里見八犬伝 (1983年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
里見八犬伝
Legend of the Eight Samurai
監督 深作欣二
脚本 鎌田敏夫
深作欣二
原作 鎌田敏夫 『新・里見八犬伝』
製作 角川春樹
出演者 薬師丸ひろ子
真田広之
松坂慶子
千葉真一
音楽 NOBODY
主題歌 ジョン・オバニオン
「里見八犬伝」
「八剣士のテーマ (White Light)」
撮影 仙元誠三
編集 市田勇
製作会社 角川春樹事務所
配給 東映
公開 日本の旗 1983年12月10日
台湾の旗 1986年[1]
上映時間 136分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 23億2000万円
テンプレートを表示

里見八犬伝』(さとみはっけんでん、Legend of the Eight Samurai )は、1983年12月10日に封切り公開された日本映画カラービスタサイズ、136分。第2回ゴールデングロス賞の優秀銀賞作品。

製作角川春樹監督深作欣二

解説[編集]

南総里見八犬伝を翻案した鎌田敏夫の『新・里見八犬伝』を映画化した作品。JACによる迫力ある戦い、音楽にはロック英語主題歌特撮など、それまでの時代劇にはなかった斬新なアイデアを取り込み、大型エンターテイメント映画となっている。日本映画で初めて特殊メイクがクレジットに表示された作品でもある[2]

1984年の配給収入では邦画1位の23億2000万円[3]、映画公開と同時に発売された[4]ビデオも5万本、7億円を売り上げた[5][注 1]

ストーリー[編集]

かつて蟇田領主、蟇田定包(ひきたさだかね)は妖婦玉梓 (たまづさ)の色香に迷い、酒池肉林と暴虐の限りを尽くしていた。苦しむ領民の意をくみ取り、里見義実(さとみよしざね)は、彼らを討ちとったが、玉梓は最期に呪いの言葉を遺す。まもなく、玉梓の呪いか里見家は隣国の軍勢に囲まれ落城の危機に瀕す。力尽きた義実は飼い犬の八房(やつふさ)に「敵将の首を討ちとれば娘の伏姫(ふせひめ)を嫁につかわす」と戯言を投げかけ、その夜、八房は見事に敵将の首を討ちとる。君主たるもの約束を違えてはならないと、伏姫を八房と共に山奥へと去らせるが、伏姫を取り戻そうとした義実の軍の鉄砲のせいで、八房をかばった伏姫は死んでしまう。しかし死の直前、伏姫の体から仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の各字を刻んだ八つの霊玉が飛び散り、伏姫は「百年の後、この光の玉は八人の剣士となって蘇り、里見の姫を奉じて玉梓の呪いに打ち勝つでしょう」と言い残す。

百年後、妖怪として蘇った玉梓、息子の素藤(もとふじ)は、里見家を攻め滅ぼす。ただ一人落ち延びた里見家の静姫は、玉梓の追手から逃れ、その野望を砕くため戦いを決意する。このとき姫は犬江親兵衛から炭焼き小屋で食べ物を恵まれ、女と分かり追いかけられるが、犬山道節たちにまもられるなど、それぞれの運命により導かれた八人の剣士が次第に集まる。ところが静姫は、けもの罠にかかりさらわれてしまう。犯人は親兵衛であった。静姫を素藤の許へ連れていく途中、親兵衛は、素藤の支配下の安房国の荒廃を目の当たりにする。ここで黒騎馬侍に静姫が見つかり、親兵衛らは鐘乳洞に逃げ込むが、中にいた道節たちによって親兵衛は放り出された。その後、親兵衛は黒騎馬たちに捕まり、腕の赤いアザから玉梓の子の転生だと教えられ、「御霊様」に仕える司祭・幻人によって悪の化身にされてしまった。だが、素藤配下の侍大将犬飼現八が親兵衛を連れて城を脱出。現八の懐には霊玉が光り、静姫のいる洞で七人目の剣士として迎えられる。一方、目をさました親兵衛がいきなり静姫に襲いかかるが、静姫が「お前に会いたいと思っていた」と話すと、白い閃光が親兵衛を一撃。親兵衛が再び目をさますと腕のアザが消え、二人の間には光り輝く霊玉が現れる。愛し合う二人の前に突如、大蛇が現れて静姫を巻いて去る。霊玉を八個集めた時、伏姫の「この矢を御霊様に向って静姫に引かせなさい」という声が響く。

皆で館山城に向うが、激しい反撃にあい、大広間にたどりつけたのは二人だけ。道節が盾となり、親兵衛が静姫を解き放ち、静姫は御霊様に矢を放つ。玉梓や素藤はミイラと化し、城は崩れ落ちる。こうして親兵衛は、静姫を叔父の城へと届ける。姫と別れた親兵衛が七剣士の墓を祀っているところに、静姫が駆けつけ「城へ戻らぬ」と言う。2人は七剣士の声にはげまされる。

キャスト[編集]

里見家
光の軍団(八剣士)
闇の軍団
その他

スタッフ[編集]


特撮ユニット(特撮研究所
光学アニメーションユニット(デン・フィルム・エフェクト
  • スペシャルエフェクトスーパーバイザー - 佐川和夫
  • 視覚効果 - 中野稔
  • 光学撮影 - 小野寺浩
ビジュアルユニット(東宝映像


製作[編集]

企画[編集]

角川春樹は、東映チャンバラ映画東千代之介中村錦之助主演で1954年から1959年にかけて製作された「里見八犬伝」シリーズ[7]に胸躍らせた世代で[8]、角川が映画製作に参入しようと決意した際、『復活の日』と共に映画化を熱望し[9]、角川映画10年の総決算として映画化に取り組んだ[10]。しかし今さら「里見八犬伝」シリーズのリメイクをやっても仕方ないと考え、曲亭馬琴(滝沢馬琴)の『南総里見八犬伝』を映画化するのではなく、同作を翻案した鎌田敏夫の『新・里見八犬伝』を映画化し[10]、大胆な新しい時代劇を創作した[8]

脚本は早くから取り掛かっており『セーラー服と機関銃』撮影中の1981年夏に脚本は一応完成していた[9]。角川が薬師丸ひろ子の次回作として、真田広之とのコンビで本作を構想し、薬師丸が大学進学なら製作を延ばし、進学しないなら高校三年のとき撮影を計画していた[9]深作欣二に監督オファーを出し、断られたら角川自身で監督をするつもりだった[9]。深作は監督を承諾したが、薬師丸の大学進学が決まったため、製作が先延ばしされた[9]。深作が加わった形で脚本作りが再開され、深作が色々注文を付けてきたため、それをひっくるめて一旦、小説にしたのが鎌田敏夫名義による『新・里見八犬伝』[9]。つまり、先に小説『新・里見八犬伝』があってそれを映画化したというより、脚本製作の途中にまとめた小説『新・里見八犬伝』にさらに手を加えたものが本作[9]。また本来は東宝で製作を予定していたが[11]、1981年夏に『ねらわれた学園』の配給を巡るトラブルで角川と東宝が絶縁状態に陥り[11]、企画自体が東映に移った[11]。東映も製作準備を進めていたが、薬師丸の大学入試などがあり製作がのびのびになり、1983年になってようやく製作が始まった[11]。 

脚本[編集]

角川は脚本の鎌田敏夫に「『南総里見八犬伝』をベースに『レイダース』があり『スター・ウォーズ』があり『フラッシュ・ゴードン』や『アメリカン・グラフィティ』があってほしい」と希望を出し[8][10]、それらの映画を鎌田に観てもらった[9]。角川は脚本の段階でヒロインは薬師丸のイメージしかなく[9]、構造的には、静姫はレイア姫で、親兵衛ルーク[9]。それを汲み入れた脚本第一稿は『魔界転生』と『伊賀忍法帖』を合わせたような話で[8]、脚本第二稿から加わった深作がそれらのモチーフを全て削除し『魔界転生』に近いどろどろした世界に変えた[9][10]。角川は薬師丸と真田のアイドル映画、その時代の最高の人気を二分するアイドルが演じてこそ『里見八犬伝』という基本的な考えをもっていたためこれを拒絶[9]、第三稿が作られたがさほど変わらず。角川は一旦映画を中止すると告げ、深作を外し、鎌田一人で第四稿、あるいは第五稿が作られ、角川が気に入り[8]、ゴーサインを出した[10]。脚本クレジットは鎌田と深作の共同。

キャスティング[編集]

1983年2月1日の『探偵物語』製作発表会見の日に[12]、角川が薬師丸に「『里見八犬伝』をやりたくなけば延期していいからお前が判断しろ」と言ったら、薬師丸が「今年中に十代でやりたい」というので、会見後に薬師丸を深作に会わせた[9]。脚本は薬師丸がヒロインイメージであったが、その頃原田知世の人気が上がっており、薬師丸が断ったら原田の主役でやるつもりだった[9]

撮影[編集]

撮影の仙元誠三は、1983年2月から準備に入って、その年12月まで撮影したと話している[13]北野武監督との名コンビでも知られる柳島克己キャメラマンも、本作でノンクレジットながら、仙元に「ひと月でいいから手伝ってくれ」と言われ京都に行き、撮影は延々終わらず[14]、一度別の冬ものの映画を撮りに東京に戻り、再び京都に行き、本作を公開直前の12月まで撮影したと話している[14]。当時小学5年生だった深作健太が撮影を見学していたという[14]。また1992年の『いつかギラギラする日』もノンクレジットながら撮影応援をして[14]2000年の『バトル・ロワイアル』でようやく深作から「ルーズな画がいい」と褒められオファーを受け、同作の撮影を担当した[14]

主たる撮影は1983年7月から9月までの3ヶ月間[15][16]。薬師丸はこの間10日東京に戻っただけで、後は4ヵ月間、京都のホテルのツインルームで女性マネージャーと二人暮らし[15][17]。雨が降ると撮影中止になることがあり、1日オフになるが、街へ出るとカメラを持った修学旅行生に追いかけ回されるため、本屋に行くことぐらいしかできず、茶色のサングラスを買って街へ出て、京都滞在中に40冊本を購入した[15]。撮影が終わり東京に戻るため荷物をまとめるとダンボールが9箱分になった[15]

相米慎二根岸吉太郎監督は長回しが多いが[8]、本作は撮影も細かいカットの連続で[13]、カット数は2000近く[9]。深作は役者全員に「個性を出すな」と指示した[8]。仙元から「深作さんほどタフな人はいない」と言わしめた深作は、精力的で夜が強く、午前中は準備、手直し、大直しと殆どカメラは回らず[13]、夕方になってやっとエンジンがかかってきて、夕食のあとに少しずつ撮影という状況で[13]、毎日深夜未明に及ぶ撮影で、平均15時間ぶっ通し[16]。薬師丸にとって初めての時代劇主演で、東京と静岡県御殿場乗馬の特訓を重ねた他[8]、大きな芝居が求められ、それまでの現代劇で貯金してきた財産はいっさい役に立たず[16]。カットも多く気持ちが連続して持続できず[8]。しきたりの厳しいことで知られる東映京都撮影所(以下、東映京都)で今まで以上に神経を遣わなければならず、さすがに「仕事が辛い」と音を上げた[17]。また大学が出席日数に厳しい校則で、大学を留年しなければならなくなり[16][18]、それまで仕事と学業を両立させてきたためショックも大きく、度重なる過労が重なり、撮影中にダウン[8]慢性盲腸炎急性上気道炎と診断され数日入院し、一週間静養後、撮影に復帰したが、クランクアップ後、11月に盲腸炎の手術を受けた[9][16]

東映京都のスタジオを3つ使っても足りず、撮影所内の空地に運動会が出来るぐらいのセットも作った[15]。スタジオ内に川を作り、八剣士が舟で進むシーンなどが撮影された[15]。薬師丸の入浴シーンは第9スタジオに岩風呂のセットを作り報道陣シャットアウトで極秘撮影[18]。他に洞窟のセットなど[15]特殊美術ゲテモノは、が8m、ムカデが4.5mで、蛇のは4万枚と製作は2ヵ月がかり[15]。薬師丸がの中を走るシーンは1日に15ヵ所もカスリ傷が付き、薬師丸がある日、ホテルのフロ場で数えたら体に32ヵ所の傷があったという[15]。薬師丸は「同じことをやりなさいと言われても、もうできないと思うぐらい肉体酷使映画だった。私たちは撮影がない時もあるけど、深作監督にはないし、監督が具合を悪くしたときはやっぱりね、とか思いました」などと話している[19]

角川春樹は1983年11月16日クランクアップ予定と話していたが[9]、薬師丸の出番の後も撮影が続行され、映画公開直前の12月まで撮影が行われた[13][14]。特撮シーンの撮影が難航し、残業また残業で夜食の弁当代(500円)がしめて1000万円[20]。ロケも含めスケジュールも遅れ、弁当代、連続徹夜記録など、一作品に於ける東映京都での記録の全てを塗り替えた[21]

製作費[編集]

10億円[22]

撮影記録[編集]

1983年7月26日、製作発表記者会見[21]。翌7月27日、東映京都でクランクイン[21]。ほとんどが東映京都でのスタジオ撮影[15][21]

ロケ地
  • 京都府亀岡市[21]
  • 滋賀県大津市日吉神社[21]
  • 熊本県阿蘇山
    • 1983年8月下旬から9月頭にかけて8日間の予定で熊本阿蘇ロケ[15]。砂千里など[8]。しかし晴れたのは1日のみで、霧、ガス、雨にたたられ連日6~7時間の天候待ち[15]。ロケが延びるも9月に入っても中止が10日以上出た[15]。薬師丸が阿蘇の崖を急ぎ足で走るシーンは、スタッフも取材陣も命懸けの危険な場所での撮影[18]

宣伝[編集]

宣伝イベントとして府中競馬場で薬師丸と、真田広之、志穂美悦子千葉真一ら、八剣士がで競馬場を走った。阪神競馬場からも開催を申し込まれたが、俳優陣のスケジュールの都合で1日で2ヵ所をやらないといけなくなり、2000万円でヘリコプターチャーター。総額20億円の保険をかけたイベントは無事成功した[23][24][25]

興行[編集]

深作が「配給は東映ですか?東宝は噛んでなかったかな。東宝のコヤ(映画館)の何館かで扱った覚えがあるから、拡大上映をやったんでしょうね」と話しているように[26]、本作は配給は東映ながら、興行は東宝が行うというメジャー映画会社間では珍しい興行が行われた[11][27]。東宝の1984年正月興行は、邦画系が『エル・オー・ヴィ・愛・N・G』/『あいつとララバイ』のため[11]、本作『里見八犬伝』は、東宝の洋画系(東宝東和)の劇場で公開され[27][28]、『里見八犬伝』が日比谷映画新宿プラザ渋谷東宝など[27][28]、『キャノンボール2』が有楽座など、『ウィンター・ローズ』がみゆき座など、劇場によって別々の映画が公開された[11][27][28]。東映は地方の劇場チェーンは強いが[29]、東京都内には戦艦級の劇場を持っておらず[30]1970年代までは、全国ロードショーの都内封切りは東宝の劇場を借りていた[31]岡田茂東映社長が1980年1月30日東急レクリエーション(以下、東急レク)社長に就任し、東急レクの番組編成を差配できるようになったことで[31][32]、東映の大作を東急レクの持つ渋谷パンテオン新宿TOKYU MILANOといった戦艦級劇場に掛けられるようになりこれは解消された[31]。今回は東宝の劇場を借りたのではなく興行の変更で、『里見八犬伝』は興行は東宝が行い、東京都内は東宝系の劇場で映画が公開されている[27][28](地方では一部東映系の劇場で公開)[28]

東映が配給・宣伝を行い、撮影も東映京都で、一番旨みのある興行のみ東宝というのは本来あり得ないが[11]、東宝の番組編成室と東宝東和と角川春樹とで話し合い、岡田東映社長を説得した[11]。人気絶頂の薬師丸ひろ子に、乗りに乗る深作欣二の顔合わせで大ヒットは間違いなく「あの岡田さんがよくそんな条件我慢したね」と関係者を驚かせた[11]。岡田は「非常に残念だ。多少おこぼれを頂けるということで今回は渋々納得した」と話した[11]。それぞれに思惑があったものと見られるが[33]、角川に対しては「角川一流のうまい商売の仕方の結果」とも評され、絶縁状態といわれた角川と東宝が仲直りしたと判断された[11]。このパワーゲームに割を食ったのが松竹で、松竹は「深作と松坂慶子のコンビで『蒲田行進曲』に続く作品を」と期待し『旅路』を準備して1983年6月までに撮影し[11]、同年『シングルガール』/『きつね』の後、7月から『旅路』を公開する予定だった[11]。しかし深作が『里見八犬伝』を選び、松竹は深作に「好きなものを何でも撮っていいから」と懸命に説得したがダメで[11]、7月の番組に穴が空き、急遽『ザブングル グラフィティ』と『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』『チョロQダグラム』のアニメーション映画をこの枠に入れた[11]

1984年の正月興行は、洋画が『キャノンボール2』『ウィンター・ローズ』『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』『ピンク・パンサー3』『大逆転』など、例年に比べればさほど強力でもないが[34][35][36]、独自の興行力を持ち粒揃いとも評された[36]。邦画は『エル・オー・ヴィ・愛・N・G』、『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』、『里見八犬伝』が"ビッグ3"といわれ[37]、それぞれ封切日をバラつかせ正面衝突を避けて共存共栄を狙った[37]。東宝は邦画系が『エル・オー・ヴィ・愛・N・G』/『あいつとララバイ』、洋画系が『里見八犬伝』『キャノンボール2』『ウィンター・ローズ』、松竹は邦画系が『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』/『喜劇 家族同盟』、洋画系(松竹富士)が『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』で、東映は邦画系が『唐獅子株式会社』/『ドラゴン特攻隊』で、洋画系(東映洋画)は『草迷宮』『[38]、『グレートハンティング'84』などを上映[28][37]にっかつは、『ファイナル・スキャンダル 奥様はお固いのがお好き』/『女猫』だった[28][37]

洋画で宣伝に特に力を入れたのは『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』(日本へラルド=松竹富士共同配給)で、一年以上かけてパブリシティを展開させ、ショーン・コネリーを17年ぶりに来日させて映画関係者の胸を熱くさせ、地方では『グレートハンティング'84』を併映させて、このセット番組に宣伝費5億円を計上[36]。さらに三菱電機が5億円のキャンペーンでこれをバックアップ。同社が発売する世界初のテレビプリンターとのタイアップスポットCMを5000本放映する物量宣伝を展開した[36]。『キャノンボール2』『ウィンター・ローズ』連合と『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』は、両者配収35億円を目標としていたが[36]、『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』が意外に振るわず[35]、『里見八犬伝』が『キャノンボール2』に迫る2位と大健闘[35]、1984年配収邦画1位の23億2000万円を記録し[39]、あらためて薬師丸の人気の凄さを示した[16]

ビデオ同時発売[編集]

角川春樹事務所は映画の配給同様、レコードでも販売を一社に任せず、曲ごとにレコード会社を変えていたが、ビデオソフトの販売に関しては、東映ビデオのライバル・ポニー一社にずっと任せていた[22]。しかし映画公開前の1983年11月8日、角川春樹事務所は東映ビデオと販売提携し『里見八犬伝』以降、角川映画のビデオソフトは東映ビデオが販売すると発表した[22]。『里見八犬伝』のビデオ価格は定価1万4800円[22]。国内ビデオソフト販売の従来の記録は『探偵物語』『時をかける少女』『南極物語』の各3万本[22][40]。『セーラー服と機関銃』は2万本[22]。東映ビデオは11月30日までの予約者に「オリジナルノート」プレゼントや店頭で販促用ビデオを放映するなど様々な販促キャンペーンを実施し、今田智憲東映ビデオ社長は「とにかく販売新記録を作る」と意気込み、角川に販売力を認めさせ、販売提携の継続を目指した[22]。映画公開と同時にビデオを発売し[41]、当初は映画とビデオの食い合いも予想され[41]、販売目標を3万本とし、国内ビデオソフト販売記録の更新を目指したが[22]、公開一週間後に3万本を出荷し、従来の上限記録を抜いた[41]。最終的に5万本、7億円を売り上げ[42]、映画の配収の三分の一に達した[41]岡田茂東映社長は「これにより相乗効果が出て、映画を観た客が帰りに売店でビデオソフトを買った」と評し[41]VTRの本格普及に伴い、この比率はさらに高まると見られ、「ビデオが今後映画と並ぶ収益源になると考えている。今後作品によっては映画とビデオの同時公開を狙いたい」と、1984年3月封切りが決まっていた『少年ケニヤ』も「ビデオソフトを同時発売し、需要を盛り上げたい」と話した[41]。また年末のビデオの売上急増で、東映ビデオは1983年の年間売上が70億円を超え、売上高前年三倍近くという急成長を遂げた[40]。当時はVTRの本格普及でビデオソフト市場は年々倍増以上のペースで拡大し、1983年の年間売上は業界全体で250億円突破といわれ、1982年初めに1万本売れればベストセラーといわれたビデオソフトは『里見八犬伝』で5万本時代に突入といわれた[40]

作品の評価[編集]

映画批評家レビュー[編集]

  • 南俊子は「角川春樹氏は『里見八犬伝』について『レイダース』と『スター・ウォーズ』を合わせたものを狙ってると言っているの。一種の国籍不明映画というか『新里見八犬伝』なんです。荒唐無稽な話で薬師丸ひろ子ちゃんが主役というよりも、深作監督が、日本でどこまで冒険大活劇ができるかと、その可能性を追求した深作映画だと思います。そこが面白かったです」などと評している[43]
  • 荻昌弘は「薬師丸ひろ子の撮影中ダウンがたたって、いわゆるアイドル映画としてはファンの意にそわない映画になったかもしれない。が、ここには日本の時代劇を固定パターンから解放して、新しい観念の娯楽伝説へファンタジー化しようとする深作監督の予想以上の燃え立ちが見られます。真田広之は、これまでの邦画スターにない激しい動きで監督の夢に応えようとしているし、音楽は新鮮だし、もしこの線は花咲けば、大型スクリーンの時代劇は、十分テレビの地平を離陸してゆけるでしょう。但し特撮はハッキリ言って情けない」などと評している[35]

受賞[編集]

エピソード[編集]

  • 深作欣二はイメージと違い女性にシャイな人で、女優の演出に照れたりして、五社英雄の映画で散々脱がされた夏木マリは、ヌードシーン「もっと胸見せましょうか?」と言ったら「いい、いい、もうそこまででいい」って止められたと話している[45]

映像ソフト[編集]

  • 里見八犬伝(DVD)(2001年8月24日、角川エンタテインメント、KABD-140)
  • 里見八犬伝 デジタル・リマスター版(DVD)(2011年6月24日、角川映画、DABA-0803)
  • 里見八犬伝 ブルーレイ(Blu-ray Disc)(2012年9月28日[46]、角川映画、DAXA-4260)
  • 里見八犬伝 角川映画 THE BEST(DVD)(2016年1月29日[47]KADOKAWA、DABA-91120)

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 角川映画が映画の劇場公開と同時にビデオを発売するのは、1982年12月公開の『伊賀忍法帖』/『汚れた英雄』から始まっている[6]

出典[編集]

  1. ^ 許されなかった日本映画が解禁へ、「里見八犬伝」薬師丸ひろ...:レコードチャイナ” (2016年4月2日). 2016年4月2日閲覧。
  2. ^ 石井博士ほか 『日本特撮・幻想映画全集』 勁文社、1997年、288頁。ISBN 4766927060
  3. ^ 1984年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  4. ^ 『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』 洋泉社2003年、97頁。ISBN 978-4-89691-764-2
  5. ^ 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、p151
  6. ^ 「1982年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1983年昭和58年)2月下旬号、キネマ旬報社1983年、 119頁。
  7. ^ 里見八犬伝シリーズ”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月31日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 「撮影現場訪問『里見八犬伝』 ルポ・南俊子」、『キネマ旬報1983年昭和58年)11月下旬号、キネマ旬報社1983年、 134-137頁。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「『里見八犬伝』特集1 角川春樹インタビュー 『里見八犬伝』の映画化は私の長い間の念願だった!』 インタビュアー・松島利行」、『キネマ旬報1983年昭和58年)12月下旬号、キネマ旬報社1983年、 44-46頁。
  10. ^ a b c d e 中川 2014, pp. 194-198.
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・川端靖男・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『東映配給、東宝興行で角川が「里見八犬伝」を製作。その影響をモロにかぶった松竹の苦悩!?』」、『キネマ旬報1980年昭和55年)4月下旬号、キネマ旬報社1983年、 166-167頁。
  12. ^ 35年前の本日、薬師丸ひろ子「探偵物語/すこしだけやさしく」がオリコンチャート5週連続の1位を獲得 - ニッポン放送
  13. ^ a b c d e talk & interview - _... moment ...._: 仙元誠三
  14. ^ a b c d e f 「深作欣二監督没後10年、「仁義なき戦い」公開40周年特集 INTERVIEW 柳島克己〔撮影監督〕 深作欣二とその映画の魅力 文・金澤誠」、『東映キネマ旬報 2012年冬号 vol.20』2012年1月1日、東映ビデオ、 9頁。
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m 「3カ月、ダンボール9箱分の生活! 薬師丸ひろ子『里見八犬伝』おもしろ記録集証言構成」、『月刊明星』1984年1月号、集英社、 104 - 105頁。
  16. ^ a b c d e f 「証言構成 『野生の証明』~『Wの悲劇』まで全9作品映画にみる〈20才ドキドキプレイバック〉 薬師丸ひろ子メタモルフォーゼ伝」、『週刊明星』1984年9月20日号、集英社、 52頁。
  17. ^ a b 「特別対談 『ほほえみ通信』完全誌上採録 『聖子とひろ子の即興セレナーデ 構成・野村正昭」、『バラエティ』1984年5月号、角川書店、 85頁。
  18. ^ a b c 「笑顔のわたし見つめて欲しい 薬師丸ひろ子『里見八犬伝』完全ストーリー...」、『月刊平凡』、平凡出版、1984年1月号、 88 - 91頁。
  19. ^ 野村正昭「特集 『Wの悲劇』 薬師丸ひろ子インタビュー」、『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1984年12月上旬号、 53頁。
  20. ^ 工藤公一「新・世界の映画作画と新作研究10 深作欣二 『深作欣二全自作を語る』」、『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1992年9月下旬号、 114頁。
  21. ^ a b c d e f 杉田薫「『里見八犬伝』特集3 『ひろ子の撮影日記』」、『キネマ旬報1983年昭和58年)12月下旬号、キネマ旬報社1983年、 51-53頁。
  22. ^ a b c d e f g h “東映ビデオ、角川事務所と販売提携ーまず『里見八犬伝』のビデオソフトを発売。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 5. (1983年11月9日) 
  23. ^ 東映の軌跡 2016, p. 319.
  24. ^ 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】角川編(下) 薬師丸ひろ子売り出し戦略 「学業優先」逆手にとり (2/2ページ)
  25. ^ 私の新人時代 東映 近藤正岳 一般社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会報 No.403 2012年1月号
  26. ^ 映画監督深作欣二 2003, pp. 409-412.
  27. ^ a b c d e 里見八犬伝のチラシ - ぴあ
  28. ^ a b c d e f g 「邦画番組予定表」、『キネマ旬報1984年昭和59年)1月上旬号、キネマ旬報社1984年、 193-197頁。
  29. ^ 金田信一郎 「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』 日経BP社2006年、112頁。ISBN 4-8222-0158-9
  30. ^ 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『柳生』を抜けるか『二百三高地』」、『キネマ旬報1980年昭和55年)9月下旬号、キネマ旬報社1980年、 176-177頁。
  31. ^ a b c 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『三社連合の1つ東急レクの社長に岡田茂氏が就任』」、『キネマ旬報1980年昭和55年)3月下旬号、キネマ旬報社1980年、 166-167頁。
  32. ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『岡田茂社長の経営者手腕が完全に定着し、劇場網の整備・拡大に一段と拍車がかかり、今後が楽しみな東急レクリエーション』」、『キネマ旬報1986年昭和61年)11月下旬号、キネマ旬報社1986年、 168-169頁。
  33. ^ 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 人気絶頂の薬師丸ひろ子のカムバックをめぐって、東映と東宝が激突!!」、『キネマ旬報1982年昭和57年)8月下旬号、キネマ旬報社1982年、 172-173頁。
  34. ^ 立川健二郎「興行価値」、『キネマ旬報1983年昭和58年)11月下旬号、キネマ旬報社1983年、 167頁。
  35. ^ a b c d 「荻昌弘の映画劇場 『里見八犬伝』『大逆転』」、『サンデー毎日』、毎日新聞社、1984年1月15日、22日号、 159頁。
  36. ^ a b c d e 立川健二郎「興行価値 外国映画映画」、『キネマ旬報1983年昭和58年)12月上旬号、キネマ旬報社1983年、 171頁。
  37. ^ a b c d “話題の正月映画 〈芸能〉 『八犬伝など"ビッグ3"』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 13. (1983年12月14日) 
  38. ^ ”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月31日閲覧。
  39. ^ 1984年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  40. ^ a b c “ひろ子人気、ビデオでも実証ー東映ビデオ、『里見八犬伝』販売4万本超す。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 5. (1983年12月23日) 
  41. ^ a b c d e f “東映の『里見八犬伝』、映画、ビデオでも大成功”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 15. (1984年2月28日) 
  42. ^ 映画界のドン 2012, p. 151.
  43. ^ 「南俊子と河野基比古の新春映画お楽しみガイド 邦画編」、『週刊サンケイ』、産業経済新聞社、1984年1月12日号、 134頁。
  44. ^ 第2回ゴールデングロス賞受賞作品”. 全国興行生活衛生同業組合連合会. 2016年1月13日閲覧。
  45. ^ 黒田邦雄「ザ・インタビュー 夏木マリ」、『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1984年5月上旬、 120 - 123頁。
  46. ^ 「戦国自衛隊」や「七日間戦争」など角川映画20本BD化 - AV Watch” (2012年7月6日). 2016年8月14日閲覧。
  47. ^ 角川映画40周年記念、「犬神家」「セーラー服」など30タイトルの廉価版DVD発売 - 映画ナタリー” (2016年1月28日). 2016年8月14日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]