本田雅和
本田 雅和(ほんだ まさかず、1955年- )は、朝日新聞記者。朝日新聞社北海道報道センター勤務。
京都市南区東九条に生まれ育つ。横浜国立大学経済学部を卒業後、1979年同社入社。『週刊朝日』編集部などを経て、2006年社会部からアスパラクラブ運営センターへ、2007年北海道報道センター夕張臨時支局へ異動。2010年9月に夕張を去り、同年10月から札幌で勤務している(現職)。
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[編集] 人物
本多勝一と松井やよりを師と仰ぐ。朝日新聞社に入ったのも、両人に憧れていたためと語る[1]。
アメリカ留学の経験があり、英語に堪能である。
かつて「差別者」だったことを自ら告白し、「被差別者」との連帯を標榜。部落解放同盟や朝鮮総連などと太いパイプを持って取材活動をおこなった。また、「差別の原因は、経済・社会構造そのもの。差別意識は単なる偏見や心の問題ではない」として<差別=金儲け説>を唱えた。1993年7月に筒井康隆の小説『無人警察』が日本てんかん協会から抗議を受けたときは、本田は「作家は特権階級か」と筒井康隆批判の急先鋒に立った。
1995年1月、『マルコポーロ』が、ホロコーストでのガス室処刑を否定する記事を掲載してアメリカ合衆国のユダヤ人団体や人権団体から抗議を受けた時(マルコポーロ事件)、この件について取材を開始。『マルコポーロ』が廃刊された後にもこの問題を繰り返し大きく取り上げ、記事の寄稿者で、ガス室の存在に否定的な立場を取る西岡昌紀を批判した。
2000年12月、反差別国際運動日本委員会(IMADR-JC)主催の人種差別撤廃条約シンポジウムに、福島瑞穂らと一緒にパネリストとして参加。
2005年1月には、女性国際戦犯法廷をめぐるNHKの特集番組について「自民党の安倍晋三・中川昭一両議員による政治介入があり、圧力を受けたNHK側は放送直前に番組内容を大幅に改変した」と主張、朝日新聞紙上で両議員を批判した。これに対し、両議員やNHK幹部は「圧力は存在しなかった」「記事は捏造だ」などと報道を否定した。NHKはこの一件を「朝日新聞虚偽報道問題」と呼称したが、この表現に朝日新聞社が抗議し、NHKはその後「虚偽報道」との表現は取り下げた。テレビに出演した中川は「手元にNHK職員との面会した議員録が残っており、朝日新聞社に安倍を交えた公開討論を請求し、裁判も辞さない」と発言したが、本田はその後音信不通となった。本田はまた、NHK元放送総局長の松尾武に電話で「どこかでひそかに会いたい」「証言内容について腹を割って調整しませんか」「すり合わせができるでしょうから」と持ちかけ、口裏合わせを図ったとも報じられている。
かつて本田から批判された経験がある小林よしのりは、この騒動に関連して「本田記者の印象は、とにかく思い込みが激しい人。エキセントリックで、常に断定口調です。相手を"悪"と決め付けたら、徹底的に自分の主張を押し付ける。ワシと会ったときも"差別は経済構造だ"と主張し、作家が金儲けのために本(『ゴーマニズム宣言』)を出すことを否定していた。初めから結論ありきで、取材するタイプです。別の角度から検証するという、記者として当たり前のことをしないんですよ」と発言している[2]。小林は「この男には流行作家に対するしっと心や幼稚な反発心がある」と分析し、著名な言論人に次々と喧嘩を売る本田の姿勢に個人的な劣等感の影を見た[3]。筒井康隆は、本田について「これまで部落解放同盟の代弁者のかたちで自主規制を推進させてきたんだけど、解放同盟の方針変更が理解できず、あいかわらず傲慢に『正義の味方』やってるわけですよ。どんな作品書いたのか誰も知らないような塩見鮮一郎なんて作家ひっぱり出してきてコメントさせてるけど、この人がまた(日本てんかん協会との間の)往復書簡ろくに読まないでコメントしてる。解放同盟やてんかん協会が『よし』としてることにまで反対して、自社の自主規制を正当化しようとして、被差別団体以上の激しさでぼくを糾弾してくる。こいつらニセ同和か(笑)。こんな者、野ばなしにしておいて本当に大丈夫なのかね、朝日は(笑)」[4]と批判している。また朝日新聞は該当号の広告の掲載を拒否した。一方、ジャーナリストの魚住昭は、朝日新聞の内部資料を入手し、安倍らへの取材の録音記録を暴露。本田らの記事は関係者の証言にもとづいた正確なもので安倍らが嘘をついていると論じ、本田らを擁護した。[5][6]
2006年4月1日付で、朝日新聞の会員制読者サービス部門「アスパラクラブ」の運営センター員に異動。本田が「主に社会部畑を歩み、アフガニスタンやイラクの戦場を取材した経験も持つ」[7]記者であるだけに、この人事は「外から見ると、読者サービス部門とはなにやら場違いに映る」[7]と評されたが、この間の内部事情について本田の元同僚は「もともと、上層部や他部から異動させろという圧力は強く、ついに社会部が抗しきれなくなった。一つの部に長い『ロートル』は他部署に出すという社の方針に絡めて巧妙に追い出された形と聞きます」と述べた[7]。この件に関して毎日新聞社の取材を受けた本田は「くだらないことを聞くなよ。ジャーナリストなら、もうちょっとまともなことを取材したらどう?」と返答した[7]。
「アスパラクラブ」への異動が決定した後、2006年3月24日には部落解放同盟中央本部主宰の「人権マスコミ懇話会」に会員の一人として出席[8]。部落解放同盟書記次長谷元昭信の呼びかけに応じ、朝日新聞社専務坂東愛彦ともども人権擁護法案の成立に向けて協力しているとされる[8]。
2007年4月から北海道報道センターに転属となり、記者として復活。夕張支局で勤務していたが、『北海道新聞』が財政再建に向けた夕張市の取り組みをスクープすると、その都度市役所の担当部署に怒鳴り込み、記者同士の飲み会でも「あの記事は何だ」と他の記者に文句をつけてエキセントリックになることがしばしばあると報じられた[9]。また、夕張市長の記者会見では質問者としての立場を超え延々と自説を開陳し、他の記者の質問時間を奪うなどの行動が災いして夕張の記者クラブを分裂させるに至ったともいう[9][10](本田は、記者会見で、長時間の質問をする事が多い)。これに関して夕張市総務課は「配慮が足りない」「田舎で記者クラブや新聞協会を持ち出し、モノを言っても通用しません」「早くローカルな人間になれ」と評している[9]。
夕張では、2009年、縊死を図って心肺停止状態となった男子中学生が夕張市立診療所に救急搬送されたところ、理事長の村上智彦医師に受け入れを拒まれ、死亡に至った事件が発生。このとき本田は夕張市立診療所を糾弾する記事を書いた後、「村上智彦医師(48)は4日、自らの「判断ミス」を認め、「ご遺族と市民の皆さんに申し訳ない」と謝罪、「こういうことは2度と起こさない」と述べた」と伝えたが[11]、村上は「夕張の朝日新聞の記者が「そう言わないとお前は出ていくことになるぞ!」等と何度も電話をかけてきて無理やり記事にした」「私自身は「若い方なのでヘリを呼んででも高度な医療ができる施設に搬送すべきだ」と判断して、後方病院への搬送を指示したのが実際のところ」[12]「朝日新聞の記者は「自作自演」のような記事を書き、医療機関を非難してセンセーショナルに記事を書くことを自慢して歩いています」[13]と反論している。
[編集] 著書
- 『巨大都市(メガロポリス)ゴミと闘う』朝日新聞社、1990年 ISBN 4022562161
- 『環境レイシズム─アメリカ「がん回廊」を行く』(風砂子デアンジェリスとの共著)解放出版社、2000年 ISBN 4759263233
[編集] 関連書籍
- 筒井康隆『断筆宣言への軌跡』光文社、1993年 ISBN 4334052096
- 小林よしのり『ゴーマニズム宣言6』幻冬舎、1999年 ISBN 4877287981
- 渡部昇一、屋山太郎、八木秀次『日本を蝕む人々 平成の国賊を名指しで糺す』PHP研究所、2005年 ISBN 4569641342
[編集] 脚注
- ^ 行路社刊『女性・戦争・人権』第6号「特集・フェミニズムとコロニアリズム」(2003年12月)所載「私に『夢』を語り続ける『松井やより』」
- ^ 『週刊新潮』2005年1月27日号
- ^ 小林よしのり『ゴーマニズム宣言』第6巻、p.51
- ^ 『筒井康隆スピーキング』p.416(出帆新社、1996年)
- ^ 『月刊現代』2005年9月号
- ^ ちなみに朝日新聞社は内部資料流失の責任問題で、社会部長らを更迭している。
- ^ a b c d 『サンデー毎日』 「朝日新聞の〝変〟 「メールチェック」で記者たちが大ブーイング」 2006年3月19日号
- ^ a b 『週刊新潮』2006年4月20日号、p.42。
- ^ a b c 『週刊新潮』2008年1月3日・10日合併号。
- ^ 朝日新聞社の後輩である烏賀陽弘道も「記者会見でいきなり自分が演説を始めたり、延々と質問をして会見をジャックしてしまう記者は、朝日の先輩で二人いました。本田雅和記者と菅沼洋一郎記者です」と証言している。2011年10月23日の烏賀陽弘道のツイートによる。
- ^ asahi.com:受け入れ拒否を謝罪 夕張中3自殺-マイタウン北海道 2009年10月05日
- ^ 村上智彦の「夕張希望の杜」月報(2010年6月)
- ^ なぜ私は救急患者の受け入れを拒否したのか 北海道・夕張の村上医師が救急対応の報道に反論(2010年6月7日 JBpress)