汚れた英雄

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汚れた英雄』(よごれたえいゆう)は、大藪春彦1966年から1969年にかけて発表した4部からなる長編小説。角川映画(現・KADOKAWA)により映画化され、1982年12月18日に公開された。

フィクションであるが、生沢徹田中健二郎高橋国光マイク・ヘイルウッドジム・レッドマンドメニコ・アグスタイタリア語版伯爵など実在の人物も登場する。

なお、1960年に製作されたイタリア映画に、同名のもの(原題:Il gobbo)があるが、本作とは関係がない。

ストーリー[編集]

生まれた直後に父を、第二次世界大戦中に母を亡くし、戦災孤児となり母方の叔父の実家が経営する自転車屋に引き取られた主人公・北野晶夫。しかし晶夫は二輪レーサーとメカニックの両面で天性の勘の良さを持っていた。

晶夫はファクトリーライダーとなりレーサーとして生計を立てることを望み、いわゆる浅間高原レースを皮切りに、レース活動を開始する。日本におけるレース活動の最中、日本のバイクメーカー視察中の往年のイタリア人レーサーであったバイクショップ経営者に見出され、アメリカに渡航。その後、西海岸での活動を経てヨーロッパに渡り、MVアグスタワークス・チーム入りしてロードレース世界選手権(WGP)を制覇するまでに至る。

他方、晶夫は、生まれ持った美貌と肉体で次々と女を自分の虜にしてスポンサーにしていく。(ある種のジゴロ)。その稼ぎはレーサーとしての収入とは比較にならないぐらい莫大なものとなった。

晶夫は二輪レーサーとして生活も晩年にさしかかり、最終的に4輪レーサーへの転向を試みることになるが…。

主人公のモデル[編集]

小説『汚れた英雄』の主人公・北野晶夫のモデルとなった人物として、当時主にヤマハに所属していた、WGPライダーの伊藤史朗の名が挙げられることがある。小説には伊藤自身も登場しており、浅間高原レースやWGP等で晶夫と伊藤が競い合うシーンも多数書かれている。また姓が同じであり、浅間から世界GPに進出した経歴を持ち、天才的ライダーと評されることから、北野元もモデルと言われることがある。

ただし、作者の大藪自身はあとがきで「北野晶夫にはモデルはありません」とモデルの存在を否定している。大藪によれば、晶夫のレース成績の面ではゲイリー・ホッキングマイク・ヘイルウッドタルキニオ・プロビーニジャコモ・アゴスチーニを参考にし、華麗なる女性遍歴についてはアリ・ハーン(Prince Aly Khan、アーガー・ハーン3世の息子で1960年に事故死)やポルフィリオ・ルビロサ(同じく事故死)等の経歴を参考にしているという[1]

映画[編集]

汚れた英雄
監督 角川春樹
脚本 丸山昇一
原作 大藪春彦『汚れた英雄』
製作 橋本新一 / 和田康作
製作総指揮 角川春樹
出演者 草刈正雄
レベッカ・ホールデン
木の実ナナ
浅野温子
勝野洋
奥田英二
中島ゆたか
朝加真由美
伊武雅刀
音楽 小田裕一郎
主題歌 ローズマリー・バトラー
『汚れた英雄』
原題:Riding High
撮影 仙元誠三
編集 西東清明
製作会社 角川春樹事務所/東映
配給 東映
公開 日本の旗 1982年12月18日
上映時間 112分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 16億円[2]
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1982年12月18日公開。草刈正雄主演、角川春樹監督第1作。製作角川春樹事務所/東映、配給:東映。

本来角川はプロデューサーであり、監督は別に計画されていたが人選が難航し[3]、角川が自ら演出した[3]

物語[編集]

全日本ロードレース選手権、国際A級500ccクラスは、ヤマハのワークスライダー大木圭史とプライベートの北野晶夫の熾烈な争いが展開され、第8戦までで2人は同点に並んでいた。ワークス・チームはその組織力で、最終戦に向けて調整を進めていく。

一方、北野はその天性の美貌を活かし、上流階級の女性をパトロンとすることで、レース参加にかかる莫大な費用を捻出していた。

いよいよ最終の第9戦、様々な人々の思惑が交錯する中で、菅生サーキットでの熱い戦いが始まる。

出演[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

かつて西崎義展徳間書店と提携し製作を発表していたが[3][4]、1981年10月に映画化権が切れたため角川で製作が決まった[3][4]。1982年の東映正月興行『セーラー服と機関銃』が東映創立以来のメガヒットを記録したことから、すぐに岡田茂東映社長が1年先の1983年の正月映画の製作を併映の『伊賀忍法帖』の2本とも角川に頼んだ[5][6]。このため製作発表は異例の早さで1982年2月4日に、銀座三笠会館で岡田と角川が出席して共同製作発表会見が行われた[7]。この時点では角川のプロデュースと脚本の丸山昇一しか決まっていなかった[4]

脚本&演出[編集]

物語は原作小説とはまったく異なるものである。2本立てのため1時間50分が限度で[3]、脚本の丸山は当時のインタビューで、2時間弱の映画の中では原作の一部分しか描けず、また終戦後から始まる原作では当時の時代背景から描かねばならないことなどから、原作のストーリーから離れて現代を舞台にすることに当初から決めたという。丸山は原作の中の「物語」ではなく、「キャラクターの生きざま」を描こうとしたといい、「北野晶夫ライブ」という表現を用いている[3]

演出経験を持たない角川は、脚本の丸山と相談し、極力台詞を削ることで映像の持つ迫力を前面に出す演出を心がけた[3]。これについては当時、最低限のものだけを残しぎりぎりまで削り込む俳句の技法を応用した、との発言を残している。

撮影[編集]

主人公・北野晶夫役は、自ら角川に売り込んだ草刈正雄に決まった[3]。制作にあたりヤマハ発動機の全面的な協力が得られたことから、ヤマハの関連会社が経営するスポーツランドSUGOで、TZ500や当時のWGP主力マシンであったYZR500を使った模擬レースを開催するなど、現代のロードレースシーンを描くことに成功している。

映画で北野晶夫のレースシーンスタントを担当した平忠彦は、当時国際A級500ccクラスにステップアップしたばかりの若手ライダーだったが、長身で風貌も草刈によく似ていたために異例の抜擢となった。当時の平は、ヤマハワークスの大先輩である野口種晴の店(野口モータース)に住み込みの身であり、映画のイメージとは全く違う生活を送っていたと言われる。映画版では北野晶夫が自宅のプールで泳ぐ場面があるが、「平さんも家にプールがあるんですか?」とたびたび聞かれるようになったため、平は当時のインタビューで閉口した旨を述べている。その後、平は全日本選手権500ccクラス3連覇を達成、世界GPフル参戦も果たし、資生堂の男性化粧品「TECH21」のイメージキャラクターを長年務めるなど、北野さながらの活躍を見せた。

映画のクライマックスのレースシーンで北野晶夫がゴール後のウィニングラップをウイリーで締めくくる場面のスタントは、平ではなく同じヤマハワークスの木下恵司が演じている。2ストロークの500ccマシンはアクセル操作にとても敏感で、当時500ccクラスルーキーだった平にはまだウイリー走行を披露するほどの経験がなかったためだと言われている。

映画の終盤で草刈演じる北野晶夫が大群衆に囲まれるシーンには、角川の陣中見舞いに訪れた薬師丸ひろ子目当てのファンをエキストラに使用した[8][9]

製作費[編集]

製作費3億5000万円は東映が全額負担した[10]。製作当時、薬師丸ひろ子は大学受験のため休業中であったが、受験が終わる1983年春に復帰が予想され、薬師丸の出演映画の配給を獲得出来れば大ヒットは間違いなしの情勢だった[11]東宝は角川と当時絶縁状態にあったため、実際は東映と松竹の争いと見られていたが、1982年6月、東宝が創設した藤本賞の第1回に田中友幸橋本忍の予想を覆し、角川を選ぶというウルトラCを敢行した[6][11]。角川は感激し「今後も私が製作する映画のマーケットとしては、東宝か東映以外に考えられない」と話し、角川から東宝との雪解けを思わす言葉を引き出した[11]。商売上手な角川はわざわざ東映本社に足を運び「東宝から来年の予定を全部変更するから、薬師丸のカムバック作をやらせて欲しいと最高の条件を提示して来た」と伝えに来る用意周到さで[6]、外された形の松竹は「薬師丸さんを『寅さん』のマドンナに」と猛烈な巻き返しをかけ[10]、喉から手が出るほど薬師丸が欲しい東映は薬師丸を握る(所属する)角川の取り込みを図るため本作の全額出資を決めた[10]。松竹は1985年の『男はつらいよ 寅次郎恋愛塾』の時も薬師丸を口説いたが断られ[12][13]、マドンナは樋口可南子になった[12][13]

主題歌[編集]

発売元は東芝EMI(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)。

オープニングテーマ
挿入歌
  • 「THE LAST HERO〜ラスト・ヒーロー」
    • 作詞:Tony Allen / 作曲:小田裕一郎 / 編曲:Peter Bernstein / 歌:ローズマリー・バトラー

同時上映[編集]

参考文献[編集]

  • 大久保力『サーキット燦々[さんさん]』三栄書房、2005年2月13日 初版第1刷発行、ISBN 978-4879048783
  • 中川右介『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』角川マガジンズ、2014年。ISBN 4047319058

脚注[編集]

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  1. ^ 『汚れた英雄』角川文庫版・第4巻あとがき、pp.423 - 427
  2. ^ 1983年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c d e f g h 中川 2014, pp. 175-179.
  4. ^ a b c 「映画界の動き 東映、83年正月番組早くも決定」『キネマ旬報』1982年3月下旬号、キネマ旬報社、 176頁。
  5. ^ 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、166-167頁。ISBN 9784636885194
  6. ^ a b c 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 人気絶頂の薬師丸ひろ子のカムバック作をめぐって、東映と東宝が激突!!」『キネマ旬報』1982年8月下旬号、キネマ旬報社、 173頁。
  7. ^ 「映画界重要日誌 昭和五十七年」『映画年鑑 1983年版(映画産業団体連合会協賛)』1982年12月1日発行、時事映画通信社、 12頁。
  8. ^ 「草刈正雄『出たくてしょうがなかった』」『読売新聞2016年7月29日付夕刊、第3版、第9面。
  9. ^ 【角川映画40年・動画付き】草刈正雄63歳が明かした「復活の日」撮影秘話 「僕の乗ったヘリがアンデスの山中で墜落したんです…」 (3/5ページ) - 産経ニュース” (2016年8月6日). 2017年3月25日閲覧。 “撮影中、エキストラを集めるために、薬師丸ひろ子さんが歌を歌ってくれたこともありましたね。”
  10. ^ a b c 「LOOK 今週の話題・人と事件 映画 角川監督のやりたい放題は薬師丸ひろ子の威光 『ケガを宣伝に使う』商法は健在だが』」『週刊現代』1982年9月25日号、講談社、 49頁。
  11. ^ a b c 「薬師丸ひろ子来年夏女優カムバック決定!! 配収20億円確実! 早くも争奪戦スタート ひろ子は引っ越し、電車通学で受験に専念」『週刊明星』1982年6月24日号、集英社、 33頁。
  12. ^ a b “『寅さん』注目の35代目マドンナ 樋口可南子"金的" 薬師丸ひろ子も一時"候補"に”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 15. (1988年5月14日) 
  13. ^ a b “寅さん35代目お相手決定もいまいちの風評 結局、薬師丸の穴うめか”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 12. (1985年5月19日) 

外部リンク[編集]