ページ
  57. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』260ページ
  58. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』260-262、264ページ
  59. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』266ページ
  60. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』267ページ
  61. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』92、102ページ
  62. ^ 『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』304ページ、『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』113ページ
  63. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』144-145ページ
  64. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』148ページ
  65. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』149-152ページ
  66. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』152ページ
  67. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』189、194、196、198ページ
  68. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦202-203頁「連合国海軍の状況」
  69. ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦198-201頁「敵水上部隊、わが泊地を奇襲」
  70. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』380ページ
  71. ^ a b 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』381ページ
  72. ^ Klemen, L (1999-2000). “The conquest of Java Island, March 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942. 2013年10月8日閲覧。
  73. ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦448-450頁「敵有力水上部隊出現(二月二十七日)」
  74. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦451-454頁「第一次昼戦(自一七二五 至一八五〇)」
  75. ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦455-456頁「第二次昼戦(自一八五〇 至一九五〇)」
  76. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦478頁「連合軍側の状況」
  77. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦613-614頁『クリスマス島の攻略』
  78. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦615頁「那珂被雷す」
  79. ^ 『日本軽巡戦史』221ページ
  80. ^ 『日本軽巡戦史』222ページ
  81. ^ 『日本水雷戦史』119ページ
  82. ^ a b 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』618ページ
  83. ^ a b 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』619ページ
  84. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦622頁
  85. ^ #S1703四水戦日誌(3)p.23「2日0000 4sd(那珂 1D/9dg)X攻略部隊ヨリ除カル」
  86. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.8『「バンタム」泊地ニ於テ静波丸ニ依リ損傷情況ヲ確メ應急準備ヲナシ6日2200九驅一小隊ト共ニ昭南港ニ向ケ「バンタム」泊地ヲ出港セリ途中天候ニ恵マレ大ナル支障ヲ受クルコトナク10日1530「セレター」軍港ニ入港セリ』
  87. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.9「本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ…」
  88. ^ #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年 五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  89. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.47「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  90. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.10「九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊ニ編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ」
  91. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.53「二〇(天候略)1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更、由良九駆二駆攻略部隊主隊ニ編入セラル八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入」
  92. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.13「3日1500那珂艦長→4sd/横須賀ニ向ケ昭南港発」
  93. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.10「那珂ハ12日横須賀帰着 15日附ニテ4sdヨリ除カレタリ」
  94. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.57「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  95. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.6「(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル」
  96. ^ a b #S1706舞鎮日誌p.9「(2)其ノ他ノ工事(a)損傷復舊工事 薄雲工事=豫定通進捗中ニシテ七月末完成ノ豫定/大潮工事=目下現場調査作業豫定按畫中/那珂工事=損傷復舊竝ニ改装工事ノ爲本月二十一日入港セリ (b)天龍、龍田工事=本月十五日完成/呂六三潜水艦工事=本月八日完成現地ニ向ケ出港セルモ途中主電動機電動子燃損ノ爲十日歸投セルヲ以テ換装工事中/名取工事=本月十七日入港整備工事中/三十一驅潜隊工事=本月二十七日入港直ニ工事着手セリ/神威工事=本月二十九日入港〃」
  97. ^ #S1706舞鎮日誌pp.8-9「(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ秋月、巻波及初月ノ艤装工事竝ニ島風、第三四〇號艦及第三百四十一號艦ノ建造工事ハ概ネ順當ニ進捗シツツアリシモ秋月砲熕公試ノ結果不具合ノ點アリ完成期ヲ六月十日ニ變更セル處尚俯角制限装置機構手直ヲ要スル爲更ニ六月十九日迄完成期ヲ延期セラレタル處作戰ノ関係上砲熕機能試験ヲ省略シ六月十一日引渡ノコトニ大臣ヨリ指令アリタルニ付任務ニ差支ナキ程度ニ整備ノ上十一日竣工引渡ヲ了ス」
  98. ^ #S1708舞鎮日誌p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中」
  99. ^ #S1709舞鎮日誌p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂及霞ノ特定修理、損傷復舊工事ハ前月ニ引續キ豫定通順調ニ進捗シツツアリ/不知火九月三日入港損傷調査竝修理實施準備ヲ爲シツツアリ」
  100. ^ #S1711舞鎮日誌p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞及不知火ハ概ネ豫定通進捗中/初春六日入港工事ニ着手シ中央要求ニ即應極力工事促進中」
  101. ^ #軽巡二十五隻132頁
  102. ^ #S1803舞鎮日誌(1)pp.6-7「(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中」
  103. ^ #S1804十四戦隊日誌(1)p.4『當戦隊ハ四月一日附編成内南洋部隊ニ編入セラレ四月二十五日横須賀出撃四月三十日「トラック」着警戒任務ニ就ク』
  104. ^ #S1804十四戦隊日誌(1)p.6「五十鈴ハ横浜浅野船渠ニ在リテ改造修理工事ニ従事」
  105. ^ a b c 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』310ページ
  106. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』329ページ
  107. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』344-345ページ
  108. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』345ページ
  109. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)369頁「横二特のナウル進出」
  110. ^ 日本軽巡戦史、471-472ページ
  111. ^ #S1804十四戦隊日誌(1)p.29『…25日0500「ナウル」着増援隊ヲ揚搭ス、仝地ニ於テ浜風ノ指揮ヲ解キ当隊及谷風ハ同日0945「ナウル」発28日0832「トラック」着尓後防備警戒任務ニ就ク』
  112. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』354ページ
  113. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)384頁「第十四戦隊のラバウルへの緊急輸送」
  114. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.5『海風(AdB十五日以後YBニ編入)ハ前月二十五日以降佐廠ニテ入渠修理中ノ處八月十五日完成十六日佐世保發十六日内海ニテ主力部隊ニ合同「トラック」ニ進出二十三日「トラック着司令驅逐艦トナル二十五日24dg(海風涼風)ハ14S(那珂)高雄ト共ニ「トラック」至「ラバウル」同増援部隊輸送ノ爲「トラック」出撃二十七日「ラバウル」着揚陸後即日同發二十九日「トラック」ニ歸投ス』
  115. ^ #戦隊行動調書p.14『14S|八.二五「ラバウル」方面緊急輸送(将旗14S)那珂高雄24dg(海風涼風)』
  116. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)434頁「歩兵第百二十二聯隊のマーシャル進出」
  117. ^ a b 『日本軽巡戦史』476ページ
  118. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)398頁「米潜水艦の跳梁と被雷した知床の救援」
  119. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.3『(ハ)13日0036知床ノ280度1000米ニ浮上潜水艦発見攻撃運動中0102北緯08度27.5分 東経164度37分 / 北緯8.4583度 東経164.617度 / 8.4583; 164.617ニテ左舷艦首近距離ニ雷撃2本受ケタルモ雷跡那珂左舷約三十米ヲ通過シ被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射九個効果不明、0447再ビ雷撃1ヲ受ケタルモ水面跳出被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射三個効果不明』
  120. ^ 『日本軽巡戦史』479ページ
  121. ^ a b c d e f g h i j #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)436-438頁「第十七師団の南東方面への派遣」
  122. ^ #戦隊行動調書p.14『10.5 丁四号輸送作戦(将旗14S) 14S木曾多摩栗田丸日枝丸護国丸清澄丸4dg(野分舞風)山雲』
  123. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.29『21日|0004第一次輸送隊「ニューアイルランド」島「セントヂョージ」岬沖ニテ敵機ト交戦木曽爆弾1命中』
  124. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.9『木曽ハ約十節ニテ卯月ノ護衛下ニ0315迄敵機18機ノ執拗ナル攻撃ヲ撃退、0500以後味方直衛機及五月雨ノ増援ヲ得テ1130「ラバウル」着1410火災鎮火排水…』
  125. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.10「GF電令作特第一号(GFキデ230758)ニ依リ多摩、木曽ハ丁四号輸送部隊ヨリ除カル」
  126. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)417頁『米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援』
  127. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.16「(3)五十鈴ハGF電令作第760号ニ依リ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能ノ間宮曳航ノ為12日2230分離現場ニ急行セシム」
  128. ^ #軽巡二十五隻136頁「危うくかわす魚雷三本」
  129. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.14「第二輸送隊21日0845上海発22日0213及0217ノ二回ニ亙リ雷撃2(位置北緯28度40分 東経124度10分 / 北緯28.667度 東経124.167度 / 28.667; 124.167)ヲ受ケタルモ被害ナシ、那珂山雲ヲシテ攻撃制圧セシム」
  130. ^ #軽巡二十五隻141頁(後日艦内調査で漏水箇所発見、魚雷胴体擦過時の損傷と推定)
  131. ^ #戦隊行動調書p.14「10.30 17dg(浦風磯風)指揮下ニ入ル」
  132. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.18
  133. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)pp.18-19「1129、南緯2度00分 東経151度31分 / 南緯2.000度 東経151.517度 / -2.000; 151.517ニ於テ第一次B-24型19機来襲銃爆撃、当隊之ト交戦1220第二次B-24型21機再ビ来襲、之ト交戦敵機ハ爆撃セズ1254之ヲ撃退セリ」
  134. ^ #S1804十四戦隊日誌(5)p.44「那珂(司令部ヲ含ム)戦死 准士官以上1 下士官兵6/重軽傷 准士官以上8 下士官兵12」
  135. ^ #S1804十四戦隊日誌(5)p.41『1215|磯風ハ清澄丸ノ左舷、那珂ハ右舷ヲ警戒セシム(略)1445|五十鈴ハ清澄丸ヲ曳航開始速力約七節、那珂ハ前方、磯風ハ後方警戒ニ当ラシム』
  136. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.21『当隊救難警戒ノタメ若月ヲ急派セラレ4日0040来着当隊合同セシモNTFキデ032043ニ依リ4日0420分離「ラバウル」ニ先行セシム』
  137. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.21「四日1020 十七駆(浦風)護国丸「ラバウル」着」
  138. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.21『四日0700 第十四戦隊、清澄丸(五十鈴曳航)、磯風、水無月「カビエン」泊地着』
  139. ^ #軽巡二十五隻139頁
  140. ^ #佐藤 艦長(文庫)67-68頁
  141. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)pp.22-23『1629 出港時磯風推進器附近ニ触雷 磯風清澄丸ハ「カビエン」ニ残シ那珂、五十鈴ノミヲ率ヒ1630「ラバウル」ニ向ケ「カビエン」発』
  142. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.36「11月4日1817GF電令作第786号ニ依リ17駆(浦風、磯風)ヲNTB(南東方面部隊)YBニ編入」
  143. ^ #佐藤 艦長(文庫)68-69頁
  144. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.24「戦果 撃墜15-6機(重複アルベシ) 被害ナシ」
  145. ^ #軽巡二十五隻140頁
  146. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.24『第十四戦隊及護国丸6日0430「トラック」ニ向ケ「ラバウル」発9日0015「トラック」着』
  147. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.26『第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸)及神威丸、日威丸7日1100「トラック」着』
  148. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.28『改編丁四号輸送部隊(四駆、日枝丸)NTB電令作第128号(NTBキデ081047)ニ依リ9日0430「ラバウル」ニ向ケ「トラック」発』
  149. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)477頁「タラワ増援作戦部隊の編成」
  150. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)481頁「在ポナペ甲支隊のギルバートへの増援準備」
  151. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)488-490頁「ギルバートへの増援逆上陸の中止と甲支隊及び南洋第一支隊のクサイ、ミレへの転進」
  152. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)594頁「彼我の死傷者数及びギルバート作戦の及ぼす影響」
  153. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)508-509頁「米機動部隊マーシャル来襲」
  154. ^ #戦隊行動調書p.14『11.11〜12.10「マーシャル」方面陸軍輸送』
  155. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)485頁
  156. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)485、514頁
  157. ^ 昭和19年1月10日(発令1月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1296号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095200 
  158. ^ #松永、ネイビー157頁
  159. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)623頁『那珂の戦闘状況』
  160. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.6『(リ)十六日阿賀野「トラック」発佐世保回航中一六四五北緯十度十分東経百五十一度四十分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ二本命中十七日〇一四五沈没』
  161. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.19「UNB機密第161842番電 UNB信電令第37號 一.十四戰隊司令官ハ那珂ヲ率ヰ準備出来次第出港阿賀野ノ救難ニ任ズベシ/二.第四工作部長ハ救難隊ヲ那珂ニ乗艦セシメ右救難ニ関シ十四戰隊司令官ノ指揮ヲ受ケシムベシ/三.四根司令官ハ艦艇航空機ヲシテ之ガ警戒ニ任ゼレムベシ」
  162. ^ #軽巡二十五隻142頁
  163. ^ #軽巡二十五隻337頁
  164. ^ a b #軽巡二十五隻143頁
  165. ^ #軽巡二十五隻311頁
  166. ^ a b c #軽巡二十五隻146-147頁「死闘九時間の果てに」
  167. ^ a b #名取短艇隊122頁
  168. ^ #三菱、20話5頁『その後の「那珂」の運命』
  169. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)622頁「四二一五船団の戦闘状況」
  170. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)624頁「第二十七駆逐隊の戦闘情況」
  171. ^ a b 昭和19年2月28日(発令2月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1348号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096000 
  172. ^ #戦隊行動調書p.14「14S|三.四 解隊」
  173. ^ 昭和19年3月6日(発令3月4日付)海軍辞令公報(部内限)第1356号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096400 
  174. ^ #内令昭和19年3月(5)p.41「内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝國海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎
  175. ^ #内令昭和19年3月(5)p.21『内令第四百九十九号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部中川内型ノ項ヲ、同阿賀野型ノ項中阿賀野、ヲ、同練習巡洋艦ノ項中香取、ヲ削ル|驅逐艦一等峯風型ノ項中峯風、太刀風、ヲ、同神風型ノ項中追風、ヲ、同卯月型ノ項中文月、ヲ、同初雪型ノ項中白雲、ヲ、同白露型ノ項中海風、ヲ、同不知火型ノ項中「舞風、」ヲ削ル|驅潜艇、第十四号型ノ項中第二十二号、「第四十号、」ヲ削ル』

参考文献

[編集]
  • 五十嵐邁『黒き日本海に消ゆ 海軍・美保関遭難事件』講談社、1978年11月。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7 
    • 独創と捨て身 <軽巡洋艦那珂艦長・今和泉喜次郎大佐の証言>(太平洋戦争時、第二潜水隊司令、第一潜水隊司令、那珂艦長、第十六潜水隊司令等)
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • 当時「阿賀野」通信科員・海軍一等兵曹中村卓司『損傷艦阿賀野紅蓮の炎のなかの絶叫 ブーゲンビル島沖海戦からラバウル大空襲そして被雷沈没の最後
    • 当時那珂二十四代目艦長・海軍大佐今和泉喜次郎『十四戦隊旗艦那珂ラバウルに健在なり』
    • 当時那珂二十五代目艦長・海軍大佐末沢慶政『軽巡那珂は艦橋切断今なお奮戦中 トラック大空襲下、死闘九時間の果てに沈没した鬼軽巡の最後
  • 福井静夫『日本巡洋艦物語 福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記』光人社、1992年10月。ISBN 4-7698-0610-8 
  • レオンス・ペイヤール、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945早川書房、1973年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 松永市郎「第三部 戦争参加」『思い出のネイビーブルー 私の海軍生活記』光人社NF文庫、1994年2月。 
    松永(兵68期)は重巡古鷹沈没後、第六艦隊附を経て昭和18年11月より那珂通信長。那珂沈没から生還後、軽巡名取配属となり同艦沈没から生還。空母葛城通信長。
  • 松永市郎『先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり』光人社NF文庫、2009年7月(原著1984年)。 
  • 横浜製作所100年史編さん委員会『三菱重工横浜製作所百年史』三菱重工業株式会社横浜製作所、1992年。
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所「第1話 二等巡洋艦「那珂」」『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。 
  • 吉村昭『空白の戦記』新潮社、1981年4月(原著1970年)。ISBN 978-4-10-111709-6 
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X
    36-38ページ、伊達久「軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表」
  • The Army Air Forces in World War II, Volume One: Plans and Early Operations, January 1939 to August 1942
  • 官報
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。 
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月。 
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。 
    • 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)防衛省防衛研究所
    • Ref.C08051772000『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。 
    • Ref.C08051365100『川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(3)』。 
    • Ref.C08051365200『川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(4)』。 
    • Ref.C08050999800『大正12年公文備考 変災災害付属巻5/東京海軍監督報告(1)』。 
    • Ref.C08051006800『大正12年公文備考 変災災害付属巻8/連合艦隊第1艦隊(9)』。 
    • Ref.C04015668100『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)』。 
    • Ref.C04015668200『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(2)』。 
    • Ref.C04015668300『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(3)』。 
    • Ref.C04015668400『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(4)』。 
    • Ref.C04015668500『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(5)』。 
    • Ref.C04015668600『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(6)』。 
    • Ref.C04015668700『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(7)』。 
    • Ref.C05034650000『赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(1)』。 
    • Ref.C05034650100『赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(2)』。 
    • Ref.C05034650200『赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(3)』。 
    • Ref.C05034651200『11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(1)』。 
    • Ref.C05034651200『11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(2)』。 
    • Ref.C05034651200『11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(3)』。 
    • Ref.C05034651200『11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(4)』。 
    • Ref.C05034651200『11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(5)』。 
    • Ref.C13071974300『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。 
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3』。 
    • Ref.C14121196200『昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度帝国海軍戦時編制/附表』。 
    • Ref.C14121196500『昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度戦時駆逐隊・潜水隊・水雷隊・掃海隊・驅潛隊・通信隊・航空隊編制予定表 昭和17年度警備隊・防備隊附属艦艇及防備機関編制予定表 昭和17年度戦時艦船飛行機搭載予定表/第1表~第9表』。 
    • Ref.C08030041200『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌第3戦隊(3)』。 
    • Ref.C08030080200『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030080300『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030110700『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030111600『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030111700『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030111800『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030111900『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030112000『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C08030112300『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030112400『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030112500『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030100600『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030101100『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030653900『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(1)』。 
    • Ref.C08030654000『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(2)』。 
    • Ref.C08030654100『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(3)』。 
    • Ref.C08030654200『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(4)』。 
    • Ref.C08030052200『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030052300『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030052400『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030052500『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030052600『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030050000『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030050100『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030050200『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030354300『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030354400『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030354500『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030354600『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030354700『昭和17年9月1日~昭和17年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030354800『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030354900『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030355700『昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030355800『昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030355900『昭和18年4月1日~昭和18年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C04015099400『軍艦加古工事に関する件』。 
    • Ref.C12070064400『大正1年達完/達大正1年8月』。 
    • Ref.C12070078400『大正10年 達完/達大正10年3月』。 
    • Ref.C12070078900『大正10年 達完/達大正10年6月』。 
    • Ref.C12070081000『大正11年 達完/達大正11年10月』。 
    • Ref.C12070106900『昭和15年1月~12月達/昭和15年4月(1)』。 
    • Ref.C12070162800『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。 
    • Ref.C12070196900『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]