ギャング対Gメン

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ギャング対Gメン
監督 深作欣二
脚本 但島栄(村尾昭
出演者 鶴田浩二
富田仲次郎
千葉真一
梅宮辰夫
佐久間良子
沢たまき
丹波哲郎
音楽 河辺公一
撮影 山沢義一
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1962年11月2日
上映時間 82分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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ギャング対Gメン』(ギャングたいジーメン)は、1962年公開の日本映画鶴田浩二主演、深作欣二監督。東映東京撮影所製作、東映配給。併映『お坊主天狗』(片岡千恵蔵主演、佐々木康監督)。

概要[編集]

深作欣二監督6作目。当時日本でも放映されていたアメリカテレビドラマアンタッチャブル』をそのまま日本を舞台に置き換え、鶴田浩二を主演にセミオールスターキャストで描く[1][2]

ストーリー[編集]

暴力団の三立興行を内偵中のGメンが殺されたが、三立興業がやったという証拠が上がらず。警察は三立興行の元幹部で現在は運送店を経営する東島に潜入捜査を依頼した。東島は七人の腕利きメンバーを再結集し三立興行に潜入する。危険を感じた三立興行のボス・辰村は東島を消そうとするが失敗。続いて罠を仕掛けて東島の恋人・明子を人質に取り、東島に手を引かせようとする。東島はいったん手を引いたように見せかけ、密造酒の運搬車を見つけ尾行。しかしメンバーの一人・五郎の裏切りにより東島たちは爆薬を仕掛けられた倉庫に閉じ込められてしまう。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作経緯[編集]

企画[編集]

企画は当時の東映東京撮影所(以下、東撮)所長・岡田茂(のち、東映社長)[1]。東撮に"ギャング路線"の導入を企図した岡田が[3]脚本の但島栄(村尾昭、以下村尾)[1]に当時日本でも放映されていたアメリカテレビドラマ「『アンタッチャブル』をまねて脚本を書け」と指示を出すと[1]村尾はその指示通り『アンタッチャブル』にそっくりの脚本を書いた[1]。監督の深作欣二は前作『誇り高き挑戦』が、評論家筋の評価は高かったものの、会社上層部の評価は低く、東映をクビになるかもしれないと考えていた[1]。そこへ岡田が深作を呼んで「お前、もっとドンパチをやれ。ドンパチやらないからいけないんだ」と「これをやれ」と命じ、深作にもっと通俗性の高い映画の製作を指示した[1]。しかし内容が『アンタッチャブル』の完全パクリで、日本で密造酒を作ったり、暴力組織壊滅のため警察が元ギャングを雇うというあり得ない設定が多く、深作はやりたくないと抵抗したが岡田はびくともせず、「とりあえずやれ」と無理圧状に押し付けられた[1][4]。深作はこれ以降、村尾の脚本は1本も撮らなかった[1]

脚本[編集]

脚本の村尾は鶴田浩二が目にかけていた人で[1]、岡田が"ギャング路線"を本格化しようと日活から東映に誘った[5]井上梅次監督の『暗黒街最後の日』(1962年10月12日公開)の脚本の下書きをしたことを[6][7]鶴田から聞いて本作の脚本に抜擢した[6]。これを切っ掛けに岡田が村尾を大映から引き抜き"ギャング路線"の脚本を数本書かせた後、東映任侠路線の魁となった「日本侠客伝シリーズ」の脚本には村尾と笠原和夫[8]博徒シリーズ」の脚本には村尾を抜擢している[6][9]

評価[編集]

深作が編集する際、芝居が嘘っぱちに見えるシーンを嘘がバレないうちにと大胆に切った[1]。すると初号試写で岡田が「長さは何ぼや」と問うので深作が「8000フィート」と答えると「7200ぐらいにしか見えへん。こんなに短かったらオールスターものにならへんやないか」と機嫌が悪かったが[10]、本社試写会では、現代劇ではそれまでの最高の満足度の数字が出た[1]。『キネマ旬報』でも江藤文夫から初めて褒められた[1]。また渡辺武信も先の「岡田が『7200にしか見えない』と言ったのは、映画がそれだけテンポが速くまた快く、歯切れが良いという紛れもない賞賛である」と評している[10]。映画はヒットし[10]前作『誇り高き挑戦』は批評で誉められたわりには当たらなかったため、落ちかけていた深作に対する会社側の信頼はこれで盛り返した[4][10]。しかし本作は残酷描写が酷く、佐久間良子を容赦ないほど殴りつけたり[2]、縛られて動けなくなっている千葉真一を至近距離から銃弾を何発もぶち込んだりで[2]朝日新聞からは「残酷で見るに耐えない」と書かれ、この批評を見た深作の母親から批判されたという[1]。これだけ役者を揃えたにも関わらず切り過ぎたため、佐久間良子との仕事はこれ1本のみとなった[1]。 

逸話[編集]

  • 三島由紀夫は、岡田と親しく[11][12]よく東映の試写室に来ていて[13]本作の試写にも来て『ギャング対Gメン』を褒めた[1]。後年深作が三島の戯曲黒蜥蜴』を監督したとき、三島に「あなたが『ギャング対Gメン』を褒めてくれたんで、首が助かった」と言ったら「そうですか、面白かったですよ」と言われたという[1]
  • 1982年に『蒲田行進曲』を製作した深作は、「デビュー当時、岡田茂にいわれた映画の三要素"泣く、笑う、(手に汗を)にぎる"の三拍子が揃った」と話した[14]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 深作欣二山根貞男 『映画監督深作欣二』 ワイズ出版2003年、111-114頁。ISBN 4-89830-155-X
  2. ^ a b c 「映画監督 深作欣二の軌跡」、『キネマ旬報臨時増刊』第1380号、キネマ旬報社2003年、 157-158頁。
  3. ^ 「〔トップに聞く〕 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る」、『キネマ旬報』1969年6月下旬号、 127頁。岡田茂 『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』 角川書店2004年、180頁。ISBN 4-04-883871-7「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』1、東映、1992年、174-175頁。春日太一 『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』 新潮社2012年、27 102-103。ISBN 978-4-10-610459-6
  4. ^ a b 山根貞男・米原尚志 『仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫日本放送出版協会2005年、152頁。ISBN 4-14-080854-3
  5. ^ 井上梅次 『窓の下に裕次郎がいた ...映画のコツ、人生のコツ』 ネスコ、1987年、77-91頁。ISBN 4-89036-724-1
  6. ^ a b c 山平重樹 『任侠映画が青春だった 全証言伝説のヒーローとその時代徳間書店2004年、23-26頁。ISBN 978-4-19-861797-4
  7. ^ 松島利行 『風雲映画城』下、講談社1992年、88-89頁。ISBN 4-06-206226-7
  8. ^ 笠原和夫 『映画はやくざなり』 新潮社2003年、20-25頁。ISBN 978-4104609017俊藤浩滋・山根貞男 『任侠映画伝』 講談社、1999年、116頁。ISBN 4-06-209594-7松島利行 『風雲映画城』下、講談社、1992年、121-125頁。ISBN 4-06-206226-7
  9. ^ 小沢茂弘高橋聡 『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈』 ワイズ出版1996年、59-62、72頁。ISBN 4948735574
  10. ^ a b c d 『映画監督 深作欣二の軌跡』、151頁。
  11. ^ 『任侠映画が青春だった 全証言伝説のヒーローとその時代』、9頁。
  12. ^ 岡田茂(東映・相談役)×福田和也「東映ヤクザ映画『黄金時代』を語ろう 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の舞台裏は 」、『オール読物』、文藝春秋2006年3月、 216頁。
  13. ^ 山平重樹 『高倉健と任侠映画』 徳間書店、2015年、11-12頁。ISBN 978-4-19-907028-0
  14. ^ 『日本映画テレビ監督全集』 キネマ旬報社1988年、345頁。

外部リンク[編集]