第34回衆議院議員総選挙
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第34回衆議院議員総選挙(だい34かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1976年(昭和51年)12月5日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。
概説
戦後初の衆議院議員の任期4年満了に伴う総選挙で、現在に至るまで日本国憲法の下での[1]唯一の任期満了による(解散を伴わない)総選挙でもある。また、各新聞ではロッキード選挙という呼び方が広く使われた。
前回の第33回衆院選は、1972年、田中内閣によって行われた。その後田中角栄首相は金脈問題の政局化を受けて1974年12月に退陣し、1975年からはロッキード事件への田中関与の疑いが表面化した。田中を継いだ三木武夫首相はロッキード事件追及への積極姿勢を示し、田中派のみならずそのライバル福田派も含めた自民党内の大多数から反発を受けた(三木おろし)。
1976年7月27日の田中逮捕の前後には法務大臣の稲葉修(主流派である中曽根派)が軽口を叩いて積極姿勢を見せたため、三木に加えて稲葉に対する田中派の感情的反発も生じた。三木は衆議院解散・総選挙を経ることによる党内指導力回復を画策したが、その意図を封じるため党内は解散阻止の声に満ち、遂に三木は首相が持つ衆議院解散権を封じられたまま衆議院の任期満了を迎えた。
なお、田中内閣は1974年に衆議院での小選挙区比例代表並立制導入を含む公職選挙法改正案(定数520、小選挙区310+都道府県比例代表210)を提出したが、以前に小選挙区制法案を提出した鳩山一郎と同様、自派に有利な選挙区割りを行いカクマンダーという批判を浴びて断念した。その結果、この総選挙も従来通り中選挙区制で行われた。また、大都市部での有権者増加に伴い、定数是正が行われ、総数は491から511へと20議席増加した。
選挙データ
内閣
任期満了日
選挙名
公示日
投票日
改選数
- 511( 20)
選挙制度
- 投票方法
-
- 秘密投票、単記投票、1票制
- 選挙権
-
- 満20歳以上の日本国民
- 被選挙権
-
- 満25歳以上の日本国民
- 有権者数
-
- 77,926,588(男性:37,724,016 女性:40,202,572)
同日実施の選挙等
- 国民投票
選挙活動
党派別立候補者数
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党派 | 候補者数 | 男性 | 女性 | 公示前 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
計 | 新 | 前 | 元 | ||||
自由民主党 | 320 | 265 | |||||
日本社会党 | 162 | 112 | |||||
公明党 | 84 | 30 | |||||
日本共産党 | 128 | 39 | |||||
民社党 | 51 | 19 | |||||
新自由クラブ | 25 | 5 | |||||
諸派 | 17 | 0 | |||||
無所属 | 112 | 4 | |||||
計 | 899 | 474 | |||||
出典:『朝日選挙大観』 |
選挙結果
自民党は反三木派の力が強く、党内が事実上分裂した選挙戦になった。結果、政治腐敗への批判を受けた自民党は敗北し、1955年の結党以来初めて、公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割った。実際には保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保したが、選挙敗北の責任を取って辞任した三木を継いだ福田赳夫内閣は、1940年代以来の「与野党伯仲国会」の運営を迫られる事になった。
野党では社会党の議席が増加したが、定数増とロッキード事件の追い風を考えると党内に勝利感はなく、全野党共闘路線を志向する成田委員長と社公民路線の江田副委員長の間での党内対立が激化した。この選挙で江田は落選し、その後社会党を離党して社会市民連合への道を歩んだ。
言論出版妨害事件の影響を受けた前回総選挙で党史上初の大敗を喫した公明党は躍進し、1955年以降では自民・社会両党以外で初めて、予算案の組み替え動議を単独で提出できる51議席を突破した。民社党も前回総選挙の敗北からほぼ回復した。
共産党は逆に敗北し、議席数は前々回並みの水準に戻された。共産党は前回総選挙での躍進で自らが主張する民主連合政権の到来が近づいたと評価したが、社会党に対する共闘拡大の呼びかけはかえって反発を呼び、自共対決への警戒感で保守層の反共意識が目覚めた事、前回はブームに乗って取り込めた反自民の浮動票が新自由クラブに流れた事等が大きく響いた。他の理由として、日本共産党スパイ査問事件が、この年に発行された「日本共産党の研究」や国会などで取り上げられたことが挙げられる。
この総選挙での勝者は新自由クラブだった。1976年6月に河野らが自民党の政治腐敗体質を批判して離党・結成したこの党は、総選挙前には衆議院議員が5人だったが、清新な保守党のイメージが有権者に強く支持され、改選議席数の3倍を超える当選者を出した。特に首都圏では圧勝で、河野や田川がいる神奈川県では全5選挙区で公認候補が当選した。
なお共産党の敗北に影響され、この選挙での女性当選者は6人にとどまった[2]。これは1946年の第22回衆議院議員総選挙で女性参政権が認められて39人が当選して以来、議員数・議席比率(1.2%)ともに最低で、この記録はその後も破られていない[3]。
党派別獲得議席
党派 | 獲得 議席 |
増減 | 得票数 | 得票率 | 公示前 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
与党計 | 249 | 16 | 23,653,626 | 41.78% | 265 | ||
自由民主党 | 249 | 16 | 23,653,626 | 41.78% | 265 | ||
野党・無所属計 | 262 | 53 | 32,959,139 | 58.22% | 209 | ||
日本社会党 | 123 | 11 | 11,713,009 | 20.69% | 112 | ||
公明党 | 55 | 25 | 6,177,300 | 10.91% | 30 | ||
民社党 | 29 | 10 | 3,554,076 | 6.28% | 19 | ||
日本共産党 | 17 | 22 | 5,878,192 | 10.38% | 39 | ||
新自由クラブ | 17 | 12 | 2,363,985 | 4.18% | 5 | ||
諸派 | 0 | 45,114 | 0.08% | 0 | |||
無所属 | 21 | 17 | 3,227,463 | 5.70% | 4 | ||
欠員 | 0 | 17 | - | - | 17 | ||
総計 | 511 | 20 | 56,612,765 | 100.0% | 491 | ||
有効投票数(有効率) | - | - | 56,612,765 | 98.91% | - | ||
無効票・白票数(無効率) | - | - | 623,857 | 1.09% | - | ||
投票者数(投票率) | - | - | 57,236,622 | 73.45% | - | ||
棄権者数(棄権率) | - | - | 20,689,966 | 26.55% | - | ||
有権者数 | - | - | 77,926,588 | 100.0% | - | ||
出典:総務省統計局 |
- 投票率:73.45%(前回比: 1.69%)
- 【男性:72.81%(前回比: 1.80%) 女性:74.05%(前回比: 1.59%)】
党派別女性獲得議席
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政党
|
| |
議員
当選者
自民党 社会党 公明党 民社党 共産党 新自由クラブ 無所属
補欠当選等
年 | 月日 | 選挙区 | 選出 | 当選者 | 所属党派 | 欠員 | 所属党派 | 欠員事由 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 12 | 千葉3区 | 繰上 | 千葉千代世 | 社会党 | 水田三喜男 | 自民党 | 1976.12.22死去 |
1977 | 1 | 愛知4区 | 繰上 | 稲垣実男 | 自民党 | 浦野幸男 | 自民党 | 1977.1.16死去 |
1979 | 1.14 | 京都2区 | 補欠 | 谷垣専一 | 自民党 | 山田芳治 | 社会党 | 辞職[注釈 2] |
玉置一弥 | 民社党 | 玉置一徳 | 民社党 | 1978.11.26死去 | ||||
出典:戦後の補欠選挙 |
初当選
- 計123名
- ※:参議院議員経験者
- 自由民主党
-
- 33名
- 日本社会党
-
- 28名
- 公明党
-
- 20名
- 民社党
-
- 11名
- 日本共産党
-
- 3名
- 新自由クラブ
-
- 12名
- 無所属
-
- 16名
返り咲き・復帰
- 計46名
- 自由民主党
-
- 19名
- 日本社会党
-
- 12名
- 公明党
-
- 10名
- 民社党
-
- 3名
- 無所属
-
- 2名
引退
- 計34名
- 自由民主党
-
- 21名
- 日本社会党
-
- 9名
- 公明党
-
- 2名
- 民社党
-
- 2名
落選
- 計99名
- 自由民主党
-
- 49名
- 日本社会党
-
- 21名
- 松浦利尚 (宮崎1)
- 公明党
-
- 2名
- 民社党
-
- 2名
- 日本共産党
-
- 24名
- 無所属
-
- 1名
- 佐藤孝行(北海道3)
選挙後
国会
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政党
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脚注
注釈
出典
- ^ 大日本帝国憲法下では。第7回(1902年)、第10回(1908年)、第11回(1912年)、第21回(1942年)が任期満了に伴う総選挙である。
- ^ 内訳は自民党1人(山口シズエ)、社会党2人(土井たか子、金子みつ)、共産党2人(小林政子、藤原ひろ子)、無所属1人(田中美智子=「革新共同」として共産党と統一院内会派)。
- ^ “(2) 女性議員数の推移、「平成13年度女性の政策・方針決定参画状況調べ」内”. 内閣府男女共同参画局. 2018年5月20日閲覧。
関連項目
参考文献
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年
- 石川真澄・山口二郎著『戦後政治史』岩波新書、2010年
- 神田広樹 (2014年6月). “戦後主要政党の変遷と国会内勢力の推移” (PDF). 国立国会図書館. 2019年10月閲覧。
- 佐藤令 (2005年12月). “戦後の補欠選挙” (PDF). 国立国会図書館. 2016年5月26日閲覧。
外部リンク
- 総務省統計局
- 衆院選 自民党初の単独過半数割れ - NHKアーカイブス