日本航空123便墜落事故
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垂直尾翼破壊の様子(想像図)
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| 概要 | |
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| 日付 | 1985年8月12日 |
| 原因 | 不適切な圧力隔壁の修理(有力説) 全油圧系統の喪失 |
| 場所 | 日本・群馬県の高天原山系 |
| 死者 | 520 |
| 負傷者 | 4 |
| 航空機 | |
| 機体 | ボーイング747SR-46 |
| 航空会社 | 日本航空(JAL) |
| 機体記号 | JA8119 |
| 乗客数 | 509 |
| 乗員数 | 15 |
| 生存者 | 4 |
日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日午後6時56分、日本航空(現:日本航空インターナショナル)123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46(「ジャンボジェット」、機体記号JA8119)が群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根[1]に墜落した事故である。
事故調査は、「同機がしりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が原因」とする航空事故調査報告書が1987年6月19日に公表され終了している。遺族などの一部は調査報告に納得せず再調査を求める声があるが、再調査は行われていない。
目次 |
[編集] 概要
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[2]によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多[3]であり、単独機の航空事故では[4]世界最多[5]である。
乗客の中には著名人が多数含まれていたこと、夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、企業の役員や外国人、家族連れの犠牲者も多かった。
社会全体に大きな衝撃を与えたため、一般的に『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』という場合、この事故を指すことが多い。
[編集] 事故機
本事故により、同年8月19日に登録抹消される。日本の航空会社が旅客機として運航しているボーイング747で、墜落事故によって登録を抹消されたのは、本機が初めてである。
- 機体記号 JA8119
- 型式 ボーイング747SR-46
- 製造年月日 1974年1月30日
- 製造番号 20783
- 耐空証明 第48-028
- 総飛行時間 25,030時間18分
- 総着陸回数 18,835回
- 新規登録年月日 1974年2月19日
[編集] 型式 747SR
世界でも、日本の航空会社である日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している747の特別仕様である。747SR-46の46は日本航空のボーイング社におけるカスタマーコード[6][7]であり、100型の場合通常百の桁は表記しない。全日本空輸のカスタマーコードは81である。SRとは「Short Range(短距離)」の略で、国土の狭い日本の国内線を運航する航空会社が幹線及び準幹線に投入する目的に特化している。1990年にボーイング社は747在来型の受注を打ち切るが、この仕様は747-400D(DはDomestic(国内)の頭文字)として受け継がれている。これも世界で日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している特別仕様の747である。
空港へ乗り入れる便数を少なくする代わりに、一度に輸送できる旅客数(最大で550人)を多くするため、従来の747をベースに1〜2時間程度の短距離飛行用に設計された。短距離便ではあまり必要のない機内のラバトリー(トイレ)やギャレー(調理室)を減らして座席数を増やしているため、国際線仕様の747に備え付けられている長距離飛行用の燃料タンクを搭載していない。その他に離着陸が頻繁であるため降着装置を強化、重量が重い状態で短い滑走路へ着陸する際にブレーキの摩擦熱で発火するのを防ぐため強力な冷却装置を取り付ける等の変更がなされている。
また、頻度の多い離着陸によって、国際線よりはるかに多い高度変化による気圧の変化で機体に負担がかかるため、金属疲労の進行を抑える加工も施されていたが、JA8119はボーイング社による隔壁の修理ミスと、検査での金属疲労の見落としによって墜落した。(運輸省航空事故調査委員会による結論。下記のように、いくつかの異論も存在している)
[編集] 事故の経過
本事故は、機体JA8119にとっては3度目の事故である。
[編集] 墜落前の事故
- 1978年6月2日、東京国際空港(羽田空港)から大阪国際空港(伊丹空港)へのフライトで着陸しようとした際、パイロットが操縦桿の操作を誤ったため、機体が通常の着陸角度より上に上がりすぎ、滑走路に機体尾部を接触させるしりもち事故を起こし、機体尾部にある圧力隔壁を破損。機体のバウンドによりケガ人が3名発生。この事故での圧力隔壁のボーイング社における修理ミスが日本航空123便墜落事故の引き金になったとされている。
- 1982年8月19日、羽田空港から千歳空港へ飛行し着陸の際、機体が右に逸れ誤って第4エンジンを地上に接触させたため、機長は着陸復航を行った。原因は天候による視界不良および機長が副操縦士に着陸操縦を行わせたという社内規定違反である。
後者の事故によるエンジン損傷は事故調査報告書によれば、本墜落事故の直接の原因にはなっていない。
[編集] 事故当日のJAL123便
当日のJAL123便は18時00分羽田発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、串本上空で北西に進み、18時56分伊丹着のフライトプランであった。
フライトに使用されたJA8119は就航以来約18800回飛行し、当日は503・504便で羽田〜千歳、363・366便で羽田〜福岡を往復し、伊丹行き123便で5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し、130便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
乗務員は以下の通り計15人。年齢は事故当時。
- コックピット・クルー
コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた佐々木副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。高濱機長は副操縦士席で佐々木副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、福田航空機関士は363便と366便でJA8119に、佐々木副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、高濱機長は当日最初のフライトであった。
- 客室乗務員
- チーフパーサー:波多野 純(はたの じゅん、39歳)
- 以下女性乗務員11人。
乗客は509人。搭乗方式はボーディングブリッジではなく、搭乗待合室から地上に降りて徒歩でタラップを昇る搭乗であった。
18時04分に乗員乗客524人を乗せた123便は定刻をやや遅れて[9]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15L[10]から離陸した。
[編集] 緊急事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ftを通過したところで緊急事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[11]。フゴイドやダッチロール[12]を起こした機体は迷走するとともに上昇、下降を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20000ft (6000m) 以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(車輪などの降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft (4600m) も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉県上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
[編集] 客室内の状況
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンス[13]が流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間があったまれなケースである。
デッドヘッド乗務の生存者によれば「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と語っており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー (CVR) には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。その他、不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた一人の客室乗務員によるメモや、異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されている。
[編集] 地上との交信
- JAL123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77 (7700) 」の無線信号を発信、信号は所沢の東京航空交通管制部 に受信された。直後に機長が無線で管制部に対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、管制部はそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は遠回りとなる右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
- 27分 東京航空交通管制部が123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、管制部は日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
- 28分 東京航空交通管制部は123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。管制部はこの時初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。
- 31分 東京航空交通管制部は羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。通常は航空機と地上との無線の交信は英語で行われているが、管制部は123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後の交信では123便は一部日本語が用いられている。
- 33分頃 日航はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ、日航は了承した。
- 40分 東京航空交通管制部は、123便と他機との交信を分けるため、123便専用の無線周波数を準備し、123便にその周波数に変えるよう求めたが、応答はなかった。
- 42分 逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めたが、一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。
- 45分 無線のやり取りを傍受していた在日米軍の横田基地(RAPCON) が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「操縦不能」との声が返ってきた。管制部が「東京アプローチ (羽田空港の入域管制無線) と交信するか」と123便に提案するが、123便は拒んだ。
- 47分 123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求め、東京航空交通管制部は真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と質問すると、123便から「アンコントローラブル」(操縦不能)と返答がきた。その後、管制部は東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
- 48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
- 49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答はなかった。
- 53分 東京航空交通管制部が123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。管制部と横田のRAPCONが返答、RAPCONは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。東京航空交通管制部も東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
- 54分 日航も呼び出しを行ったが応答はなかった。123便から現在地を尋ねられ、東京航空交通管制部が羽田から55マイル (100km) 北西で、熊谷から25マイル (45km) 西と告げる。
- 55分 (この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)東京アプローチから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後に東京アプローチが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も56分前まで東京アプローチと横田のRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが応答はないままだった。
- 57分 横田のRAPCONが123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル (65km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京アプローチも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、すでに123便は墜落していた。
[編集] コックピットと機体の状況
衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。この事は「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。
コックピットボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。異常発生直後から油圧操作の効果がほとんどないにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最後まで把握できていなかったもようである。尾翼部分はコックピットからは目視できないため、油圧系統全滅を認識しながらもパイロットは油圧での操縦を試みている。
ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。本来当時のコックピット・ボイスレコーダーは30 分の 1/4 インチ・エンドレステープレコーダー (始点と終点のない輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである[14]。
18時24分35秒頃、ボイスレコーダーに何らかの衝撃音[15]が録音されている。衝撃音直後に機長は「なんか爆発したぞ」と言っている。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」とどなる声が記録されている。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。27分、異常発生からわずか3分足らずで全ての油圧の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。
同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」という言葉が記録されている。
31分ごろ、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案[16]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している[17]。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。これを回避するために、38分ごろランディング・ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
46分、機長の「これはだめかもわからんね」との発言が記録されている。47分ごろから彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。このころから山岳地帯上空へと迷走していった。右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が、操縦している副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。このころからエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行いはじめたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。
49分ごろ、機首が39度に上がり、速度は108kt (200km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびに「パワー」と指示する声が残っている。50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。このころ速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分ごろから機体が安定しだした。
54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt(330km/h)まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ-10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
しかし55分12秒、フラップを下げたとたん、機体は右にそれながら急降下を始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と連呼し、すぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。このころ高度は10000ft(3000m)を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「あげてます」と返答する。07秒ごろには機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫んだ。
[編集] 墜落
クルーの努力も空しく123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt(640km/h)に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の破壊が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字の形で公表されたが、この叫び声は判読不能とされている。
衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した。後の調査によれば、機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされ、両主翼も離断し炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった[18]。
墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある[19]。
[編集] 捜索・救難活動
123便の機影は墜落直前、18時56分02秒にレーダーから消失した。高度3000m以上は通常レーダーにより監視されていることから、レーダーにも写らない低空飛行、地上への墜落、のいずれかの事態が考えられた。なお、レーダーのアンテナは箱根山の山頂にあった。
18時59分、救難調整本部が警視庁、航空自衛隊、海上保安庁に通報した。一部関係者は低空飛行をし続けている事を願い、日航、東京航空交通管制部などが123便に対して呼び出しを続けていた。社内専用無線では同僚たちからクルーへの励ましの言葉も伝えられたと言われている。19時21分に自衛隊機が秩父市近郊[20]で山火事を発見、一部で123便の墜落地点かと推測も飛び交ったが、日航、東京航空交通管制部などは諦めずに交信し続けた。しかし19時半を過ぎても依然としてレーダーに123便の機影は写らず、どの空港や基地にも123便が着陸したとの情報もなかったため、墜落がほぼ確実なものとなった。たとえ低空飛行を続けていたとしても、燃料が枯渇する頃と推測されたことから、各機関は捜索準備に取りかかる。レーダー消失地点などから捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定され、19時45分に運輸省(現在の国土交通省)に捜索本部が設置され、捜索が開始された。そして20時30分、関係機関は山火事が確認された長野県南佐久郡近郊を123便の正式な墜落地点とした。
複雑な地形、険しい山地、日暮れの時間帯という悪条件が重なり、更に県境だったため管轄面のことから、一部の新聞社などのヘリコプターや自衛隊機では墜落現場を確認できたが、正確な場所の特定にはなお時間がかかった。救助も当時のヘリコプターの装備・仕様では、夜間における接近は困難であったために、地上からの救出に全力を挙げることとされた。レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出したのはあくる13日午前4時前だった。大半は徒歩で現場まで向かい、付近は険しい地形だったため墜落現場に到着したのは事故から14時間ほど経った13日午前8時半であった。捜索開始当初、墜落現場は長野県側ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁(現・防衛省)の発表やNHKによる「墜落現場」の報道が二転三転したうえ、悪戯や誤報に惑わされ、各機関が独自の憶測で行動し、連携がとれずおおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。また、123便が輸送していた医療用放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も、到着が遅れた一因となった。
このため、現場に一番早く到着したのは日の出とともに登った地元の消防団であった。
[編集] 自衛隊の捜索協力
事故直後、123便が墜落したと判断した航空自衛隊レーダーサイト要員からの具申を受け、当時の中部航空方面隊司令官で空将の松永貞昭は捜索機の緊急発進を了承。百里基地にスクランブル待機していた第305飛行隊のF-4EJ戦闘機が現場へ向かったほか、百里救難隊(航空救難団)も待機状態に入ったが、災害派遣命令がなかなか出されなかったため、事故から1時間後に独自で出動。また入間基地及び、陸上自衛隊立川基地のヘリコプターも夜間から朝方にかけて現場の詳細な位置を確認して報告した[21]。
当時公試中であった海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」(艦番号DD-130)は、相模湾で事故機の垂直尾翼の一部を偶然発見、回収した。
正式な災害派遣命令が下された後に、陸上自衛隊の部隊などが現地入りして捜索救出活動を行った。現場は険しい山中であったために車輌の進入やヘリコプターの着陸は容易ではなかった。遺体収容に先立って生存者4名が陸上自衛隊の輸送ヘリコプターV-107によって現場から救出・搬送された。この際の、上空でホバリング中のヘリコプターの生存者の収容作業は、救出活動を象徴する映像となった。
当時の自衛隊には、夜間しかも山間部での救難活動が可能なヘリコプターがなかった。また、事故発生直後、事故現場上空で捜索活動を行った航空自衛隊・百里救難隊所属の救難ヘリコプターV-107「バートル」には現場周辺を明るく照らす照明弾が装備されていたものの「照明弾が地上に落下した後、燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として使用が出来なかった。
これを教訓として1990年より夜間捜索可能な赤外線暗視装置を装備した、UH-60 ブラックホーク救難ヘリコプターが順次調達されている。
事故発生翌日朝、報道機関のヘリコプターが多数、墜落事故現場上空に殺到し、現場上空の航空管制のため、航空自衛隊入間基地航空総隊司令部飛行隊所属のYS-11FCが派遣された。
[編集] アメリカ軍の捜索協力
[編集] 墜落位置の特定
墜落機の飛行状況は、在日米軍も把握していた。テレビで放送された録音テープによれば、横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し呼びかけていた。
墜落場所も早い段階で把握していたとされており、迷走飛行している123便の近くを偶然飛行していたアメリカ空軍のC-130輸送機のパイロットが、日本語による管制が長く続いていることと、横田基地から民間機への呼びかけが繰り返されていることで異変を察知。急遽飛行ルートを変更し123便を追尾した結果、墜落から約1時間後に墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。
[編集] 現場に急行
その後、米海軍厚木基地から暗視カメラを搭載している救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていたが、救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。事故直後には生存者がまだ多数存在したため、これによって犠牲者が増えた。
出典不明であるが、日本の事故に対する米軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、米軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われているという情報がある。国内の事故に対する米軍の救出活動への参加と政府の迅速な判断に課題を残した。
警察庁上層部が米軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、理由はメンツとも、国内の事故に指揮命令系統が違う米軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも言われた等、諸説ある[要出典]。
[編集] 関係機関の連携体制
在日米軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明には「アメリカ軍の現場特定及び救出活動の申し出はすべて誤報であった」として否定された。
当時航空幕僚監部広報室長であった佐藤守は後日、「在日アメリカ軍報道部長から確認したこと」として、「アメリカ軍から援助の申し出があったのは事実であるが、当時の在日アメリカ軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等であり、さらにそれを日本側が拒否した事実もない」とし、オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを広げた」と批判した[22]。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を生む一因ともなった。
なお、事故より10年後に「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」と改めて発表されている。この内容は後年に新潮社の週刊誌に詳細記事として掲載されたり、上智大学文学部で英語の入試問題として採用されたりしている。
当時の東京消防庁航空隊には強力サーチライトを搭載したアエロスパシアル製ヘリコプターが2機配備されており、事故当夜は関係省庁からの要請に備えいつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁に出動要請は来なかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この東京消防庁所有の高性能ヘリコプターの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の状態だったこともあり、緊急時における縦割り行政の救難体制の問題点が浮き彫りになった[23]。
[編集] 遺体収容・検屍・身元確認作業
墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。遺体は、機体から投げ出され樹木に突き刺さったもの、機体の残骸にはさまれたり切断されたりしたもの、一部が落下の衝撃で地中深くに埋もれたもの、圧力によって2名の体が一つにめり込むように合体したようなものなどが発見された。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部位や、墜落の摩擦で完全に消失した部位もあった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。例として、機長の遺体は前歯5本のついた下顎のみであったことや、歌手の坂本九の遺体は胴体のみで、遺体がつけていた笠間稲荷神社のペンダントにより身元が判明したことなどが挙げられる。これらの例は、墜落時の体にかかる衝撃のすさまじさを物語っている。推算によると、この墜落事故で一人にかかる衝撃は980tと言われ、広島での原子爆弾炸裂時に爆心地にいた犠牲者や広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が受けた衝撃の28倍に相当する。
当初、遺体は墜落現場から山道を自衛隊員・地元消防団・警察官等で人海戦術を使い、上野村で検視、身元確認作業を考えていたが、「遺体の損傷がひどく、山道で降ろす場合上野村まで時間もかかり、気候・気温と時間経過により遺体の腐敗進行が早まっているため、人海戦術では無理」と判断され、「上野村ではあまりにも規模が大きく対処しきれない」と結論づけられた[24]。墜落現場に臨時のヘリコプター発着場が自衛隊によって突貫作業で造られ、8月14日午前から遺体搬出作業が始まった、直線距離で墜落現場から約45キロ離れた群馬県藤岡市へ自衛隊・警察のヘリコプターで運ばれた[25]。
群馬県藤岡市にある「藤岡市民体育館」に遺体検視兼安置所が設置された[26]。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部及び東京歯科大学の教授陣、法医学者、法歯学者、歯科医師、看護師、赤十字関係者などが全国から駆けつけ[27]、猛暑・死臭などの劣悪な環境の中で判別作業が進められた。事故現場から搬出され、検視された遺体総数は2065体[28]に上り、520人の犠牲者のうち、ほぼ五体そろった遺体として発見されたのは177体、そのほとんどが機体後部からのものだった。他は身体の一部[29]や遺留品のみで識別され、身元が判別できない膨大な量の遺体片が約400体強残され、アメリカ人1名を含む2名の遺体はついに確認できなかった。最終的な身元確認作業の終了までには、約4ヶ月の時間と膨大な人員を要し、遺体回収にかかわった大半の人が、普段の生活において肉類の食事を取ることができなかったという[30]。最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行なわれ、火葬に付された後に墜落現場に近い上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。その後十数年を経たころに、現場跡から遺骨片が発見されるケースもあった。
藤岡市民体育館は遺体検視後も死臭を取り除くことができず、解体され別の場所に新しく建て替えられている。跡地は公園や市民ホールとなり、公園の一角には慰霊記念碑が設置されている。
[編集] 日本航空123便墜落事故の報道態勢
[編集] NHK
NHK総合テレビにおいては午後7時の定時ニュースの終了直前(午後7時26分)に、松平定知アナウンサーから「羽田の空港事務所に入った連絡によると、午後6時に羽田を出発した大阪行き日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」と短い原稿読み上げがあった。ミニ番組「テレマップ」を挟み、午後7時30分からはお盆の夏季編成としてNHK特集『人間のこえ・日独米ソ・兵士たちの遺稿』が予定通り始まったが、午後7時35分頃には「急遽番組を中止します」のアナウンスとともに画面はニューススタジオに切り替わった。このとき、専門家として『マッハの恐怖』などの航空事故解析の著書に実績のある柳田邦男(元NHK社会部記者でもある)が解説に入ったが、当日の午後9時40分からは柳田原作のドラマ『マリコ』が放送される予定で、ドラマの作者が航空専門家という偶然があった。事故発生当時、本人は自宅にいて、当時『ニュースセンター9時』のキャスターだった木村太郎からの出演要請により、多摩の自宅からタクシーで入局した。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析したという[31]。『死角 -巨大事故の現場- 』(新潮社文庫版)では、解説で倉嶋厚が当時のスタジオ内の状況を書いている。この後、日航本社、運輸省、帝国ホテル(乗客家族の対応拠点)、羽田東急ホテル(乗客家族の対応拠点)、羽田空港、大阪空港、大阪放送局、当初墜落地点とされた長野県の長野放送局や長野県警などからの中継を交え、終夜放送となった[32]。翌13日朝からの通常番組は休止され、報道特番態勢が続けられ、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。NHKラジオも第二放送での続基礎英語の放送を取りやめて臨時ニュースとして繰り返し放送された。
2005年に放送されたNHKテレビドラマ『クライマーズ・ハイ』のワンシーンに、ドラマ内映像として松平アナウンサーが速報で第一報を伝えるシーン、大阪空港日航対策室から報告するシーン、NHK長野放送局から報告するシーン、NHK社会部から最新情報を伝えるシーン等、当時の映像が使われた。
[編集] TBS
TBSの第一報は『クイズ100人に聞きました』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった[33]。TBSは12日当日は通常通りの放送態勢で、午後8時から『水戸黄門』、午後8時55分から5分間ニュースで速報を伝えた後、午後9時から『月曜ロードショー』映画『東京裁判・後編』を放送していたが、各番組内で逐一「ニュース速報」を流し続けた[32]。TBSは映画『東京裁判・後編』を最後まで放送した後、日付が変わった13日午前0時02分からの『JNNニュースデスク』は内容を大幅変更して放送し、 午前0時17分からの『JNNスポーツデスク』の通常通りの放送を経て、 午前0時32分から予定していた深夜番組を休止し、「JNN報道特別番組」に切り替え、『JNNニュースコープ』司会の田畑光永キャスターを、メイン・キャスターとして『JNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした。翌13日朝の『森本ワイド モーニングEye』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。またTBSラジオでも報道特番が行われたようである。
[編集] フジテレビ
フジテレビの第一報は『月曜ドラマランド』「一休さん」(富田靖子主演)放送中の午後7時半頃に流した「ニュース速報」だった、その後ドラマを中断することなくドラマ内で逐一「ニュース速報」を流し続けた、午後10時より露木茂アナウンサーをメインにした『FNN報道特別番組』を放送を開始、約10時間に渡り放送した[32][34][35]。翌13日朝の『おはよう!ナイスデイ』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。生中継に必要な機材を墜落現場に運び上げ、現場上空の同社ヘリが受信中継し、『FNNニュースレポート11:30』において生存者救出の映像を事故現場から唯一生中継した。他局は生中継機材が間に合わず、録画取材となった[36]。『笑っていいとも!』は放送開始後10分で中断され、生存者が陸上自衛隊ヘリに引き上げられる映像の生中継に変更された。
[編集] テレビ朝日
テレビ朝日の第一報は『月曜スペシャル90』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった。午後9時から予定していた番組を変更し「ANN報道特別番組」に変更された。翌13日朝の『モーニングショー』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
[編集] 日本テレビ
日本テレビの第一報は、午後7時過ぎにアニメ番組『ダーティペア』[37]内にて日本航空123便が行方不明になったことを「ニュース速報」としてテロップで流した。午後7時45分にもバラエティー番組『大きなお世話だ』内で乗客乗員数、レーダー機影消失時刻を加えた「ニュース速報」を放送。続いて放送されていた日本テレビの『ザ・トップテン』では番組冒頭に、司会の堺正章が緊急ニュースがあるとの前置きをした後、報道センターから小林完吾キャスターが速報で報道、時折番組を中断しては、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(この時点では墜落は未確定)を報道していた。午後9時から予定していた通常番組を変更し『NNN報道スペシャル』の報道特番に変更され、久保晴生キャスターがメインキャスターで伝え、専門家として航空評論家・中村浩美が解説した。その後午後11時からの『きょうの出来事』も大幅に内容を変更し報道特番態勢になり、後続番組『11PM』を休止し、小林キャスターが『きょうの出来事』から引き続き『NNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした[32]。翌13日朝の『ズームイン!!朝!』、『ルックルックこんにちは』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
[編集] テレビ東京
[編集] ニッポン放送
AMラジオ局のニッポン放送は、通常放送の生番組の中で随時速報を入れた。12日深夜1時(13日午前1時)からの生放送番組『中島みゆきのオールナイトニッポン』は、この日事前に録音されていたため同番組の中止を決定し、オールナイトニッポン第2部担当の上柳昌彦アナウンサーが早朝5時まで報道特番を担当した。
[編集] 毎日放送
大阪の放送局・毎日放送のラジオ(MBSラジオ)は、月曜22時からのレギュラー番組『MBSヤングタウン』のほとんどを関連のニュースに充てた。この日のパーソナリティー・明石家さんまも、123便に乗ってスタジオに入る予定だったが、急遽搭乗便を一本早め難を逃れた。このため、さんまのショックも大きかったため、ニュース以外の部分では音楽が流された。また、テレビの方は、TBSと同じ編成だったが、翌13日のMBSナウでは関連ニュースを中心に伝えた。
[編集] 新聞各紙
翌朝の新聞一面はこの事故がトップとなったが、夜間の為、墜落地点の情報が錯綜したまま朝刊締切時間となり印刷され、「長野で墜落」や「長野・群馬県境付近で墜落」などの見出しとなった[38]。
[編集] 写真週刊誌など
最初に現場へ到着したカメラマンは、FLASHが専属契約をしていた大学生アルバイトカメラマンだった。カメラマンの間では、今でも折に触れ日航機事故の話題がのぼる。カメラマンらの撮影した遺体を含む現場写真の多くが、写真週刊誌に無修正で掲載された。
[編集] 記者会見
8月13日午前8時、羽田空港オペレーションセンターで高木養根日航社長による5分間の記者会見が行われた。8時30分ごろ羽田空港21番スポット(VIP用〈当時〉)に到着した遺族搭乗の大阪発臨時便のタラップ下で高木養根社長が遺族に頭を下げた。機内で行なう予定だったが報道陣のため降りた。その写真をAFPが配信、ニューヨーク・タイムスの8月14日の記事や8月17日の社説などに取り上げられた[39]。
[編集] 事故の原因
航空事故調査委員会が結論付けた事故原因の要点は以下の通りである。
- 1978年6月2日に大阪国際空港で同機がしりもち事故を起こした。
- その後のボーイング社による修理が不適切であったため、飛行の度に客室へ与圧を繰り返す内に圧力隔壁に金属疲労が蓄積した。
- 金属疲労が限界を超えたため、飛行中に圧力隔壁の破壊が発生した。
- 圧力隔壁から漏れ出した空気が後部の空洞を伝って垂直尾翼を破壊し、航空機後部の4系統ある油圧操縦システムの全てが失われて操縦不能に陥った。
- 油圧の無い状況でフラップを出しすぎたため、急激なダイブに陥り墜落した。
[編集] その他の仮説
航空事故調査委員会による結論以外に様々な仮説が出されているが、科学的検証が不十分な(もしくは全く無い)仮説が散見されており注意が必要である。
「航空事故調査委員会による結論」は、当時の乗員・乗客の行動や生存者の証言との矛盾点として、圧力隔壁破壊が発生した場合に起きる急減圧、室温低下などの現象が証言からは発生したことが窺えない点が指摘されている。それによれば、7000メートルを超す高空で圧力隔壁が破壊された場合、機内の気圧が急激に低下し、減圧症により乗員・乗客が意識喪失してしまう可能性が高いにもかかわらず、同機では前述のように遺書を残したり、機内を撮影した乗客がいることを考えると急減圧が起きていなかったのではないかと推測される。実際に、2005年8月14日にキプロス・ヘリオス航空のボーイング737型機がギリシャ北部の山中へ墜落したヘリオス航空522便墜落事故では、与圧装置のモード変更ミスによって同レベルの高高度で上記の「急減圧」が発生し、操縦士が意識を喪失したことが墜落の主原因とされている。救援に向かったギリシャ空軍戦闘機のパイロットが目撃。急減圧が発生すれば人体への影響が大きい事を示している。1972年にDC-10の貨物ドアが設計・製造時の欠陥のために飛行中に破損したアメリカン航空96便貨物ドア破損事故では、貨物ドアが壊れて急減圧が起きた瞬間機内では埃が舞い上がって何も見えなくなってしまったとされている。しかし、123便の機内でそのようなことが起きた形跡はない。
この矛盾のため、フラッター現象や、機体の構造的欠陥(2002年に機体の老朽化によりチャイナエアラインのボーイング747が南シナ海海上で空中分解を起こしたチャイナエアライン611便空中分解事故がある)などの事故原因を主張する専門家やジャーナリストも多い。
また、垂直尾翼が破損した後に多くの部品が相模湾に落下したにもかかわらず、事故調査委員会がそれらの部品の捜索を早期に始めなかったことやすぐに打ち切ったことが「航空事故調査委員会による結論」に疑問的見解を持つ者たちの一つの拠り所になっている。
一方では、当時ボーイング社が事故原因の結論を急いでいたとの指摘もある。これは同年6月に大西洋上でインド航空のボーイング747が墜落する事故(後に爆破テロと判明)が発生しており、ボーイング747シリーズ全体に重大な欠陥が存在していた可能性があると考えられたためである。結果的に事故機固有の欠陥が原因であるとされたが、400型では垂直尾翼の設計が変更になっている。このことから、ボーイング747型機の気密安全の構造上の問題(急激ではない、慢性的な圧力漏れがあった際には、圧力隔壁後部の機体側に存在する安全弁が働かない可能性など)を隠し、世界中で運航されていた747型機を飛行停止にしないために、事故原因を単なる修理ミスによる圧力隔壁の急激な破壊として事故の早期解決を図ったとの意見もあり、実際に、事故後に400型機へと改良された際に、上記の気密安全構造が改修されているという事実も存在する。
一部で、自衛隊の訓練用空対空ミサイル標的機や訓練用空対空ミサイルの衝突など、外部から受けた衝突などの説が囁かれているが、標的機やミサイルなどが衝突した場合、空中分解に至らずも尾翼周辺に何らかの痕跡が残るのは必至で、隠滅も困難だが、機体後部は垂直尾翼を除き大半が回収されており、痕跡も発見されていないので、その可能性は少ない。
操縦室内の音声を記録したコックピット・ボイスレコーダーは現在日本航空が管理しており、今後、再調査の必要が生じれば提供する用意があるとのことである。日本航空機長組合[40]、日本航空乗員組合[41]は2006年11月現在も事故調査結果に納得しない旨、再調査を求める意見をウェブサイト上に掲げているが、事故から20年を迎えた2005年に航空・鉄道事故調査委員会は「現在のところ事故の再調査をする予定はない」と公表している。
[編集] 乗客
事故当時は夏休み中で、翌日の「お盆の入り」を控えていたこともあり、休みに入っていた人が多かった。そのため、同機には出張帰りのサラリーマンのほか、帰省客や、翌日に行われる甲子園球場での第67回全国高等学校野球選手権大会に出場する学校の関係者[42]、茨城県筑波郡谷田部町・新治郡桜村(現・つくば市)で開催されていた筑波科学万博[43]や東京ディズニーランドなどからの帰宅者、海外からの観光客など多くの搭乗者があった。最終便での「積み残し」を防ぐためにも最終便1本前の同機は、ほぼ満席の状態だった。生存者は4人おり、26歳女性(日本航空の非番の客室乗務員)、34歳女性と8歳女性の母子、12歳女性であった。
歌手の坂本九[44]、元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガース球団社長の中埜肇[45]、ハウス食品社長の浦上郁夫[46]、大阪大学教授の塚原仲晃、コピーライターで中島らもの師匠でもあった藤島克彦、大相撲の伊勢ヶ濱親方(元大関・清國)の妻子、タレントの吹田明日香の母など、著名人が多く乗り合わせていたことも大きな関心を引いた。
元・宝塚歌劇団雪組トップスターの女優の麻実れいとタレントの明石家さんまは搭乗する予定だったが急遽搭乗便を一本早めたため、また当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝は夏期休暇で大阪への帰省で搭乗する予定だったが、妻の勧めで直前に取り消し、東海道新幹線に移動手段を変更したことから難を逃れた。当時逸見が司会を務めていた「スーパータイム」は先輩の露木茂が代行を務め、事故発生後のFNN報道特番も露木が担当した[47]。また、有名人と同姓同名の搭乗者がいたため、テレビ局に多くの問い合わせがあった[48]。
事故当日のダイヤでは、18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で全日空機も飛んでおり、日航機に乗るか全日空機に乗るかで、事故に遭うか否かを分ける結果となった。また、その日その時間帯に限って、東京モノレール羽田線が10分程度遅れたために搭乗を逃し、バスやタクシーで羽田空港に向かっていたものの渋滞に巻き込まれ搭乗できず、結果的に難を逃れた客もいた[49]。
また、新聞等で公表された搭乗者リストの中に名前があり、生存が絶望視されていたと思われた最中に自宅に帰宅していたり、実は乗っていなかったという人が少なくとも3名以上いた。本人名義で既に購入していた事故機の航空券を直前に金券ショップに名義を変えずにそのまま売却したり、その場で第三者にその航空券を譲渡したりしたためである。
結果的に名義人は難を逃れたが、代わりに搭乗して犠牲になった第三者は当初搭乗者リストに載らなかったため、第三者の遺族への通達も大幅に遅れ、現場の遺体の識別作業に時間が掛かることとなった。この件に関しては事故の数日後にマスコミにも知らされ、後日改めて新聞等に掲載された搭乗者リストでは名義人の名前は削除されている[50]。
[編集] その後
[編集] 事故後の便名
事故以降、JAL123便は翌日(8月13日)は欠航[51]、その後8月14日〜31日までは123便のままで運航していた。9月1日から1ヶ月間は同ダイヤで応急的に133便となり、同年10月以降は同ダイヤで125便として運航が継続されることとなった。以降、JAL123便は無期限の欠番となる[52]。
1994年9月には関西国際空港が開港し、大阪便としての便数振り分けに伴って伊丹便は減便され、同ダイヤで107便となり、120番台便名は使われなくなった。2000年4月には昼間時間帯に増便されたため同ダイヤで109便となった。
1997年7月には羽田 - 高知線が開設され、再度120番台便名が使用されたが、2往復中、羽田発が121便と125便、高知発が122便と126便で、123便と124便は使われていない。
2003年4月には日本エアシステムとの統合準備に伴い、羽田-高知線はJASによる運航に統一されたため、再度120番台便名は使われなくなった。翌年の便名4桁化まで使われることはなかったため、この時点でJALの120番台便名は一旦消滅した。
2004年4月のJALとJASの統合後は、便名4桁化に伴い同ダイヤで1525便として運航されていたが、2005年11月に運航ダイヤが調整され、1525便は18時30分発に変更された。
2007年4月より羽田発着の幹線を中心とした主要路線の一部便名を3桁に変更した。羽田-伊丹便では2004年3月までと同様に100から(149まで)が使用されることとなり、再々度120番台便名が使用されることとなったが、羽田発は121便の次は125便、伊丹発は120便の次は124便となっており、122便と123便は使われていない。
123便の運航時刻上の流れを汲む1525便は、2007年4月より事故の翌月に応急的に使用された133便となり、18時25分発に変更された。
「123」は「任意の3桁の数字」として便宜的にしばしば用いられる数字である。そのため、航空に関する事項の説明を行う際、「日本航空123便」が航空便名の例として用いられることがある[53]。
JALに限らなければ現在ANAが羽田発那覇行き国内路線に123便を使用している[54]。
[編集] 事故の影響
事故直後に「原因」として航空機の知識に欠けるマスコミによって取りざたされていたものの一つに「操縦ミス説」があった。事故前当時、日本航空ではトラブルが多発していた上、事故の3年前に日本航空が起こした羽田沖墜落事故では機長の異常な操縦が原因で墜落し、大惨事を起こした直後ということもあって、世間は事故原因が特定していないにもかかわらず、感情的に日本航空関係者やクルー、その家族にまで怒りをぶつけた。特に機長の遺族に対しては凄まじかったようである[要出典]。
クルー遺族には連日、嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次ぎ、遺体安置所では日本航空社員が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出ていた。このため、クルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後、裏側から入室、数十分間の限られた時間で確認させたり、乗客遺族が帰った深夜に行うなどの措置をとった。
当時の日本航空の社長である高木養根は事故の責任を取って直後に辞任した。1982年の就任以来わずか4年の社長在任だった[55]。
事故当時後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告看板は事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消され、他にもテレビやラジオ、雑誌、新聞などの広告が一定期間出稿停止された。また1963年の放送開始から優勝者のハワイ旅行の協賛スポンサーだった、毎日放送(MBS)制作・TBS系列の『アップダウンクイズ』も事故の余波を受け[56]、同年10月6日の放送をもって22年の歴史に幕を閉じた。また日航の客室乗務員をモデルにしたドラマ『スチュワーデス物語』の再放送も、事故後数年間行われなくなった[57]。
事故に関して日本航空が支払った賠償金[58]の総額は、当時の額で約600億円である。以後数年間、特に帰省ラッシュシーズンには競合相手である全日本空輸と東亜国内航空に利用者が流れ込み、日本航空の業績は一時的に大幅に傾いた。同社だけでなく全日空や東亜国内航空の利用者も一時的に減り、東海道新幹線およびその他の鉄道路線の利用客は増加した[要出典]。
日本航空は会社のイメージを一新させるため、1987年に民営化。1990年にはCI(コーポレートアイデンティティ)により塗装を一新した。
[編集] 現在
墜落現場である「御巣鷹の尾根」には事故の翌年、慰霊碑が建立され、[59]毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。事故発生から20年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから、2006年8月より墜落現場付近を通る砂防ダム工事用道路が村道兼林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された。[60]
事故から15年を目前とした2000年、乗務員の遺族が長年訴え続けたコックピット・ボイスレコーダー(CVR)の音声が、乗務員遺族のみに、聴取後日本航空に返却する条件の下、テープで公開された。
同年7月〜8月にかけて事故調査の資料がマスコミなどに大量に流出した。この中にはCVRの音声テープも入っており、以前に乗務員遺族が聞いた音声よりも鮮明だったという。8月8日にはテレビで一部音声が全国で放映され、この報道によって乗務員の努力が明らかとなり、それまで乗務員に批判的だった多数の乗客遺族らから、感謝や過去に非難・批判した事への謝罪の手紙や声が乗務員の遺族に届けられたという。
同年8月、運輸省の航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料を廃棄していたことが毎日新聞により報じられ、再調査を求める遺族からは運輸省側の対応を批判する声も上がった[61]。
2006年4月24日、羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された[62]。JA8119残存機体の一部[63]など、事故に関する資料を展示している。一般公開されているが、見学には事前の申し込みが必要となる。館内は、一般の入館者は撮影禁止となっている。
[編集] その他
- 陸上自衛隊はこの事故による出動の際、メーカーから「野外入浴セット」の提供を受けた。これが隊員の疲労回復に役立つと判明したため制式採用されることとなった。
- この事故から、航空機パイロットの間で、エンジンパワーの操作だけでもある程度までは飛行機の操縦が可能であることが知られるようになった。
- 事故発生当初、「ドアが破損した」という交信があったことから、1974年に発生したDC-10の墜落事故のように貨物室ドアが外れたために操縦系統に損傷を受け、操縦不能に陥ったと疑われていた。
- 日本航空の機内誌「ウインズ」(現・SKYWARD)の当月号には、連載中の全国市町村巡りの記事があり、墜落現場である上野村村長の記事が掲載されていたという偶然があった。
- 機長の発した「これはだめかもわからんね」という言葉は、インターネット上で慣用句となっている。[64]
- 1984年頃、『月刊コロコロコミック』に掲載された「パーマン」関連の特集ページで、パーマン1号に扮した子役が日本航空の747型機を持ち上げている合成写真が掲載されていたが、その機体は「JA8119」だった。
- 『月刊コロコロコミック』1985年10月号の読者投稿ページ「コロコロファンクラブ」に日本航空機墜落事故の犠牲となったファン達の冥福を祈るメッセージが編集部独自で掲載された。それによると墜落現場からバラバラになった『ドラえもん』や『パーマン』の単行本が発見されていたという。
- NHKはこの事故を契機に、山岳での報道に対応できる体制を整備した。
[編集] 遺族側による科学的事故の検証
遺族会員で技術者であった川北宇夫は、技術者の視点から、犠牲者がシートベルトで腹を割かれ、前方座席に頭を強打する形で死亡していた事実から、3点式のシートベルトの採用や、座席を後方向きに設置する案を提起している。これに対して製造元からは座席の位置の変更を行っても床の強度が同じではあまり意味がない、また後ろ向きの姿勢は居住性を損なう可能性があり、あまり実用的な提案ではないとの回答が返ってきた[65]。
3点式シートベルトの採用は経費や重量増加の問題をクリアできる可能性があり、すでに一部の小型自家用ジェット機の客席のシートベルトにオプションとして採用されている。ヘルメットやエアバッグの設置、遊園地のジェットコースターのような座席への固定装置の採用は、快適性との兼ね合いさえクリアできれば、現実的な選択肢である。2008年現在、エアバッグ内蔵のシートベルトは実用化されており、日本航空国際線のプレミアムエコノミークラスでも採用されている。
事故時にシートベルトを軸に体がくの字に折り曲げられる現象は航空業界では「ジャックナイフ」という名前で認知されているようだ[66]。
[編集] 事故を題材にした出版物など
この事故が社会に与えた影響は大きく、この事故をテーマにした文学作品や漫画なども数多い。
[編集] 小説
- 山崎豊子原作『沈まぬ太陽』
- 当時の日本航空をモデルとして社内からの視点で描いたフィクションの作品。映画化が決まっている。
- 横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』
- 当事故の報道における地元新聞社の苦悩を描いた作品。後述のようにテレビドラマ化・映画化された。
[編集] 漫画
- 『金田一少年の事件簿』
- 日航123便事故をモチーフとした復讐殺人事件の作品がある。
- 『探偵学園Q』
- 最悪の飛行機事故と用いられた事故は大阪行きで日航123便事故がモチーフ
- 『海猿』
- 日航123便事故と同様の原因で着水する事故の作品がある。
- 『ゴッドハンド輝』
- 主人公が航空機事故の唯一の生存者であるという設定。
- 諸星大二郎の連作短編『花咲爺論序説』『幻の木』『川上より来たりて』『天孫降臨』(「妖怪ハンター 天の巻」所収)
- 墜落事現場近くにあった“生命の樹”の力により唯一生き残った兄妹とその力を狙うものたちとの攻防が描かれている。
- 鎌倉ものがたり
- 西岸良平の原作の鎌倉市を舞台にしたミステリー・サスペンス・ホラー・コメディ漫画
- ある殺人事件で容疑者がアリバイを作るためジャンボ機に乗ったフリをし、事故に遭うと見せかけたアリバイ事件。
- 雑誌『PX MAGAZINE』に掲載された、小林源文作『御巣鷹山の暑い夏』
- (『ストライク アンド タクティカル マガジン』2007年11月号に36ページのセルフリメイクで再掲載)
- 自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画。
- 『異形人おに若丸』
- 猿渡哲也による伝奇アクション漫画。主人公の青年は、20数年前に発生した航空機墜落事故の最中誕生した乳児が成長した姿という設定。墜落地点が山岳部であることが作中明示されており、台詞の内容などから時期を逆算すると日航123便事故がモチーフであることが判る。
[編集] テレビ番組
一方テレビでは、ドキュメンタリーやドキュメンタリーと実録ドラマ並行形式等があり、20年目となる2005年には8月12日を前後に放送が相次いだ。
- 「NHKスペシャル」『思いをつづった文集-あの日を忘れないで-日航機事故 20年目の遺族』(NHK)
- 2005年8月12日放送。
- 「土曜ドラマ」『クライマーズ・ハイ』(NHK)
- 2005年12月10日・12月17日放送。2006年9月30日・10月7日再放送。上記の原作をドラマ化。
- 「NNNドキュメント」『ドキュメント05.「あの夏・・・御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年」』(日本テレビ)
- 2005年8月14日(深夜)放送。
- 『ボイスレコーダー〜残された声の記録〜ジャンボ機墜落20年目の真実』(TBS)
- 2005年8月12日放送。高濱機長夫人、原因究明に奔走する先輩機長から見た視点を中心に描かれている。
- 「金曜エンタテイメント」特別企画『8・12日航機墜落事故 20年目の誓い〜天国にいるわが子へ〜』(フジテレビ)
- 2005年8月12日放送。2007年12月15日一部地域で再放送。物語の核は甲子園での高校野球観戦をするため一人で搭乗し、亡くなったある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には東京航空管制部での対応や、生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている。
- 坂本九没後20年ドラマスペシャル『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』(テレビ東京)
- 「メーデー3:航空機事故の真実と真相」第3話「御巣鷹の尾根」(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
[編集] 演劇
- 「赤い鳥逃げた…」劇団離風霊船 - 1986年に初演。タイトルは当時日本航空所属の旅客機などに描かれていたシンボルマークと、事故当時に流行していた中森明菜の曲「ミ・アモーレ」の異名同曲異歌詞である「赤い鳥逃げた」 に掛けている。最近では2005年に再演。
- 物語は、事故の生存者と、同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。また、ラストでは生存者の一人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。
- CVR チャーリー・ビクター・ロミオ - さまざまな航空事故のCVRを再現。そのうちのひとつが本事故。1999年、アメリカ合衆国で初演され、日本では燐光群によって2002年に初演された。
- 「8・12(はってんいちに)」劇団裏長屋マンションズ - 同劇団の座長を務める俳優 赤塚真人が、同事故で親友を失った事実をもとに書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され、2008年「8・12 〜絆〜」として再演される。
- 物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山への慰霊登山を実施しているという。
[編集] 映画
- 「御巣鷹山」- 渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ、全国各地で上映を告知する異様な捨て看板が目撃されている。
- 「クライマーズ・ハイ」横山秀夫の原作を映画化。2008年、7月公開。
- 「沈まぬ太陽」山崎豊子の原作を映画化。2009年秋公開。
[編集] 音楽
- 「RAMP IN (1985年) 」「LAST FRIGHT (2003年) 」 ‐ 角松敏生作詞作曲。前者は1993年に発売されたベスト盤にて「85年に起きた飛行機事故の乗員乗客に捧げた」という解説を添えている。
- 「涙 tear(2001年)」 - 韓国の男性歌手、ルイ(루이)の、事故を題材にしたデビュー曲。PVも制作され、ハ・ジウォン、コ・スなどが出演した。
[編集] 怪談
- 「怪異夜話」(2005年) - 稲川淳二の怪談を収録したDVD作品の1つ。「日航123便」というタイトルで以前、稲川本人が出演した番組の関係者でこの事故の犠牲となった1人について語っている。また稲川本人もこの機に乗る予定だったが体調を崩し乗らなかったと語っている。
[編集] 脚注・出典
- ^ 事故当時、墜落地点は御巣鷹山と報道されたが、正確には高天原山系(たかまがはらさんけい)に属する無名の尾根であり、御巣鷹山の南隣に位置する。この尾根は後に、上野村村長であった黒沢丈夫によって事故現場に最も近い御巣鷹山から「御巣鷹の尾根」と命名された。
- ^ http://araic.assistmicro.co.jp/araic/aircraft/download/bunkatsu.html#5
- ^ この事故以前の日本国内で最多の航空機事故死者数は1971年7月30日に発生した「全日空機雫石衝突事故」の162名だった。
- ^ 世界で最多の死者数を出した航空事故は1977年3月27日に発生した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」で、滑走路上で2機のボーイング747が激突した事故によって583名の死者を出している。
- ^ この事故以前の単独機の航空機事故死者数が最多のものは1974年3月3日にフランス・パリ郊外で発生した「トルコ航空機墜落事故」の346名だった。
- ^ ボーイング社の旅客機を発注する際、最初に発注した航空会社を示すコードを指す(アルファベットとアラビア数字の組み合わせで表記される)。原則として、一度引き渡された機体を他社へ売却してもこのカスタマーコードは変わらない(必ずしも「発注した航空会社=所有している航空会社」を示すわけではない)。
- ^ たとえば、日本航空で運航していたボーイング747-446を全日本空輸へ売却した場合であっても「747-481」ではなく「747-446」のままで登録される。
- ^ 『イラン・イラク戦争』で邦人救援の救援機操縦に名乗り出たが、時間が間に合わず結局日本から救援機を飛ばせなかった。
- ^ 資料によれば遅れは4分ほどだった。各航空会社は、15分以上の遅延で初めて「遅れ」としていた為、(この規定での場合)当時123便は一応「定刻」で出発したことになる。
- ^ 事故調査報告書による。当時、15R/33L滑走路は駐機場に転用され事実上存在していなかったが、平行していた15L/33R滑走路には左右記号の表記がされていた。
- ^ エンジンと電気系統は無事だった。
- ^ フゴイド=機首が上下することにより、上昇・下降を繰り返し、速度も変化する現象。ダッチロール=機体の傾きと機首の方向が左右に変化を繰り返し、進行方向が安定しなくなる現象。「ダッチロール」はこの年の流行語にもなった。
- ^ Pre-Recorded announce。予め録音してあって緊急時に自動的に流れる、男性の声で乗客にシートベルトの着用やマスクの装着を指示した音声。
- ^ 『悲劇の真相-日航ジャンボ機事故調査の677日』 鶴岡憲一 北村行孝 読売新聞社
- ^ 報告書には「ドーン」という爆発音が一度で表されているが、音は「ガコン」に近い音が続けて二度記録されている。
- ^ 酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はない。その理由については不明である。
- ^ R5のドアは墜落現場で破損していない状態で発見されている。航空機関士は機長に対して「R5付近の酸素がおっこちてます、ディセンド(降下)したほうが良いと思います」と報告した後に「荷物の収納スペースのところがおっこちてる」と報告している。なぜ「R5のドアがブロークン」と羽田の日航オペレーションセンターへ連絡したのか、そもそも連絡がどのような内容であったかは不明であるが、機体維持に必死だったために混乱していた可能性が高い。[要出典]
- ^ 運輸省航空事故調査委員会(当時)による認定[1]
- ^ 『墜落の夏―日航123便事故全記録―』(吉岡忍・著、1986年8月、新潮社、ISBN 4-10-363001-9)
- ^ 後述の通り、この時点では上空からのおおよその特定のみで、墜落現場の正確な地点の発表や報道はされていない。
- ^ 百里基地のRF-4E偵察機は、当時即応体制になかったため、発進は翌朝6時だった。
- ^ 「いわれなき批判に反論する(その2)」。 「いわれなき批判に反論する」も参照のこと。
- ^ 昭和60年8月28日に行われた「第102回国会 交通安全対策特別委員会」議事録中ほどにある、当時の衆議院議員・坂井弘一委員と運輸省航空局管制保安部長・中村資朗の質疑応答を参照[2]
- ^ 一部書籍によると、表向き「上野村では不便」「上野村までの交通が混雑する」となっているが、本当の理由は「膨大な数になる棺を安置する場所がなかった」とのことであった。
- ^ 藤岡市立藤岡第一小学校・校庭は墜落現場からヘリコプターで搬出された遺体を載せたヘリコプターの発着場となった。
- ^ 家族待機所・遺体安置所として藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館が開放された。
- ^ 兵庫県の歯科医師が兄弟で、犠牲となった同じく歯科医師の父親を探すために参加、後にJR福知山線脱線事故でも活躍した。
- ^ 指1本・臓器だけ等の部位遺体も含む。
- ^ 機長は下顎と歯のみが発見されている。
- ^ 「米が蛆に見えてしまう」との理由から、米類を食べられなかった者もいた。
- ^ 木村太郎『事実の考え方』 新潮社
- ^ a b c d http://tvwatcher.fc2web.com/JAL123_001.html
- ^ この当時の『クイズ100人に聞きました』は月曜日19:20〜20:00の放送。
- ^ 記事月曜ドラマランド-エピソード参照のこと
- ^ 「金曜エンタテイメント」特別企画『8・12日航機墜落事故 20年目の誓い〜天国にいるわが子へ〜』の再現ドラマ内の第一報のシーンは「ムツゴロウ王国」の映像が使われていた。
- ^ http://tvwatcher.ojiji.net/JAL123.html
- ^ 当時『ダーティペア』は、一部系列局では未ネット。
- ^ http://www.geocities.jp/joox_tv2/jal123/
- ^ 新藤健一『映像のトリック』講談社現代新書 1986年 ISBN 4-06-148804-X
- ^ http://www.jalcrew.jp/jca/
- ^ http://www.jalcrew.jp/jfu/
- ^ 観戦のため一人で搭乗していた9歳の子供も犠牲となってしまった。
- ^ 日航は同博覧会の「オフィシャル・エアライン」だった。
- ^ この便への搭乗目的は、当日のNHK-FMでの仕事を終えたその足で大阪にある友人の事務所開きに選挙応援を目的として駆けつけるためだったが、その途中で事故に巻き込まれた。
- ^ 中埜は阪神電気鉄道の久万俊二郎社長(阪神タイガースオーナー)の代理として東京へ出張し、大阪の阪神電鉄本社に帰る途中に事故に巻き込まれた。
- ^ 浦上はグリコ・森永事件が収束したこと(1984年11月にハウス食品は犯人グループから脅迫されていた)を先代社長の墓前に報告するため大阪のハウス食品本社へ帰る途中事故に巻き込まれた。
- ^ 西川のりお、長江健次、岸本裕史らもこの123便に搭乗予定だったという(本人による談話のため話題づくりの可能性もあり)。
- ^ 当時在京キー局で勤めていたアナウンサーと同姓同名の搭乗者がおり、年齢もほぼ同じだったため多くの人に勘違いされた。その他、著名なプロ野球OBと似た名前の搭乗者がいたため、そのOBの元にも問い合わせがあったが、名前の読み方が異なり、年齢も大幅に違っていたため、誤解が広がるには至らなかった。
- ^ 一例を挙げると123便の搭乗間際になり老女が腹痛を訴え、搭乗をキャンセルしたため、難を逃れた老夫婦と孫もいた。
- ^ 当時の報道で、2日程名前の出ていた女性と、数日にわたって名前の出ていた男性が確認できる。
- ^ 同時刻に臨時便として羽田-大阪間の運航をした。
- ^ 事故による番号の欠番については、2005年4月25日のJR福知山線脱線事故で事故列車の列車番号であった「5418M」を無期限欠番とした例もある。また、1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故の「60便」は、事故便と同じ羽田〜札幌線で最近まで使用されていたものの、現在は何らかの理由で欠番となっている。
- ^ 当然ではあるが、これらを例として用いる場合の多くは、JAL123便墜落事故の便を指しているのではない。「JAL123便」がいわゆる「日航ジャンボ墜落事故」の便名であると知らない者が、意図せず使用することもある。
- ^ 2007年12月当時、羽田9:00発・那覇11:45着、2009年4月現在、羽田8:40発・那覇11:25着機種は747のハイテク版であるボーイング747-400Dである。
- ^ 就任直後に羽田沖墜落事故が発生。
- ^ 実際、9月8日に放送された「大学生大会」(同番組最後の3人ハワイ行き獲得大会でもあった)では、断りのテロップ表示やスチュワーデス登場シーンの割愛等が行われた。またフジテレビの『クイズ・ドレミファドン!』でもOPの差し替えがあったと思われる。
- ^ 奇しくも大阪地区では同番組の再放送中だったが、事故翌日にブルーバックで「日航機事故のため、スチュワーデス物語の放送は中止させていただきます」と断り書きが出て、別の番組に差し替えられた。
- ^ 正確には日本航空が支払ったのではなく、賠償金は全て日本航空が加入していた保険から支払われた。
- ^ 「悲しみ新たに『御巣鷹の尾根』 昇魂之碑の除幕式」『朝日新聞』東京夕刊、1986年8月1日。
- ^ 「御巣鷹・21年目の夏 (3) 聖地 慰霊の道、守り続ける」『毎日新聞』東京朝刊、2006年8月8日。
- ^ 「日航機墜落事故資料を廃棄 1トン『保存期間切れた』--運輸省航空事故調査委員会」『毎日新聞』大阪夕刊、2000年8月4日。
- ^ http://www.jal.com/ja/press/0000535/535.html
- ^ 後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど。
- ^ http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0508/12/news018.html ITmediaニュース:ネットで語り継がれる機長の言葉、事故の記憶
- ^ 2007.9.21『朝日新聞』
- ^ 内田幹樹『パイロット・イン・コマンド』文庫版259ページ
[編集] 関連項目
- 当事者
- 関連航空事故・事件
- 事故
- 航空事故
- パンアメリカン航空845便離陸衝突事故 - ボーイング747、1971年。ボーイング747の離陸が禁止されていた滑走路を誤って使用したため滑走距離が足りずに進入灯に接触し、4本の油圧配管のうち床下を走る3本を破断。操縦が困難になった。ボーイング747初めての人身事故。内田幹樹は著書の中で、この事故後に適切な設計変更がされていれば123便の油圧喪失は防げたのではと語っている。
- アメリカン航空96便貨物ドア破損事故 - DC-10、1972年。貨物室のドアロック機構に問題があり飛行中に与圧に耐えられず脱落した。貨物室の急減圧により床下の操縦索を損傷したが、一部の舵はかろうじて機能していた。このときの機長は油圧のみで操縦する第3世代の機種に不安を抱いており、油圧喪失時の操縦を研究していたことも幸いした。その懸念は123便の事故で現実のものとなってしまった。
- トルコ航空DC-10パリ墜落事故 - DC-10、1974年。上記のアメリカン航空96便の経験が活かされなかった。123便の事故が発生するまで、単独機航空事故として世界最大の死亡事故だった。
- オペーレーション・ベイビー・リフト - C-5、1975年。
- 大韓航空機撃墜事件(大韓航空007便) - ボーイング747、1983年。INSの故障によりソ連を領空侵犯しミサイルにより撃墜された。ミサイルは尾翼に命中し操縦索や油圧系統を損傷したとみられ、また急減圧が発生して緊急降下を試みたが墜落した。
- タイ航空機爆発事件(タイ国際航空620便) - エアバスA300、1986年。乗客の持ち込んだ爆発物による事故であり本事故と原因は異なるが、圧力隔壁の損傷にともなう急減圧の発生や、油圧喪失による操縦性の著しい低下など事故後の状況がよく似ている。
- ユナイテッド航空232便不時着事故 - ダグラスDC-10、1989年。本事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究していたパイロットが搭乗していたため、着地は不完全であったものの空港への帰還に成功した。
- チャイナエアライン611便空中分解事故 - ボーイング747、2002年。1980年に起こしたしりもち事故で修理した圧力隔壁が、金属疲労で壊れて墜落した。
- DHL貨物便撃墜事故 - エアバスA300、2003年。テロリストの発射した地対空ミサイルが命中し全油圧を喪失したが、バグダード国際空港への着陸に成功した。
- 航空事故
- 事故
- 関係書
- 関係者
- その他
- 山本夏彦 (生存者への言及)
- ナショナルジオグラフィックチャンネル(「メーデー!/航空機事故の真実と真相」第3シーズン第3話で当事故の発生時などの状況を再現して放送)
[編集] 参考文献
- 『航空大事故の予測 日航ジャンボ機墜落の謎』(井上赳夫・著、1985年11月、大陸書房、ISBN 4-8033-0942-6)
- 『日航ジャンボ機墜落事故』(朝日新聞社会部・編、1985年12月、朝日新聞社、ISBN 4-02-255441-X)
- 文庫版(1990年8月、ISBN 4-02-260606-1)
- 『墜落の夏―日航123便事故全記録―』(吉岡忍・著、1986年8月、新潮社、ISBN 4-10-363001-9)
- 文庫版(1989年7月、ISBN 978-4-10-116311-6)
- 『航空事故調査報告書. 昭和62年2 』(運輸省航空事故調査委員会・著、出版、1987年6月、[形態:2冊(別冊とも)]、全国書誌番号:87051796 )
- 『壊れた尾翼-日航ジャンボ機墜落の真実』(加藤寛一郎・著、1987年8月、技報堂出版、ISBN 4-7655-4337-4)
- 文庫版(2004年6月、講談社、ISBN 4-06-256854-3)
- 『悲劇の真相:日航ジャンボ機事故調査の677日』(鶴岡憲一、北村行孝・著、1991年7月、読売新聞社、ISBN 4-643-91059-3 )
- 『疑惑―JAL123便墜落事故』(角田四郎・著、1993年12月、早稲田出版、ISBN 4-89827-152-9)
- 『真説日本航空機事故簿』(内藤一郎・著、1994年10月、亜紀書房、ISBN 4-7505-9412-1)
- 『JAL123便墜落「事故」真相解明:御巣鷹山ファイル』(池田昌昭・著、1998年1月、文芸社、ISBN 4-88737-053-9)
- 『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』(飯塚訓・著、1998年6月、講談社、ISBN 4-06-209259-X)
- 文庫版(2001年4月、ISBN 4-06-256515-3)
- 『JAL123便は自衛隊が撃墜した:御巣鷹山ファイル2』(池田昌昭・著、1998年9月、文芸社、ISBN 4-88737-153-5)
- 『JAL123便空白の14時間:御巣鷹山ファイル3』(池田昌昭・著、1999年4月、文芸社、ISBN 4-88737-309-0)
- 『インターネットで解くJAL123便事件:Osutakayama file』(池田昌昭・著、2001年7月、文芸社、ISBN 4-8355-2302-4)
- 『日本怪死人列伝』(安部譲二・著、2002年4月、産経新聞ニュースサービス、ISBN 4-594-03487-X)
- 文庫版(2004年3月、ISBN 4-594-04558-8)
- 『完全犯罪JAL123便撃墜事件』(池田昌昭・著、2003年8月、文芸社、ISBN 4-8355-6289-5)
- 『隠された証言―JAL123便墜落事故』(藤田日出男・著、2003年8月、新潮社、ISBN 4-10-462001-7)
- 文庫版(2006年8月、ISBN 4-10-129351-1)
- 『日航機墜落 123便、捜索の真相』(河村一男・著、2004年8月、イースト・プレス、ISBN 4-87257-448-6)
- 『御巣鷹の謎を追う-日航123便事故20年』(米田憲司・著、2005年7月、宝島社、ISBN 4-7966-4667-1)
- 『日航機遺体収容 123便、事故処理の真相』(河村一男・著、2005年8月、イースト・プレス、ISBN 4-87257-574-1)
[編集] 外部リンク
- 日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る20年間の記録(1985年から現在までの記事を蓄積)
- 航空事故調査報告書概要(Aircraft Accident in Japanより)
- 航空事故調査報告PDF(国土交通省 航空・鉄道事故調査委員会より)
- 国土地理院・地図閲覧サービス(墜落現場周辺)
- Google Map 現在の墜落現場。中央に見えるV字型に色の薄くなっている部分
- コックピットボイスレコーダーと調査委報告書を基にしたflash(JAL123便墜落までの記録)
- 上記と同じflashに地形・解説付き
- 日航ジャンボ機JAL123便フラッシュ動画(フライトシミュレータでの再現動画)
- 日航機123便 御巣鷹山墜落事故(フライトシミュレータでの全航程再現動画あり)
- 日航123便 鎮魂の賦 コックピットボイスレコーダー音声・交信全記録
- JAL123便 墜落事故
- 日航機墜落、その時新聞は----
- JST失敗知識データベース > 失敗事例 > 御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落
- 123便事故特集-日本航空三乗組
- Airliners.net Photos: Japan Air Lines - JAL Boeing 747SR-46(1984年4月16日に外国人によって撮られた事故機の写真)
- Narratives on the World's Worst Plane Crash: Flight JL123 in Print and on Screen (by Hood, C.P. (2009), Research Seminar Paper, Ref No.7, Cardiff Crimes Narrative Network, Cardiff University - http://www.cf.ac.uk/chri/research/cnic/)
- 事故当日夜の『JAL123便墜落緊急報道特別番組』のニュース画像集
- JL123便についての調査
- 日航123便(ねこすけ)

