角松敏生

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角松敏生
基本情報
出生名 角松敏生
別名 角さん、角松、敏生さん
出生 1960年8月12日(54歳)
出身地 日本の旗 日本, 東京都渋谷区
血液型 A型
学歴 日本大学文理学部哲学科
ジャンル J-POPロックAORR&Bソウルファンクソフトロックニューミュージックフュージョン
職業 シンガーソングライター
ギタリスト
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカルギター
活動期間 1981年 -
レーベル RCA ⁄ RVC
1981年-1982年
AIR ⁄ RVC
(1983年-1986年
AIR ⁄ BMG VICTOR
1987年
OM ⁄ BMG VICTOR
(1987年-1992年
IDEAK ⁄ BMG JAPAN
1999年
IDEAK ⁄ BMG FUNHOUSE
2000年-2002年
IDEAK ⁄ BMG JAPAN
2003年-2009年
IDEAK ⁄ Ariola Japan Inc.
2010年-)
事務所 トライアングルプロダクション
1981年-1982年
マーマレード
1983年-1992年
ビーンズ ⁄ エメラルドスプラッシュ
1993年-)
公式サイト www.toshiki-kadomatsu.jp

角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日 - )は、シンガーソングライターミュージシャン音楽プロデューサー東京都渋谷区代々木出身。身長169cm。血液型A型。愛称は「角さん」「角松」「敏生さん」等。

人物[編集]

1981年、20歳でプロデビュー以来、約30年に亘りシンガーソングライターとして自身の名義による多くの作品を発表し、例年の全国ツアーなどライブ活動もしている。その傍ら、1980年代半ばから杏里中山美穂といった他アーティストへの楽曲提供と、それに伴う音楽プロデューサー業も手掛けている。1997年、長万部太郎名義でのバンド活動およびプロデュースした「WAになっておどろう」(AGHARTA(アガルタ)とV6が同時期にカバー)が一般的に知られる。他アーティストへのプロデューサー業で数々のヒット曲を生み出したのに比べ、本人名義としては一般的な認知を得られるほどのヒット曲を持っていないことを自身でかなり気に掛けていて、今後の目標のひとつにその達成を掲げたいと、近年はライブのMCやインタビューなどで表立って言及している。

乱視が有り、青年時代からメガネを着用している。

来歴[編集]

デビュー[編集]

小学校6年生ではっぴいえんどを知り、1970年代半ばの中学から高校時代にかけて、はっぴいえんどからそれを継ぐティン・パン・アレー関連の日本のロック&ポップス、アメリカ東・西海岸でムーブメントが起き出したフュージョンにリアルタイムで傾倒。それらに影響を受けたバンドを作って音楽活動を始める(この頃から担当はヴォーカル&ギター)。そして、日本大学文理学部哲学科在学中に作成したデモテープがきっかけで1981年にシングル「YOKOHAMA Twilight Time」ならびにアルバム『SEA BREEZE』でデビューする。

デビュー当初は、所属レコード会社・RVC(RCAビクター、RCA Victor Corporation)の意向で、当時大瀧詠一山下達郎のブレイクで盛り上がり、巷で流行していたリゾート感覚を取り入れたシティ・ポップスの音楽スタイルを採った[1]。しかも、1作目ではアマチュア時代から敬愛していた日本の一流スタジオ・ミュージシャンをバックに、その10ヶ月後にリリースする2作目のシングルおよびアルバムはアメリカ・ロス録音で当地の一流ミュージシャンをバックにした豪華絢爛な作りのものとなった。ただし、これら二作は共に作詞・作曲はすべて角松自身によるもので収められたものの、編曲やプロデュース権は与えられず(また、何もかも初めての経験のスタジオ録音作業がどういうものかを学びながら作っていったため[2])、自身としては必ずしも思うような作品作りは出来なかった。さらに、大規模なプロモーションを掛けたわりには、それに見合ったヒットは適わず、商業的成功を収めることも出来なかった[3]。話題性を狙ったレコード制作及びそのセールス・プロモーションで活動拡大を図りたかった所属事務所側は角松の扱いに窮し、バンドを組んでのライブハウス出演など草の根的なライブ活動をしたい自身との活動方針の相違もあって、この後に所属事務所を移籍することになってしまった[4]

ブレイク[編集]

一方で角松の才能を評価していた所属レコード会社は、引き続き作品制作するよう支援していく。そして、音楽的な路線は前2作の延長でありながらも、初のセルフ・プロデュースやセルフ・アレンジとなる3作目『ON THE CITY SHORE』をリリース。本作からの先行シングル「スカイ・ハイ」は初めてタイアップとしてSchickの男性用安全剃刀(ひげ剃り)のテレビCMソングに採用された。この曲は自身にとっても代表曲となり、ライブでも定番曲として取り上げられているほか、CMでも以後3年にわたって使われた。学園祭やライブハウス出演など地道な活動も功を奏して、アルバムはオリコンチャート最高位21位を記録。それまでオリコンチャート圏外だった1・2作目以上に好調な売れ行きを示し、初のホールコンサートも敢行するなどして活動が軌道に乗り始めていく。

また、最初の所属事務所から移籍する前、杏里のラジオ番組にゲスト出演した際に彼女と意気投合したことから、自身初の楽曲提供から始まり、それが縁となって杏里の所属事務所・マーマレードに移籍となり、自身の歌手活動と併行して杏里のアルバムへの楽曲提供とサウンド・プロデュースも手掛けるようになる。そして1983年、杏里がシングル「CAT'S EYE」をヒットさせた直後、『「CAT'S EYE」の一発だけで終わらせずに、それに続くヒット曲を』という至上課題のもと、「悲しみがとまらない」をプロデュース。チャート的には「CAT'S EYE」を凌げなかったものの、連続ヒットを記録。後年、プロデュース活動の側面を検証する上で欠かせない曲となった。

それらの成功をバックに角松は、デビュー以来の夏や海といったリゾート感覚のシティ・ポップス路線から離れ、自身の音楽的趣向であったダンス・ミュージックやニューヨークのミュージック・シーンで流行る最先端のファンクに傾倒していく。その曲調に合わせて歌詞のテーマも次第に夜の街へと移り、1983年に12インチ・シングル「DO YOU WANNA DANCE」、続く1984年のアルバム『AFTER 5 CLASH』で、その世界を示した。商業的成功は続き、角松はこの路線に自信を深めて追求していく。そして、杏里の仕事で得た印税を使ってニューヨークへ長期滞在するようになり、現地での流行をいち早く取り入れた音楽活動を行うようになっていった。7&12インチ・シングル「GIRL IN THE BOX」や代表作となる1985年のアルバム『GOLD DIGGER』は、ターンテーブルによるスクラッチやラップがいち早く取り入れられた。1980年代半ば、アルバムは発売ごとにチャート上位にランクされ、全国を縦断する大規模なコンサートツアーも出来るようになった(特に都市部では複数公演を敢行するも発売即ソールドアウトを引き起こすほどの人気となる)。しかし、商業的成功の黄金期とも言えるこの時期、アルバムやコンサートの動員の成功に比べ、シングル・ヒットには恵まれなかった。その一因として、コンスタントにシングル曲は出すものの、プロモーション戦略でテレビの歌番組に出演することを避けていたため、たとえタイアップ曲であっても、どうしても世間一般への浸透が進まなかった[5]

1980年代後半[編集]

音楽プロデューサー業も拍車が掛かり、それまでの杏里以外にも手掛けるようになる。絶頂期であった中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』に楽曲提供および編曲もしたほか、その音楽性を買われてアドバイザーとしても加わったり、所属レコード会社で自身と同じ担当プロデューサーだったのが縁となって請け負った西城秀樹のアルバム『TWILIGHT MADE …HIDEKI』に自身が敬愛する吉田美奈子を迎えてコラボレーションしたり[6]、お笑いグループで認知度があったジャドーズの本気の依頼に応え、和製ソウルファンクバンドとしてデビューアルバム『IT'S FRIDAY』ならびにデビューシングル「FRIDAY NIGHT」から数作にわたって全面的に関わった[7]

なかでも中山美穂へのプロデュースは“音楽プロデューサー・角松敏生”にかつてない成功をもたらした。まず最初の関わりであった1986年のアルバム『SUMMER BREEZE』に三曲提供し、その中のバラード曲「You're My Only Shinin' Star」が彼女本人が好んでいた曲であったことからライブでも頻繁に歌われるようになる。翌1987年、当時流行りのユーロビートを反映させたシングル曲「CATCH ME」は彼女にとって待望のオリコン1位を獲得。引き続いて角松のもはや看板であるダンス&ファンク・ミュージックを全面に押し出したアルバム『CATCH THE NITE』をフルプロデュース。その発売時、1988年2月22日付けのオリコンのアルバム・ランキングにて、このアルバム『CATCH THE NITE』が1位、同時期に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位で、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成した。そして、『CATCH THE NITE』レコーディングと同時にリテイクされた「You're My Only Shinin' Star」はシングルとして発表され、「CATCH ME」に続いてオリコン1位を獲得したばかりでなく、この年の第30回日本レコード大賞金賞受賞曲となって彼女の代表曲となり、2001年には彼女がベストアルバム『YOUR SELECTION』をリリースするにあたり、収録曲を決める為にホームページ上で行った投票ではシングルA面曲で1位になっている。

また、この時期から歌ものの作品以外に、自らの音楽的ルーツのひとつであるフュージョンを基調としたインストルメンタル作品を手掛けるようになっていく。1987年、初の試みとして自らのギタープレイをフィーチャリングしたアルバム『SEA IS A LADY』を発表。日本のフュージョン・シーンは沈滞化していたものの、角松の絶頂期ともあって商業的成功を収めた。このアルバムには自身のバック・バンドの面子の他にも、村上ポンタ秀一斉藤ノブなどフュージョン・ブーム時に活躍し、またスタジオ・ミュージシャンとしても確かなキャリアを持つ彼らをリスペクトして起用した。アルバム参加メンバーでのライブ・ツアーも行われ、これがキッカケとなり、斉藤ノブはNOBU CAINEを結成。そのデビューアルバムを角松がプロデュースすることにも至った。これらミュージシャンをクローズアップした活動により、1982年以来、自身のバックバンドのベーシストであり、NOBU CAINEにも参加した青木智仁が頭角を現すようになり[8]1989年にはやはり角松プロデュースのもと、フュージョンを主体にした初のリーダーアルバムを作る。以降、青木は角松のバックバンドやレコーディングに引き続き参加しながらも、その傍らで自身がリーダーとなったフュージョン系のセッション・ライブを行うようになっていったり、堀井勝美プロジェクトやDIMENSION本田雅人などの他アーティストのアルバム制作やライブにも随時参加。1990年代から他界する2006年まで、フュージョン・シーンにはなくてはならない人物の一人であった[9]

凍結宣言[編集]

1988年、多方面にわたる音楽活動の成功を背景に、デビュー以来の所属レコード会社のなかに私設レーベル「オーン」を作り、自身の歌唱によるオリジナル作品のほかに、前述のNOBU CAINEや自らの名義および関連アーティストのインストルメンタル作品を“サマー・メディスン”シリーズとしてトータル的にプロデュースを手掛けていく[10]。また、自身のアマチュア時代から憧れていたミュージシャンをリスペクトした活動も頻繁となっていき、村上ポンタ秀一、斉藤ノブの他、鈴木茂佐藤博外道といった1970年代からプロ活動している面々と音楽的交流を持つようになっていった。

充実した活動を行っていったが、1990年代初頭の作品から徐々に内省的な作品が増え、インタビューでも思想的・哲学的な内容の受け答えが多くなっていった。そして、自身の音楽に対する絶望感を訴え、1993年日本武道館公演をもって歌手活動の「凍結」を宣言し、無期限の休止となる。FINAL CONCERT TOUR公演のMCで、「確かに非常にプライベートな事も引き金の1つにはなっている」と、歌手活動から撤退する理由として、(当時の)妻との離婚や女性関係での離別も一因であることを暗に認めているが、一方で当時、自らの歌唱についても行き詰まりを感じていたことをWEB掲載のインタビュー記事で吐露しており[11]、公私に渡り、心身ともに限界であった事が窺える。ちなみに同公演が収録されたビデオ映像(『TOSHIKI KADOMATSU 1993・1・27 FINAL CONCERT TOUR Vol.2』)には、「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」という観客からの罵声に動揺し、苛立ちの余り「ふざけんな、コノヤロー」と叫び、モニタースピーカーを蹴りつける場面が映されている。

一時期は音楽業界からの引退も考えたが、所属事務所の説得で“歌手活動以外の音楽活動をしていく”というかたちで音楽業界に残ることを決断。休止直後は、前述の武道館公演のビデオ編集、休止後初のアルバムとなったベスト・アルバム『1981-1987』では2枚組20曲中14曲に新たに手を加えるなど制作作業に没頭。また、バックバンドのキーボーディストの友成好宏[12]のソロアルバム『NATURAL SIGN』、同ギタリストの浅野祥之[13]らが参加していたフュージョン系バンド、空と海と風と…のセカンド・アルバム『空と海と風と…2』、女性アーティストでは米光美保のアルバムを2作連続フルプロデュース[14]していくなど、他アーティストへの楽曲提供やプロデュース業も引き続き行い、休止前よりも多忙になっていた。1995年、それまでの私設レーベル「オーン」に代わり、「iDEAK」を立ち上げるに至る。同時期、新人ボーカリスト発掘プロジェクト、VOCALANDを立ち上げる。仕掛けたのは、起業する前から角松のファンだったという松浦勝人で、松浦のレコード会社エイベックスで展開する。時流に乗ったことで話題になり、アルバム『VOCALAND』もヒット。それを受けて角松用にエイベックスのなかでavex ideakというレーベルが作られるも、エイベックス側の会社組織再編の影響を受け、1997年に終了する。

こうした多忙な音楽プロデュース業をこなしていくなかで、活動凍結前から考案していたという自らの存在を変名(長万部太郎=おしゃまんべ・たろう)で隠したAGHARTA(アガルタ)というバンド・プロジェクトを始める。角松自身でヴォーカルをとるなどしていたが、“角松敏生”のキャリアとは全く違う音楽性であったことで、歌手活動凍結宣言は依然として貫かれた中での活動となった。また、当初はメジャーからではなく、インディーズ・シーンからの口コミなどでのムーブメントを作ろうとした。しかし、1995年、そのインディーズからのアルバム発売にあたって“角松敏生”の名が出てしまったため、即完売になるも、それは角松ファンに行き渡っただけで新たなファン層の開拓計画は失敗に終わる。結局、買いそびれた人たちのためにiDEAKレーベルから1996年に再編纂したものが発売されることにもなった。それでもAGHARTAの活動は継続させた。そして1997年、NHKみんなのうた」用に作ったシングル「ILE AIYE~WAになっておどろう~」が話題を呼ぶことになる。V6によってカバーされ、翌1998年には長野オリンピックのテーマ曲として使用されるに至って、さらに反響を招く。閉会式では視聴率30%の生中継でAGHARTAとしてライブ演奏を繰り広げ、それは世界へ配信放送されることにもなった。

解凍[編集]

1998年に5年間のブランクを経て「解凍」を宣言、自身の歌手としての活動を再開。その後はほぼ年に1作のペースで新作をリリースしている。また、沖縄音楽アイヌの民族楽器トンコリを取り入れるなど、民族音楽との「音楽的交易」にも取り組んでいる。2004年発表の「Fankacoustics」は、スタイルの異なる2種類のバンド構成での2枚組CDという形で、各バージョンでのLive Tourを全都道府県で敢行するなど、新しい試みを続けている。

プロデュース活動[編集]

杏里の「悲しみがとまらない[15]のスマッシュ・ヒットを皮切りに、中山美穂ジャドーズらをプロデュース。1988年2月には、オリコン・アルバム・ランキングにて、フルプロデュースした中山美穂のアルバム『CATCH THE NITE』が1位、自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位と、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成している。その他にも元BARBEE BOYSKONTA布施明岩崎宏美ジャッキーチェン西城秀樹(『TWILIGHT MADE …HIDEKI』)のプロデュースなど、新人・ベテラン、および日本国外の有名人を問わずに積極的な活動を行っている。

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

シングルでリリースされた楽曲にはアルバム未収録曲も多くあり、アルバム収録曲でも異なるヴァージョンでリリースされたものが少なくない。また、アナログ盤でリリースされた作品の多くは未CD化のままとなっている。
アルバムにシングルヴァージョンで収録された曲は斜字、ベストアルバムにシングルヴァージョンが収録された曲は*をつけて表記。
EP
発売日 タイトル b/w 備考
1st 1981年6月21日 YOKOHAMA Twilight Time Summer Moments
2nd 1982年4月21日 FRIDAY TO SUNDAY I'LL CALL YOU
3rd 1983年4月21日 スカイ・ハイ (TAKE YOU TO THE SKY HIGH) LONELY GOOFEY
4th 1984年4月21日 Heart Dancing (あいらびゅ音頭) Midnight Girl
5th 1984年10月5日 GIRL IN THE BOX〜22時までの君は…* GET DOWN*
6th 1985年5月21日 Tokyo Tower Secret Lover
7th 1985年8月5日 NO END SUMMER You're Not My Girl フジテレビ系「なるほど!ザ・ワールド」イメージソング。
8th 1985年10月21日 初恋 SNOW LADY FANTASY
9th 1986年5月5日 THE BEST OF LOVE YOU'RE NOT MY GIRL (POWERFUL REMIX)
10th 1986年11月5日 ドアの向こう 〜SAYONARA T〜* WE CAN DANCE*
11th 1987年5月1日 THIS IS MY TRUTH 〜SHININ' STAR〜* JUNE BRIDE ※A面は日本テレビ系ドラマ「敵同志・好き同志」主題歌、B面は挿入歌
12th 1987年6月6日 SEA LINE SEA LINE (DUB VERSION) ※「マイルドセブンメンソール」CMソング。
SCD
発売日 タイトル c/w 備考
13th 1988年10月21日 もう一度…and then 花瓶 ※EPとSCDはヴァージョン違い。最高位29位。
14th 1989年6月21日 OKINAWA* ROCKIN' OUT MY LOVE* ※最高位16位
15th 1990年4月21日 PARASAIL〜シュールホワイトのテーマ〜* PARASAIL (TRIPPING DUB VERSION) コーセー化粧品「シュールホワイト」CMソング、最高位25位
16th 1990年5月21日 I must change my life & love for me* I must change my life & love for me (Instrumental Version) ※「ブティックJOY」CMソング、最高位17位
17th 1991年4月21日 GALAXY GIRL* GALAXY GIRL (Instrumental Version) コカコーラボトラーズアクエリアス」CMソング、最高位25位
18th 1991年5月21日 この駅から…* PINK MOON 関西テレビフジテレビ系「旅情サスペンス」テーマ曲、最高位19位
19th 1991年12月16日 サンタが泣いた日* DESIRE
サンタが泣いた日 (Instrumental)
※「撮りっきりコニカ」CMソング、最高位30位
20th 1992年2月21日 THE LOST LOVE* THE BEST OF LOVE (Live Version)
THE LOST LOVE (Instrumental Version)
TBS日立 世界・ふしぎ発見!」エンディングテーマ、最高位36位
21st 1992年6月21日 夜をこえて* ハミルトンの夏休み ※c/w曲は「MIKI HOUSE」CFイメージソング、最高位29位
22nd 1992年9月9日 君を二度とはなさない 君を二度とはなさない (Instrumental Version) テレビ朝日OH!エルくらぶ」エンディングテーマ/長崎オランダ村ハウステンボスCFイメージソング、最高位39位
23rd 1992年11月1日 君たちへ… 〜BONとYUKARIのBALLAD〜 君たちへ…〜BONとYUKARIのBALLAD〜 (Instrumental Version) 東京ガス「ファンヒーター」CMソング、最高位38位。同シングルより自身の音楽活動凍結、プロデューサーとしての活動は継続
24th 1998年7月23日 Realize* Splendid Love
Realize (Instrumental Version)
※“解凍”初シングル、最高位24位
25th 1998年11月26日 Unforgettable Unforgettable (CM Edit)
Unforgettable (Instrumental Version)
日産自動車新型ステージア」CMソング、最高位33位
CD-S
発売日 タイトル c/w 備考
26th 1999年11月25日 You're My Only Shinin' Star 花瓶〜hangover take with piano〜
You're My Only Shinin' Star〜English Version〜
君という名の僕におしえたい〜Introduction〜
You're My Only Shinin' Star〜Instrumental〜
※最高位27位
27th 2000年7月5日 愛と修羅* UP TOWN GIRL in 有楽町
愛と修羅 (Instrumental Version)
愛と修羅 (Acoustic version)
※最高位18位
28th 2001年6月21日 心配*/YOKOHAMA Twilight Time 〜20th Anniversary Version〜 心配 (Instrumental)
YOKOHAMA Twilight Time 〜20th Anniversary Version〜 (Instrumental)
※最高位26位
29th 2002年5月22日 Always Be With You* Always Be With You (Acoustic version)
Always Be With You (Reprise)
Always Be With You (Instrumental Version)
もどり道 with ANNA 〜Toshiki Kadomatsu 20th Anniversary Live Version〜
※映画「白い船」主題歌、最高位35位
30th 2003年7月9日 君のためにできること* Last Flight
これからもずっと (version 2003)
君のためにできること (Instrumental Version)
Take Me Far Away (from First Concert at 東京・日本青年館 on 1983.6.20)(初回盤のみ)
※最高位6位
31st 2004年4月7日 Startin’*/月のように星のように* 桃色の雲 (from Special Live At SHINJUKU LIQUID ROOM on 2003. 8.17)
Startin' (Instrumental Version)
月のように星のように (Instrumental Version)
※初回盤DVD付、最高位10位
32nd 2006年5月10日 Smile* 青い水から
RAIN MAN TOSHIKI KADOMATSU Performance 2005 "THE PAST & THEN" Tripod:live version from NAKANO SUNPLAZA on 2005.12.16
Smile (Movie version)
Smile (Instrumental Version)
Smile (for male version)
Smile (for female version)
※映画「ミラクルバナナ」主題歌
初回盤DVD付
最高位17位
25周年記念シングル。[16]

12インチ・シングル[編集]

発売日 タイトル A面 b/w 備考
1st 1983年10月21日 DO YOU WANNA DANCE Do You Wanna Dance It's Hard to Say Good-bye(さよならは愛の言葉)
Fly-By-Day
2nd 1984年11月21日 GIRL IN THE BOX〜22時までの君は… GIRL IN THE BOX〜22時までの君は… STEP INTO THE LIGHT
3rd 1985年7月21日 Special Edition For Dancing“Kadomatsu De Oma” KADOMATSU DE OMA (Tokyo Tower〜Secret Lover)
敏松劇場 阿鼻叫喚!! ※カセットのみ
SICK KADOMATSU(Take Me Far Away〜Girl In The Box〜Do You Wanna Dance〜After 5 Clash〜Move Your Hips All Night Long〜Step into the Light〜I can't Stop the Night〜No End Summer)
4th 1985年11月21日 初恋/SNOW LADY FANTASY 初恋 SNOW LADY FANTASY
5th 1986年7月21日 Pile Driver Pile Driver Pile Driver (Dub Version)
6th 1986年7月21日 Lucky Lady Feel So Good/Take Off Melody Lucky Lady Feel So Good Take Off Melody
7th 1987年12月16日 She's My Lady She's My Lady –Radio Edit Version–
She's My Lady –Dub Version–
She's My Lady –Extended Power Drum Mix– ※最高位39位
8th 1988年4月21日 I Can Give You My Love/Lost My Heart In The Dark I Can Give You My Love Lost My Heart In The Dark ※最高位97位
9th 1988年4月21日 Can't You See/REMEMBER YOU Can't You See REMEMBER YOU ※最高位95位
1988年4月21日 Voices From The Daylight〜Gold 12inch items I Can Give You My Love
Lost My Heart In The Dark
Remember You
Can't You See
※3万枚限定販売シリアルNo.入りゴールドCD。最高位16位
10th 1990年2月7日 OKINAWA OKINAWA (Extended Hot Summer Mix) RATIRAHASYA〜Time For Kari (Super Trip Mix)
OKINAWA (Tricky Dub Version)
※12センチCDも発売。最高位52位

アルバム[編集]

オリジナル・アルバム
発売日 タイトル 備考
1st 1981年6月21日 SEA BREEZE
2nd 1982年4月5日 WEEKEND FLY TO THE SUN ※最高位57位
3rd 1983年5月21日 ON THE CITY SHORE ※最高位21位
4th 1984年4月21日 AFTER 5 CLASH ※最高位54位
5th 1985年5月21日 GOLD DIGGER〜with true love〜 ※最高位7位
6th 1986年6月11日 TOUCH AND GO ※最高位5位
7th 1988年2月5日 BEFORE THE DAYLIGHT〜is the most darkness moment in a day ※最高位2位
8th 1989年9月6日 REASONS FOR THOUSAND LOVERS ※最高位4位
9th 1991年7月3日 ALL IS VANITY ※最高位5位
10th 1992年7月1日 あるがままに ※最高位7位
11th 1992年12月16日 君をこえる日 ※最高位12位、同アルバムより自身の音楽活動凍結。プロデューサー活動は継続する。
12th 1999年1月21日 TIME TUNNEL ※最高位3位、“解凍”第一弾アルバム
13th 2000年8月2日 存在の証明 ※最高位7位
14th 2002年10月30日 INCARNATIO ※最高位12位
15th 2003年8月6日 Summer 4 Rhythm ※最高位9位、初回盤は小林克也のDJスペシャルディスク付の2枚組
16th 2004年8月4日 Fankacoustics ※最高位13位、2枚組
17th 2006年7月26日 Prayer ※最高位10位
18th 2009年3月18日 NO TURNS ※最高位17位、初回限定版はBlu-spec CD採用。
19th 2010年8月4日 Citylights Dandy ※最高位13位
20th 2014年3月19日 THE MOMENT -
その他アルバム
発売日 タイトル 備考
1st 1982年 Surf Break from Sea Breeze〜DJ KAMASAMI KONG ※カセットのみ、現在公式サイトで記述なし
2nd 1984年8月5日 SUMMER TIME ROMANCE〜FROM KIKI
3rd 1985年11月21日 T's BALLAD ※バラード・ベスト・アルバム
4th 1986年12月15日 T's 12 INCHES ※エクステンディッド・クラブ・ミックス集
5th 1987年7月1日 SEA IS A LADY ※最高位4位、インストゥルメンタル・アルバム
6th 1989年12月6日 MORE DESIRE 〜TOSHIKI KADOMATSU SPECIAL LIVE '89.8.26 ※最高位19位、ライヴ・アルバム
7th 1990年7月25日 LEGACY OF YOU ※最高位4位、インストゥルメンタル・アルバム
8th 1991年12月4日 TEARS BALLAD ※最高位7位、バラード・ベスト・アルバム
9th 1999年6月23日 voices under the water/in the hall ※最高位21位、ライヴ・アルバム
10th 2000年1月19日 The gentle sex ※最高位5位、提供曲のセルフカバー・アルバム
11th 2002年6月26日 白い船」オリジナル・サウンドトラック ※最高位44位
12th 2005年10月26日 ミラクルバナナ」オリジナル・サウンドトラック ※最高位56位
13th 2005年10月26日 THE PAST & THEN ※最高位12位、初回限定DVD付。セルフカバー5曲と新曲5曲のアルバム
14th 2007年12月12日 Players Presents TOSHIKI KADOMATSU「Ballad Collection」 ※最高位27位、バラード・ベスト・アルバム
15th 2008年11月21日 TOSHIKI KADOMATSU I ※ファンクラブ限定販売CD
16th 2012年3月14日 REBIRTH 1 〜re-make best〜 ※最高位11位、セルフカバー・アルバム
ベスト・アルバム
発売日 タイトル 備考
1st 1993年10月21日 1981-1987 ※最高位6位
2nd 2000年12月20日 1988-1993 ※最高位16位
3rd 2011年4月27日 1998-2010 ※最高位21位
セレクション・アルバム
  • Toshiki Kadomatsu Presents Daylight – AOR Collection (2001年7月25日)CD:BVCM-31075
  • Toshiki Kadomatsu Presents Twilight – R&B Collection (2001年7月25日)CD:BVCM-31076
デビュー20周年を記念して、自身が影響を受けたAORとR&Bの楽曲を収録したアルバム。監修 • 選曲 • ライナーノーツ:角松敏生、全曲解説:金澤寿和。
  • GENTLE 〜 TOSHIKI KADOMATSU PRESENTS GRP BEST COLLECTION (2002年6月21日)CD:UCCR-1017
GRPレーベル20周年記念企画のセレクト・アルバム。監修 • 選曲:角松敏生、GRP20周年特別企画対談:角松敏生×松下佳男(音楽誌『ADLIB』編集長)収録。
  • T'S CAFE – TOSHIKI KADOMATSU PRESENTS TAPPAN ZEE BEST COLLECTION (2002年11月21日)CD:VICJ-61016
タッパンジー・レコードの旧作20タイトル再発にあわせて制作されたセレクト・アルバム。監修 • 選曲:角松敏生。

映像作品[編集]

発売日 タイトル 備考
1st 1987年 T's keys “SEA IS A LADY” ※LD
2nd 1993年5月 TOSHIKI KADOMATSU 1993·1·27 FINAL CONCERT TOUR “あるがままに” Vol.1/Vol.2 ※VHS
3rd 1994年 SOUND MOVIES ※VHS
4th 2001年8月 LIVE & Documentary “Flow” ※通信販売のみ
5th 2003年9月 the way to INCARNATIO ※通信販売のみ
6th 2004年6月23日 TOSHIKI KADOMATSU 20th Anniversary Live AF-1993~2001
7th 2006年12月13日 TOSHIKI KADOMATSU 25th Anniversary Performance 2006.6.24 YOKOHAMA ARENA
8th 2007年8月24日 TOSHIKI KADOMATSU The 25th Year DVD-BOX The Traces of 1998~2006 ※通信販売のみ
9th 2008年2月20日 TOSHIKI KADOMATSU Performance 2006 “Player's Prayer” SPECIAL 2006.12.16 NAKANO SUNPLAZA
10th 2009年9月 The Beginning of the SEASONⅢ ※通信販売のみ
11th 2010年9月22日 Citylights Dandy Blu-ray
12th 2010年11月24日 TOSHIKI KADOMATSU Performance 2009 “NO TURNS” 2009.11.07 NHK HALL ※DVD • Blu-ray
13th 2011年12月14日 TOSHIKI KADOMATSU 30th Anniversary Live 2011.6.25 YOKOHAMA ARENA ※DVD • Blu-ray
14th 2013年3月6日 Sound Movies 1998-2012 ※DVD • Blu-ray

ネット配信[編集]

プロデュース作品[編集]

シングル[編集]

西城秀樹
坂上香織
  • 気をつけて Do It Again(1990年)– テレビ朝日系『歌謡びんびんハウス』エンディング・テーマ ※CD未収録楽曲
佐藤博
  • SWEET INSPIRATION (Extended Power Club Mix)(1987年2月25日)– リミックス・プロデュース
長江健次
  • NINETEEN 19/MIDNIGHT DRIVER – OVA『19<NINETEEN>』主題歌
下地暁
  • 風のあやぐ(1999年7月23日)
下地暁×下地勇
  • 大地の花/魂躍らし(2005年3月25日)– 沖縄限定発売

アルバム[編集]

杏里
  • Bi・Ki・Ni  A面 1曲~5曲(1983年6月5日)
  • TIMELY!!(1983年12月5日)
  • COOOL(1984年6月21日)
中山美穂
今井優子
  • Do away(1990年4月21日)
米光美保
  • From My Heart(1994年12月12日)
  • FOREVER(1995年10月21日)
AGHARTA
  • AGHARTA I(1995年8月16日) ※インディーズ
  • AGHARTA II(1995年8月16日) ※インディーズ
  • ア・ガ・ル・タ(1996年1月24日)
  • REVENGE OF AGHARTA(1999年8月21日)
KONTA
  • Jane Doe(1996年1月24日)
ANNA
  • ANNA(1997年3月21日)
VOCALAND
  • VOCALAND(1996年7月10日)
  • VOCALAND2〜Male,Female & Mellow〜(1997年9月26日)
空と海と風と…
  • 泣くんじゃない(1992年11月1日)
  • 空と海と風と…2(1994年12月16日)
NOBU CAINE
  • NOBU CAINE(1989年)
  • NOBU CAINE2(1990年11月21日)
青木智仁
JIMSAKU
チアキ
  • CHIAKI(2010年4月14日)
中谷隆博
  • LIFESIZE(1996年11月21日)
TOKYO ENSEMBLE LAB
  • Breath From The Season(1988年7月21日)

ネット配信[編集]

AYAMA
  • LUNATIC DREAMER(2010年2月14日)

その他提供[編集]

中森明菜
  • UNSTEADY LOVE(1985年4月3日)- アルバム『BITTER AND SWEET』収録曲
  • SO LONG(1985年4月3日)- 同上
相田翔子
  • for you(2013年9月4日) - アルバム『This Is My Love』収録曲

エピソード[編集]

  • 幼少期にオルガン教室やピアノ教室に通っていたが、本人自身はすごく嫌だったと語っている。
  • 本格的にギターを始めたのは小学5年生。兄から教わったが途中から面倒くさくなって教えてくれなくなり、それ以降は雑誌『Gut's』の簡単に弾けるギター講座のようなタブ譜を見ながら練習して弾けるようになった。
  • 幼少時代の角松は喘息の持病があり同級生からは度々苛められていたが、ギターを始めた事で同級生からの苛めは無くなり、喘息の持病も解消されて同級生から拍手喝采を浴びる様になったと言う。
  • 小学生でビートルズが好きになり、小学6年生の頃はっぴいえんどを知り小中高と聴いており、影響を受ける。その為、「好きなギタリストは誰ですか」との質問に対し角松は「はっぴいえんどの鈴木茂さん」と回答している。
  • 日本楽器製造東京支店の主催の「イーストウェスト」に高校生で出場した時の準決勝の対バンはシャネルズだった。当時、サザンオールスターズカシオペアも出場していた。
  • 高校、大学と自身でバンドを組み、オリジナルもやっていたが、大学で山下達郎ファンだった先輩のバンドにギタリストで参加し、山下の曲も演奏していた。
  • 学生時代は喫茶店でのアルバイト経験が有り、1993年の活動凍結前には音楽活動を引退して飲食店の経営を考えていた事もあった。
  • 19歳の時に、当時年上の彼女と別れ、心を痛めていた友人の為に作った曲「Still I'm In Love With You」を聴いたトライアングルプロダクション社長・音楽プロデューサーの藤田浩一[17]の誘いでデビューを果たす。
  • プロモーション用のデビューシングル盤のジャケットには名前でなく“T.K”とだけ明記され、裏面のクレジットも“唄)T.K”、“T.K作詞・作曲”と記載されていたほか、“新鮮なうちにおきき下さい。〜新鮮保証56.5.10迄〜”、“T.Kとは、RCAがお届けするシティ・ポップスのビック・ニュー・アーティストです”、“T.Kの音楽の基本は16ビートです”、“T.Kの音楽性の高さがコンテンポラリー・サウンドを裏づけています”、“T.Kの音楽はシンプルなメッセージを持っています”といったキャッチコピーが掲載されていた。
  • デビュー後、翌年にはロサンゼルス録音を行ったが、自分の力量がついていっていないもどかしさや、意見が通らない事に嫌気がさし[18]、トライアングルを辞める。新たな事務所探しで当時のレコード会社も奔走したが[19]、次の事務所(マーマレード)は本人自身で探し、契約[20]。それを機にセルフ・プロデュースを開始し、3rdアルバム『ON THE CITY SHORE』を完成させ、本作でプロとして自信がついたと語っている。
  • 4thアルバム『AFTER 5 CLASH』の頃からセールスも伸び、過去に自身が影響を受けてきたものすべてと決別して誰もやっていない新しい音楽作りの為、ニューヨークへ行き、その後6thシングル「TOKYO TOWER」、5thアルバム『GOLD DIGGER』を発表し、渡米した経験を発揮する。
  • 1985年頃からMacPlusを使用し打ち込みを始め1986~1987年頃結構ハマっていたが、何でも出来るから逆に飽きてしまい1990年以降は生のミュージシャン演奏の方へ戻っていったと語っている。
  • 2002年には、プロ野球中日ドラゴンズで、選手登場テーマとして楽曲が使用された。投手の登板に「GALAXY GIRL」、代打のテーマに「TIME TUNNEL」「AIRPORT LADY」が使われた。
  • 青木智仁の他界によって、『LEGACY OF YOU』以来暖めていたインストゥルメンタルアルバムの構想を封印する事にしたと、雑誌『ADLIB』の青木智仁追悼企画でのインタビューで表明している。
  • 2010年リリースの作品からネット配信されるようになる。それまで、本人は「ネット配信では音質が良くないからCDを買って聴いてもらいたい」として、ネット配信に難色を示していた[21]。しかしながら一方で、「アルバムへの導入部としてシングルという形で配信するのなら良いかもしれない」という考えもあり、配信に至った。また、良い音作りのために、自身のレコーディング・スタジオも構えている。
  • 趣味はサーフィンスキー。スキーに関してはスキーの板を新調するかギターを新調するか迷っていた事もある。また、スキューバーダイビングも好きらしく、南方を訪れた際には必ずやっている他、自身のアルバムでスキューバーダイビングの事を歌った曲を作った事もある。
  • 現在の愛車はジャガー(デイムラーV8)。それまでは3台程日産車を乗り継いでいた。

影響を受けた楽曲[編集]

デビュー以前[編集]

洋楽ポップスとの出会いは幼稚園時代。その当時、自身から心惹かれた初めての曲である。自身の音楽の基本のR&Bやジャズを咀嚼してオリジナリティーのあるものを作るという、バカラック的なアプローチも含まれコード展開や転調のしかたとかも参考にしたと語っている。
小学4年生当時、テレビドラマか何かの主題歌でオーケストラ版の「Hey Jude」を聴いてすごく気に入り、兄からビートルズの曲だと教わりシングル盤を購入。それを聞いてさらに衝撃を受け小学5年生からギターを始め、当時はビートルズのコピーばかりをしていた。ギターを持って人前で歌うきっかけになったのはビートルズである。
SONGS』(1975年)っていうアルバムは擦り切れるほど聴き、当時思春期の自分と相まって、いろんな風景が浮かぶと語っている。高校生までは3コード進行のロックはコピーできても、シュガー・ベイブの様なテンションコードがある曲はぜんぜん追いつかなかったが、しばらく経ってコピーできるようになり、当時良く演奏していたのがこの曲である。
  • 鈴木茂「砂の女」(作詞:松本隆、作曲・編曲:鈴木茂)
アルバム『BAND WAGON』(1975年)収録。はっぴいえんどが解散して、鈴木のソロが「どんなもんだろう?」と思い聴いてみると、はっぴいえんどの音とは全く違う感じで「これはこれでいいものなのか? 僕はかっこいいと思うんだけど、どうなんだろう?」と思い、当時ディープ・パープルや四人囃子のコピーをやっていた友人に聴かせたら「これかっこいいよ!」といわれ、自分は間違っていなかったんだと語っている。
  • 南佳孝「プールサイド」(作詞:来生えつ子、作曲:南佳孝、編曲:坂本龍一)
アルバム『SOUTH OF THE BORDER』(1978年)収録。角松自身、南佳孝こそシティーポップと呼ばれた最初期のアーティストだと語っている。詞の世界が大人であり、当時高校生だった自分には絶対手の届かない世界だと思った。音の世界観と詞の世界観は、思春期の自身を早く大人にさせたんじゃないかなと語っている。

デビュー以後[編集]

  • 佐藤博「YOU'RE MY BABY」(作詞・作曲・編曲:佐藤博)
アルバム『AWAKENING』(1982年)収録。自身のデビュー後に聴いた作品。すごく洗練されており、こういう作品を出されたら追従できないなと思わされるほど、素晴らしい作品だと語っている。自身もこういう事ができないかなと思わせる程であり、コードに対してのボキャブラリーとか、メロディーに対してのボキャブラリーとか、まだまだ20歳そこそこの自分には乏しくて、真似しようとしてもできなかったと語っている。
このアルバムを初めて聴いた時に衝撃を受け、音楽的に高度なところや、こうあるべきみたいな作り方だとか、挑戦であるとか、新しさであるとか音楽の一番大事なところを集めたアルバムであり、かなり勉強になったと語っている。
同曲はEarth, Wind & Fireがデイヴィッド・フォスターと組んだ最初の楽曲であり、急激に空気感がソフィスティケイトされ、夏の夕方とか聴くと、最高に気持ちが良いと語っている。
この曲が収録されているアルバムがバカ売れしてディスコで良くかかるようになったときに、角松自身のなかでAORは到達点を迎えたと思った。
当時この曲を聴きかなり打ちのめされ、自身にとってはまだ遠い世界に感じ、いつかこういう世界をやってみたいと思わせたと同時に、彼の醸し出すような世界観はニューヨークの空気感を知らなければならないと強く感じ、渡米する(84年からニューヨークへ住む)きっかけとなったと語っている。

書籍[編集]

ラジオ・雑誌連載[編集]

テレビ出演[編集]

受賞歴[編集]

関連項目[編集]

ファンクラブ[編集]

toshiki kadomatsu Official Fan Club "BIC"

脚注[編集]

  1. ^ RVCには角松が憧れていた山下達郎がいて、誘いを受けたなかでの所属レコード会社選定にはこれが決め手となった。しかし、角松は西城秀樹などアイドル歌手が所属していた歌謡曲専門の部署(第2製作セクション。ちなみに第1製作は演歌担当の部署)が担当で、一方の山下は当時ニューミュージック系の社内レーベル、エアー・レーベルを擁する部署(第3製作セクション)が担当していたことで、歌謡曲の部署が仕立てた“山下達郎のニセモノ”を巡っての社内政治の渦中に巻き込まれてしまう。そのため、自身が希望していたエアー・レーベル側との交流や協力はほとんど受けられなかったばかりか、反目の対象にまでされてしまった。レコード制作会社内の仕組みを知らなかった当時20歳そこそこの角松はプロデビューしたことを後悔することもあったという。これらの経緯は、後年に当時RVCの主査で、エアー・レーベルの創設者、チーフ・ディレクターだった小杉理宇造から直接聞いた(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。結局角松は、山下が1982年秋、スタッフを引き連れ、小杉と共に設立したMoon Recordsに移籍した後、担当ディレクターだった岡村右と共にエアー・レーベルを引き継ぐこととなる。
  2. ^ デビュー準備段階でのの角松との縁から、第1作のサウンドプロデュースと一部楽曲のアレンジを引き受けた志熊研三にとっても、サウンドプロデューサー・編曲家としてはまだ駆け出しで、先輩の大物ミュージシャンばかりを纏めるのが大変だったという。また志熊もスタジオミュージシャン経験があり、編曲で意見の相違があったことを角松自身が振り返った(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。
  3. ^ 2作目のシングル「FRIDAY TO SUNDAY」は日本航空のキャンペーン&CF曲に決まっていたものの、発表直前の日航羽田沖墜落事故の影響で日本航空のプロモーション活動が自粛となり頓挫。結果、タイアップが付かなくなってしまい、このシングルを核にした同時期発売のアルバム『WEEKEND FLY TO THE SUN』のプロモーション活動も躓くといった、不可抗力が原因となった不運な面もあった。
  4. ^ その後釜的存在として事務所に入ってきたのが杉山清貴&オメガトライブであった。ソロ・アーティストとバンドの違いはあれど、テレビ出演など広告効果があるメディアへの露出優先という同じようなプロモーション戦略が採られた。
  5. ^ 当時のヒット曲の指標で、ランキング番組のTBS系「ザ・ベストテン」や日本テレビ系「トップテン」にはレコード売り上げ結果以外の要素も重要視(特に視聴者からのリクエスト葉書の数量)されることもあって番組内で最低限紹介される対象の20位圏内にランキングすらされなかった。ランキング番組ではなく、それにアルバムが中心のアーティスト活動でシングル曲中心の歌謡曲路線ではなくても出られたフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」から出演依頼はあったものの断ったとのこと。また当時、キー局の番組では需要がなかったが、歌手本人が来ない地方局のローカル番組には一定の需要があったプロモーション・ビデオも制作されなかったため、この頃の歌唱映像は現在までほぼ非公開のコンサートを撮影したもの以外皆無。一方で歌わないテレビ出演は幾つかあり、1984年にテレビ東京系の深夜番組「TOKIOロックTV」にMCとしてお気に入りのミュージックビデオを紹介、1985年には友人の放送作家・植竹公和(角松プロデュースの杏里のアルバム『COOOL』収録の「MERCURY LAMP 〜水銀燈」を作曲)が関わったTBS系情報バラエティ番組枝里子と鶴太郎のデータブティック」のコメンテーターに、それぞれ一度だけだが出演している。持ち曲とテレビ出演がようやく絡んだものとして、1987年に主題歌「THIS IS MY TRUTH」を手掛けた日本テレビ系のテレビドラマ「敵同志好き同志」最終回にカメオ出演している。
  6. ^ オリジナルアルバムとしては前作『GENTLE・A MAN/西城秀樹』に一曲提供(「THROUGH THE NIGHT」の作詞・作曲・編曲)したのが最初の関わりで、シングル中心の歌謡曲路線から脱してアルバム・アーティスト路線にアプローチしてみたかった西城の依頼に応えたもの。吉田美奈子とはこのアルバムが作られた1985年に自身の7インチ&12インシングル「初恋」と同時発売のアルバム『T's BALLAD』にもコーラスを依頼している。
  7. ^ 1989年のアルバム『DUMPO』まで5作プロデュースする。また、その間は角松のライブツアーのオープニング・アクト(前座)なども務めるなどして角松の弟分的存在として認知されていく。
  8. ^ 1980年代、角松以外の仕事では、角松のバックバンド加入へのキッカケとなったキーボード&アレンジャーの林有三によるスタジオワークやハイ・ファイ・セットのバックバンド(後に角松と関わる土肥晃や小池修も在籍)などがあった。
  9. ^ 1990年代、フュージョン関連と角松以外の仕事では、一大旋風を巻き起こしたビーイング関連のスタジオワークで活躍。また、ジャズの第一人者・渡辺貞夫の国内外ツアーから当時社会現象となったアイドル・SPEEDのバックバンドまで多岐にわたった。
  10. ^ 第1弾は4月21日に、その年の2月5日に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT〜is the most darkness moment in a day』からリミックスした12インチシングル二枚とそれを統合したゴールドCDによる企画盤『VOICES FROM THE DAYLIGHT ~GOLD 12inch Items』ではあるが、自身以外の他アーティストとしては以前から角松の自身名義の作品やプロデュース作品に多数参加し、ブラス編曲も手掛けるスタジオ・ミュージシャンのトランペッター数原晋を中心に結成されたビッグ・バンド、「TOKYO ENSEMBLE LAB」(トーキョー・アンサンブル・ラボ)が実質的な第1弾。デビュー・アルバムでもある『BREATH from THE SEASON』(1988年7月21日発売)に角松はプロデュースの他に、先行でシングルカットされた「LADY OCEAN」などの楽曲提供と演奏にも参加。ゆえに角松色は強く、絶頂期の作品だけに成功を収めた。なお、オーン・レーベルの名義による作品は1994年までリリースされることになり、その後は同じレコード会社内に新たに作った私設レーベル「iDEAK」に引き継がれる。
  11. ^ Guitar Labo『角松敏生さんインタビューVol.1』
  12. ^ 角松のバックバンドのメンバーのなかでは一番の古参で、1981年にデビュー直前の逗子のレストランで行われたプロモーション・ライブにも参加していた。80年代後半から角松はバックバンドのメンバーに対して恩返しの意味合いもかねて、オーン・レーベルと“角松敏生プロデュース”という自身のネームバリューを使ってメンバーらのソロや在籍グループのアルバムを出していたが、奇しくも一番古い付き合いの友成のが最後となった。
  13. ^ 浅野は杏里のバックバンド、“スプリット・ココナッツ”に在籍していて、1982年に杏里と知り合う角松とはその時からの仲。1988年、杏里のバックバンドでの活動に迷いを感じていた浅野はそこを離脱し、角松のバックバンドのギタリスト選考オーディションを経て加入。以後は角松のバックバンドやプロデュース業に全面的に関わっていく。
  14. ^ 米光と同じ東京パフォーマンスドールに在籍していた篠原涼子のほうは同時期に小室哲哉によるプロデュースを受けていて、篠原涼子 with t.komuro名義による「恋しさと せつなさと 心強さと」でオリコンチャート1位、200万枚のヒットを出す。なお小室は活動初期の短期間、角松のバンドでキーボードを担当した経験がある。
  15. ^ プロデュース・アレンジを担当、作曲と共同アレンジは林哲司
  16. ^ 沖縄を拠点に活動している“しゃかり”のボーカル千秋とのデュエット。しゃかりはアルバム『ゆるり』(2006年10月26日)で角松の「Always be with you」を、英語詞を沖縄方言に換えてカバーしている
  17. ^ GSバンド、アウト・キャストのギタリスト。以前にレイジーを、後にオメガトライブ菊池桃子をプロデュース・マネージメントしていた。故人。
  18. ^ 角松自身はライブ活動をで力量を上げることを希望したが、事務所側は先ずメディアへの露出を行って知名度を上げる方が大事と考えていた。この手法を「以前トライアングルがレイジーで成功した手法だね。(トライアングル所属だった)杉山清貴とオメガトライブがいい例だけど…と解説した(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』より)。
  19. ^ RVC側はアミューズに入れたかったと角松は書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューで証言している。
  20. ^ これは当時杏里への楽曲提供がきっかけで、アミューズ側からも杏里が所属していたマーマレードへ移籍したほうが角松は合っているのではとないかと薦められたことによる。また、マーマレードの社長.梶岡勝は退社したトライアングルの社長・藤田浩一と仲が良かったという(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』のインタビューより)。
  21. ^ 無圧縮・可逆圧縮(FLAC)・高解像度(ハイレゾ)音源が本格的に配信されるようになったのは、2010年代に入って以降である。
  22. ^ 角松自身のCM出演は前にも後にもユニマットが唯一である。

外部リンク[編集]