X-15 (航空機)

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X-15

X-15

X-15

X-15は、アメリカで開発された高高度極超音速実験機。ノースアメリカン社によって3機が製作された。ジェットエンジンではなくロケットエンジンにより高高度まで上昇出来る能力を持つロケットプレーンであり、この機体で得られた極超音速下での空力特性や熱力学的影響などの研究結果は、やがてはスペースシャトルの開発にまで貢献するようになる。

歴史[編集]

着陸するX-15

X-15の歴史は、第二次世界大戦直後のドイツから始まる。ドイツの敗北と占領によってヴェルナー・フォン・ブラウン博士を含む多数の航空・宇宙技術士を獲得したアメリカは、同時に、当時ドイツの秘密報告書であったゼンガー計画の報告書を手にする。これは大気圏上層をロケットエンジンによってスキップするように飛行し、地球の反対側まで到達して爆撃するという対蹠地爆撃の構想に則ったもので、大陸間弾道ミサイルの開発がまだあまり進んでいなかった時代、その存在は非常に脅威になるものであった。

また同時に、有人宇宙飛行をソビエトと競争するという課題もあり、アメリカはそれに向けて動き出した。

1954年米空軍米海軍NACA(NASAの前身)の三者により、マッハ4以上の極超音速における飛行研究計画が決定した。同年末、各メーカーに要求仕様が提示され、1955年末にベル・エアクラフト社ダグラス社ノースアメリカン社リパブリック社の4社の設計案からノースアメリカンのものが選定された。1956年には、リアクション・モーターズ社のXLR99ロケットエンジンが採用された。だがロケットモーターが間に合わなかったため、初飛行時にはXLR11エンジンを搭載した。1号機の機体は1958年10月15日に完成している(なお、XLR99搭載時にはリアクション・モーターズ社はサイオコール・ケミカル社に合併吸収されている)。[1]

1959年9月17日、専用の空中母機であるNB-52(A、B2機)から滑空テストを行い、その後、XLR11エンジンを使用して初の動力飛行に成功した。1960年3月28日には最初のXLR99がエドワーズ基地に届いていた。それはX-15・3号機に搭載され、6月8日に地上においてのエンジンテストが行われた。だが、XLR99の無水アンモニアタンクの圧力調整弁が故障、爆発を起こした。死傷者は出なかったが機体・エンジンはともに大破。3号機はメーカーのノースアメリカン社で修理されることとなった。1960年には、XLR99を搭載したX-15・2号機が動力飛行を行った。1960年8月4日には1号機がマッハ3.31を達成。8月12日には同じ1号機が飛行高度41,605mを達成した。

X-15の着陸には機体の制限が多く、神経質にならざるを得なかった。機体サイズが小さく、前輪も後部スキッドも短かった。そのために、着陸時にX-15は、下部垂直安定板の一部を切り離して着陸することになった。

1962年11月9日に行われた通算フライト74回目に、2号機が着陸事故を起こした。2号機は修理に伴って改造、胴体や降着装置の延長がなされ、ドロップタンクが搭載可能なX-15A-2となった。

1963年8月22日に行われた91回目のフライトで、ジョセフ・A・ウォーカーの操る機体が高度107,960mに到達した。これがX-15計画中の最高到達高度となった。

1967年10月3日に行われた188回目のフライトで、ウィリアム・J・ナイトの操縦するX-15A-2が最高速度7,274km/h(マッハ6.7)を記録した。なおこの時、将来のスクラムジェット実用化のために実寸大モデルを下部垂直尾翼に装備し、さらに新たに開発された耐熱塗料(蒸発して機体を熱から保護するアブレーション冷却)を塗布した。しかし、この塗料をもってしても機体を守りぬくことはできず、スクラムジェットのモデルは無残に焼失していた。機体は重度の損傷により、引退した。なお、X-15A-2の限界速度はマッハ8と設定されていたが、試験飛行時にその速度を出すことはなかった。

X-15はこれらの記録到達のほかにも、微小隕石の採取や赤外線ラジオメーターを用いた高度21,000m~30,500mからの地球放射の計測などといった学術的な任務にも従事していた。

1967年11月15日に行われた191回目のフライトでは、3号機が高度19,000m付近で空中分解を起こし、パイロットのマイケル・J・アダムス英語版が死亡した。また、機体は完全に破壊された。

1968年10月24日、1号機による199回目のフライトをもってX-15の飛行試験は終了した[1]。現在では1号機がスミソニアン航空宇宙博物館、2号機が国立アメリカ空軍博物館にそれぞれ展示されている。

機体形状[編集]

X-15A-2

X-15のボディはテーパー比の少ない直線翼に、形の断面の全遊動垂直尾翼(胴体上下装備)、水平尾翼を持つブレンデッドウィングボディである。内部はほとんどが推進剤である液体アンモニア液体酸素のタンクで占められており、機体後部にエンジンが搭載される。また、X-15A-2は胴体両側に、機体と同規模の外部ドロップタンクを装備可能である。このタンクはマッハ2前後で投棄され、パラシュートを用いて落下させた後に再使用された。

エンジンは、当初予定されていたXLR99の製造が間に合わず、X-1でも使用されたXLR11を搭載していたため、本来の性能を発揮できなかったが、後半からXLR99エンジンを搭載し、本格的な実験に入っている。推進剤はいずれも液体アンモニアと液体酸素である。

X-15は離陸せず、母機であるNB-52の主翼下に懸架された状態で高度13,870mまで上昇した後に空中発進する形式をとる。降着装置は前輪と後部のスキッドで、着陸の際には下に突き出た垂直尾翼のうち、半分を切り離す。なお、地上では後輪のかわりにドリーで尾部を支えている。

極超音速における空力加熱に対処するため、機体にはチタンステンレスのほか、インコネルXと呼ばれる耐熱ニッケル合金を使用している。また、初期は機首に飛行データ計測用のピトー管を有していたが、後に取り外されている。

操縦系統はエルロンを有さない(ロールの制御は差動式スタビレーターで行う)こと以外は従来のものと変わらないが、超高高度では空気力が小さいため、機首上下左右(ピッチおよびヨーを制御)と主翼両端(ロールを制御)に備えられた人工衛星と同様のRCS(Reaction Control System:姿勢制御小型ロケット)を用いる。

飛行特性はF-104に似ており、そのためF-104がチェイス機を務めることが多かった。また、操作性に関して、X-15のパイロットの一人であったビル・ダナは、X-15は安定した操縦しやすい機体だったと述べているが、同じくX-15のパイロットだったマイケル・O・トンプソン英語版は、X-15は挙動の予測のつかない機体だったといい、そのためX-15を「ブラック・ブル」という非公式の愛称で呼んでいた。

スペック[編集]

X-15 three view diagram.png

寸法・重量と航続距離はX-15A-2のもの。

  • 全長:15.99 m(X-15は15.25m)
  • 全幅:6.8 m
  • 全高:3.55 m
  • 翼面積:18.58 m2
  • 自重:8,320 kg
  • 全備重量:25,460 kg
  • エンジン(いずれも液体アンモニア+液体酸素)
    • 初期:リアクション・モーターズ製XLR11 2基
    • 後期:リアクション・モーターズ製XLR99-RM2(31,750kg / 高度30,000m)1基
  • 最大到達速度:7,274 km/h
  • 最大到達高度:107.970 km
  • 航続距離:450 km

その他[編集]

現在に至るまで、最大速度、最高高度の公式記録を保持している。速度記録としてはスクラムジェットを搭載したX-43A ハイパーXによるマッハ9.68が最高であるが、有人という点ではX-15を凌ぐ有人航空機は現れていない。また高度記録は、国際航空連盟の定める宇宙との境界線100km(カーマン・ライン)を突破しているが、X-Prize スペースシップワンが、非公式にこの記録を上回っている。

なお、計画参加パイロットには、後にアポロ11号で人類初の月面着陸を果たすニール・アームストロングがいるが、マーキュリー・アトラス6号によるジョン・グレンの軌道飛行が熱狂を持って迎えられると、NASAへ早々と移ってしまった。

1959年12月26日に公開された日本特撮映画宇宙大戦争』には、米国・日本所属の宇宙戦闘機として、X-15に酷似したデザインの機体が登場する。デザインを手がけたのは小松崎茂

また、1960年から1963年にかけて少年雑誌「日の丸」に連載された横山光輝漫画少年ロケット部隊』には、主人公たちの乗機として、対宇宙人用戦闘機に改造された航空自衛隊所属のX-15が登場する。

脚注[編集]

  1. ^ a b 「Xプレーンズ」,世界の傑作機No67,文林堂 ISBN 978-4893190642

参考文献・映像資料[編集]

外部リンク[編集]