日本航空123便墜落事故/log20200516

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。125.54.80.222 (会話) による 2012年6月2日 (土) 10:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

日本航空 123便
事故機のJA8119(1982年春頃に伊丹空港にて撮影。この3年後、当機は墜落に至る。)
出来事の概要
日付 1985年8月12日
概要 後部圧力隔壁の損壊と、それに続く尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊により操縦機能の喪失をきたしたため。隔壁の損壊は、1978年に行われた隔壁の不適切な修理に起因したもの。(航空事故調査委員会による推定原因)
現場 日本の旗 日本群馬県多野郡上野村高天原山
乗客数 509
乗員数 15
負傷者数 4
死者数 520(胎児1名を含むと521名)
生存者数 4
機種 ボーイング747SR-46
運用者 日本航空(JAL)
機体記号 JA8119
テンプレートを表示
JAL123便墜落地点  墜落地点
 羽田空港  伊丹空港

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日18時56分に、日本航空123便、東京(羽田)大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村高天原山の尾根御巣鷹の尾根[※ 1]に墜落した事故である。

概要

運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[1]によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2024年5月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である[※ 2][※ 3]

夕方のラッシュ時お盆帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。

1987年6月19日航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。

事故機

123便に使用されたボーイング747SR型機(機体番号JA8119)は1974年1月に製造された。本機は、日本の航空会社で運航しているボーイング747型(ジャンボ)機が墜落事故によって登録抹消された初のケースであり、現在まで日本の航空会社での747型機による墜落事故による登録抹消は唯一でもある。

墜落前の事故

1978年6月2日、羽田発伊丹行き115便として本機が伊丹空港に着陸しようとした際に、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生した(日本航空115便しりもち事故)。この事故によって生じた損傷の修理はボーイング社に委託されたが、後部圧力隔壁を修理する際に発生した作業ミスが本件事故の原因のひとつとされた。

1985年2月から事故発生までの間に、本機には客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体のゆがみによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている[c 1]

事故の経過

事故当日のフライトプラン

事故機は、事故が発生した8月12日当日の503・504便(羽田-千歳往復)および、363・366便(羽田-福岡往復)として運航されていた。 123便としては羽田空港18時00分発、伊丹空港18時56分着予定であった。折り返し伊丹発羽田行の最終130便として運航する予定のため、羽田出発時には3時間15分程度の飛行が可能な量の燃料を搭載していた[f 1]

乗務員

この日のJAL123便では、副操縦士の機長昇格訓練のため、通常とは逆に機長が右操縦士席に、副操縦士が左操縦士席に着席していた。

  • 運航乗務員
    • 機長:高濱 雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官 総飛行時間12,423時間)。副操縦士席で機長昇格訓練の監督および無線交信などの副操縦士の業務を担当。
    • 副操縦士:佐々木 祐(ささき ゆたか、39歳・機長昇格訓練生 総飛行時間3,963時間)。機長席で操縦、クルーへの指示を担当。
    • 航空機関士:福田 博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官 総飛行時間9,831時間)。羽田-福岡線363・366便から引き続きJA8119に乗務。
  • 客室乗務員
    • チーフパーサー:波多野 純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)
    • アシスタントパーサー:7名
    • スチュワーデス:4名

飛行の経過

123便は18時12分に羽田空港15L滑走路を離陸した[f 1]。当時の天候は、大気の状態がやや不安定であったが関東地方はおおむね晴れていた[d 1]

18時24分、予定巡航高度の24,000ft(7,200m)に到達する直前、伊豆半島南部東岸に差しかかるころ、「ドーン」というような音とともに、操縦に重大な影響を及ぼす異常事態が発生した。その直後、機長が緊急事態を示す「スコーク77」(トランスポンダの緊急コード番号7700のこと)を発声し、あわせて東京コントロール(東京航空交通管制部)に対して、異常事態が発生したため22,000ftに降下して高度を維持し、羽田空港に戻ることを要求した。 同機は、右旋回して羽田空港に引き返そうとしたが、異常発生の数分後には、油圧系統(ハイドロコントール)のほぼすべてを喪失し、方向舵昇降舵などの操縦機能のほとんどを失った。その後、同機にはフゴイド運動ダッチロールが発生し、パイロットは左右4基のエンジン出力を増減する操作によって高度、方向、機体姿勢の安定を図ったと思われる。

東京コントロールから123便への「どのような緊急事態か?」との問い合わせに対して同機からの応答はなかったが、日航からの社内無線による呼びかけには「R-5のドアが損壊した」と通報した[e 1]

123便は進路を東に向けて飛行したのち、山梨県大月市付近で360度旋回しながら急降下し、その後、進路を北に変え不安定な飛行を続けた。この間、パイロットは数回にわたって「操縦不能」であることを管制に送信している。 異常発生の30分後には、羽田に加えて米軍横田基地も受け入れ態勢が整っていることが123便に伝えられ同機は了承したが、それ以降、東京コントロールや横田基地管制からの呼びかけに応答することはなかった。 同機は群馬埼玉長野の県境付近の山岳地帯へ向かって飛行を続け、18時56分すぎにレーダーから消失した[f 1]

墜落

123便は、群馬・埼玉・長野の県境にまたがる三国山(標高1,828m)周辺の樹木や稜線に接触した後(この時、接触した第4エンジンが脱落した)、三国山の北北西およそ2.5kmの地点にある尾根に墜落した。推定墜落時刻は18時56分ごろであった[f 1]

同機は、ほぼ倒立した状態で機首から山の斜面に激突した。このため胴体の前部、中央部および主翼は原型をとどめないほどに大破した。墜落時の衝撃は100~数百Gと推定され、これらの部分に搭乗していた乗員・乗客はほぼ即死したとされる。 胴体後部は墜落時の衝撃で分離、山の稜線を飛び越え付近のに落下した。この部分の衝撃は数十Gと推定され、搭乗者のほとんどはその衝撃によって致命的な傷害を受けたが、4名の乗客が奇跡的に生存した。生存者は着座の姿勢や人体に接した周囲の物体などの状況が、衝撃をやわらげる働きをしたため生還できたものと考えられた[f 2][f 3]。 また、搭載燃料が墜落時に飛散したことにより、周辺では森林火災が発生した。

飛行経路

123便の飛行経路

レーダー記録の乱れのため、18時48分~55分の正確な飛行経路は不明である[e 2][f 4][f 5]。上記以外に、座間市[4][5][6]浦和市[2]三芳町[2]で目撃情報がある。

異常事態発生後の123便

123便の飛行記録装置 (DFDR) と音声記録装置 (CVR) は、墜落現場から回収された。これらのデータによって、異常事態発生後の123便の飛行の様子が明らかになった。

パイロットの操縦

パイロットたちは、123便に発生した異常についてその直後に感知したが、垂直尾翼や機体後部の損傷状態については最後まで認識できなかった[e 3]

同機に発生したフゴイド運動とダッチロールは、機首上げ角度20度~機首下げ15度、機体の傾き右60度~左50度の動きを周期的に繰り返すもので、大きな動揺にさらされた。パイロットたちは油圧が失われた状況のもと、エンジン推力を増減し、また、降着装置(ランディング・ギア)を降ろすことで空気抵抗を増大させ、機体の安定を図った。これらの操縦によってフゴイド運動の軽減と高度を下げることに成功した。しかし、ダッチロールの軽減や針路のコントロールはできなかった[e 4]

異常発生の20分後には高度7,000ftまで降下したが、そのころ同機は針路を北西に変え、群馬県南西部の山岳地帯へと向かっていた。油圧不動作の代替手段として電動でフラップを展開したが、機体に大きな傾きが生じた。機首を下げて急降下しだしたため、パイロットたちはエンジン推力を増加させ機首を上げようとしたが間に合わず墜落した[e 5][e 2]

客室内の様子

機内では衝撃音が響いた直後に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンスが流れた[a 1]。乗客は酸素マスク・シートベルトを着用し、救命胴衣の着用なども行われた。 生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までパニックに陥ることはなく、ほぼ全員が落ち着いて行動していたという[7]。幼児連れの親に向けての子供の抱き方を指示や、「予告無しで着陸する場合もある」、「地上と交信できている」などの放送が墜落直前までCVRに記録されている。

また、墜落までの間に複数の乗客が家族への遺書を残しており、その他にも不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた客室乗務員によるメモや、異常発生後の客室内を撮影した乗客のカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されている[※ 4][8]

捜索・救難活動

18時28分ごろ、千葉県愛宕山航空自衛隊中部航空警戒管制団第44警戒隊(通称「嶺岡山レーダーサイト」)でも123便の緊急事態をあらわす「スコーク7700」を受信した。ただちに直属部隊である中部航空方面隊に報告され、航空自衛隊中央救難調整所(RCC)が開設された。18時56分、嶺岡山レーダーサイト当直司令は123便が墜落したと判断して、中部航空方面隊司令部にスクランブル待機中のF-4EJファントムによる緊急発進を提案した。19時01分、提案を了承した基地司令官の指示で百里基地よりF-4戦闘機が離陸した。

東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部(TRCC)を設置し、同機の緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)という事態となり、東京救難調整本部は、防衛庁警察庁消防庁海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった[j 1]。一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた[a 1]

航空自衛隊救難隊KV-107

墜落から約20分後の19時15分ごろ、米空軍C-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、大きな火災を発見と上空位置での横田タカン方位(305度)・距離(34マイル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報。19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見して、上空位置での横田タカン方位(300度)・距離(32マイル)を通報した[2][j 1]。これらの航空機が通報に利用した「横田TACAN」とは、設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から現場の上空位置を搭載の距離測定装置で測定したものである。本来これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられている。

墜落から約1時間後の19時54分に、救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊KV-107ヘリコプターは、46分後の20時42分に現場上空に到着した。 20時33分になって、救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行なわれた。しかし、当時のKV-107救難ヘリは両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかったとされている。事故機の遭難から約1時間40分後と、遅れて出された航空自衛隊への災害派遣要請の背景には、運輸省航空局東京空港事務所の幹部判断である「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」などや運輸省よりの「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)には電話が入るなど[2]、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜がうかがわれる。

陸上からは、群馬埼玉長野の各県警が墜落現場の捜索にあたった。20時21分には、長野県警臼田署のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。21時39分には埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見した[2]。12日深夜までに、長野県警は墜落現場は群馬県側の山中であると発表した。 しかし、氏名不詳の110番通報によりもたらされた「長野県北相木村ぶどう峠付近に墜落した」との情報や、日航による22時の広報では「御座山北斜面」、運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度02分、東経138度41分)の他に「長野県南佐久郡御座山北斜面」[9]、朝日新聞では防衛庁からとして「現場は長野県の御座山北斜面」などの誤報がくりかえされ[2]、これらの情報で地上からの捜索は混乱した。 消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、翌13日の朝まで現場に到達することはできなかった。なお、航空自衛隊第44警戒隊からの情報として、遭難当初から東京救難調整本部(運輸省航空局)より公表されていた遭難機のレーダー消失地点である「北緯36度02分、東経138度41分」は、御巣鷹山から北側約2.0kmの群馬県側になるが、根拠のない情報として「長野県南佐久郡北相木村」、「御座山北斜面」が付加され[9]、これにより緯度・経度情報が地上捜索隊の活動に生かされることはなかった。

海上では、乗客が機外に吸い出された可能性があることから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が駿河湾周辺の捜索を行った[2]

8月13日午前4時30分過ぎの航空自衛隊救難隊による「墜落機体の発見」、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認された[2]。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し[10]土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した。[要出典]

墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、その後陸上自衛隊第一空挺団の隊員が現場に降下して救難活動を開始[2]。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始された。

午前11時前後に、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見された。4人とも重傷を負っており、陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送され、4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて藤岡市内の病院に運ばれた[2][f 6]

放射性物質

事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった[2]。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという[11]

関係機関の連携体制

航空自衛隊百里基地のF4戦闘機による事故直後の19時01分の緊急発進、百里救難隊による最初の救難捜索機(MU-2S)や救難ヘリ(KV-107)の出動は、航空自衛隊への東京空港事務所長からの災害派遣要請が出される前に行われた。陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が19時30分頃から出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。航空自衛隊からの再三の要請督促を受けた羽田RCC(東京救難調整本部)から、すでに現場に到達していた航空自衛隊への災害派遣要請は20時30分過ぎと遅れ、陸上自衛隊に対しては航空自衛隊隊への要請が済んでいたため、要請の必要性を知らずに21時30分ごろとさらに遅れた[2]

また、当時の東京消防庁航空隊にはサーチライトを搭載したアエロスパシアル製救助ヘリコプターが2機配備されていた。事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁への出動要請はなかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、このヘリの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の姿勢だったこともあり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった[12]。この消防ヘリについては事実の誤認が有り、着陸灯を探照灯(サーチライト)と間違った可能性がある[9]。なお、東京消防庁航空隊は13日に、陸上自衛隊が事故現場よりヘリで搬送した生存者4名のうち2名を上野村臨時ヘリポートで降ろした際に、同乗した前橋赤十字病院医師の判断で、救急車から消防庁の幹部移送のために駐機の消防ヘリに載せ替えて搬送している[9]

民間機遭難を想定した当時の「航空機の捜索救難に関する協定」では、主に警察庁運輸省航空局)などが中心になっており、捜索救難の主体は警察が担うことになっていた。また、警察と各自衛隊との協力は防衛庁を通しての間接的な連携であり、航空自衛隊救難隊との直接の無線連絡はもちろんのこと、航空自衛隊中央救難調整所(RCC)との連携なども不明確な状態に置かれていた。また、航空自衛隊のKV-107救難ヘリは夜間救難用のサーチライトを装備して、当時でも夜間救難作業に従事するなど、サーチライトの有無が事故機救難の阻害要因とは考えられない。なお、航空自衛隊の救難ヘリは警察の捜索隊との無線連絡の出来ない中で、搭載の着陸灯、サーチライトなどを用いて上野村に派遣された群馬県警捜索隊への必死の誘導を試みている。

米軍による救難活動の情報

1995年8月、当時123便を捜索したC-130に搭乗していた元米軍中尉が、事故直後に厚木基地の米海兵隊(のちに座間の米陸軍と訂正)救難ヘリを現場へ誘導したが、救助開始寸前に中止を命じられ、またその事実も他言しないよう上官から命令されたと証言した[13]

生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。[7] また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している[2]。マスコミ各社は「日本側が米軍の救助協力を断った[14]」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まった[15]

報道

時事通信
19時13分、「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」とのニュース速報を配信[16]
NHK
NHK総合テレビは19時26分、19時の定時ニュースの終了直前に短く第一報を伝えた。19時30分より「NHK特集」が始まるが、19時35分頃に同番組を中断し切り替えた報道特別番組を終夜放送した。翌13日も朝から通常番組を休止して臨時ニュースを継続した。事故関連ニュースはNHKラジオ第二放送でも続けられた。
日本テレビNNN
19時45分頃、「大きなお世話だ」放送中にニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。その後は、20時からの「ザ・トップテン」放送中に随時最新情報を伝えた。20時55分からの「NNNニューススポット」でも最新情報を伝え、22時より「NNN報道スペシャル」で続報を伝えた後、23時「NNNきょうの出来事」以降、事故関連ニュースを終夜放送した。翌13日朝も「ルンルンあさ6生情報」以降、特別編成で夕方まで詳報した。
東京放送(現・TBSテレビJNN
19時30分頃、「クイズ100人に聞きました」放送中にニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。20時54分からの「JNNフラッシュニュース」は時間延長し、21時過ぎから映画「東京裁判」放送中もテロップ速報を随時挿入した。映画終了後、翌13日午前0時02分から「JNNニュースデスク」は内容変更、午前1時30分まで延長。以後午前6時30分まで関連ニュースを終夜放送で伝え、午前6時30分からの「JNNおはようニュース&スポーツ」以降も、報道特番もしくはそれに準ずる態勢で夕方まで詳報した。
フジテレビFNN
19時すぎ、「月曜ドラマランド」開始直後のニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。その後テロップ速報のみで対応したが、22時から「FNN報道特別番組」を開始し、以後CM全面カットで約10時間詳報した。翌13日朝は「FNNモーニングワイド」以降、報道特番もしくは準ずる態勢で夕方まで詳報した。11時30分、「FNNニュースレポート11:30」で墜落現場に到着したスタッフから生存者発見の一報を受け、生存者救出映像を現場から唯一生中継した(他局は生中継機材が間に合わず、録画取材[17])。正午からの『笑っていいとも!』は放送開始後10分で番組を中断し、生存者救出の生中継に変更して、夕方まで詳報した。
テレビ朝日ANN
19時30分頃「月曜スペシャル90」冒頭にニュース速報(テロップ)で第一報を伝え、途中番組を中断して「ANNニュース速報」をニュースデスクから伝えた。20時55分の定時ニュースに続き21時からの「月曜ワイド劇場」を休止して「ANN報道特別番組」を放送した。23時から「ANNニュースファイナル」を30分拡大、以降終夜放送で詳報した。翌13日も「おはようテレビ朝日」以降、「モーニングショー」など、報道特番もしくは準ずる態勢で夕方まで詳報した。
ニッポン放送NRN・AMラジオ)
通常放送の生番組(ヤングパラダイスなど)の中で随時速報した。13日午前1時からの「中島みゆきのオールナイトニッポン」は休止し、同日2部担当の同局上柳昌彦アナウンサーが午前5時までの4時間、全国ネットで詳報した。
毎日放送(MBS テレビ・ラジオ)
当日22時からのラジオMBSヤングタウン」は内容のほとんどを関連ニュースに変更した。ニュース以外は音楽を流した。
新聞各紙
翌朝の新聞一面はこの事故がトップとなったが、夜間だった影響で墜落地点の情報が錯綜したまま朝刊締切時間となり印刷され、「長野で墜落」や「長野・群馬県境付近で墜落」などの見出しとなった[18]
写真週刊誌など
最初に現場へ到着したカメラマンは、FLASH光文社)が専属契約をしていた大学生アルバイトだった。カメラマンらの撮影した遺体を含む現場写真の多くが、Emma文藝春秋、廃刊)、FRIDAY講談社)などの写真週刊誌に修正なしで掲載された。

乗客

123便の座席表。桃色が生存者の座席。機内はほぼ満席であったが、乗り遅れなどで僅かに空席があった。

事故が発生した日は夏休み中で、「お盆の入り」の前日であった。同便には出張帰りのビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗した。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ理由もあり、最終便1本前である同便は、ほぼ満席の状態だった。

生存者は4人であった(非番JAL客室乗務員の26歳女性[19]、34歳女性と8歳女性の母子、12歳女性)。救援隊の到着時に、現場で実際何人が生存していたのかについては、情報が錯綜した。生存者4名は発見から数時間は現場からのヘリ搬送が行われず、特に34歳女性と8歳女性の母子はたいへんな重傷で、猛暑の中体力を消耗した。

捜索隊による生存者か遺体かの判別は、呼びかけたり叩いた時に反応があるか手で触って脈があるかなどで行われていた。生存者発見後に医師・看護師が墜落現場へヘリで派遣、生存者4名が病院に搬送され、それ以外は遺体として藤岡市民体育館へ運ばれた。

著名人やその関係者

遺体収容・検視・身元確認作業

家族待機所・遺体安置所として、藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎が開放された。

遺体の搬出には陸上自衛隊・東京消防庁・近隣各県警・警視庁・海上保安庁のヘリコプターが投入された。ヘリコプター発着場所は藤岡市立藤岡第一小学校・校庭、遺体検視兼安置所は藤岡市民体育館に設置された。8月14日午前9時頃、墜落現場から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市へ、遺体搬出作業が開始された。

地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部及び東京歯科大学の教授陣、法医学者、法歯学者、歯科医師、看護師、赤十字関係者などが身元確認作業に従事した。しかし、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。

最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要し、最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に墜落現場に近い上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。

事故調査

運輸省航空事故調査委員会は、事故発生後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカから、国家運輸安全委員会(NTSB)の事故調査官らが顧問として加わった[b 1]。 事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、しりもち事故の際に行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めた[20]

事故の原因

ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)

1987年6月19日、事故調査委員会(委員長:武田 峻)は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表した。その要旨は以下のとおりである[i 1]

  1. 事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
  2. 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定される。
  3. この亀裂の発生は、1978年に起きた同機の「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態)であったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。

また、報告書では調査結果に基づき、大規模な機体の修理を行う場合は、その修理部分を特別に点検項目に加えて継続監視することや、与圧構造が損壊した場合のフェールセーフ性を耐空基準に追加することなどを勧告した[k 1]

報告書をめぐる議論

ボーイング747型機の後部圧力隔壁

垂直尾翼の破壊

事故調査報告書では、事故機の垂直尾翼の破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしている[h 1]。 損壊した垂直尾翼については、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されなかった。 1986年4月25日に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないという意見が出た。また、尾翼の捜索も不十分であるという指摘もあった[7][8]

「急減圧」の存在

不適切な修理の図解

事故調査報告書では、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が流れ出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定している。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆している[h 2]。 これに対して、パイロットが急減圧発生時の所定の対応をとらず、酸素マスクを使用した形跡がないことや、生存者が、室内温度の低下や急減圧時に発生する強風を否定する証言をしていることなどから、123便には急減圧が発生していなかったと指摘する意見がある[21]

この点、運輸安全委員会が平成23年7月に発行した解説書[22]では、2009年7月13日に米国で急減圧事故を起こしたサウスウエスト航空2294便に搭乗していた非番の機長2名の証言[※ 5]を引用した後、「実際に急減圧が発生した際の機内の状況は、乗務員を含めて一般的な理解とは大きく異なるのではないでしょうか」として検証と解説を行い、(1)減圧時の風速は最大でも10m/s程度である、(2)断熱膨張によって室温がマイナス40度まで下がっても、座席などの温度は変らず、室温もエアコンによって3分程度で回復する、(3)運行乗務員に低酸素症の兆候が見られることから、酸素マスクを使用しなかったのは操縦を優先するためではないか、としている。

生存者の救出

生存者の証言によれば、墜落直後には相当数の乗客が生存していた可能性があった。救出された、当時12歳の少女の証言によると墜落した直後は周囲からがんばれという励ましや、早く助けに来ないのかなどという話し声が聞こえていたが、次第に静かになっていったと語っている。そのため、救出が早ければもっと多くの命を救えたのではないかという意見がある[7]。しかし、事故調査報告書は、この点については事実認定をしておらず、4名の生存者以外は即死もしくはそれに近い状況であったとした[f 3]

日本航空の事故調査

航空事故調査委員会とは別に、日本航空も社内事故調査委員会を設置して、独自の事故調査を行っている。この報告書は2002年8月にまとめられたが、社内外ともに非公開とされた。同年8月26日に、同社の労働組合に対して行われた説明会において、その内容は「基本的には事故調の報告書と齟齬はない。」とされた[23]

異論・異説

遺族や航空関係者(労働組合)などの間では、事故調査報告書の内容に納得せず、再調査を求める声も多い[24]。また、事故原因は圧力隔壁の破壊ではなく、垂直尾翼の方向舵に発生したフラッターによるものではないかという異論も出された[8]。加えて「北朝鮮工作員によるテロ」「自衛隊の無人標的機と衝突した」「米軍によって撃墜された」「中性子爆弾搭載のミサイルによって破壊された」などの説もあり、それらの主張者による書籍も出版されている[※ 6]

事故後

事故が起きた昭和60年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した[25]。これに対し新幹線旅客は輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し同9.8%増となった[26]

JA8119の遭難直前のフライトである福岡発羽田行366便には、前日の11日に平和台球場で行われた中日戦を終えた阪神タイガースのナインが13日からの後楽園球場での試合に備え搭乗していた。この事故がきっかけで、野球選手の地方遠征時の移動は、新幹線と飛行機に分乗するようになった。[要出典]

「日本航空123便」という便名は、1985年9月1日のダイヤ改正以降、欠番とされた。

事故後の日本航空

事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する社会からの批判の受けて、政府主導により抜本的な体制の刷新が行われた。[27] 1985年12月、元カネボウ会長の伊藤淳二が日航副会長に就任(のち会長昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題の解決に取り組むとともに「絶対安全の確立」を新たな経営方針のひとつとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた。[28]

2006年4月24日、羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された[29]。JA8119残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。社内向けの施設であるが一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。センター内は特別の場合を除き撮影禁止となっている。

調査資料の廃棄とCVR音声の流出

2000年8月、運輸省航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料をすでに廃棄していたことが毎日新聞などにより報道された。再調査を求める遺族や航空関係者からは運輸省の対応を批判する声が上がった[30]

また、2000年7月ごろには、事故機のコックピット・ボイスレコーダー(CVR)音声テープがマスコミに流出[※ 7]し、その一部音声が8月に入って相次いでテレビ放映された。

遺族会

本事故の犠牲者の遺族は、1985年12月に遺族会「8.12連絡会」を結成した。[31]この会は事故原因の究明や航空安全の推進について、日航やボーイング社などの事故関係者や社会全般に訴えることを目的のひとつとしており、会の内部に技術部会を置いて航空安全に関する独自の研究活動を行った。この技術部会は後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や、墜落時の衝撃をやわらげる座席の開発提言などの活動を続け、2009年3月には、国際的な航空安全に貢献したとして全米航空惨事被災者同盟(NADA)の最高賞「航空安全賞」を受賞した。[32]

装備の更新

当時の陸上自衛隊は夜間装備が十分ではなく、山間部での救難活動は行なっておらず、救難作業が出来るヘリコプターなども無かった。また、事故発生直後、事故現場上空で捜索救難活動を行った航空自衛隊・百里救難隊所属の救難ヘリコプターKV-107「バートル」には現場周辺を明るく照らす照明弾が装備されていたものの「照明弾が地上に落下した後、燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として、山火事の少ない夏山にもかかわらず使用が出来なかった。これを教訓として、航空自衛隊航空救難団救難隊に、本格的な夜間の捜索救難が可能な赤外線暗視装置を装備したUH-60 ブラックホーク救難・救助ヘリコプターが1990年より順次調達・配備されている。なお、当時のKV-107救難ヘリでも山間部や洋上での夜間救難活動を行なっており、機体側面の観測窓横には強力な救難用ライト4灯を装備していた。

また、NHKもこの事故を契機に、山岳での報道に対応できる体制を整備した。

追悼施設

昇魂之碑

墜落現場である「御巣鷹の尾根」には事故の翌年、慰霊碑が建立され[33]、毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。

「御巣鷹の尾根」は財団法人「慰霊の園」が地元の人々を雇用する作業委託で整備が進められたが、群馬県警察の遺体発見場所地図を元に建てられた多数の墓標・みかえり峠の碑・せせらぎを渡る橋・手すりなど、地元の人々・警察など当時の関係者・日本航空職員などがボランティアの手作業で維持管理しているものも多数ある。

事故発生から20年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから、2006年8月より墜落現場付近を通る砂防ダム工事用道路が村道林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された[34]

事故を題材にした出版物など

小説

沈まぬ太陽
山崎豊子原作。当時の日本航空をモデルとして、社内からの視点で描いたフィクションの作品。2009年に映画化。
クライマーズ・ハイ
横山秀夫原作。当事故の報道における地元新聞社の苦悩を描いた作品。2005年にテレビドラマ化、2008年に映画化。

漫画

『御巣鷹山の暑い夏』
小林源文作。自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画で雑誌『PX MAGAZINE』に掲載[35]。2010年4月「GENBUN MAGAZINE」別冊Vol.1として単行本化。(ISBN 4560331630131)。

テレビ番組

NHK特集『墜落~日航機事故調査報告~』(NHK
1985年12月15日放送。
NHKスペシャル『思いをつづった文集-あの日を忘れないで-日航機事故 20年目の遺族』(NHK
2005年8月12日放送。
ザ・ノンフィクション『15年目の検証』(フジテレビ
2000年11月19日放送。ノースダコタ大学航空学科での実験を通じた急減圧発生への疑問、カナダ・セレリス社のデジタル音声分析による公式報告書への疑問(記載されたボイスレコーダの「オールエンジン」というフレーズが実は「ボディギヤ」ではないかと分析)を放映し、さらに事故調査委員会の委員の中にボーイング747の操縦経験者がひとりもいなかったことを指摘した。
『ボイスレコーダー-残された声の記録-ジャンボ機墜落20年目の真実』(TBS
2005年8月12日放送。高濱機長夫人や原因究明に奔走する先輩機長から見た視点を中心に、事故発生からボイスレコーダー公開に至るまでの経緯について描かれた。
金曜エンタテイメント特別企画『8・12日航機墜落事故 20年目の誓い~天国にいるわが子へ~』(フジテレビ
2005年8月12日放送。2007年12月15日一部地域で再放送。甲子園での高校野球観戦をするため、1人で搭乗し亡くなったある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には、東京航空管制部での対応や生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている。
NNNドキュメントドキュメント05.「あの夏…御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年」』(日本テレビ
2005年8月14日(深夜)放送。
坂本九没後20年ドラマスペシャル『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』(テレビ東京
2005年8月21日放送。
土曜ドラマ『クライマーズ・ハイ』(NHK)
2005年12月10日・17日放送。2006年9月30日・10月7日再放送。2010年12月には日本映画専門チャンネルにて映画版とあわせて放送された。
メーデー!:航空機事故の真実と真相 第3シーズン第3話・御巣鷹の尾根』(ナショナルジオグラフィックチャンネル[36]
急減圧の為に操縦士らに低酸素による意識障害が起こったという視点で製作されている為、ボイスレコーダーの音声等から考えられている実際の事故の状況とはやや矛盾した再現映像となっている。

演劇

『赤い鳥逃げた…』
劇団離風霊船1986年に初演。1988年、1989年、1995年、2005年に再演。物語は、事故の生存者と同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。またラストでは生存者の1人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。タイトルは、本事故とほぼ同時期にヒットしていた中森明菜の楽曲である「ミ・アモーレ」の異名同曲異歌詞である「赤い鳥逃げた」と当時日本航空の旅客機に描かれていた「鶴丸」に掛けている。
『8・12(はってんいちに)』
劇団裏長屋マンションズ」の座長である赤塚真人が、同事故で親友を失った事実をもとに書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され、2008年「8・12 ~絆~」として再演される。物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山への慰霊登山を実施しているという。
CVR チャーリー・ビクター・ロミオ
実際に発生した航空事故のCVRを再現した舞台演劇作品。そのうちのひとつが本事故。1999年アメリカ合衆国で初演。日本では燐光群によって2002年に初演。
『操縦不能 UNCONTROLLABLE』
2010年初演。由木事務所。

映画

『御巣鷹山』
渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ全国で上映会を開いており、上映前会場周辺に「ファイヤービー」などの文字の入った捨て看板が設置される。2006年公開。
クライマーズ・ハイ』 - 同名小説の映画化。
2008年7月公開。
沈まぬ太陽』 - 同名小説の映画化。
2009年10月公開。

音楽

RAMP IN
SONG FOR YOU
1985年11月発売のアルバム『T's BALLAD』に収録された角松敏生の楽曲。歌詞カードには「RAMP IN」で“Dedicated to the stewardesses of JAL 123”、「SONG FOR YOU」では“Dedicated to the souls of the passsengers of JAL 123”とそれぞれ記載。「RAMP IN」は、1993年発売のベスト・アルバム『1981-1987』に完全リテイクで再収録。ライナーノーツには改めて“'85年に起きた航空機事故の乗員乗客に捧げた”と記載。
Last Flight
上記同様、角松敏生の楽曲。2003年発売のシングル「君のためにできること」のカップリング曲として発表、その後アルバム『Summer 4 Rhythm』に収録。

参考文献

運輸省

  • 運輸省航空事故調査委員会 『航空事故調査報告書』(計2冊、別冊あり)、1987年、ISBN 4-10-363001-9全国書誌番号:87051796

航空事故研究

  • 加藤寛一郎
  • 杉江弘 『機長の『失敗学』』 講談社、2003年、ISBN 978-4062118002
  • 山本善明
    •  『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか〈上〉』講談社、1999年、ISBN-10: 4062098849
    •  『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか〈下〉』講談社、1999年、ISBN-10: 4062099195
    •  『日本航空事故処理担当 (講談社プラスアルファ新書) 』講談社、2001年、ISBN-10: 4062720647
  • 藤田日出男

関係者および報道による記録

遺族による記録

類似事故・事件

出典

  1. ^ 事故調査報告書
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 朝日新聞社『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』
  3. ^ いわれなき批判に反論する・余談 佐藤守ブログ
  4. ^ 日本経済新聞 1985年8月16日
  5. ^ 東京新聞 1985年8月16日
  6. ^ 毎日新聞 1985年8月23日
  7. ^ a b c d 『墜落の夏―日航123便事故全記録―』(吉岡忍・著、新潮社)
  8. ^ a b c 藤田日出男著『隠された証言』
  9. ^ a b c d 元警察本部長・事故対策本部長著『日航機墜落―123便、捜査の真相』
  10. ^ [1]上野村村長・黒澤丈夫さんのお話
  11. ^ 『週刊新潮』1988年8月11日・18日「日航機墜落の御巣鷹山 アイソトープ騒動」
  12. ^ 昭和60年8月28日「第102回国会 交通安全対策特別委員会」議事録中ほどにある、当時の衆議院議員・坂井弘一委員と運輸省航空局管制保安部長・中村資朗の質疑応答[2]
  13. ^ Stars and Stripes "CRASH : Japanese took 12 hours to reach site" 1995年8月(「週刊文春」1995年9月28日号)
  14. ^ 特別インタビュー ケビン・メア元国務省日本部長 「私は見た!何も決められない日本の中枢」 アメリカは何もかも知っている(現代ビジネス)
  15. ^ 「いわれなき批判に反論する」「いわれなき批判に反論する(その2)」 佐藤守]ブログ
  16. ^ 御巣鷹の真実(時事ドットコム)
  17. ^ JAL123便墜落報道(2)
  18. ^ 日航機墜落、その時新聞は
  19. ^ ナショナルジオグラフィックチャンネル「メーデー!:航空機事故の真実と真相」・シーズンⅢの第3話「御巣鷹の尾根」では実名が放送され、彼女の墜落直後の周囲の状況が証言の形で放送された。
  20. ^ 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞 他各紙 1985年9月8日
  21. ^ 日乗連パンフレット「日航123便に急減圧はなかった」1994年
  22. ^ 日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説
  23. ^ 「説明会の報告」日本航空機長組合
  24. ^ 123便事故機の残骸の保存と公開に関する申し入れ 日本航空乗員組合・日本航空ユニオン・日本航空機長組合・日本航空先任航空機関士組合・日本航空キャビンクルーユニオン
  25. ^ 昭和61年度 運輸白書 - 増大する航空輸送
  26. ^ 昭和61年度 運輸白書 - 輸送動向
  27. ^ 毎日新聞「人事大幅刷新は首相の強い意向 自身が認める」1985年10月29日
  28. ^ 日本航空乗員組合ニュース
  29. ^ JAL、安全啓発センターを開設(プレスリリース)
  30. ^ 毎日新聞「日航機墜落事故資料を廃棄 1トン『保存期間切れた』--運輸省航空事故調査委員会」大阪夕刊、2000年8月4日
  31. ^ 8.12連絡会の趣旨
  32. ^ 毎日新聞「日航機墜落事故 遺族に米の財団が最高賞 空の安全に貢献」2009年3月11日
  33. ^ 朝日新聞「悲しみ新たに『御巣鷹の尾根』 昇魂之碑の除幕式」東京夕刊、1986年8月1日。
  34. ^ 毎日新聞「御巣鷹・21年目の夏 (3) 聖地 慰霊の道、守り続ける」東京朝刊、2006年8月8日。
  35. ^ 『ストライク アンド タクティカル マガジン』2007年11月号にp. 36のセルフリメイクで再掲載。
  36. ^ なお、この前に放送された第3シーズン第2話「バクダッド上空」では油圧喪失の内容を含んだ為、当便の交信記録の一部が放送された。

事故調査報告書 出典

事故調査報告書 交信記録・CVR・DFDR記録
  1. ^ a b 事故調pp. 309-343 CVR記録
事故調査報告書 事故調査の経過
  1. ^ 事故調報告書p. 3 航空事故調査の概要
事故調査報告書 修理
  1. ^ 事故調pp. 101-104 昭和53年大阪国際空港における事故による損壊の修理作業並びにその後の事故機の運航および整備点検について
事故調査報告書 気象
  1. ^ a b 事故調p. 23 気象情報 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "p23"が異なる内容で複数回定義されています
事故調査報告書 飛行経路
  1. ^ 事故調p.119 その他の支援状況
  2. ^ a b 事故調付録pp. 95-130 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について
  3. ^ 事故調p. 114 異常事態における運行乗務員の対応
  4. ^ 事故調P77 異常事態発生直後の状況
  5. ^ 事故調P79-82 異常事態発生直後の状況
事故調査報告書 事故の概要
  1. ^ a b c d e 事故調pp. 6-7 飛行の経過
  2. ^ 事故調pp. 9-10 航空機各部の損壊の状況
  3. ^ a b 事故調pp. 121-122 乗員・乗客の死傷についての解析
  4. ^ 事故調pp. 81-83 DFDRによる墜落直前の飛行状況の推定
  5. ^ 事故調pp. 114-117 異常事態における運航乗務員の対応
  6. ^ 事故調pp. 25-28 人の生存、死亡又は負傷に関係ある捜索、救難及び避難に関する情報
事故調査報告書 異常事態の発生
  1. ^ 事故調付録pp. 165-174 CVR記録の音響分析
  2. ^ 事故調付録87-94 DFDR記録のエラー修復作業
  3. ^ 事故調付録pp. 191-206 垂直尾翼の画像解析
  4. ^ 事故調pp. 98-99 地震波による墜落時刻の推定
事故調査報告書 機体後部の破壊
  1. ^ 事故調p. 69 破壊順序の推定
  2. ^ 事故調付録pp. 73-74 客室、コクピット温度変化
事故調査報告書 事故原因
  1. ^ 事故調p. 128 原因
事故調査報告書 救助
  1. ^ a b 事故調pp. 25-28 人の生存、死亡又は負傷に関係ある捜索、救難及び避難に関する情報
事故調査報告書 措置
  1. ^ 事故調p. 129 事故後に講じられた措置

脚注

  1. ^ 事故当時、墜落地点は御巣鷹山と報道されたが、正確には高天原山系(たかまがはらさんけい)に属する無名の尾根であり、御巣鷹山の南隣に位置する。この尾根は後に、上野村村長であった黒沢丈夫によって事故現場に最も近い御巣鷹山から「御巣鷹の尾根」と命名された。
  2. ^ 世界で最多の死者数を出した航空事故は1977年3月27日に発生した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」で、滑走路上で2機のボーイング747が激突した事故によって583名の死者を出している。
  3. ^ この事故以前の単独機の航空機事故死者数が最多のものは1974年3月3日フランスパリ郊外で発生した「トルコ航空機墜落事故」の346名だった。
  4. ^ "日航機墜落事故で亡くなった人の遺書とメモ書き
  5. ^ 「私は、すぐに急減圧を知覚したが、耳の苦痛がほとんどないのに驚いた。……ハリウッド映画と違い、何も飛ばされず、誰も穴に吸い込まれることはなかった。座席に置かれた書類もそのままだった。客室がやや冷え、薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した。」
  6. ^ 角田四郎 前掲書、池田昌昭『御巣鷹山ファイル JAL123便墜落「事故」真相解明』など
  7. ^ 国際民間航空条約第13付属書により、事故調査資料は関係者以外には公開されないと定められている。なお『隠された証言』の著者である藤田日出男の元にも音声テープや調査官のメモ等の資料が提供されたという。

外部リンク