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「マーキュリー計画」の版間の差分

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{{Infobox
{{出典の明記|date=2012年8月}}
| above = マーキュリー計画
{| border="2" cellpadding="4" cellspacing="0" align="right" width="310" style="margin: 0 0 1em 1em; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%;"
| image = [[File:Mercury-patch-info.png|170px]]
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|マーキュリー宇宙船
| caption =
|-
| header1 =
|colspan="3" align="center"|[[File:Mercury Capsule2.png|285px|]]<br/><small>緊急脱出用ロケットを装着したマーキュリー宇宙船</small>
| label1 = 期間
|-
| data1 = 1958年–1963年
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|詳細
| header2 =
|-
| label2 = 実施国
|width="150" colspan="1" |'''使用目的'''||width="150" colspan="2"| 弾道および地球周回宇宙飛行
| data2 = [[アメリカ合衆国]]
|-
| header3 =
|width="150" colspan="1" |'''定員'''||width="150" colspan="2"| 1名
| label3 = 目標
|-
| data3 = [[有人宇宙飛行]]
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|寸法
| header4 =
|-
| label4 = 結果
|'''全高'''|| 3.51m || 11.5ft
| data4 = 完遂<br />アメリカ初の有人宇宙飛行:<br />{{unbulleted list
|-
|[[弾道飛行]]: [[1961年]][[5月5日]]
|'''直径'''|| 1.89m || 6.2ft
|[[人工衛星の軌道|地球周回飛行]]: [[1962年]][[2月20日]]
|-
|1日以上の軌道滞在: [[1963年]][[5月15日|5月15]]~[[5月16日|16日]]}}
|'''容積'''|| 1.7m³ || 60ft³
| header5 =
|-
| label5 =
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|重量(マーキュリー6号)
| data5 =
|-
| header6 =
|'''発射時'''|| 1,935&nbsp;kg || 4,265ポンド
| label6 = [[宇宙飛行士]]
|-
| data6 = {{unbulleted list
|'''軌道上''' || 1,354&nbsp;kg || 2,986ポンド
| [[スコット・カーペンター]]
|-
| [[ゴードン・クーパー]]
|'''逆噴射後''' || 1,277&nbsp;kg || 2,815ポンド
| [[ジョン・グレン]]
|-
| [[ガス・グリソム]]
|'''大気圏再突入時''' || 1,224&nbsp;kg || 2,698ポンド
| [[ウォーリー・シラー]]
|-
| [[アラン・シェパード]]
|'''帰還時''' || 1,098&nbsp;kg || 2,421ポンド
| [[ドナルド・スレイトン]]
|-
}}
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|ロケットエンジン
| header7 =
|-
| label7 = 搭乗員数
|'''再突入用'''<br/>(固体燃料)x 3:|| 推力453kg || 4.5 kN
| data7 = 1名
|-
| header8 =
|'''切り離し用'''<br/>(固体燃料)x 3:|| 推力181kg || 1.8 kN
| label8 = 使用[[ロケット]]
|-
| data8 = [[アトラス (ミサイル)|アトラス]]、[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]、リトル・ジョー
|'''姿勢制御用'''<br/>(H<sub>2</sub>O<sub>2</sub>)x 6:|| 推力11.3kg || 108 N
| header9 =
|-
| label9 = 受注企業
|'''微調整用''' (H<sub>2</sub>O<sub>2</sub>) x 6:|| 推力5.4kg || 49 N
| data9 = [[マクドネル・エアクラフト]] (宇宙船製造)
|-
| header10 =
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|性能
| label10 = 経費
|-
| data10 = 16億[[ドル]] ([[2010年]]現在の[[貨幣]][[価値]]に換算)
|'''航続時間'''|| 34時間 || 地球22周
| header11 =
|-
| label11 = 後続計画
|'''遠地点'''|| 282&nbsp;km || 175 miles
| data11 = [[ジェミニ計画]]および[[アポロ計画]]
|-
| header12 =
|'''近地点'''|| 160&nbsp;km || 100 miles
| label12 = 対抗者
|-
| data12 = [[ボストーク|ボストーク計画]] ([[ソビエト連邦]])
|'''逆噴射時減速度'''|| 483&nbsp;km/h || 300 mph
}}
|-
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|'''解剖図'''
|-
|colspan="3" align="center"|[[File:Mercury Spacecraft.png|285px|]]<br/><small>Mercury spacecraft Diagram (NASA)</small>
|-
!colspan="3" cellspacing="0" cellpadding="2" bgcolor="skyblue"|マクドネル社製マーキュリー宇宙船
|-
|}


'''マーキュリー計画'''(マーキュリーけいかく)は[[1959年]]から[[1963年]]にかけて実施された、[[アメリカ合衆国]]初の[[有人宇宙飛行]]計画である。目標人間を[[人工衛星の軌道|地球周回軌道]]に到達させること[[1962年]][[2月20日]]、[[アトラス (ロケット)|アトラス]][[ロケット]]で発射れたマーキュリー6号よってそれは達成された。初期段階の調査はアメリカ諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics, NACA)によって行たが計画そものを施したのは、NACA発展的に解散して[[1958年]]に新規に創設さた、[[アメリカ航空宇宙]](National Aeronautics and Space Administration, NASA)であった。
'''マーキュリー計画'''は[[1959年]]から[[1963年]]にかけて実施された、[[アメリカ合衆国]]初の[[有人宇宙飛行]]計画である。これアメリカと[[ソビエト連邦]]の間広げられた[[宇宙開発競争]]の初期の焦点であり、[[人間]][[地球周回軌道]]上に送り安全に帰還せることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。計画、[[アメリカ空軍|空軍]]から事業を引き継いだ新設の非軍事機関[[NASA]]によってれ、20回無人飛行 ([[験動物]]を乗せのを含む)、および[[マーキュリー・セブン]]と呼ばアメリカ初の[[宇宙飛行士]]たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。


[[宇宙開発]]競争は、[[1957年]]にソ連が[[人工衛星]][[スプートニク1号]]を発射したことにより始まった。この事件はアメリカ国民に衝撃を与え、その結果NASAが創設され、当時行われていた宇宙開発計画は[[文民統制]]の下で推進されることとなった。[[1958年]]、NASAは人工衛星[[エクスプローラー1号]]の発射に成功し、次なる目標は有人宇宙飛行となった。
名称は[[ローマ神話]]の使いの神、[[メルクリウス]]に由来する。また、マーキュリーは[[太陽系]]の最も内側の[[軌道 (力学)|軌道]]を回る[[水星]]の名称でもある。水星は他のどの[[惑星]]よりも速く[[太陽]]の周囲を周回するため、しばしば速度の象徴とも言われるが、そのこと自体は計画とは何の関係もない。


だが初めて人間を[[宇宙]]に送ったのは、またしてもソ連であった。[[1961年]]4月、史上初の宇宙飛行士[[ユーリイ・ガガーリン|ユーリ・ガガーリン]]の乗る[[ボストーク1号]]が[[地球]]を1周した。この直後の[[5月5日]]、アメリカ初の宇宙飛行士[[アラン・シェパード]]が搭乗する[[マーキュリー・レッドストーン3号]]が[[弾道飛行]]を行った。同年8月、ソ連は[[ゲルマン・チトフ]]を飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。アメリカが衛星軌道に到達したのは翌[[1962年]][[2月20日]]のことで、[[ジョン・グレン]]が地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。
マーキュリー計画に費やされた予算はおよそ3億8,400万[[ドル]]で、[[2007年]]の[[貨幣]]価値に換算すると、約27億ドルに相当する。


マーキュリー宇宙船を設計したのは、[[マクドネル・エアクラフト]]社であった。円錐の形状をした船内は完全に[[与圧]]され、[[水]]、[[酸素]]、食料などの補給物資を約1日間にわたり飛行士に供給した。打ち上げは[[フロリダ州]][[ケープ・カナベラル]]空軍基地で行われ、発射機には[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]][[ミサイル]]または[[アトラス (ミサイル)|アトラスD]]ミサイルを改良した[[ロケット]]が使用された。また宇宙船の先には、ロケットが故障するなどの緊急事態が発生した際に飛行士を安全に脱出させるための[[打ち上げ脱出システム|緊急脱出用ロケット]]が取りつけられていた。飛行手順は、追跡および通信の基地である有人宇宙飛行ネットワークを経由して地上からコントロールされるように設計されていたが、機内にもバックアップのための制御装置が搭載されていた。帰還の際には、小型の[[逆噴射]]用ロケットを点火して軌道から離脱した。また機体の底部には溶融式の耐熱保護板が取りつけられており、[[大気圏再突入]]時の高温から宇宙船を守った。最終的には[[パラシュート]]が開いて海上に着水し、近隣にいる[[アメリカ合衆国海軍|海軍]]の艦船の[[ヘリコプター]]が宇宙船と飛行士を回収した。
== 調査と開発 ==
[[1958年]][[10月7日]]初代[[NASA長官]]キース・グレナン(Keith Glennan)は、かねてから提案されていたマーキュリー計画に承認のサインをし、同年[[12月17日]]にマスコミに公表した。[[12月29日]]には、[[ノースアメリカン]]が宇宙船試験用ロケット「リトル・ジョー」の開発契約を獲得した。また翌[[1959年]]1月には[[マクドネル・エアクラフト]]が宇宙船開発の担当企業に選ばれ、2月には宇宙船12機の製造の契約をとりつけた。さらに4月には、「[[マーキュリー・セブン]]」の名称で知られる、アメリカ初の7人の[[宇宙飛行士]]が選ばれた。


計画名は、[[ローマ神話]]の旅行の神[[メルクリウス]] (Mercurius, マーキュリー) からつけられた。マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億[[ドル]] (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった<!--{{citation needed|date=January 2015}} {{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}-->。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。
同年5月、北米航空社は宇宙船試験用の小型ロケット「リトル・ジョー(Little Joe)」の初号機と二号機を完成させ、6月にはさらに大型の「ビッグ・ジョー(Big Joe)」も製造した。7月、発射に使用されるロケットが[[ジュピター]]からアトラスに変更された。10月には[[ゼネラル・エレクトリック]]社が最初の宇宙船に使用される耐熱シールドをマクドネル社に届け、12月、[[レッドストーン]]・ロケットに搭載された試験用の1号機が実験台に設置された。


開始当初こそ屈辱的な失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。この後の二人乗りの宇宙船を使用する[[ジェミニ計画]]では、月飛行で必要となる[[宇宙空間]]での[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]やドッキングが実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。さらに[[アポロ計画]]の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。
[[1960年]]1月には、NASAは宇宙船追跡網の開発に関する契約を、3,300万ドルで[[ウェスタン・エレクトリック]]と締結した。また同月には、マクドネル社が正式な契約からわずか1年で最初の実用型の宇宙船を完成させた。[[2月12日]]、クリストファー・C・クラフト(Christopher C. Kraft)が計画実行作業部会の主任に任命された。クラフトは後に「計画が提案された時、我々の最低限の目標は発射台から[[宇宙]]に打ち上げた人間を、どうやったら[[地球]]に生還させることができるかということだった。生きてさえいれば十分だったのだ」と語っている。4月には宇宙船の初号機が緊急脱出用ロケットの試験のためにワロップス島(Wallops Island)に届けられ、[[5月9日]]に試験は成功した。


== 宇宙船 ==
==創設==
マーキュリー計画が公式に承認されたのは1958年[[10月7日]]、また公表されたのは同年[[12月7日]]のことであった{{sfn|Grimwood|1963|p=12}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=132}}。当初の計画名が「宇宙飛行士計画 (Project Astronaut)」だったことからも分かるとおり、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]] (Dwight D. Eisenhower ) [[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の最大の関心は宇宙飛行士の選定にあった{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}。その後古代[[神話]]に基づいてマーキュリーの名が与えられたが、これはSM-65ミサイルに[[ギリシャ神話]]の神「アトラス」、PGM-19ミサイルにローマ神話の神「[[ジュピター (ミサイル)|ジュピター]]」の名をつけたようにすでに先例があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=132}}。また当時空軍で予定されていた同じ目的を持つ[[MISS (アメリカ合衆国の宇宙計画)|MISS]] (Man In Space Soonest, 人間をできる限り早く宇宙へ) 計画は、マ計画に吸収されることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=102}}{{refn|「人間をできる限り早く宇宙へ」は四段階ある月着陸計画の第一段階であり、1965年中に終了すると予想されていた。経費は総額で15億ドル、また発射用ロケットには「スーパー・タイタン」が使用されることになっていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=91}}。|group=n}}。
[[File:Project Mercury Pad14.jpg|left|150px|thumb|マーキュリー計画記念碑]]
マーキュリーはあまりにも小さいために、しばしば宇宙船に「搭乗する」のではなく、宇宙船を「着る」と言われる。船内の居住空間はわずか1.7[[立方メートル]]で、飛行士一人が乗ればいっぱいいっぱいになってしまう。内部には55個の電気的なスイッチ、30個の[[ヒューズ]]、35個のレバーなど、合計120個の制御装置がある。機体の設計は、マックス・ファゲット(Max Faget)およびNASAの研究チームによって行われた。


===背景===
発射台から宇宙空間まで上昇する間、万が一不測の事態が発生した場合は、宇宙船は[[打ち上げ脱出システム|緊急脱出用ロケット(Launch Escape System, LES)]]によってロケットから切り離される。LESは宇宙船の前部(発射台上では上部になる)に設置された[[固体燃料ロケット]]で、23.6[[トン]](231k[[N]])の推力を1秒間だけ発生させ、宇宙船を故障したロケットから十分に安全な距離まで引き離す。その後宇宙船は[[パラシュート]]で降下し、海上に着水する。軌道に乗った後はLESはもはや必要がなくなるので、推力360kg(3.6kN)の切離し用ロケットを1.5秒間噴射して投棄される。
[[File:Sputnik 1.jpg|thumb|upright|1957年に発射されたスプートニク1号の複製]]
[[第二次世界大戦]]終了後に米ソの間でくり広げられた[[核兵器の歴史|核開発競争]]は、[[弾道ミサイル|長距離ミサイル]]の開発へと発展していった{{sfn|Catchpole|2001|pp=12-14}}。また同時に両極は、[[気象]]データの収集、[[通信]]、[[諜報活動|諜報]]などを目的とする人工衛星の製造にも着手したが、そのほとんどは機密事項とされていた{{sfn|Catchpole|2001|p=81}}。そのため米国民は1957年10月にソ連が史上初の人工衛星を打ち上げたことにより、アメリカが宇宙開発でソ連に遅れをとっているのではないかという懸念、いわゆる「[[ミサイル・ギャップ論争]]」に陥ることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=28, 52}}{{sfn|Catchpole|2001|p=81}}。さらに拍車をかけるように、一ヶ月後ソ連は[[スプートニク2号]]で[[犬]]を軌道上に到達させた。この犬は生きて地球に回収されることはなかったが、彼らの目的が有人宇宙飛行にあることは明らかであった{{sfn|Catchpole|2001|p=55}}。これを受けアイゼンハワー大統領は、非軍事および科学目的の宇宙開発計画を担当する文民組織を創設することを命じた。シビリアン・コントロールとしたのは、宇宙開発の中で軍事目的に関わるものはその詳細を明らかにすることができなかったからである。連邦研究機関の[[アメリカ航空諮問委員会]] (National Advisory Committee for Aeronautics, NACA) を[[アメリカ航空宇宙局]] (National Aeronautics and Space Administration, NASA) と名称を改め{{sfn|Alexander & al.|1966|p=113}}1958年に設立されたこの新組織は、同年中にアメリカ初の人工衛星を打ち上げるという最初の課題を達成した。次なる目標は、人間を宇宙に送り込むことであった{{sfn|Catchpole|2001|pp=57, 82}}。


この当時、宇宙とは地表から高度100キロメートル以上の空間と定義されていた。そこに到達するためには、強力なロケットを使用する以外に手段はなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=70}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=13}}。これは搭乗する飛行士が、爆発の危険性や強いG ([[加速度]])、[[大気圏]]を突破するときの振動{{sfn|Alexander & al.|1966|p=44}}、さらに大気圏再突入の際の[[華氏]]10,000度 ([[摂氏]]5,540度) を超える高温などの様々な危険にさらされることを意味していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=59}}。
{{誰範囲|date=2012年8月|LESについては、後の[[ジェミニ計画]]や[[アポロ計画]]においても、科学者の間では「実際にロケットが爆発するような事故が発生したら、ほとんど役に立たないのではないか」と疑問視する声が多かった。}}しかしながらその後のアメリカの宇宙計画では、LESを作動させるような事故はついに起こることはなかったため、この点について検証される機会はなかった(ジェミニ6号ではロケットの点火に失敗するトラブルが発生したが、事故にまで発展することはなかった。また[[1986年]]には[[スペース・シャトル]]の[[チャレンジャー号爆発事故|チャレンジャー号が離陸中に爆発する事故]]が発生したが、シャトルにはLESは装備されていなかった)。


宇宙空間では、飛行士には呼吸をするために[[与圧]]室や[[宇宙服]]が必要とされる{{sfn|Catchpole|2001|p=466}}。またそこでは、[[平衡感覚]]を喪失させるおそれのある[[無重量状態]]も経験することになる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=357}}。この他にも[[宇宙線]]や[[微小隕石]]の衝突にさらされる危険がある。放射線も隕石も、通常は分厚い大気の層にさえぎられて地表に到達することのないものである{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=35, 39–40}}。だがこれらはすべて、克服することは可能であると考えられた。まずそれまでの衛星発射の経験から、隕石に衝突する可能性は無視できるほどのものであると予想された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=49}}。また1950年代初期に行われた航空機を使用しての人工無重力実験や高Gの人体実験、さらに動物を宇宙空間に送っての観察結果などは、これらの問題はすべて技術によって対処できることを示唆していた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=37-38}}。さらに大気圏再突入に関しては[[大陸間弾道ミサイル|大陸間弾道弾]]を使って研究が行われていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=61}}が、これによれば宇宙船が減速する際に発生する熱のほとんどは、鈍角の (先端が尖っていない) 耐熱保護板を機体の前面に置くことで解消できることが明らかになっていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=61}}。
ロケットが燃焼を終了したら、宇宙船は「ポジグレイド(posigrade)」と呼ばれる推力11.3kg(1.8kN)の3機の小型の固体燃料ロケットを1秒間だけ噴射して、機体をロケットから切り離す。


===組織と施設===
宇宙船には姿勢制御用の小型のガス噴射装置が装備されているだけで、後の[[ジェミニ宇宙船]]や[[アポロ宇宙船]]、あるいはスペース・シャトルなどのように、自ら軌道を変更できるような能力は持っていない。ガス噴射装置は[[ヨー]]軸用、[[ピッチ]]軸用、[[ロール]]軸用の三系統があり、それぞれ高出力のものと、微調整用の小出力のものがある。また燃料供給システムも二系統あり、飛行士はそのどちらを使用しても宇宙船の姿勢を制御することができる。
<div style="float: right; position: relative; width:330px; font-size:10px; margin:0em 0em 0em 2.5em;">
[[File:Map of USA without state ad.png|thumb|330px|<span style="font-size:12px;">マーキュリー計画における製造施設と管制施設の位置</span>]]
{{Image label|x=0.840 |y=0.310 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
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</div>


1958年[[10月1日]]、NASAが正式に発足し、キース・グレナン (T. Keith Glennan) が初代長官に、ヒュー・ドライデン (Hugh L. Dryden, 前NACA長官) が副長官に任命された{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=98–99}}。グレナンから大統領への報告は、国立航空宇宙評議会 (National Aeronautics and Space Council) を通して行われることになっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=82}}。NASAの組織内においてマーキュリー計画に責任を持つのは「スペース・タスク・グループ (Space Task Group)」と呼ばれる集団で、その計画の目的は有人宇宙船を地球周回軌道に乗せ、宇宙空間での飛行士の能力や身体機能を観察し、搭乗員と宇宙船を安全に帰還させることであった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=134}}。既存の技術や使用可能な装置は何でも利用され、また機体の設計においては最もシンプルで信頼のおける方法が試みられ、革新的な実験計画とともに現存するミサイルが発射機として活用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=134}}。宇宙船に要求される機能には、以下のようなものがあった。すなわち、1. 異常事態が発生したときに宇宙船と飛行士を発射用ロケットから分離させる緊急脱出用ロケット 2. 軌道上で宇宙船の姿勢をコントロールするための[[姿勢制御]]用ロケット 3. 宇宙船を軌道から離脱させるための[[逆噴射]]用ロケット 4. 大気圏再突入の際の[[空気力学]]的抵抗に耐えうる機体設計 5. 着水装置 である{{sfn|Alexander & al.|1966|p=134}}。飛行中の宇宙船と交信するためには、広範な通信ネットワークシステムを作る必要があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=143}}。当初アイゼンハワーはアメリカの宇宙計画に過度に軍事色を持たせることを望まなかったため、マーキュリー計画を国家の最優先事項に置くことをためらっていた。このためマ計画は「DXレーティング」という国防計画の優先事項の順位では軍事計画の後に置かれることになったが、この順位は1959年5月には逆転した{{sfn|Catchpole|2001|p=157}}。
マーキュリーは、飛行中に飛行士の能力がはなはだしく損なわれるような何らかの事態が発生した場合に備えて、地上から完全に制御できるように設計されている。


マーキュリー宇宙船開発の[[入札]]には12社が参加した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=121, 191}}。1959年1月、[[マクドネル・エアクラフト]]社が2,000万ドルで落札し、宇宙船設計の主契約企業に選ばれた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=137}}。この2週間前、[[ロサンゼルス]]に本拠を置く[[ノースアメリカン]]社が、緊急脱出用ロケット開発に使用される小型ロケット「リトル・ジョー」の製作設計の契約を獲得していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=124}}{{refn|group=n|「リトル・ジョー」の名称は、設計図に描かれていた4本のロケットの配置が[[クラップス]]という2個のサイコロを振るゲームに類似していたため、開発者たちが命名した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=124}}。}}。飛行中の宇宙船と地上との交信に必要な世界的な通信網の開発には、ウェスタン・エレクトリック社 (Western Electric Company) が任命された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=216}}。弾道飛行に使用されるレッドストーンロケットの製作は[[アラバマ州]][[ハンツビル]]の[[クライスラー]]社が{{sfn|Alexander & al.|1966|p=21}}、また軌道飛行に使用されるアトラスロケットの製作は[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]の[[コンベア]]社が担当した{{sfn|Catchpole|2001|p=158}}。有人ロケット発射場には、フロリダ州[[ケープカナベラル空軍基地]]の中にある[[大西洋]]ミサイル基地が空軍によって準備された{{sfn|Catchpole|2001|p=89–90}}。またここは総合司令センターでもあり、一方で通信連絡に関する管制センターは[[メリーランド州]]の[[ゴダード宇宙飛行センター]]に配置された{{sfn|Catchpole|2001|p=86}}。リトル・ジョーの発射実験は[[ヴァージニア州]]の[[ワロップス島]]で行われた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=141}}。宇宙飛行士の訓練はヴァージニア州の[[ラングレー研究所]]、[[オハイオ州]][[クリーブランド]]の[[グレン研究センター]]および{{仮リンク|ウォーミンスター海軍航空軍事センター|en|Naval Air Warfare Center Warminster}}で実施された{{sfn|Catchpole|2001|pp = 103-110}}。空力の研究にはラングレー研究所の[[風洞]]実験所{{sfn|Alexander & al.|1966|p = 88}}および[[ニューメキシコ州]][[アラモゴード]]の{{仮リンク|ホロマン空軍基地|en|Holloman Air Force Base}}にある[[ロケットスレッド]]施設が使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=248}}。宇宙船の着水システムの開発には海軍と空軍両方の航空機が使用される{{sfn|Catchpole|2001|pp=172-173}}一方で、海上に帰還した宇宙船の回収には海軍の艦船と海軍及び[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]のヘリコプターが使用された{{refn|海軍によれば、1960年夏の段階でNASAが計画していた宇宙船の回収作業は[[大西洋艦隊 (アメリカ海軍)|大西洋艦隊]]のすべての船舶を展開させるというもので、そのための費用はマーキュリー計画にかかる経費の総額を凌駕するものになっただろうとのことであった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=265}}。|group=n}}。またケープカナベラルの南にある[[ココアビーチ]]という町が、にわかに注目をあびることになった<ref name="CocoaBeach" />。1962年にこの町からアメリカ初の軌道周回飛行への発射を見守った人は、およそ7万5,000人であった<ref name="CocoaBeach" />。
帰還する際には、推力453kg(4.5kN)の逆噴射用の固体燃料ロケット3機を、それぞれ10秒間ずつ噴射して速度を落とす。逆噴射ロケットは仮に他の2機が故障しても、1機だけで十分に帰還できるだけの推力を持っている。噴射の手順は、まず一番目のロケットに点火し、その5秒後に二番目のロケットに点火する(この時点で、一番目のロケットはまだ燃焼を続けている)。さらにその5秒後、一番目が燃焼を終了すると同時に三番目のロケットに点火する(この間、二番目のロケットはまだ燃焼している)。


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機体前方部には「スポイラー」と呼ばれる小さな金属製の翼がついていて、もし宇宙船が機首を前方に向けて[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]するようなことがあった場合は(実はそれも機体にとっては安定した姿勢の一つなのだが)、スポイラーが作動して底部の熱遮蔽板を前方に向けた姿勢にされる。再突入の間、飛行士の体にはおよそ4[[G]]の[[加速度]]がかかる。
Wallops Island - GPN-2000-001888.jpg|ワロップス島実験施設。1961年
Mercury control center 4june1963.jpg|ケープ・カナベラルのマーキュリー管制センター。1963年
File:Gilruth-S69-39595.jpg|スペース・タスク・グループの責任者、ロバート・ギルルース (Robert R. Gilruth)。1969年
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==宇宙船==
初期の段階では、熱遮蔽板には[[ベリリウム]]を使用すべきか、あるいは溶融性の素材を使用し、それを[[蒸発]]させることによって熱を放散させる方式([[アブレーション]])を採用すべきなのかが議論された。広範囲にわたる試験がくり返された結果、溶融性の遮蔽板のほうが信頼性が高く(薄くし、重量を減らすことができる)、生産が容易で({{要出典範囲| この当時、要求される量のベリリウムを生産できる企業は全米で一社しかなかった|date=2012年8月}})、それによって費用を削減できることが明らかになったのである。
マーキュリー宇宙船の設計責任者は、NACA時代から有人宇宙飛行の研究に携わっていたマキシム・ファジェット (Maxime Faget) であった{{sfn|Catchpole|2001|p=150}}。機体の高さは3.3メートル、直径は1.8メートルで、緊急脱出用ロケットを加えると全体の高さは7.9メートルになった{{sfn|Catchpole|2001|p=131}}。居住空間の[[容積]]は2.8立方メートルで、飛行士一人が入り込むのが精一杯だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=47}}。また船内には55個のスイッチと30個の[[電力ヒューズ|ヒューズ]]、35個の機械式レバーの、総計120個の制御機器があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=47}}。機体の重量は、計画中で最も重かったマーキュリー・アトラス9の場合では1,400キログラムだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=490}}。船体の外殻は高温に耐えることができる{{仮リンク|レネ41|en|René 41}}という[[ニッケル]][[合金]]で作られていた{{sfn|Catchpole|2001|p=136}}。


宇宙船は[[円錐]]の形状をしており、先端部分には首状の部分があった{{sfn|Catchpole|2001|p=131}}。底部には凸面状の耐熱保護板が取りつけられており (下図の'''2'''を参照) {{sfn|Catchpole|2001|pp=134–136}}、その内部は[[グラスファイバー]]で何層にも覆われた[[アルミニウム]]の[[ハニカム]]構造になっていた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=140, 143}}。また熱保護板には、帰還の際に宇宙船を減速させるための3基の逆噴射ロケット('''1''') {{sfn|Catchpole|2001|pp=132–134}}がストラップで固定されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}。3基の逆噴射ロケットの間には、発射の最終段階で機体をロケットから分離し軌道に投入するための小型ロケットがあった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=188}}。ストラップは逆噴射ロケット使用後に切断され、不要になったロケットは機体から切り離された{{sfn|Catchpole|2001|p=134}}。熱保護板のすぐ上には与圧された船室があり ('''3'''){{sfn|Catchpole|2001|pp=136–144}}、船内では飛行士は体の形に合わせた座席にシートベルトでしばりつけられた。飛行士の目の前には計器板が、背中には熱保護板があり{{sfn|Catchpole|2001|pp=136-137}}、また座席の直下には環境制御装置が設置されていた。この装置は酸素の供給と船内の気温の調整をし{{sfn|Catchpole|2001|p=138}}、[[二酸化炭素]]や[[水蒸気]]および臭いの除去を行い、さらに軌道上での[[尿]]の採取などをした{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}{{refn|group=n|最初の弾道飛行では尿の採取は行われなかった。他の飛行では、[[宇宙服]]に排出した尿をためておくための貯蔵器が取りつけられていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=368}}。}}。先端部には回収装置が納められている区画 ('''4'''){{sfn|Catchpole|2001|pp=144–145}} があり、内部には減速用のドローグシュート1本とメインパラシュート2本が格納されていたが、メインのうちの1本は予備であった{{sfn|Catchpole|2001|p=144}}。熱保護板と船内の底部の隔壁の間には[[エアバッグ]]が納められており、着水直前に展開させて衝撃を和らげた{{sfn|Catchpole|2001|p=135}}。回収装置のさらにその先には[[アンテナ]]区画 ('''5'''){{sfn|Catchpole|2001|pp=145–148}} があり、通信用と宇宙船追跡用の2基のアンテナが格納されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=147}}。また帰還の際に熱保護板が正しく進行方向を向くように姿勢を安定させる[[フラップ]]も設置されていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=199}}。宇宙船の前方に取りつけられている緊急脱出用ロケット ('''6''') には、3基の[[固体燃料ロケット]]が装備されていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=179–181}}。発射が失敗した際には緊急脱出用ロケットが短時間だけエンジンを噴射し、宇宙船を迅速かつ確実に発射用ロケットから遠ざけ、機体が海面に接近するとパラシュートが展開し着水した{{sfn|Catchpole|2001|p=179}} (詳しい手順については[[#計画の詳細|計画の詳細]]を参照)。
NASAは1号機から20号機まで総計20機の宇宙船を、[[ミズーリ州]][[セントルイス]]のマクドネル航空機(McDonnell Aircraft Corporation)に発注した。このうち10、12、15、17、19号の5機は実際に飛行することはなかった。3号機と4号機は無人試験飛行の際に機体が破壊された。11号機は[[大西洋]]に着水した後、許可が出る前にハッチが開かれたことにより船内に海水が侵入し海底に沈没したが、38年後に引き上げられた。また一部のものは初期の状態から改造を施され(発射が中止になった後に回収され、より長い飛行のために改造されるなど)、新たに2B、15Bなどの番号をふり直された。また中には、15Aから15Bになった15号機などのように、二度改造されたものもあった。


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試験用の実物大の模型もまた、NASAおよびマクドネル航空機によって製作された。これらのものはリトル・ジョーあるいはビッグ・ジョーによって、緊急脱出用ロケットの試験などのために使用された。
Mercury-spacecraft-color.png|1. 逆噴射用ロケット 2. 耐熱保護板 3. 居住区画 4. パラシュート格納庫 5. アンテナ部 6. 緊急脱出用ロケット
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McDonnellMercuryCapsule1.jpg|逆噴射用ロケットおよび補助推進ロケット
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Landing-skirt.jpg|着水用エアバッグの展開
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===船内での飛行士===
== 使用ロケット ==
[[File:GPN-2000-001027.jpg|thumb|upright=0.65|マーキュリー宇宙服を着用するジョン・グレン]]
マーキュリー計画では、以下の3種類のロケットが使用された。
船内では飛行士は耐熱保護板を背にし、椅子に座った姿勢であお向けに横たわっていた。地上での実験では、発射時や大気圏再突入時の高Gに耐えるにはこの姿勢が最適であることが判明していた。またファイバーグラス製の座席は、宇宙服を着たときの飛行士の体型にぴったり合うように特注されたものであった。飛行士の左手には緊急脱出用ロケットの操作レバーがあり、発射前あるいは発射中に非常事態が発生し、なおかつロケットが自動点火しなかった場合には、飛行士自身がこのレバーを引いて脱出した{{sfn|Catchpole|2001|p=142}}。
* リトル・ジョー:8回の[[弾道飛行]]を実施。うち2回は[[猿]]が搭乗。緊急脱出用ロケットの試験などを行う。
* レッド・ストーン:4回の弾道飛行を実施。うち1回は[[チンパンジー]]が搭乗、2回はアメリカ初および二回目となる有人宇宙飛行。
* [[アトラス LV-3B]]:4回の弾道飛行(うち1回はチンパンジーが搭乗)および4回の有人[[人工衛星の軌道|地球周回軌道]]飛行を実施。


宇宙服には、船内の環境制御装置の他に独自の生命維持装置が付属しており、酸素の供給や体温の調節などを行うことができた{{sfn|Catchpole|2001|p=191}}。船内の空気には、5.5[[重量ポンド毎平方インチ]] (37.921[[ヘクトパスカル]]) の純粋酸素が使用された{{sfn|Gatland|1976|p=264}}。一方でソ連の宇宙船では、地上の大気と同じ1[[気圧]]の酸素と[[窒素]]の混合気を使用していた。NASAがこの方式を選択したのは、こちらのほうが制御しやすく、[[減圧症]] (潜水病とも言われる) の危険を避けることができ{{sfn|Giblin|1998|p=}}{{refn|group=n|酸素以外の気体は一切使用しないという決定は、1960年[[4月21日]]にマクドネル・エアクラフト社のテストパイロットG. B. ノース飛行士が、マーキュリー宇宙船および宇宙服の性能試験中に減圧室の中で意識を失い重傷を負うという事故が発生した際、批判されることとなった。この事故は窒素を大量に含む (酸素が少ない) 混合気が減圧室内から宇宙服の供給菅に入り込んだことによって発生したことが判明した。{{sfn|Giblin|1998|p=}}}}、宇宙服の重量を減らせたからである。火災が発生した際には (実際には一度も起らなかったが)、船内から酸素をすべて排出することによって消火した{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}。またそのような事態に限らず、何らかの理由で船内の気圧がゼロになってしまったような場合でも、飛行士は宇宙服に保護されて地球に帰還することができた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=48–49}}{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}。[[ヘルメット]]の[[バイザー]]は、飛行中は上げた状態にされていた。これは宇宙服の中が通常は与圧されていないことを意味する{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}。もしバイザーを下ろして服の中を与圧すると、宇宙服は風船のようにふくらんでしまい、重要なスイッチが配置されている左側の計器板にかろうじて手が届くだけという状態になってしまった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=246}}。
リトル・ジョーおよび宇宙船の実物大模型は、緊急脱出用ロケットの試験および手順確認のために使用された。またレッド・ストーンは弾道飛行、アトラスは地球周回飛行に用いられた。1958年10月に計画が開始した段階では、弾道飛行に使用するロケットにはジュピターが候補に挙がっていたのだが、1959年7月に予算不足のため対象から外された。アトラス LV-3Bは開発されたばかりのアメリカ合衆国初の[[大陸間弾道ミサイル]](ICBM)・[[アトラス (ミサイル)|アトラス]]が原型であり、元々は[[核弾頭]]を搭載するように設計されていた。しかし、それを上回る重量のマーキュリー宇宙船を乗せるためにさらなる強化が行われている。リトル・ジョーは、マーキュリー計画のために特別に設計された固体燃料ロケットであった。後期にはやはりICBMを基にした[[タイタン (ロケット)|タイタン]]・ロケットを使用することも検討されたが、実現する前に計画自体が打ち切られた。タイタンは、[[タイタンII GLV]]として後続のジェミニ計画で使用されることとなった。


飛行士には、胸部に[[心拍数]]を計測するための[[電極]]、腕には[[血圧]]を計測するための加圧帯、[[体温]]を測定するための直腸[[体温計]]がつけられ (最後の飛行では口中体温計に改められた{{sfn|Catchpole|2001|pp=191, 194}})、測定値はリアルタイムで地上に送られた{{sfn|Catchpole|2001|p=191}}。また水は普通に飲み、丸薬状の食料も摂ることができた{{sfn|Catchpole|2001|pp=343-344}}{{refn|group=n|船内の蒸気や尿は浄化され、飲用水として利用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=47}}。}}
また宇宙船を全世界的に追跡する通信網の性能を確認するために、一度だけスカウト・ロケットが使用されたことがあったが、発射から44秒後に自爆装置が作動して爆破された。


軌道に乗ると、宇宙船は中心軸に沿ったもの (ロール)、左右方向 (ヨー)、上下方向 (ピッチ) の3つの軸に沿って回転させることができた{{sfn|Catchpole|2001|pp=142–143}}。機体の制御は[[過酸化水素]]を燃料とする小型[[ロケットエンジン]]で行った{{sfn|Alexander & al.|1966|p=499}} {{sfn|Catchpole|2001|p=143}}。また正面にある窓または[[潜望鏡]]によって位置を確認することができた。潜望鏡は360°回転させることができ、その画像は目の前のスクリーンに映し出された{{sfn|Catchpole|2001|p=141}}。
[[File:Mercury Control.jpg|thumb|right|200px|[[フロリダ州]][[ケネディ宇宙センター]]の管制室]]


宇宙船の開発には飛行士たち自身も関わり、機体の制御と窓の設置は絶対に譲れない条件であると主張した{{sfn|Catchpole|2001|pp=98–99}}。その結果、宇宙船の運動およびその他の機能は3つの方法によってコントロールされることとなった。1つは地上からの中継によるもの、1つは船内の機器によって自動的に行われるもの、最後は飛行士ら自身による制御で、飛行士の操作は他の2つよりも最優先されるものとなった。マーキュリー最後の飛行で飛行士のゴードン・クーパーは手動で大気圏に再突入したが、これは飛行士による操作ができるようにしていなければ実現不可能なものであり、その有効性が結果によって確認されることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=501}}。
== 無人飛行 ==
マーキュリー計画では20回の無人飛行が行われたが、それらのすべてが宇宙に行くことを目的にしていた訳ではなく、またすべての飛行が当初の目標を達成できた訳でもなかった。そのうち4回は猿を乗せて飛行し、1959年に行われた5度目の飛行では、サムと名づけられた[[アカゲザル]]が搭乗していた(サムの名は、空軍航空宇宙医学校- the Air Force's School of Aerospace Medicine -からつけられた)。マーキュリー計画での人間以外の宇宙旅行者は、以下のとおりである。


===開発と製造===
* サム:アカゲザル。[[1959年]][[12月4日]]にリトル・ジョー2ロケットで高度85kmに到達。
[[File:Technicians working in the McDonnell White Room on the Mercury-crop.jpg|thumb|upright=0.9|[[セントルイス]]のマクドネル社における宇宙船の製造]]
* ミス・サム:アカゲザル。[[1960年]][[1月21日]]にリトル・ジョー2ロケットで高度15kmに到達。
NASAは1958年から1959年にかけ、三度にわたってマーキュリー宇宙船の設計を変更した{{sfn|Catchpole|2001|p=152}}。宇宙船の入札終了後の1958年11月、NASAは提出されていた設計案のうちの「C案」を採用した{{sfn|Catchpole|2001|p=153}}が、1959年7月の試験飛行が失敗した後、最終形態の「D案」が浮上した (下図参照){{sfn|Catchpole|2001|p=159}}。耐熱保護板の形状についてはそれより以前に、1950年代の[[弾道ミサイル]]の実験を通して開発が進められていた。それによれば先端を鈍角の形状にすれば、発生した[[衝撃波]]が宇宙船の周囲の熱のほとんどを逃がしてくれることが明らかになっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=149}}。また熱保護の対策をさらに進めるために、[[ヒートシンク]]または[[溶融]]剤のいずれかを保護板に添加することが検討された{{sfn| Alexander & al.|1966|p=63}}。ヒートシンクとは保護板の表面に無数の細かい穴を開け、そこから空気を噴射して熱を逃がすという方式である。一方で溶融剤とは保護板の表面にわざと熱で溶ける物質を塗り、それを蒸発させることにより熱を奪う{{sfn| Alexander & al.|1966|p=64}}というもので、無人試験がくり返された後、後者のほうが採用されることとなった{{sfn| Alexander & al.|1966|p=206}}。宇宙船の設計と並行して[[X-15 (航空機)| X-15]]のような既存のロケット機状の形態も検討されていた{{sfn| Alexander & al.|1966|pp=78-80}}が、この方式は宇宙船に採用するには技術的にまだあまりにも遠かったため、最終的に除外された{{sfn| Alexander & al.|1966|p=72}}{{refn|group=n|ロケット機による宇宙飛行の検討はその後も空軍の[[X-20 (航空機)|ダイナソア]]計画によって踏襲されたが、1963年に中止された{{sfn|Catchpole|2001|pp=425, 428}}。1960年代の終わりごろ、NASAは再使用可能な宇宙機の開発に着手した。これが最終的に[[スペースシャトル]]計画につながることとなった。<ref>{{cite web|title=Introduction to future launch vehicle plans [1963-2001]. 3.The Space Shuttle (1968-72)|url=http://www.pmview.com/spaceodysseytwo/spacelvs/sld001.htm|accessdate=3 February 2014}}</ref>}}。熱保護板や機体の安定性については風洞試験がくり返され{{sfn|Alexander & al.|1966|p=88}}、後には実際に飛行させて試験された{{sfn|Catchpole|2001|p=229}}。緊急脱出用ロケットは無人で試験飛行が行われた{{sfn|Catchpole|2001|p=196}}。パラシュートは開発が難航したため[[フランシス・ロガロ|ロガロ翼]]の[[ハンググライダー]]のような形式も検討されたが、最終的に却下された{{sfn| Alexander & al.|1966|p=198}}。
* [[ハム (チンパンジー)]]:[[1961年]][[1月31日]]にレッドストーン・ロケットで弾道飛行。

* エノス:チンパンジー。1961年[[11月29日]]にアトラス・ロケットで打ち上げられ、地球を2周。
宇宙船は[[ミズーリ州]][[セントルイス]]にあるマクドネル・エアクラフト社工場内の[[クリーンルーム]]で製造され、同所の[[真空]]室で試験された{{sfn|Catchpole|2001|pp=132, 159}}。600近くある下請け企業の中には、宇宙船の環境制御システムを製造したギャレット・エアリサーチ (Garrett AiResearch) 社などもあった{{sfn| Alexander & al.|1966|p=137}}{{sfn|Catchpole|2001|p=138}}。最終品質検査および最終準備は、ケープ・カナベラルのS格納庫で行われた{{sfn|Catchpole|2001|pp=184-188}}{{refn| S格納庫で行われたマーキュリー・レッドストーン2号の修理には110日を要した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=310}}。|group=n}}。NASAは20機の製造を発注し、それぞれ1番から20番までの番号がふられた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=137}}が、10、12、15、17、19番の機体は飛行することはなかった{{sfn|Grimwood|1963|pp=235–238}}。また3番機と4番機は無人飛行試験の際に破壊された{{sfn|Grimwood|1963|pp=235–238}}。11番機は[[大西洋]]の底に沈んだ{{sfn|Grimwood|1963|pp=235–238}}が、38年後に回収された{{sfn|Catchpole|2001|pp=402–405}}。宇宙船の中には脱出システムを修正したり長時間の滞在ができるようにするなど、初期の段階から改良が加えられたものもあった{{refn|改良機は後に機体番号を2B、15Bと改められた{{sfn|Grimwood|1963|pp=216-218}}。また中には、二度にわたって改良されたものもあった。たとえば15番機は一度15Aになり、その後15Bとなった{{sfn|Grimwood|1963|p=149}}|group=n}}。さらに数多くの[[木型|モックアップ]] (宇宙船としての機能は搭載していない、飛行を目的とはしない性能試験のための模型) がNASAおよびマクドネルによって製造され{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=126 & 138}}、回収装置や緊急脱出用ロケットの試験のために使用された{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=96, 105}}またマクドネルは飛行士の訓練のための[[シミュレーション|シミュレーター]]も製作した{{sfn|Catchpole|2001|p=107}}。
<br clear="all">

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Heatshield-test3.jpg|風洞実験で再現された衝撃波。1957年
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Mercury-design.png|宇宙船デザインの進化。1958~59年
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Mercury Space Capsule-wind-tunnel.jpg|モックアップでの実験。1959年
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{{clear}}
==発射機==
[[File:Mercury-launch-vehicles.jpg|thumb|upright=1.5|左からマーキュリー・アトラス、マーキュリー・レッドストーン、リトルジョー]]
マーキュリー計画では2種類の発射用ロケットが使用された{{sfn|Catchpole|2001|pp=225, 250}}{{refn|group=n|「マーキュリー・レッドストーン・ブースター開発」のように、発射機自体に対して「ブースター」という用語がしばしば使用されたがこれは例外で、この記事では「ブースター」をマーキュリー・アトラスの1段目のみに使用する。}}。最も重要なのは、軌道飛行に使用されるAtlas LV-3B ([[アトラス (ミサイル)|アトラスD]]) ロケットであった。アトラスは1950年代半ばにコンベア社が空軍のために開発した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=22}}もので、[[酸化剤]]には[[液体酸素]] (LOX) を、燃料には[[ケロシン]]を使用していた{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}。ロケット自体の全高は20メートルだが、宇宙船と緊急脱出用ロケットを加えると (ロケットと宇宙船の接合部を含む) 29メートルになった{{sfn|Catchpole|2001|p=212}}。第1段は2基のエンジンからなるスカート部で、ロケット本体から燃料と液体酸素を供給され{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}、発射時には中央の本体ロケットとともに燃焼ガスを噴射し{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}、宇宙船を軌道に投入するのに十分な[[推力]]を発生させた{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}。第1段切り離し後は中央の本体ロケットが燃焼を続けた。本体ロケットにはスラスターが装備され[[ジャイロスコープ]]に従って動作した{{sfn|Catchpole|2001|pp=458-459}}。この2基の小型ロケットは本体側面に設置され、より正確に機体を誘導することを可能にした{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}。外殻はきわめて薄い[[ステンレス]]で作られているため、機体がゆがんだりしないよう常に燃料または[[ヘリウム]]ガスで内部から圧力をかけておく必要があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=25}}。これは燃料の重量の2パーセントまで機体の重量を削減できることを意味していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=25}}。またアトラスDは元々は[[核弾頭]]を搭載するために設計されていたので、それより重量のある宇宙船を乗せるためには機体をさらに強化することが求められた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=188}}。また内蔵された誘導システムは、大型化した機体に合わせて位置を変えなければならなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=188}}。マーキュリー計画後期にはLGM-25C ([[タイタンII (ミサイル)|タイタンII]]) ミサイルの使用も検討されたが、時期的に間に合わなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=305}}{{refn|タイタンはその後のジェミニ計画で使用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=503}}。|group=n}}。アトラスはケープ・カナベラルまでは空輸され、発射台までは台車で運ばれ{{sfn|Catchpole|2001|p=216}}、発射台に到着したら整備塔の[[クレーン]]で台車とともに垂直に立たされ、複数のクランプで台に固定された{{sfn|Unknown|1962|p=50}}{{sfn|Catchpole|2001|p=216}}。

もう一つの有人飛行用発射機は1段式で高さ25メートル (宇宙船と緊急脱出用ロケットを含む) のマーキュリー・レッドストーンロケットで、弾道飛行に使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=206}}。燃料は[[アルコール]]、酸化剤に液体酸素を使用する[[液体燃料ロケット]]だったが推力はわずか34トンしかなかったため、宇宙船を衛星軌道に乗せることはできなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=206}}。レッドストーンは1950年代初頭に[[ドイツ]]の[[V2ロケット]]を改良して[[アメリカ陸軍|陸軍]]のために開発されたものであり{{sfn|Alexander & al.|1966|p=21}}、マーキュリーに流用するにあたっては、先端を取り除いて宇宙船との接合部分を設置し発射時の振動を和らげるための素材を使用するなどの改良が施された{{sfn|Catchpole|2001|p=207}}。ロケットエンジンを製作したのは[[ノースアメリカン]]で、フィンを作動させることによって進行方向を制御した。その方法は二つあり、一つは機体の底部についている翼を作動させるもの、もう一つは[[ノズル]]のすぐ下にあるフィンを作動させて燃焼ガスの流れを変えるというものであった (もちろん、この二つを同時に使用することもあった){{sfn|Alexander & al.|1966|p=21}}。アトラスとレッドストーンのどちらにも不具合を感知する自動中止装置が搭載されており、何か異常が発生した場合には自動的に緊急脱出用ロケットを点火するようになっていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=209, 214}}。弾道飛行用には当初はレッドストーンの類縁である[[ジュピター (ミサイル)|ジュピター]]ミサイルの使用が検討されたが、1959年7月に予算の問題によりレッドストーンに決定された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=151}}{{sfn|Grimwood|1963|p=69}}。

この他に高さ17メートルのリトル・ジョーと呼ばれる小型ロケットも使用された。これは宇宙船と脱出用ロケットをともに搭載し、脱出装置の性能を無人でテストするためのものだった{{sfn|Catchpole|2001|p=197}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=638}}。その主要な目的は、[[空気抵抗]]が最大になり宇宙船をロケットから分離させることが最も困難になる、[[最大空力温度|マックスQ]] (最大空力温度) と呼ばれる瞬間にシステムを作動させることだった{{sfn|Catchpole|2001|p=223}}。またマックスQは、飛行士が最も激しい振動にさらされる瞬間でもあった{{sfn|Catchpole|2001|p=284}}。リトル・ジョーは[[固体燃料ロケット]]を使用し、1958年にNACAによって有人弾道飛行を目的として設計されたが、マーキュリー計画でアトラスDの発射をシミュレートすることを目的に再設計された{{sfn|Catchpole|2001|p=196}}。機体の製作はノース・アメリカンが行った{{sfn|Catchpole|2001|p=197}}。発射後に飛行方向を制御する機能は持っていなかったため、発射台を傾けることで目標方向に打ち上げた{{sfn|Catchpole|2001|p=198}}。最大到達高度は[[ペイロード]]満載状態で160キロメートルだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=125}}。さらにリトル・ジョーのほかに宇宙船追跡ネットワークを検証するため[[スカウト (ロケット)|スカウト]]ロケットが一度だけ使用されたことがあったが、発射直後に打ち上げが失敗し地面に激突して機体は破壊された{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=392–397}}。

<gallery style="float:left; margin:0em 0em 0em 0em;" widths="170" heights="170">
Little Joe 5B capsule mating.jpg|ワロップス島でリトル・ジョーの機体の上に宇宙船を設置する場面
</gallery>
<gallery style="float:left; margin:0em 0em 0em 0em;" widths="210" heights="170">
Unloading Atlas Launch Vehicle - GPN-2003-00041.jpg|ケープ・カナベラルで、輸送機から降ろされるアトラス
20130717155518!Mercury-Redstone 4 booster erection 61-MR4-45.jpg|[[ケープカナベラル空軍基地第5複合発射施設]]で、発射台の上に立たされるレッドストーン
Launch Complex 14-MA-9.jpg|第14複合発射施設の発射台上のアトラス
</gallery>
{{-}}

==宇宙飛行士==
[[File:Project Mercury-Mercury Seven-Astronauts.jpg|thumb|upright=1.35|左からグリソム、シェパード、カーペンター、シラー、スレイトン、グレン、クーパー。1962年]]
1959年[[4月9日]]、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られる以下の{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}7名の宇宙飛行士を発表した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=164}}。

*[[スコット・カーペンター]] (Malcolm Scott Carpenter [[1925年]]~[[2013年]] 海軍所属)
*[[ゴードン・クーパー]] (Leroy Gordon "Gordo" Cooper, Jr. [[1927年]]~[[2004年]] 空軍所属)
*[[ジョン・ハーシェル・グレン]] (John Herschel Glenn, Jr. [[1921年]]~ 海兵隊所属)
*[[ガス・グリソム]] (Virgil Ivan "Gus" Grissom [[1926年]]~[[1967年]] 空軍所属)
*[[ウォルター・シラー]] (Walter Marty "Wally" Schirra, Jr. [[1923年]]~[[2007年]] 海軍所属)
*[[アラン・シェパード]] (Alan Bartlett Shepard, Jr. 1923年~[[1998年]] 海軍所属)
*[[ドナルド・スレイトン]] (Donald Kent "Deke" Slayton [[1924年]]~[[1993年]] 空軍所属)

1961年5月にシェパードは弾道飛行に成功し、宇宙に行った初めてのアメリカ人となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=341}}。彼は[[アポロ14号]]でも飛行し、マーキュリー・セブンの中で唯一月面に降り立った{{sfn|Catchpole|2001|p=445}}。グリソムはアメリカ人として二番目に宇宙に行き、その後のジェミニ計画およびアポロ計画にも参加したが、1967年1月に[[アポロ1号]]の事故で死亡した{{sfn|Catchpole|2001|p=442}}。グレンは1962年2月に地球周回軌道に到達した初めてのアメリカ人となり、その後NASAを引退して政治家となったが、1998年に[[スペースシャトル]][[STS-95]]で飛行士として復活した{{sfn|Catchpole|2001|pp=440,441}}。スレイトンは健康上の理由でマーキュリーにはついに搭乗できず、1962年からは職員としてNASAに残ったが、[[1975年]]に[[アポロ・ソユーズテスト計画]]で飛行した{{sfn|Catchpole|2001|pp=446-447}}。クーパーはマーキュリー最後の飛行で同計画の中では最も長く宇宙に滞在し、またジェミニ計画でも飛行した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}。カーペンターはマーキュリーが唯一の宇宙飛行となった。シラーはマーキュリーでの3度目の地球周回飛行に搭乗し、ジェミニ計画にも参加した。またその3年後の[[アポロ7号]]でも船長を務め、マーキュリー、ジェミニ、アポロの3つの計画で宇宙に行った唯一の飛行士となった。

飛行士らの任務の中には広報活動も含まれており、彼らは報道陣のインタビューに答え、計画に関わる施設を訪れ職員と会話をした{{sfn|Catchpole|2001|p=99}}。移動を容易にするために、飛行士らは[[ジェット]][[戦闘機]]の使用を要求した{{sfn|Catchpole|2001|p=104}}。マスコミの間ではジョン・グレンが最も受けが良く、セブンの代表であるかのように見なされていた{{sfn|Catchpole|2001|p=96}}。飛行士らは[[ライフ (雑誌)|ライフ誌]]に手記を売り、同誌は彼らを愛国的で信心深い家族思いの男であると描写した{{sfn|Catchpole|2001|p=100}}。飛行士が宇宙にいる間、彼の家に入り家族と接触することが許されたのはライフだけだった{{sfn|Catchpole|2001|p=100}}。計画中、グリソム、カーペンター、クーパー、シラー、スレイトンらは[[ラングレー空軍基地]]内またはその近辺で家族とともに過ごしたが、グレンは同基地に単身赴任し週末に[[ワシントンD.C.]]にいる妻子のところに戻った。シェパードは[[バージニア州]]の{{仮リンク|オセアーナ海軍航空基地|en|Naval Air Station Oceana}}で家族とともに生活した{{sfn|Catchpole|2001|p=97}}。

===飛行士の選抜と訓練===
宇宙飛行士の資格を満たす者は、当初はあらゆるリスクを引き受ける覚悟がある男あるいは女であれば誰でもよいだろうと思われていた{{sfn|Catchpole|2001|p=91}}が、アイゼンハワーの主張により、アメリカ人で最初に宇宙に乗り込む者は当時508名いた[[テストパイロット]]の中から選抜されることになった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=160–161}}。しかしながら軍のテストパイロットの中には女性はいなかったため、必然的に飛行士はすべて男性で構成された{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}。またこのときNACAでX-15のテストパイロットをしていた、後に人類初の月面着陸をすることになる[[ニール・アームストロング]]は、民間人であるという理由で除外された{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}{{refn|group=n|アームストロングは1952年に海軍を退役し、海軍予備役 (Naval Reserve) の中尉になった。予備役には1960年に任務を離れるまでとどまった。{{sfn|Hansen|2005|p=118}}}}。さらに選抜条件の中には、25歳から40歳までで身長1メートル80センチ以下、さらに科学または技術の分野で[[学位]]を持っていることという項目が加えられた{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}。学位の条件が追加されたことにより、実験機[[X-1 (航空機)|X-1]]の飛行士で人類で初めて[[音速]]を突破した[[チャック・イェーガー]]なども除外されることになった{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}。イェーガーは後にマーキュリー計画に対しては批判的になり、特に猿を使って実験したことをひどく軽蔑した{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}{{refn|ジョン・グレンも学位は持っていなかったが、選抜委員会に影響力のある友人を利用して合格した{{sfn|Catchpole|2001|p=440}}。|group=n}}。 [[気球]]で高度31,330メートルの[[成層圏]]から[[スカイダイビング]]をした世界記録 (当時) を持つ[[ジョゼフ・キッティンジャー]]はすべての条件をクリアしていたが、彼が当時関わっていた超高空ダイビングのプロジェクトを進行させることを選んだため応募しなかった{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}。有資格者の中には、有人宇宙飛行がマーキュリー計画の後にも継続されるとは信じられなかったため辞退した者たちもいた{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}{{refn|マーキュリー計画の開始当初は、アイゼンハワーとNASAの初代長官グレナンはアメリカが初めて人類を宇宙に送り、それが宇宙開発競争のゴールになると信じていた{{sfn|Catchpole|2001|p=407}}。|group=n}}。508名の中から110名が面接で選ばれ、さらにその中から32名が体力および心理テストでふるい分けられた{{sfn|Catchpole|2001|p=93}}。残った候補者は健康面、視力、聴力が検査され、騒音、振動、加速度、孤独環境、熱などに対する耐性も検査された{{sfn|Catchpole|2001|p=98}}。特殊な隔離室では、混乱した状況の中で課題をこなす能力があるかを調べられた{{sfn|Catchpole|2001|p=98}}。また候補者たちは自身に関する500以上の質問を受け、様々な画像を表示され何が見えるかを答えさせられた (白紙を見せられることもあった) {{sfn|Catchpole|2001|p=98}}。ジェミニおよびアポロで飛行した[[ジム・ラヴェル]]は、体力試験で落とされた{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}。これらの試験の後、最終的には6名まで絞り込む予定だったが、7名のままにすることになった{{sfn|Catchpole|2001|p=94}}。

飛行士らが受けた訓練の中には、選抜試験の項目と重複するものもあった{{sfn|Catchpole|2001|pp=103-110}}。海軍航空開発センターにある[[遠心力|遠心]]加速器では、発射および帰還時に経験する重力加速度の変化をシミュレーションし、6G以上の加速度を受けたときに必要とされる特殊な呼吸法などを習得した{{sfn|Catchpole|2001|p=104}}。航空機を使用しての無重力訓練も行われ、初期の段階では複座式戦闘機の後部座席を使用し、後期の段階では[[貨物機]]の内部を改造し壁や床にマットを敷き詰めたものが使われた{{sfn|Catchpole|2001|p=105}}。ルイス飛行推進研究所にある「多軸回転試験慣性装置 (Multi-Axis Spin-Test Inertia Facility, MASTIF)」と呼ばれる設備では、船内にある操縦桿を模したコントローラーを使用して宇宙船の姿勢を制御する訓練が行われた<ref>{{cite web| title =Gimbal Rig Mercury Astronaut Trainer | publisher =NASA| date =9 June 2008| url =http://www.nasa.gov/centers/glenn/about/history/mastif.html#.VIy1TnvAuJw|accessdate = 13 December 2014 }}</ref><ref>{{YouTube| M3m5npzgVLY | "Gimbal Rig" }}</ref>。この他にも[[プラネタリウム]]やシミュレーターを使用して、星や地球を基準にして軌道上で正しく姿勢を制御する方法などを学んだ{{sfn|Catchpole|2001|pp=105, 109}}。通信や飛行手順の訓練にはフライトシミュレーターが使用され、最初の段階ではトレーナーが一対一でサポートし、後の段階では飛行士自身でコントロールセンターと連絡を取る訓練をした{{sfn|Catchpole|2001|p=111}}。着水訓練にはラングレーのプールが使用され、後には実際に海に出て[[潜水士]]がつきながらヘリコプターで回収される訓練が行われた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=346}}。

<gallery widths="220" heights="165">
File:Johnsville Centrifuge.jpg|ナヴァル空軍基地における耐G訓練。1960年
File:Mercury Astronauts in Weightless Flight on C-131 Aircraft - GPN-2002-000039.jpg|C-131輸送機を使用しての無重力訓練
File:Project Mercury AWT Gimbaling Rig close.jpg|ルイス研究センターのMASTIF
File:Shepard in trainer before launch.png|ケープ・カナベラルにおける飛行訓練
File:B60 285b.jpg|ラングレー調査センターにおける降機訓練
</gallery>

==計画の詳細==
[[File:Mr3-flight-timeline-simple.png|thumb|upright=1.2|弾道飛行の詳細。点線は無重力の期間を表す。]]
マーキュリー計画には弾道飛行、軌道 (地球周回) 飛行の二種類の飛行計画があった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=xiii, 99}}。弾道飛行にはレッドストーンを使用し、2分30秒の燃焼で宇宙船を高度32[[海里]] (59キロメートル) まで上昇させ、ロケット分離後は[[放物線]]を描いて[[慣性]]で飛行した{{sfn|Unknown|1961a|p=7}}{{sfn|Catchpole|2001|pp=208, 250}}。打ち上げ後は自然に落下してくるため逆噴射ロケットは本来は必要なかったが、性能を検証するために点火された。宇宙船は弾道飛行、軌道飛行ともに大西洋に帰還した{{sfn|Catchpole|2001|pp=250, 308}}。着水後には潜水士が機体に姿勢を安定させるための浮き輪を取りつけることになっていたが、弾道飛行では準備が間に合わなかった{{sfn|Catchpole|2001|pp=250, 308}}。弾道飛行では15分間の飛行で高度102~103海里 (189~102キロメートル)、軌道飛行距離は262海里 (485キロメートル) に到達した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}{{sfn|Catchpole|2001|p=475}}。

計画の準備は主搭乗員と予備搭乗員の選抜よりも1ヶ月先行して行われた。予備搭乗員は主搭乗員に万一のことがあった場合の控えで、すべての訓練を主搭乗員とともに受けた{{sfn|Catchpole|2001|p=110}}。発射3日前、飛行士は飛行中に[[排便]]する可能性を最小限にするために特別食をとりはじめた{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}が、発射当日の朝食にはステーキを食べるのが慣例となっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}。飛行士の体にセンサーをつけ宇宙服を着用させると、船内の環境に適応させるために宇宙服の中に純粋酸素が送り込まれた{{sfn|Catchpole|2001|p=280}}。発射台にバスで到着すると、飛行士は整備塔に付属するエレベーターでホワイトルームと呼ばれる準備室に行き、作業員に補助され発射の2時間前に宇宙船に乗り込んだ{{sfn|Catchpole|2001|p=188}}{{refn|group=n|宇宙船の中には、他の飛行士が「ハンドボール禁止」の貼り紙をするなどの悪ふざけをしていることがしばしばあった。{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。}}。飛行士の体をシートベルトで座席に固定するとハッチがボルトで締められ、作業員が撤退し整備塔がロケットから離れた{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。この後、ロケットのタンクに液体酸素が充填された{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。発射準備および発射後のすべての進行は、[[カウントダウン]] (秒読み) と呼ばれる工程表に沿って行われた。発射1日前に予備秒読みが開始され、ロケットや宇宙船のすべてのシステムが点検される。その後15時間中断され、この間に火工品が充填される。この後、軌道飛行の場合は発射6時間半前 (Tマイナス390) に主秒読みが開始され、発射の瞬間 (T0) の瞬間までは数が少なくなり、発射後は軌道投入の瞬間 (Tプラス5分) まで読み上げが続行された{{sfn|Catchpole|2001|p=188}}{{refn|group=n|秒読みは2分前までは発射複合施設にある防護室で制御され、その後コントロールセンターが引き継ぐ。最後の10秒の読み上げはセンターで管制業務をしている宇宙飛行士の一人が行い、すでに待機しているテレビ中継で放映された{{sfn|Catchpole|2001|p=282}}。}}。

[[File:Vol-Atlas-Mercury.png|thumb|upright=0.9|軌道飛行の詳細。AからDまでは発射、EからKまでは帰還および着水。]]
軌道飛行では、アトラスのエンジンは発射4秒前に点火される。ロケットは留め金で固定されており、十分な推力が発生するとフックが外れて発射台を離れる ('''A''') {{sfn|Catchpole|2001|pp=188, 242}}。30秒後に空気抵抗が最大になるマックスQと呼ばれる速度に達し、このとき飛行士は激しい振動にさらされることになる{{sfn|Catchpole|2001|p=340}}。2分10秒後、第1段のスカート部が切り離される ('''B'''){{sfn|Catchpole|2001|p=188}}。この時点で緊急脱出用ロケットは必要なくなるので、切り離し用ロケットに点火して投棄される ('''C''').{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}{{refn|これ以前の段階で発射を中止する事態になった場合は緊急脱出用ロケットが1秒間噴射され、宇宙船と飛行士を爆発の可能性があるロケットから遠ざける{{sfn|Catchpole|2001|p=179}}。この時点で宇宙船はロケットから切り離され、パラシュートで着水する{{sfn|Catchpole|2001|p=180}}。|group=n}}。ロケットはその後次第に進路を水平に傾け、発射から5分10秒後、高度87海里 (161キロメートル) で宇宙船が軌道に投入される ('''D'''){{sfn|Unknown|1962|p=46}}。ちなみにマーキュリーに限らず、世界の多くの国において人工衛星は地球の[[自転]]を利用するために東に向かって発射されるのが通例となっている{{sfn|Catchpole|2001|pp=188, 460}}{{refn|group=n|軌道投入のための発射方向は真東からわずかに北に向けられていた。これは3回の軌道飛行で追跡ネットワークを最良に機能させ、着水地点を北大西洋上にするための措置であった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=215}}。}}。ここで3基の切り離し用小型ロケットが1秒間点火され、宇宙船はロケットから離れる{{sfn|Catchpole|2001|p=133}}{{refn|ロケットは崩壊しやがて落下する。フレンドシップ7ではロケットの一部が南アフリカで発見された{{sfn|Grimwood|1963|p=164}}。|group=n}}。エンジンを停止する直前には、加速度は8Gに達する (弾道飛行では6G){{sfn|Catchpole|2001|p=340}}{{sfn|Unknown|1961|p=10}}。軌道に投入されると宇宙船は自動的に180° 向きを変え、逆噴射用ロケットを前方にし機首を14.5° 下方に傾けた姿勢になる。機首を下に向けるのは、地上との交信のために必要だからである{{sfn|Alexander & al.|1966|p=333}}{{sfn|Catchpole|2001|p=120}}{{refn|group=n|軌道上では宇宙船の姿勢は常に変化する、つまり漂流するが、これは姿勢制御システム (attitude control system, ASCS) によって自動的に修正された。ASCSは、過酸化水素から発生した酸素を小さなノズルから噴射した。燃料を節約するため、長い飛行の際などは宇宙船は時によって漂流するままにまかせることもあった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=195, 450}}。}}。いったん軌道に乗ると、宇宙船は帰還のために大気圏再突入をするときを除いて軌道を変更することは不可能になる{{sfn|Catchpole|2001|p=462}}。地球を1周するのには、通常88分を要する{{sfn|Catchpole|2001|p=324}}。軌道に投入されるのは[[近点・遠点|近地点]]と呼ばれる軌道が最も低くなる場所で、高度はおよそ87海里 (161 km) である。逆に最も高くなる (約150海里, 280 km) 場所は遠地点と呼ばれ、地球の反対側になる{{sfn|Catchpole|2001|p=475}}。帰還の際 ('''E''') には下向きの角度が34° にまで増加される{{sfn|Alexander & al.|1966|p=333}}。逆噴射ロケットの燃焼時間は1基が10秒で、一つが点火してからそれぞれ5秒の間隔を置いて次々に噴射される ('''F'''){{sfn|Catchpole|2001|p=133}}{{sfn|Unknown|1961|p=9}}。再突入の間 ('''G''')、飛行士には8G (弾道飛行では11から12G) の加速度が加わる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=574}}。耐熱保護板の周囲の温度は華氏3,000度 (摂氏1,650度) に達し、またこのとき宇宙船の周囲の空気が高温により[[イオン化]]するため、ブラックアウトと呼ばれる通信が途絶する時間帯が2分間ほど発生する{{sfn|Unknown|1962|p=9}}{{sfn|Catchpole|2001|p=134}}。再突入後、高度2万1,000フィート (6,400メートル) で姿勢を安定させるためのドローグシュートと呼ばれる小型パラシュートが展開し ('''H'''){{sfn|Catchpole|2001|p=147}}、その後高度1万フィート (3,000メートル) でメインパラシュートが展開する ('''I''')。ロープにかかる[[張力]]を低減させるため最初は小さく開き、数秒後に全開する{{sfn|Alexander & al.|1966|p=356}}。着水直前、衝撃を和らげるために耐熱保護板の裏にあるエアバッグが展開される ('''J'''){{sfn|Alexander & al.|1966|p=356}}。着水するとパラシュートを切り離し{{sfn|Catchpole|2001|p=144}}、アンテナが伸ばされ艦船やヘリコプターが追跡できるよう[[電波]]の[[ビーコン]]が発信される ('''K''') {{sfn|Catchpole|2001|p=144}}。また空から視認しやすくさせるため、緑色の染料が宇宙船の周囲に流される{{sfn|Catchpole|2001|p=144}}{{refn|group=n|最初の飛行では[[チャフ|レーダーチャフ]]や回収船の水中聴音器で検知できるようにするためのソーファー (SOFAR) 爆弾と呼ばれる装置も搭載されたが、不必要であることがわかったので以降は排除された{{sfn|Alexander& al.|1966|p=445}}。}}。ヘリが到着すると、潜水士が姿勢を垂直に保つための浮き輪を機体に取りつける{{sfn|Catchpole|2001|p=166}}。先端部にワイヤーがひっかけられると飛行士が爆発ボルトのスイッチを入れてハッチを吹き飛ばし{{sfn|Catchpole|2001|pp=144–145}}、飛行士と宇宙船はともにヘリによってホイスト (つり上げ) されて回収される{{refn|機首の円筒部分から脱出することも可能で、カーペンターのみが実行した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=143}}{{sfn|Catchpole|2001|p=147}}。最後の2回の飛行では宇宙船は飛行士を乗せたまま釣り上げられ、飛行士は回収船上でハッチから機外に出た{{sfn|Catchpole|2001|pp=363, 382}}。カーペンターの飛行では空軍の[[水上機]]が海軍機よりも1時間半先に着水点に到着し飛行士の収容を申し出たが、回収作業を監督する海軍提督が断った。このことは後に問題となり、[[アメリカ上院|上院]]の[[公聴会]]で質問されることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=457}}。|group=n}}。

<gallery widths="225" heights="160">
Mercury profile.jpg|マーキュリーで使用された有人発射機
Glenn62.jpg|軌道上のジョン・グレン (マーキュリー・アトラス6)
Shepard Hoisted into Recovery Helicopter - GPN-2000-001361-crop.jpg|ヘリコプターによる回収作業(マーキュリー・レッドストーン3)
</gallery>

==地上管制==
[[File:Mercury Control crop.jpg|thumb|alt=A look inside the Mercury Control Center, Cape Canaveral, Florida. Dominated by the control board showing the position of the spacecraft above ground|ケープ・カナベラルの管制センター内部 (マーキュリー・アトラス8)]]
マーキュリー計画を支える人員は通常1万8,000人前後で、そのうち回収作業に関わったのはおよそ1万5,000人だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}{{sfn|Unknown|1962|p=3}}{{refn|グレンの飛行のとき発射ボタンを押したのはT. J. オマリー (T. J. O'Malley) で、カーペンター、シラー、クーパーのときの発射ボタンを押したのは第14発射複合施設の施設長で発射指揮官のカルヴィン・D. フォウラー (Calvin D. Fowler) だった<ref>1963年5月15日、ゴードン・クーパーのマーキュリー・アトラスの際の報道発表による</ref>{{Full|date=June 2013}}。|group=n}}。その他の人員のほとんどは、世界中にはりめぐらされた宇宙船追跡ネットワークに関わっていた。追跡ネットワークは[[赤道]]上に置かれた18の基地からなるもので、1960年中には完成していた人工衛星追跡網を基礎にしていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=124, 461–462}}。その主な役割は宇宙船からデータを収集することと、飛行士と地上の間の双方向の通信を提供することだった{{sfn|Catchpole|2001|p=117}}。各基地は700海里 (1,300キロメートル) 離れており、宇宙船がその間を通過するには通常7分を要した{{sfn|Catchpole|2001|pp=121, 126}}。また他の飛行士たちには宇宙船通信担当官 (Capsule Communicator, CAPCOM) の任務が割り当てられ、軌道上にいる飛行士との通信連絡を担当した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=360}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=479}}{{refn|group=n|宇宙船がアメリカ上空にいる間は、地上との通信はしばしばテレビで放映された。}}。宇宙船から送られてきたデータはゴダード宇宙センターで処理された後にケープ・カナベラルのマーキュリー管制センターに送られ{{sfn|Catchpole|2001|p=118}}、管制室にある世界地図の両側に表示された。地図上には宇宙船の現在位置と、緊急事態が発生した場合に30分以内に帰還できる位置が示されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=120}}{{refn|group=n|追跡網は1980年代に衛星追跡システムが完成するまで、その後の宇宙計画でも使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=409}}。またコントロールセンターは1965年にケープ・カナベラルからヒューストンに移転した{{sfn|Catchpole|2001|p=88}}。}}。

==飛行==
<div style="float: right; position: relative;width:400px; margin: 0em 0em 0.5em 2em;">
[[File:Mercury-splash-down.png|thumb|400px|マーキュリー計画における着水点]]
{{Image label|x=0.700 |y=0.175 |scale=400|text=<span style="color:gray;">/</span>}}
{{Image label|x=0.690 |y=0.145 |scale=400|text=<span style="background:white; color:gray; font-size:11px; padding-left:2px;">ケープ・カナベラル</span>}}
{{Image label|x=0.100 |y=0.270 |scale=400|text=<span style="color:gray;font-size:11px;">ハワイ</span>}}
{{Image label|x=0.725 |y=0.185 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.610 |y=0.205 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">フリーダム7</span>}}
{{Image label|x=0.730 |y=0.180 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.755 |y=0.180 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">リバティ・ベル7</span>}}
{{Image label|x=0.790 |y=0.225 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.815 |y=0.220 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">フレンドシップ7</span>}}
{{Image label|x=0.825 |y=0.245 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.850 |y=0.250 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">オーロラ7</span>}}
{{Image label|x=0.025 |y=0.190 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.050 |y=0.190 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">シグマ7</span>}}
{{Image label|x=0.020 |y=0.220 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.045 |y=0.225 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">フェイス7</span>}}
</div>
1961年[[4月12日]]、ソ連のユーリ・ガガーリンが地球周回飛行に成功し、人類初の宇宙飛行士となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=332}}。その3週間後の[[5月5日]]、アラン・シェパードが弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=341}}。アメリカが地球周回飛行に成功したのは1962年2月20日のことで、マーキュリー3人目の飛行士ジョン・グレンが軌道に到達したが、これ以前の1961年8月にはソ連の2人目の飛行士[[ゲルマン・チトフ]]がすでに1日間の飛行に成功していた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=377, 422}}。マーキュリーでは1963年[[5月16日]]までにさらに3度の発射が行われ、最後の飛行では1日間で地球を22周した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}ものの、その翌月に行われたボストーク計画最後の飛行[[ボストーク5号]]では、ほぼ5日間で地球を82周する当時の最長記録を打ち立てていた{{sfn|Catchpole|2001|p=476}}。

===有人飛行===
マーキュリーにおける有人飛行はすべて成功裏に終了した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640-641}}。主な医療的問題は、単純な個人[[衛生]]と飛行後の[[起立性低血圧]]が発生しただけだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。発射用ロケットは無人試験の段階から継続して使用されてきたため、有人飛行の計画番号は1からは始まらなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=638-641}}。また2種類の異なるロケットが使用されたため、飛行計画にもMR (マーキュリー・レッドストーン、弾道飛行) とMA (マーキュリー・アトラス、軌道飛行) の2種類の名称が与えられることになったが、飛行士たちはパイロットの伝統に従っておのおのの宇宙船に独自に名前をつけていたため、MR、MAの名称は一般的には用いられることは少なかった。また飛行士らが与えた名称には、7名の宇宙飛行士を記念して末尾に"7"がつけられた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}。マーキュリー・レッドストーンはケープカナベラル空軍基地第5複合発射施設から、マーキュリー・アトラスはケープ・カナベラル空軍基地第14複合発射施設から打ち上げられた。時計には現地時間よりも5時間進んでいる[[協定世界時]]が使用された。

{| class="wikitable"
|-
|-
!colspan="10" align="center"|データ{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641 when nothing else is mentioned in table}}
!計画名
|-
!使用ロケット
! 計画
!暗号名
! 識別名
!発射日
! 飛行士
!発射時間
!飛行時間
! 発射時間
! 飛行時間
!特記事項
! 地球周回<br />回数
! 遠地点<br />(km)
! 近地点<br />(km)
! 最大速度<br />(km/h)
! 予定着水点<br />との誤差<br />(km)
|-
|-
||マーキュリー・ジュピタ
| [[マーキュリー・レッドストン3号]] <br />(MR3)
| ''フリーダム7''
||ジュピター
| シェパード
||なし
| style="text-align:right;" |1961年5月5日<br />14時34分
||なし
| style="text-align:right;" |15分22秒
||なし
| style="text-align:right;" |0
||なし
| style="text-align:right;" |188
||弾道飛行を予定していたが、1959年7月にキャンセル
| style="text-align:center;" | —
| style="text-align:right;" |8,262
| style="text-align:right;" |5.6
|-
|-
| [[マーキュリー・レッドストーン4号]] <br />(MR4)
||リトル・ジョー1
||トルジョー
| ''バティベル7''
| グリソム
||LJ-1
| style="text-align:right;" |1961年7月21日<br />12時20分
||[[1959年]]<br/>[[8月21日]]
| style="text-align:right;" |15分37秒
||記録なし
| style="text-align:right;" |0
||20秒
| style="text-align:right;" |190
||緊急脱出用ロケット試験
| style="text-align:center;" |—
| style="text-align:right;" |8,317
| style="text-align:right;" |9.3
|-
|-
| [[マーキュリー・アトラス6号]]<br />(MA6)
||ビッグ・ジョー1
| ''フレンドシップ7''
||アトラス10-D
| グレン
||ビッグ・ジョー1
| style="text-align:right;" |1962年2月20日<br />14時47分
||1959年<br/>[[9月9日]]
| style="text-align:right;" |4時間55分23秒
||記録なし
| style="text-align:right;" |3
||13分
| style="text-align:right;" |261
||耐熱板および宇宙船とロケットの接続装置試験
| style="text-align:right;" |161
| style="text-align:right;" |28,234
| style="text-align:right;" |74
|-
|-
| [[マーキュリー・アトラス7号]]<br />(MA7)
||リトル・ジョー6
| ''オーロラ7''
||リトル・ジョー
| カーペンター
||LJ-6
| style="text-align:right;" |1962年5月24日<br />12時45分
||1959年<br/>[[10月4日]]
| style="text-align:right;" |4時間56分5秒
||記録なし
| style="text-align:right;" |3
||5分10秒
| style="text-align:right;" |269
||宇宙船の[[空力]]および総合試験
| style="text-align:right;" |161
| style="text-align:right;"|28,242
| style="text-align:right;" |400
|-
|-
| [[マーキュリー・アトラス8号]]<br />(MA8)
||リトル・ジョー1A
| ''シグマ7''
||リトル・ジョー
| シラー
||LJ-1A
| style="text-align:right;" |1962年10月3日<br />12時15分
||1959年<br/>[[11月4日]]
| style="text-align:right;" |9時間13分15秒
||記録なし
| style="text-align:right;" |6
||8分11秒
| style="text-align:right;" |283
||飛行中における緊急脱出用ロケット試験
| style="text-align:right;" |161
| style="text-align:right;" |28,257
| style="text-align:right;" |7.4
|-
|-
| [[マーキュリー・アトラス9号]]<br />(MA9)
||リトル・ジョー2
| ''フェイス7''
||リトル・ジョー
| クーパー
||LJ-2
| style="text-align:right;" |1963年5月15日<br />13時04分
||1959年<br/>[[12月4日]]
| style="text-align:right;" |1日<br />10時間19分49秒
||記録なし
| style="text-align:right;" | 22
||11分6秒
| style="text-align:right;" | 267
||アカゲザルのサムを搭乗させ、高度85kmに到達
| style="text-align:right;" | 161
| style="text-align:right;" |28,239
| style="text-align:right;" |8.1
|}

{| class="wikitable"
|-
!colspan="2" |備考
|-
|-
| {{Nowrap|マーキュリー・レッドストーン3号}}||アメリカ初の有人宇宙飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=341}}。 [[空母]][[ レイク・シャンプレイン (空母)|レイク・シャンプレイン]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=357}}。
||リトル・ジョー1B
||リトル・ジョー
||LJ-1B
||[[1960年]]<br/>[[1月21日]]
||記録なし
||8分35秒
||ミス・サムを搭乗させ、高度15kmに到達
|-
|-
|マーキュリー・レッドストーン4号||回収作業中に不意にハッチが開いたため海水が浸入して沈没{{sfn|Alexander & al.|1966|p=373}}{{refn |1999年に海中から引き上げられた{{sfn|Catchpole|2001|p=402–405}}。| group = n }}。空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]が回収作業に当たる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=375}}。
||緊急脱出用ロケット試験
||緊急脱出用ロケット
||脱出試験
||1960年<br/>[[5月9日]]
||記録なし
||1分31秒
||地上からの緊急脱出用ロケット発射試験
|-
|-
|マーキュリー・アトラス6号||アメリカ初の地球周回飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=422}}。逆噴射ロケットを装着したまま大気圏に再突入{{sfn|Alexander & al.|1966|p=432}}{{refn|group=n|フレンドシップ7の発射は2ヶ月間に何度も延期された。フラストレーションのたまったある政治家は、宇宙船とアトラスロケットの組み合わせを「配管工の悪夢以上の[[ルーブ・ゴールドバーグ・マシン]]だ」と例えた。{{sfn|Alexander & al.|1966|p=409, 411}}。}}。[[フリゲート艦]]ノア (Noa) が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=433}}。
||[[マーキュリー・アトラス1号]]
||アトラス
||MA-1
||1960年<br/>[[7月29日]]
||13:13 UTC
||3分18秒
||アトラス・ロケットを使用しての初の発射実験
|-
|-
|マーキュリー・アトラス7号||スレイトンに替わりカーペンターが飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=440}}{{refn|group=n|カーペンターが着水点を大きく通り過ぎてしまったのは、自動姿勢安定装置が故障し、逆噴射ロケットの噴射方向が宇宙船の動きに合わせてずれてしまったのが原因だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=453-454}}。}}。[[駆逐艦]][[ファラガット (DDG-37)|ファラガット]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=456}}。
||リトル・ジョー5
||リトル・ジョー
||LJ-5
||1960年<br/>[[11月8日]]
||記録なし
||2分22秒
||初の実機発射試験
|-
|-
|マーキュリー・アトラス8号||最も狂いなく計画通りに進行した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=484}}。操縦テストを実行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=476}}。空母[[キアサージ (空母) |キアサージ]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=483}}。
||[[マーキュリー・レッドストーン1号]]
||レッドストーン
||MR-1
||1960年<br/>[[11月21日]]
||記録なし
||2秒
||発射台から10cm浮いたところで電気系統の故障により<br/>エンジンが停止
|-
|-
|マーキュリー・アトラス9号||アメリカ初の1日以上の宇宙滞在{{sfn|Alexander & al.|1966|p=487}}。アメリカ最後の単独での宇宙飛行{{refn|group=n|アレクサンダー&al. によれば、恐らくそうなるであろうと思われる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=506}}。}}。空母''キアサージ''が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=501}}。
||マーキュリー・レッドストーン1A
||レッドストーン
||MR-1A
||1960年<br/>[[12月19日]]
||記録なし
||15分45秒
||レッドストーンロケットを使用しての初の発射実験
|-
|-
|回収方法の違い|| MA6では宇宙船と飛行士がヘリコプターによって直接ホイストされた (釣り上げられた) 。MA8では宇宙船と飛行士が船まで曳航された。MA9では宇宙船は飛行士を乗せたままヘリで釣り上げられ船まで運ばれた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=353,375,433,457,483-484,501}}。
||[[マーキュリー・レッドストーン2号]]
|}
||レッドストーン
<gallery widths="280" heights="180">
||MR-2
Kennedy, Johnson, and others watching flight of Astronaut Shepard on television, 05 May 1961.png|ホワイトハウスでシェパードの飛行をテレビで見るケネディ大統領
||[[1961年]]<br/>[[1月31日]]
Kearsarge-mercury-3.jpg|空母キアサージの甲板でマーキュリー9の人文字を作る船員たち
||16:55 UTC
Astronaut_John_Glenn_being_Honored_-_GPN-2000-000607.jpg|大統領に表彰されるジョン・グレン
||16分39秒
</gallery>
||チンパンジーを搭乗させての弾道飛行

===無人飛行===
無人飛行ではリトル・ジョー、レッドストーン、アトラスが使用され{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}、発射機、脱出システム、宇宙船および追跡ネットワークの開発が行われた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638-641}}。地上追跡ネットワークを試験するため1度だけスカウト・ロケットを使用して無人機の発射が試みられたが、失敗して軌道に到達することはなかった。リトル・ジョーを使用したものでは8度の飛行で7機の機体が打ち上げられ、そのうちの3度が成功した。2度目のリトル・ジョーの飛行にはリトル・ジョー6の名称が与えられたが、これは最初の5機がすでに他の飛行に割り当てられた後で計画に挿入されたことによるものであった{{sfn|Catchpole|2001|p=231}}{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}。

{| class="wikitable"
|-
|-
! 計画名
||[[マーキュリー・アトラス2号]]
! 発射日時
||アトラス
! 飛行時間
||MA-2
! 備考{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638–641 when nothing else is mentioned in table}}
||1961年<br/>[[2月21日]]
||14:10 UTC
||17分56秒
||宇宙船およびアトラス・ロケットの試験
|-
|-
||リトル・ジョー5A
|リトル・ジョー1号
| style="text-align:right;" |1959年8月21日
||リトル・ジョー
| style="text-align:right;" |20秒
||LJ-5A
|失敗。緊急脱出用ロケットの試験を行う予定だったが、電気系統の故障のため発射30分前に脱出ロケットが点火してしまい、ロケット本体を地上に残したまま宇宙船と脱出ロケットが発射されてしまった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=208}}。
||1961年<br/>[[3月18日]]
||N/A
||23分48秒
||発射時の最も過酷な状況における緊急脱出用ロケット試験
|-
|-
|ビッグ・ジョー1号
||マーキュリー・レッドストーンBD
| style="text-align:right;" |1959年9月9日
||レッドストーン
| style="text-align:right;" |13分00秒
||MR-BD
|一部成功。耐熱保護板およびアトラスと宇宙船の接続部分のテストが行われた。マーキュリー・アトラスとしては実質的にこれが初めての飛行となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}。ケープ・カナベラル南東2,407キロメートルの洋上でUSSストロングが回収{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=203–204}}。高度105キロメートルに到達し、耐熱保護板の性能が検証された{{sfn|Catchpole|2001|p=229}}。
||1961年<br/>[[3月24日]]
||17:30 UTC
||8分23秒
||レッドストーン・ロケット開発試験
|-
|-
|リトル・ジョー6号
||[[マーキュリー・アトラス3号]]
| style="text-align:right;" |1959年10月4日
||アトラス
| style="text-align:right;" |5分10秒
||MA-3
|宇宙船の空力特性および総合試験。一部が成功。追加の試験は行われなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=209}}。
||1961年<br/>[[4月25日]]
||16:15 UTC
||7分19秒
||宇宙船およびアトラス・ロケットの試験
|-
|-
||リトル・ジョー5B
|リトル・ジョー1A号
| style="text-align:right;" |1959年11月4日
||リトル・ジョー
| style="text-align:right;" |8分11秒
||AB-1
|宇宙船の模型を使用して飛行中における脱出ロケットの試験が行われ、一部が成功。ロケットが点火した時間が予定より10秒遅れた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=210}}。ワロップス島南東18.5キロメートル沖合でUSSオポチューンが回収{{sfn|Catchpole|2001|p=232}}。
||1961年<br/>[[4月28日]]
||N/A
||5分25秒
||発射時の最も過酷な状況における緊急脱出用ロケット試験
|-
|-
|リトル・ジョー2号
||[[マーキュリー・アトラス4号]]
| style="text-align:right;" |1959年12月4日
||アトラス
| style="text-align:right;" |11分6秒
||MA-4
|脱出ロケットの試験として[[霊長類]]を乗せて行われ、成功した。サムという名の[[アカゲザル]]を搭乗させ、高高度に到達させた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=210}}。ヴァージニア州ワロップス島南東312キロメートル沖合でUSSボリーが回収。高度85キロメートルに到達{{sfn|Catchpole|2001|pp=234, 474}}。
||1961年<br/>[[9月13日]]
||14:09 UTC
||49分20秒
||宇宙船およびアトラス・ロケットの試験。地球を1周
|-
|-
|リトル・ジョー1B号
||[[マーキュリー・スカウト1号]]
| style="text-align:right;" |1960年1月21日
||スカウト
| style="text-align:right;" |8分35秒
||MS-1
|模型の宇宙船に猿を乗せ、マックスQにおける脱出ロケットの試験が行われ成功した。搭乗させたのはミス・サムという名のアカゲザルだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=212}}。高度15キロメートルに到達。
||1961年<br/>[[11月1日]]
||15:32 UTC
||44秒
||宇宙船追跡網の試験
|-
|-
|海岸での脱出ロケット発射
||[[マーキュリー・アトラス5号]]
| style="text-align:right;" |1960年5月9日
||アトラス
| style="text-align:right;" |1分31秒
||MA-5
|脱出ロケットのみの発射試験。成功。
||1961年<br/>[[11月29日]]
||15:08 UTC
||3時間20分59秒
||チンパンジーを搭乗させて地球を2周
|-
|-
|マーキュリー・アトラス1号 (MA1)
|style="text-align:right;" |1960年1月29日
| style="text-align:right;" |3分18秒
|宇宙船とアトラスの組み合わせとして発射されたが、マックスQを通過するときに爆発して失敗{{sfn|Alexander & al.|1966|p=276}}。重量削減のためにビッグ・ジョー以来アトラスの外殻は薄く作られるようになっていたが、これが機体崩壊の原因を招いた。次のアトラスは一時的対応として機体が強化されたが、一方で残りのものはビッグ・ジョーと同じ機体特性で製造された{{sfn|Catchpole|2001|p=243}}。
|-
|リトル・ジョー5号
| style="text-align:right;" |1960年11月8日
| style="text-align:right;" |2分22秒
|実機の宇宙船を使用しての初の脱出ロケット試験を行ったが、失敗した。宇宙船との接合部が空気抵抗で変形した上に配線が間違っていたため脱出ロケットが予定よりも早く点火し、さらに発射ロケットから切り離すことにも失敗した{{sfn|Catchpole|2001|p=248}}。接合部はその後[[ロケットスレッド]]で検査された{{sfn|Catchpole|2001|p=248}}。高度16キロメートルに到達{{sfn|Alexander & al.|1966|p=291}}。
|-
|マーキュリー・レッドストーン1号 (MR1)
| style="text-align:right;" |1960年11月21日
| style="text-align:right;" |2秒
|実機の宇宙船を使用してのマックスQにおける性能試験を行う予定だったが失敗。配線が誤っていたため点火後2秒でレッドストーンのエンジンが停止し{{sfn|Alexander & al.|1966|p=298}}、ロケットは10センチメートル上昇してまた発射台に戻った{{sfn|Alexander & al.|1966|p=294}}{{refn|group=n|レッドストーンのエンジン停止直後に脱出ロケットが点火し、ロケットと宇宙船を発射台に残したまま高度1,200メートルまで上昇して300メートル離れた場所に落下した。また脱出ロケットが点火してから3秒後に宇宙船のドローグシュートが展開し、さらにメインパラシュートが開いた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=294}}。}}。
|-
|マーキュリー・レッドストーン1A号 (MR1A)
|style="text-align:right;" |1960年12月19日
| style="text-align:right;" |15分45秒
|マーキュリー・レッドストーンの組み合わせとしての性能試験を行い、成功。MRとしての初の飛行。空母[[ヴァリー・フォージ (空母)|ヴァリー・フォージ]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=297}}。高度210キロメートルに到達{{sfn|Alexander & al.|1966|p=310}}。
|-
|マーキュリー・レッドストーン2号 (MR2)
| style="text-align:right;" |1961年1月31日
| style="text-align:right;" |16分39秒
|ハムという名の[[チンパンジー]]を乗せて弾道飛行を行う。USSドナー (LSD-20) {{sfn|Alexander & al.|1966|p=316}}がケープ・カナベラル南東679キロメートル沖合で回収{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638-639}}。
|-
|マーキュリー・アトラス2号 (MA2)
| style="text-align:right;" |1961年2月21日
| style="text-align:right;" |17分56秒
|マーキュリー・アトラス接続部の試験。USS''ドナー''{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=321–322}}がケープ・カナベラル南東2,305キロメートル沖合で回収。
|-
|リトル・ジョー5A号
|style="text-align:right;" |1961年3月18日
| style="text-align:right;" |23分48秒
|実機の宇宙船を使用しての2度目の脱出ロケット試験。一部成功。予定より14秒早く脱出ロケットが点火し、宇宙船を発射ロケットから切り離すことに失敗した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=327}}。
|-
| {{Nowrap|マーキュリー・レッドストーンBD号
|style="text-align:right;" |1961年3月24日
| style="text-align:right;" |8分23秒
|レッドストーン最後の試験飛行 (BDはBooster Development、『ロケットの開発』の意味){{sfn|Alexander & al.|1966|p=330}}。
|-
|マーキュリー・アトラス3号 (MA3)
| style="text-align:right;" |1961年4月25日
| style="text-align:right;" |7分19秒
|[[ロボット]]の飛行士{{refn|飛行士と同じ体温と水蒸気、CO<sub>2</sub>を発生させる機械{{sfn|Catchpole|2001|p=309}}。|group=n}}を乗せての軌道飛行 (弾道飛行より向上){{sfn|Alexander & al.|1966|p=335}}{{sfn|Catchpole|2001|p=275}}を行う予定だったが失敗。軌道に乗らないことが分かった時点で破壊された。模型の宇宙船は回収され、MA4で再使用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=337}}。
|-
|リトル・ジョー5B号
| style="text-align:right;" |1961年4月28日
| style="text-align:right;" |5分25秒
|実機の宇宙船を使用しての3度めの脱出ロケット試験。成功。リトル・ジョー計画の終了。
|-
|colspan=4|(1961年5月~7月、有人弾道飛行)
|-
|マーキュリー・アトラス4号 (MA4)
| style="text-align:right;" |{{Nowrap|1961年9月13日}}
| style="text-align:right;" |1時間49分20秒
|ロボットの飛行士を搭乗させての軌道上における環境制御装置の試験。成功。地球を1周し、データを地上に送信。計画における初の軌道飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=386-387}}。[[バミューダ諸島]]東方283キロメートルの洋上でUSS[[ディケーター (DD-936)]] が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=389}}。
|-
|マーキュリー・スカウト1号 (MS1)
| style="text-align:right;" |1961年11月1日
| style="text-align:right;" |44秒
|宇宙船追跡ネットワークの検査を試みるも失敗。誘導システムが故障した後に中止される{{sfn|Alexander & al.|1966|p=397}}。追跡ネットワークのデータはMA4とMA5のものが流用された{{sfn|Catchpole|2001|p=312}}。
|-
|マーキュリー・アトラス5号 (MA5)
| style="text-align:right;" |1961年11月29日
| style="text-align:right;" | {{Nowrap|3時間20分59秒}}
|エノスという名のチンパンジーを搭乗させての環境制御装置の試験を行い、成功。軌道を2周し、同装置が人間を搭乗させても十分に機能することを証明した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=404}}{{refn|group=n|エノスは与えられた信号に正しい反応をしたかどうかにより、褒美としてバナナの小丸薬をもらうか弱い電気ショックを受けたが、正しい反応をしたのに間違えて電気ショックを食らうことがあった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=405}}。}}。マーキュリー・アトラス最後の試験飛行。バミューダ南東410キロメートルの洋上でUSSストームス{{sfn|Alexander & al.|1966|p=406}}が回収した{{sfn|Grimwood|1963|p=169}}。
|-
|colspan=4|(1962年2月~1963年5月、有人軌道飛行)
|}
|}
<br clear="all">

== 有人飛行 ==
言うまでもなく、この計画の最大の目的はアメリカが[[ソ連]]に先駆けて'''史上初の有人宇宙飛行'''を実現させる事にあった。しかし有人飛行達成のわずか3週間前の[[1961年]][[4月12日]]、ソ連の[[ボストーク]]1号による[[ユーリイ・ガガーリン]]少佐の有人飛行が行われ、[[スプートニク]]に続いてアメリカは[[宇宙開発競争]]においてソ連に敗れる事になった。

=== 宇宙飛行士 ===
[[File:Mg-MSFC-6415627.jpg|thumb|200px|管制室でMR-3の回収作業にあたる[[ウェルナー・フォン・ブラウン]]博士とゴードン・クーパー飛行士。[[1961年]][[5月5日]]]]
アメリカ人として最初に宇宙に乗り出す宇宙飛行士は、110もの軍関係の飛行士の集団の中から、飛行経験や体力試験などにもとづいて選抜された。[[1959年]][[4月9日]]、NASAはそれらの中から、「[[マーキュリー・セブン]]」の名で知られる7名の飛行士を選び出したことを発表した。彼らのうち実際に飛行したのは6名だけで、スレイトン飛行士だけは[[心臓]]に持病を抱えているとの理由で地上待機を命ぜられた(彼が宇宙に行ったのは、発表から16年後の[[1975年]]に行われた『[[アポロ・ソユーズテスト計画]]』であった)。
[[File:Project Mercury-Mercury Seven-Astronauts.jpg|left|thumb|200px|アトラス・ロケットの模型を前にする「マーキュリー・セブン」たち。左からグリソム、シェパード、カーペンター、シラー、スレイトン、グレン、クーパー。[[1962年]][[7月12日]]]]
マーキュリー・セブンの飛行士は、以下のとおりである。
* '''[[スコット・カーペンター|マルコム・スコット・カーペンター]]'''(Malcolm Scott Carpenter [[1925年]] - [[2013年]])、[[アメリカ海軍|海軍]]出身
* '''[[ゴードン・クーパー|レロイ・ゴードン・クーパーJr.]]'''(Leroy Gordon "Gordo" Cooper Jr. [[1927年]] - [[2004年]])、[[アメリカ空軍|空軍]]出身
* '''[[ジョン・ハーシェル・グレン|ジョン・ハーシェル・グレンJr.]]'''(John Herschel Glenn Jr. [[1921年]] - )、アメリカ初の軌道周回飛行に成功。1998年に[[向井千秋]]の同乗していた[[STS-95]]で世界最年長宇宙飛行士の新記録を更新。[[海兵隊]]出身
* '''[[ガス・グリソム|ヴァージル・イワン・ガス・グリソム]]'''(Virgil Ivan "Gus" Grissom [[1926年]] - [[1967年]])着水時に宇宙船が水没して死にかける。[[アポロ1号]]の火災事故で死亡。空軍出身
* '''[[ウォルター・シラー|ウォルター・マーティー・ウォーリー・シラーJr.]]'''(Walter Marty "Wally" Schirra Jr. [[1923年]] - [[2007年]])、海軍出身
* '''[[アラン・シェパード|アラン・バートレット・シェパードJr.]]'''(Alan Bartlett Shepard Jr. [[1923年]] - [[1998年]])、アメリカ初の宇宙飛行士。海軍出身
* '''[[ドナルド・スレイトン|ドナルド・ケント・ディーク・スレイトン]]'''(Donald Kent "Deke" Slayton [[1924年]] - [[1993年]])、[[1962年]]に心臓に持病があることが理由で地上待機を命ぜられるが、[[1972年]]に復帰。[[1975年]]の[[アポロ・ソユーズテスト計画]]で初飛行。空軍出身

アラン・シェパードが搭乗した第1号機が「フリーダム(自由)7」と命名されたのをきっかけに、飛行士たちは自らの宇宙船に、彼らのチームワークと結束を確認するための独自の称号を、7の数字とともに与えた。


<gallery widths="220" heights="180">
12号まで計画されていたが、月への到達を目指す[[アポロ計画]]、その準備段階である[[ジェミニ計画]]への移行により途中で打ち切られた。
File:Launch of Little Joe 1B, January 21, 1960.jpg|ミス・サムを乗せて発射台を離れるリトル・ジョー1B。1960年
File:Escape rocket of Mercury-Redstone 1-crop.jpg|発射中止後に点火してしまったMR1の脱出ロケット。1960年
File:Chimpanzee Ham in Biopack Couch for MR-2 flight MSFC-6100114.jpg| MR2のハム。1961年
File:Enos-mercury-5.png|MA5のエノス。1961年
</gallery>


===キャンセルされた計画===
<br clear="all">
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:90%;"
{| class="wikitable"
|-
|-
!計画名
! style="width:120px;"|計画名
! style="width:90px;"|識別名
!通称名
! style="width:90px;"|飛行士
!使用ロケット
! style="width:140px;"|予定発射日
!番号
! style="width:100px;"|キャンセル<br />決定日時
!飛行士
! 備考
!発射日
!発射時間
!飛行時間
!特記事項
|-
|-
||[[マーキュリー・レッドストン3]]
|マーキュリー・ジュピタ1
|
||フリーダム(自由)7<br/>(Freedom 7)
|
||レッドストーン
|
||MR-3
|1959年<br />1月1日{{sfn|Grimwood|1963|p=81}}
||シェパード
|
||[[1961年]]<br/>[[5月5日]]
||14:34 UTC
||15分28秒
||アメリカ初の有人宇宙飛行(弾道飛行)
|-
|-
||[[マーキュリー・レッドストン4]]
|マーキュリー・ジュピタ2
|
||リバティ・ベル(自由の鐘)7<br/>(Liberty Bell 7)
|チンパンジー
||レッドストーン
|1960年1~3月期
||MR-4
|1959年<br />1月1日{{sfn|Grimwood|1963|p=81}}
||グリソム
|宇宙船の最大動圧試験を行うことが提案されていた<ref name="MJ2" />
||1961年<br/>[[7月21日]]
||12:20 UTC
||15分37秒
||二度目の弾道飛行。<br/>着水後、ハッチが開いて海水が進入<br/>したため宇宙船は水没
|-
|-
||[[マーキュリー・アトラ6]]
| {{Nowrap|マーキュリー・レッドトーン5}}
|
||フレンドシップ(友情)7<br/>(Friendship 7)
|グレン<br />(予定)
||アトラス
|1960年3月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
||MA-6
|1961年8月{{sfn|Cassutt|Slayton|1994|p=104}}
||グレン
| rowspan="4"|他の4飛行士らによる弾道飛行が計画されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}。
||[[1962年]]<br/>[[2月20日]]
||14:47 UTC
||4時間55分23秒
||アメリカ初の地球周回飛行。<br/>(地球を3周)。<br/>計器の表示に異常があったため、<br/>逆噴射ロケットを装着したまま<br/>[[大気圏]]に再突入
|-
|-
||[[マーキュリー・アトラ7]]
|マーキュリー・レッドトーン6
|
||オーロラ7<br/>(Aurora 7)
|
||アトラス
|1960年4月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
||MA-7
|1961年7月{{sfn|Cassutt|Slayton|1994|p=101}}
||カーペンター
||1962年<br/>[[5月24日]]
||12:45 UTC
||4時間56分15秒
||スレイトンが搭乗する予定だったが、<br/>カーペンターに変更。地球を3周。<br/>着水点が予定より402kmずれる
|-
|-
||[[マーキュリー・アトラ8]]
|マーキュリー・レッドトーン7
|
||シグマ7<br/>(Sigma 7)
|
||アトラス
|1960年5月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
||MA-8
|
||シラー
||1962年<br/>[[10月3日]]
||12:15 UTC
||9時間13分11秒
||各種技術的実験を実施。地球を6周
|-
|-
||[[マーキュリー・アトラ9]]
|マーキュリー・レッドトーン8
|
||フェイス(信仰)7<br/>(Faith 7)
|
||アトラス
|1960年6月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
||MA-9
|
||クーパー
||[[1963年]]<br/>[[5月15日]]
||13:04 UTC
||1日10時間19分49秒
||アメリカ初の1日以上の宇宙滞在で<br/>あるとともに、最後の単独宇宙飛行<br/>地球を22周
|-
|-
||[[マーキュリー・アトラス10号]]
|マーキュリー・アトラス10号
||フリーダム7-II
| ''フリーダム7-II''
|シェパード
||アトラス
||MA-10
|1963年10
|1963年<br />6月13日
||シェパード
|3日間の飛行を予定{{refn|group=n|1962年11月、耐熱保護板に追加の補給物資を取りつけて3日間の飛行を行うことが計画された。1963年1月までに、マーキュリー・アトラス9号の代替案として1日の飛行に変更されたが、9号が成功したことによりキャンセルされた{{sfn|Catchpole|2001|pp=385-386}}。}}。
||
||
||
||1963年10月に発射し3日間宇宙に<br/>滞在する予定だったが、<br/>同年[[6月13日]]に計画が中止
|-
|-
||[[マーキュリー・アトラス11号]]
|マーキュリー・アトラス11号
||
|
|グリソム
||アトラス
|1963年10~12月期
||MA-11
|1962年10月
||グリソム
|1日間の飛行を予定<ref name="Mercury-Atlas 11" />。
||
||
||
||1963年に1日間の宇宙滞在をする<br/>予定だったが、1962年10月に中止
|-
||[[マーキュリー・アトラス12号]]
||
||アトラス
||MA-12
||シラー
||
||
||
||1963年に1日間の宇宙滞在をする<br/>予定だったが、1962年10月に中止
|-
|-
|マーキュリー・アトラス12号
|
|シラー
|1963年10~12月期
|1962年10月
|1日間の飛行を予定<ref name="Mercury-Atlas 12" />。
|}
|}


==後世に与えた影響と遺産==
== 有人飛行をしたマーキュリー宇宙船およびロケットの写真 ==
[[File:Mercury profile.jpg|center|thumb|500px|有人飛行をしたマキュリー]]
[[File:Gordon cooper ticker tape.png|thumb|upright=0.85|ゴードン・クーパのパレド。1963年]]
計画は、開始から最後の軌道飛行までを数えると22ヶ月遅れた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。また12の元請と75の下請け、さらに約7,200の孫請け企業と契約し、従業した人数は200万を数えた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。1969年にNASAが行った試算によれば、費用は総額で3億9,260万ドル ([[インフレ]]<ref name="lafleur20100308" />率を換算すれば17億3,000万ドル) におよび、その内訳は宇宙船開発費が1億3,530万ドル、発射機開発費が8,290万ドル、運営費が4,930万ドル、宇宙船追跡の運用および装置が7,190万ドル、施設費が5,320万ドルであった{{sfn|Wilford|1969|p=67}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=643}}。


マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている{{sfn|Catchpole|2001|p=cover}}。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた{{sfn|Catchpole|2001|p=417}}{{refn|国際ルールでは飛行士は宇宙船とともに安全に着陸しなければならないと定められている。ガガーリンは実際には[[射出座席]]で宇宙船から離れ、パラシュートで着地した。ソ連は1971年に彼らの主張に文句がつけられることがなくなるまで、これを受け入れなかった{{sfn|Siddiqi|2000|p=283}}。|group=n}}。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて{{refn|スプートニク1号の発射をさかのぼること5ヶ月の1957年5月、後に主契約企業となるマクドネル社の社長は有人宇宙飛行は1990年までに実現することはないだろうと予言した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=119}}。|group=n}}、[[ジョン・F・ケネディ]]が大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=272}}。''フリーダム7''の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとして{{sfn|Alexander & al.|1966|p=434}}マーキュリー計画を支持することを選んだ{{sfn|Alexader & al.|1966|p=306}}{{refn|フリーダム7の発射当日は、アメリカ中の道路で運転手たちが車を停めてラジオで中継を聞いた。後に初の地球周回飛行を行ったフレンドシップ7では、約1億人がテレビやラジオで中継を見、また聞いた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=423}}。シグマ7とフェイス7の発射の様子は、[[通信衛星]]を経由して西ヨーロッパにライブで中継された<ref name=Telstar/>。アメリカの大手3大メディアでシグマ7の発射を刻々と報道したのは2局で、残る1局は[[ワールドシリーズ]]の開幕戦を中継していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=472}}。|group=n}}。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=363}}。飛行した6人のパイロットは勲章を受け{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=362, 435, 459, 486, 502, 584}} パレードで行進し、また2名は[[アメリカ合衆国議会合同会議]]に招かれ演説した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=435, 501}}。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし{{sfn|Catchpole|2001|p=447}}、メディアによってマーキュリー13と命名された{{sfn|Catchpole|2001|pp=447–448}}{{refn|このことは当時のソ連の指導者[[フルシチョフ]]に、1963年6月16日に史上初の女性宇宙飛行士[[ワレンチナ・テレシコワ]]を飛行させるきっかけを与えた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=506}}。|group=n}}。このような努力にも関わらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=448}}。
== マーキュリー計画の徽章 ==

{{要出典範囲|マーキュリー計画の各種飛行における徽章と称するものは、一般にいくらでも入手が可能である。実際のところ、それらのほとんどは計画が終了してからずっと後になって個人の事業家によって作られたもので、本物と言えるのは、ジェミニ計画が行われている時に飛行士らによってデザインされたものだけである。また飛行中に実際に飛行士が身につけていたのは、NASAのロゴが入った名札だけだった。一方で宇宙船には徽章のようなものが描かれていたので、それが真の意味におけるマーキュリー計画の表象であると言える。
1964年、ケープ・カナベラルの第14複合発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された<ref name="Monument" />。1962年、[[アメリカ合衆国郵便公社]]はMA6の飛行を称え、マーキュリー[[記念切手]]を発行した。有人宇宙飛行を描いた[[切手]]が発行されるのはこれが初めてのことであった<ref name="GlennStamp" />。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された<ref name="GlennStamp" />。[[2011年]]5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行''フリーダム7''の50周年の記念切手を発行した<ref name="ShepardStamp" />。映像表現においては、同計画は[[1979年]]の[[トム・ウルフ]]の小説『[[ライトスタッフ]]』を元に[[1983年]]に製作された同名の[[映画]]で描写されている<ref name="IMdBRightStuff" />。2011年[[2月25日]]、世界最大の技術専門家協会である[[IEEE]] (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業である[[ボーイング]]に、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した<ref name="BoeingMedia" />{{refn|ボーイングはこの賞を、マーキュリーの先駆的な"航法および制御装置、[[オートパイロット]]、速度安定および制御、[[フライ・バイ・ワイヤ]]システム"などを開発した功績により受賞した<ref name="BoeingMedia"/>。|group=n}}。
|date=2012年8月}} 

<gallery widths="340" heights="230" align="center">
File:Project Mercury Pad14.jpg|14番複合発射施設のマーキュリー記念碑。1964年
File:Project_Mercury_4¢_US_Postage_stamp_February_20,_1962_FDC_Scott_-1193.jpg|マーキュリー記念4セント切手{{refn|group=n|この切手は1962年2月20日、ジョン・グレンが''フレンドシップ7''で飛行した当日に発行された。この写真の切手にはケープ・カナベラル郵便局の発行日当日の消印が押されており、[[初日カバー]]と成っている。}}
</gallery>

===展示===
<gallery widths="185" heights="145">
File:Freedom 7 U.S. Naval Academy.JPG|[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]に展示されている''フリーダム7''。2010年
Liberty Bell 7 The Kansas Cosmosphere and Space Center.JPG|カンザス・コスモスフィア宇宙センターに展示されている''リバティ・ベル7''。2010年
Friendship 7 the National Air and Space Museum.JPG|[[国立航空宇宙博物館]]に展示されている''フレンドシップ7''。2009年
Aurora 7 the Museum of Science and Industry in Chicago.JPG|[[シカゴ科学産業博物館]]に展示されている''オーロラ7''。2009年
MA-8 Sigma 7 Astronaut Hall of Fame, Titusville, FL.JPG|合衆国宇宙飛行士栄誉殿堂に展示されている''シグマ7''。2011年
MA-9 Faith 7 Space Center Houston, Houston, TX.JPG|[[ヒューストン宇宙センター]]に展示されている''フェイス7''。2011年
</gallery>

===計画の記章===
記念表彰は計画終了後に[[起業]]家たちが収集家を満足させるために制作した<ref name="patches" />{{refn|マーキュリーの飛行士たちが制作した唯一の表彰は、NASAのロゴと名札だけだった<ref name="patches"/>。有人飛行をした各機体は黒で塗装され、飛行の記章と識別名、アメリカ国旗およびUnited Statesの文字だけが描かれた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}。|group=n}}。
<gallery widths="90" heights="90">
Freedom 7 insignia.gif
Mercury 4 - Patch.jpg
Mercury 6 - Patch.jpg
Aurora 7 patch.png
Mercury-8-patch.png
Mercury 9 - Patch.jpg
</gallery>

==画像==
===飛行士の配置===
<gallery widths="780" heights="360">
AstronautAssignmentsChart-Mercury7.PNG|マーキュリー7の飛行士たちの配置表。シラーが3回と最も多くの飛行を割り当てられている。グレンは最も早くNASAを離れたが、1998年にスペースシャトルSTS-95で最後の飛行をしている<ref name=Glenn1998/>。シェパードは7人の中で唯一月面を歩いた男である。
</gallery>

===追跡ネットワーク===
<gallery widths="630" heights="370">
Mercury Tracking Network 2.png| MA8の飛行経路および追跡ステーション。宇宙船はフロリダのケープ・カナベラルカら発射され、東に向かって飛行する。新しい軌道は地球の自転の影響で左のほうにそれぞれずれていく。軌道は北緯32.5°と南緯32.5°の間を移動する{{sfn|Catchpole|2001|p=128}}。1~6は軌道番号、黄色は発射地点、黒点は追跡ステーション、赤はステーションの追跡可能範囲、青は着陸地点を表す。</gallery>

===宇宙船解剖図===
<gallery widths="365" heights="260">
Mercury Spacecraft.png|宇宙船内部
Mercury-spacecraft-control.png|宇宙船のヨ-、ピッチ、ロールの3つの回転軸
</gallery>

===計器板と操縦桿===
<gallery widths="420" heights="300">
File:Control panels mercury atlas 6.png|''フレンドシップ7''の計器板{{sfn|Unknown|1962|p=8}}。計器板は飛行によって変化したが、その中で中央を占める望遠鏡の表示スクリーンは最後の飛行では除かれた
File:Three-axis hand controller mercury project.jpg|姿勢制御装置の3軸操縦桿
</gallery>

===発射施設===
<gallery widths="450" heights="250">
File:Launch-complex-14.png|発射直前の第14複合発射施設 (整備塔は移動済み)。発射準備作業は防護室 (blockhouse) で行われる。
</gallery>

===地上着陸システム試験===
<gallery widths="500" heights="380">
File:Mercury-project-earth-landing-system-test.png|着水および回収訓練のため模型の宇宙船を落下させる際の手順。システムの個々の段階の試験と併せて、56種類のこのような品質試験が行われた。パラグライダーを使用する代替案も提案されたが、模型の試験では行われなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=172-173}}。
</gallery>

===宇宙計画の比較===
<gallery widths="430" heights="330">
File:NASA spacecraft comparison.jpg|アポロ (最大)、ジェミニ、マーキュリー (最小) の、宇宙船およびロケットのNASAによる比較図。
</gallery>

==注記==
{{reflist|30em
| group = n
| colwidth =
| refs =
}}

==参考文献==
{{reflist|20em|refs=
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==外部リンク==
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* [http://www.youtube.com/watch?v=SbzcYuyvZag Project Mercury - 1963 NASA Space Program Documentary (Video)]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[スペース・カウボーイ]](冒頭の、有人飛行が動物実験に切り替えられる旨の言い渡しは初期の無人飛行計画を指す)
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== 外部リンク ==
{{アメリカ合衆国の有人宇宙計画}}
{{Commonscat|Mercury program}}
{{NASA space program}}
* [http://www-pao.ksc.nasa.gov/kscpao/history/mercury/mercury.htm NASA(KSC)のマーキュリー計画の解説]
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* [http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/yujin_yuj05.html JAXAによる解説]
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2015年6月26日 (金) 14:10時点における版

マーキュリー計画
期間 1958年–1963年
実施国 アメリカ合衆国
目標 有人宇宙飛行
結果 完遂
アメリカ初の有人宇宙飛行:
宇宙飛行士
搭乗員数 1名
使用ロケット アトラスレッドストーン、リトル・ジョー
受注企業 マクドネル・エアクラフト (宇宙船製造)
経費 16億ドル (2010年現在の貨幣価値に換算)
後続計画 ジェミニ計画およびアポロ計画
対抗者 ボストーク計画 (ソビエト連邦)

マーキュリー計画1959年から1963年にかけて実施された、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画である。これはアメリカとソビエト連邦の間でくり広げられた宇宙開発競争の初期の焦点であり、人間地球周回軌道上に送り安全に帰還させることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。計画は、空軍から事業を引き継いだ新設の非軍事機関NASAによって実行され、20回の無人飛行 (実験動物を乗せたものを含む)、およびマーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ初の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。

宇宙開発競争は、1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号を発射したことにより始まった。この事件はアメリカ国民に衝撃を与え、その結果NASAが創設され、当時行われていた宇宙開発計画は文民統制の下で推進されることとなった。1958年、NASAは人工衛星エクスプローラー1号の発射に成功し、次なる目標は有人宇宙飛行となった。

だが初めて人間を宇宙に送ったのは、またしてもソ連であった。1961年4月、史上初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの乗るボストーク1号地球を1周した。この直後の5月5日、アメリカ初の宇宙飛行士アラン・シェパードが搭乗するマーキュリー・レッドストーン3号弾道飛行を行った。同年8月、ソ連はゲルマン・チトフを飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。アメリカが衛星軌道に到達したのは翌1962年2月20日のことで、ジョン・グレンが地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。

マーキュリー宇宙船を設計したのは、マクドネル・エアクラフト社であった。円錐の形状をした船内は完全に与圧され、酸素、食料などの補給物資を約1日間にわたり飛行士に供給した。打ち上げはフロリダ州ケープ・カナベラル空軍基地で行われ、発射機にはレッドストーンミサイルまたはアトラスDミサイルを改良したロケットが使用された。また宇宙船の先には、ロケットが故障するなどの緊急事態が発生した際に飛行士を安全に脱出させるための緊急脱出用ロケットが取りつけられていた。飛行手順は、追跡および通信の基地である有人宇宙飛行ネットワークを経由して地上からコントロールされるように設計されていたが、機内にもバックアップのための制御装置が搭載されていた。帰還の際には、小型の逆噴射用ロケットを点火して軌道から離脱した。また機体の底部には溶融式の耐熱保護板が取りつけられており、大気圏再突入時の高温から宇宙船を守った。最終的にはパラシュートが開いて海上に着水し、近隣にいる海軍の艦船のヘリコプターが宇宙船と飛行士を回収した。

計画名は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス (Mercurius, マーキュリー) からつけられた。マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億ドル (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。

開始当初こそ屈辱的な失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。この後の二人乗りの宇宙船を使用するジェミニ計画では、月飛行で必要となる宇宙空間でのランデブーやドッキングが実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。さらにアポロ計画の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。

創設

マーキュリー計画が公式に承認されたのは1958年10月7日、また公表されたのは同年12月7日のことであった[1][2]。当初の計画名が「宇宙飛行士計画 (Project Astronaut)」だったことからも分かるとおり、アイゼンハワー (Dwight D. Eisenhower ) 大統領の最大の関心は宇宙飛行士の選定にあった[3]。その後古代神話に基づいてマーキュリーの名が与えられたが、これはSM-65ミサイルにギリシャ神話の神「アトラス」、PGM-19ミサイルにローマ神話の神「ジュピター」の名をつけたようにすでに先例があった[2]。また当時空軍で予定されていた同じ目的を持つMISS (Man In Space Soonest, 人間をできる限り早く宇宙へ) 計画は、マ計画に吸収されることとなった[4][n 1]

背景

1957年に発射されたスプートニク1号の複製

第二次世界大戦終了後に米ソの間でくり広げられた核開発競争は、長距離ミサイルの開発へと発展していった[6]。また同時に両極は、気象データの収集、通信諜報などを目的とする人工衛星の製造にも着手したが、そのほとんどは機密事項とされていた[7]。そのため米国民は1957年10月にソ連が史上初の人工衛星を打ち上げたことにより、アメリカが宇宙開発でソ連に遅れをとっているのではないかという懸念、いわゆる「ミサイル・ギャップ論争」に陥ることとなった[8][7]。さらに拍車をかけるように、一ヶ月後ソ連はスプートニク2号を軌道上に到達させた。この犬は生きて地球に回収されることはなかったが、彼らの目的が有人宇宙飛行にあることは明らかであった[9]。これを受けアイゼンハワー大統領は、非軍事および科学目的の宇宙開発計画を担当する文民組織を創設することを命じた。シビリアン・コントロールとしたのは、宇宙開発の中で軍事目的に関わるものはその詳細を明らかにすることができなかったからである。連邦研究機関のアメリカ航空諮問委員会 (National Advisory Committee for Aeronautics, NACA) をアメリカ航空宇宙局 (National Aeronautics and Space Administration, NASA) と名称を改め[10]1958年に設立されたこの新組織は、同年中にアメリカ初の人工衛星を打ち上げるという最初の課題を達成した。次なる目標は、人間を宇宙に送り込むことであった[11]

この当時、宇宙とは地表から高度100キロメートル以上の空間と定義されていた。そこに到達するためには、強力なロケットを使用する以外に手段はなかった[12][13]。これは搭乗する飛行士が、爆発の危険性や強いG (加速度)、大気圏を突破するときの振動[14]、さらに大気圏再突入の際の華氏10,000度 (摂氏5,540度) を超える高温などの様々な危険にさらされることを意味していた[15]

宇宙空間では、飛行士には呼吸をするために与圧室や宇宙服が必要とされる[16]。またそこでは、平衡感覚を喪失させるおそれのある無重量状態も経験することになる[17]。この他にも宇宙線微小隕石の衝突にさらされる危険がある。放射線も隕石も、通常は分厚い大気の層にさえぎられて地表に到達することのないものである[18]。だがこれらはすべて、克服することは可能であると考えられた。まずそれまでの衛星発射の経験から、隕石に衝突する可能性は無視できるほどのものであると予想された[19]。また1950年代初期に行われた航空機を使用しての人工無重力実験や高Gの人体実験、さらに動物を宇宙空間に送っての観察結果などは、これらの問題はすべて技術によって対処できることを示唆していた[20]。さらに大気圏再突入に関しては大陸間弾道弾を使って研究が行われていた[21]が、これによれば宇宙船が減速する際に発生する熱のほとんどは、鈍角の (先端が尖っていない) 耐熱保護板を機体の前面に置くことで解消できることが明らかになっていた[21]

組織と施設

マーキュリー計画における製造施設と管制施設の位置
ワロップス
アイランド
ハンプトン
ジョンスビル
クリーブランド
グリーンベルト
ケープ・カナベラル
ハンツビル
セントルイス
アラモゴード
サンディエゴ
ロサンゼルス

1958年10月1日、NASAが正式に発足し、キース・グレナン (T. Keith Glennan) が初代長官に、ヒュー・ドライデン (Hugh L. Dryden, 前NACA長官) が副長官に任命された[22]。グレナンから大統領への報告は、国立航空宇宙評議会 (National Aeronautics and Space Council) を通して行われることになっていた[23]。NASAの組織内においてマーキュリー計画に責任を持つのは「スペース・タスク・グループ (Space Task Group)」と呼ばれる集団で、その計画の目的は有人宇宙船を地球周回軌道に乗せ、宇宙空間での飛行士の能力や身体機能を観察し、搭乗員と宇宙船を安全に帰還させることであった[24]。既存の技術や使用可能な装置は何でも利用され、また機体の設計においては最もシンプルで信頼のおける方法が試みられ、革新的な実験計画とともに現存するミサイルが発射機として活用された[24]。宇宙船に要求される機能には、以下のようなものがあった。すなわち、1. 異常事態が発生したときに宇宙船と飛行士を発射用ロケットから分離させる緊急脱出用ロケット 2. 軌道上で宇宙船の姿勢をコントロールするための姿勢制御用ロケット 3. 宇宙船を軌道から離脱させるための逆噴射用ロケット 4. 大気圏再突入の際の空気力学的抵抗に耐えうる機体設計 5. 着水装置 である[24]。飛行中の宇宙船と交信するためには、広範な通信ネットワークシステムを作る必要があった[25]。当初アイゼンハワーはアメリカの宇宙計画に過度に軍事色を持たせることを望まなかったため、マーキュリー計画を国家の最優先事項に置くことをためらっていた。このためマ計画は「DXレーティング」という国防計画の優先事項の順位では軍事計画の後に置かれることになったが、この順位は1959年5月には逆転した[26]

マーキュリー宇宙船開発の入札には12社が参加した[27]。1959年1月、マクドネル・エアクラフト社が2,000万ドルで落札し、宇宙船設計の主契約企業に選ばれた[28]。この2週間前、ロサンゼルスに本拠を置くノースアメリカン社が、緊急脱出用ロケット開発に使用される小型ロケット「リトル・ジョー」の製作設計の契約を獲得していた[29][n 2]。飛行中の宇宙船と地上との交信に必要な世界的な通信網の開発には、ウェスタン・エレクトリック社 (Western Electric Company) が任命された[30]。弾道飛行に使用されるレッドストーンロケットの製作はアラバマ州ハンツビルクライスラー社が[31]、また軌道飛行に使用されるアトラスロケットの製作はカリフォルニア州サンディエゴコンベア社が担当した[32]。有人ロケット発射場には、フロリダ州ケープカナベラル空軍基地の中にある大西洋ミサイル基地が空軍によって準備された[33]。またここは総合司令センターでもあり、一方で通信連絡に関する管制センターはメリーランド州ゴダード宇宙飛行センターに配置された[34]。リトル・ジョーの発射実験はヴァージニア州ワロップス島で行われた[35]。宇宙飛行士の訓練はヴァージニア州のラングレー研究所オハイオ州クリーブランドグレン研究センターおよびウォーミンスター海軍航空軍事センター英語版で実施された[36]。空力の研究にはラングレー研究所の風洞実験所[37]およびニューメキシコ州アラモゴードホロマン空軍基地英語版にあるロケットスレッド施設が使用された[38]。宇宙船の着水システムの開発には海軍と空軍両方の航空機が使用される[39]一方で、海上に帰還した宇宙船の回収には海軍の艦船と海軍及び海兵隊のヘリコプターが使用された[n 3]。またケープカナベラルの南にあるココアビーチという町が、にわかに注目をあびることになった[41]。1962年にこの町からアメリカ初の軌道周回飛行への発射を見守った人は、およそ7万5,000人であった[41]

宇宙船

マーキュリー宇宙船の設計責任者は、NACA時代から有人宇宙飛行の研究に携わっていたマキシム・ファジェット (Maxime Faget) であった[42]。機体の高さは3.3メートル、直径は1.8メートルで、緊急脱出用ロケットを加えると全体の高さは7.9メートルになった[43]。居住空間の容積は2.8立方メートルで、飛行士一人が入り込むのが精一杯だった[44]。また船内には55個のスイッチと30個のヒューズ、35個の機械式レバーの、総計120個の制御機器があった[44]。機体の重量は、計画中で最も重かったマーキュリー・アトラス9の場合では1,400キログラムだった[45]。船体の外殻は高温に耐えることができるレネ41というニッケル合金で作られていた[46]

宇宙船は円錐の形状をしており、先端部分には首状の部分があった[43]。底部には凸面状の耐熱保護板が取りつけられており (下図の2を参照) [47]、その内部はグラスファイバーで何層にも覆われたアルミニウムハニカム構造になっていた[48]。また熱保護板には、帰還の際に宇宙船を減速させるための3基の逆噴射ロケット(1) [49]がストラップで固定されていた[50]。3基の逆噴射ロケットの間には、発射の最終段階で機体をロケットから分離し軌道に投入するための小型ロケットがあった[51]。ストラップは逆噴射ロケット使用後に切断され、不要になったロケットは機体から切り離された[52]。熱保護板のすぐ上には与圧された船室があり (3)[53]、船内では飛行士は体の形に合わせた座席にシートベルトでしばりつけられた。飛行士の目の前には計器板が、背中には熱保護板があり[54]、また座席の直下には環境制御装置が設置されていた。この装置は酸素の供給と船内の気温の調整をし[55]二酸化炭素水蒸気および臭いの除去を行い、さらに軌道上での尿の採取などをした[56][n 4]。先端部には回収装置が納められている区画 (4)[58] があり、内部には減速用のドローグシュート1本とメインパラシュート2本が格納されていたが、メインのうちの1本は予備であった[59]。熱保護板と船内の底部の隔壁の間にはエアバッグが納められており、着水直前に展開させて衝撃を和らげた[60]。回収装置のさらにその先にはアンテナ区画 (5)[61] があり、通信用と宇宙船追跡用の2基のアンテナが格納されていた[62]。また帰還の際に熱保護板が正しく進行方向を向くように姿勢を安定させるフラップも設置されていた[63]。宇宙船の前方に取りつけられている緊急脱出用ロケット (6) には、3基の固体燃料ロケットが装備されていた[64]。発射が失敗した際には緊急脱出用ロケットが短時間だけエンジンを噴射し、宇宙船を迅速かつ確実に発射用ロケットから遠ざけ、機体が海面に接近するとパラシュートが展開し着水した[65] (詳しい手順については計画の詳細を参照)。

船内での飛行士

マーキュリー宇宙服を着用するジョン・グレン

船内では飛行士は耐熱保護板を背にし、椅子に座った姿勢であお向けに横たわっていた。地上での実験では、発射時や大気圏再突入時の高Gに耐えるにはこの姿勢が最適であることが判明していた。またファイバーグラス製の座席は、宇宙服を着たときの飛行士の体型にぴったり合うように特注されたものであった。飛行士の左手には緊急脱出用ロケットの操作レバーがあり、発射前あるいは発射中に非常事態が発生し、なおかつロケットが自動点火しなかった場合には、飛行士自身がこのレバーを引いて脱出した[66]

宇宙服には、船内の環境制御装置の他に独自の生命維持装置が付属しており、酸素の供給や体温の調節などを行うことができた[67]。船内の空気には、5.5重量ポンド毎平方インチ (37.921ヘクトパスカル) の純粋酸素が使用された[68]。一方でソ連の宇宙船では、地上の大気と同じ1気圧の酸素と窒素の混合気を使用していた。NASAがこの方式を選択したのは、こちらのほうが制御しやすく、減圧症 (潜水病とも言われる) の危険を避けることができ[69][n 5]、宇宙服の重量を減らせたからである。火災が発生した際には (実際には一度も起らなかったが)、船内から酸素をすべて排出することによって消火した[56]。またそのような事態に限らず、何らかの理由で船内の気圧がゼロになってしまったような場合でも、飛行士は宇宙服に保護されて地球に帰還することができた[70][56]ヘルメットバイザーは、飛行中は上げた状態にされていた。これは宇宙服の中が通常は与圧されていないことを意味する[56]。もしバイザーを下ろして服の中を与圧すると、宇宙服は風船のようにふくらんでしまい、重要なスイッチが配置されている左側の計器板にかろうじて手が届くだけという状態になってしまった[71]

飛行士には、胸部に心拍数を計測するための電極、腕には血圧を計測するための加圧帯、体温を測定するための直腸体温計がつけられ (最後の飛行では口中体温計に改められた[72])、測定値はリアルタイムで地上に送られた[67]。また水は普通に飲み、丸薬状の食料も摂ることができた[73][n 6]

軌道に乗ると、宇宙船は中心軸に沿ったもの (ロール)、左右方向 (ヨー)、上下方向 (ピッチ) の3つの軸に沿って回転させることができた[74]。機体の制御は過酸化水素を燃料とする小型ロケットエンジンで行った[75] [76]。また正面にある窓または潜望鏡によって位置を確認することができた。潜望鏡は360°回転させることができ、その画像は目の前のスクリーンに映し出された[77]

宇宙船の開発には飛行士たち自身も関わり、機体の制御と窓の設置は絶対に譲れない条件であると主張した[78]。その結果、宇宙船の運動およびその他の機能は3つの方法によってコントロールされることとなった。1つは地上からの中継によるもの、1つは船内の機器によって自動的に行われるもの、最後は飛行士ら自身による制御で、飛行士の操作は他の2つよりも最優先されるものとなった。マーキュリー最後の飛行で飛行士のゴードン・クーパーは手動で大気圏に再突入したが、これは飛行士による操作ができるようにしていなければ実現不可能なものであり、その有効性が結果によって確認されることとなった[79]

開発と製造

セントルイスのマクドネル社における宇宙船の製造

NASAは1958年から1959年にかけ、三度にわたってマーキュリー宇宙船の設計を変更した[80]。宇宙船の入札終了後の1958年11月、NASAは提出されていた設計案のうちの「C案」を採用した[81]が、1959年7月の試験飛行が失敗した後、最終形態の「D案」が浮上した (下図参照)[82]。耐熱保護板の形状についてはそれより以前に、1950年代の弾道ミサイルの実験を通して開発が進められていた。それによれば先端を鈍角の形状にすれば、発生した衝撃波が宇宙船の周囲の熱のほとんどを逃がしてくれることが明らかになっていた[83]。また熱保護の対策をさらに進めるために、ヒートシンクまたは溶融剤のいずれかを保護板に添加することが検討された[84]。ヒートシンクとは保護板の表面に無数の細かい穴を開け、そこから空気を噴射して熱を逃がすという方式である。一方で溶融剤とは保護板の表面にわざと熱で溶ける物質を塗り、それを蒸発させることにより熱を奪う[85]というもので、無人試験がくり返された後、後者のほうが採用されることとなった[86]。宇宙船の設計と並行して X-15のような既存のロケット機状の形態も検討されていた[87]が、この方式は宇宙船に採用するには技術的にまだあまりにも遠かったため、最終的に除外された[88][n 7]。熱保護板や機体の安定性については風洞試験がくり返され[37]、後には実際に飛行させて試験された[91]。緊急脱出用ロケットは無人で試験飛行が行われた[92]。パラシュートは開発が難航したためロガロ翼ハンググライダーのような形式も検討されたが、最終的に却下された[93]

宇宙船はミズーリ州セントルイスにあるマクドネル・エアクラフト社工場内のクリーンルームで製造され、同所の真空室で試験された[94]。600近くある下請け企業の中には、宇宙船の環境制御システムを製造したギャレット・エアリサーチ (Garrett AiResearch) 社などもあった[28][55]。最終品質検査および最終準備は、ケープ・カナベラルのS格納庫で行われた[95][n 8]。NASAは20機の製造を発注し、それぞれ1番から20番までの番号がふられた[28]が、10、12、15、17、19番の機体は飛行することはなかった[97]。また3番機と4番機は無人飛行試験の際に破壊された[97]。11番機は大西洋の底に沈んだ[97]が、38年後に回収された[98]。宇宙船の中には脱出システムを修正したり長時間の滞在ができるようにするなど、初期の段階から改良が加えられたものもあった[n 9]。さらに数多くのモックアップ (宇宙船としての機能は搭載していない、飛行を目的とはしない性能試験のための模型) がNASAおよびマクドネルによって製造され[101]、回収装置や緊急脱出用ロケットの試験のために使用された[102]またマクドネルは飛行士の訓練のためのシミュレーターも製作した[103]

発射機

左からマーキュリー・アトラス、マーキュリー・レッドストーン、リトルジョー

マーキュリー計画では2種類の発射用ロケットが使用された[104][n 10]。最も重要なのは、軌道飛行に使用されるAtlas LV-3B (アトラスD) ロケットであった。アトラスは1950年代半ばにコンベア社が空軍のために開発した[105]もので、酸化剤には液体酸素 (LOX) を、燃料にはケロシンを使用していた[106]。ロケット自体の全高は20メートルだが、宇宙船と緊急脱出用ロケットを加えると (ロケットと宇宙船の接合部を含む) 29メートルになった[107]。第1段は2基のエンジンからなるスカート部で、ロケット本体から燃料と液体酸素を供給され[106]、発射時には中央の本体ロケットとともに燃焼ガスを噴射し[106]、宇宙船を軌道に投入するのに十分な推力を発生させた[106]。第1段切り離し後は中央の本体ロケットが燃焼を続けた。本体ロケットにはスラスターが装備されジャイロスコープに従って動作した[108]。この2基の小型ロケットは本体側面に設置され、より正確に機体を誘導することを可能にした[106]。外殻はきわめて薄いステンレスで作られているため、機体がゆがんだりしないよう常に燃料またはヘリウムガスで内部から圧力をかけておく必要があった[109]。これは燃料の重量の2パーセントまで機体の重量を削減できることを意味していた[109]。またアトラスDは元々は核弾頭を搭載するために設計されていたので、それより重量のある宇宙船を乗せるためには機体をさらに強化することが求められた[51]。また内蔵された誘導システムは、大型化した機体に合わせて位置を変えなければならなかった[51]。マーキュリー計画後期にはLGM-25C (タイタンII) ミサイルの使用も検討されたが、時期的に間に合わなかった[110][n 11]。アトラスはケープ・カナベラルまでは空輸され、発射台までは台車で運ばれ[112]、発射台に到着したら整備塔のクレーンで台車とともに垂直に立たされ、複数のクランプで台に固定された[113][112]

もう一つの有人飛行用発射機は1段式で高さ25メートル (宇宙船と緊急脱出用ロケットを含む) のマーキュリー・レッドストーンロケットで、弾道飛行に使用された[114]。燃料はアルコール、酸化剤に液体酸素を使用する液体燃料ロケットだったが推力はわずか34トンしかなかったため、宇宙船を衛星軌道に乗せることはできなかった[114]。レッドストーンは1950年代初頭にドイツV2ロケットを改良して陸軍のために開発されたものであり[31]、マーキュリーに流用するにあたっては、先端を取り除いて宇宙船との接合部分を設置し発射時の振動を和らげるための素材を使用するなどの改良が施された[115]。ロケットエンジンを製作したのはノースアメリカンで、フィンを作動させることによって進行方向を制御した。その方法は二つあり、一つは機体の底部についている翼を作動させるもの、もう一つはノズルのすぐ下にあるフィンを作動させて燃焼ガスの流れを変えるというものであった (もちろん、この二つを同時に使用することもあった)[31]。アトラスとレッドストーンのどちらにも不具合を感知する自動中止装置が搭載されており、何か異常が発生した場合には自動的に緊急脱出用ロケットを点火するようになっていた[116]。弾道飛行用には当初はレッドストーンの類縁であるジュピターミサイルの使用が検討されたが、1959年7月に予算の問題によりレッドストーンに決定された[117][118]

この他に高さ17メートルのリトル・ジョーと呼ばれる小型ロケットも使用された。これは宇宙船と脱出用ロケットをともに搭載し、脱出装置の性能を無人でテストするためのものだった[119][120]。その主要な目的は、空気抵抗が最大になり宇宙船をロケットから分離させることが最も困難になる、マックスQ (最大空力温度) と呼ばれる瞬間にシステムを作動させることだった[121]。またマックスQは、飛行士が最も激しい振動にさらされる瞬間でもあった[122]。リトル・ジョーは固体燃料ロケットを使用し、1958年にNACAによって有人弾道飛行を目的として設計されたが、マーキュリー計画でアトラスDの発射をシミュレートすることを目的に再設計された[92]。機体の製作はノース・アメリカンが行った[119]。発射後に飛行方向を制御する機能は持っていなかったため、発射台を傾けることで目標方向に打ち上げた[123]。最大到達高度はペイロード満載状態で160キロメートルだった[124]。さらにリトル・ジョーのほかに宇宙船追跡ネットワークを検証するためスカウトロケットが一度だけ使用されたことがあったが、発射直後に打ち上げが失敗し地面に激突して機体は破壊された[125]

宇宙飛行士

左からグリソム、シェパード、カーペンター、シラー、スレイトン、グレン、クーパー。1962年

1959年4月9日、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られる以下の[126]7名の宇宙飛行士を発表した[127]

1961年5月にシェパードは弾道飛行に成功し、宇宙に行った初めてのアメリカ人となった[128]。彼はアポロ14号でも飛行し、マーキュリー・セブンの中で唯一月面に降り立った[129]。グリソムはアメリカ人として二番目に宇宙に行き、その後のジェミニ計画およびアポロ計画にも参加したが、1967年1月にアポロ1号の事故で死亡した[130]。グレンは1962年2月に地球周回軌道に到達した初めてのアメリカ人となり、その後NASAを引退して政治家となったが、1998年にスペースシャトルSTS-95で飛行士として復活した[131]。スレイトンは健康上の理由でマーキュリーにはついに搭乗できず、1962年からは職員としてNASAに残ったが、1975年アポロ・ソユーズテスト計画で飛行した[132]。クーパーはマーキュリー最後の飛行で同計画の中では最も長く宇宙に滞在し、またジェミニ計画でも飛行した[133]。カーペンターはマーキュリーが唯一の宇宙飛行となった。シラーはマーキュリーでの3度目の地球周回飛行に搭乗し、ジェミニ計画にも参加した。またその3年後のアポロ7号でも船長を務め、マーキュリー、ジェミニ、アポロの3つの計画で宇宙に行った唯一の飛行士となった。

飛行士らの任務の中には広報活動も含まれており、彼らは報道陣のインタビューに答え、計画に関わる施設を訪れ職員と会話をした[134]。移動を容易にするために、飛行士らはジェット戦闘機の使用を要求した[135]。マスコミの間ではジョン・グレンが最も受けが良く、セブンの代表であるかのように見なされていた[136]。飛行士らはライフ誌に手記を売り、同誌は彼らを愛国的で信心深い家族思いの男であると描写した[137]。飛行士が宇宙にいる間、彼の家に入り家族と接触することが許されたのはライフだけだった[137]。計画中、グリソム、カーペンター、クーパー、シラー、スレイトンらはラングレー空軍基地内またはその近辺で家族とともに過ごしたが、グレンは同基地に単身赴任し週末にワシントンD.C.にいる妻子のところに戻った。シェパードはバージニア州オセアーナ海軍航空基地英語版で家族とともに生活した[138]

飛行士の選抜と訓練

宇宙飛行士の資格を満たす者は、当初はあらゆるリスクを引き受ける覚悟がある男あるいは女であれば誰でもよいだろうと思われていた[139]が、アイゼンハワーの主張により、アメリカ人で最初に宇宙に乗り込む者は当時508名いたテストパイロットの中から選抜されることになった[140]。しかしながら軍のテストパイロットの中には女性はいなかったため、必然的に飛行士はすべて男性で構成された[3]。またこのときNACAでX-15のテストパイロットをしていた、後に人類初の月面着陸をすることになるニール・アームストロングは、民間人であるという理由で除外された[3][n 12]。さらに選抜条件の中には、25歳から40歳までで身長1メートル80センチ以下、さらに科学または技術の分野で学位を持っていることという項目が加えられた[3]。学位の条件が追加されたことにより、実験機X-1の飛行士で人類で初めて音速を突破したチャック・イェーガーなども除外されることになった[142]。イェーガーは後にマーキュリー計画に対しては批判的になり、特に猿を使って実験したことをひどく軽蔑した[142][n 13]気球で高度31,330メートルの成層圏からスカイダイビングをした世界記録 (当時) を持つジョゼフ・キッティンジャーはすべての条件をクリアしていたが、彼が当時関わっていた超高空ダイビングのプロジェクトを進行させることを選んだため応募しなかった[142]。有資格者の中には、有人宇宙飛行がマーキュリー計画の後にも継続されるとは信じられなかったため辞退した者たちもいた[142][n 14]。508名の中から110名が面接で選ばれ、さらにその中から32名が体力および心理テストでふるい分けられた[145]。残った候補者は健康面、視力、聴力が検査され、騒音、振動、加速度、孤独環境、熱などに対する耐性も検査された[146]。特殊な隔離室では、混乱した状況の中で課題をこなす能力があるかを調べられた[146]。また候補者たちは自身に関する500以上の質問を受け、様々な画像を表示され何が見えるかを答えさせられた (白紙を見せられることもあった) [146]。ジェミニおよびアポロで飛行したジム・ラヴェルは、体力試験で落とされた[142]。これらの試験の後、最終的には6名まで絞り込む予定だったが、7名のままにすることになった[147]

飛行士らが受けた訓練の中には、選抜試験の項目と重複するものもあった[36]。海軍航空開発センターにある遠心加速器では、発射および帰還時に経験する重力加速度の変化をシミュレーションし、6G以上の加速度を受けたときに必要とされる特殊な呼吸法などを習得した[135]。航空機を使用しての無重力訓練も行われ、初期の段階では複座式戦闘機の後部座席を使用し、後期の段階では貨物機の内部を改造し壁や床にマットを敷き詰めたものが使われた[148]。ルイス飛行推進研究所にある「多軸回転試験慣性装置 (Multi-Axis Spin-Test Inertia Facility, MASTIF)」と呼ばれる設備では、船内にある操縦桿を模したコントローラーを使用して宇宙船の姿勢を制御する訓練が行われた[149][150]。この他にもプラネタリウムやシミュレーターを使用して、星や地球を基準にして軌道上で正しく姿勢を制御する方法などを学んだ[151]。通信や飛行手順の訓練にはフライトシミュレーターが使用され、最初の段階ではトレーナーが一対一でサポートし、後の段階では飛行士自身でコントロールセンターと連絡を取る訓練をした[152]。着水訓練にはラングレーのプールが使用され、後には実際に海に出て潜水士がつきながらヘリコプターで回収される訓練が行われた[153]

計画の詳細

弾道飛行の詳細。点線は無重力の期間を表す。

マーキュリー計画には弾道飛行、軌道 (地球周回) 飛行の二種類の飛行計画があった[154]。弾道飛行にはレッドストーンを使用し、2分30秒の燃焼で宇宙船を高度32海里 (59キロメートル) まで上昇させ、ロケット分離後は放物線を描いて慣性で飛行した[155][156]。打ち上げ後は自然に落下してくるため逆噴射ロケットは本来は必要なかったが、性能を検証するために点火された。宇宙船は弾道飛行、軌道飛行ともに大西洋に帰還した[157]。着水後には潜水士が機体に姿勢を安定させるための浮き輪を取りつけることになっていたが、弾道飛行では準備が間に合わなかった[157]。弾道飛行では15分間の飛行で高度102~103海里 (189~102キロメートル)、軌道飛行距離は262海里 (485キロメートル) に到達した[133][158]

計画の準備は主搭乗員と予備搭乗員の選抜よりも1ヶ月先行して行われた。予備搭乗員は主搭乗員に万一のことがあった場合の控えで、すべての訓練を主搭乗員とともに受けた[159]。発射3日前、飛行士は飛行中に排便する可能性を最小限にするために特別食をとりはじめた[160]が、発射当日の朝食にはステーキを食べるのが慣例となっていた[160]。飛行士の体にセンサーをつけ宇宙服を着用させると、船内の環境に適応させるために宇宙服の中に純粋酸素が送り込まれた[161]。発射台にバスで到着すると、飛行士は整備塔に付属するエレベーターでホワイトルームと呼ばれる準備室に行き、作業員に補助され発射の2時間前に宇宙船に乗り込んだ[162][n 15]。飛行士の体をシートベルトで座席に固定するとハッチがボルトで締められ、作業員が撤退し整備塔がロケットから離れた[163]。この後、ロケットのタンクに液体酸素が充填された[163]。発射準備および発射後のすべての進行は、カウントダウン (秒読み) と呼ばれる工程表に沿って行われた。発射1日前に予備秒読みが開始され、ロケットや宇宙船のすべてのシステムが点検される。その後15時間中断され、この間に火工品が充填される。この後、軌道飛行の場合は発射6時間半前 (Tマイナス390) に主秒読みが開始され、発射の瞬間 (T0) の瞬間までは数が少なくなり、発射後は軌道投入の瞬間 (Tプラス5分) まで読み上げが続行された[162][n 16]

軌道飛行の詳細。AからDまでは発射、EからKまでは帰還および着水。

軌道飛行では、アトラスのエンジンは発射4秒前に点火される。ロケットは留め金で固定されており、十分な推力が発生するとフックが外れて発射台を離れる (A) [165]。30秒後に空気抵抗が最大になるマックスQと呼ばれる速度に達し、このとき飛行士は激しい振動にさらされることになる[166]。2分10秒後、第1段のスカート部が切り離される (B)[162]。この時点で緊急脱出用ロケットは必要なくなるので、切り離し用ロケットに点火して投棄される (C).[50][n 17]。ロケットはその後次第に進路を水平に傾け、発射から5分10秒後、高度87海里 (161キロメートル) で宇宙船が軌道に投入される (D)[168]。ちなみにマーキュリーに限らず、世界の多くの国において人工衛星は地球の自転を利用するために東に向かって発射されるのが通例となっている[169][n 18]。ここで3基の切り離し用小型ロケットが1秒間点火され、宇宙船はロケットから離れる[171][n 19]。エンジンを停止する直前には、加速度は8Gに達する (弾道飛行では6G)[166][173]。軌道に投入されると宇宙船は自動的に180° 向きを変え、逆噴射用ロケットを前方にし機首を14.5° 下方に傾けた姿勢になる。機首を下に向けるのは、地上との交信のために必要だからである[174][175][n 20]。いったん軌道に乗ると、宇宙船は帰還のために大気圏再突入をするときを除いて軌道を変更することは不可能になる[177]。地球を1周するのには、通常88分を要する[178]。軌道に投入されるのは近地点と呼ばれる軌道が最も低くなる場所で、高度はおよそ87海里 (161 km) である。逆に最も高くなる (約150海里, 280 km) 場所は遠地点と呼ばれ、地球の反対側になる[158]。帰還の際 (E) には下向きの角度が34° にまで増加される[174]。逆噴射ロケットの燃焼時間は1基が10秒で、一つが点火してからそれぞれ5秒の間隔を置いて次々に噴射される (F)[171][179]。再突入の間 (G)、飛行士には8G (弾道飛行では11から12G) の加速度が加わる[180]。耐熱保護板の周囲の温度は華氏3,000度 (摂氏1,650度) に達し、またこのとき宇宙船の周囲の空気が高温によりイオン化するため、ブラックアウトと呼ばれる通信が途絶する時間帯が2分間ほど発生する[181][52]。再突入後、高度2万1,000フィート (6,400メートル) で姿勢を安定させるためのドローグシュートと呼ばれる小型パラシュートが展開し (H)[62]、その後高度1万フィート (3,000メートル) でメインパラシュートが展開する (I)。ロープにかかる張力を低減させるため最初は小さく開き、数秒後に全開する[182]。着水直前、衝撃を和らげるために耐熱保護板の裏にあるエアバッグが展開される (J)[182]。着水するとパラシュートを切り離し[59]、アンテナが伸ばされ艦船やヘリコプターが追跡できるよう電波ビーコンが発信される (K) [59]。また空から視認しやすくさせるため、緑色の染料が宇宙船の周囲に流される[59][n 21]。ヘリが到着すると、潜水士が姿勢を垂直に保つための浮き輪を機体に取りつける[184]。先端部にワイヤーがひっかけられると飛行士が爆発ボルトのスイッチを入れてハッチを吹き飛ばし[58]、飛行士と宇宙船はともにヘリによってホイスト (つり上げ) されて回収される[n 22]

地上管制

A look inside the Mercury Control Center, Cape Canaveral, Florida. Dominated by the control board showing the position of the spacecraft above ground
ケープ・カナベラルの管制センター内部 (マーキュリー・アトラス8)

マーキュリー計画を支える人員は通常1万8,000人前後で、そのうち回収作業に関わったのはおよそ1万5,000人だった[187][188][n 23]。その他の人員のほとんどは、世界中にはりめぐらされた宇宙船追跡ネットワークに関わっていた。追跡ネットワークは赤道上に置かれた18の基地からなるもので、1960年中には完成していた人工衛星追跡網を基礎にしていた[190]。その主な役割は宇宙船からデータを収集することと、飛行士と地上の間の双方向の通信を提供することだった[191]。各基地は700海里 (1,300キロメートル) 離れており、宇宙船がその間を通過するには通常7分を要した[192]。また他の飛行士たちには宇宙船通信担当官 (Capsule Communicator, CAPCOM) の任務が割り当てられ、軌道上にいる飛行士との通信連絡を担当した[193][194][n 24]。宇宙船から送られてきたデータはゴダード宇宙センターで処理された後にケープ・カナベラルのマーキュリー管制センターに送られ[195]、管制室にある世界地図の両側に表示された。地図上には宇宙船の現在位置と、緊急事態が発生した場合に30分以内に帰還できる位置が示されていた[175][n 25]

飛行

マーキュリー計画における着水点
/
ケープ・カナベラル
ハワイ
フリーダム7
リバティ・ベル7
フレンドシップ7
オーロラ7
シグマ7
フェイス7

1961年4月12日、ソ連のユーリ・ガガーリンが地球周回飛行に成功し、人類初の宇宙飛行士となった[198]。その3週間後の5月5日、アラン・シェパードが弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった[128]。アメリカが地球周回飛行に成功したのは1962年2月20日のことで、マーキュリー3人目の飛行士ジョン・グレンが軌道に到達したが、これ以前の1961年8月にはソ連の2人目の飛行士ゲルマン・チトフがすでに1日間の飛行に成功していた[199]。マーキュリーでは1963年5月16日までにさらに3度の発射が行われ、最後の飛行では1日間で地球を22周した[133]ものの、その翌月に行われたボストーク計画最後の飛行ボストーク5号では、ほぼ5日間で地球を82周する当時の最長記録を打ち立てていた[200]

有人飛行

マーキュリーにおける有人飛行はすべて成功裏に終了した[133]。主な医療的問題は、単純な個人衛生と飛行後の起立性低血圧が発生しただけだった[187]。発射用ロケットは無人試験の段階から継続して使用されてきたため、有人飛行の計画番号は1からは始まらなかった[201]。また2種類の異なるロケットが使用されたため、飛行計画にもMR (マーキュリー・レッドストーン、弾道飛行) とMA (マーキュリー・アトラス、軌道飛行) の2種類の名称が与えられることになったが、飛行士たちはパイロットの伝統に従っておのおのの宇宙船に独自に名前をつけていたため、MR、MAの名称は一般的には用いられることは少なかった。また飛行士らが与えた名称には、7名の宇宙飛行士を記念して末尾に"7"がつけられた[50][126]。マーキュリー・レッドストーンはケープカナベラル空軍基地第5複合発射施設から、マーキュリー・アトラスはケープ・カナベラル空軍基地第14複合発射施設から打ち上げられた。時計には現地時間よりも5時間進んでいる協定世界時が使用された。

データ[202]
計画 識別名 飛行士 発射時間 飛行時間 地球周回
回数
遠地点
(km)
近地点
(km)
最大速度
(km/h)
予定着水点
との誤差
(km)
マーキュリー・レッドストーン3号
(MR3)
フリーダム7 シェパード 1961年5月5日
14時34分
15分22秒 0 188 8,262 5.6
マーキュリー・レッドストーン4号
(MR4)
リバティ・ベル7 グリソム 1961年7月21日
12時20分
15分37秒 0 190 8,317 9.3
マーキュリー・アトラス6号
(MA6)
フレンドシップ7 グレン 1962年2月20日
14時47分
4時間55分23秒 3 261 161 28,234 74
マーキュリー・アトラス7号
(MA7)
オーロラ7 カーペンター 1962年5月24日
12時45分
4時間56分5秒 3 269 161 28,242 400
マーキュリー・アトラス8号
(MA8)
シグマ7 シラー 1962年10月3日
12時15分
9時間13分15秒 6 283 161 28,257 7.4
マーキュリー・アトラス9号
(MA9)
フェイス7 クーパー 1963年5月15日
13時04分
1日
10時間19分49秒
22 267 161 28,239 8.1
備考
マーキュリー・レッドストーン3号 アメリカ初の有人宇宙飛行[128]空母レイク・シャンプレインが回収[17]
マーキュリー・レッドストーン4号 回収作業中に不意にハッチが開いたため海水が浸入して沈没[203][n 26]。空母ランドルフが回収作業に当たる[204]
マーキュリー・アトラス6号 アメリカ初の地球周回飛行[205]。逆噴射ロケットを装着したまま大気圏に再突入[206][n 27]フリゲート艦ノア (Noa) が回収[208]
マーキュリー・アトラス7号 スレイトンに替わりカーペンターが飛行[209][n 28]駆逐艦ファラガットが回収[211]
マーキュリー・アトラス8号 最も狂いなく計画通りに進行した[212]。操縦テストを実行[213]。空母キアサージが回収[214]
マーキュリー・アトラス9号 アメリカ初の1日以上の宇宙滞在[215]。アメリカ最後の単独での宇宙飛行[n 29]。空母キアサージが回収[79]
回収方法の違い MA6では宇宙船と飛行士がヘリコプターによって直接ホイストされた (釣り上げられた) 。MA8では宇宙船と飛行士が船まで曳航された。MA9では宇宙船は飛行士を乗せたままヘリで釣り上げられ船まで運ばれた[217]

無人飛行

無人飛行ではリトル・ジョー、レッドストーン、アトラスが使用され[126]、発射機、脱出システム、宇宙船および追跡ネットワークの開発が行われた[218]。地上追跡ネットワークを試験するため1度だけスカウト・ロケットを使用して無人機の発射が試みられたが、失敗して軌道に到達することはなかった。リトル・ジョーを使用したものでは8度の飛行で7機の機体が打ち上げられ、そのうちの3度が成功した。2度目のリトル・ジョーの飛行にはリトル・ジョー6の名称が与えられたが、これは最初の5機がすでに他の飛行に割り当てられた後で計画に挿入されたことによるものであった[219][160]

計画名 発射日時 飛行時間 備考[220]
リトル・ジョー1号 1959年8月21日 20秒 失敗。緊急脱出用ロケットの試験を行う予定だったが、電気系統の故障のため発射30分前に脱出ロケットが点火してしまい、ロケット本体を地上に残したまま宇宙船と脱出ロケットが発射されてしまった[221]
ビッグ・ジョー1号 1959年9月9日 13分00秒 一部成功。耐熱保護板およびアトラスと宇宙船の接続部分のテストが行われた。マーキュリー・アトラスとしては実質的にこれが初めての飛行となった[126]。ケープ・カナベラル南東2,407キロメートルの洋上でUSSストロングが回収[222]。高度105キロメートルに到達し、耐熱保護板の性能が検証された[91]
リトル・ジョー6号 1959年10月4日 5分10秒 宇宙船の空力特性および総合試験。一部が成功。追加の試験は行われなかった[223]
リトル・ジョー1A号 1959年11月4日 8分11秒 宇宙船の模型を使用して飛行中における脱出ロケットの試験が行われ、一部が成功。ロケットが点火した時間が予定より10秒遅れた[224]。ワロップス島南東18.5キロメートル沖合でUSSオポチューンが回収[225]
リトル・ジョー2号 1959年12月4日 11分6秒 脱出ロケットの試験として霊長類を乗せて行われ、成功した。サムという名のアカゲザルを搭乗させ、高高度に到達させた[224]。ヴァージニア州ワロップス島南東312キロメートル沖合でUSSボリーが回収。高度85キロメートルに到達[226]
リトル・ジョー1B号 1960年1月21日 8分35秒 模型の宇宙船に猿を乗せ、マックスQにおける脱出ロケットの試験が行われ成功した。搭乗させたのはミス・サムという名のアカゲザルだった[227]。高度15キロメートルに到達。
海岸での脱出ロケット発射 1960年5月9日 1分31秒 脱出ロケットのみの発射試験。成功。
マーキュリー・アトラス1号 (MA1) 1960年1月29日 3分18秒 宇宙船とアトラスの組み合わせとして発射されたが、マックスQを通過するときに爆発して失敗[228]。重量削減のためにビッグ・ジョー以来アトラスの外殻は薄く作られるようになっていたが、これが機体崩壊の原因を招いた。次のアトラスは一時的対応として機体が強化されたが、一方で残りのものはビッグ・ジョーと同じ機体特性で製造された[229]
リトル・ジョー5号 1960年11月8日 2分22秒 実機の宇宙船を使用しての初の脱出ロケット試験を行ったが、失敗した。宇宙船との接合部が空気抵抗で変形した上に配線が間違っていたため脱出ロケットが予定よりも早く点火し、さらに発射ロケットから切り離すことにも失敗した[38]。接合部はその後ロケットスレッドで検査された[38]。高度16キロメートルに到達[230]
マーキュリー・レッドストーン1号 (MR1) 1960年11月21日 2秒 実機の宇宙船を使用してのマックスQにおける性能試験を行う予定だったが失敗。配線が誤っていたため点火後2秒でレッドストーンのエンジンが停止し[231]、ロケットは10センチメートル上昇してまた発射台に戻った[232][n 30]
マーキュリー・レッドストーン1A号 (MR1A) 1960年12月19日 15分45秒 マーキュリー・レッドストーンの組み合わせとしての性能試験を行い、成功。MRとしての初の飛行。空母ヴァリー・フォージが回収[233]。高度210キロメートルに到達[96]
マーキュリー・レッドストーン2号 (MR2) 1961年1月31日 16分39秒 ハムという名のチンパンジーを乗せて弾道飛行を行う。USSドナー (LSD-20) [234]がケープ・カナベラル南東679キロメートル沖合で回収[235]
マーキュリー・アトラス2号 (MA2) 1961年2月21日 17分56秒 マーキュリー・アトラス接続部の試験。USSドナー[236]がケープ・カナベラル南東2,305キロメートル沖合で回収。
リトル・ジョー5A号 1961年3月18日 23分48秒 実機の宇宙船を使用しての2度目の脱出ロケット試験。一部成功。予定より14秒早く脱出ロケットが点火し、宇宙船を発射ロケットから切り離すことに失敗した[237]
マーキュリー・レッドストーンBD号 1961年3月24日 8分23秒 レッドストーン最後の試験飛行 (BDはBooster Development、『ロケットの開発』の意味)[238]
マーキュリー・アトラス3号 (MA3) 1961年4月25日 7分19秒 ロボットの飛行士[n 31]を乗せての軌道飛行 (弾道飛行より向上)[240][241]を行う予定だったが失敗。軌道に乗らないことが分かった時点で破壊された。模型の宇宙船は回収され、MA4で再使用された[242]
リトル・ジョー5B号 1961年4月28日 5分25秒 実機の宇宙船を使用しての3度めの脱出ロケット試験。成功。リトル・ジョー計画の終了。
(1961年5月~7月、有人弾道飛行)
マーキュリー・アトラス4号 (MA4) 1961年9月13日 1時間49分20秒 ロボットの飛行士を搭乗させての軌道上における環境制御装置の試験。成功。地球を1周し、データを地上に送信。計画における初の軌道飛行[243]バミューダ諸島東方283キロメートルの洋上でUSSディケーター (DD-936) が回収[244]
マーキュリー・スカウト1号 (MS1) 1961年11月1日 44秒 宇宙船追跡ネットワークの検査を試みるも失敗。誘導システムが故障した後に中止される[245]。追跡ネットワークのデータはMA4とMA5のものが流用された[246]
マーキュリー・アトラス5号 (MA5) 1961年11月29日 3時間20分59秒 エノスという名のチンパンジーを搭乗させての環境制御装置の試験を行い、成功。軌道を2周し、同装置が人間を搭乗させても十分に機能することを証明した[247][n 32]。マーキュリー・アトラス最後の試験飛行。バミューダ南東410キロメートルの洋上でUSSストームス[249]が回収した[250]
(1962年2月~1963年5月、有人軌道飛行)

キャンセルされた計画

計画名 識別名 飛行士 予定発射日 キャンセル
決定日時
備考
マーキュリー・ジュピター1号 1959年
1月1日[251]
マーキュリー・ジュピター2号 チンパンジー 1960年1~3月期 1959年
1月1日[251]
宇宙船の最大動圧試験を行うことが提案されていた[252]
マーキュリー・レッドストーン5号 グレン
(予定)
1960年3月[253] 1961年8月[254] 他の4飛行士らによる弾道飛行が計画されていた[253]
マーキュリー・レッドストーン6号 1960年4月[253] 1961年7月[255]
マーキュリー・レッドストーン7号 1960年5月[253]
マーキュリー・レッドストーン8号 1960年6月[253]
マーキュリー・アトラス10号 フリーダム7-II シェパード 1963年10月 1963年
6月13日
3日間の飛行を予定[n 33]
マーキュリー・アトラス11号 グリソム 1963年10~12月期 1962年10月 1日間の飛行を予定[257]
マーキュリー・アトラス12号 シラー 1963年10~12月期 1962年10月 1日間の飛行を予定[258]

後世に与えた影響と遺産

ゴードン・クーパーのパレード。1963年

計画は、開始から最後の軌道飛行までを数えると22ヶ月遅れた[187]。また12の元請と75の下請け、さらに約7,200の孫請け企業と契約し、従業した人数は200万を数えた[187]。1969年にNASAが行った試算によれば、費用は総額で3億9,260万ドル (インフレ[259]率を換算すれば17億3,000万ドル) におよび、その内訳は宇宙船開発費が1億3,530万ドル、発射機開発費が8,290万ドル、運営費が4,930万ドル、宇宙船追跡の運用および装置が7,190万ドル、施設費が5,320万ドルであった[260][261]

マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている[262]。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた[263][n 34]。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて[n 35]ジョン・F・ケネディが大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた[266]フリーダム7の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとして[267]マーキュリー計画を支持することを選んだ[268][n 36]。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した[272]。飛行した6人のパイロットは勲章を受け[273] パレードで行進し、また2名はアメリカ合衆国議会合同会議に招かれ演説した[274]。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし[275]、メディアによってマーキュリー13と命名された[276][n 37]。このような努力にも関わらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった[277]

1964年、ケープ・カナベラルの第14複合発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された[278]。1962年、アメリカ合衆国郵便公社はMA6の飛行を称え、マーキュリー記念切手を発行した。有人宇宙飛行を描いた切手が発行されるのはこれが初めてのことであった[279]。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された[279]2011年5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行フリーダム7の50周年の記念切手を発行した[280]。映像表現においては、同計画は1979年トム・ウルフの小説『ライトスタッフ』を元に1983年に製作された同名の映画で描写されている[281]。2011年2月25日、世界最大の技術専門家協会であるIEEE (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業であるボーイングに、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した[282][n 38]

展示

計画の記章

記念表彰は計画終了後に起業家たちが収集家を満足させるために制作した[283][n 40]

画像

飛行士の配置

追跡ネットワーク

宇宙船解剖図

計器板と操縦桿

発射施設

地上着陸システム試験

宇宙計画の比較

注記

  1. ^ 「人間をできる限り早く宇宙へ」は四段階ある月着陸計画の第一段階であり、1965年中に終了すると予想されていた。経費は総額で15億ドル、また発射用ロケットには「スーパー・タイタン」が使用されることになっていた[5]
  2. ^ 「リトル・ジョー」の名称は、設計図に描かれていた4本のロケットの配置がクラップスという2個のサイコロを振るゲームに類似していたため、開発者たちが命名した[29]
  3. ^ 海軍によれば、1960年夏の段階でNASAが計画していた宇宙船の回収作業は大西洋艦隊のすべての船舶を展開させるというもので、そのための費用はマーキュリー計画にかかる経費の総額を凌駕するものになっただろうとのことであった[40]
  4. ^ 最初の弾道飛行では尿の採取は行われなかった。他の飛行では、宇宙服に排出した尿をためておくための貯蔵器が取りつけられていた[57]
  5. ^ 酸素以外の気体は一切使用しないという決定は、1960年4月21日にマクドネル・エアクラフト社のテストパイロットG. B. ノース飛行士が、マーキュリー宇宙船および宇宙服の性能試験中に減圧室の中で意識を失い重傷を負うという事故が発生した際、批判されることとなった。この事故は窒素を大量に含む (酸素が少ない) 混合気が減圧室内から宇宙服の供給菅に入り込んだことによって発生したことが判明した。[69]
  6. ^ 船内の蒸気や尿は浄化され、飲用水として利用された[44]
  7. ^ ロケット機による宇宙飛行の検討はその後も空軍のダイナソア計画によって踏襲されたが、1963年に中止された[89]。1960年代の終わりごろ、NASAは再使用可能な宇宙機の開発に着手した。これが最終的にスペースシャトル計画につながることとなった。[90]
  8. ^ S格納庫で行われたマーキュリー・レッドストーン2号の修理には110日を要した[96]
  9. ^ 改良機は後に機体番号を2B、15Bと改められた[99]。また中には、二度にわたって改良されたものもあった。たとえば15番機は一度15Aになり、その後15Bとなった[100]
  10. ^ 「マーキュリー・レッドストーン・ブースター開発」のように、発射機自体に対して「ブースター」という用語がしばしば使用されたがこれは例外で、この記事では「ブースター」をマーキュリー・アトラスの1段目のみに使用する。
  11. ^ タイタンはその後のジェミニ計画で使用された[111]
  12. ^ アームストロングは1952年に海軍を退役し、海軍予備役 (Naval Reserve) の中尉になった。予備役には1960年に任務を離れるまでとどまった。[141]
  13. ^ ジョン・グレンも学位は持っていなかったが、選抜委員会に影響力のある友人を利用して合格した[143]
  14. ^ マーキュリー計画の開始当初は、アイゼンハワーとNASAの初代長官グレナンはアメリカが初めて人類を宇宙に送り、それが宇宙開発競争のゴールになると信じていた[144]
  15. ^ 宇宙船の中には、他の飛行士が「ハンドボール禁止」の貼り紙をするなどの悪ふざけをしていることがしばしばあった。[163]
  16. ^ 秒読みは2分前までは発射複合施設にある防護室で制御され、その後コントロールセンターが引き継ぐ。最後の10秒の読み上げはセンターで管制業務をしている宇宙飛行士の一人が行い、すでに待機しているテレビ中継で放映された[164]
  17. ^ これ以前の段階で発射を中止する事態になった場合は緊急脱出用ロケットが1秒間噴射され、宇宙船と飛行士を爆発の可能性があるロケットから遠ざける[65]。この時点で宇宙船はロケットから切り離され、パラシュートで着水する[167]
  18. ^ 軌道投入のための発射方向は真東からわずかに北に向けられていた。これは3回の軌道飛行で追跡ネットワークを最良に機能させ、着水地点を北大西洋上にするための措置であった[170]
  19. ^ ロケットは崩壊しやがて落下する。フレンドシップ7ではロケットの一部が南アフリカで発見された[172]
  20. ^ 軌道上では宇宙船の姿勢は常に変化する、つまり漂流するが、これは姿勢制御システム (attitude control system, ASCS) によって自動的に修正された。ASCSは、過酸化水素から発生した酸素を小さなノズルから噴射した。燃料を節約するため、長い飛行の際などは宇宙船は時によって漂流するままにまかせることもあった[176]
  21. ^ 最初の飛行ではレーダーチャフや回収船の水中聴音器で検知できるようにするためのソーファー (SOFAR) 爆弾と呼ばれる装置も搭載されたが、不必要であることがわかったので以降は排除された[183]
  22. ^ 機首の円筒部分から脱出することも可能で、カーペンターのみが実行した[25][62]。最後の2回の飛行では宇宙船は飛行士を乗せたまま釣り上げられ、飛行士は回収船上でハッチから機外に出た[185]。カーペンターの飛行では空軍の水上機が海軍機よりも1時間半先に着水点に到着し飛行士の収容を申し出たが、回収作業を監督する海軍提督が断った。このことは後に問題となり、上院公聴会で質問されることとなった[186]
  23. ^ グレンの飛行のとき発射ボタンを押したのはT. J. オマリー (T. J. O'Malley) で、カーペンター、シラー、クーパーのときの発射ボタンを押したのは第14発射複合施設の施設長で発射指揮官のカルヴィン・D. フォウラー (Calvin D. Fowler) だった[189][要文献特定詳細情報]
  24. ^ 宇宙船がアメリカ上空にいる間は、地上との通信はしばしばテレビで放映された。
  25. ^ 追跡網は1980年代に衛星追跡システムが完成するまで、その後の宇宙計画でも使用された[196]。またコントロールセンターは1965年にケープ・カナベラルからヒューストンに移転した[197]
  26. ^ 1999年に海中から引き上げられた[98]
  27. ^ フレンドシップ7の発射は2ヶ月間に何度も延期された。フラストレーションのたまったある政治家は、宇宙船とアトラスロケットの組み合わせを「配管工の悪夢以上のルーブ・ゴールドバーグ・マシンだ」と例えた。[207]
  28. ^ カーペンターが着水点を大きく通り過ぎてしまったのは、自動姿勢安定装置が故障し、逆噴射ロケットの噴射方向が宇宙船の動きに合わせてずれてしまったのが原因だった[210]
  29. ^ アレクサンダー&al. によれば、恐らくそうなるであろうと思われる[216]
  30. ^ レッドストーンのエンジン停止直後に脱出ロケットが点火し、ロケットと宇宙船を発射台に残したまま高度1,200メートルまで上昇して300メートル離れた場所に落下した。また脱出ロケットが点火してから3秒後に宇宙船のドローグシュートが展開し、さらにメインパラシュートが開いた[232]
  31. ^ 飛行士と同じ体温と水蒸気、CO2を発生させる機械[239]
  32. ^ エノスは与えられた信号に正しい反応をしたかどうかにより、褒美としてバナナの小丸薬をもらうか弱い電気ショックを受けたが、正しい反応をしたのに間違えて電気ショックを食らうことがあった[248]
  33. ^ 1962年11月、耐熱保護板に追加の補給物資を取りつけて3日間の飛行を行うことが計画された。1963年1月までに、マーキュリー・アトラス9号の代替案として1日の飛行に変更されたが、9号が成功したことによりキャンセルされた[256]
  34. ^ 国際ルールでは飛行士は宇宙船とともに安全に着陸しなければならないと定められている。ガガーリンは実際には射出座席で宇宙船から離れ、パラシュートで着地した。ソ連は1971年に彼らの主張に文句がつけられることがなくなるまで、これを受け入れなかった[264]
  35. ^ スプートニク1号の発射をさかのぼること5ヶ月の1957年5月、後に主契約企業となるマクドネル社の社長は有人宇宙飛行は1990年までに実現することはないだろうと予言した[265]
  36. ^ フリーダム7の発射当日は、アメリカ中の道路で運転手たちが車を停めてラジオで中継を聞いた。後に初の地球周回飛行を行ったフレンドシップ7では、約1億人がテレビやラジオで中継を見、また聞いた[269]。シグマ7とフェイス7の発射の様子は、通信衛星を経由して西ヨーロッパにライブで中継された[270]。アメリカの大手3大メディアでシグマ7の発射を刻々と報道したのは2局で、残る1局はワールドシリーズの開幕戦を中継していた[271]
  37. ^ このことは当時のソ連の指導者フルシチョフに、1963年6月16日に史上初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを飛行させるきっかけを与えた[216]
  38. ^ ボーイングはこの賞を、マーキュリーの先駆的な"航法および制御装置、オートパイロット、速度安定および制御、フライ・バイ・ワイヤシステム"などを開発した功績により受賞した[282]
  39. ^ この切手は1962年2月20日、ジョン・グレンがフレンドシップ7で飛行した当日に発行された。この写真の切手にはケープ・カナベラル郵便局の発行日当日の消印が押されており、初日カバーと成っている。
  40. ^ マーキュリーの飛行士たちが制作した唯一の表彰は、NASAのロゴと名札だけだった[283]。有人飛行をした各機体は黒で塗装され、飛行の記章と識別名、アメリカ国旗およびUnited Statesの文字だけが描かれた[50]

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参考図書

外部リンク

関連項目