出口王仁三郎
でぐち おにさぶろう 出口 王仁三郎 | |
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昭和5年5月24日亀岡にて | |
生誕 |
上田 喜三郎 1871年8月27日 京都府亀岡市 |
死没 | 1948年1月19日満76歳没 |
団体 | 昭和神聖会 |
肩書き | 大本教主輔/聖師 |
宗教 | 大本 |
配偶者 | 出口澄(開祖五女・二代教主) |
子供 |
長女・出口直日(三代教主) 娘婿・出口日出麿 次女・出口梅野 娘婿・出口寿賀麿(浅野正恭養子) 三女・出口八重野 娘婿・出口宇知麿 |
親 | 義母・出口なお(大本開祖) |
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。もう一人の教祖は出口なお(肩書きは「開祖」)。
概要
出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持ち、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びる[3]。その評価は現在でも定まっていない[4]。国家神道の権威と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として大日本帝国政府の徹底的な弾圧を受け大東亜戦争直前に壊滅、王仁三郎も7年近く拘束された[5]。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。彼の思想と布教方法は戦後の新興宗教に大きな影響を与えた[6]。
王仁三郎の読み方について、「わにさぶろう」とされることがあるが「おにさぶろう」が正しい。大本の開祖である出口なおのお筆先(自動書記)で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する[7]。ただし「わに」を使用した例もあり[8]、百済から日本に漢字と儒教を伝えた学者王仁(わに)との関連を指摘する研究者もいる[9]。またマスコミが挿絵中でワニの姿で表現した事例もあった[10]。
生涯
幼少
出口王仁三郎の前半生は自伝や大本の伝記によるところが大きく、空海や役行者のような聖人伝説の影響が見られる[11]。一般には1871年(明治4年)8月27日(旧暦7月12日)、現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に、農業を営む上田家五男三女の長男上田 喜三郎(うえだ きさぶろう)として生まれた[12]。これより改名するまで『喜三郎』と表記する。祖母・上田宇能は、『日本言霊学』で有名だった中村孝道の妹にあたり、伝承や言霊学、迷信を始めとした知恵を持っていた[13]。喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった虚弱体質児であったため、家で祖母にあれこれと教わり、同年代の子供より老人達と交わることを好んだ[14]。また、近所ではその聡明さから「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間の意)、神童と言われていた[15]。少年時代、明智光秀が築いた亀山城に登って天下に勇躍することを願ったという[16]。
1883年(明治16年)、13歳の時に通学する小学校教師と喧嘩沙汰となり退学、校長に見込まれ、その教師の代用教員として採用される[17]。2年後、正式な小学校教員が赴任してきた為に辞職(僧侶出身の教員と神道について口論になったとも[18])、農業をはじめ様々な職種を体験する[19]。豪農の家に奉公したことで、小作人や小農の格差を自覚したとされる[20]。1893年(明治26年)(23歳)の頃から園部の牧場で働きながら獣医を目指すが不合格となり、京都府巡査試験に合格するも拒否[21]。明治時代の若者として立身出世を目指す喜三郎は、マンガン鉱の探鉱やラムネ製造など幾つかの事業を始めるが失敗した[22]。結局1896年(明治29年)(26歳)で独立し「穴太精乳館 上田牧牛場」を開業、搾乳・牛乳販売業を始めて成功を収めた[23]。当時、園部の南陽寺に滞在していた岡田惟平から古事記・日本書紀の国学的解釈と和歌を学んでいるが、喜三郎と宗教との接点は少なかった[24]。歯痛を癒やしてくれた事を機会に、以前より上田家と関係があった妙霊教会(兵庫県の山岳信仰)に入信するが、熱心な信者ではなかった[25]。自伝では、庭の木を切ったことによる金神の祟りや、幾つかの霊的体験があったと述べている[26]。
出口なおとの出会い
多芸多趣味の喜三郎は義侠心を持った賑やかな人物であり、侠客の親分から養子の申し込みがあるほど亀岡で人気を博した[27]。だが父の死、喧嘩で負傷した事、祖母の訓戒が重なり、宗教家への道を歩み出す[28]。1898年(明治31年)3月1日、松岡芙蓉(または「天狗」と名乗ったとも[15][29])と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の霊山高熊山に一週間の霊的修業をする[30]。続いて精乳館を弟に譲り、静岡県清水の稲荷講社で長沢雄楯に師事して霊学の修行を行ったのち、鎮魂帰神法と審神学を伝授される[31]。これによって伯家神道や言霊学、修験道といった古神道の知識を得た[32]。長沢は喜三郎にかかった神を小松林命(素戔嗚尊の顕現または分霊)と審神した[33]。自信をつけた喜三郎は稲荷講社に繋がる「霊学会」を設立・会長となり、亀岡の北西に位置する園部で布教をおこなう[34]。周囲からは「喜楽天狗」と呼ばれた[35]。
1898年(明治31年)10月8日、喜三郎は大本の開祖・出口直(なお)(以下、『直』と漢字表記)を京都府綾部に訪ねる[36]。極貧生活を送る無名の老婆だった直は祟り神と恐れられた『艮の金神』の神懸かりを起こし[37]、日清戦争の予言や病気治療で「綾部の金神さん」という評判を得ていた[38]。暫定的に金光教の傘下で活動していたが徐々に方針の違いが明らかになり、独立を希望すると共に自らに懸かった神の正体を審神する者を待っていたのである[39]。最初の対面では、直が稲荷講社所属の喜三郎に不信感を持ち、また金光教由来の信者達も彼を敵視したため、物別れに終わった[40]。1899年(明治32年)7月、直は神示によって喜三郎こそ待ち人と悟り、再び綾部に招いた[41]。喜三郎は直に憑依した「艮の金神」を「国武彦命」(後に日本神話の創造神国常立尊と判明[42])と審神し、綾部に移住した[43]。二人の関係は、神秘的な女性と組織的男性がコンビを組んで指導を行うアジア的なシャーマニズムの型とされる[44]。ただし、二人が太古の夫婦神の分身でありつつ霊的性別の逆転現象を起こしている点に特筆性がある[45]。喜三郎は彼女の教会(金明会)と自身が率いた霊学会の融合を計って「金明霊学会」を設立、組織づくりを行った[46]。現在の大本の「十曜神紋」も綾部藩主九鬼家の九曜紋家紋を引用してこの時に定められた[47]。
大本の成長
1900年(明治33年)1月31日、29歳の喜三郎は出口澄(出口直の五女)と結婚して入り婿となり、名前を出口 王仁三郎に改める[48][49]。以下『王仁三郎』と表記する。ただし入籍の手続きが煩雑となり、正式な養子縁組は1910年(明治43年)12月、婚姻届提出は翌年1月である[50]。二人は六女二男をもうけたが、男子は早世した[51]。当時、教団は筆先による終末論(社会批判)と王仁三郎が持ち込んだ知識体系や鎮魂帰神法により、天理教や金光教とも違う独自の教派へ発展しようとしていた[52]。その一方、公認宗教の傘下に入って布教を合法化しようとする王仁三郎と、原理主義に陥っていた旧幹部は激しく対立する[53]。大本では直を「女子の肉体に男子の霊が宿った変性男子」、王仁三郎を「男子の肉体に女子の霊が宿った変性女子」と定義し、直には天照大神・王仁三郎にはスサノオが宿って「火水の戦い」という宗教的な論争を展開した[54]。さらに教団の主導権争いや、新参の王仁三郎が澄と結婚した事に対する反発も加わる[55]。この時期の王仁三郎は夜討ちをかけられたり、監禁されて原稿を燃やされるなど、数々の忍耐を強いられている[56]。直と王仁三郎は幾度も衝突を繰り返しながら互いの「神」を審神し、大本の教義を形成していった[57]。同時期、日露戦争が日本の勝利に終わる。「日本は完敗し世直しが始まる」という立替熱が冷めたことで離脱する信者が急増し、教団は衰退の一途を辿った[58]。
1906年(明治39年)9月、王仁三郎は妻子を残して教団を離れ、京都に向かった[59]。教団合法化の道を探るべく遊学した時期は高天原を追放されたスサノオに例えられる[60]。「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年に入学[61]。翌年3月卒業して建勲神社の主典となるが半年で退職[62]。12月には伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事、1908年(明治41年)3月同教大阪大教会長に抜擢、生玉御嶽大教会詰として奉職する[63]。さらに大成会(教派神道)、キリスト教、大石凝真素美など様々な交流により見識を高める[64]。その後は御嶽教西部本庁に勤務しつつ、困窮していた教団の活性化に手腕を尽くす[65]。教団合法化の布石として6月8日に大成教直轄直霊教会を、6月21日に御嶽教大本教会を設立、8月1日に金明霊学会を「大日本修斎会」に改めた[66]。12月末に御嶽教を辞職して綾部の教団発展に専念する[67]。そして「神道の研究」を団体の目的とし、内務省に管理された公認教派神道に不満を持つ人々の人気を得た[68]。1911年(明治44年)6月、幹部を引き連れて出雲大社を参詣し、大社教霊社の分社となることで天照大神(天皇)に対抗する宗教的権威を得て日本宗教界の注目を集めた[69]。その後も日本各地の教団分所を巡り、指導にあたった[70]。
1916年(大正5年)4月、大日本修斎会は「皇道大本」と改称する[71]。10月、直に「王仁三郎こそみろく神」という啓示があり、彼女は王仁三郎の優位性を認めた[72]。教団における王仁三郎の権威が確定し[73]、これにより筆先を加筆・編集して『大本神諭』として発表することが可能になる[74]。直の土着性と王仁三郎の普遍性が上手くかみあったことで、大本は世界宗教への萌芽を持つに至る[75]。また天皇制を軸とした中央集権化と、資本主義を軸とした都市化・大衆化(村共同体の崩壊)も大本拡大の一因となった[76]。12月、直と王仁三郎に心酔した英文学者浅野和三郎が入信して機関誌「神霊会」の主筆兼編集長になる[77]。浅野の大本入信は日本の知識階層に衝撃を与えた[78]。
大本神諭と終末論
1918年(大正7年)11月6日、開祖・出口直が83歳で死去[79]。末子の出口澄が二代教主・夫の王仁三郎が教主輔(「補」ではなく特別に「輔」を用いる)となる[80]。1919年(大正8年)、大本は亀山城を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地「天恩郷」に改修、台湾への進出を開始、翌年8月に大正日日新聞を買収して言論活動に進出するなど活発な布教活動により教勢を伸ばした[81]。十九世紀末期から二十世紀初頭にかけて日本を含め世界的にスピリチュアリズムが活発となり、大本の発展も国際的な心霊主義の勃興と無縁ではない[82]。王仁三郎は浅野と共に心霊主義的な古神道の実践を行い、大きな成功を得た[83]。現世利益や病気治療を期待して大本に接近した人々は鎮魂帰神法によって神霊世界を実感し、多くの信徒が信仰を確定的にして大本の思想に共鳴していった[84]。こうして一般人や知識人だけでなく軍人や貴族までもが次々に入信する[85]。特に元海軍機関学校教官・浅野和三郎の布教により大日本帝国海軍は大本の影響を受けた[86]。戦艦「香取」では軍隊布教が行われ、浅野正恭(和三郎の従兄弟)は入信、山本英輔や秋山真之も綾部を訪れて大本を研究している[87]。戦艦「日向」など軍艦単位で寄付を行った艦も少なくない[88]。華族では、昭憲皇太后の姪・鶴殿ちか子が入信して宣伝使(宣教師)となった[89]。香淳皇后の養育にあたった山田春三(宮中顧問官)も入信し、宮中某重大事件では王仁三郎に相談している[90]。
大本の急成長の一因に終末論があった[91]。浅野和三郎(筆頭幹部)や谷口雅春らは「大正十年立替説」(明治五十五年の世の立替、大正維新、二度目の岩戸開き)という終末論を大正日新聞や機関誌「神霊会」を通じて宣伝する[92]。『大本神諭』は日本神国観を打ち出しつつ日米戦争や都市の焦土化、天皇制国家の滅亡すら予言しており、明治維新以降人々が深層心理に抱いてきた不安や鬱屈を強烈な終末観へと増幅した[93]。第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命で騒然としていた人々は大本に注目し、教団は信徒30万人という爆発的な発展を見せるに至る[94]。植芝盛平、友清歓真、岡田茂吉、中野与之助、柳原白蓮、小山内薫といった多くの人々が、浅野入信以降の大本に引き寄せられていった[95]。王仁三郎は信者達の行き過ぎは警告を出したが、「立替説」について肯定も否定もせず曖昧な立場をとる[96]。開祖(旧信者派)と王仁三郎(大先生派)の従来対立に加えて急進的な浅野が派閥争いに割り込み、浅野達の勢いは王仁三郎派を上回るものがあった[97]。
第一次大本事件
日本政府は国家神道と食い違う神話解釈を行い、メディアを通じて信者数を拡大し、陸海軍や上流階級まで影響力を持つようになった大本に危機感を覚えた[98]。さらに浅野達が黙示録的な予言をメディアで全国に宣伝したため国内は騒然、当局の懸念はますます強くなった[99]。内務省が公式に警告を発し、王仁三郎も警察に呼び出されて注意を受けている[100]。教典『大本神諭』は不敬と判断され発禁になった[101]。陸・海軍大臣は軍内における大本信者の一掃を通達している[102]。原敬首相も1920年(大正9年)10月の日記で大本への不快感を記した[103]。政府上層部だけでなく、多くの文化人・知識人・宗教界・既存メディアも大本を非難[104]。政府は元信者が大本を「皇室の尊厳を冒涜した」「王仁三郎は陰謀家だ」「日本神話に勝手な解釈を加えた」などと告発したのをきっかけに、1921年(大正10年)2月12日に不敬罪・新聞紙法違反として弾圧を加えた(第一次大本事件 [105])。80名が検挙されたが、最終的に王仁三郎・浅野・吉田祐定(印刷出版責任者)が京都地裁に起訴された[106]。開廷(9月16日)から判決(10月5日)まで25日という裁判で、王仁三郎に新聞紙法違反と不敬罪で懲役5年、浅野10ヶ月、吉田3ヶ月という判決が下った[107]。不敬を理由に教団の施設破壊が行われたが、決定的な打撃とはならなかった[108]。1924年(大正13年)7月21日の大阪控訴審判決は第一審判決を踏襲(裁判期間中、王仁三郎はモンゴル滞在のため出廷せず)、1925年(大正14年)7月10日の大審院では前判決破棄の判決が下り、事実審理からやりなおす[109]。1927年(昭和2年)5月17日、大正天皇崩御により控訴審は終結したが、内務省は大本を壊滅させる機会を伺っていた[110]。一方、王仁三郎は天理教や金光教のように教派神道として公認される道を選ばず、自らのカリスマを武器に独自の教義を維持して活動を続ける[111]。
1921年6月17日に王仁三郎は保釈されたが、大正日日新聞社の経営悪化で莫大な借金を重ね、10月5日に有罪判決、10月11日に綾部本宮山神殿破壊命令がくだり、直の墓前で切腹を考える程追い込まれた[112]。10月14日、「皇道大本」を「大本」に改名し夫妻幹部含め総辞職、長女の直日(20歳)と養子婿の大ニ(19歳)に教主の座を委ねた[113]。10月18日、自身の教義と体験の集大成として10月18日から『霊界物語』の口述を始めた[114]。400字詰原稿用紙で約300枚の一巻を平均3日で製作した速度は超人的とされる[115]。1935年の弾圧事件まで81巻83冊が発刊された長編の『霊界物語』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、様々なたとえ話を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている[116]。第一次大本事件の一因となった予言と終末論による暴走を押さえるべく、直の教義(大本神諭)と信奉者を王仁三郎の権威で克服する計画という見解もある[117]。発禁となった神諭に対し、当局の干渉を避けるべく「立替え立直し」の思想を比喩や隠喩で包み込んだ新教典が必要となったという事情もあった[118]。一連の事件と『霊界物語』の教義化により、浅野、谷口、友清歓真をはじめ多くの幹部と信者が教団を去った[119]。王仁三郎は娘婿の出口日出麿と出口宇知麿を新たな幹部として重用していく[120]。また活動拠点を綾部から亀岡へ移し、綾部は祭祀本部、亀岡は宣教本部と定義した[121]。ここにも直(厳霊、日、火、天照大神)と王仁三郎(瑞霊、月、水、スサノオ)の二重構造と「型の反復」という大本の構図が見られる[122]。
この他にも様々な活動を行った。日本コロンビアは大本の人気を見込んで王仁三郎のアルバムを9枚発売した[123]。柳原白蓮(大正天皇の従兄妹)が離婚スキャンダルに巻き込まれた際、王仁三郎は頼ってきた白蓮を綾部にかくまい、黒龍会の内田良平と対立している[124]。1922年(大正11年)3月、全国水平社が結成されると初代委員長南梅吉を尋ねて激励し、財政的支援も行った[125]。1923年(大正12年)にはローマ字を取り入れ[126]、またバハーイー教やヴァスィリー・エロシェンコとの交流を機に国際語エスペラントの教団活動への導入を試みた[127]。教団幹部の大国以都雄(大深浩三)は、1918年(大正7年)に欧州から帰国した陸軍将校秦真次が王仁三郎に語ったのが導入のきっかけとしている[128]。後の満州国建国に際して石原莞爾と連携し、大本がエスペラントを満州に広めるという計画もあったが実現しなかった[129]。
大本の海外進出
1923年(大正12年)9月の関東大震災では、中国新宗教団体「世界紅卍字会」(中国版赤十字)が来日して救援活動を行い、同時に王仁三郎と大本に接触した[130]。同種性を感じた王仁三郎は、信者の日野強(退役陸軍大佐・探検家・作家)の影響も受け、大陸への関心を強めていた[131]。1924年(大正13年)2月13日、第一次大本事件による責付出獄中に「神の国を建設して失業問題と食料問題を解決する」という構想により、植芝盛平(合気道創設者)、松村真澄(法学士)、名田音吉(理髪師)を連れて日本を出奔し、関係者を仰天させる[132]。腹心には遺書「錦の土産」の中で『東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす』と目的を明かした[133]。その一方、大日本帝国陸軍の支援があった可能性が高い[134]。2月15日、モンゴル地方に到着すると、盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する[135]。日本陸軍特務機関が仲介に入り、張作霖から内外蒙古の匪賊討伐委任状を貰い受けた上で義勇軍を編成[136]。ダライ・ラマやスサノオを名乗ると、チンギス・ハーンになぞらえエルサレムを目指して進軍した[137][138]。だが張は、王仁三郎達が全モンゴルの統一と独立を目指していることを知って怒り、討伐軍を派遣すると日本領事館に対応を求めた[139]。6月20日、パインタラ(現在の通遼市)にて王仁三郎一行と慮は捕虜となる[140]。慮は処刑され、王仁三郎も銃殺されそうになり、覚悟を決め辞世の歌を詠む(パインタラの法難)[141]。処刑直前に日本領事館(日本軍)の介入で解放され、植芝らと共に帰国することが出来た[142]。入蒙の目的が布教目的だったことは認められたが、治安を乱す恐れがあるとして3年間の在留禁止処分が下った[143]。
1924年(大正13年)7月25日に下関に到着すると逮捕され大阪刑務所におくられるが、3ヶ月で釈放された[144]。彼の冒険談は関東大震災後の鬱屈した人々に快哉をもって迎えられた[145]。1929年(昭和4年)10月、澄と共に世界紅卍会の協力を得て朝鮮・満州の布教に努めた[146]。抗日運動が激しさを増していたが、夫妻は熱烈な歓迎を受けたと伝えられる[147]。国内での活動が制限される中、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した[148]。続いて「人類愛善会」を発起、これらの動きは第一大本事件と満蒙での失敗から、実際の権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる[149]。特に満州に対しては、世界紅卍字会と提携して積極的に進出した[150]。また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して、日本の委任統治領となった南洋諸島への布教を行った[151]。アジア、南北アメリカ、ヨーロッパにも進出し、各国の宗教団体・心霊主義団体と連携する[152]。宗教活動が制限されたソビエト連邦にも働きかけを行っている[153]。大本と王仁三郎は民族主義(天皇中心主義・日本至上主義)と世界宗教性の振れ幅が大きく[154]、対応に苦慮した日本政府は警戒を強めていく[155]。
第二次大本事件
1930年代初頭は満州事変が勃発して中国大陸への軍事進出が本格化、世界大恐慌による大不況、国際連盟の脱退、国内では五・一五事件や右翼団体の蜂起が相次いで発生するなど、不安定な時代だった[156]。大本は1930年(昭和5年)3月8日-5月6日まで京都岡崎公園で開催された大宗教博覧会に参加、大成功を収める[157]。さらに日本全国・沖縄朝鮮半島・台湾で作品展や講演会、映画上映を行い、大本のイメージ向上に成功した[158]。廃刊になった大正日日新聞にかわり、日刊誌「北国夕刊新聞」(金沢)、「丹州時報(舞鶴)」、「東京毎夕新聞」を買収、人類愛善新聞や街頭演説・講演会で活発に宣伝する[159]。王仁三郎は時代の流れを掴むことに長け、メディアを積極的に利用・活用して成功を収めた破天荒で多才な教祖と言える[160]。
人類愛善活動やエスペラントを通じて満州国を筆頭に海外進出を行う一方、王仁三郎は国民の愛国意識のたかまりを背景に大本の右翼化・愛国化を進める[161]。大本信者を中核とする昭和青年会や昭和坤生会は各地で防空運動を展開し、愛国団体として注目された[162]。1934年(昭和9年)7月22日、王仁三郎は九段会館において社会運動団体「昭和神聖会」を結成し、より大規模な政治運動に乗り出していった(王仁三郎は統管)[163]。神聖会の発会式には後藤文雄内務大臣、文部大臣、農林大臣、衆議院議長、陸海軍高級将校、大学教授など政財界の指導者層が参加した[164]。この他、石原莞爾や板垣征四郎といった急進派の陸軍将校や久原房之助(政治家)も王仁三郎の信奉者であり、或いは影響を受けている[165]。王仁三郎は大本の指導を日出麿に委任すると、神聖会を指揮するため東京・四谷に移った[166]。農村救済運動を筆頭に、国内外の問題について政府の対応を批判[167]。岡田内閣の打倒さえ訴えたという[168]。さらに「尋仁」と称して軍服を着用、東京駅から皇居まで900人を従えて軍事訓練を行うなど、天皇制を模倣した行動を取る[169]。美濃部達吉らが唱えた天皇機関説に対しては「神聖皇道」の観点から厳しい批判を加えた[170]。彼は『わが道は 野火のもえたる 如くなり 風吹くたびにひろがりて行く』と詠った[171]。国家権力を意図的に挑発するような王仁三郎の行動は現代でも解釈が難しく、真意は今もって不明である[172]。逮捕直前、大規模弾圧を予期したかのような指示を周囲に与えた[173]。王仁三郎の肩書きは、大本教主輔、昭和神聖会統管、昭和青年会、昭和坤生会、更始会、明光会、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会、それぞれの総裁であった[174]。
1935年(昭和10年)1月に、昭和神聖会は皇族を主班とする皇族内閣の創設を天皇に直接請願する署名を集める[175]。革命の気運に恐怖した日本政府は王仁三郎と母体である大本を治安維持法によって徹底排除することを意図した[176]。さらに『大本神諭』や『霊界物語』で唱えられた大本の神話・教義が天皇(現人神、天皇制)の権威や正統性を脅かしかねないという宗教的な理由が存在した[177]。同年12月8日、政府は第二次大本事件によって苛烈な攻撃を加えた[178]。唐沢俊樹内務省警保局長は大本を地上から抹殺する方針である事を各方面に指令している[179]。王仁三郎は松江市島根別院で拘束された[180]。夫妻以下幹部達は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、毎日新聞や朝日新聞などの大手マスコミも大本を「邪教」と断定する[181]。裁判前にも関わらず、政府は亀岡城の神殿をダイナマイトで爆破し、綾部や地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分した[182]。人類愛善会など大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれる[183]。出版物も全て発行禁止処分となっている[184]。孤立無援の王仁三郎は「道鏡以来の逆賊」と糾弾されて特別高等警察により拷問めいた取調べを受けたが[185]、裁判では悠然と反論し、時に裁判長を唸らせることもあった[186]。また満州国指導者層は鈴木検事(大本事件担当)が「紅卍会と大本は極めて密接。満州国の大本教勢力は侮りがたい」と報告したように王仁三郎に同情的であり、支援の手をさしのべている[187]。だが王仁三郎の後継者と目された出口日出麿は拷問により廃人同然となり、起訴61名中16名が死亡した[188]。1940年(昭和15年)2月29日の第一審は幹部全員が有罪で、王仁三郎は無期懲役という判決だった[189]。1942年(昭和17年)7月31日の第二審判決では重大な意味を持つ治安維持法違反について無罪となり、不敬罪で懲役5年(最高刑)、6年8ヶ月(2453日)ぶりに71歳で保釈出所となった[190]。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年(昭和20年)10月17日、敗戦による大赦令で無効になった[191]。1947年(昭和22年)10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅した。
保釈後、王仁三郎は弁護士に『大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦争の時には戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本が戦争している時に、日本の土地に生まれた者が戦争に強力せぬでは、国家も社会も承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから、戦争に協力できぬ処へお引き上げになったのが、今度の大本事件の一番多いな意義だ。これは大事なことだよ』(原文まま)と語っている[192]。
晩年
1942年8月7日に保釈されると、亀岡の農場に戻って家族と共に暮らした[193]。1944年(昭和19年)12月、京都府清水の窯元佐々木松楽の亀岡疎開を知って尋ね、陶芸をはじめた[194]。祝詞を唱えながら体調を損ねるほど没頭するなど、宗教的情熱に満ちた芸術活動だった[195]。王仁三郎は松楽が京都から持ち込んだ10-15年分の陶芸材料を1年で使い果たしている[196]。控訴審には「今度が天王台の審神で、神の仕組みは成就した。善悪は立て別けられた」として関心を持たなかったという[197]。相談する信者には、反戦平和と日本の敗戦を予言している[198]。和歌では「天地に神あることをつゆ知らぬ 醜のしれもの世を乱すなり」「荒れ果てし神の御苑に停ずみて 偲ぶは神国の前途なりけり」と権力者達を批判した[199]。敗戦後には、朝日新聞の記者に「日本の上層部はわれよしで、自分達が一番正しく、えらいと思うから戦争がおきた。諸外国もわれよしを改めぬ限り戦争は絶えない」と述べている[200]。天皇の神格化や国家神道については「殊に日本の官国弊社が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違ひの根本だった」と厳しく批判した[201]。
1946年(昭和21年)2月、教団活動を「愛善苑」として新発足させた[202]。教団経営や各地への巡教、返還された綾部・亀岡の再建に尽力したが、8月に脳出血で倒れた[203]。以後健康を取り戻すことなく、1948年(昭和23年)1月19日午前7時55分に逝去した[204]。満76歳没。綾部の天王平に歴代教主と共に埋葬されている[205]。
評価
宗教家として
出口王仁三郎は自らを日本神話の素戔嗚尊になぞらえたが、トリックスターという点で良く一致する[206]。系譜的には古神道に属し、平田篤胤、本田親徳、長沢雄楯、大石凝真素美らの影響を受けた[207]。王仁三郎の特徴は、古神道や言霊の知識を活用し、現実社会に大きな影響を与えた点にある[208]。彼は出口直が唱えた「艮の金神」を自らの知識で体系化し、古事記や日本書紀を再解釈して独自の教義を作り上げる[209]。そして地方民間宗教にすぎなかった教団を国家規模の大宗教に育てたカリスマ的組織者となった[210]。新宗教大本は土着の民間信仰の集大成であると同時に、救済の対象を「世界・全人類」に広げた世界宗教としての性格も持つに至る[211]。メディアを活用した布教方法と、信仰と政治が結びついた活動方針は、創価学会などの新宗教にも影響を与えた[212]。雑誌『別冊歴史読本』が1993年に出版した「日本史を変えた人物200人」の中で、近代宗教家の中で大谷光瑞と共に2人だけ選ばれているが、その大谷も王仁三郎を高く評価している[213]。また講談社『日本史をつくった101人』でも人間的魅力や芸術の才能を考慮され、新宗教部門で選ばれた[214]。反面、意図的に言動や態度をはぐらかすことも多く、常識では計り知れない人物である[215]。敵味方から「怪物」と賞賛(批判)されることも多かった[216]。戦前の影響力は凄まじく、国会議員や陸海軍将校への影響力を危険視されて大本事件を招き、特に1935年の第二次大本事件により大本は一時期壊滅する[217]。
この事件における第二審裁判では、高野裁判長に対し『人虎孔裡に堕つ』(人間が虎の穴に落ちた時どうすべきか。逃げても、立ち向っても、じっとしていても、虎に食われ所詮助からぬ。しかし、一つだけ生きる道がある。食われるのではなく、こちらから食わせてやる。食われれば何も残らぬが、食わせれば愛と誇りが残る)という禅問答を残している[218]。宗教家・王仁三郎の力量と真髄を象徴する逸話とされる[219]。高野は「大本の教えは、宇宙観・神観・人生観・社会観に大使理論整然たる教義である」と評価した[220]。また敗戦後に弁護団が国家賠償訴訟を起こそうとしたところ、国民の窮乏を考慮して損害賠償権を放棄した事も、王仁三郎の真価を示したと言える[221]。
また、王仁三郎(大本)は分派が多いことでも知られる[222]。第一次大本事件当時の大本筆頭幹部浅野和三郎は心霊科学研究会(現在日本スピリチュアリスト協会)を結成し、その思想は近藤千雄や江原啓之といった多くの心霊主義者に影響を与えた[223]。他に谷口雅春と生長の家、友清歓真と神道天行居、岡田茂吉と世界救世教(真光系諸教団)などが代表例である[224]。璽光尊(長岡良子)の璽宇にも大本系の人脈が関わった[225]。王仁三郎の側近植芝盛平が創始した合気道も、宗教団体ではないが王仁三郎の影響を強く受けている[226]。王仁三郎は炒り豆の中にこっそり生豆を混ぜて畑に蒔き、芽が出た事で信者を驚かせたという[227]。当局による弾圧により王仁三郎の思想と霊的技術は一挙に流出・拡散し「炒り豆に芽が出た」という結末になった[228]。梅棹忠夫は「大本は教祖づくりの教団」と評している[229]。
芸術評価
王仁三郎は「芸術は宗教の母なり」として宗教・芸術一元論を提唱した[230]。当人も絵画・陶芸・短歌に通じ「芸術の 趣味を悟らぬ人々は 地上天国夢にも来らず」と詠う[231]。さらに膨大な「霊界物語」を著すなど、多種多彩な才能を持っていた[232]。教団の建造物設計にも関わっている[233]。映画界にも進出、東京多摩川に映画部玉川研究所、亀岡に撮影所を開設すると、監督・脚本・役者をこなして精力を傾けた[234]。長髪でふくよかな体型のため女装を得意とし、アマテラスや弁天の異性装写真が残されている[235]。「変性女子(男体女霊)」の定義を一歩進め、両性具有の超能力者・男女を越えた異人を表現したと見られる[236]。女性への本質的な憧れがあったとも指摘される[237]。
短歌では異才を発揮した。1927年(昭和2年)には文芸活動を推進する明光社(明智光秀に由来)を組織し、大量の短歌を投稿する[238]。1930年(昭和5年)に前田夕暮のサークルに入り、ついでアララギ・あけびなど50余の短歌結社に参加して、月に1000首を詠んだ[239]。60歳のとき受けた大宅壮一のインタビューにおいて、1日に2、3百首の短歌を詠み、これまで5-60万首詠んだと語ったという[240]。1931年(昭和6年)刊行の第一歌集『花明山』の序文で前田は「現代のスフィンクス」と評した[241]。尾上柴舟も、王仁三郎の歌集『彗星』の序文で、大量量産を褒めつつ質を高めるよう批評したが、王仁三郎は序文そのものに対し無邪気に喜んでいた[242]。結局、生涯に10-15万首を詠み、王仁三郎らしい偉業と言える[243]。全く推敲をしないため玉石混合であるが、歌人石井辰彦は歌人としての王仁三郎を再評価すべきとしている[244]。
陶芸にも足跡を残した。王仁三郎は第二次大本事件拘留中の構想を元に、1945年元旦から翌年3月にかけて、36回の窯・3000個の茶碗をつくった[245]。1949年(昭和24年)2月6日、陶芸家・金重陶陽を訪ねた日本美術工芸社主幹・加藤義一郎がその日見た王仁三郎の茶碗に感銘を受けて「耀琓(ようわん)」と名づけ、日本美術工芸誌三月号と八月号に発表した[246]。それをきっかけに書画なども北大路魯山人ら斯界の第一人者から評価を受けることになる。瀬戸内寂聴は亀岡で出口直日と対談し、王仁三郎の陶芸作品に接して「王仁三郎の心臓」と評した[247]。
芸術家フレデリック・フランクは王仁三郎を『芸術家の原型』と評し、「生涯にわたり、自らの衝動と思考の一つ一つに、形相と形態と実体を与え続けずにはいられなかったのだ」と述べた[248]。
思想
- 人は天地経綸の3主体なり
- 万教同根(すべての宗教は元は一つ、真理に目覚め互いの垣を取り外し手を握り合う[249])
- 芸術は宗教の母である(森羅万象が神の偉大な作品である故に、自然の美に心を動かされ宗教心が芽生える。偉大な芸術者である神の内面に触れるところに宗教と芸術がある)[250]
- 一神即多神即汎神(神道も本質的に一神教であり、八百万の神々は天使/主神の分霊である)[251]
- 耳で見て 目で聞き鼻で 物食ふて 口で嗅がねば 神はわからず[252]
- 「我良し・強いもの勝ち」こそ危険である[253]
- 宗教の無くなる世の中がミロクの世である(教育や政治芸術一切を指導してこそ真実の教え[254])
- 言向け和わす
- 大本教は世界の「型」「雛型」。霊界で起きた事は大本に、続いて日本や世界で実際に起きる[255]
エピソード
人物像
- 長女で大本三代教主出口直日は、小学校入学時の父親職業欄に「世界改造業者」と記入した[256]。
- 孫の出口京太郎は、昭和10年代の評価で、弓削道鏡・足利尊氏・明智光秀に並ぶ逆賊ベスト4に入ると述べる[257]。
- 第二次大本事件前に亀岡で対談した大宅壮一は「浴衣の上に絽の羽織を引っかけて、頭には妙な烏帽子のようなものを頂いているでっぷり太った、がっしりした体格の大男だ。年齢は六十歳以上らしいが、どこか全体に若々しい元気がある。顔も、声も大きい。一口にいえば善良な牡牛の感じだ」(原文まま)という印象を抱いた[258]。戦後、大宅は再び王仁三郎について回想する。霊能力については懐疑的だが[259]、「いずれにしても王仁三郎という男は、奸智に長けたところもあるが、ひどくまぬけたところもあって、憎めない。一見"百姓上がりの武者小路"という感じだが、インテリでないだけに、もっと豪快で、スケールが大きい。」と評し、その人気は人柄・人間的魅力・天才的な人心収攬術に由来したと指摘する[260]。
- 宗教専門紙中外日報の社主真渓涙骨は「私は、直接間接に随分多くの人間を知ってきたが、未だかつて聖師(王仁三郎)のごとき、羽目のはずれた脱落超風の超人的野人に触れたことがない。パアーとした大風に灰をまいたような、どこといってとらえどころのない、大賢か、大愚か、豪傑か、凡俗か、かつてこんな得体の判らぬ怪物に触れたことがない。口を開けば、諧謔とユーモアの濫発で、エロ、グロの明暗両相、どこがこの人の本質だか、真面目だか、サッパリ見当がつかない。それでいて汲めども尽きぬ愛情に、世の一切を包み、底知れぬ魅力に万人の心をつかんで離さない。まったく超人的の異彩を放っていると思う。」と評している[261]。
- 平塚らいてうは大本信者の姉を持ち、大本に興味を持っていた[262]。らいてうは教団誌「人類愛善新聞 昭和7年8月上旬号」の寄稿記事で『霊界物語』とエマヌエル・スヴェーデンボリの関係性を指摘し、「出口聖師のあのつかみ所なき大きな人格に私共とて同様に世人も、もっと信頼を置いてよいのではないかと考えてゐる次第で御座います」と述べる[263]。大戦中、らいてうは王仁三郎の予言を信じて東京から疎開、戦後も大本関係者と交流を続けた[264]。
- 柳田国男は戦後「出口王仁三郎なんて日本人じゃない」と批評した[265]。
- レフ・トルストイの影響で新しき村を建設した武者小路実篤は谷口雅春(当時は大本在籍中)に対し「君には某子(王仁三郎)が耶蘇の再生に見えるのですか」と問いかけ、また雑誌『新天地』の記者に「大本教は理性に反する処が多いので無視しています。調べる気もありません」と述べた[266]。
- 大本から独立して世界救世教を開いた岡田茂吉は、昭和27年に出口虎雄(王仁三郎の娘婿)に「おやじ(王仁三郎)は大きかった。おやじが懐かしい」と述懐した[267]。
- 谷口雅春と江守輝子は大本在籍時に結婚、式には王仁三郎も出席し、教団内結婚式第一号となる[268]。昭和55年8月の取材で、輝子は王仁三郎について和歌を詠む時には不思議な能力があったこと、雅春もある面で王仁三郎の特異な能力を認めていると答えた[269]。
- 今東光(天台宗僧侶)は「日本宗教界で怪物扱いされたのは王仁三郎と一休宗純だけだ」と週刊女性昭和42年1月21号で述べている[270]。
- エルンスト・クレッチマーは循環気質の指導者を「果敢な猪突猛進主義者、スケールの大きい敏腕な組織者、宥和的懐柔的な術策者」の三型に分類し、前二者の牽引力は軽躁性の要素に負うとしている[271]。精神科医宮本忠雄は、前述の要素を全て備えた者が王仁三郎とする[271]。また王仁三郎の「手をひろげすぎて失敗する」というパターンは、軽躁的性格に起因すると指摘する[272]。宮本は、宗教・事業・思想・勉学・芸術のあらゆる物に興味を持ち臨機応変に取り込んで成長する王仁三郎について「彼の一生は要するに混交的肥大の生涯だったと考えても間違いあるまい」「多くの支流を統合し、清濁を併せ呑む大河。氾濫は河の意思ではなく、流域の水が河へ流れ込む為である。『パラノイア川』と名づけるにはあまりに濁りが目立ち、『妄想江』と呼ぶには河水と堤防とがあまりに調和している。途中に奇岩怪石の立ち並ぶ急流の箇所もあるが、河全体の景観を変えるほどのものではない」と評した[273]。
- 青年時代に「安閑坊喜楽」と号して冠句を残すなど、多芸多趣味であけ広げで気の置けない人柄であり、どんな時でもユーモアを忘れなかった[274]。第二次大本弾圧の裁判時、検察側の主張を煙にまいて法廷内に笑いが起きたほどである[275]。釈放後の回顧歌にも、体制側への怒りと悲愴感の中にユーモアが漂っている[276]。反面、気が弱い一面もあり、大胆で豪放、繊細で緻密、気が強く情に脆いという複雑な性格といえる[277]。親交を結んだ内田良平や頭山満は西郷隆盛を念頭に「丹波に鐘のような男がいる」と評した[278]。
- 王仁三郎も西郷隆盛を近代では希にみる大人物として高く評価したが、西南戦争における熊本城包囲戦について奇魂(智慧)が足らなかったと評した[279]。豊臣秀吉も西郷と同じく一等星と語った[280]。
逸話
- 生家・上田家は祖父の散在により没落し、王仁三郎誕生時には極貧農家になっていた[281]。上田家の伝説では七代ごとに偉人が現れるとされていたが、喜三郎は「幽霊画」で有名な円山応挙から数えてちょうど七代目にあたる[282]。それが事実かどうかよりも、自己劇画化に円山応挙を用いたことが王仁三郎の心情を語っているとされる[283]。
- 出口京太郎は王仁三郎の孫(母は長女・直日)。出口光(メキキの会会長)と出口汪(予備校講師)は王仁三郎の曾孫である。光は王仁三郎次女・梅野を祖母とする。汪は王仁三郎三女・八重野を祖母、小説家・出口和明を父とする。武田崇元は和明の娘を妻とする。
- 喫煙家で、銘柄は敷島 (タバコ)を好んだ[284]。敗戦後、信徒が進駐軍のタバコをさし出すと拒絶したという[285]。
- 出口直の三女・福島久は、母の啓示に従って京都府船井郡八木町に小さな茶店を出した[286]。1898年(明治31年)8月16日、王仁三郎(当時は上田喜三郎)は偶然この茶店に立ち寄り、久から直の「筆先」を見せられて綾部行きを決意した[287]。
- 出口家に婿入りしてから、王仁三郎と直は「火水の戦い」と呼ばれる対立を起こし、お互いに懸かる神を悪神と攻撃した[288]。王仁三郎は道の大本という文書を著して直達を攻撃している。とうとう我慢できなくなった王仁三郎は「わしは養子だから裸で帰る。だが子供はつれて行く」と長女・直日を全裸の背中に括りつけて飛び出そうとした[288]。すると妻・澄が下半身を露出させて「先生、ここに未練はござへんかい」と諌め、王仁三郎は妻をアメノウズメに例えて笑い冷静になった[288]。後年の座談会で、初期には直に懸かった神を偽神と疑ったが「神人合一すればする程筆先通りや」と考えを改めたことを述べている[289]。
- 初期の大本は直の筆先を絶対視する原理主義の傾向があり、宗教的理由から菜食主義を実践していた[290]。王仁三郎も玄米菜食を推奨するが、時に大槻鹿造(直の長女の娘婿)が経営する肉屋に赴いて牛肉を食べていた[290]。第二次大本事件後には当時の信者達を「神様の言葉を盲信して、頭はカチカチだった」「熱心といえば熱心で、神様には理屈ぬきでまっしぐらだった」と回想し、昔は熱心だが常識がなく、現状の信者は教養こそあるが熱がなく、両者の良い所を混ぜると良い信仰になると語った[291]。
- 出口直は「大本では男子は育たぬ」と予言していた[292]。王仁三郎は多くの予言を的中させたが、澄の初妊娠がわかった際に王仁三郎は男子を希望し、直は啓示に従って女子と断言する[293]。誕生したのは長女・直日だった。1913年(大正2年)8月29日に長男・六合大(くにひろ)が誕生するが、生後220日で急死した[292]。王仁三郎は体を転がせて慟哭し、今度は女子として生まれ変わるよう遺骸に告げた[292]。五女・尚江が産まれると、どこから見ても瓜二つと喜んでいる[294]。
- 王仁三郎に隠し子(女児)がいるという噂が広がり、事実として認めたため澄と大喧嘩になった[295]。女子は王仁三郎の子として養育され、子供自身も長く王仁三郎の娘と信じていたが、本当は三田村四郎(社会運動家)の娘だった[295]。
- 出口直が自動書記によって残した「筆先」を偽作したという攻撃が執拗になされた。例えば、大本幹部で「霊界物語」の口述筆記に当たった谷口雅春は、原文と王仁三郎の文章を比較対比して予言の食い違いや啓示に疑問を感じ、後に脱退して生長の家を設立した[296]。これは「筆先」の中に「王仁三郎を使え」と命じる文があり、直は筆先の編集を王仁三郎に委託[297]。彼は言霊を用いて筆先を大幅に修正・体系的にまとめ、『大本神諭』として公表した[298]。教義上、直(変性男子/女体男霊)と王仁三郎(変性女子/男体女霊)は切り離せない存在であり、当人も解釈は当然と割り切っていた[299]。また筆先の原文には神の支配と同時に君主権力の廃絶(天皇の退陣)を求める文面もあり、文章の整理と編集をしなければ戦前の日本で発行できなかったという側面もある[300]。
- 第一次大本事件当時の大本幹部浅野和三郎は王仁三郎のライバルだった。王仁三郎に屈折した感情を抱く浅野に対し、王仁三郎の側もライバル意識やコンプレックスを吐露している[301]。ユーモアや言葉遊びの名人だったにも関わらず直接的に非難したこともあった[302]。二人の関係は出口直(シャーマン、霊能者)と王仁三郎の関係(プリースト、祭祀者、取次)を、そのまま王仁三郎と浅野に置き換えたものとされる[301]。第一次大本事件や霊界物語の教義化により大本を去り心霊科学研究会を設立した浅野に対し、王仁三郎は微妙な態度を取った[303][304]。心霊研究については「今頃に心霊科学研究もあつたものかい 日本には昔からある」と批判した[305]。
- 王仁三郎の次女・梅野は浅野正恭(海軍中将)の養子・遥(出口寿賀麿と改名)と結婚したが、昭和3年に離婚した。政恭と遥は大本を去ったが長女の操は残り、1987年の取材でも自分は大本の子と語っている[306]。
- 王仁三郎は手相や観相も行っており、ある日知人の柳原緑風に「観る人観る人、火難ばかり目について、目がおかしくなったに違いない。手相観はやめる」と悩みをうちあけた[307]。間もなく関東大震災が起り、自信を取り戻したという[307]。
- 矢野祐太郎(海軍大佐、シオン賢者の議定書を伝えた1人)は大正10年5月4日に王仁三郎への情報漏洩により岡田啓介海軍艦政本部長(第二次大本事件時の総理大臣)から謹慎処分を受けた[308]。退役した矢野は中国大陸で三也商会を開き、王仁三郎の蒙古入りを支援している[309]。
- 王仁三郎は教典『霊界物語』第64巻で日ユ同祖論を論じ、「王仁はユダヤのことを悪く書いたことはない。」「ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や。」「ユダが暫く世界を統一する。それから○○の番だ。」と語る[310]。王仁三郎の日猶同祖論は、後発の日月神示や宇田川豊弘の日本エホバ教団(昭和25年)等に影響を与えた[311]。
- 東条英機陸軍大将と築地の料亭で会い「軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早すぎる」と告げたが、東条は宗教家に諭されたことで立腹しただけだった[312]。
- 1931年(昭和6年)9月28日、川島浪速と川島芳子が亀岡の王仁三郎を尋ねた[313]。愛新覚羅溥儀(宣統帝)を亀岡に匿うという筆談用紙が残されている[314]。王仁三郎は「つまらぬ者に利用されると宣統帝の没落になる」と警告していた[315]。
- 昭和神聖会運動では「天皇陛下万歳」を唱えるが、側近には「天王さんは素戔嗚尊のこと」「主師親三徳を兼備したのが天皇」と語る[316]。特別な拝謁刀を作らせ側近達の前で鞘をはなつと、中から人類愛善会の旗が出てきたというエピソードも残る[317]。
- 出口日出麿の友人に岡本天明がおり、大本機関誌「人類愛善新聞」の編集長を務めた[318]。第二次大本事件に於いて岡本は逮捕を免れ、鳩守八幡神社の留守神主となる[319]。太平洋戦争中、岡本は神示を受けて「日月神示」を著す[320]。戦後、岡本は王仁三郎を訪問したが反応は芳しくなく、大本もこの神示を正統なものとは認めていない[321]。
- 自身を象徴する星はオリオン座と語り[322]、亀岡城の跡地に建てられた神殿「天恩郷」の月宮殿はオリオン座を地球にうつしたものだとされる[323]。この星座に関する和歌も大量に詠んでいる[324]。後の第二次大本事件を回顧した歌集では、オリオン星座とは拘置所と述べている[325]。
- 大本は、出口直、王仁三郎、澄の関係を「扇」に喩え、直は骨・王仁三郎は紙・澄は要と定義した[326]。
入蒙記
- 1924年(大正13年)、第一次大本事件で責付出獄中にも関わらず蒙古に渡航、馬賊を率いて活動したことは、妻澄や教団幹部を含め、人々を仰天させた[327]。村上重良は「日本の大陸進出の一貫であった」「宗教を大陸侵略に利用した」として否定的な評価を下す[328]。松本健一は王仁三郎の根底に「神に選ばれた使命感」があったと指摘し、民族を越えた万教同根の理想を実現するため様々な勢力を利用した結果と述べている[329]。名刺では「弥勒下生達賴喇嘛(みろくげしょうだらいらま)、素尊汗」、日本姓名「源日出雄 瑞月」、朝鮮姓名「王文泰 天龍」、民国姓名「王文祥 尋仁」と名乗る[330]。出発を見送った信者によれば、5-6年は帰らぬつもりだったという[331]。
- 6月20日、王仁三郎や植芝盛平ら6名は張作霖によって捕らえられ、銃殺を宣告される。機関銃を修理する間に「身はたとえ 蒙古の野辺にさらすとも 日本男児の品は 落とさじ」「いざさらば 天津御国に かけ昇り 日本のみか 世界まもらん」「日の本を 遠く離れて 我は今 蒙古の空に神となりけむ」「我を待つ 天津御国の わかひめを いざしに死に行かん 敵のなかうど」と辞世を詠み、さらに植芝ら5名の歌も代作している[332]。後に事件を回想し、銃殺の時に幽体離脱をした結果、日本に帰っても「現界か霊界か、現実感がなかった」と述べている[333]
- 『霊界物語、入蒙記』に、王文泰という父親をもつ女馬賊・籮龍との交流を描いたエピソードがある[334]。妻・澄は自伝の中で「王仁三郎から蒙古で出口清吉(直の次男、近衛兵)の娘と会ったと聞いた」と述べている[335]。公式記録によれば清吉は明治28年7月7日台湾で病死したが、遺骨が返還されたにも関わらず脱走や水葬されたという噂があり、直の「筆先」には「死んでおらん」という啓示が出ていた[336]。直は長く啓示を信じていたが、晩年は神の直に対する慰めと解釈していたという[337]。
- 『日出新聞』明治33年8月13日付2面に北清事変で活動した日本人軍事探偵「王文泰」の記事が載り、衝撃を受けた王仁三郎は歌集『青嵐』にいくつかの和歌を載せた[338]。さらに教団内で王仁三郎に敵対していた福島久(直の三女)に対し清吉が馬賊として活動中という書簡を渡している[339]。
- 王仁三郎は入蒙直後から日本軍憲兵隊によって尾行されていた[340]。諜報員の長谷川久雄は戦後の取材で王仁三郎について「着物を着て靴をはくような服装をかまわない人。乗馬は上手ではなかった」と回想し、『霊界物語・入蒙記』に記載されていない行動について語った[341]。後に、長谷川は関東軍に協力した日本人道士「王清泰」と行動を共にする[342]。
- 孫で作家の出口和明は、出口清吉が諜報員として中国で活動し、王仁三郎の入蒙目的の一つに清吉(王文泰)との対面があったと結論づけている[343]。昭和初期、出口澄は娘婿・高見元男こそ清吉の生まれ変わりであると信じ、王仁三郎も出口直日と元男の婚儀内祝宴でそれを認め、元男を出口日出麿と名乗らせた[344]。一方、太平洋戦争後出版された澄の自伝では「清吉は王文泰」と語られている[345]。
- 入蒙前は健康な歯だったが、『霊界物語』最終篇の口述筆記時(1933年)には総入れ歯となっており、長時間喋ると口が重いと周囲に訴えている[346]。
第二次大本事件
- 『霊界物語』の筆記者だった信者によれば、第二次大本事件直前に側近達を集め『霊界物語』全巻セットを各人に配り、熟読するよう告げた[347]。
- 1928年(昭和3年)3月3日、満56歳7ヶ月の王仁三郎は綾部で「みろく大祭」を挙行、自身が弥勒菩薩・救世主であると宣言した[348]。儀式の最中、王仁三郎は林檎3個を取り、妻子や幹部達に大根や頭薯を与える[349]。当局はこの儀式を「国体の変革を目的とした結社を組織し、政権を奪取せんとした陰謀」として治安維持法違反の根拠とした[350]。実際には、検察の論告はこじつけや滑稽話に近かった[351]。王仁三郎は事件後の回顧歌で「大根は何程食ふも中らねど その反対に人を殺せり」「恐ろしき闇世なるかな大根が 生命を奪るとは前代未聞よ」と詠っている[352]。
- 事件直前の12月6日、二・二六事件の首謀者・北一輝は王仁三郎に会ってクーデターの資金提供を求めた[353]。王仁三郎に一蹴された北は暗殺を示唆したが、12月8日に王仁三郎が松江で逮捕されて空振りに終わった[353]。後に王仁三郎は「警察に保護されたも同然。北一輝らはさぞ地団太踏んでいただろう」と語っている[354]。北と共に処刑された西田税の自伝にも大本を研究したことが記されており、資金提供を頼んだのは西田という見解もある[355]。
- 北一輝は大正8-9年頃に王仁三郎と会見していた[356]。二・二六事件で逮捕された北は当局に対し「変な姿。自分の信仰(独自解釈した法華経)に因る神秘的体験から観ると、大本教は神ではなく相当な邪霊で皇室を滅ぼそうとしている」「断じて大本教と接触しないよう指導した」と王仁三郎について語る[357]。伝記『北一輝-日本的ファシストの象徴』によれば、王仁三郎は自ら希望して北と会見し「ガタガタと震えて北に圧服された」と描写するが、実際は北の方が王仁三郎に手紙を出しており、伝記は北の側のリップサービスである[358]。松本健一は、王仁三郎と北が天皇制国家の内で「天皇=革命」の原理を打ち出して「神の国(もう一つの天皇制国家)」を創造しようとした点で『似たもの同士』と論じた[359]。天皇制国家(大日本帝国)が大本を忌み嫌ったのも当然であったとされる[360]。
- 王仁三郎と北の会見に同席した大川周明は「出口は下劣で取るに足らぬ奴」と評したが、東京裁判中の1948年(昭和23年)1月21日の日記に「出口王仁三郎死亡」と記述した[361]。
- 第二次大本事件当日、「出口はどこだ」と押し入ってきた警官に対して、信者が「出口はこっちです」と部屋の『出口』に誘導した[362][363]。当局側は大本の武装蜂起を信じており、水杯を交わしての決死の突入であった[364]。
- 木戸幸一の日記によれば、1935年12月13日(第二次大本事件、王仁三郎の逮捕から5日後)に唐沢俊樹警保局長が木戸に事件を報告した[365]。この後木戸は参内して昭和天皇と食事をしたが、天皇の王仁三郎に対する評価は不明である[365]。敗戦後、王仁三郎は「天皇陛下もどうもならんなあ(略)大本をあんなにしたのだから仕方がない。責任は矢張り大将にあるから」と天皇の責任を指摘した[366]。一方で瀬戸内寂聴は 昭和神聖会が弾圧されず愛国運動が発展した場合、王仁三郎は「聖戦」に協力し戦犯になっていた可能性を指摘している[366]。
- 第二次大本事件裁判の第一審判決で無期懲役が言い渡された際、王仁三郎は傍聴席を向いて舌を出し関係者を驚かせている[367]。また裁判中に澄が神懸かり状態となって激昂した際には、「これこれ」と言って妻を宥めた[368]。
- 山本英輔海軍大将は保釈され亀岡に戻った王仁三郎に水野満年を通じて戦局打開の方策を尋ねた[369]。他の軍人達の質問にも基本的に良い返事をしなかったが、サイパンの戦いが天王山になる事は伝えている[370]。戦局が絶望的になると多くの人々が王仁三郎を慕って亀岡を訪問した[371]。
- 敗戦後、林逸郎弁護士が大本事件における賠償請求を検討していたところ、「今度の事件は神さまの摂理」として賠償請求の権利を放棄した[372]。そして「大きな御用のために東京に帰りなさい」と告げる[373]。林を待っていたのは東京裁判の弁護人という仕事であった[374]。
- 綾部の教団敷地に脚を踏み入れた際、桜の木を全部切るよう強く命じた[375]。
- ダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官について玉音放送直後に「マッカーサれた(負かされた)」と駄洒落にし、「マッカーサーはへそだ。朕の上にある」と冗談にしつつ業績を評価していた[376]。さらに『霊界物語』第58巻第1章に登場するニコラス大尉は「日本を懲らす…でマッカーサーの事」と語っている[376]。
王仁三郎と合気道
合気道の開祖植芝盛平は王仁三郎の蒙古入りに同伴するほど関係が深く、大正末から昭和初期にかけて王仁三郎の側近として武道修行を行った[377]。1920年(大正9年)春に植芝が綾部移住の挨拶をすると、王仁三郎は「武の道を天職とさだめ、その道をきわめることによって大宇宙の神・幽・現三界に自在に生きることじゃ。大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ。真の武とは戈を止まらしむる愛善の道のためにある。」と語り、側近に抜擢した[378]。1924年(大正13年)の蒙古入りで植芝は「王守高」を名乗って護衛役となり、『霊界物語-入蒙記』でしばしば登場する[379]。大本と王仁三郎は合気道に強い影響を与えており、植芝の語録は霊界物語からの引用が多い[380]。一例として、植芝は道場で「三千世界、一度に開く梅の花」と声を出し手を開き、続いて「梅で開いて松で治める」と述べて手を結ぶ動作をしていたが、これは開祖出口なおの教典『大本神諭』冒頭文「三千世界、一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて、松で治める、神国の世になりたぞよ。(中略)神が表に現れて、三千世界の天之岩戸開きを致すぞよ。用意をなされよ。この世は全然、新つに致して了ふぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて、万古末代つづく神国の世に致すぞよ」の引用である[381]。1932年(昭和7年)8月13日に大日本武道宣揚会が発足すると、王仁三郎は「真の武は神より来る。破壊殺傷の術は真の武ではない。地上に神の御心を実現する破邪顕正の道こそ真の武道。真の武士道は武士道を言挙げせぬ神代に存在していた」という趣旨の設立趣意書をよせ、独特の武術論を展開している[382]。なお合気に「愛気」をかけあわせたのが王仁三郎であり、昭和7年の大本機関誌では「合気道」の命名者も王仁三郎としている[383]。植芝の甥井上鑑昭(親和体道/親英体道創始者)も、「合気武道」命名者は王仁三郎と証言している[384]。第二次大本事件で大本は壊滅するが植芝は弾圧を受けずに済み、さらに合気道を発展させていった[385]。
有栖川宮熾仁親王落胤説
出生に纏わる秘話に有栖川宮熾仁親王の御落胤説があり、広く噂されていた[386]。落胤説は天皇絶対の時代にあってカリスマ性を獲得することに貢献したが、王仁三郎は謎めいた歌を残すだけで直接的には否定も肯定もしていない[387]。第二次大本事件における検察も、不敬罪に関わるこの問題について微妙な態度をとっている[388]。戦後では、孫の出口和明が主張している[389]。王仁三郎が綾部入りした際お歯黒をつけ打裂羽織を着用していたのも、そのためだとしている[390]。昭和3年7月頃の和歌や、昭和15年12月11日の第二次大本事件裁判でも示唆されているという[391]。大本に対する弾圧の背景には大正天皇の皇位継承を危うくしかねないこの有栖川御落胤説を封印する目的があったという説もある[392]。出口和明は、明治天皇皇后昭憲皇太后の姪である鶴殿ちか子が大本に入信した理由について、王仁三郎と親王の血縁を確信したためと解釈した[393]。直の明治31年旧9月24日[394]、明治35年旧12月1日の筆先にも示唆する文面がある[395]。
予言
王仁三郎は鎮魂帰法を広めた霊能力者であるが、病気治療という点では民間療法の域を出ない[396]。その反面、時代に対する予知と警告に関しては突出した力を発揮する[397]。彼は言霊学の権威であり、言霊を利用して度々予言を行った[398]。明治末期 - 大正初期の『いろは歌』『大本神歌』『瑞能神歌』にアメリカ合衆国との総力戦(太平洋戦争)やB-29爆撃機による空襲を示唆する予言がある[399]。大正8年5月の京都日出新聞に京都府警と王仁三郎の応答が公開され、王仁三郎は世界大戦で日本が占領されると述べる[400]。第二次大本事件における裁判(昭和13年8月10-11日)でも、戦争で外国が東京を攻める・東京は空襲を受けてススキノになると証言し、公判記録にも残っている[401]。他に1921年(大正10年)の原敬首相暗殺、関東大震災も予言した[402]。特に関東大震災は、直の筆先に「東京は焼け野が原になるぞよ」との文章があり、相乗して王仁三郎と大本への熱狂的支持に転化した[403]。1931年(昭和6年)9月8日、「10日後に事件が起こり神界の経綸が実現の緒につく」と述べ9月15日に柳条湖事件が勃発、さらに「西暦1931=皇紀2591はイクサハジメ・ジゴクハジメ」と述べていたため、大きな反響を呼んだ[404]。王仁三郎は日本軍・右翼団体・中国宗教界と親交が深く、事前に情報を得ていた可能性がある[405]。また王仁三郎に超常的な力があると信じた陸軍参謀が、満州支配に王仁三郎の力を利用しようと『文藝春秋』昭和7年1月号で公言したこともある[406]。
王仁三郎は度々警察に拘留されたが、第一次大本事件や蒙古遭難事件では126日間拘束されている[407]。大正10年2月12日に拘束され、蒙古事件後の7月26日に収監されるまで1260日であり、このため大本事件をヨハネの黙示録になぞらえる珍説もある[408]。ただし王仁三郎も霊界物語第36巻余白歌で「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」と詠い、別の著作でも獣の数字について言及した[409]。1942年8月7日に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と家族に語った[410]。同日、米軍はガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まる[411]。尋ねてくる者に様々な予言を行った[412]。「昭和暦十八年の元旦は 五十年準備の充てる日にぞある/昭和十八年の年より三千年の いよいよ経綸の幕は上がれり」と詠い、早くから日本の敗戦を予言[413]。「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる[414]。広島市への原爆投下やソ連軍の満州侵攻、千島列島や台湾の領土喪失も警告[415]、鈴木貫太郎総理大臣について「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは鈴(つづ)木貫太郎(かんだろう)」と冗談にした[416]。予言が的中したことに感嘆する者も多かったが、弟子に「ワシは、神さんの予言が中らぬよう中らぬようと努めてきたのやが……」と嘆息している[417]。本当の火の雨はこれからとも語る[418]。側近によれば、次の大戦は中東が導火線になる宗教戦争と告げ「原爆を投下させない為に死後も活動する」と述べた[419]。王仁三郎の危機的予言は「みろくの世」という理想世界が出現するにあたって起きる大変動(大峠)を比喩したものであり、王仁三郎の活動により、大難(ノアの洪水)のような大災害を、小難(飢饉・病気・戦争)という人類の力が及ぶものに祀り変えて乗り切るという終末と再生観である[420]。
また戦争に関するものだけでなく、携帯電話やリニアモーターカーなど未来技術についても言及している[421]。予言は多くの人を惹きつけたが、同時に詐欺師や邪教という非難の要因ともなった[422]。松本健一は「カリスマを予言者、救世主、超能力者とみるのは、その支配圏内の信者たちである。しかし、その支配圏外にいるものにとっては、かれは山師、大ほら吹き、精神異常者としかみえないのだ。」と論じた[423]。
著書
主な著書に『霊界物語』(全81巻83冊)、『道の栞』、『霊の礎』、『本教創世記』、『出口王仁三郎全集』、『道の大本』など多数があり、歌集としては、『花明山』、『彗星』、『故山の夢』、『東の光』、『霧の海』、『愛善の道』などがある。また、日記的な著作物として『東北日記』、『ふたな日記』、『壬申日記』、『日月日記』などもある。
- 没後
- 霊界物語 全81巻 大本教典刊行会 1967-1971
- 耀碗 出口王仁三郎楽茶碗名品 講談社 1971
- 出口王仁三郎著作集 全6巻 読売新聞社 1972
国会図書館所蔵の発禁本
以下は内務省警保局図書課に検閲のために納本したものが発売頒布禁止処分となって保管されていたもの、および、警保局が大本研究用に集めていたものが戦後にGHQに押収され、さらに国会図書館に送られたものである。内務省の検閲や研究の痕跡が残っているものを含んでいる。なお、大本関係の著書は大本を擁護したものも含めてほとんどが発禁となっており、その全体像は未だに解明されていない。またこれらは戦後には再版・復刻などがなされている。
- 大本教開祖御伝記 大日本修斎会本部 1913
- 皇道我観 第一天声社 1920
- 記紀真解 皇道大本大日本修斎会 1921年(大正10年) (王仁文庫)
- 記紀真釈 皇道大本大日本修斎会 1921年 (王仁文庫)
- 瑞能神歌 第一天声社 1921
- 八面鋒 大日本修斎会 1921年 (王仁文庫 第8篇)
- 道之大原 大本皇道大日本修斎会 1921年 (王仁文庫 第5篇)
- 霊界物語 1-72 出口瑞月 天声社 1923-1929
- 大本三美歌 瑞月 天声社 1923年(大正12年)
- エス和作歌辞典 記憶便法 出口瑞月 天声社、1924
- 霊の礎 出口瑞月 天声社、1924
- 道の栞 出口瑞月 天声社 1925 (玉の柱 第1篇)
- 大本讃美歌 天声社 1925
- 祝詞略解 出口瑞月 天声社 1927
- 水鏡 如是我聞 加藤明子編 第二天声社 1928年11月
- 大本概要 第二天声社 1930年(昭和5年)1月
- 月鏡 如是我聞 加藤明子編 第二天声社 1930年11月
- 花明山 第一歌集 第二天声社 1931年5月
- 慧星 第2歌集 明光社 1931年7月
- 故山の夢 第3歌集 第二天声社 1931年8月
- 霞の奥 第4歌集 第二天声社 1931年(昭和6年)9月
- 東の光 第5歌集 第二天声社 1931年12月
- 霧の海 第6歌集 天声社 1932年(昭和7年)3月
- 皇道大意 出口瑞月 天声社 1932年12月 (王仁文庫)
- 随感録 天声社 1932年6月 (王仁文庫)
- 白童子 第七歌集 天声社 1932年5月
- 青嵐 第8歌集 天声社 1932年7月
- 公孫樹 第九歌集 天声社 1933年(昭和8年)2月
- 浪の音 第10歌集 天声社 1933年3月
- 山と海 第11歌集 天声社 1933年6月
- 記紀解説 / 出口瑞月 天声社 1933年10月
- 出口王仁三郎全集 全8巻 万有社・高木鉄男、1934-1935
- 皇道維新と経綸 天声社 1934年(昭和9年)10月
- 統管随筆 天声社 1934年
- 惟神の道 天声社 1935年(昭和10年)12月
- 玉鏡 加藤明子編 天声社 1935年(昭和10年)3月
年譜
- 1871年(明治4年)8月 - 京都府亀岡市で上田喜三郎として誕生。
- 1896年(明治29年) - 穴太精乳館・上田牧牛場を開業。
- 1898年(明治31年)
- 3月 - 高熊山で一週間修行、神秘体験をする。
- 4月 - 静岡県稲荷講社に長沢雄楯を尋ね、霊学と鎮魂帰神法を学ぶ。
- 10月 - 京都府綾部の出口直を尋ねる。初対面は不調に終わる。
- 1899年(明治32年)
- 7月 - 再び綾部を訪れ、出口直に憑依した「艮の金神」の審神を行う。
- 8月 - 金明霊学会を組織する。大本の原型。
- 1900年(明治33年)1月 - 出口直の五女・出口澄と結婚。養子婿となり出口王仁三郎と改名。
- 1902年(明治35年) - 大阪天王寺に一万坪の大阪本部設置計画を建てるも、幹部の妨害で頓挫。
- 1906年(明治39年)9月 - 教団を離れ、皇典講究所教育部本科2年生に入学。
- 1907年(明治40年)
- 3月 - 建勲神社の主典となる。
- 12月 - 伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事に就任。
- 1908年(明治41年)
- 3月 - 御嶽教大阪大教会長に抜擢。
- 8月 - 金明霊学会を大日本修斎会に改名。
- 12月 - 御嶽教を辞職。
- 1916年(大正5年)
- 4月 - 金明霊学会を皇道大本に改名。
- 12月 - 浅野和三郎が入信。
- 1918年(大正7年)11月 - 開祖・出口直が逝去。大本二代教主輔となる。
- 1919年(大正8年)12月 - 植芝盛平が大本を訪れ鎮魂帰神法を学ぶ。翌春入信、王仁三郎側近。
- 1921年(大正10年)
- 2月 - 第一次大本事件。不敬罪、新聞紙法違反で逮捕・検挙される。
- 10月 - 京都地方裁判所で懲役5年判決。控訴する。霊界物語口述開始。
- 1924年(大正13年)
- 2月 - モンゴルに出国。馬賊と共にモンゴル独立を目指して活動する。
- 6月 - 張作霖により処刑されかけるが、日本領事館の介入で救出される。
- 7月 - 日本に帰国。京都府拘置所に移送される。
- 11月 - 釈放される。
- 1925年(大正14年)
- 5月 – 世界宗教連合会設立。
- 6月 - 人類愛善会設立。
- 1927年(昭和2年)5月 - 天皇崩御の大赦令で第一次大本事件免訴。全国を巡教する。
- 1928年(昭和3年)3月3日 - 56歳7ヶ月で「みろく大祭」を実施。
- 1929年(昭和4年)10月 - 朝鮮・満州を布教旅行する。
- 1930年(昭和5年)5月 - 宗教博覧会開催。
- 1931年(昭和6年)10月 - 昭和青年会を全国的な統一組織に改組する。
- 1932年(昭和7年)6月 – 昭和坤生会(婦人部隊)を結成する。
- 1934年(昭和9年)
- 3月 - 人類愛善新聞、100万部発行を達成。
- 7月 - 昭和神聖会を結成。総帥となる。
- 1935年(昭和10年)12月8日 - 第二次大本事件。治安維持法違反等で逮捕され、徹底弾圧を受ける。
- 1940年(昭和15年)2月 - 京都地方裁判所にて無期懲役判決。
- 1942年(昭和17年)
- 7月31日 - 第二審で不敬罪により懲役5年判決。治安維持法違反は無罪。
- 8月7日 - 保釈される。京都府亀岡の長女宅に戻る。
- 1945年(昭和20年)
- 9月 - 不敬罪の控訴審棄却される。
- 10月 - 敗戦による大赦令により不敬罪消滅。
- 12月 - 大本を愛善苑として発足させる。
- 1948年(昭和23年)1月19日 - 死去。
文献
自著
- 出口王仁三郎『第二次大本事件回顧歌 朝嵐』あいぜん出版、1997年10月。ISBN 4-900-441-43-0。
- 出口王仁三郎『古事記 言霊解』みいづ舎、2004年12月。ISBN 4-900441-70-8。
伝記
- 出口京太郎著 『巨人出口王仁三郎』 ISBN 4887560451
- 上田正昭監修 『みろくの世 ―出口王仁三郎の世界―』 ISBN 4887560680
- 出口和明著 『大地の母』
- 村上重良『出口王仁三郎』新人物往来社、1973年7月。
- 杉森久英『風雲を呼ぶ男』時事通信社、1977年2月。「風雲を呼ぶ男 出口王仁三郎」
- 伊藤栄蔵『出口なお・出口王仁三郎の生涯 新宗教創始者伝・大本』講談社、1984年4月。ISBN 4-06-201171-9。
- 粕谷一希解説『言論は日本を動かす(第6巻) 体制に反逆する』講談社、1986年2月。ISBN 4-06-188946-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。 瀬戸内寂聴著「出口王仁三郎」
- 松本健一『出口王仁三郎 屹立するカリスマ』リブロポート、1986年12月。ISBN 4-8457-0244-4。
- 夏掘正元『日本反骨者列伝』徳間文庫、1987年11月。ISBN 4-19-598396-7。「金神伝説-出口王仁三郎」
- 長谷邦夫『コミック 世紀の巨人 出口王仁三郎 “軍国日本”を震撼させた土俗の超能力者』ダイヤモンド社、1992年1月。ISBN 4-478-30040-2。
- 出口京太郎『現代教養文庫 巨人 出口王仁三郎』社会思想社、1995年10月。ISBN 4-390-11537-5。
- 百瀬明治『出口王仁三郎 あるカリスマの生涯』PHP文庫、1995年10月。ISBN 4-569-56810-6。
- 百瀬明治『大本教大成者 巨人出口王仁三郎の生涯』勁文社、2001年5月。ISBN 4-7669-3762-7。 PHP文庫版を再録。
- 広瀬浩二郎『人間解放の福祉論 出口王仁三郎と近代日本』解放出版社、2001年2月。ISBN 4-7592-6051-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 江口敏著、保阪正康監修『志に活きる! 昭和傑物伝』清流出版、2003年11月。ISBN 4-86029-060-7。
十和田龍「出口王仁三郎 "世直し"に生きた"超人類"」 - ナンシー・K・ストーカー著、井上順孝監修、岩坂彰翻訳『出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ』原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04292-0。
- 島田裕巳『日本を騒がせた10人の宗教家 宗教の本質とは何か』静山社、2010年11月。ISBN 978-4-86389-078-7。
第8章 出口王仁三郎 -強烈なカリスマ性で多方向に活躍した大本の教祖
芸術
- 出口王仁三郎『出口王仁三郎書画集』あいぜん出版、1935年8月。ISBN 4-900441-66-X。 1999年9月8日復刻版発行
- 出口虎雄『根源美の探究』淡交社、1969年10月。
- 出口信一監修、西村学編纂『出口王仁三郎 耀琓』国書刊行会、1996年8月。ISBN 4-336-03858-9。
- 石井辰彦『現代詩としての短歌』書肆山田、1999年12月。ISBN 4-87995-473-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
「詩人たちの方向」ナイーヴな言語の悦び - 出口王仁三郎の短歌
主要文献
- 出口栄二監修『写真図説 民衆の宗教・大本』学燈社、1970年3月。
- 宮本忠雄『診断・日本人』日本評論社、1974年7月。 宮本忠雄-出口王仁三郎
- 和歌森太郎編『日本宗教史の謎(下)』佼成出版社、1976年5月。
小島信一著「大本-変性男子と変性女子」 - 出口栄ニ・梅原正紀・清水雅人『新宗教の世界Ⅳ』大蔵出版、1978年12月。ISBN 4-8043-5204-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
出口栄二『大本-予言と弾圧の歴史』 - 丸山照雄編『現代人の宗教10 宗教の可能性』御茶の水書房、1986年8月。ISBN 4-275-00693-3。
出口栄ニ『大本の立替え立直し』 - 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』光書房、1979年9月。
- 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』みいづ舎、2005年3月。ISBN 4-900441-72-4。 光書房版を復刻。
- 出口和明『出口王仁三郎 入蒙秘話 出口清吉と王文泰』いづとみず、1985年5月。
- 丸山照雄『現代人の宗教3 金光と大本 教典その心と読み方』御茶の水書房、1986年7月。ISBN 4-275-00686-0。
出口栄二『お筆先と霊界物語 その心と読み方』 - 丸山照雄編『現代人の宗教10 宗教の可能性』御茶の水書房、1986年8月。ISBN 4-275-00693-3。
出口栄ニ『大本の立替え立直し』 - 十和田龍『出口王仁三郎の神の活哲学 血肉となって魂を活かし人生に光』御茶の水書房、1986年12月。ISBN 4-275-00721-2。
- 文藝春秋編『なんだか・おかしな・人たち』文春文庫、1989年10月。ISBN 4-16-721718-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
大宅壮一(評論家)『怪僧・出口王仁三郎』 - 鎌田東二『意識と場所Ⅱ 異界のフォノロジー 純粋国学理性批判序説』河出書房新社、1990年4月。ISBN 4-309-23015-6。 第二部《神道》場所と国学 - 出口王仁三郎の思想と実践 内部生命の探求をめぐって
- 霊界物語研究会『予言と神話 出口王仁三郎と霊界物語』いづとみづ、1991年7月。ISBN 4-89350-163-1。
- 松本健一『昭和天皇伝説 たった一人の戦い』河出書房新社、1992年4月。ISBN 4-309-00758-9。
第二章 カリスマたち-出口王仁三郎というカリスマ - 武田崇元『出口王仁三郎の霊界からの警告 発禁「予言書」に示された、破局と再生の大真相』光文社文庫、1993年2月。ISBN 4-334-71661-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 梅棹忠夫・中村弘允編『宗教の比較文明学』春秋社、1993年3月。ISBN 4-393-29109-3。
ヘレン・ハーデカ著 第4章「大本におけるジェンダーと千年王国」 - 出口和明『スサノオと出口王仁三郎』八幡書店、1995年9月。ISBN 4-89350-181-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 愛善苑『出口王仁三郎と青年座談会』あいぜん出版、1995年9月。ISBN 4-334-71661-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 大本、創価学会、真如苑、浄土真宗親鸞会『新宗教時代1』大蔵出版、1997年2月。ISBN 4-8043-5206-6。
出口三平「大本-王仁三郎の切り開いた世界」 - 宮田登『日本の50年日本の200年 日本人と宗教』岩波書店、1999年1月。ISBN 4-00-026311-0。
第七章『民衆宗教の系譜 「世直し」と大本教』 - 佐高信編著『新・代表的日本人』小学館文庫、1999年6月。ISBN 4-09-403301-7。
大宅壮一「出口王仁三郎訪問記」より(ブレーン出版「大宅壮一全集」所収) - 安丸良夫『一揆・監獄・コスモロジー 周縁性の歴史学』朝日新聞社、1999年10月。ISBN 4-02-257433-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
第Ⅲ章「大本教の千年王国主義的救済思想」 - 出口京太郎編著『出口王仁三郎の示した未来へ』天声社、2002年8月。ISBN 4-888756-053-2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 津城寛文『<公共宗教>の光と影』春秋社、2005年6月。ISBN 4-393-29193-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
第8章「大本霊学と日蓮主義-二つの『公共宗教をめざすもの』」 - 早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社、2007年5月。ISBN 978-4-620-31814-1。
- 鹿野政直『鹿野政直思想史論集 第一巻』岩波書店、2007年11月。ISBN 978-4-00-026644-4。
第1章「大正デモクラシー救済のゆくえ」創唱宗教の思想 大本教と”立替え立直し”への衝迫
参考文献
- 宗教社会学研究会編集委員会『宗教・その日常性と非日常性』雄山閣出版、1982年12月。ISBN 4-639-00217-3。
日野謙一著「大本教の大正期の発展について 信徒の回心状況から」
鎌田東二著「宗教言語と日常言語 日本の宗教文化理解の一視座として」 - 村上重良『宗教の昭和史』三嶺社、1985年11月。ISBN 4-914906-35-X。
- 井上文子『平塚らいてう 近代と神秘』新潮選書、1987年1月。ISBN 4-10-600322-8。
- 大島義夫・宮本正男『反体制エスペラント運動史』三省堂、1987年7月。ISBN 4-385-35310-7。
- 松本健一『神の罠 浅野和三郎、近代知性の悲劇』新潮社、1989年10月。ISBN 4-10-368402-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月。ISBN 4-16-344650-8。
- 部落解放研究所『新版 宗教と部落問題』解放出版社、1990年10月。
- 田々宮英太郎 『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 雄山閣出版 1993年「北一輝と出口王仁三郎 – 隠された巨頭会談」
- 伊藤光晴・五味文彦・丸谷才一・森毅・山崎正和『日本史をつくった101人』講談社、1995年2月。ISBN 4-06-207079-0。
- 小野秦博『谷口雅春とその時代』東京堂出版、1995年3月。ISBN 4-490-20252-0。
- 丸山照雄『日本人にとって宗教とは何か』藤原書店、1995年6月。ISBN 4-89434-018-6。
- 出口和明『いり豆の花 大本開祖出口なおの生涯』八幡書店、1995年7月。ISBN 4-89350-180-1。
- 前坂俊之著『ニッポン奇人伝』 社会思想社 1996年(ISBN 9784390115827)
- 羽仁礼『伯家神道の聖予言 宮中祭祀を司った名家に伝わる秘録が今明らかになる!』たま出版、1996年3月。ISBN 4-88481-447-9。
- 小滝透『神々の目覚め 近代日本の宗教革命』春秋社、1997年7月。ISBN 4-393-29124-7。
- 鎌田東二『神界のフィールドワーク 霊学と民族学の生成』筑摩書房、1999年8月。ISBN 4-480-08498-3。
- 五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』講談社現代新書、2001年12月。ISBN 4-06-149580-1。
- 山口文憲『日本ばちかん巡り』新潮社、2002年2月。ISBN 4-10-451601-5。
- 柳原一日『文人の素顔 緑風閣の一日』講談社、2004年6月。ISBN 4-06-212392-4。
- 小澤浩『日本史リブレット61 民衆宗教と国家神道』山川出版社、2004年6月。ISBN 4-634-54610-8。
- 田中宏巳『人物叢書 秋山真之』吉川弘文館、2004年9月。ISBN 4-642-05230-5。
- 大宮司朗『開祖 植芝盛平の合気道 「技」と「言葉」に秘められた精神世界』柏書房、2005年3月。ISBN 4-7601-2700-3。
- 松本健一『三島由紀夫のニ・ニ六事件』文春新書、2005年11月。ISBN 4-16-660475-9。 第三章「大本教の幻の影」
- 原田実『と学会レポート 原田実の日本霊能史講座』楽工社、2006年10月。ISBN 4-903063-05-4。
- 村上重良『新宗教 その行動と思想』岩波書店、2007年2月。ISBN 978-4-00-600170-4。
- 島田裕巳『日本の10大新宗教』幻冬舎新書、2007年11月。ISBN 978-4-344-98060-0。
- 安丸良夫『出口なお 女性教祖と救済思想』洋泉社MC新書、2009年5月。ISBN 978-4-86248-377-5。
ウェブサイト
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.A04010483800『特高資料・社会運動団体現勢調』。
- Ref.A07040001900『大本教事件証拠調関係書類』。
- Ref.A05020358600『出版警察報(91-93)「大本教関係出版物の取締状況」』。
- Ref.B02031788400『大正15年8月4日から昭和3年7月31日「大本教主出口王仁三郎ノ入蒙事件」』。
- Ref.B04013269900『各国ニ於ケル慈善事業関係雑件 5.満州国 (4)人類愛善会関係』。
- Ref.B03040654500『9.大本教機関誌差押ノ件』。
- Ref.B04012527800『本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第一巻 4.大本教』。
- Ref.B04012529100『本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第二巻 2.大本教 分割1』。
- Ref.B04012529200『本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第二巻 2.大本教 分割2』。
- Ref.B04012527800『雑款(6)「局員 加藤確治述 予の神道観と大本教観」』。
- Ref.C08051310400『外報3(1)「出口王仁三郎逮捕ニ関スル件」』。
- Ref.C01004100200『部外団体の軍部利用に関する件』。
脚注
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- ^ #村上(1973)1-2頁、#帝国時代のカリスマ167頁
- ^ #宗教の昭和史33頁、#帝国時代のカリスマ33頁
- ^ #10人の宗教家235頁、#人間解放の福祉論55.107頁、#神界のフィールドワーク452頁
- ^ #帝国時代のカリスマ28.290頁、#人間解放の福祉論9頁
- ^ #帝国時代のカリスマ27.67.287頁
- ^ #いり豆の花529頁、#霊界からの警告86頁
- ^ #屹立するカリスマ75頁
- ^ #村上(1973)94頁、#帝国時代のカリスマ60頁
- ^ #巨人王仁三郎('95)188頁、#あるカリスマの生涯122頁
- ^ #帝国時代のカリスマ34-35頁
- ^ #布教関係雑件(第2巻分割1)p.23、#新宗教創始者伝78-79頁
- ^ #村上(1973)14頁、#新宗教創始者伝80頁
- ^ #村上(1973)18-19頁、#金光と大本145-146頁
- ^ a b 別冊宝島1199号 『日本「霊能者」列伝』(宝島社 2005年(平成17年)10月)ISBN 978-4796648066
- ^ #民衆の宗教・大本6頁、#あるカリスマの生涯29-30頁
- ^ #巨人王仁三郎('95)34-35頁、#神々の目覚め233頁
- ^ #新宗教創始者伝82頁
- ^ #あるカリスマの生涯31.36頁、#人間解放の福祉論12頁
- ^ #帝国時代のカリスマ44頁、#言論は日本を動かす136頁
- ^ #村上(1973)37頁、#新宗教創始者伝86頁
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- ^ #帝国時代のカリスマ48頁、#金光と大本154頁
- ^ #あるカリスマの生涯38頁、#新宗教創始者伝85頁
- ^ #村上(1973)21-22.34頁、#帝国時代のカリスマ50頁
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- ^ #帝国時代のカリスマ49頁、#言論は日本を動かす139頁
- ^ #屹立するカリスマ89頁、#人間解放の福祉論15頁
- ^ #あるカリスマの生涯45頁、#霊界からの警告40-41頁
- ^ 『霊界物語』第1巻、第37巻、『本教創世記』参照。#あるカリスマの生涯46-47頁等
- ^ #神々の目覚め236頁、#あるカリスマの生涯50-51頁
- ^ #村上2007新宗教139頁、#伯家神道の聖予言81頁
- ^ #神々の目覚め236頁、#帝国時代のカリスマ54頁
- ^ #宗教の昭和史34頁、#あるカリスマの生涯53頁
- ^ #巨人王仁三郎('95)52.54頁、#人間解放の福祉論16頁
- ^ #新宗教創始者伝75頁、#金光と大本160頁
- ^ #いり豆の花304-305頁、#女性教祖と救済思想101-102頁
- ^ #女性教祖と救済思想130-132頁、#屹立するカリスマ66頁
- ^ #新宗教創始者伝69-70頁、#巨人王仁三郎('95)72頁
- ^ #いり豆の花477.489頁、#言論は日本を動かす146頁
- ^ #民衆の宗教・大本10頁、#屹立するカリスマ70頁
- ^ #いり豆の花518-519頁
- ^ #屹立するカリスマ73頁、#あるカリスマの生涯61頁
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- ^ #日本宗教史の謎(下)194-196頁、#神界のフィールドワーク381-382頁
- ^ #女性教祖と救済思想193頁、#村上(1973)78-79頁
- ^ #屹立するカリスマ90頁、#いり豆の花502頁
- ^ 『霊界物語』第38巻、『本教創世記』
- ^ #宗教の昭和史35頁、#いり豆の花524頁
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- ^ #女性教祖と救済思想216-217頁、#屹立するカリスマ92-93頁、#言論は日本を動かす148-150頁
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- ^ #屹立するカリスマ126頁、#神々の目覚め238頁、#いり豆の花508-509.537頁
- ^ #村上(1973)85頁、#新宗教創始者伝117-121頁、#人間解放の福祉論27頁
- ^ #いり豆の花534頁、#宗教の可能性77頁
- ^ #宗教その日常性と非日常性211-214頁
- ^ #いり豆の花646頁、#女性教祖と救済思想259頁
- ^ #屹立するカリスマ128頁、#宗教の昭和史53頁
- ^ #人間解放の福祉論28頁、#神界のフィールドワーク50-52.384頁
- ^ #村上(1973)96頁、#金光と大本162頁
- ^ #いり豆の花647.651頁、#新宗教創始者伝122頁
- ^ #いり豆の花653頁、#あるカリスマの生涯70頁
- ^ #人間解放の福祉論28頁、#神界のフィールドワーク384頁
- ^ #宗教の昭和史36.53頁
- ^ #いり豆の花654頁、#金光と大本168頁
- ^ #村上(1973)102頁、#いり豆の花655頁
- ^ #帝国時代のカリスマ75-77頁
- ^ #いり豆の花662頁、#帝国時代のカリスマ94頁
- ^ #新宗教と巨大建築134頁
- ^ #村上(1973)117頁、#帝国時代のカリスマ77頁
- ^ #スサノオと王仁三郎120-129頁、#新宗教の世界Ⅳ20頁、#新宗教時代31頁
- ^ #言論は日本を動かす151頁
- ^ #人間解放の福祉論29-30頁
- ^ #民衆の宗教・大本145頁、#神々の目覚め241頁、#神界のフィールドワーク383頁
- ^ #屹立するカリスマ136頁、#神の罠109-110頁
- ^ #神の罠113-125頁、#神界のフィールドワーク362-372頁
- ^ #屹立するカリスマ140頁、#神の罠145頁
- ^ #民衆の宗教・大本22頁
- ^ #新宗教創始者伝143頁、#村上(1973)126頁
- ^ #民衆の宗教・大本24頁、#創唱宗教の思想35頁
- ^ #帝国時代のカリスマ120頁、#神界のフィールドワーク338-339頁、#周縁性の歴史学241頁、#公共宗教の光と影213頁
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- ^ #入蒙秘話17頁、#民衆の宗教・大本33頁
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- ^ 『霊界物語』特別篇、『王仁蒙古入記』
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- ^ #あるカリスマの生涯166-167頁、#帝国時代のカリスマ240頁
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- ^ #村上(1973)189-190頁、#大本襲撃37-38頁
- ^ #帝国時代のカリスマ176-187頁
- ^ #帝国時代のカリスマ188-191頁、#10人の宗教家222-224頁
- ^ #民衆の宗教・大本46-47頁
- ^ #10人の宗教家224-225頁、#神界のフィールドワーク148-157頁、#日本霊能史講座357頁
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