中村喜四郎
中村 喜四郎 なかむら きしろう | |
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生年月日 | 1949年4月10日(75歳) |
出生地 | 茨城県猿島郡境町 |
出身校 | 日本大学法学部 |
前職 | 田中角栄衆議院議員秘書 |
所属政党 |
(無所属→) (自由民主党→) (無所属→) (改革クラブ→) 無所属(自民党二階派) |
称号 | 法学士 |
親族 |
父・中村喜四郎(元参議院議員) 母・中村登美(元参議院議員) 兄・中村吉伸(医療法人秀峰会理事長) |
選挙区 |
(旧茨城3区→) 茨城7区 |
当選回数 | 13回 |
在任期間 |
1976年12月10日 - 2003年1月16日[1] 2005年9月12日 - 現職 |
第58代 建設大臣 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
第43代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 宇野内閣 |
在任期間 | 1989年6月3日 - 1989年8月10日 |
中村 喜四郎(なかむら きしろう、1949年4月10日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(13期)。出生時の名前は中村 伸(なかむら・しん)。
建設大臣(第58代)、科学技術庁長官(第43代)、自由民主党総務局長を歴任した。
父・中村喜四郎(先代)、母・中村登美はいずれも参議院議員を務めた。
来歴
生い立ち
茨城県猿島郡境町生まれ。1972年、日本大学法学部を卒業。大学卒業の直前、田中角栄事務所に入所し、田中の秘書を務める[2]。
衆議院議員
1976年の第34回衆議院議員総選挙に旧茨城3区から無所属で出馬し、初当選。出馬に際し、父である中村喜四郎(先代)の遺志を継ぐ意味で[要出典]、戸籍名を喜四郎に改める。当選後、自由民主党から追加公認を受け、のちに自民党に入党する。自民党入党後、田中角栄が率いる木曜クラブに所属した[要出典]。1982年12月6日、第1次中曽根内閣で建設政務次官に任命された[3]。
1988年、田中派分裂に際しては竹下登に従い、経世会に参加し同会事務局長に就任。1989年6月23日、宇野内閣で科学技術庁長官に任命され[4]、初入閣を果たす。戦後生まれの閣僚は、中村が初めてであった。宇野宗佑首相の辞任に伴い、退任。後継の海部俊樹自由民主党総裁の下、自民党総務局長に就任した。1992年12月12日、宮澤内閣で建設大臣に任命される[5]。
逮捕と議員失職
1994年、ゼネコン汚職事件に絡み、自民党独占禁止法に関する特別調査会会長代理在任中に、鹿島建設からの依頼で公正取引委員会への口利きをした斡旋収賄罪容疑が浮上。東京地方検察庁特別捜査部が任意捜査を求めるも、中村がそれを拒否をしたため、検察は逮捕許諾請求を衆議院に提出して逮捕する方針を取った。衆議院で逮捕許諾決議が可決され[6]、中村は逮捕された。
国会会期中の現職国会議員の逮捕は1967年の関谷勝利以来27年ぶりであった。なお、取調べでは黙秘権を行使し、完全黙秘を貫いたため、調書が1通も作成されず、雑談や挨拶等にも一切応じなかった。7月28日に保釈。拘置日数は計140日間だった。
逮捕される2日前に中村は自民党を離党したが、議員辞職はせず、強固な結束力と地盤を持つ後援会組織「喜友会」をバックに、無所属のまま1996年の第41回衆議院議員総選挙、2000年の第42回衆議院議員総選挙でも当選。1997年10月、東京地方裁判所で懲役1年6ヶ月、追徴金1000万円の実刑判決を受け、控訴したが2001年4月に東京高等裁判所により控訴が棄却された。同年10月18日、上告中ながら、衆議院25年在職の永年表彰を受ける[7]。
2003年1月、最高裁判所が中村の上告を棄却し、実刑が確定判決となったため、衆議院議員を失職した[8]。中村の失職に伴う茨城県第7区の補欠選挙では、2000年の第42回衆議院議員総選挙に無所属で出馬して落選した永岡洋治が自民党公認で出馬し、初当選した。
再出馬
2005年の第44回衆議院議員総選挙に、再び無所属で茨城県第7区から出馬。小泉純一郎首相が推進する構造改革や郵政民営化を全面的に支持し、約2年半ぶりに返り咲いた。なお、茨城7区選出だった自民党の永岡洋治は、選挙直前の8月1日に自殺を図り、その後死亡。永岡の妻・桂子が代わって茨城7区から自民党公認で出馬し、中村に敗れたが比例北関東ブロックで復活し、初当選した。国会議員在職時代の政治事件で実刑を受けた者が国政選挙に当選したのは1969年の福田繁芳(1961年実刑確定)以来36年ぶり。
なお、1992年12月16日以降は公職政治家が収賄罪で有罪が確定した場合、刑期満了から一定期間は公民権が停止されるが、事件当時の1992年1月にはその制度がなく、憲法の遡及処罰禁止規定(39条前段)により、収賄罪で実刑が確定しても失職に留まり、刑期満了から一定期間の公民権停止はなされなかった。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では「日本再建」を掲げて構造改革や政界再編を訴え、前回の総選挙に比べて得票数はおよそ1万票減らしたものの、茨城7区で自民党の永岡桂子、民主党の柳田和己を破り、11選。同年10月、改革クラブに入党し[9]、これによって改革クラブは政党要件を回復した。10月26日には、改革クラブが統一会派を組む自民党の代議士会に15年ぶりに出席した。
しかし長年、茨城で中村を相手に激しい選挙戦を繰り広げてきた自民党茨城県連合会の関係者からは、戸惑いや不満の声も上がり、12月、長谷川大紋参議院議員が自民党を離党した(長谷川は2012年8月に復党)。2010年4月23日、自民党を離党していた舛添要一らが改革クラブに入党し、同日、舛添が党代表に就任し、改革クラブは新党改革へ改称した[10]。
しかし中村、大江康弘参議院議員の2人は舛添の入党、党首就任に反発し、それぞれ改革クラブを離党した[10][11][12]。その後は自民党の院内会派である「自由民主党・無所属の会」に入会した。
2011年5月12日、無所属のまま自民党伊吹派に入会(客員会員)[13]。2012年の第46回衆議院議員総選挙では、無所属ながら公明党からも推薦を受け、茨城7区から出馬。また中村の要請により、森喜朗元内閣総理大臣が選挙区を訪れ、中村の応援演説を行ったが、これに対し自民党公認の永岡桂子が森に抗議する一幕もあった[14]。
自民党前職の永岡桂子、日本維新の会新人の筒井洋介、民主党前職の柳田和己らを破り、12選。2014年の第47回衆議院議員総選挙では、再び公明党の推薦を受け、茨城7区から出馬。自民党の永岡を破り、13選。総選挙後の首班指名選挙では白票を投じた[15]。
政策・主張
人物
- 2014年(平成26年)の第186回国会において、国務大臣、副大臣、政務官、補佐官、衆議院議長、衆議院副議長、委員長のいずれの要職にもついていなかったのみならず、質問、議員立法、質問主意書の提出のいずれもなかったことが指摘された[17][18]。
- 政界きってのマスコミ嫌いで有名であり、選挙戦中の講演会やミニ集会からは、一部を除くマスメディアを全てシャットアウトし、記者会見等も一切行っていない。仮釈放後もその姿勢は変わらず、立候補の際も秘書が出馬の旨を記す文書のみを送っている。公式サイトについても、自らの名前のドメインは取得しているものの、ブルーバックにアドレスが表示されるだけである[19]。
論文
脚注
- ^ “中村氏失職 有罪議員をかばい続けた自民党”. しんぶん赤旗. (2003年1月17日) 2015年2月5日閲覧。
- ^ 田中角栄の“最後の遺伝子” 中村喜四郎が沈黙を破った
- ^ 『官報』第16757号14ページ「国会事項 衆議院 政府委員承認」1982年(昭和57年)12月8日
- ^ 『官報』第127号11ページ「人事異動 総理府」1989年(平成元年)6月27日
- ^ 『官報』特別号外第17号1ページ「人事異動 内閣」1992年(平成4年)12月12日
- ^ 『官報』第1359号13ページ「国会事項 衆議院 議員逮捕許諾要求の件議決通知」1994年(平成6年)3月15日
- ^ 『官報』第3225号7ページ「国会事項 衆議院 議員表彰」2001年(平成13年)10月22日
- ^ 『官報』第3538号11ページ「国会事項 衆議院 議員退職」2003年(平成15年)2月4日
- ^ “中村喜四郎氏が改革クラブ入党 政党要件を回復”. 47NEWS (共同通信社). (2009年10月19日) 2015年2月5日閲覧。
- ^ a b 2010年(平成22年)7月6日総務省告示第263号「政党助成法第五条第三項の規定による政党の届出事項の異動の届出があったので公表する件」
- ^ “舛添氏に反発?中村元建設相が改革クに離党届”. 読売新聞. (2010年4月22日) 2010年4月23日閲覧。
- ^ “中村喜四郎氏、改革ク離党 「舛添新党」合流に反発か”. 茨城新聞. (2010年4月23日) 2010年4月23日閲覧。
- ^ “中村元建設相:自民党伊吹派の「客員会員」に 復党はせず”. 毎日新聞. (2011年5月13日) 2011年5月13日閲覧。
- ^ “「裏切られた気分」…森元首相、無所属候補激励”. 読売新聞. (2012年12月11日) 2015年12月20日閲覧。
- ^ 国会会議録検索システム-平成26年12月24日本会議議事録33項より
- ^ 朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査、2014年。
- ^ 「国会議員三ツ星データブック」、186国会版 国会議員三ツ星データブック、特定非営利法人「万年野党」著。ISBN-13: 978-4905239239
- ^ 「国会質問も議員立法も質問主意書もない『オールゼロ議員』、64人全氏名を公開、BLOGOS 2014年10月15日
- ^ [1]
関連項目
議会 | ||
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先代 村岡兼造 |
衆議院建設委員長 1987年 - 1988年 |
次代 野呂田芳成 |
公職 | ||
先代 宮崎茂一 |
科学技術庁長官 第43代:1989年 |
次代 斎藤栄三郎 |
先代 山崎拓 |
建設大臣 第58代:1992年 - 1993年 |
次代 五十嵐広三 |
名誉職 | ||
先代 小沢一郎 |
最年少衆議院議員 1976年 - 1979年 |
次代 船田元 |