本多勝一
ほんだ かついち 本多 勝一 | |
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生誕 |
1932年1月28日(92歳) 日本 長野県 |
出身校 | 千葉大学薬学部 |
職業 | ジャーナリスト |
本多 勝一(ほんだ かついち、1932年[1]1月28日 - )は、日本のジャーナリストである。
人物
青少年時代
長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる。少年時代は自然に親しむ一方、漫画を描くことを趣味にしていた。第二次世界大戦中、日本軍が秘密兵器でアメリカ合衆国本土に上陸する漫画を描いていたが、その途中で日本が降伏してしまったという。手塚治虫を師と仰ぎ、手紙を出したこともある。現在でも手塚作品を宮崎駿のアニメと並んで高く評価している。
1950年(昭和25年)3月、長野県飯田高等学校卒業。高校在学中は京都大学の木原均にあこがれて生物学を志すも結局進学できず1954年(昭和29年)3月に千葉大学薬学部を卒業し薬剤師免許取得後、1954年4月に京都大学に進学したとされる。京都大学では山岳部に所属し、のち探検部の創設にかかわったとされている。探検部時代にヒマラヤ山脈からヒンドゥークシュ山脈奥地にかけての合同調査隊に加わり、その体験をまとめて初の著書となる『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』を刊行した(1958年、角川書店)。京大探検部を朝日新聞社が援助したところから朝日新聞と縁が生じ、同年10月、京都大学を卒業できず朝日新聞東京本社校閲部に途中入社。推薦人は朝日新聞社主上野精一だった。同期に筑紫哲也がいる。
『朝日新聞』記者時代
ルポルタージュ活動
1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)まで朝日新聞北海道支社に勤務した後東京本社に転じ、短期間とはいえ現地で実際に生活を共にした上で取材した人類学系の探検ルポ三部作(『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』)により全国的に高い評価を得た。この時期の専門分野は自然や探検を主題とする文化人類学的なルポルタージュであり、北海道支社時代の記事をまとめた『きたぐにの動物たち』もその一つである。
本多はスター記者としての高い評価を背景に、日本の一般市民にとってアクセスが困難という意味では探検の要素をもつものの、実質的な面においては社会派報道となる分野へと進出した。その最初のものとなるのが1967年(昭和42年)5月から11月にかけて朝日新聞の朝夕刊に6部に分けて連載されたベトナム戦争ルポ「戦争と民衆」であった。この連載はその後1968年(昭和43年)に『戦場の村-ベトナム-戦争と民衆』としてまとめられて刊行され、同年の毎日出版文化賞を受賞している。この路線の延長で特に有名なのは、中国で取材した旧日本軍についての連載記事(その中の1章が南京事件についての記事)を再編集した『中国の旅』で、これは連載当時から大きな反響を呼んだが、これ以後、本多への評価は極端に分かれていくことになった。
「日本語」への関心
日本語に対する関心も深く、『日本語の作文技術』『実戦・日本語の作文技術』では、読点の打ち方や一つの被修飾部に複数の修飾部を必要とする場合の並べ方といった、分かりやすい日本語を書くための文章の書き方を明確にルールとして提唱している。また、独自の観点からアメリカ合衆国を「アメリカ合州国」と呼ぶこと、また第二次世界大戦後占領軍によって強制され定着した方法から日本語として合理的な、桁数の多い数字の4桁区切り表記へ戻ることを主張している。
また、日本において標準語が偏重され方言が軽んじられていることを批判している。一方で、普通語(標準語)以外の地方語が徹底的に弾圧されていた文化大革命期の中国を「共通語と方言(または少数民族言語)との間に階級差別のない関係」を実現したとして賞賛する発言[2]も残している。
なお、本多は大江健三郎の辛辣な批判者として知られるが、その文章にも厳しい批判を加え、「悪文」の典型として指弾している。
野球に対する嫌悪
スポーツでは野球嫌いで知られている。朝日新聞社では新人は必ずやらされるという高校野球の取材も、「野球は嫌いだ。甲子園は愚劣だ」と言い続けたため、ついにその機会は無かったという。新渡戸稲造の『野球と其害毒』(『東京朝日新聞』連載)の後を承け、『貧困なる精神』のすずさわ書店版第21集は『新版「野球とその害毒」』のサブタイトルで、野球害毒論を説いた。また、本多は野球の守備位置による運動量の差(投手が圧倒的に多い)などを挙げ、「野球は二流スポーツ」と断じている。また、高校野球の過密スケジュールによる選手の酷使についても取り上げている。
プロ野球も嫌悪しており、特に江川事件などを理由にアンチ巨人、親会社(コクド[3])を理由にアンチ西武である。また、広島ファンの筑紫哲也が巨人の金満補強を嘆いて『週刊金曜日』に「野球自体への興味が薄れつつある」と書く[4]と、本多は「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ」と皮肉めいた感想を返した[5]。
『週刊金曜日』創刊以降
朝日新聞社を退職後、1993年(平成5年)に筑紫哲也、久野収らと週刊誌『週刊金曜日』を創刊し、現在同誌の編集委員を務めている。著書は朝日新聞時代から退職後に至るまで多数。代表的作品としては『貧困なる精神シリーズ』が知られている。
1994年(平成6年)、雑誌『噂の眞相』に木村愛二が「ホロコースト」の内容には再検証の余地があり、「ホロコースト」はイスラエル建国と関わりがあった可能性があると論じた記事「『シンドラーのリスト』が訴えたホロコースト神話への大疑惑」(同誌1994年9月号)を発表。以前から木村と交友があった本多は、木村の問題提起に関心を抱き、木村に『週刊金曜日』誌上で「ホロコースト」を見直す視点からの連載開始を要請した(この連載依頼のファックスは、木村によって公開されている)。しかし、1995年1月にマルコポーロ事件が起きると、『週刊金曜日』誌上で木村を批判、攻撃するキャンペーンを開始した事から、木村から名誉棄損で提訴された(この訴訟は、木村側の実質敗訴で終わっている)。
2002年(平成14年)、以前週刊金曜日の編集者だった山中登志子(『買ってはいけない』の著者の一人でもある)に請われて、「独断と偏見を無責任に編集すること」を唱う『月刊あれこれ』創刊編集長に就任した(2003年3月創刊)。本多自身も恋愛を話題にした記事を執筆するなどした[要出典]。『月刊あれこれ』は同年中に休刊し、メールマガジンの形で続刊を出した(月3回発行)。しかしこれも、2008年8月29日号を最後に休刊している。
現役の記者として有名になったときから、公式写真での姿を含めた公の場ではぼさぼさの黒髪(後に白髪)のカツラにサングラスを着けた変装をしている。彼自身の説明では、極右からの襲撃をかわす目的であった(「相手は自分の顔を知っているが、自分は相手の顔を知らない」という状態を避けるため)。また、記者として顔と名前が広く知られてしまうと対面した人が最初から記者だと分かってしまうので、素顔を隠すことは取材に際しても有益である、ともしている[要出典]。変装については、小林よしのりが、本多が執筆依頼に訪れた際に自身の変装について語った様子を漫画『ゴーマニズム宣言』で描いたことで、広く知られるようになった。漫画では、普通の眼鏡をかけ黒髪が後退した穏やかそうな初老の男性として描かれているが、小林は「そっくりに描くことは避けた」と注釈している。
本多と敵対する論客のなかには長野県長野市(本多の言葉を借りれば『信濃国善光寺平の連中』)出身者がおり、代表的な人物としては日垣隆・花岡信昭・兵頭二十八があげられる。
生年月日について
本多の生まれは長野県下伊那郡大島村上新井であるが、生年は著書によって1931年(昭和6年)、1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版(1972年、朝日新聞社)によると1931年であり、同書文庫版(1981年、朝日新聞社)によると1933年であり、『殺される側の論理』(1982年、朝日新聞社)によると1932年であるという。生年月日を記した唯一の資料『現代日本人名録98』によると、1932年1月28日生まれだが戸籍上は1931年11月22日生まれであるという。ただし殿岡昭郎『体験的本多勝一論』(2003年、日新報道)によると、1987年3月3日、京都地裁で開かれたベトナム僧尼団焼身自殺をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「1933年4月28日生まれである可能性がある」と発言しており、生年月日は未だに明らかでない。『しんぶん赤旗』では1931年生まれと自ら語っている[6]。
肯定的評価
言葉に対する意識
日本語の数詞呼称に基づいたアラビア数字表記の区切り方の提唱、日本人の英語表記・発声についても姓→名の順にすべきとの主張(他のアジア諸国人については欧米でも姓→名の順にされている。日本のみの特有の表記)、英語をイギリス語、後にはアングル語と呼称する案など、日本に浸透したアングロサクソン系文化の相対化を意図した問題提起を行なっている。英語が世界共通語とされる事への反発があり、自著の冒頭にも、そうした独特の表記ルールを一覧表として掲げている。また、鉄道車内の英語案内放送について、「日本語の地名は、英語風のアクセントやイントネーションではなく、きちんと日本語で発音されるべき」との苦情をも表明してもいる。本多が日本語に抱くこのような問題意識は、左派寄りの論者には世界における民族・国家の対等・平等を目指すものとして歓迎され、右派寄りの論者からも、民族主義的表現として支持されている。これらの主張は、自著『殺す側の論理』『殺される側の論理』にまとめられている。本多の政治的な性向には、第二次世界大戦で敗北して以来の日本の対米従属に反発する反米ナショナリストの色合いが強い。この点は、民族・国家間の支配・被支配関係を嫌う左寄りの思想陣営と、自らの民族に価値観の重心を置く右寄りの思想陣営両方に受け入れられている。常に戦争被害者の側に立つ弱者擁護の立場から、イデオロギーを越えて共感する声も存在している。
少数民族関係
- 極北の民族カナダエスキモー(イヌイット)の民族性を報告した。
- 石器民族として差別的に扱われていたニューギニア高地人の生活を詳細に報告し、差別観の撤廃に努めた。
- 砂漠の民アラビア遊牧民の特徴在る生活を訪れ、彼らと1ヶ月以上生活を共にした。
- 1960年代末に、当時の日本ではあまり知られていなかった、米国におけるアフリカ系米国人(いわゆる黒人)やアメリカ先住民(いわゆるインディアン)に対する差別の実態を取材し、広く知らしめた。
- マイノリティーとして無視されがちな少数民族アイヌ民族への関心を高めた。
- 『マゼランが来た』では、世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼランに「来られた側」からの視点によるルポルタージュを著している。
ベトナム戦争について
- 著書『戦場の村』で、世界的にもカメラマン以外のジャーナリストがほとんど赴かなかったベトナム戦争の最前線を取材。ベトナム戦争下のサイゴンの一般家庭に入り込み、戦争の悲惨さを身をもって体験し、それをルポルタージュした。
- 当時、謎の組織とされていた南ベトナム解放民族戦線を世界のジャーナリストの中で初めて取材した。
- 『戦場の村』に始まる彼の一連のベトナム戦争ルポ(『北爆の下』『北ベトナム』『ベンハイ河を越えて』『再訪・戦場の村』)は世界各国で翻訳され、ベトナム反戦運動にも大きな影響を与えた。
- 『ベトナムはどうなっているのか?』で、南北統一後のベトナム社会主義共和国の問題点についても取材している。
中国大陸での日本軍について
- 1970年代に『中国の旅』(及びその写真集版『中国の日本軍』)で、日中戦争から太平洋戦争の時期の、中国大陸で日本軍が行ったとされる行為(平頂山事件・七三一部隊・南京事件・三光作戦)を報道した。
- 同様の問題の裏づけとして、長沼節夫との共著『天皇の軍隊』において、日本軍側からの視点によるルポルタージュも著している。
- 1980年代には『南京への道』でさらに深く「南京事件」の問題を追求。この問題については共著も多く著している。
- 度重なる南京事件否定論者からの批判にも、公開書簡を何度も送付するなど徹底した反論を行なっている。
- 「南京大虐殺」の「ニセ被害者」とされた李秀英の名誉回復を進めた。展転社#李秀英名誉毀損裁判の記事を参照。
- 家永教科書裁判でも原告(家永)側証人として証言している。
- 中国における本多の評価は高く、抗日戦争祈念博物館には「日本人の中にはこのように物の分かる人物がいる」と紹介され、著書が丁寧に展示されている。
- アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』については、記述に多数の誤りがあるとして批判し、日本語版の出版を巡り訂正などを訴えた。
- しかし、上記の本多の発言や評論については依然批判が数多くあり、2010年2月24日には石原慎太郎東京都知事が、河村たかし名古屋市長の南京大虐殺否定発言を擁護する文脈で「昔本多勝一っていう馬鹿がいて」と本多を厳しく批判している。
クメール・ルージュについて
- ポル・ポト政権時代のベトナム・カンボジア国境を取材して『カンボジアはどうなっているのか?』を著し、ポト政権崩壊後すぐにカンボジア国内を取材し『カンボジアの旅』を発表して、カンボジア大虐殺をおこなったクメール・ルージュの残酷さを世界に報告した。
反米・反体制姿勢について
これについては同調者は次のように見ている。
- 反米保守など現れる以前から、一貫してアメリカ合衆国の覇権主義に批判的である。その点では、一度もぶれる事なく、現代の中東状況にも通じている。
- 軍縮・反核運動を積極的に支持し、軍備拡張を謳うタカ派を批判。彼らに妥協したり協力したりする文化人にも厳しい。
- 一貫して反体制側からの報道姿勢である。
登山・探検・冒険について
- 登山についての実地体験の本を数々手がけている。
- 自らの体験もあり、登山家については、未踏峰に挑んだ長谷川恒男などに好意的であるが、親交のあった植村直己については、商業路線に飲み込まれていく点について存命中の対談時から手厳しい評価を下している。植村については、武田文男との共同編集による『植村直己の冒険を考える』(文庫版題名は『植村直己の冒険』)を著している。
- 堀江謙一が単独太平洋横断を成し遂げた時、日本国内では堀江の「密出国」をとがめる声が多かったが、「冒険家精神」を訴え、堀江を擁護した。石原慎太郎による週刊プレイボーイ誌上での堀江に対するペテン師評価に対しては激しく反論した。
- また、記録映画監督の斉藤実、報道写真家の石川文洋、プロ・スキーヤーの三浦雄一郎を冒険家として高く評価している。
- 南極点初到達を争った探検家のロアール・アムンセンとロバート・スコットに関する著書『アムンセンとスコット』を著し、その中でアムンセンの探検家としての資質を高く評価している。
その他
- 北海道に特別の愛着を持ち、僻地と揶揄されかねないところまで、実際に足を運び、ルポルタージュしている。
- 少年・少女向けの作文指導をしている。
- 教育問題(『子供たちの復讐』)、環境問題(『日本環境報告』)など様々なジャンルのルポルタージュを手がけている。
- 太平洋戦争に関しては、アジアに対しては日本の侵略戦争、英米に対しては帝国主義国家間の覇権争いの戦争だったととらえている。
- 1980年代末期から1990年代初期の東西冷戦崩壊期には東ドイツやソビエト連邦を取材し、ルポルタージュしている。
批判
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
中国関連
1970年代初頭、朝日新聞社内に広岡知男社長や森恭三論説主幹の指導によって安保調査会が結成され、反米親中を旨とする編集方針が定まると共に思想的転回を遂げたとされる。『WiLL』2006年8月号p.71によると、この時期の本多は任錫均という朝鮮系の左翼理論家から多大な影響を受けたという(この件に関して、本多自身はいくつかの著書で「被害」と言っている)。
『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が百人斬り競争を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こされた。 2005年8月24日東京地裁は、『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である[7]とし、また「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを指摘した場合」(109頁)が死者に対する名誉毀損の判断基準であるとして、その上で、本多勝一の著述が「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない[8]」と判断して、60年余り前の記事を訂正しなかったことについて先行する違法行為がなく、また、民法724条の除斥期間が経過している[9]として原告の請求を棄却した。原告は控訴したが、2006年5月24日東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は最高裁判所に上告したが、2006年12月22日最高裁は上告を棄却した。なお秦郁彦が、犯人とされる旧日本陸軍大尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で100人斬りの捕虜殺害を自ら公言していたと、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。
著書に載せた写真とキャプションについて
著書『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけて写真を掲載。しかしこの写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。この写真は南京大虐殺記念館でも長い間、日本の残虐行為の写真として展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている[10]。また、『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけて写真を掲載。しかしこの写真は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という日本側が撮った写真であったことが示されている[11]。
カンボジアについてのルポルタージュへの批判
本多はカンボジアのクメール・ルージュに対して批判的な報道をしたニューヨーク・タイムズ紙のシドニー・シャンバーグ記者の記事(後にピューリッツァー賞受賞。映画『キリング・フィールド』も参照)を「欧米人記者の眼による救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない欧米人記者による不幸な記事といえよう」と否定的に論評し、クメール・ルージュがプノンペンの市民を村落部へ強制移住させたことも「搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なこと」と好意的に論評している[12]。
週刊金曜日編集、経営面での批判
『新潮45』2000年12月号で、週刊金曜日を退社した元社員の西野浩志は「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」という文章を発表し、
- 井上ひさしが編集委員を退任した理由に「本多が(井上の友人である)大江健三郎を強く批判しているのに板ばさみになった」というものがあったにもかかわらず、それを隠蔽し「超多忙」などの理由とした。
- ホロコースト否定論に強い興味を抱いた本多は、その立場に立つ論文を掲載しようとしたが、周囲に強く反対され、やむを得ず掲載を見送った。本多は、西野の面前で「“木村愛二の原稿を載せるな”と言われた。編集長が副編集長に折れることがリベラルなのか」などと直接反対したMデスクについて批判した。
- 週刊金曜日社内で結成された労組にきわめて冷淡で「過半数になったら会社を転覆させる気か」などの言葉を投げつけた。
など、直接自分が体験したこととして回想している。
その他
NHK受信料支払拒否
詳細は「NHK受信料支払拒否の論理」(初版は未來社、のち朝日文庫)を参照の事。
本多はNHK受信料支払い拒否を古くから行なって来た一人である。本人は「運動としてやっているわけではない」と称しているが、著作を通じて広く知られており、NHK営業担当者と非公式に対談したこともある。受信料拒否のパイオニアの一人といってもよいだろう。提言に共感した人々が「NHK視聴者会議」(NHKによる「視聴者会議」ではない)というグループを作っている。なお本人は、自宅にテレビがあることを明言している。
本の内容
最初に、郵政省(当時)の省内誌の原稿を頼まれるところから話は始まる。その原稿に「受信料は払わなくて良い」と書き、当然の如く不採用となる。そしてNHK受信料拒否運動のシンボルのようになり、「NHK職員の奥さん」からクレームの電話がかかってきたりする。そういったエピソードがユーモラスにつづられる。
年賀状
本多は年賀状葉書は通常より安価にすべきと主張しており、敢えて年賀状ではなく「寒中見舞い」状を出す習慣を続けている。
しかし、昭和天皇病気による自粛が続いていた1989年は、自粛への反発からわざと年賀状を出した。
リクルート接待問題
1996年、フリージャーナリストの岩瀬達哉が、講談社の雑誌『Views』に発表した「株式会社朝日新聞社の研究」(後に「朝日新聞社の研究」と改題して『新聞が面白くない理由』に収録)において、本多および疋田桂一郎ら朝日新聞記者が1987年の安比高原スキー場へのスキー旅行に際して、ホテル代やリフト券代、江副浩正との会食などの接待を受けていたと報じた。同行した記者の一人の配偶者が、当時安比高原スキー場を運営していたリクルートコスモスの幹部であり、さらに翌1988年発覚のリクルート事件において、政治家らへ譲渡された未公開株はリクルートコスモス株であった。本多は自身が編集長を務める雑誌『週刊金曜日』や、雑誌『噂の真相』での自身の連載記事・コラムで岩瀬の記事を捏造記事だと反論した上、岩瀬に対し「講談社の番犬」「狂犬」「売春婦よりも本質的に下等」「(フリージャーナリストは)卑しい職業」といった言葉を浴びせた。このため、岩瀬から名誉毀損で提訴され、本多も反訴した。裁判は双方の控訴・上告を経て2005年3月の上告棄却で確定し、双方が損害賠償を命じられたが、確定内容となった2004年9月の東京高裁判決において、本多らの支払った金額は費用の半額程度であり接待自体は存在したと認定された(岩瀬の名誉毀損は、本多らが全く支払っていなかったとする記述に対する名誉毀損)。さらに、本多に対して命じられた賠償金額は、岩瀬に対してのものを上回った。
なお、本多が連載コラム中において反論を執筆し続けた雑誌『噂の眞相』は、1998年10月にリクルート接待問題についての特集記事を組んだ。徹底した調査の結果、貴殿らがリクルートから接待旅行を受けたのは明白な事実であると認定し、真実は曲げられないと判断した上で、本多の連載を打ち切った。
「日本共産党に期待します」発言
2010年6月、日本共産党機関紙の『しんぶん赤旗』6月号外に支持者の一人として名前を連ねている[13]。2008年2月1日の「赤旗」創刊80周年によせての寄稿では、新聞をとるなら「赤旗」も併読紙として重要だと購読をすすめている[14]。 2010年9月12日付の「しんぶん赤旗」「読者の広場(投書欄)」に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判する投書を行っている。長野県松川町在住となっている。
著書
- 『貧困なる精神』シリーズ すずさわ書店、朝日新聞社、毎日新聞社
- 『本多勝一著作集』(全10巻)すずさわ書店
- 『本多勝一集』(全30巻) 朝日新聞社
- 『旅立ちの記(上)』 講談社文庫 ISBN 4061838520 上巻 1986年
- 『旅立ちの記(下)』 講談社文庫 ISBN 4061838539 下巻 1986年
- 『山を考える』 朝日文庫 ISBN 4022608161 1986年
- 『憧憬のヒマラヤ』 朝日文庫 ISBN 402260817X 1986年
- 『極限の民族』 朝日新聞社出版局 ISBN 4022545259 1967年
- 『戦場の村』 朝日選書 ISBN 4022591048 1974年
- 『カナダエスキモー』 朝日文庫 ISBN 4022608021 1981年
- 『ニューギニア高地人』 朝日文庫 ISBN 4022608048 1981年
- 『アメリカ合州国』 朝日文庫 ISBN 402260803X 1981年
- 『中国の旅』 朝日文庫 ISBN 4022608056 1981年
- 『食事と性事』 集英社文庫 ISBN 4087506568 1983年
- 『アラビア遊牧民』 朝日文庫 ISBN 4022608064 1984年
- 『殺される側の論理』 朝日文庫 ISBN 4022608072 1982年
- 『そして我が祖国・日本』 朝日文庫 ISBN 4022608102 1983年
- 『殺す側の論理』 朝日文庫 ISBN 4022608145 1984年
- 『日本人は美しいか』 講談社文庫 ISBN 4061834894 1985年
- 『冒険と日本人』 朝日文庫 ISBN 4022608153 1986年
- 『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』 朝日文庫 ISBN 4022607629 1993年
- 『日本語の作文技術』 朝日文庫 ISBN 4022608080 1982年
(『新装版 日本語の作文技術』 講談社 ISBN 4062130947 2005年)
- 『ルポルタージュの方法』 朝日文庫 ISBN 4022608099 1983年
- 『事実とは何か』 朝日文庫 ISBN 4022608110 1984年
- 『職業としてのジャーナリスト』 朝日文庫 ISBN 4022608137 1984年
- 『50歳から再開した山歩き』 朝日新聞社 ISBN 4022557494 1987年
- 『山とスキーとジャングルと』 山と渓谷社 ISBN 4635330141 1987年
- 『山登りは道草くいながら』 ISBN 4408007196 1988年
- 『アイヌ民族』 朝日文庫
- 『南京大虐殺否定論13のウソ』(共著) 柏書房
- 『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北 - 李秀英 名誉毀損裁判から未来へ』教育史料出版会
- 『植村直己の冒険』朝日文庫
- 『本多勝一はこんなものを食べてきた』(原案) 七つ森書館
- 『俺が子どもだったころ』 朝日新聞社
- 『生きている石器時代 ニューギニアに人食い部落を求めて』(偕成社少年少女ドキュメンタリー) 1980年9月 ISBN 9784037120207
ほか多数
脚注
- ^ 生年を1931年(昭和6年)や1933年(昭和8年)とする自称やプロフィールもある。記事内「生年月日について」節参照
- ^ 「世界語と日本語と共通語と方言との関係」(『言語生活』1975年2月号収録)
- ^ 批判した当時。のちプリンスホテル→西武鉄道。本多は、コクドの環境破壊などを批判する記事やルポを何度も書いていた。
- ^ さよなら職業野球(筑紫哲也)(『週刊金曜日』 第329号 2000年9月1日)
- ^ 巨人「軍」を毎年勝たせたい (本多勝一)(『週刊金曜日』 第336号 2000年10月20日)
- ^ 「私と『赤旗』」(『しんぶん赤旗』2011年1月31日)
- ^ 『「百人斬り訴訟」裁判記録集 』(ムック):193頁
- ^ 『「百人斬り訴訟」裁判記録集 (ムック)』:194頁
- ^ 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』 (ムック)
- ^ 南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去2008年12月17日 産経新聞
- ^ 東中野修道『南京事件「証拠写真」を検証する』
- ^ 『欧米人記者のアジアを見る眼』
- ^ しんぶん赤旗2010年6月号外 日本共産党に期待します
- ^ 「赤旗」創刊80周年によせて 発言/本多勝一さん
参考文献
- 岡崎洋三『本多勝一の研究』(晩聲社)、『本多勝一の探検と冒険』(山と渓谷社)ISBN 4635340139
- 殿岡昭郎『体験的本多勝一論 - 本多ルポルタージュ破産の証明』(日新報道)ISBN 4817405546
関連項目
- 朝日新聞の中国報道問題
- ジャーナリズム
- ジャーナリスト
- 週刊金曜日
- 本田雅和
- 本田嘉郎
- 自虐史観
- 南京大虐殺論争
- 極左
- 進歩的文化人
- イスラム教:アラビア遊牧民の取材にあたって「東京のモスクでイスラム教徒になってから行った」と発言、便宜的にムスリムになったととれる発言であったためその後棄教したのかムスリムであり続けているのかなどについて山本七平に批判される。もっとも山本によると「どうも本多氏には因縁を付けているようにしか受け取られなかったようだ」とのことであるが、本多は入信の理由は手段であれ、棄教せず今もムスリムであり続けていると反駁している(「雑音でいじめられる側の眼」)。
外部リンク
- 『週刊金曜日』ホームページ
- 本多勝一研究会 - 本多勝一の発表した文章に関する史料批判を行っている研究会。
- 京都大学探検部のホームページ