西銘順治
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にしめ じゅんじ
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| 生年月日 | 1921年11月5日 |
| 出生地 | 沖縄県南城市 |
| 没年月日 | 2001年11月10日(満80歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学 (現・東京大学) |
| 所属政党 | (沖縄社会大衆党→) (沖縄自由民主党→) (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
| 称号 | 沖縄県那覇市名誉市民 沖縄県南城市名誉市民 沖縄県与那国町名誉町民 |
| 親族 | 長男・西銘順志郎 三男・西銘恒三郎 |
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| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1978年12月10日 - 1990年12月9日 |
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| 選挙区 | 沖縄県全県区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 1993年7月19日 - 1996年9月27日 |
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| 選挙区 | 沖縄県全県区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1970年11月16日 - 1978年11月9日 |
西銘 順治(にしめ じゅんじ、1921年11月5日 - 2001年11月10日)は、外務省及び琉球政府の官僚で、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄自由民主党総裁。
那覇市長や衆議院議員を歴任し、1978年から1990年まで沖縄県知事を務めた。沖縄県島尻郡知念村(現在の南城市)出身。那覇名誉市民、知念名誉村民、与那国名誉町民。
目次 |
[編集] 経歴
大正10年(1921年)11月5日生まれ。小学生のときに一時、南洋庁のパラオに在住した。昭和23年(1948年)に東京帝国大学法学部を卒業、外務省に入省したが退官し沖縄に戻って沖縄ヘラルドや沖縄朝日新聞の社長に就任した。
1950年の沖縄社会大衆党結党に参加、1954年には社大党公認で立法院議員に当選する。その後比嘉秀平琉球政府行政主席と共に社大党を脱党し、琉球政府経済局長や計画局長を歴任。1962年に沖縄自由民主党の支援を得て那覇市長に当選、2期務める。この間キャラウェイ旋風をめぐって沖縄自民党を離党するものの、その後再合同し1968年に沖縄自民党総裁。同年に行われた行政主席選挙に早期の本土復帰には慎重な立場で立候補したが、早期復帰を公約した革新系が支援する屋良朝苗候補に敗れた。なお、この選挙では、日米両政府が保守系である西銘の当選のために動いていたことが2010年末に公開された外交文書により判明している[1][2]。
1970年の沖縄国政参加選挙に自民党公認で出馬、衆議院議員に当選する。3期目途中の昭和53年(1978年)の沖縄県知事選挙に自民党・民社党推薦で出馬。革新系の推す知花英夫を破って当選し、県政を保守の手に取り戻した。在任中は(それまでの革新県政下で行われなかった)自衛隊の募集を県庁で始め、公共事業を積極的に導入。沖縄県立芸術大学の設置など多くの事業を成し遂げた。
平成2年(1990年)の県知事選挙で4選を目指すものの、大田昌秀に敗れる。その後平成5年(1993年)に衆議院議員に復帰し、平成8年(1996年)まで在任。懐の深い人物で、その政治力は高く評価された。「復帰後初の大臣」とも期待され、沖縄開発庁・経済企画庁の政務次官を歴任したが、念願の大臣就任は実現しなかった。
[編集] 人物
沖縄県知事在任中の1985年、朝日新聞の取材で「沖縄の心とは」と問われ、「ヤマトゥーンチュ(大和人)になりたくて、なり切れない心だろう」と答えた。日本本土に対する沖縄県民の複雑な感情を表現した言葉として、その後しばしば引用される発言である。
[編集] 家族
[編集] 出典
- ^ 日米、琉球主席公選で裏工作 沖縄返還前の68年 琉球新報2010年12月22日
- ^ 琉球主席公選で裏工作 日米、自前候補の当選狙う 沖縄タイムス2010年12月22日
[編集] 関連項目
| 官職 | ||
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| 先代: 平良幸市 |
本土復帰後第3代:1978 - 1990 |
次代: 大田昌秀 |
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