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| 製作 = [[本木莊二郎]] |
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| 脚本 = 黒澤明<br />[[橋本忍]]<br />[[小国英雄]] |
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| 出演者 = [[三船敏郎]]<br />[[志村喬]]<br />[[津島恵子]]<br />[[木村功]]<br />[[加東大介]]<br />[[宮口精二]]<br />[[稲葉義男]]<br />[[千秋実]]<br />[[土屋嘉男]]<br />[[藤原釜足 |
| 出演者 = [[三船敏郎]]<br />[[志村喬]]<br />[[津島恵子]]<br />[[木村功]]<br />[[加東大介]]<br />[[宮口精二]]<br />[[稲葉義男]]<br />[[千秋実]]<br />[[土屋嘉男]]<br />[[藤原釜足]] |
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| 音楽 = [[早坂文雄]] |
| 音楽 = [[早坂文雄]] |
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| 撮影 = [[中井朝一]] |
| 撮影 = [[中井朝一]] |
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| 製作会社 = [[東宝]] |
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| 配給 = {{flagicon|JPN}} 東宝 |
| 配給 = {{flagicon|JPN}} 東宝 |
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| 公開 = {{flagicon|JPN}} 1954年4月26日<br/>{{flagicon|ITA}} 1954年8月<br/>{{flagicon|FRA}} 1955年11月30日<br/>{{flagicon|USA}} 1956年7月 |
| 公開 = {{flagicon|JPN}} 1954年4月26日<br/>{{flagicon|ITA}} 1954年8月 ([[ヴェネツィア国際映画祭|VIFF]])<br/>{{flagicon|FRA}} 1955年11月30日<br/>{{flagicon|USA}} 1956年7月 |
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| 上映時間 = 207分 |
| 上映時間 = 207分 |
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| 製作国 = {{JPN}} |
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| 言語 = [[日本語]] |
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| 製作費 = 2億1,000万円{{sfn|都築|1999|p=16}} |
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| 興行収入 = |
| 興行収入 = |
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| 配給収入 = 2億6,823万円 |
| 配給収入 = 2億6,823万円{{Sfn|85回史|2012|p=112}} |
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| 前作 = |
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| 次作 = |
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『'''七人の侍'''』(しちにんのさむらい)は、[[1954年]]に公開された[[日本映画|日本]]の[[時代劇]]映画である。監督は[[黒澤明]]、主演は[[三船敏郎]]と[[志村喬]]。[[モノクロフィルム|モノクロ]]、[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]]、207分。日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天正]]年間(劇中の台詞によると[[1586年]]{{Refnest|group="注釈"|劇中に「[[天正]]2年甲戌2月17日生まれ」と記されている菊千代の家系図を見て、彼を「13歳」と揶揄する場面があることから、1586年と知れる。}})を舞台とし、野武士の[[略奪]]に悩む[[百姓]]に雇われた7人の[[侍]]が、[[身分]]差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の襲撃から村を守るという物語である。 |
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当時の通常作品の7倍に匹敵する製作費を投じ、1年近い撮影期間をかけて作られたが、興行的に高い成功を収めた<ref name="大系2解説">[[浜野保樹]]「解説・世界のクロサワと挫折―『七人の侍』」({{Harvnb|大系2|2009|pp=677-681}})</ref>{{sfn|佐藤|200 2|pp=188-189}}。複数カメラや[[望遠レンズ]]の効果的使用、緊密な編集技法などを駆使して、クライマックスの豪雨の決戦シーンなどのダイナミックなアクションシーンを生み出した。また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[西部劇]]の手法を取り入れ、細密な脚本と時代考証により、旧来の[[アクション映画]]と時代劇にはない[[リアリズム]]を確立した。 |
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『'''七人の侍'''』(しちにんのさむらい)は、[[1954年]]([[昭和]]29年)[[4月26日]]に公開された[[日本映画]]である。[[東宝]]製作・配給。監督は[[黒澤明]]、主演は[[三船敏郎]]と[[志村喬]]。[[モノクロ]]、[[スタンダード・サイズ]]、207分。日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]](劇中の台詞によると[[1586年]]<ref>作中、「[[天正]]2年甲戌2月17日生まれ」と記されている菊千代の家系図を見て、彼を「13歳」と揶揄する場面があり、1586年と知れる。</ref>)を舞台とし、野武士の[[強奪|略奪]]により困窮した[[百姓]]に雇われる形で集った7人の[[侍]]が、[[身分]]差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。[[ヴェネツィア国際映画祭]][[銀獅子賞]]受賞。 |
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本作は世界で最も有名な日本映画のひとつである。[[1954年]]の第15回[[ヴェネツィア国際映画祭]]では[[銀獅子賞]]を受賞した。国内外の多くの映画監督や作品に大きな影響を与えており、[[1960年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[西部劇]]『[[荒野の七人]]』として[[リメイク]]された。{{仮リンク|最高の映画のリスト|en|List of films considered the best}}に何度も選出されており、[[2018年]]に[[英国放送協会|BBC]]が発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれた<ref name="外国語映画">{{Cite web|url=https://eiga.com/news/20181112/7/ |title=英BBCが選ぶ史上最高の外国語映画1位に「七人の侍」|date=2018/11/12|accessdate=2020-01-12|work=映画.com}}</ref>。 |
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当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。黒澤明が初めて{{仮リンク|マルチカム方式|en|Multiple-camera setup}}(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用し、[[望遠レンズ]]を多用した。ダイナミックな[[映像編集|編集]]を駆使して、豪雨の決戦シーン等迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、[[脚本]]、綿密な時代考証等により、[[アクション映画]]・時代劇における[[リアリズム]]を確立した。黒澤が尊敬する[[ジョン・フォード]]の[[西部劇]]から影響を受けており、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ]]では[[1960年]]に『[[荒野の七人]]』として、[[2016年]]に『[[マグニフィセント・セブン]]』として[[リメイク]]されている<ref>『荒野の七人』と『マグニフィセント・セブン』の原題はともに『The Magnificent Seven』である。</ref>。 |
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『七人の侍』は世界で最も有名な日本映画の一つであり、海外の多くの{{仮リンク|最高の映画のリスト|en|List of films considered the best}}に選ばれるなど高い評価を受けている。[[Rotten Tomatoes]]では61件のレビューで批評家支持率は100%を保持、平均点は9.35/10となった<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/seven_samurai_1956|title=SEVEN SAMURAI (SHICHININ NO SAMURAI)|website=[[Rotten Tomatoes]]|accessdate=2020/02/15}}</ref>。また同サイトにおける「アートハウス&国際映画のトップ100」では第6位にランクインされている<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/top/bestofrt/top_100_art_house__international_movies/?category=4|title=TOP 100 ART HOUSE & INTERNATIONAL MOVIES|website=[[Rotten Tomatoes]]|accessdate=2020/02/15}}</ref>。[[2018年]]に[[英国放送協会|BBC]]が発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では第1位に選ばれた<ref name="外国語映画">{{Cite web|url=https://eiga.com/news/20181112/7/ |title=英BBCが選ぶ史上最高の外国語映画1位に「七人の侍」|accessdate=2020-01-12|work=映画.com}}</ref>。 |
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== あらすじ == |
== あらすじ == |
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豪雨が降りしきる中夜が明け、残る13騎の野武士が襲来する。勘兵衛はあえてこれらをすべて村に入れたうえで包囲し、決戦が始まる。野武士らは1騎また1騎と討ち取られていくが、野武士の頭目は密かに村の女子供が隠れていた家に入り込む。大勢が決したころ、久蔵が小屋に潜んでいた頭目が放った銃弾によって斃れる。続いて菊千代も撃たれるが、菊千代は鬼気迫る迫力で追いつめた頭目を刺し殺し、自らもその場で果て、野武士はついに壊滅する。 |
豪雨が降りしきる中夜が明け、残る13騎の野武士が襲来する。勘兵衛はあえてこれらをすべて村に入れたうえで包囲し、決戦が始まる。野武士らは1騎また1騎と討ち取られていくが、野武士の頭目は密かに村の女子供が隠れていた家に入り込む。大勢が決したころ、久蔵が小屋に潜んでいた頭目が放った銃弾によって斃れる。続いて菊千代も撃たれるが、菊千代は鬼気迫る迫力で追いつめた頭目を刺し殺し、自らもその場で果て、野武士はついに壊滅する。 |
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野武士を撃退した村には平穏な日常が戻り、晴れ空の下で村人は笛や太鼓で囃しながら[[田植]]にいそしむ。活力に満ちて新たな生活を切り拓いていく村人たちとは対照的に、その様子を見つめる生き残った3人の侍の表情は浮かない。侍たちの横を田植に向かう村の娘たちが通り過ぎていく。その中に志乃がおり、勝四郎を見て躊躇うが、何も言わずに振り切って田に駆け込む。そのまま田植歌を口ずさみながら、勝四郎を忘れるように志乃は一心に苗を植えていく。 |
野武士を撃退した村には平穏な日常が戻り、晴れ空の下で村人は笛や太鼓で囃しながら[[田植]]にいそしむ。活力に満ちて新たな生活を切り拓いていく村人たちとは対照的に、その様子を見つめる生き残った3人の侍の表情は浮かない。侍たちの横を田植に向かう村の娘たちが通り過ぎていく。その中に志乃がおり、勝四郎を見て躊躇うが、何も言わずに振り切って田に駆け込む。そのまま田植歌を口ずさみながら、勝四郎を忘れるように志乃は一心に苗を植えていく。勘兵衛は「今度もまた、負け戦だったな」とつぶやき、怪訝な顔をする七郎次に対して「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」と述べて勘兵衛は墓地の丘を見上げる。その頂上には、墓標代わりに刀が突きたてられた4つの土饅頭があった。 |
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勘兵衛がつぶやく。 |
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:「今度もまた、負け戦だったな」 |
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怪訝な顔をする七郎次に対して「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」と述べて勘兵衛は墓地の丘を見上げる。その頂上には、墓標代わりに刀が突きたてられた4つの土饅頭があった。 |
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== 登場人物 == |
== 登場人物 == |
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: 7人の侍を率いることになる[[浪人]]。そろそろ50に手が届く白髪の目立つ風貌。歴戦の智将だが、合戦は敗戦続きで浪人となる。普段は笑顔が多く、温厚で冷静沈着だが、リーダーとして鋭く叱責することもある。また若い頃の「一国一城の主」という志も肉体的、年齢的に既に叶わぬ己の身に一抹の憂いを見せる場面もある。[[僧#剃髪|剃髪]]した頭をなでるのが癖。 |
: 7人の侍を率いることになる[[浪人]]。そろそろ50に手が届く白髪の目立つ風貌。歴戦の智将だが、合戦は敗戦続きで浪人となる。普段は笑顔が多く、温厚で冷静沈着だが、リーダーとして鋭く叱責することもある。また若い頃の「一国一城の主」という志も肉体的、年齢的に既に叶わぬ己の身に一抹の憂いを見せる場面もある。[[僧#剃髪|剃髪]]した頭をなでるのが癖。 |
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: 剃髪して僧に成りすまし、豪農の子供を盗人から無償で救ったことで利吉達に助けを求められる。当初は「できぬ相談」と拒んでいたが、百姓の犠牲的な熱意や人足の言葉に負け、引き受ける。野武士との戦では地形を生かした策を繰り広げ、戦いを有利に進める。 |
: 剃髪して僧に成りすまし、豪農の子供を盗人から無償で救ったことで利吉達に助けを求められる。当初は「できぬ相談」と拒んでいたが、百姓の犠牲的な熱意や人足の言葉に負け、引き受ける。野武士との戦では地形を生かした策を繰り広げ、戦いを有利に進める。 |
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:向かってくる騎馬武者を一刀で叩き斬ったり、最終決戦において村に突入してきた騎馬を、豪雨の中しぶきを飛ばしながら弓で次々に射落すなど個人的な戦闘能力も見せる。 衣装は[[日本刀#造り込みの種類|平造]]・合口拵えの[[短刀]]に、[[打刀|打刀拵え]]の[[太刀]]と、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期の初老の侍のいでたちをしている。 |
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; {{Anchor|菊千代}}(きくちよ) |
; {{Anchor|菊千代}}(きくちよ) |
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: 演:[[三船敏郎]] |
: 演:[[三船敏郎]] |
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: 勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてくる |
: 勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてくる男。弟子入りしたいが、作法が分からず、勝四郎に先を越されてしまう。長大な刀を肩に担いで浪人のように振舞っているが、侍としてあるまじき言動や、前後不覚の泥酔状態になったりと、勘兵衛には即座に本当の侍ではないと見破られている。 |
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: 生まれは百姓の出で、戦禍で親を失い孤児として育つ。本名は本人も忘れており不明。「菊千代」という名前は勘兵衛に侍だと思われたいがために、泥酔しながら、盗んだ武家の家系図の上に指し示した元服前の子供の名前で、後に仲間として受け入れられた時にそのまま定着する。村で百姓たちに戦備えのための槍の指導をするなど、孤児として親を失った後もいくつかの戦禍を見聞きしているような言動があり、その過程で独学にて一応の侍的な武具の扱いを体得したらしく、腕っぷしは半端な野武士より強い。馬にも乗れるが自己流のようで、与平の農耕馬に乗ってみた挙句、一同の眼前で落馬している。 |
: 生まれは百姓の出で、戦禍で親を失い孤児として育つ。本名は本人も忘れており不明。「菊千代」という名前は勘兵衛に侍だと思われたいがために、泥酔しながら、盗んだ武家の家系図の上に指し示した元服前の子供の名前で、後に仲間として受け入れられた時にそのまま定着する。村で百姓たちに戦備えのための槍の指導をするなど、孤児として親を失った後もいくつかの戦禍を見聞きしているような言動があり、その過程で独学にて一応の侍的な武具の扱いを体得したらしく、腕っぷしは半端な野武士より強い。馬にも乗れるが自己流のようで、与平の農耕馬に乗ってみた挙句、一同の眼前で落馬している。 |
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: 型破りの乱暴者だが子供好きであるらしく、村の子供たちの前でおどけて見せるシーンも多い。野武士との戦では東の川沿いの守りを任される。抜け駆けせんと持ち場を離れた結果、五郎兵衛を戦死させた為、最後の決戦では、勘兵衛の指示を守りながら爆発的な働きを見せる。額当てのように、篭手を頭に巻く。 |
: 型破りの乱暴者だが子供好きであるらしく、村の子供たちの前でおどけて見せるシーンも多い。野武士との戦では東の川沿いの守りを任される。抜け駆けせんと持ち場を離れた結果、五郎兵衛を戦死させた為、最後の決戦では、勘兵衛の指示を守りながら爆発的な働きを見せる。額当てのように、篭手を頭に巻く。 |
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: 基本的に[[コミックリリーフ|コメディ・リリーフ]]であるが、自らの失策で相棒の与平を死なせてから、悲壮感が漂うようになる。 |
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: 当初は膳兵衛という名前で、戦国が生んだ鬼という久蔵に似た暗いキャラクターとして描かれていたが、黒澤明が侍の中に型破りで明るく、また侍と百姓をつなぐキャラクターが欲しいという要望で、三船敏郎の性格をモデルに菊千代へとキャラクターが変更された。 その三船敏郎は脚本に軽く目を通した際、黒澤明に向かって「この菊千代というのが僕ですね」と配役も告げていない段階で言い当てた。 |
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: 7人の中で最も多く野武士を倒している(頭目を含む)、ある意味、最強の男である。黒澤明の三船敏郎に対する配慮が窺える。 |
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: 黒澤明が「用心棒」、「椿三十郎」に先駆け、三船敏郎に演じさせた最初の[[名無しの権兵衛]]である。 |
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; 岡本勝四郎{{Anchors|岡本勝四郎|勝四郎}}(おかもとかつしろう) |
; 岡本勝四郎{{Anchors|岡本勝四郎|勝四郎}}(おかもとかつしろう) |
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: 演:[[木村功]] |
: 演:[[木村功]] |
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: 育ちがいい裕福な[[郷士]]の末子で半人前の浪人。7人の中では最年少で、まだ前髪も下ろしていない。浪人になりたいと親に頼んでも許されないので家を飛び出して旅をしている。勘兵衛の姿に憧れて付いて行こうとするが、勘兵衛に浪人の辛い現実を教えられ一時動揺する。実戦経験はなく、すべてが新しい経験ばかりで、事件を若々しい敏感な感情で受け取る。野武士との戦では伝令役を任される。 |
: 育ちがいい裕福な[[郷士]]の末子で半人前の浪人。7人の中では最年少で、まだ前髪も下ろしていない。浪人になりたいと親に頼んでも許されないので家を飛び出して旅をしている。勘兵衛の姿に憧れて付いて行こうとするが、勘兵衛に浪人の辛い現実を教えられ一時動揺する。実戦経験はなく、すべてが新しい経験ばかりで、事件を若々しい敏感な感情で受け取る。野武士との戦では伝令役を任される。 |
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: 敬愛する久蔵の死に仇を討とうとするも菊千代に制され、結果、2人の生死を分けることになる。そして、やり場のない怒りにただ、号泣する。 |
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: 森の中で百姓の娘の志乃と出会い、互いに惹かれ合う。 |
: 森の中で百姓の娘の志乃と出会い、互いに惹かれ合う。 |
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: 演:[[稲葉義男]] |
: 演:[[稲葉義男]] |
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: 勘兵衛が腕試しのために仕掛けた待ち伏せを事前に一目で見抜いた。勘兵衛の人柄に惹かれて助力する浪人。いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に何か人をなだめるような力がある。[[軍学]]は相当でき、経験も豊富。野武士との戦では勘兵衛の参謀役を務めた。 |
: 勘兵衛が腕試しのために仕掛けた待ち伏せを事前に一目で見抜いた。勘兵衛の人柄に惹かれて助力する浪人。いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に何か人をなだめるような力がある。[[軍学]]は相当でき、経験も豊富。野武士との戦では勘兵衛の参謀役を務めた。 |
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: 腕試しを見抜くシーンは[[塚原卜伝]]のエピソードをモデルにしている。 |
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; {{Anchor|七郎次}}(しちろうじ) |
; {{Anchor|七郎次}}(しちろうじ) |
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: 演:[[加東大介]] |
: 演:[[加東大介]] |
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: かつての勘兵衛の最も忠実な股肱。過去の戦(負け戦)で勘兵衛と離れ離れになった後、物売りとして過ごしていた。再会時には勘兵衛の顔付きだけでその求むところを知り、ただちにそれに従って動く。 |
: かつての勘兵衛の最も忠実な股肱。過去の戦(負け戦)で勘兵衛と離れ離れになった後、物売りとして過ごしていた。再会時には勘兵衛の顔付きだけでその求むところを知り、ただちにそれに従って動く。村人の[[落ち武者狩り]]を知ったときは真っ先に激昂したが、戦の最中は百姓たちを常に励まし、自分の組に入った万造への気遣いも見せる。野武士との戦では西の入り口の守りを受け持ち、侍たちの中で唯一長[[槍]]を振るう。 |
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: 村に、[[落ち武者狩り]]による武具があるのを見たときは真っ先に激昂したが、戦の最中は百姓たちを常に励まし、自分の組に入った万造への気遣いも見せる。野武士との戦では西の入り口の守りを受け持ち、侍たちの中で唯一長[[槍]]を振るう。 |
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; 林田平八{{Anchors|林田平八|平八}}(はやしだへいはち) |
; 林田平八{{Anchors|林田平八|平八}}(はやしだへいはち) |
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; {{Anchor|久蔵}}(きゅうぞう) |
; {{Anchor|久蔵}}(きゅうぞう) |
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: 演:[[宮口精二]] |
: 演:[[宮口精二]] |
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: 修行の旅を続ける凄腕の[[剣客]]。勘兵衛の誘いを1度は断ったものの、気が変わり加わる。勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」と評し、口数が少なくあまり感情を表さないが、根は優しいという側面を多々見せる。野武士との戦では北の裏山の守りを受け持つ。「[[肩衣]]」はつけておらず、合戦時も他の侍と異なり、[[籠手]](こて)や[[額当]](勘兵衛。菊千代は[[半首]])、[[腹巻]](勝四郎)・[[腹当]]などの防具は着用していない |
: 修行の旅を続ける凄腕の[[剣客]]。勘兵衛の誘いを1度は断ったものの、気が変わり加わる。勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」と評し、口数が少なくあまり感情を表さないが、根は優しいという側面を多々見せる。野武士との戦では北の裏山の守りを受け持つ。「[[肩衣]]」はつけておらず、合戦時も他の侍と異なり、[[籠手]](こて)や[[額当]](勘兵衛。菊千代は[[半首]])、[[腹巻]](勝四郎)・[[腹当]]などの防具は着用していない{{Refnest|group="注釈"|戦国時代盛期には、このような居合い抜きの剣豪はいなかったが、侍の個性の幅を出すためにこのタイプの侍も採用された。}}。黙々と自分の役目をこなし、危険な仕事も率先して受け持ち確実に成果を上げる姿を、勝四郎は「素晴らしい人」と絶賛した。 |
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: [[宮本武蔵]]もしくは[[柳生三厳]]がモデルで、初登場シーンにおける浪人との果し合いは三厳のエピソードをモデルとしている。当初のイメージキャストは三船敏郎だった。 |
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=== 村の百姓 === |
=== 村の百姓 === |
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; {{Anchor|万造}}(まんぞう) |
; {{Anchor|万造}}(まんぞう) |
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: 演:[[藤原釜足]] |
: 演:[[藤原釜足]] |
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: 壮年の百姓。志乃の父。自己保身ばかり考えており、すぐにふてくされる、身勝手な性格。野武士と戦うことに消極的だが儀作の提案で嫌々浪人探しに町へ出る。 |
: 壮年の百姓。志乃の父。自己保身ばかり考えており、すぐにふてくされる、身勝手な性格。野武士と戦うことに消極的だが儀作の提案で嫌々浪人探しに町へ出る。合戦時は七郎次の組に入る。 |
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: 利吉とは何かと折り合いが悪く、積極的な利吉に毒を吐いて喧嘩になることが多い。 |
: 利吉とは何かと折り合いが悪く、積極的な利吉に毒を吐いて喧嘩になることが多い。また、利吉の女房の二の舞を危惧し、親心から娘を守ろうと、泣き叫び抵抗する志乃の髪を切って無理矢理[[男装]]させるが、それが原因で村中騒然となる。勘兵衛ら侍達にも娘を取られるのではと警戒しており、志乃を男装させたままにする。 |
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: 利吉の女房の二の舞を危惧し、親心から娘を守ろうと、泣き叫び抵抗する志乃の髪を切って無理矢理[[男装]]させるが、それが原因で村中騒然となる。勘兵衛ら侍達にも娘を取られるのではと警戒しており、志乃を男装させたままにする。合戦時は七郎次の組に入る。 |
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; {{Anchor|与平}}(よへい) |
; {{Anchor|与平}}(よへい) |
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; 利吉の女房 |
; 利吉の女房 |
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: 演:[[島崎雪子]] |
: 演:[[島崎雪子]] |
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: 収穫物を野武士に強奪される代わりとして、村から人身御供で差し出された女性。野武士の山塞に囚われの身となり慰み者にされる。菊千代らの手によって火が放たれた際に、火に気付きいったんは驚愕するも、叫んだり逃げたりもせず凄味のある笑みを浮かべた。幽鬼のような状態で外に出てくるが、眼前に現れた夫・利吉に驚き、焼け崩れる山塞の中に走り戻り姿を消す |
: 収穫物を野武士に強奪される代わりとして、村から人身御供で差し出された女性。野武士の山塞に囚われの身となり慰み者にされる。菊千代らの手によって火が放たれた際に、火に気付きいったんは驚愕するも、叫んだり逃げたりもせず凄味のある笑みを浮かべた。幽鬼のような状態で外に出てくるが、眼前に現れた夫・利吉に驚き、焼け崩れる山塞の中に走り戻り姿を消す。 |
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; {{Anchor|伍作}}(ごさく) |
; {{Anchor|伍作}}(ごさく) |
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149行目: | 135行目: | ||
: 儀作と暮らす夫婦で、赤子が一人いる。戦の始まりとともに水車小屋に篭った儀作を連れ戻そうとして野武士に襲われ、助けに来た菊千代に赤子を託して絶命する。 |
: 儀作と暮らす夫婦で、赤子が一人いる。戦の始まりとともに水車小屋に篭った儀作を連れ戻そうとして野武士に襲われ、助けに来た菊千代に赤子を託して絶命する。 |
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; 久右 |
; 久右衛門の婆様 |
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: 演: |
: 演:キクさん{{sfn|廣澤|2002|pp=166-173}}(本名不詳、[[#キャスティング|キャスティング]]参照) / 声:[[三好栄子]]※ |
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: かつて野武士に家族を殺された老女。捕えられた野武士の斥候に鍬を持って迫る。 |
: かつて野武士に家族を殺された老女。捕えられた野武士の斥候に鍬を持って迫る。 |
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: 演じたトメさんは[[B-29]]による空襲で家族を失ったという全く同じ境遇の人物で撮影中もスタッフが懸命にセリフを覚えさせたが、本番になると「[[B-29|B]]が、Bが」と繰り返し、スタッフを困らせた。しかし、黒澤は「これがいい」といって、セリフだけ三好栄子にアフレコをさせた。 |
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: 完成の遅れから、トメさんは作品を見ることなく世を去った。 |
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; その他 |
; その他 |
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198行目: | 182行目: | ||
: 豪農の前の百姓:[[堤康久]]、[[片桐常雄]]、[[岡豊]]※ |
: 豪農の前の百姓:[[堤康久]]、[[片桐常雄]]、[[岡豊]]※ |
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: 豪農の前の百姓女:[[馬野都留子]] |
: 豪農の前の百姓女:[[馬野都留子]] |
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: 町を歩く浪人:[[仲代達矢]]※、[[宇津井健]]※、[[伊藤久哉]]※、[[加藤武]]※ |
: 町を歩く浪人:[[仲代達矢]]※、[[宇津井健]]※、[[伊藤久哉]]※、{{要出典|範囲=[[加藤武]]※|date=2020年8月}} |
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=== 野武士 === |
=== 野武士 === |
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209行目: | 193行目: | ||
; 斥候 |
; 斥候 |
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: 演:[[上田吉二郎]](斥候A)、[[谷晃]](斥候B)、[[中島春雄]](斥候C) |
: 演:[[上田吉二郎]](斥候A)、[[谷晃]](斥候B)、[[中島春雄]](斥候C) |
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: 村を偵察に来たところをBとCは待ち伏せしていた久蔵に斬られ、Aは捕縛されて村へ連れて行かれる。百姓たちに殺されそうになったところを「敵の情報を話した上こうやった命乞いしている者を無下にはできない」と勘兵衛に庇われるが、久右 |
: 村を偵察に来たところをBとCは待ち伏せしていた久蔵に斬られ、Aは捕縛されて村へ連れて行かれる。百姓たちに殺されそうになったところを「敵の情報を話した上こうやった命乞いしている者を無下にはできない」と勘兵衛に庇われるが、久右衛門の婆様に倅の仇として討たれる。 |
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; 鉄砲の野武士 |
; 鉄砲の野武士 |
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: 演:[[高原駿雄]] |
: 演:[[高原駿雄]] |
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== スタッフ == |
== スタッフ == |
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* 製作:[[本木荘二郎]] |
* 製作:[[本木荘二郎]] |
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* 監督 :[[黒澤明]] |
* 監督 :[[黒澤明]] |
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* 監督助手:[[堀川弘通]](チーフ)、 |
* 監督助手:[[堀川弘通]](チーフ)、[[廣澤栄]]、[[田実泰良]]、金子敏、清水勝弥 |
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* 脚本:黒澤明、[[橋本忍]]、[[小国英雄]] |
* 脚本:黒澤明、[[橋本忍]]、[[小国英雄]] |
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* 撮影:[[中井朝一]] |
* 撮影:[[中井朝一]] |
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* 撮影助手:[[斎藤孝雄]] |
* 撮影助手:[[斎藤孝雄]] |
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* 編集:[[岩下広一]] |
* 編集:[[岩下広一]] |
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* 音楽:[[早坂文雄]] |
* 音楽:[[早坂文雄]] |
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* 美術:[[松山崇]] |
* 美術:[[松山崇]] |
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* 美術助手:[[村木与四郎]] |
* 美術助手:[[村木与四郎]] |
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* 美術小道具:浜村幸一 |
* 美術小道具:浜村幸一 |
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* 衣装:山口美江子(京都衣裳) |
* 衣装:山口美江子(京都衣裳) |
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* 録音:[[矢野口文雄]] |
* 録音:[[矢野口文雄]] |
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* 録音助手:上原正直 |
* 録音助手:上原正直 |
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* 音響効果:[[三縄一郎]] |
* 音響効果:[[三縄一郎]] |
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* 照明:森茂 |
* 照明:森茂 |
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* 照明助手:金子光男 |
* 照明助手:金子光男 |
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* 美術考証:[[前田青邨]]、[[江崎孝坪]] |
* 美術考証:[[前田青邨]]、[[江崎孝坪]] |
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* スチル:副田正男 |
* スチル:副田正男 |
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* 製作担当者:根津博 |
* 製作担当者:根津博 |
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* 剣術指導:杉野嘉男 (日本古武道振興会) |
* 剣術指導:杉野嘉男 (日本古武道振興会) |
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* 流鏑馬指南:金子家教 (日本弓馬会範士) 遠藤茂 (日本弓馬会範士) |
* 流鏑馬指南:金子家教 (日本弓馬会範士) 遠藤茂 (日本弓馬会範士) |
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* 記録:[[野上照代]] |
* 記録:[[野上照代]] |
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* 結髪:中条みどり |
* 結髪:中条みどり |
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* 粧髪:山田順 |
* 粧髪:山田順二郎 |
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* 演技事務:中根敏雄 |
* 演技事務:中根敏雄 |
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* 現像:[[光映新社|東宝現像所]] |
* 現像:[[光映新社|東宝現像所]] |
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== 製作 == |
== 製作 == |
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=== 脚本 === |
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黒澤は『[[生きる (映画)|生きる]]』に |
[[1952年]]、[[黒澤明]]は『[[生きる (映画)|生きる]]』の撮影中に、次回作として「本物の[[時代劇]]」を作ろうと考えた<ref name="大系2解説"/>。黒澤はこれまでにはない徹底したリアルな時代劇を作るため、[[橋本忍]]とある城勤めの下級武士の平凡な一日を描く『[[侍の一日]]』{{Refnest|group="注釈"|橋本は『侍の一日』の物語について、「ある侍が、ある日起きて寝巻を着がえて、顔洗って[[月代]]そって、飯食って城へ上がって、昼過ぎにささいなへまをして、家へ帰って[[切腹]]して死んだ。こういう映画をやろうとしたわけです」と述べている{{sfn|研究会|1999|p=163}}。}}という作品を構想した<ref name="橋本">「第1章 黒澤明という男―『七人の侍』Ⅰ」({{Harvnb|橋本|2006|p=103-130}})</ref>。そこで侍の日常生活から城勤めに関する詳細までを調べるため、橋本は先行して[[上野]]の[[国立国会図書館支部上野図書館|国立国会図書館]]に通うが、「当時の侍の昼食は、弁当持参だったのか、給食が出たのか」「当時は1日2食であり、昼食を摂る習慣はなかったのではないか」等の疑問が解決できず、物語のリアリティが保てないという理由で断念した<ref name="橋本"/>。 |
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次に[[上泉信綱]]などの剣豪伝をオムニバスで描く |
次に[[上泉信綱]]などの[[剣豪]]伝を[[オムニバス]]で描く『日本剣豪列伝』を企画し、橋本が初稿を執筆するが、クライマックスの連続では映画にはならないためこれも断念した<ref name="橋本2">「第1章 黒澤明という男―『七人の侍』Ⅱ」({{Harvnb|橋本|2006|p=131-170}})</ref>。その後、黒澤と橋本はふとした話から、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の浪人は全国を旅して回る武者修行でどのように食べていけたのかという疑問が出てきて、それを[[東宝]]の文芸部員に調べさせたところ、結果報告に来た[[本木荘二郎]]から、「宿泊先の道場や寺院がない場合は、百姓に雇われて飯と宿を与えてもらう代わりに、盗賊などから村を守っていた」という話が出てきた<ref name="橋本2"/>。この話が元となり、百姓が侍を雇うという本作のストーリーの根幹が生まれた。 |
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1952年12月、黒澤と橋本は[[小國英雄]]を加え、[[熱海温泉|熱海]]の旅館「水口園」に投宿して脚本執筆を開始した{{Sfn|都築|2010|pp=209-213}}。黒澤は七人の侍のキャラクターのイメージを大学ノート数冊にびっしりと書き込み、その内容は身長から草履の履き方、歩き方、他人との応答の仕方、背後から声をかけられたときの振り返り方など、ありとあらゆるシチュエーションに対応する立ち居振る舞いにまで及んだ<ref name="橋本2"/>。脚本執筆は橋本が第1稿を書き、それを黒澤と橋本が根本的に書き直し、2人が同じシーンを書いたものを小國が判定して良いところだけを取り、完成すると次のシーンに移るという形で進められた{{Sfn|堀川|2000|p=165}}。その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて部屋に入れないほどだったという<ref name="橋本2"/>。 |
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当初は志村喬扮するリーダーの勘兵衛と、三船敏郎扮する最強の侍、久蔵の生きざまを勝四郎の視点で悲恋を交えて描いた黒澤得意の[[師弟]]物語という構想であったが、三船の演じるキャラクターの変更に伴い、物語の主眼も変わり、二人の師匠から、二人の弟子の生き死にという構図となる。本編上でも菊千代がいなければ、三船の久蔵が最後に登場、仲間入りし、討ち死にするという構成になっていることが分かる。 |
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=== キャスティング === |
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3人は45日間「水口園」に閉じこもって脚本を書いていたのだが、その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて声をかけられないほどであった。七人の侍のキャラクターのイメージは大学ノート数冊にびっしりと書かれていたという。主に黒澤と橋本が同じシーンを競作(コンペ)したものを小國がジャッジし、出来の良かった方が採用されるという、極めてシビアな執筆活動であった。 |
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久蔵役は[[三船敏郎]]を想定していたが、シナリオ段階で侍と百姓を結びつける人間が必要になり、そこで農民出身で侍に憧れるニセ侍の菊千代という型破りなキャラクターを登場させ、それを三船が演じることになった{{Sfn|都築|2010|pp=209-213}}{{Sfn|土屋|2002|p=59}}<ref name="秘密">「『七人の侍』創造の秘密を語る」(『ニューフリックス』1991年8月号・9月号)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=131-144}}に所収</ref>。三船は脚本を読んで、黒澤に「菊千代というのは僕ですね」と配役も告げていない段階で言ってきたという<ref name="秘密"/>。菊千代のおどけた場面は、すべて三船の演技プランによるものである<ref name="sponichi1">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/miwa/kiji/K20091229Z00000930.html |title=「世界のミフネ」いたからこそ |website=Sponichi Annex|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161009135531/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/miwa/kiji/K20091229Z00000930.html |archivedate=2016-10-09 |accessdate=2020-08-1}}</ref>。 |
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久蔵は[[宮口精二]]が演じることになった。宮口は[[剣道]]の経験が全くなかったため、「こんなえらい剣豪なんてやれません」と断ろうとしたが、黒澤に「そこはカメラで何とでもするから」と説得された<ref name="宮口">{{Cite journal |和書 |author=[[宮口精二]] |title=あんないい役は、一生に一遍だなあ |journal=キネマ旬報セレクション 黒澤明 |date=2010-4 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=9784873763293 |pages=144-148}}</ref>。それからは剣術指導の[[杉野嘉男]]のもとで刀の抜き方から特訓を受けた{{sfn|野上|2014|pp=112-114}}。しかし、板木の音で水車小屋から6人の侍が飛び出すシーンでは、宮口が一番走るのが速く、走り方も腰が据わっていたため、黒澤は安心したという<ref name="秘密"/>。宮口は「僕はあの役を演って、本当によかった。あれは大変なもうけ役なんだよ。あんないい役は、一生に一遍、あるかないかだなあ」と語っている<ref name="宮口"/>。 |
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黒澤は、この映画を何十回も見たという[[井上ひさし]]との対談で、どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか問われると、この脚本の根底にあるのは[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』である。その中からいろいろなことを学んでいる。また、[[アレクサンドル・ファジェーエフ]]の『壊滅』も下敷きになっていると答えた<ref>『黒澤明「夢は天才である」』文藝春秋、1999年</ref>。 |
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村人役は、主要俳優を除くと東宝の大部屋俳優が23人、エキストラ業者の俳優が17人、[[劇団若草]]やこけし座などの児童劇団の子役が18人参加した{{sfn|廣澤|2002|pp=166-173}}。劇団若草の[[二木てるみ]]も3歳で百姓の幼児役で出演した<ref>{{Cite book |和書 |author=[[二木てるみ]] |date=2003-6 |title=あなたを見ていると、子供の頃を思い出します |publisher=けやき出版 |isbn=9784877512040 |page=20}}</ref>。家族を野武士に殺された久右衛門の婆様役は、助監督の[[廣澤栄]]が[[杉並区]]の老人ホームで役探しをして見つけた、キクさんという女性が演じた。キクさんは[[東京大空襲]]で家族を失ったという役と同じ人物で、廣澤たちが懸命にセリフを覚えさせたが、本番では「身寄りが[[B-29]]のために殺されて…」と口走り、スタッフを困らせた。黒澤は「感じが出ているから」とOKにし、台詞は[[三好栄子]]が吹き替えした{{sfn|廣澤|2002|pp=166-173}}。村の広場に百姓を集めて侍たちが訓示する場面では、キクさんと同じ老人ホームの女性たちも出演した{{sfn|野上|2014|pp=118-119}}。 |
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黒澤は日本画壇の長老[[前田青邨]]を美術監修に迎えた<ref name="黒澤明" />(青邨はクレジットされていない)。青邨は「(歌舞伎の影響の強い)従来の時代劇の[[かつら (装身具)|鬘]]はおかしい。[[虎屋]]の羊かん見たいな[[髷]]がのっかっているのは言語道断、もっと剃り込んでいて低いはず」と、鬘の形を指摘し、鬘は従来のものよりも[[さかやき|月代]]を耳の近くまで剃り込み、側面の髪を低くしたものを採用した。また、青邨の弟子である[[江崎孝坪]]も衣装考証として参加。鎧兜や[[三船敏郎]]が着用した武具は[[甲冑師]]の明珍宗恭が製作指導に当たった。 |
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[[俳優座]]養成所時代の[[仲代達矢]]は、本作で町を歩く浪人役で出演している。仲代の出番はただ歩いて通り過ぎるだけの数秒だったが、黒澤から何度も歩き方でダメ出しされた。撮影は朝から始まるも、OKが出たころには午後3時を回っていた。しかし、黒澤には仲代の印象が残っており、のちに『[[用心棒]]』に起用された時に、黒澤から「あのときの仲代を覚えていたから使ったんだ」と言われたという<ref>[[仲代達矢]]「黒澤明監督直々のオーディション」(『遺し書き』主婦と生活社、2001年)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=131-144}}に一部所収</ref>。 |
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撮入前の本読みが始まると、扮装テストも毎日行われ、黒澤は着物の柄を描いたり役者のスケッチをしたりした。本作のために黒澤にスカウトされた[[土屋嘉男]]は、黒澤自身から丹念にメイクアップされ、日毎訂正された。衣装が出来上がってくると、黒澤は「役の上では着たきり雀だから」と、俳優たちに着物(三着同じものが用意された)を渡し、それぞれ持ち帰って撮影中は毎日着て汚し、垢じみた感じにしてくれと命じた。なかなか汚れない着物に、じれったくなった土屋は土の上に寝転んだり魚釣りに着て行ったりしたので、「あそこの息子は可哀想に変になった」などとうわさされた。困った土屋は[[蝋]]を染み込ませた上から[[軽石]]でこすって、うまく着古した感じを出して工夫した。 |
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=== 撮影 === |
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やがて衣装に愛着の湧いてきた土屋に、黒澤は「完成したら一着お前にやる」と約束したので、土屋は期待していたが、結局本作の衣装はフランスのフィルムライブラリーに寄贈されてしまった。また、黒澤は「今までの時代劇とは全く違う鬘を作ってくれ」と「[[山田かつら]]」の山田順次郎に頼み、実際の髷のように生え際が後に逃げ、毛は少なく髷も細く、羽二重もリアルな材質にしてもらった<ref>[[土屋嘉男]]「喧嘩も才能のうち」、『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』に収録(新潮社、1999年)</ref>。 |
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==== 撮影地 ==== |
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{{multiple image |align=right |direction=vertical |width=240 |image1=Shizuoka pref. with Mount Fuji 20120821.jpg |caption1=[[丹那トンネル]]直上からの景色。冒頭の野武士が村を見下ろす場面は、丹那トンネルの真上で撮影され、村の全景のセットはその眼下に作られた{{Sfn|土屋|2002|pp=73-77}}。 |image2=Ayutsubo waterfall 20111008 b.jpg |caption2=[[静岡県]]にある[[鮎壺の滝]]。この滝で[[三船敏郎]]演じる菊千代が鮎を捕まえて食べるシーンが撮影された<ref name="滝">{{Cite web |url=https://numazukanko.jp/feature/ayutsubono-taki/top |title=ジオパーク「鮎壺の滝(あゆつぼのたき)」 |website=沼津観光ポータル |accessdate=2020年8月1日}}</ref>。}} |
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撮影の大部分は、[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]付近のオープンセットと、[[静岡県]][[伊豆]]や[[神奈川県]][[箱根]]などでの[[ロケーション撮影]]で行われた。屋内セットはスタジオ内に組んだ「木賃宿」「水車小屋」「利吉の家」の3杯のみで、それ以外はすべて野外で撮影された{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}。主なオープンセットとロケーションの場所は以下の通りである。 |
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;オープンセット |
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黒澤は「[[ジョン・フォード]]みたいな時代劇が作りたい」と考え、本作に取りかかった。[[小国英雄]]によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の[[足利義輝]]に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小国は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている。衣装やこうした立ち回りすべてが、黒澤のリアル志向の表れだった<ref>『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』「楽しき哉、チャンバラ映画づくり」(サンケイ出版)</ref>。 |
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*村の中心部 – 東宝撮影所手前の[[仙川]]沿いの田んぼ(後の[[東京都]][[世田谷区]][[大蔵 (世田谷区)|大蔵]]団地){{sfn|研究会|1999|pp=170-171}}<ref name="証言">小嶋真二、村上勝美「七人の侍 43年目の証言」(『映像照明』50号、1997年)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=159-185}}に所収</ref> |
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*村の北側の森(水神の森) – 東京都世田谷区大蔵のオープンセットの外れ{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}{{sfn|研究会|1999|pp=170-171}} |
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*町(木賃宿、八角堂、茶屋など) – 東宝撮影所の農場オープン(後の[[東宝ビルト]]){{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}<ref name="証言"/> |
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*豪農の家、山塞 – 東宝撮影所オープン{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}} |
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;ロケーション |
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*村の全景、北の斜面 – [[静岡県]][[函南町]]下丹那{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}{{sfn|研究会|1999|pp=170-171}}<ref name="証言"/> |
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*村の東と南(水車小屋など) – 静岡県[[伊豆市]]堀切{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}} |
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*村の北と西 – 静岡県[[御殿場市]]用沢、二の岡{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}{{sfn|研究会|1999|pp=170-171}} |
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*村の裏山(勝四郎と志乃のラブシーンなど) – [[神奈川県]][[箱根町]][[仙石原]]、[[長尾峠 (神奈川県・静岡県)|長尾峠]]{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}<ref name="証言"/> |
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*滝(三船が鮎を捕まえて食べる場面) – [[鮎壺の滝]]<ref name="滝"/> |
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*山塞へ行く道中 – 静岡県[[伊豆の国市]]珍場、[[沼津市]]口野{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}} |
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物語の中心となる村は、日本中の何処にでもある典型的な農村の原風景を想定し、北は[[福島県]]から西は[[岐阜県]]まで[[ロケーション・ハンティング]]を40日近くも行ったが、適地を見つけることはできなかった<ref name="証言"/>{{sfn|堀川|2000|pp=168-169}}。そこで地形ごとに別々の場所で撮影してひとつの地域のように見せることにした{{sfn|佐藤|2002|pp=180-184}}。村内は東宝撮影所手前の田んぼを借用してオープンセットを作り、村の東と南は[[伊豆]]堀切、西は[[御殿場市]]、北の斜面と村の全景は下丹那、裏山は[[箱根]]で撮影した{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}<ref name="証言"/>{{sfn|廣澤|2002|p=149}}。村の全景のセットはオープンセットとは別に作られ、[[丹那トンネル]]の真上から俯瞰で撮影したが、その時に電柱がどうしても画面に入ってしまうため、[[東京電力]]に頼んで一時的に電柱を移設した{{sfn|堀川|2000|pp=168-169}}。 |
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また黒澤監督は[[アントニン・ドヴォルザーク|ドボルザーク]]の『[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|新世界交響曲]]』が好きで、土屋に「助監督の頃からこれをずーっと聴いていてね、今に監督になったらこんな感じの映画を撮りたいと思い続けていたんだよ。そしてそれが実現しつつあるんだよ」と語り、『七人の侍』の原動力は『新世界交響曲』だとしている。黒澤監督は常に音楽を先行させて、イメージを膨らませ、作品作りを行っていた<ref>土屋嘉男「新世界交響曲」、『クロサワさーん!』より(新潮社)</ref>。 |
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=== 撮影 |
==== 撮影進行 ==== |
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[[File:Eiganotomo-thesevensamurai-dec1953.jpg |
[[File:Eiganotomo-thesevensamurai-dec1953.jpg|350px|thumb|久蔵が果し合いをするシーンの撮影風景。]] |
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1953年5月27日、豪農家の門前で利吉と万造が言い争いをするシーンでクランクインした<ref name="証言"/>。撮影初旬の黒澤は体調が優れず、7月10日に[[サナダムシ|サナダ虫]]で入院して2週間撮影中断した<ref name="年表">{{Cite journal |和書 |title=黒澤明 関連年表 |journal=大系 黒澤明 |volume=4 |date=2010-4 |publisher=講談社 |ISBN=9784062155786 |page=813}}</ref>。9月までに伊豆でのロケーション、水車小屋や木賃宿の室内シーン、町のオープンセットでの侍探しや果し合いのシーンなどを撮影した{{sfn|堀川|2000|p=182}}。 |
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撮影は一部[[東宝スタジオ|砧スタジオ]]で行われた分を除き、大部分が東宝撮影所付近の田園(現:[[東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線|世田谷通り]][[大蔵 (世田谷区)|大蔵]]団地前)に作られた巨大な村の[[オープンセット]]と、[[伊豆]]から[[箱根]]にかけて、[[丹那トンネル]]直上や[[伊豆市]][[堀切 (伊豆市)|堀切]]など各地の山村での[[ロケーション撮影]]で行われた。ロケ地にもオープンセットと違和感なくつながるように村の一部を建設したため建設費も大きくなった。劇中、菊千代が与平の裸馬にまたがり、己の馬術を披露し、茂助の小屋の陰で落馬するコミカルなシーンがあるが、この茂助の小屋には当時[[電柱]]が建てられており、そのままでは撮影ができない状態であったが、黒澤が一言「どかせ」といい、撮影のために撤去された。このエピソードは「クロサワ天皇」の逸話の最初期のものと言える。 |
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裏山での勝四郎と志乃のラブシーンは、シナリオでは[[スミレ]]の花畑を想定していたが、季節的にスミレは咲いておらず、スタッフ全員で山の中で[[野菊]]の花を摘み、それを植えて花畑を再現した{{sfn|廣澤|2002|pp=158-159}}{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。このシーンは箱根長尾峠を越えた[[国道]]下の暗い森の中での撮影で、十分な光量を得られなかったため、スタッフが宿泊していた旅館の鏡を総動員し、国道から鏡を並べて太陽光をリレーのように鏡で反射させて現場まで持って行った<ref name="証言"/>{{sfn|堀川|2000|pp=186-188}}。この方法は『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』でも用いていた{{sfn|堀川|2000|pp=186-188}}。しかし、志乃役の[[津島恵子]]は、鏡の反射による強い太陽光で直接眼にキャッチライトを入れられ、それ以来眼が弱くなったという<ref name="証言"/>。 |
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[[落ち武者狩り]]をする百姓の本性を知り、複雑な心境の侍たちに菊千代が怒りをぶちまけるシーンで、三船は黒澤に「監督、俺は百姓なんだから、青っ洟にしたほうがいいでしょう」といい、黒澤はその意気込みで演じてくれればいい芝居になると思い、「いいね」と応じた。すると三船は本当に涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてしまい、黒澤は大いに圧倒され、感動するも「三船ちゃん、本当に素晴らしい演技だったけど、ちょっと汚く見えるから撮り直すね」といってリテイクした。三船はこの他にも侍たちを付け回すシーンで「立ち小便でもしましょうか?」など型破りなアイデアをたくさん出したが、黒澤が笑いながら却下した。しかし、黒澤の三船に対する評価は益々上がった。 |
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当初は10月上旬の封切りでスケジュールが組まれ、撮影期間は90日、完成は9月17日を予定していたが、実際の撮影進行は大幅に遅れた{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}{{sfn|都築|1999|p=159}}。助監督の[[堀川弘通]]はその理由として、ひとつの村を別々の場所で撮影したこと、野外撮影中心のため天候に左右されやすかったこと、その上にこの年が[[異常気象]]だったこと、スタッフがスケールの大きい活劇に不慣れだったことを挙げている{{sfn|堀川|2000|pp=170-173}}。9月に入ってもまだ全体の3分の1しか撮影しておらず、当初の予算も使い果たしていた{{sfn|都築|1999|p=159}}<ref name="語る">{{Citation |和書 |editor=黒澤明研究会 |date=2004-9 |title=黒澤明を語る人々 |publisher=朝日ソノラマ |isbn=9784257037033 |page=15}}</ref>。スタッフには「いつクランクアップするか」の賭けをする人もいた<ref name="証言"/>。東宝の重役会では「続行か、中止か」で揉めて撮影中断となり、その間黒澤は[[多摩川]]で鯉釣りをして過ごした{{sfn|堀川|2000|pp=186-188}}。黒澤は[[千秋実]]に「資本家というのは、いったん出した金は必ず回収する。まあまあ釣りでもしてろ」と語ったという<ref name="語る"/>。結局、会社側は製作続行を決めて追加予算を出し、11月に撮影所前の村のオープンセットで撮影再開した{{sfn|堀川|2000|pp=186-188}}。 |
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[[ファイル:Shizuoka pref. with Mount Fuji 20120821.jpg|250px|thumb|冒頭の武士が村を見下ろす場面と、大俯瞰の村々のセットは[[丹那トンネル]]真上に作られた。写真は丹那トンネル直上からの景色。]] |
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[[1953年]][[5月27日]]に撮影が開始<ref>『黒澤明全集 第四巻』[[黒澤明]]著</ref>され、利吉(土屋)と万造(藤原)の取っ組み合いの喧嘩の場面から撮影が始まった。スタジオ撮影では、水車小屋のセットでの撮影で、黒澤監督がイライラしはじめ、スタッフや役者にまでイライラが伝染して難渋。土屋が原因を調べたところ、[[換気設備]]が老朽化して機能していなかった。監督たちは湿気のためにイライラしていたのである。以後、このステージは「地獄小屋」と呼ばれてスタッフに恐れられた。野武士の騎馬と竹槍農民との合戦は、伊豆でロケされた<ref>『クロサワさ~ん!』(土屋嘉男、新潮社)より</ref>。 |
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それでも撮影は遅れ、しびれを切らした会社は今までの撮影分を編集して見せるように要求し、[[1954年]]1月に再び撮影中断した{{sfn|堀川|2000|pp=190-193}}。黒澤は粗編集したフィルムを会社幹部の前で試写したが、そのフィルムは菊千代が屋根に旗印を立てて、「ウアー、来やがった、来やがった!」というシーンで終わっていた{{sfn|堀川|2000|pp=190-193}}。クライマックスの合戦シーンは、豪雨でセットが滅茶苦茶になることが初めから分かっていたため、予定を後回しにしており、会社側に対して意図的にスケジュールを組んだわけではなかったが、このままでは完成させようがないため、撮影続行となった{{sfn|堀川|2000|pp=190-193}}。 |
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本作には町を歩く浪人役で無名時代の[[仲代達矢]]と、[[宇津井健]]も出演している。本作出演の決まった仲代は毎朝早くに撮影所に出掛け、家に帰る頃には足の親指と人差し指の間が(鼻緒で)擦れて血だらけになっていて、仲代は[[加地健太郎]]に「いやぁ、黒澤監督ってのはすごいよ、今日も一日歩かされた」と語っている。浪人が歩く数秒のカットだけで、黒澤監督は何日もリハーサルを重ねて撮影に臨んでいた<ref>『東映ヒーローMAX VOL4』「東映ヒーロー悪役俳優列伝 加地健太郎」(辰巳出版)</ref>。 |
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こうした撮影遅延により、6月頃の設定であるクライマックスの豪雨の決戦シーンは真冬の2月に撮影した{{sfn|野上|2014|pp=112-114}}{{Sfn|都築|2010|p=224}}。1月24日の大雪でオープンセットには30センチの雪が積もり、スタッフは消防団や学生アルバイトを動員し、3日かけてホースで水を撒いて雪を溶かした<ref name="証言"/>{{sfn|堀川|2000|pp=190-193}}。地面は膝までつかるほど泥でぬかるみ、そこに数台の消防ポンプで雨を降らせたため、撮影は極寒の過酷な状況下で行われた{{Sfn|西村|2005|pp=718-719}}。3月19日に野武士の山塞を焼き討ちするシーンでクランクアップした<ref name="年表"/>。このシーンの撮影では、スタッフがセットに[[ガソリン]]をかけ過ぎたため、本番で火を付けると想像以上に火勢が激しくなり、利吉役の[[土屋嘉男]]は山塞の中にいる女房に近づこうとするところで[[バックドラフト]]現象に遭遇し、顔面火ぶくれになった{{sfn|堀川|2000|pp=174-176}}{{Sfn|土屋|2002|pp=155-156}}。 |
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会社側は8月いっぱいで撮影と編集を終了させ、秋に公開するという勘定だったが、撮影は8月が過ぎても一向に終わる気配がなく、秋になると「一体いつ終わるのか」と賭けをする者もあらわれ、黒澤自身までその賭けの仲間に入った。そうこうするうちに年越しの気配となり、撮影所所長が余りの予算と日数のオーバーの責任をとって、辞表を出す騒ぎとなった。こうしてついに東宝本社は撮影中止命令を出し、「撮影済みのフィルムを編集して完成させる」と決定。重役らを集めて試写を行った。 |
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=== 音楽 === |
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試写フィルムは、野武士が山の斜面を駆け下り、菊千代(三船敏郎)が「ウワー、来やがった、来やがった!」と屋根で飛び上がり、利吉の家に旗がひらめいたところで終わり、ここから合戦という場面でフィルムがストップする。がっくりきた重役達は「存分にお撮り下さい」と黒澤に伝え、撮影所所長は復帰。黒澤は「最初からこうなることを予測して、最も肝心な最後の大決戦の所を後回しにして撮らなかったんだよ」と土屋に語っている。撮影再開が決まり、黒澤家ではスタッフキャストを集めて乱痴気騒ぎの大宴会が開かれた<ref>ここまで『クロサワさ~ん!』(土屋嘉男、新潮社)より</ref>。 |
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[[ファイル:Hayasaka_fumio.jpg|thumb|150px|映画音楽を担当した[[早坂文雄]]。早坂の普通作品のギャラは1本30万円だが、本作の作曲料は100万円である{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。]] |
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音楽を担当した[[早坂文雄]]は、当時肺[[結核]]を患っていたが、他の仕事と並行しながら1年かけてデッサンを書いた。早坂は書きためた曲を、黒澤の前で1曲1曲ピアノで弾き、黒澤のダメ出しを受けながら修正して曲のアウトラインを決めた{{Sfn|西村|2005|pp=710-714}}。音楽は単純明快な表現にするため[[ライトモティーフ|ライトモチーフ]]方式を採用し、モチーフとなる「侍のテーマ」「野武士のテーマ」「志乃のテーマ」「菊千代のテーマ」「百姓のテーマ」の5つの曲を作り、それらを場面の雰囲気や状況に合わせて、さまざまな楽器により変形させて演奏することにした{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。 |
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主題曲ともいえる「侍のテーマ」は勇壮な[[行進曲|マーチ]]風である{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。この曲ははじめ早坂が用意したデッサンがすべて没案となり、そこで早坂がごみ箱に捨てていた楽譜{{Refnest|group="注釈"|[[佐藤勝]]によると、この曲は当時流行した「ブルー・カナリア」(アメリカでは[[ダイナ・ショア]]、日本では[[雪村いづみ]]が歌った)と非常に似ていたため破棄したものだという{{Sfn|西村|2005|pp=710-714}}。}}をピアノで弾いたところ、黒澤が気に入り採用された{{Sfn|西村|2005|pp=710-714}}{{Sfn|土屋|2002|pp=198-199}}。「志乃のテーマ」は黒澤が早坂らしい曲と評した<ref name="秘密"/>。タイトルバックの「野武士のテーマ」は[[太鼓]]と[[弓弦]]で不気味さを出し{{Sfn|土屋|2002|pp=198-199}}、「菊千代のテーマ」は[[ボンゴ]]や[[サックス]]で演奏し、「百姓のテーマ」は百姓の恐怖のうめきを[[男声合唱|男声]]のハミングコーラスで表現した{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。ラストシーンで百姓たちが唄う「田植え唄」は、早坂が日本中の[[囃子]]言葉を調べて作詞し、[[プレスコ]]で録音した{{Sfn|西村|2005|pp=710-714}}。 |
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この試写の現場では、重役から「これの続きは」と詰め寄られ、黒澤は「ここから先はひとコマも撮っていません」と告白(これはハッタリではなく本当に撮っていなかった)<ref>西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄』(筑摩書房、2005年)によると、そう言ったのはプロデューサーの[[本木荘二郎]]だったという説もある。p.718</ref>、そのまま予算会議となり、追加予算を付けてもらったともいわれている。 |
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[[オーケストレーション]]はクランクアップ後の4月1日から6日間かけて行われ、早坂邸に[[佐藤勝]]、[[佐藤慶次郎]]、[[武満徹]]が集まり、早坂の指示により分割作業で楽譜を書いた{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。ダビング作業は4月8日から12日間かけて行われたが、早坂の体調を考えて休みが設けられ、実質は7日間行われた{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。ダビングでも1曲演奏するたびに議論と修正が繰り返され、佐藤勝は「朝からテストして、1曲OKになったのが夕方5時なんてのが、ザラにありましたよ」と述べている{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。菊千代が屋根の上に旗を立てるシーンで流れる[[トランペット]]の「侍のテーマ」は、室内録音ではいい音が出ず、撮影所の壁にぶつけて吹いた音を録音したが、この録音だけで一晩かかり、近所から苦情が相次いだという{{sfn|堀川|2000|pp=196-201}}。 |
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また、三船は度重なる撮影の中断中に[[本多猪四郎]]監督の『[[太平洋の鷲]]』の[[友永丈市]]大尉役で出演するが、菊千代の髭を剃ることができなかったので、何とも奇妙な友永大尉になってしまった。 |
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==== サウンドトラック ==== |
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早坂が作曲した[[サウンドトラック]]は、1954年5月13日に[[日本コロムビア]]から[[SPレコード]]で発売された{{Sfn|西村|2005|pp=737-741}}。同年11月には「侍のテーマ」に歌詞を付け、[[山口淑子]]が歌唱した「七人の侍」という題名のレコードが発売された<ref name="大系2解説"/>{{Sfn|西村|2005|pp=737-741}}。レコードでは早坂が作詞したことになっているが、黒澤は「早坂と私と二人で作った」としている<ref name="大系2解説"/>。[[2001年]]に東宝ミュージックからサウンドトラック[[CD]]が発売されており、それに収録されている曲は以下の通りである<ref>{{Cite web |url=http://www.thm-store.jp/cnts/st03-01.html |title=黒澤明 『七人の侍』 | website=東宝ミュージック |accessdate=2020年8月24日}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.soundtrackcollector.com/catalog/soundtrackdetail.php?movieid=37957 |title=Shichinin No Samurai (1954) | website=soundtrackcollector.com |language=英語 |accessdate=2020年8月24日}}</ref>。 |
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[[1953年]]秋になって野武士の山塞を襲撃する場面が撮影された。この場面は8台の[[ミッチェル撮影機|ミッチェル・キャメラ]]を用意し、それぞれがアップ、ロングなど別々の画を撮った。このため、キャメラをとられて撮影が出来なくなり、休みになった組もあった<ref>『クロサワさ~ん!』([[土屋嘉男]]、新潮社)</ref>。 |
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{{tracklist |
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撮影所の大オープンセットでの撮影初日、宣伝部は見学者を入れてしまった。これを極端に嫌う黒澤監督は激怒し、脚本を地面に叩きつけて帰ってしまい、その日の撮影は休みとなってしまった。この野武士の山塞襲撃での、砦に火を点けるシーンは、実際に砦を燃やしての撮影だったため、消防署立ち会いの下、消防ポンプが待機していた。しかし黒澤監督が中止としたので、これも出番は翌日繰り越しとなった。ところが翌日は乾燥注意報が出て、あちこちで火事があり、消防ポンプが出払ってしまって、ポンプが来たのはかなり遅い時間になってしまった。その間にスタッフが「よく燃えるように」と小屋にガソリンをかけたことで、大変な事態となってしまった。利吉役の土屋が女房を追って砦の中に入るシーンで、[[バックドラフト]]現象が起きてしまったのである。突然の爆風と、想像以上に激しい火の勢いのため、土屋は意識を失ってしまい、以後のことは覚えていないと語っている。この爆発で、つながれていた馬はすべて自分で綱を切って逃げてしまい、野武士たちも残らず逃げてしまった。土屋は熱風により鬘も眉も焦げ、顔は火ぶくれを負って膨れ上がった。望遠キャメラだけが土屋を追っていたが、ラッシュフィルムには黒澤や消防士まで写っていて、この場面は使えなかった。大金をかけたセットは焼失し、スタッフルームで土屋がしょんぼりしていると、そばで黒澤もうつむいて涙を浮かべていた。土屋はその晩病院で一泊する羽目となっている。後日、主映像となるカットを撮り直したものの「やはり当日のものが迫力があっていい」と、土屋の場面はそのまま使われた。完成後、黒澤は土屋に「俺も君も、あの山塞のことは一生忘れないだろうね・・・」とぽつりと語ったという<ref>ここまで『クロサワさ~ん!』「みんな燃えちゃったあ」(土屋嘉男、新潮社)より</ref>。 |
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| collapsed = yes |
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| headline = サウンドトラックCD(2001年、東宝ミュージック) |
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| all_music =早坂文雄 |
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| title1 =タイトル・バック |
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| length1 = 3:17 |
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| title2 =水車小屋へ |
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| length2 =1:00 |
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| title3 =侍探し 一 |
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| length3 =0:49 |
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| title4 =勘兵衛と勝四郎~菊千代のマンボ |
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| length4 =3:43 |
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| title5 =利吉の涙?白い飯 |
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| length5 =2:09 |
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| title6 =侍探し 二 |
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| length6 =1:30 |
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| title7 =五郎兵衛 |
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| length7 =2:18 |
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| title8 =やりましょう |
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| length8 =1:04 |
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| title9 =釣り落とした魚 |
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| length9 =1:43 |
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| title10 =六人の侍たち |
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| length10 =2:51 |
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| title11 =型破りの男 |
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| length11 =1:13 |
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| title12 =出立の朝 |
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| length12 =1:02 |
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| title13 =旅風景~俺たちの城 |
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| length13 =2:51 |
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| title14 =野武士せり来たり |
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| length14 =0:35 |
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| title15 =七人揃いぬ |
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| length15 =1:24 |
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| title16 =勝四郎と志乃 |
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| length16 =2:43 |
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| title17 =勝四郎、帰る |
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| length17 =0:11 |
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| title18 =寝床変え |
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| length18 =0:57 |
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| title19 =水神の森にて |
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| length19 =1:34 |
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| title20 =麦畑 |
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| length20 =0:27 |
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| title21 =勘兵衛の怒り |
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| length21 =2:15 |
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| title22 =間奏曲 |
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| length22 =5:18 |
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| title23 =刈り入れ |
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| length23 =2:05 |
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| title24 =利吉の葛藤 |
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| length24 =1:51 |
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| title25 =平八と利吉 |
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| length25 =0:57 |
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| title26 =農村風景 |
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| length26 =2:35 |
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| title27 =弱虫、侍のくせに |
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| length27 =1:49 |
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| title28 =野武士の予兆 |
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| length28 =0:26 |
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| title29 =夜討へ |
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| length29 =0:55 |
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| title30 =旗 |
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| length30 =0:20 |
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| title31 =突然の再会 |
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| length31 =0:25 |
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| title32 =素晴らしい侍 |
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| length32 =2:29 |
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| title33 =野武士は見えず |
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| length33 =1:00 |
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| title34 =菊千代の奮起 |
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| length34 =0:49 |
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| title35 =代償 |
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| length35 =1:07 |
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| title36 =逢瀬 |
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| length36 =1:01 |
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| title37 =万造と志乃 |
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| length37 =1:02 |
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| title38 =田植え唄 |
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| length38 =1:22 |
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| title39 =エンディング |
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| length39 =0:43 |
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}} |
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=== 完成 === |
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利吉の女房役[[島崎雪子]]はこの場面で限界まで演技をしたため、撮影直後に火ぶくれで顔がみるみる腫上がった。また、その時に大事な小道具を砦の中に落とし、砦もろとも焼失している。消火活動も困難だったらしく、砦のセットの周りの森も焼け果てていた。 |
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1954年4月18日に音楽ダビングが終了し、その次に[[三縄一郎]]による効果音のダビングが行われた{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。決戦シーンの泥の効果音は、水槽に壁土を混ぜた泥水を入れ、それをスタッフが踏んで再現した{{Refnest|group="注釈"|この時にアフレコ室のスクリーンに付いた泥の跳ね返りは、アフレコ室が壊されるまでそのまま残っていたという{{sfn|堀川|2000|pp=196-201}}。}}{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}{{sfn|堀川|2000|pp=196-201}}。4月20日にすべてのダビングが終了し{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}、その日の夜10時に東宝本社で完成試写が行われた<ref name="証言"/>。 |
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東宝宣伝部の斎藤忠夫によると、本作の製作費などのデータは黒澤の希望で、宣伝のためのマスコミ発表用の水増し分を抜いて正確に広報された。そのデータでは、製作費は2億1000万円となっており、これは当時の普通作品の7本分に匹敵する金額となった。そのうちオープンセットが3500万円、俳優費が7000万円、ロケ費が2000万円で、これらにフィルム費などを合わせた直接費だけで1億3000万円もかかっている{{sfn|佐藤|2002|pp=188-189}}。『映画年鑑 1955年版』によると、直接費は1億2560万円で、プリント費や宣伝費を含めて2億1300万円としている<ref>{{Cite journal|和書|author=|year=1954|journal=映画年鑑 1955年版|publisher=[[時事通信社]]|page=116}}</ref>。 |
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クライマックスの雨中の合戦では、黒澤は雨をより激しく見せるため、雨の中に[[墨汁]]を混ぜて撮影を行った。映画では9月ごろという[[設定 (物語)|設定]](米との[[二毛作]]の麦は収穫が初夏であり、終わりの場面で田植えをしている、揚げ[[ヒバリ|雲雀]]が鳴いているなどのことから季節は初夏という見方もある)であるが、撮影は2月の極寒の積雪の中で行われ、三船や[[加東大介]]をはじめ肌着一枚やほぼ裸の役者にとってはとてもきついものであった<ref>役者の吐く息が白くなっているのが映画でも確認できる。</ref>。実は「雨の決戦」というシチュエーションも、積雪がある2月の撮影ゆえに誕生したものだった。オープンセットに積もった雪を溶かすために消防ポンプ数台でぐちゃぐちゃにし、さらに大量の水をポンプで撒いたため、現場全体が泥濘と化し、これを逆に利用したのである。 当時の[[ハリウッド]]における[[アクション映画|アクション娯楽映画]]といえば[[西部劇]]がまだ幅を利かせている頃で、対決シーンというと炎天下の砂塵が吹く中での対決が主流となっており(そもそも降雨が少ない)、豪雨の中での合戦シーンというそれまでになかった手法に、ハリウッドだけでなく世界中の映画関係者や映画[[ファン]]を驚かせた。 |
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== スタイル == |
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黒澤監督はこの雨のシーンについて、「アメリカの西部劇では常に晴れている、だからこそ雨にしようと思いついた」と語っている。監督はじめ全員が凍りつく雨の中で何日も頑張ったが、誰一人風邪をひかなかった。土屋嘉男は「今思えば、あの時のオープンセットは、泥と共に、一同の[[アドレナリン]]が飛び交っていたように思える。一日の撮影が終わるごとに、皆一様に、『戦い終わり日が暮れて・・・』を実感した」と振り返っている。皆撮影が終わると、撮影所で風呂に入り、家でまた風呂に入ったが、泥がなかなか落ちなかった。三船敏郎は「尻についた泥がどうしても落ちない」と毎朝顔を合わせる度に吠えていたという。完成から15年ほどのちに、土屋ら一同が顔を合わせたが、全員が「あんな撮影はもう二度とできない。体力の限界!」との言葉が期せずして口から出たという<ref>この段、黒澤と土屋のコメントは『クロサワさ~ん!』「戦い終えて日が暮れて」(土屋嘉男、新潮社)より</ref>。 |
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=== 影響 === |
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七人の侍のキャラクター設定は、初めに構想していた企画『日本剣豪列伝』で描こうとした実在の[[剣豪]]の逸話からインスピレーションを受けている<ref name="橋本2"/>。勘兵衛が頭を丸めて強盗を殺すエピソードは、『[[本朝武芸小伝]]』にある[[上泉信綱]]が強盗から子供を救出する逸話を元にしている{{sfn|研究会|1999|p=163}}{{sfn|野上|2014|pp=112-114}}。五郎兵衛が勘兵衛の腕試しを見抜くエピソードは、[[柳生宗矩|柳生但馬]]が自分の息子にやらせてみた話を元にしている{{sfn|研究会|1999|p=163}}{{sfn|野上|2014|pp=112-114}}。橋本によると、五郎兵衛は[[塚原卜伝]]、久蔵は[[宮本武蔵]]からキャラクターを参考にしたという<ref name="橋本2"/>。 |
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本作の脚本は、黒澤が愛読する[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の長編小説『[[戦争と平和]]』と、[[アレクサンドル・ファジェーエフ]]の長編小説『壊滅』の影響を受けている{{Refnest|group="注釈"|黒澤は[[井上ひさし]]との対談で、「どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか」と問われると、「この脚本の根底にあるのは、トルストイの『戦争と平和』である。その中からいろいろなことを学んでいる。またファジェーエフの『壊滅』も下敷きになっている」と語っている<ref>{{Cite |和書 |date=1999-8 |title=黒澤明「夢は天才である」 |publisher=文藝春秋 |isbn=9784163555706 |chapter=『七人の侍』ふたたび}}</ref>。}}{{Sfn|都築|1999|pp=47-49}}。また、ストーリー構成は[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の「[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|新世界より]]」の影響を受けており、黒澤は脚本執筆時に「ニューワールド(新世界より)を原作にしてやってみよう」と語ったという<ref name="橋本2"/>。黒澤は撮影期間中に何度もこの曲を聴いており、この曲から野武士が襲来するシーンなどのイメージを膨らませていた{{Sfn|西村|2005|pp=723-729}}。 |
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=== 『七人の侍』の音楽 === |
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本作で最も有名な曲である「侍のテーマ」は[[早坂文雄]]が作曲した。はじめ黒澤は、早坂が用意していた曲がすべて気に入らずに没案となったが、困った早坂がごみの中に捨てていた楽譜の一枚をピアノで演奏したところ、採用となった<ref>西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄』(筑摩書房、2005年)中の佐藤勝談によると、曲が当時流行していた「ブルー・カナリア」(アメリカではダイナ・ショア、日本では雪村いづみが歌っていた)と非常に似ていたため破棄したものだという。p.711</ref>。 |
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[[ジョン・フォード]]を尊敬していた黒澤は、本作で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[西部劇]]のスタイルを意識している<ref name="秘密"/>{{sfn|堀川|2000|pp=174-176}}。馬が駆けるシーンでは、フォードの西部劇のように砂煙を立たせるため、廃材を燃やした木灰を撒いた{{sfn|堀川|2000|pp=174-176}}{{sfn|廣澤|2002|p=152}}。もともと木灰は馬の走る路面を固めるために撒いたもので、馬を走らせて砂埃が舞い上がり、誰かが「あれ、砂埃だけはジョン・フォード並みだぜ」と冷やかすと、黒澤は「そうだ、ジョン・フォード並みに派手にいこう」と言ってそのまま取り入れたという{{sfn|廣澤|2002|p=152}}。クライマックスの豪雨の決戦シーンは、西部劇では常に晴れていて砂煙が定番であることから、黒澤がそれに対して「だったら、こちらは雨で行こう」と発想したことで生まれた<ref name="秘密"/>{{sfn|堀川|2000|pp=174-176}}{{sfn|土屋|2002|pp=194-195}}。 |
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土屋嘉男によると、黒澤は「侍のテーマが決まったよ」とハミングで歌ってみせ、土屋に「これ大変だったんだよ、早坂がねえ、20曲くらい作って早坂の家で一つ一つピアノで弾いてくれたけど、どれも気に入らないんだよ。全部弾き終わったけど黙って首をひねっていたら急にもぞもぞ部屋の隅の紙屑箱の中に手を突っ込んで、『こんなのもあるけど』とぐちゃぐちゃに丸めた紙を出して、その皺を伸ばして弾き始めたんだよ。それを聴いた途端、これ! これ! と、これに決まったんだよ」と語っている。早坂は当時、肺[[結核]]の身を押して、本作のために60日かけて300枚の曲のデッサンを書いている。「農民のテーマ」について、黒澤は土屋に「これねえ、早坂が日本中の古い囃言葉を調べて作ったんだよ、面白いよ」と教えてくれた。田植えの場面は撮影最後になったが、土屋が1年かかった撮影を思って高らかにこのテーマを歌った。「ドッコイコラコラ、サーッサッ」というところにくると、黒澤監督はキャメラの横で「得も言われぬ顔でニコーッと笑った」という。土屋は「なぜそこにくると笑うのかは知らないが、監督のあの笑顔は今も忘れるものではない」と述懐している<ref>『クロサワさ~ん!』「ドッコイコラコラ」(土屋嘉男、新潮社)</ref>。 |
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=== 時代劇映画の革新 === |
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黒澤は本作で「本物の時代劇」を作ろうとした{{sfn|廣澤|2002|pp=140-143}}。それまでの時代劇映画は[[歌舞伎]]の影響を強く受けており、殺陣は歌舞伎的に立回りの形を美しく演じるもので、衣装や風俗なども歌舞伎で美化されて変形されたものが多かった{{sfn|佐藤|2002|pp=180-184}}。そこで黒澤は既成の時代劇の安易な作り方を排したリアルな作品を撮ろうと考えた{{sfn|佐藤|2002|pp=180-184}}。黒澤は次のように語っている。 |
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1968年にTBSで本作が放映された際、黒澤の令で三船敏郎と野武士の台詞が再録音され下記のステレオ版にも流用された<ref> 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』(筑摩書房)p32より</ref>。 |
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{{Quotation|今の時代劇で一番いけないのはあの「形式」です。あれはみんな歴史的な事実を無視し変形したカブキからの型なんだ。動作も服装も小道具も、カツラの形までみんなコシラエものなんだ。あれは一度、正確なものを考え直すことが必要だね。|黒澤明「私の作品」<ref>黒澤明「私の作品」『映画旬刊』1956年1月上旬号、[[雄鶏社]]、43頁。</ref>}} |
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黒澤は日本画家の[[前田青邨]]に時代考証を依頼し、前田は弟子の[[江崎孝坪]]を推挙した<ref name="大系2解説"/>。前田が従来の時代劇の[[かつら (装身具)|カツラ]]を「[[虎屋]]の[[羊羹]]みたいな髷がのっているのは言語道断、もっと剃り込んでいて低いはずだ<ref name="秘密"/>」と指摘したことから、本作のカツラは[[さかやき|月代]]を耳の上くらいまで剃り込み、側面の髪を低くしている{{Sfn|都築|1999|p=57}}{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。カツラを制作した山田順二郎は、 素材の[[羽二重]]を工夫して凹凸頭のかつらを作り、本物に近いリアルな質感を出した<ref name="証言"/>{{sfn|佐藤|2002|pp=180-184}}。衣裳は江崎がデザインし、それを元に[[東宝コスチューム|京都衣裳]]が約300着を作った{{sfn|廣澤|2002|pp=140-143}}。衣裳を古びたものにするため、[[京都市|京都]]で染めたものを川に漬けて何日も晒し、それを泥の中に埋め、さらにそれを洗って軽石でこするという作業を2か月も続けた{{sfn|廣澤|2002|pp=140-143}}。土屋によると、衣裳を毎日家に持ち帰って着て汚したという{{Sfn|土屋|2002|pp=73-77}}。[[鎧]][[兜]]は[[甲冑師]]の明珍宗恭が手がけ、菊千代の兜には[[国宝]]級のものが使われた<ref name="秘密"/><ref>{{Cite web |url=https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/090909.html |title=明珍コレクションについて—日本中世の武士たちの「もののあはれ」— |website=読売新聞 |accessdate=2020年8月24日}}</ref>。 |
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史料は助監督たちが[[東京大学史料編纂所]]や[[東京国立博物館]]などに通って集めたが{{sfn|廣澤|2002|pp=140-143}}、百姓のリアルな生活を調べるには資料が少なかったため、美術助手は[[奥多摩]]や[[白川郷]]に行って、古い家屋や農具などをスケッチした{{sfn|堀川|2000|pp=196-201}}{{sfn|廣澤|2002|pp=140-143}}{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。豪農家のセットは、美術助手の[[村木与四郎]]が奥多摩で見つけた長屋門を参考にした{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。こうした調査を元に作られた農家や木賃宿のセットは、「焼き板」という技法で古い質感を再現した{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。焼き板は木材に光沢と木目が浮かび上がるようにする技法で、木材を[[焚き火]]の灰にくべて蒸焼きにしたあと、金属ブラシでこすって木目を浮かび上がらせ、さらに[[岩絵具#泥絵具|泥絵具]]を塗って拭き取って木目の上に黒みを出し、それにワックスをかけて磨くことで光沢を出した{{sfn|廣澤|2002|pp=140-143}}{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。この技法は黒澤映画でよく用いられ、板を磨く作業は黒澤組の日課としてスタッフ総出で行い、黒澤も率先して作業した{{Sfn|丹野|1998|pp=57-61}}。 |
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1975年、4チャンネル・ステレオ版が制作された。当時の関係者によると本作の6ミリテープの存在が明らかになった事から当時人気だった4チャンネル・ステレオでの再公開が持ち上がったといいサラウンド感を出す為にBGMに擬似ステレオ処理を施した上で闇雲にステレオの効果音を嵌め込んでいる<ref> 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』(筑摩書房)p33より</ref>。 |
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小國によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の[[足利義輝]]に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小國は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている<ref>{{Cite book|和書 |author= |date=1976 |title=週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集 |chapter=座談会・楽しき哉、チャンバラ映画づくり}}</ref>。 |
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1991年、[[ドルビーサラウンド]]版が制作された。こちらでは上述の改変に加えて斬殺音が挿入され、賛否を呼んだ<ref> 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』(筑摩書房)p40より</ref>。 |
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=== 技術的特徴 === |
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2016年2月23日には現存するフィルムを元に[[4K解像度]]で修復が行われ、公開された<ref>{{Cite news |title=映画「七人の侍」 4Kの高画質で修復 |newspaper= |date=2016-2-23 |author=NHK |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160223/k10010419301000.html |accessdate=2016-02-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160223104038/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160223/k10010419301000.html |archivedate=2016-02-23}}</ref>。 |
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本作では黒澤映画の特徴的な撮影技法「マルチカム撮影法」を初めて導入した{{Sfn|都築|2010|p=254}}。マルチカム撮影法は1つのシーンを複数のカメラで同時撮影するという技法である{{Sfn|都築|2010|p=254}}。ただし、本作では意識的にマルチカム撮影法を導入したわけではなく、合戦や火事のシーンは撮り直しが出来ないため、その部分だけを数台のカメラで撮影し、フィルム編集で困らないようにするために用いられた{{Sfn|都築|2010|p=254}}{{sfn|研究会|1999|pp=360-361}}。クライマックスの決戦シーンでは3台のカメラを使用したが、山塞焼き討ちのシーンでは8台ものカメラを使用した<ref name="秘密"/>{{Sfn|土屋|2002|pp=155-156}}。その結果、アングルの豊かさと臨場感が増し、黒澤は次作の『[[生きものの記録]]』から本格的に導入した{{Sfn|都築|2010|p=254}}。 |
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黒澤は本作で[[望遠レンズ]]を本格的に使い始めた{{sfn|堀川|2000|pp=179-180}}{{sfn|研究会|1999|pp=360-361}}。望遠レンズは極端に[[画角]]が狭いため、被写体の遠近感が失われて縦に迫ってくるように見え、画面が充実して迫力が出るという効果がある{{sfn|堀川|2000|pp=179-180}}{{Sfn|都築|2010|p=258}}。クライマックスの決戦シーンでは、複数カメラの1つとして望遠レンズを使い、登場人物の激しい表情を迫力を持って撮影することに成功している{{Sfn|都築|2010|p=258}}。堀川も「『七人の侍』の迫力は、この望遠レンズの作用が大きく貢献している」と述べている{{sfn|堀川|2000|pp=179-180}}。撮影助手の[[斎藤孝雄]]によると、黒澤は「参考的に望遠レンズを使ってみて、良かったら次も使う」程度の考えで使用したというが、本作以降も黒澤は望遠レンズを多用した{{sfn|研究会|1999|pp=360-361}}。 |
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東宝の保管庫を調査した際に[[ネガフィルム|オリジナルネガ]]が発見できなかったため、作業は最も状態の良かったマスターポジ(オリジナルネガを焼いたもの)とデュープネガ(マスターポジの[[複製]])を用いて行われた。スタッフがチェックしたところ、マスターポジには繰り返しデュープネガを作った影響で傷や洗浄不可能なホコリがあり、部分によっては数コマ欠損している場合もあった。修復作業では3種類のソフトウェアを使い分けて傷や汚れを消したり、欠損したコマに前後のコマを合成するなどが行われた。さらに音声の方もフィルムに焼き付けられている音声画像を直接デジタルに変換する方法で取り込み、[[ノイズ]]を除去することで、原音に近いものを再現している。<ref>{{Cite web|title=デジタル修復、「七人の侍」のここがスゴい 2/3|author=YOMIURI ONLINE|url=http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20161013-OYT8T50039.html?page_no=2|accessdate=2017-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|title=「七人の侍」「生きる」が4Kデジタルリマスターで復活、午前十時の映画祭7で上映|author=映画.com|url=http://eiga.com/news/20160219/5/|accessdate=2017-08-18}}</ref> |
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村人などが矢で射られるシーンは、従来通りにカットを分けて撮影してごまかすのではなく、ワンショットで見せるため{{sfn|廣澤|2002|pp=158-159}}、「テグス方式{{Sfn|丹野|1998|p=98}}」を開発した。これは体の矢が当たるところに板を付け、そこからテグスを引っ張って矢の空洞に通し、弓で矢を射ると糸伝いに板に刺さるという方法である{{Sfn|丹野|1998|pp=66-67}}{{Sfn|土屋|2002|pp=178-180}}。しかし、テグスがたるむと板ではないところに刺さってしまい、実際に百姓娘役の[[記平佳枝]]はそれで背中に矢が刺さるという怪我をした{{sfn|廣澤|2002|pp=158-159}}。そこで釣り用の[[リール (釣具)|リール]]を使って絶えずテグスが張るようにした{{Sfn|丹野|1998|pp=66-67}}{{Sfn|土屋|2002|pp=178-180}}。この方法で[[左卜全]]演じる与平が矢に刺さるシーンが撮影され、スタッフの間では「卜全釣り」と呼ばれた{{Sfn|土屋|2002|pp=178-180}}。テグス方式は『[[蜘蛛巣城]]』の三船が矢に刺さるシーンでも使われた{{sfn|廣澤|2002|pp=158-159}}。 |
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完成された4Kリマスター版を見て、『[[生きる (映画)|生きる]]』以降の全黒澤映画のスクリプターを担当した[[野上照代]]は「黒澤さんにも見せたかった」と目に涙を浮かべながら語った<ref name="eiga.com">{{Cite web|title=仲代達矢&野上照代「七人の侍」4Kデジタル上映に涙「黒澤監督に見せたかった」|author=映画.com|url=http://eiga.com/news/20160913/16/|accessdate=2017-08-18}}</ref>。また野上は、音声修復にも触れ、「三船(敏郎)ちゃんもセリフがわからないって言われていて、かわいそうだった。(リマスター版では)よく分かりますね」と述べている<ref name="eiga.com" />。 |
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== 公開 == |
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[[1954年]]4月26日、本作は[[ゴールデンウィーク]]興行として日本国内で劇場公開された<ref name="年表"/>{{Sfn|西村|2005|pp=730-733}}。上映時間がとても長いため、オリジナル版は都市部の映画館で上映され、地方では短く編集されたものが上映された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=252-253}}。配給収入は2億6823万円で、同年度の邦画配給収入ランキングで3位になる興行的成功作となった{{Sfn|85回史|2012|p=112}}。東宝はこの大ヒットにより、系列館以外の映画館に本作を上映する条件として、他の東宝作品を10本買うことを要求したという<ref name="大系2解説"/>。 |
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アメリカでは、[[1956年]]7月に[[ロサンゼルス]]の劇場で6日間だけ上映され、[[アカデミー賞]]の選考にかけられたあと、同年11月に短縮版が『''The Magnificent Seven''』の題名で正式公開された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=255}}。この題名はリメイク作『[[荒野の七人]]』の原題と同じである。 |
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=== 短縮版 === |
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本作は海外輸出用に、黒澤自身が160分に再編集した「短縮版」が作られ、[[ヴェネツィア国際映画祭]]でもこの版が出品された{{Sfn|西村|2005|pp=737-741}}。1954年9月12日に日本でも短縮版が公開され、[[1955年]]と[[1967年]]に再公開したときもやはり短縮版で上映された{{Sfn|西村|2005|pp=737-741}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}。アメリカや[[ドイツ]]では短縮版をさらにカットしたものが上映された<ref name="リチー">{{Cite book|和書 |author=[[ドナルド・リチー]] |translator=[[三木宮彦]] |date=1979-9 |title=黒澤明の映画 |publisher=キネマ旬報社 |pages=185-186}}</ref>。[[西村雄一郎]]によると、[[フランス]]では配給会社が勝手にカットした100分版が上映されたこともあったという{{Sfn|西村|2005|pp=737-741}}。 |
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短縮版には、カットされたシーンに関する説明字幕はなく、菊千代にスポットが当たるように編集されている。また、当時の東宝の新設備である[[テープレコーダー]]を活用し、音楽の若干の早回しや、カットの辻褄を合わせるためオリジナルキャストによる数箇所のセリフの新規アフレコが行われている。早坂の新規録音(同時期に録音されながら全長版で未使用になっていた可能性もある)音楽はオリジナル版にはない箇所に多数使用されている。新録曲はサントラCDにも収録されていないが、エンドタイトルのファンファーレ曲のみ[[Blu-ray Disc]]のメニュー画面で聴くことが出来る。現在はドイツでリリースされているDVD([[PAL]]版)のみで編集した160分版を見ることが出来るが、音声はドイツ語吹替、現地オリジナルのBGMなど、原型を留めてはいない。日本語トラックも編集された映像を元にオリジナル版をシンクロさせただけのものであり、新録音声を聴くことはできない。 |
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=== オリジナル版の再公開 === |
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[[1975年]]9月20日、東宝により[[4チャンネルステレオ]]による完全オリジナル版が国内で公開された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}{{Sfn|西村|2005|pp=730-733}}。これは本作の6ミリテープが存在していたことから、当時流行していた4チャンネルステレオ版での再公開が持ち上がったことで作られ、[[サラウンド]]感を出すためBGMに擬似ステレオ処理を施した上でいくつかの効果音を挿入している{{Sfn|西村|2005|pp=730-733}}。この4チャンネルステレオ版には、[[1969年]]に[[TBS]]が本作を初めてテレビ放映したときに、黒澤の指令で三船と野武士の声を録り直して作ったテープが流用された{{Sfn|西村|2005|pp=730-733}}。 |
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その後、[[ドルビーサラウンド]]による完全オリジナル版が作られ、[[1991年]]8月27日に[[TOHOシネマズ日劇|日劇東宝]]で招待試写が行われたあと、11月2日に東宝洋画系で公開された<ref name="年表"/>{{Sfn|西村|2005|pp=730-733}}。このドルビーサラウンド版には、人を斬るときの斬殺音が追加された{{Sfn|西村|2005|pp=730-733}}。 |
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海外でも、1980年代以降からオリジナル版が公開されるようになった。アメリカでは、[[1983年]]にオリジナル版が正式公開された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}。[[2002年]]にもオリジナル版が再公開され、北米初公開から40年以上も経過していながらも27万1800万ドルの興行収入をあげた<ref>{{Cite web |url=https://www.boxofficemojo.com/releasegroup/gr2012434949/ |title=Seven Samurai | website=[[Box Office Mojo]] |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref>。 |
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=== 4Kリマスター版 === |
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本作は現存フィルムを元に[[4K解像度]]で修復が行われた<ref name="NHK">{{Cite web |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160223/k10010419301000.html |date=2016-2-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160223104038/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160223/k10010419301000.html |archivedate=2016-02-23 |title=映画「七人の侍」 4Kの高画質で修復 |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2016-02-24 }}</ref>。東宝の保管庫を調査した際に[[ネガフィルム|オリジナルネガ]]が発見できなかったため、最も状態の良かったマスターポジ(オリジナルネガを焼いたもの)とデュープネガ(マスターポジの[[複製]])が用いられた。マスターポジには繰り返しデュープネガを作った影響で傷や洗浄不可能なホコリがあり、部分によっては数コマ欠損している場合もあった。修復作業では3種類のソフトウェアを使い分けて傷や汚れを消したり、欠損したコマに前後のコマを合成するなどが行われた。さらに音声もフィルムに焼き付けられている音声画像を直接デジタルに変換する方法で取り込み、[[ノイズ]]を除去することで原音に近いものを再現している<ref>{{Cite web|title=デジタル修復、「七人の侍」のここがスゴい 2/3|url=http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20161013-OYT8T50039.html?page_no=2|website=YOMIURI ONLINE|accessdate=2017-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|title=「七人の侍」「生きる」が4Kデジタルリマスターで復活、午前十時の映画祭7で上映|url=http://eiga.com/news/20160219/5/|website=映画.com|accessdate=2017-08-18}}</ref>。 |
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4Kリマスター版は、[[2016年]]2月23日に関係者向けに公開されたあと、9月の[[第73回ヴェネツィア国際映画祭]]のクラシック部門で上映され、[[10月8日]]から[[午前十時の映画祭]]で一般公開された<ref name="NHK"/><ref>{{Cite web |url=https://www.cinemaniera.com/movie/29031 |title=ヴェネツィア国際映画祭、黒澤明監督『七人の侍』に再脚光 |date=2016/9/9 |website=シネママニエラ |accessdate=2020年8月26日}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://asa10.eiga.com/2016/cinema/611.html |title=「七人の侍」上映作品詳細 |website=午前十時の映画祭7 |accessdate=2020年8月26日}}</ref>。[[野上照代]]は4Kリマスター版を見て、「黒澤さんにも見せたかった」と目に涙を浮かべながら語り、音声修復について「三船ちゃんもセリフがわからないって言われていて、かわいそうだった。(リマスター版では)よく分かりますね」と述べている<ref>{{Cite web|title=仲代達矢&野上照代「七人の侍」4Kデジタル上映に涙「黒澤監督に見せたかった」|url=http://eiga.com/news/20160913/16/|website=映画.com|accessdate=2017-08-18}}</ref>。 |
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== 評価 == |
== 評価 == |
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=== 批評家の反応 === |
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日本で初公開された当初は、娯楽映画に冷淡な批評家から軽視され、決して高い評価を受けることはなかった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=252-253}}<ref name="リチー"/>{{Sfn|四方田|2010|p=26}}。第28回[[キネマ旬報ベスト・テン]]では3位に選ばれた{{Sfn|85回史|2012|p=112}}。その後国内での評価が高まり、[[キネマ旬報]]で10年毎に批評家らが選出した「日本映画史上のベスト・テン」では、1979年、1989年、1999年でいずれも1位に選ばれた<ref name="大系2解説"/>。 |
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{| class="wikitable" style="font-size:small" |
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!賞!!年!!部門!!対象!!結果 |
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本作は海外の映画批評家からも高く評価された。{{仮リンク|アーサー・ナイト|en|Arthur Knight (film critic)}}は『ザ・サタデー・レビュー』で、「ディテールの多さ、人物描写の豊かさ、アクションの力強いクオリティ、そしてすべてのシークエンスで黒澤が見せる技術面での妙技、それらがこの作品の尽きない魅力となっている」と評した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}。[[ロサンゼルス・タイムズ]]紙の{{仮リンク|ケヴィン・トマス|en|Kevin Thomas (film critic)}}は、「『七人の侍』の息が長いのは、演出スタイルが華麗であるからではなく、皮肉なスタイルを交えながらも、人生と人間らしい心を強く肯定したメッセージが、高らかに宣言されているからである」と肯定的に評価した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}。[[ワシントン・ポスト]]紙の{{仮リンク|デッソン・トムソン|en|Desson Thomson}}は、「史上最高のアクション映画」としている<ref>{{Cite web |url=https://loftcinema.org/film/seven-samurai/ |title=Seven Samurai |website=The Loft Cinema |language=英語 |accessdate=2020年8月1日}}</ref>。[[ロジャー・イーバート]]は本作に最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている<ref>{{Cite web|url=https://www.rogerebert.com/reviews/great-movie-the-seven-samurai-1954 |title=Review:The Seven Samurai |website=rogerebert.com |language=英語|accessdate=2020/8/1}}</ref>。 |
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映画批評集積サイトの[[Rotten Tomatoes]]には64件のレビューがあり、批評家支持率は100%で、平均点が9.36/100という高評価を獲得している<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/seven_samurai_1956|title=SEVEN SAMURAI (SHICHININ NO SAMURAI)|website=[[Rotten Tomatoes]]|language=英語 |accessdate=2020/8/26}}</ref>。同サイトの「アートハウス&国際映画トップ100」では6位、「アクション&アドベンチャー映画トップ100」では20位にランクされている<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/top/bestofrt/top_100_art_house__international_movies/?category=4|title=TOP 100 ART HOUSE & INTERNATIONAL MOVIES|website=Rotten Tomatoes|language=英語 |accessdate=2020/8/26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/top/bestofrt/top_100_action__adventure_movies/?category=1|title=TOP 100 ACTION & ADVENTURE MOVIES|website=Rotten Tomatoes|language=英語 |accessdate=2020/8/26}}</ref>。[[Metacritic]]には6件のレビューがあり、加重平均値が98/100となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.metacritic.com/movie/seven-samurai-re-release |title=Seven Samurai (re-release) | website=[[Metacritic]] |language=英語 |accessdate=2020年8月26日}}</ref>。 |
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=== 映画監督の反応 === |
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本作は多くの映画監督からも高い評価を受けている。[[アンドレイ・タルコフスキー]]は好きな作品の1本に挙げており、雨や土などの自然描写に影響を受けた{{Refnest|group="注釈"|黒澤はソ連を初めて訪れた時に『[[惑星ソラリス]]』を撮影中のタルコフスキーと会い、2人でレストランで酒を飲むと、酔ったタルコフスキーが「侍のテーマ」を大声で唄いだしたという<ref>黒澤明「タルコフスキイと『惑星ソラリス』」([[朝日新聞]]1977年5月13日夕刊)。『大系黒澤明 3巻』講談社、2010年2月、pp.131-134に所収</ref>。}}<ref>{{Cite web |url=http://www.nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |title=Tarkovsky's Choice | website=Nostalghia.com |language=英語 |accessdate=2020年8月1日}}</ref>{{sfn|研究会|1999|pp=170-171}}。[[ジョージ・ルーカス]]は[[南カリフォルニア大学|USC]]の映画学科で学んでいる時に、本作を見て大きな衝撃を受けた<ref>{{Cite web |url=https://www.ign.com/articles/2004/04/23/george-lucas-and-the-seven-samurai |title=George Lucas and the Seven Samurai |date=2004/4/24 |website=IGN |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref>。後にルーカスは「『七人の侍』は私に途方もない衝撃を与えた。私はそれまであのように力強く、しかも映画的なものを見たことがなかった。私がその文化や伝統を理解していない事など問題にならないくらい、とても激しく感動した」と語っている{{sfn|堀川|2000|pp=267-268}}。[[ジョン・ウー]]は映画を撮る前に必ず本作を見直しており、「あらゆるアクション映画の模範であり、私にとって教科書のようなものです」と語っている<ref>{{Cite web |url=https://toyokeizai.net/articles/-/2352 |title=世界が希望に満ちあふれていることを若者に知ってほしい--映画『レッドクリフ』監督=ジョン・ウー | website=東洋経済オンライン |date=2008/11/08 |accessdate=2020年8月25日}}</ref>。 |
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また、[[マーティン・スコセッシ]]は「若手映画製作者のための39本の外国語映画」のリストに選出した<ref>{{Cite web |url=http://www.openculture.com/2014/10/scorseses-list-of-39-essential-foreign-films.html |title=Martin Scorsese Creates a List of 39 Essential Foreign Films for a Young Filmmaker |date=2014/10/15 |website=openculture |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref>。[[テリー・ギリアム]]も自身の人生と作品に影響を与えた映画の中で、「映画を監督したいと思わせた映画」として選出した<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/news/20140222/6/ |title=テリー・ギリアム監督の「我が人生の映画8本」 | website=映画.com |date=2014年2月22日 |accessdate=2020年8月25日}}</ref>。ほかにも、[[ジョン・ミリアス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.ign.com/articles/2001/11/14/10-questions-john-milius |title=10 Questions: John Milius |website=IGN |date=2001/11/14 |language=英語 |accessdate=2020年8月1日}}</ref><ref name="タイムアウト">{{Cite web |url=https://www.mistdriven.com/timeout/directors.html |title=Time Out: Director's Choice | website=mistdriven.com |language=英語 |accessdate=2020年8月1日}}</ref>、[[ジョン・ブアマン]]<ref name="BFI2002">{{Cite web |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/voted.php?film=Seven+Samurai |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021030223455/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/voted.php?film=Seven+Samurai |archivedate=2002/10/30 |title=Sight and Sound Top Ten Poll 2002: who voted? – Seven Samurai |work=Sight & Sound |publisher=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月1日}}</ref>、[[ジム・ジャームッシュ]]<ref name="BFI2002"/>、[[北野武]]<ref name="タイムアウト"/>、[[アンドレイ・コンチャロフスキー]]<ref name="BFI2012">{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/films-tv-people/4ce2b6b5b6382/sightandsoundpoll2012 |title=Votes for Seven Samurai (1954) | website=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月1日}}</ref>、[[リチャード・レスター]]<ref name="BFI2012"/>、[[マーティン・マクドナー]]<ref name="BFI2012"/>、[[ポール・グリーングラス]]<ref name="BFI2012"/>、[[ジョージ・ミラー (プロデューサー)|ジョージ・ミラー]]<ref>{{Cite web |url=https://intro.ne.jp/contents/2015/06/19_2236.html |title=「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ジョージ・ミラー監督記者会見 |website=INTRO |accessdate=2020年8月1日}}</ref>などが、本作を好きな作品に挙げたり、ベスト作品の1本に選出したりしている。 |
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=== 受賞とノミネートの一覧 === |
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{| class="wikitable" style="font-size:95%" |
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!賞!!部門!!対象!!結果!!出典 |
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|rowspan="2"|[[ヴェネツィア国際映画祭]]||rowspan="2"| |
|rowspan="2"|[[ヴェネツィア国際映画祭]]||[[金獅子賞]]||rowspan="2"| [[黒澤明]]||{{nom}}||rowspan="2"|<ref name="imdb">{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt0047478/awards?ref_=tt_awd |title=Awards – seven samurai | website=IMDb |language=英語 |accessdate=2020年7月31日}}</ref> |
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|[[銀獅子賞]]|| |
|[[銀獅子賞]]|| {{won}} |
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|[[キネマ旬報ベスト・テン]] |
|[[キネマ旬報ベスト・テン]]||日本映画ベスト・テン||||{{draw|3位}}||{{Sfn|85回史|2012|p=112}} |
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|[[毎日映画コンクール]] |
|[[毎日映画コンクール]]||男優助演賞||[[宮口精二]]||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/mfa/history/009.html |title=毎日映画コンクール 第9回(1954年) | website=[[毎日新聞]] |accessdate=2020年7月31日}}</ref> |
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|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]||音楽賞||[[早坂文雄]]||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1954/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075514mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1954/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第5回(1955年2月9日) | website=シネマ報知 |accessdate=2020年7月31日}}</ref> |
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|都民映画コンクール||銀賞||||{{won}}||<ref name="年表"/> |
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|rowspan="2"|[[映像技術賞|日本映画技術賞]]||撮影||[[中井朝一]]||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=http://www.mpte.jp/outline/kennsyou/technological_prize.html |title=日本映画技術賞 受賞一覧 | website=日本映画テレビ技術協会 |accessdate=2020年7月31日}}</ref> |
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|美術||[[松山崇]]||{{won}} |
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|rowspan="3"|[[英国アカデミー賞]] |
|rowspan="3"|[[英国アカデミー賞]] |
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|[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||||{{nom}}|| rowspan="3"|<ref>{{Cite web |url= http://awards.bafta.org/award/1956/film? |title= Film in 1956 | website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2020年7月31日}}</ref> |
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|rowspan="2"|[[英国アカデミー賞 主演男優賞|外国男優賞]]||[[三船敏郎]]||{{nom}} |
|rowspan="2"|[[英国アカデミー賞 主演男優賞|外国男優賞]]||[[三船敏郎]]||{{nom}} |
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340行目: | 469行目: | ||
|[[志村喬]]||{{nom}} |
|[[志村喬]]||{{nom}} |
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|rowspan="2"|[[第29回アカデミー賞|アカデミー賞]]||[[アカデミー美術賞|美術賞 (白黒部門)]]||松山崇||{{nom}}|| rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1957 |title=THE 29TH ACADEMY AWARDS | 1957 | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年7月31日}}</ref> |
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|rowspan="2"|[[アカデミー賞]] |
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|rowspan="2"|[[第29回アカデミー賞|1956年]]||[[アカデミー美術賞|美術賞 (白黒部門)]]||[[松山崇]]||{{nom}} |
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|[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]||[[江崎孝坪]]||{{nom}} |
|[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]||[[江崎孝坪]]||{{nom}} |
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|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |
|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||||{{nom}}||<ref name="imdb"/> |
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|1956年||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||||{{nom}}<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/event/ev0000484/1956/1?ref_=ttawd_ev_5 |title=1956 Awards - New York Film Critics Circle Awards |accessdate=2020-01-12|work=IMDb}}</ref> |
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|rowspan="2"|{{仮リンク|ユッシ賞|fi|Jussi (palkinto)}}||外国監督賞||黒澤明||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="imdb"/> |
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|外国男優賞||志村喬||{{won}} |
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=== ランキング === |
=== ランキング入り === |
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'''国内''' |
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!年!!媒体・団体!!部門!!順位 |
!年!!媒体・団体!!部門!!順位!!出典 |
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|1979年||rowspan="6"|[[キネマ旬報]]||日本映画史上ベスト・テン||{{won|1位}}||<ref name="大系2解説"/> |
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|1989年|| |
|1989年||日本映画史上ベスト・テン||{{won|1位}}||<ref name="大系2解説"/> |
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|rowspan="2"|1995年|| |
|rowspan="2"|1995年||日本映画オールタイム・ベストテン||{{draw|2位}}|| |
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|オールタイムベストテン |
|世界映画オールタイム・ベストテン||{{won|1位}}||<ref name="大系2解説"/> |
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|1999年|| |
|1999年||オールタイム・ベスト100 日本映画編||{{won|1位}}||{{Sfn|85回史|2012|p=588}} |
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|2009年||オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇||{{draw|2位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091215171829/http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html |archivedate=2009-12-15 |title=「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開 |website=[[キネマ旬報映画データベース]] |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|2009年||キネマ旬報||オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇||{{draw|第2位}} |
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'''海外''' |
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!年!!媒体・団体!!部門!!順位 |
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|1982年||rowspan="7"|[[英国映画協会]] |
|1982年||rowspan="7"|[[英国映画協会]] ''Sight&Sound''||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|3位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.mistdriven.com/sight/1982.html |title=Sight and Sound Poll 1982: Critics |website= |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|rowspan="2"|1992年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{ |
|rowspan="2"|1992年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|17位}}|| |
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|映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw| |
|映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|10位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.mistdriven.com/sight/1992_2.html |title=Sight and Sound Poll 1992: Directors | website= |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|rowspan="2"|2002年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|11位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-long.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040213003312/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-long.html |archivedate=2004/2/13 |title=Sight and Sound Critics Top Ten Poll 2002 |work=Sight & Sound |publisher=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|rowspan="2"|2002年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|第11位}} |
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|映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|9位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020816030310/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors.html |archivedate=2002/8/16 |title=Sight and Sound Directors' Top Ten Poll 2002 |work=Sight & Sound |publisher=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|第9位}} |
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|rowspan="2"|2012年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{ |
|rowspan="2"|2012年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|17位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/greatest-films-all-time |title=The 100 Greatest Films of All Time | website=BFI.org |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{ |
|映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|17位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/films-tv-people/sightandsoundpoll2012/directors |title=Directors’ top 100 | website=BFI.org |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|1989年||[[文藝春秋]]||大アンケートによる日本映画ベスト150||{{won|1位}}|| |
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|1995年||rowspan="2"|[[タイムアウト (雑誌)|タイムアウト]]||最高の映画100本||{{draw|5位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.filmsite.org/timeout.html |title=Top 100 Films (Centenary) | website=Filmsite.org |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|2019年||史上最高のアクション映画ベスト101||{{draw|2位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.timeout.com/film/the-101-best-action-movies-ever-made |title=The 101 best action movies ever made |website=Time Out |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|2000年||[[ヴィレッジ・ヴォイス]]||20世紀の映画ベスト100||{{nom|23位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.filmsite.org/villvoice.html |title=100 Best Films of the 20th Century |website=Filmsite.org |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|2008年||rowspan="2"|[[エンパイア (雑誌)|エンパイア]]||歴代最高の映画500本||{{nom|50位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.empireonline.com/movies/features/500-greatest-movies/ |title=The 500 Greatest Movies of All Time |accessdate=2020/1/12 |language=英語 |website=Empire}}</ref> |
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|2010年||史上最高の外国語映画100本||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|url=https://eiga.com/news/20100614/2/ |title=英エンパイア誌の「史上最高の外国語映画100本」 第1位に「七人の侍」 |date=2010/6/14 |accessdate=2020/1/12|website=映画.com}}</ref> |
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|2008年||[[カイエ・デュ・シネマ]]||史上最高の映画100本||{{nom|57位}}||<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/list/ls079338510/ |title=Cahiers du Cinema Top 100 Films |accessdate=2020-01-12|language=英語 |work=IMDb}}</ref> |
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|2010年||[[トロント国際映画祭]]||エッセンシャル100||{{draw|6位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.indiewire.com/2010/12/toronto-film-festivals-essential-100-list-237938/ |last=Thompson |first=Anne |date=2010/12/17 |title=Toronto Film Festival’s Essential 100 List |website=IndieWire |language=英語 |accessdate=2020/8/26}}</ref> |
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|2013年||[[エンターテイメント・ウィークリー]]||オールタイムベスト100||{{nom|17位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.filmsite.org/ew100-2013.html |title=100 ALL-TIME GREATEST MOVIES|accessdate=2020-01-12 |language=英語 |website= Filmsite.org}}</ref> |
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|2015年||[[釜山国際映画祭]]||アジア映画ベスト100||{{draw|6位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.biff.kr/Template/Builder/00000001/page.asp?page_num=5865 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151031145338/http://www.biff.kr/Template/Builder/00000001/page.asp?page_num=5865 |archivedate=2015/10/31 |title=Asian Cinema 100 |website=BIFF |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|2018年||[[英国放送協会|BBC]]||史上最高の外国語映画ベスト100||{{won|1位}}||<ref name="外国語映画"/> |
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|{{N/a}}||TSPDT||最高の映画1000本||{{draw|10位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.theyshootpictures.com/gf1000_all1000films_table.php |title=THE 1,000 GREATEST FILMS (FULL LIST) |website=TSPDT |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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|{{N/a}}||[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]]||IMDbユーザーが選ぶ最高の映画ベスト250||{{nom|19位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/chart/top/ |title=Top Rated Movies | website=IMDb |language=英語 |accessdate=2020年8月25日}}</ref> |
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== 影響・リメイクなど == |
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== 短縮版 == |
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[[1960年]]公開の[[ジョン・スタージェス]]監督の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[荒野の七人]]』は、本作を西部劇に[[リメイク]]した作品である。元々は主演の[[ユル・ブリンナー]]が映画化の話を持ちかけ、プロデューサーの{{仮リンク|ウォルター・ミリッシュ|en|Walter Mirisch}}が東宝から正式に権利許諾を得て映画化した<ref>{{Cite web |url=http://www.tcm.com/this-month/article/12462%7C0/The-Magnificent-Seven.html |last=Stafford |first=Jeff |title=THE MAGNIFICENT SEVEN |website=Turner Classic Movies |work=TCM Film Article |language=英語 |accessdate=2020年8月24日}}</ref>。黒澤はこの映画について、「ガンマンは侍じゃないよ」と語り{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}、リメイクすることには「バカなことはやめてもらいたい。意味ないでしょ」と語っている<ref name="秘密"/>。その後、『荒野の七人』の続編として、 [[1966年]]公開の『[[続・荒野の七人]]』、[[1969年]]公開の『[[新・荒野の七人 馬上の決闘]]』、[[1972年]]公開の『[[荒野の七人・真昼の決闘]]』が作られた。また、本作を基にした『荒野の七人』のリメイク作として、[[1980年]]公開の[[ジミー・T・ムラカミ]]監督作『[[宇宙の7人]]』、[[2016年]]公開の[[アントワーン・フークア]]監督作『[[マグニフィセント・セブン]]』がある。 |
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本作はヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品するため、既定の160分に収まるように再編集された短縮版がある。 |
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他にも多くの外国映画に影響を与えた。アクションシーンで[[スローモーション]]を使用する手法は、[[1967年]]公開の[[アーサー・ペン]]監督作『[[俺たちに明日はない]]』と、1969年公開の[[サム・ペキンパー]]監督作『[[ワイルドバンチ]]』に影響を与えた<ref>{{Cite book |last=Prince |first=Stephen |year=1999 |title=The Warrior's Camera:The Cinema of Kurosawa |publisher=Princeton University Press |isbn=9780691010465 |pages=349-350}}</ref>。[[マカロニ・ウエスタン]]には[[1965年]]公開の{{仮リンク|マルコ・ヴィカリオ|it|Marco Vicario}}監督作『[[黄金の七人]]』など、本作の形式だけを借りた作品も多い{{Sfn|四方田|2010|pp=30-32}}。[[香港]]や[[台湾]]の武侠映画では、[[1975年]]公開の[[胡金銓|キン・フー]]監督作『忠烈図』や、[[1984年]]公開の[[王童]]監督作『策馬入林』などに影響を与えた{{Sfn|四方田|2010|pp=30-32}}。1975年公開の[[ラメーシュ・シッピー]]監督の[[インド映画]]『{{仮リンク|炎 (映画)|en|Sholay|label=炎}}』は、本作と『荒野の七人』のスタイルやストーリーの影響を受けている<ref>{{Cite web |url=http://www.nytimes.com/2007/12/27/arts/27Sippy.html |title=G. P. Sippy, Indian Filmmaker Whose ‘Sholay’ Was a Bollywood Hit, Dies at 93 |date=2007/12/27 |website=The New York Times |language=英語 |accessdate=2020年8月24日}}</ref>。 |
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黒澤には過去に[[国策]]や会社の方針など、自身の与り知らぬ不本意な再編集を施された作品がいくつかあるが、この短縮版は黒澤本人が編集を行っている。過去の短縮版に対するあてつけのような気合の入った編集になっており、オミットされたシーンに関する説明字幕は一切ない。また、当時の東宝の新設備であるテープレコーダーをフル活用し、音楽の若干の早回しや、カットの辻褄を合わせるため、いくつかのセリフのオリジナルキャストによる新規[[アフレコ]]、黒澤得意のワイプ処理など随所にこだわりがみられる。特に早坂文雄の新規録音(同時期に録音されながら全長版で未使用になっていた可能性もある)音楽はオリジナル版にはない箇所に多数使用され、様々な意味でオリジナルとは別の印象を与える工夫がなされている。早坂の新録曲はサントラCDにも収録されていないが、エンドタイトルのオリジナルより勇壮な印象のファンファーレ曲のみブルーレイディスクのメニュー画面で聴くことが出来る。こうして再編集された黒澤渾身の短縮版は見事に1954年のヴェネツィア銀獅子賞を獲得し、以降、同年9月の国内凱旋公開を皮切りに海外にもこの短縮版([[ユル・ブリンナー]]が観たのもこれである)が輸出された。 |
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{{仮リンク|ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー|en|Los Angeles Herald Examiner}}紙は、[[ハリウッド]]の映画監督に与えた影響について、「監督がこの作品のために編み出した、鮮やかなアクション技術、つまりマルチカム撮影や、戦闘シーンのスローモーション撮影、ロングレンズを使用した群衆の強調技術は、その後何十年にもわたり、多くの映画監督に多大な影響を与えてきた。黒澤らしい発案は、アーサー・ペンやサム・ペキンパー、[[ウォルター・ヒル]]、[[フランシス・フォード・コッポラ]]、ジョージ・ルーカス、ジョージ・ミラーなど、才能あふれる『侍』ファンの、ベーシックな技術となった」と述べている{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=257-261}}。 |
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『[[荒野の七人]]』公開時の便乗リバイバル時や1967年のリバイバルもこの版が上映され(併映は『[[用心棒]]』)、2番館、3番館でもこれが定番となっていたが、1975年のオリジナル版のリバイバル以降、国内においては全くと言っていいほど観る機会が失われた。海外においても1980年代以降のビデオソフト全盛の時代にオリジナル版がリリースされるようになったのを機に次第に重要視されなくなる。 |
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本作は日本国内の[[漫画]]や[[アニメ]]にも影響を与えた。[[富野由悠季]]原作の漫画『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人|機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人]]』(2006~07年連載)は本作がイメージのベースとなっている<ref>『[[月刊ガンダムエース]]』2018年5月号、[[角川書店]]、445頁。</ref>。 [[1984年]]放送の[[テレビアニメ]]『[[キン肉マン#テレビスペシャル|キン肉マン 決戦!7人の正義超人vs宇宙野武士]]』の大筋は本作の[[パロディ]]となっている<ref>{{Cite web |author=小黒祐一郎|url=http://www.style.fm/as/05_column/365/365_153.shtml |title=アニメ様365日 第153回『キン肉マン』 | website=WEBアニメスタイル |accessdate=2020年8月22日}}</ref>。[[2004年]]放送のテレビアニメ『[[SAMURAI 7]]』は本作のリメイクだが、物語設定は原作通りではなく、未来の惑星戦争の世界を舞台とするSF冒険活劇となっている<ref>{{Cite web |url=http://www.samurai-7.com/kaisetu.html |title=解説 | website=サムライ 7公式HP |accessdate=2020年8月22日}}</ref>。アニメ映画では、[[1997年]]公開の『[[クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡]]』に登場する「珠由良七人衆」が七人の侍をモデルにしており、[[2015年]]公開の『[[名探偵コナン 業火の向日葵]]』に登場する「7人のサムライ」が本作に由来している。 |
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この短縮版は菊千代にスポットが当たるように編集されており、この作品の主人公を明確にしている。 |
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また、海外の[[アニメーション映画]]にも影響を与えた。[[1998年]]公開の[[ピクサー・アニメーション・スタジオ|ピクサー映画]]『[[バグズ・ライフ]]』は本作との類似点が指摘されている<ref>{{Cite web |first=Olivia |last=Armstrong |url=https://decider.com/2014/11/19/seven-samurai-a-bugs-life/ |title=‘Seven Samurai’ and ‘A Bug’s Life’ Are The Same Movie | website=DECIDER |language=英語 |accessdate=2020年8月22日}}</ref>。[[2010年]]放送のアメリカのテレビアニメ『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ (テレビアニメ)|スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]]』第2シーズンの第17話「七人の傭兵」は本作を[[オマージュ]]しており、本編冒頭に「in memory of Akira Kurosawa」のテロップが挿入されている。[[2018年]]公開の[[ウェス・アンダーソン]]監督作『[[犬ヶ島]]』には、早坂が作曲した「勘兵衛と勝四郎~菊千代のマンボ」が[[サウンドトラック]]で使用された<ref>{{Cite web |url=https://consequenceofsound.net/2018/03/wes-anderson-isle-of-dogs-soundtrack/ |title=Wes Anderson releases Isle of Dogs soundtrack, featuring score from Alexandre Desplat: Stream | website=Consequence of Sound |date=2018/5/23 |language=英語 |accessdate=2020年8月22日}}</ref>。 |
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[[スティーヴン・スピルバーグ]]は後年、オリジナル版を観たとき、「全く別の映画のようだ!」と感想を述べている。 |
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== その他 == |
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現在はドイツでリリースされているDVD([[PAL]]版)のみで編集した160分版を見ることが出来るが、音声はドイツ語[[吹替]]、現地オリジナルのBGMなど、原型を留めてはいない。日本語トラックのほうも編集された映像を元にオリジナル版をシンクロさせただけのものであり、新録音声を聴くことはできない。 |
|||
* 7人の侍を演じた俳優は、[[1972年]]に東宝創立40周年記念として[[TBSテレビ|TBS]]系列で放映された[[特番]]に出演し、座談会を行った。その後、[[1975年]]の加東(64歳没)を皮切りに、[[1981年]]に木村(58歳没)、[[1982年]]に志村(76歳没)が死去し、志村の逝去時の黒澤のコメントから、「生き残った3人」が先に逝ったことがマスコミで取り上げられた。[[1985年]]に宮口(71歳没)が没して以降、残る3人はしばらく健在だったが、[[1997年]]に三船(77歳没)、[[1998年]]に稲葉(77歳没)、[[1999年]]に千秋(82歳没)と立て続けにこの世を去った。皮肉にも劇中最初に討死した平八を演じた千秋が最後の侍となった。 |
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* 本作をモチーフにした[[テレビ番組]]やその企画に、[[めちゃ²イケてるッ!]]のコーナー「[[七人のしりとり侍]]」、[[NHK BSプレミアム]]のコント番組「[[プレミアムコント#七人のコント侍|七人のコント侍]]」がある。 |
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この短縮版は特に封印するというアナウンスは公式にはない。 |
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多くの研究書もこの短縮版について考察しているものは皆無に等しく、存在が触れられているのみである。 |
|||
なお、凱旋公開記念に[[山口淑子]]による主題歌の[[SPレコード|SP]]盤が発売、このB面曲は「稲刈り」のBGMがそのまま収録されており、事実上、日本映画史上最初の[[サウンドトラック|サントラ]]盤でもある。 |
|||
== 俳優7人のその後 == |
|||
7人は1972年、東宝創立40周年の記念に[[TBSテレビ|TBS]]系列で放映された[[特番]]に勢ぞろいし、座談会を行った。その後、1975年の加東(64歳没)を皮切りに1981年に木村(58歳没)、1982年に志村(76歳没)が死去し、志村の逝去時の黒澤のコメントから、「生き残った3人」が先に逝ったことがマスコミで取り上げられた。1985年に宮口(71歳没)が没して以降、残る3人はしばらく健在であったが、1997年に三船(77歳没)、1998年に稲葉(77歳没)、1999年に千秋(82歳没)と立て続けにこの世を去った。皮肉にも劇中最初に討死した平八を演じた千秋が最後の侍となった。 |
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== 影響 == |
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以後の映画作品に多大な影響を与え、また他国の映画監督にもファンが多い。 |
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[[アンドレイ・タルコフスキー]]は、最高の映画10本の一つに『[[砂の女]]』や『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』と一緒にこの作品を選んでいる<ref>{{Cite web|url=http://www.nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html|title=Tarkovsky's Choice|website=Nostalghia.com|accessdate=2020/02/15}}</ref>。黒澤が初めてソ連を訪れたときの歓迎昼食会では、レストランで黒澤と乾杯したタルコフスキーが酒に酔って音楽を流しているスピーカーを切り、「七人の侍」のテーマを大声で歌い出したと黒澤は述懐している。またタルコフスキーの『[[アンドレイ・ルブリョフ (映画)|アンドレイ・ルブリョフ]]』における[[タタール]]来寇の場面では、『七人の侍』のシーンをそのまま借用した箇所も見られる。 |
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[[フランシス・フォード・コッポラ]]は「影響を受けた映画」と言い、[[ジョージ・ルーカス]]は「[[スター・ウォーズシリーズ|『スター・ウォーズ』シリーズ]]は[[サイエンス・フィクション|SF]]という舞台で黒澤のサムライ劇を再現したかった」と述べている。幼少期に黒澤作品に触れて多大な影響を受けたという[[スティーヴン・スピルバーグ]]は、映画の撮影前や製作に行き詰まったときに、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を観ると発言している。また本作を通じて侍の精神や[[武士道]]の考え方なども影響を与え、『スター・ウォーズ』の[[ジェダイ]]の騎士は『七人の侍』のキャラクターを元に創作されたとジョージ・ルーカスは述べている。 |
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== オマージュ・リメイク == |
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{{出典の明記|section=1|date=2016年4月}} |
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「腕利きの7人(または数人)の個性的な[[プロフェッショナル]]が、弱者を守る・秘宝を盗むなどの目的のために結集して戦う」という[[プロット (物語)|プロット]]は、「7人」という登場人物の映画・ドラマの原点とも言われている。 |
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<small>※発表年順</small> |
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* 『[[荒野の七人]]』(1960年) |
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* 『[[黄金の七人]]』(1965年) |
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* 『[[続・荒野の七人]]』(1966年) |
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* 『[[わんぱく砦]]』(1967年) |
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* 『[[新・荒野の七人 馬上の決闘]]』(1969年) |
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* 『[[ワイルド7]]』(1969年) |
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* 『[[荒野の七人・真昼の決闘]]』(1972年) |
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* 『[[ガンバの冒険]]』(1975年) |
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* 『[[:en:Sholay|Sholay]]』(1975年)<ref>[http://www.nytimes.com/2007/12/27/arts/27Sippy.html G. P. Sippy, Indian Filmmaker Whose ‘Sholay’ Was a Bollywood Hit, Dies at 93]The New York Times, DEC. 27, 2007</ref> |
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* 『[[宇宙の7人]]』(1980年) |
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* 『[[地獄の7人]]』(1983年) |
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* 『[[キン肉マン (テレビアニメ)#テレビスペシャル|キン肉マン 決戦!7人の正義超人vs宇宙野武士]]』(1984年) |
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* 『[[V.マドンナ大戦争]]』(1985年) |
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* 『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』(1985年) |
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* 『[[ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大戦争]]』(1986年) |
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* 『[[サボテン・ブラザーズ]]』(1986年) |
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* 『[[将軍家光の乱心 激突]]』(1989年) |
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* 『[[七人のおたく]]』(1992年) |
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* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人]]』(2006年) |
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* 『[[クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡]]』(1997年) |
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* 『[[バグズ・ライフ]]』(1998年) |
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* 『[[ギャラクシー・クエスト]]』(1999年) |
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* 『[[アタック・ナンバーハーフ]]』(2000年)<ref name=四方>[[四方田犬彦]]は、以下の作品のプロットにも影響が見られると説く。</ref> |
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* 『[[七人のしりとり侍]]』(2000年) |
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* 『[[少林サッカー]]』(2001年)<ref name=四方/> |
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* 『[[SAMURAI 7]]』(2004年) |
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* 『[[セブンソード]]』(2005年) |
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* 『[[七人の弔]]』(2005年) |
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* 『[[ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜]]』(2007年) |
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* 『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ (テレビアニメ)|スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]]』シーズン2第17話 「七人の傭兵」(2010年) - 本編冒頭に「in memory of Akira Kurosawa」のテロップが挿入されている。 |
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* 『[[七人のコント侍]]』(2013年) |
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* 『[[Wake Up, Girls!]]』(2014年) |
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* 『[[名探偵コナン 業火の向日葵]]』(2015年) |
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* 『[[マグニフィセント・セブン]]』(2016年) |
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== メディアミックス == |
== メディアミックス == |
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<small>※発表年順</small> |
<small>※発表年順</small> |
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;漫画 |
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* 七人の侍 |
* 七人の侍 上下巻(劇画:[[さいとう・たかを]]。1997年、[[中央公論社]]) |
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* 七人の侍 |
* 七人の侍(劇画:[[ケン月影]]。2012年、[[講談社]]。初出は『[[週刊少年マガジン]]』、1970年) |
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;アニメ |
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* [[SAMURAI 7]](2004年、[[ゴンゾ|GONZO]]) |
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=== アニメ・ゲーム === |
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;パチンコ機 |
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; アニメ |
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* CR七人の侍(2008年、[[ビスティ]]) |
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* 2004年、[[ゴンゾ|GONZO]]により『SAMURAI 7』としてアニメ化された。 |
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: 監督は[[中野裕之]]、衣裳デザインは[[ワダエミ]]。出演は[[千葉真一|JJサニー千葉]](島田勘兵衛)、[[田口トモロヲ]](片山五郎兵衛)、[[六平直政]](七郎次)、[[田中要次]](平八)、[[吹越満]](久蔵)、[[魔裟斗]](岡本勝四郎)、[[永瀬正敏]](菊千代)、[[笹野高史]](儀作)、[[麻生久美子]](志乃)。 |
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{{Main|SAMURAI 7}} |
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;舞台 |
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* KANSAI SUPER SHOW 七人の侍(2010年) |
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; ゲーム <small>※上記アニメを原作とするゲーム作品</small> |
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: 演出、製作総指揮は[[山本寛斎]]。出演は[[堂本光一]]、[[仲里依紗]]、[[魔裟斗]]、[[上島竜兵]]、[[森山開次]]、[[池谷幸雄]]、[[柄本明]]など。 |
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* 『SEVEN SAMURAI 20XX』 - 2004年発売。[[サミー]]から[[PlayStation 2|PS2]]用ソフトとして発売されたアクションゲーム。舞台は近未来設定となっている。 |
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* 『[[SAMURAI 7#ゲーム|SAMURAI 7]]』 - 2006年発売。[[アイディアファクトリー]]からPS2用ソフトとして発売されたアドベンチャーゲーム。 |
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=== パチンコ === |
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2008年に[[ビスティ]]から[[パチンコ]]機・『CR七人の侍』がリリースされ、このパチンコ機用に新規撮影が行われた。 |
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* キャスト - 島田勘兵衛([[千葉真一|JJサニー千葉]])、片山五郎兵衛([[田口トモロヲ]])、七郎次([[六平直政]])、平八([[田中要次]])、久蔵([[吹越満]])、岡本勝四郎([[魔裟斗]])、菊千代([[永瀬正敏]])、儀作([[笹野高史]])、志乃([[麻生久美子]]) |
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* 監督 - [[中野裕之]] |
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* 衣裳デザイン - [[ワダエミ]] |
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=== 舞台 === |
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2010年に『KANSAI SUPER SHOW 七人の侍』として舞台化された。 |
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* キャスト - [[堂本光一]]、[[仲里依紗]]、[[魔裟斗]]、[[上島竜兵]]、[[森山開次]]、[[池谷幸雄]]、[[柄本明]] |
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* 演出、製作総指揮 - [[山本寛斎]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist}} |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book |和書 |author=スチュアート・ガルブレイス4世|title=黒澤明と三船敏郎|publisher=亜紀書房|date=2015-10|isbn=9784750514581 |ref={{SfnRef|ガルブレイス4世|2015}} }} |
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*『全集黒澤明 第4巻』 [[岩波書店]]、1988年、作品台本・随筆、解題[[佐藤忠男]]ほか |
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*{{Citation |和書 |editor=黒澤明研究会 |date=1999-12 |title=黒澤明 夢のあしあと |series=MOOK21シリーズ |publisher=[[共同通信社]] |isbn=9784764130418 |ref={{SfnRef|研究会|1999}}}} |
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* 黒澤明・[[宮崎駿]] 『何が映画か - 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 [[徳間書店]]、1993年 ISBN 4195552729 |
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*{{Cite book |和書 |author=[[佐藤忠男]]|date=2002-10 |title=黒澤明作品解題 |series=岩波現代文庫 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784006020590 |ref={{Harvid|佐藤|2002}}}} |
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* [[都築政昭]] 『黒澤明と「七人の侍」』 [[朝日文庫]]、2006年 ISBN 4022615036 |
|||
*{{Citation |和書 |editor=丹野達弥 |date=1998-10 |title=村木与四郎の映画美術「聞き書き」黒澤映画のデザイン |publisher=フィルムアート社 |isbn=4845998858 |ref={{SfnRef|丹野|1998}} }} |
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** 元版 『黒澤明と『七人の侍』 “映画の中の映画”誕生ドキュメント』 [[朝日ソノラマ]]、1999年 |
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*{{Cite book |和書 |author=[[土屋嘉男]]|date=2002-4 |title=クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々 |publisher=[[新潮社]] |series=新潮文庫 |isbn=4101213313 |ref={{SfnRef|土屋|2002}} }} |
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*{{Cite book|和書 |author=[[都築政昭]]|date=1999-9|title=黒澤明と「七人の侍」 "映画の中の映画"誕生ドキュメント|publisher=朝日ソノラマ |isbn= 9784257035763 |ref={{Harvid|都築|1999}}}} |
|||
*{{Cite book |和書 |author=都築政昭|title=黒澤明 全作品と全生涯 |publisher=[[東京書籍]]|date=2010-03|isbn=9784487804344 |ref={{SfnRef|都築|2010}} }} |
|||
*{{Cite book |和書 |author=[[西村雄一郎]]|date=2005-10 |title=黒澤明と早坂文雄 風のように侍は|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=9784480873491 |ref={{SfnRef|西村|2005}} }} |
|||
*{{Cite book |和書 |author=[[野上照代]]|date=2014-1|title=もう一度 天気待ち 監督・黒澤明とともに|publisher=[[草思社]]|isbn=9784794220264 |ref={{SfnRef|野上|2014}} }} |
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*{{Cite book |和書 |author=[[橋本忍]]|date=2006-6 |title=複眼の映像 私と黒澤明|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=9784163675008 |ref={{Harvid|橋本|2006}}}} |
|||
*{{Citation |和書 |editor=[[浜野保樹]]|title=大系黒澤明 第2巻|publisher=[[講談社]]|date=2009-12 |isbn=9784062155762 |ref={{SfnRef|大系2|2009}} }} |
|||
*{{Cite book |和書 |author=[[廣澤栄]]|date=2002-9|title=日本映画の時代|series=岩波現代文庫|publisher=岩波書店|isbn=9784006020576 |ref={{SfnRef|廣澤|2002}} }} |
|||
*{{Cite book |和書 |author=[[堀川弘通]]|title=評伝 黒澤明|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2000-10|isbn=9784620314709 |ref={{SfnRef|堀川|2000}} }} |
|||
*{{Cite book|和書 |author=[[四方田犬彦]] |date=2010-6 |title=「七人の侍」と現代 黒澤明再考 |series=岩波新書 |publisher=岩波書店 |isbn=9784004312550 |ref={{Harvid|四方田|2010}}}} |
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*{{Cite book |和書|editor=|date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873767550|ref={{Harvid|85回史|2012}}}} |
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=== 関連文献 |
=== 関連文献 === |
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* |
* 黒澤明、[[宮崎駿]]『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』[[徳間書店]]、1993年8月。ISBN 4195552729。 |
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* 『黒澤明 |
* 野上照代編『黒澤明「七人の侍」 創作ノート』文藝春秋、2010年8月。ISBN 9784163729800。 |
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* |
* 野上照代監修『黒澤明MEMORIAL10 七人の侍』[[小学館]]、2010年7月。ISBN 978-4094804348。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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[[Category:早坂文雄の作曲映画]] |
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[[Category:日本の戦国時代を舞台とした映画作品]] |
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[[Category:三船敏郎]] |
[[Category:三船敏郎]] |
2020年8月26日 (水) 06:57時点における版
七人の侍 | |
---|---|
Seven Samurai | |
監督 | 黒澤明 |
脚本 |
黒澤明 橋本忍 小国英雄 |
製作 | 本木莊二郎 |
出演者 |
三船敏郎 志村喬 津島恵子 木村功 加東大介 宮口精二 稲葉義男 千秋実 土屋嘉男 藤原釜足 |
音楽 | 早坂文雄 |
撮影 | 中井朝一 |
編集 | 岩下広一 |
製作会社 | 東宝 |
配給 | 東宝 |
公開 |
1954年4月26日 1954年8月 (VIFF) 1955年11月30日 1956年7月 |
上映時間 | 207分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 2億1,000万円[1] |
配給収入 | 2億6,823万円[2] |
『七人の侍』(しちにんのさむらい)は、1954年に公開された日本の時代劇映画である。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。モノクロ、スタンダードサイズ、207分。日本の戦国時代の天正年間(劇中の台詞によると1586年[注釈 1])を舞台とし、野武士の略奪に悩む百姓に雇われた7人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の襲撃から村を守るという物語である。
当時の通常作品の7倍に匹敵する製作費を投じ、1年近い撮影期間をかけて作られたが、興行的に高い成功を収めた[3][4]。複数カメラや望遠レンズの効果的使用、緊密な編集技法などを駆使して、クライマックスの豪雨の決戦シーンなどのダイナミックなアクションシーンを生み出した。また、アメリカの西部劇の手法を取り入れ、細密な脚本と時代考証により、旧来のアクション映画と時代劇にはないリアリズムを確立した。
本作は世界で最も有名な日本映画のひとつである。1954年の第15回ヴェネツィア国際映画祭では銀獅子賞を受賞した。国内外の多くの映画監督や作品に大きな影響を与えており、1960年にアメリカで西部劇『荒野の七人』としてリメイクされた。最高の映画のリストに何度も選出されており、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれた[5]。
あらすじ
前半部と後半部の間に5分間のインターミッション(途中休憩)を含む上映形式。前半部では主に侍集めと戦の準備が、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれるが、「侍集め」、「戦闘の準備(侍と百姓の交流)」、「野武士との戦い」が時間的にほぼ均等で、構成的に3部形式であるという見方も可能。
前編
戦国時代末期のとある山間の農村。村人たちは戦によりあぶれて盗賊と化した野武士(百姓たちは「野伏せり」と呼ぶ)たちに始終おびえていた。春、山に現れた野武士達の話を盗み聞いた者がおり、その年も麦が実ると同時に、40騎の野武士達が村へ略奪に来ることが判明する。これまでの経験から代官は今回も頼りにならないことは明白であり、村人たちは絶望のどん底に叩き落とされていたが、若い百姓の利吉は、野武士と戦うことを主張する。村人たちは怖気づいて反対するが、長老儀作は戦うことを選択し、「食い詰めて腹を空かした侍」を雇うことを提案する。
力を貸してくれる侍を求めて宿場町に出た利吉・茂助・万造・与平の4人は、木賃宿に滞在しながら白米を腹いっぱい食わせることを条件として侍らに声をかけるが、ことごとく断られ途方にくれる。そんな中、近隣の農家に盗賊が押し入り、子供を人質にとって立てこもる事件が発生する。周囲の者が手をこまねく中、通りかかった初老の侍が僧に扮して乗り込み、子供を救い出すと同時に盗賊を斬り捨てる。侍は勘兵衛という浪人で、騒ぎを見ていた得体の知れない浪人風の男が絡んだり、若侍の勝四郎が弟子入り志願したりする中、利吉が野武士退治を頼みこむ。勘兵衛は飯を食わせるだけでは無理だと一蹴、村の概要を聞くに仮に引き受けるとしても、侍が7人は必要だという。しかし、これを聞いていた同宿の人足たちが、これまで利吉ら百姓を馬鹿にしていたにもかかわらず、百姓の苦衷を分かっていながら行動しない勘兵衛を詰る。勘兵衛は翻意して、この困難かつ金や出世とは無縁の依頼を引き受けることを決意する。「この飯、おろそかには食わんぞ」
共に闘う侍を求める勘兵衛の下に、勘兵衛の人柄に惹かれたという五郎兵衛、勘兵衛のかつての相棒七郎次、気さくなふざけ屋の平八、剣術に秀でた久蔵が集う。さらに利吉達の強い願いで、まだ子供だとして数に入っていなかった勝四郎も6人目として迎えられる。7人目をあきらめて村に翌日出立しようとしたところに、例の得体の知れない浪人風の男が泥酔して現れる。男は家系図を手に菊千代と名乗り侍であることを主張するが、勘兵衛らに家系図が他人のものであることを見破られてからかわれる。勘兵衛らは菊千代を相手にしないまま村に向かうが、菊千代は勝手について来る。
一行は村に到着するが、先に帰ってきていた万造が「侍が来たら何をされるかわからない」と、強制的に娘の志乃の髪を切って男装させてしまったこともあって、村人たちは怯えて姿を見せようとしない。一行がとりあえず儀作に面会する中、危急を知らせる盤木の音が鳴り響くや、野武士襲来と勘違いした村人は一斉に家を飛び出し侍に助けを求める。これは菊千代の仕業であった。侍たちと村人たちとの顔合わせを成立させたことで、菊千代は侍の7人目として認められる。勘兵衛たちは村の周囲を巡り、村の防御方法を考案し、百姓たちも戦いの為に組分けされ、侍達の指導により戦いの心得を教えられる。一方、勝四郎は男装させられていた志乃と山の中で出会い、互いに惹かれてゆく。そんな折、菊千代が村人らから集めた刀や鎧を侍らの元に持ち込んでくる。それは村人が落ち武者狩りによって入手したものだった。負け戦での辛酸を舐めてきた侍たちはこれを見て気色ばむが、菊千代は「お前たち、百姓を仏様だと思っていたか!百姓ほど悪ズレした生き物はないんだ!でもそうさせたのはお前ら侍だ!」と激昂する。菊千代は、侍にあこがれ村を飛び出した農民だったのだ。彼の出自と農民の事情を察した侍達は怒りを収める。
村人は侍の指導の下で村の防衛線を固めるが、村はずれの数軒の家はどうしても防衛線の外になってしまう。守りきれない離れ家は引き払って欲しいとの申し出を聞いた茂助は、自分たちの家だけを守ろうと結束を乱す。それに対し勘兵衛は抜刀して追い立て、村人に改めて戦の心構えを説く。
後編
初夏、麦刈りが行われ、しばしの平和な時も束の間、ついに物見(偵察)の野武士が現れる。物見を捕らえ、本拠のありかを聞き出した侍達は、先手を打つため利吉の案内で野武士の本拠へと赴き、焼き討ちを図る。侍たちはあぶりだされた野武士数人を切り伏せ、囲われていた女たちを逃すが、その中の美しく着飾ったひとりは、野武士に談合の代償に奪われた利吉の女房だった。利吉の姿に気づいた彼女は火の中へ再び飛び込む。それを追おうとする利吉を引き留めた平八は野武士の銃弾に倒れる。村に戻り、皆が平八の死を悼む中、菊千代は平八が作り上げた旗を村の中心に高く掲げる。それと同時に野武士達が村へ来襲、戦いの幕が切って落とされる。
築いた柵と堀によって野武士の侵入は防がれたものの、防衛線の外側にある離れ家と長老の水車小屋には次々と火が放たれる。水車小屋から動こうとしない儀作を引き戻そうとした息子夫婦も野武士の手にかかる。唯一助かった赤子を抱き上げる菊千代は「こいつは俺だ」と号泣する。
夜半から朝へと時は流れる中、勘兵衛の地形を生かした作戦が功を奏し、侍と村人は野武士を分断し徐々にその数を減らしていく。しかし、種子島(火縄銃)をひとりで分捕ってきた久蔵を勝四郎が「本当の侍」と評したことから、菊千代は対抗意識を燃やして持ち場を離れ、単独で野武士を襲撃する。菊千代は種子島を持ち帰って来たものの、不在にしていた持ち場が野武士による襲撃を受け、さらに野武士の流鏑馬(騎射兵)が村に入り込んだため、与平を含む多くの村人が戦死し、侍のうち五郎兵衛も斃れる。
日が暮れ戦いは一時やむ。相次ぐ戦いで村人らも疲弊するが、本拠を焼け出されたうえに数を減らされ、追い詰められて焦っている野武士達も明日は死に物狂いで来るだろうことが予想された。その夜、勝四郎は志乃に誘われ、悲壮感の中で初めて体を重ねる。その場を見咎めた万造が激高し騒動となるが、妻を喪った利吉が野武士にくれてやったのとは訳が違うと万造に一喝して場を収める。
豪雨が降りしきる中夜が明け、残る13騎の野武士が襲来する。勘兵衛はあえてこれらをすべて村に入れたうえで包囲し、決戦が始まる。野武士らは1騎また1騎と討ち取られていくが、野武士の頭目は密かに村の女子供が隠れていた家に入り込む。大勢が決したころ、久蔵が小屋に潜んでいた頭目が放った銃弾によって斃れる。続いて菊千代も撃たれるが、菊千代は鬼気迫る迫力で追いつめた頭目を刺し殺し、自らもその場で果て、野武士はついに壊滅する。
野武士を撃退した村には平穏な日常が戻り、晴れ空の下で村人は笛や太鼓で囃しながら田植にいそしむ。活力に満ちて新たな生活を切り拓いていく村人たちとは対照的に、その様子を見つめる生き残った3人の侍の表情は浮かない。侍たちの横を田植に向かう村の娘たちが通り過ぎていく。その中に志乃がおり、勝四郎を見て躊躇うが、何も言わずに振り切って田に駆け込む。そのまま田植歌を口ずさみながら、勝四郎を忘れるように志乃は一心に苗を植えていく。勘兵衛は「今度もまた、負け戦だったな」とつぶやき、怪訝な顔をする七郎次に対して「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」と述べて勘兵衛は墓地の丘を見上げる。その頂上には、墓標代わりに刀が突きたてられた4つの土饅頭があった。
登場人物
七人の侍
- 島田勘兵衛(しまだかんべえ)
- 演:志村喬
- 7人の侍を率いることになる浪人。そろそろ50に手が届く白髪の目立つ風貌。歴戦の智将だが、合戦は敗戦続きで浪人となる。普段は笑顔が多く、温厚で冷静沈着だが、リーダーとして鋭く叱責することもある。また若い頃の「一国一城の主」という志も肉体的、年齢的に既に叶わぬ己の身に一抹の憂いを見せる場面もある。剃髪した頭をなでるのが癖。
- 剃髪して僧に成りすまし、豪農の子供を盗人から無償で救ったことで利吉達に助けを求められる。当初は「できぬ相談」と拒んでいたが、百姓の犠牲的な熱意や人足の言葉に負け、引き受ける。野武士との戦では地形を生かした策を繰り広げ、戦いを有利に進める。
- 向かってくる騎馬武者を一刀で叩き斬ったり、最終決戦において村に突入してきた騎馬を、豪雨の中しぶきを飛ばしながら弓で次々に射落すなど個人的な戦闘能力も見せる。 衣装は平造・合口拵えの短刀に、打刀拵えの太刀と、戦国時代後期の初老の侍のいでたちをしている。
- 菊千代(きくちよ)
- 演:三船敏郎
- 勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてくる男。弟子入りしたいが、作法が分からず、勝四郎に先を越されてしまう。長大な刀を肩に担いで浪人のように振舞っているが、侍としてあるまじき言動や、前後不覚の泥酔状態になったりと、勘兵衛には即座に本当の侍ではないと見破られている。
- 生まれは百姓の出で、戦禍で親を失い孤児として育つ。本名は本人も忘れており不明。「菊千代」という名前は勘兵衛に侍だと思われたいがために、泥酔しながら、盗んだ武家の家系図の上に指し示した元服前の子供の名前で、後に仲間として受け入れられた時にそのまま定着する。村で百姓たちに戦備えのための槍の指導をするなど、孤児として親を失った後もいくつかの戦禍を見聞きしているような言動があり、その過程で独学にて一応の侍的な武具の扱いを体得したらしく、腕っぷしは半端な野武士より強い。馬にも乗れるが自己流のようで、与平の農耕馬に乗ってみた挙句、一同の眼前で落馬している。
- 型破りの乱暴者だが子供好きであるらしく、村の子供たちの前でおどけて見せるシーンも多い。野武士との戦では東の川沿いの守りを任される。抜け駆けせんと持ち場を離れた結果、五郎兵衛を戦死させた為、最後の決戦では、勘兵衛の指示を守りながら爆発的な働きを見せる。額当てのように、篭手を頭に巻く。
- 岡本勝四郎(おかもとかつしろう)
- 演:木村功
- 育ちがいい裕福な郷士の末子で半人前の浪人。7人の中では最年少で、まだ前髪も下ろしていない。浪人になりたいと親に頼んでも許されないので家を飛び出して旅をしている。勘兵衛の姿に憧れて付いて行こうとするが、勘兵衛に浪人の辛い現実を教えられ一時動揺する。実戦経験はなく、すべてが新しい経験ばかりで、事件を若々しい敏感な感情で受け取る。野武士との戦では伝令役を任される。
- 森の中で百姓の娘の志乃と出会い、互いに惹かれ合う。
- 片山五郎兵衛(かたやまごろべえ)
- 演:稲葉義男
- 勘兵衛が腕試しのために仕掛けた待ち伏せを事前に一目で見抜いた。勘兵衛の人柄に惹かれて助力する浪人。いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に何か人をなだめるような力がある。軍学は相当でき、経験も豊富。野武士との戦では勘兵衛の参謀役を務めた。
- 七郎次(しちろうじ)
- 演:加東大介
- かつての勘兵衛の最も忠実な股肱。過去の戦(負け戦)で勘兵衛と離れ離れになった後、物売りとして過ごしていた。再会時には勘兵衛の顔付きだけでその求むところを知り、ただちにそれに従って動く。村人の落ち武者狩りを知ったときは真っ先に激昂したが、戦の最中は百姓たちを常に励まし、自分の組に入った万造への気遣いも見せる。野武士との戦では西の入り口の守りを受け持ち、侍たちの中で唯一長槍を振るう。
- 林田平八(はやしだへいはち)
- 演:千秋実
- 苦境の中でも深刻にならない、愛想の良い浪人。明るく柔軟で人懐っこく、よく冗談を言う。茶店で代金代わりに薪割りをしているところを五郎兵衛に誘われる。武士としての腕は少し心もとなく、五郎兵衛はその腕を「中の下」と評した。頑なな心の利吉を気遣い、結果野武士に狙撃され最初の犠牲者となる。
- 「戦に何か高く翻げるものがないと寂しい」と、百姓を表す「た」の字と侍を表す○を6つ、菊千代を表す△を1つ描いた旗を作る。
- 久蔵(きゅうぞう)
- 演:宮口精二
- 修行の旅を続ける凄腕の剣客。勘兵衛の誘いを1度は断ったものの、気が変わり加わる。勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」と評し、口数が少なくあまり感情を表さないが、根は優しいという側面を多々見せる。野武士との戦では北の裏山の守りを受け持つ。「肩衣」はつけておらず、合戦時も他の侍と異なり、籠手(こて)や額当(勘兵衛。菊千代は半首)、腹巻(勝四郎)・腹当などの防具は着用していない[注釈 2]。黙々と自分の役目をこなし、危険な仕事も率先して受け持ち確実に成果を上げる姿を、勝四郎は「素晴らしい人」と絶賛した。
村の百姓
- 儀作(ぎさく)
- 演:高堂国典
- 離れの水車小屋に住む長老。百姓たちには「じさま(爺様)」と呼ばれており、村の知恵袋的存在。利吉の野武士と戦う提案に侍を雇うことを教える(侍を雇い野武士を退けた村の事例を知っていたため)。最期まで水車小屋から離れる事を頑なに拒み、野武士襲撃の際に燃え盛る水車小屋と運命を共にする。
- 利吉(りきち)
- 演:土屋嘉男
- 年若の百姓。迫り来る野武士と戦おうと、絶望する皆の前で真っ先に言い出し、儀作の教えで浪人探しに町へ出る。侍探しには最も積極的。女房を野武士にさらわれたことで野武士に強い恨みを持っているが、感情を押し殺す性格で常に険しい表情をしており、平八に気遣われながらも心を閉ざし続ける。村に着いた侍たちに家を明け渡し、炊事等の世話役を務める。
- 茂助(もすけ)
- 演:小杉義男
- 壮年の百姓。利吉たちと共に浪人探しに出る。普段は百姓達のまとめ役でしっかり者だが、防御線の外にある自分の家を捨てねばならないと知った時は猛反発して独断行動をとる事もあった。しかし勘兵衛の大喝によって泣く泣く家をあきらめ、村を守る為に奔走する。合戦時は久蔵の組に入る。
- 万造(まんぞう)
- 演:藤原釜足
- 壮年の百姓。志乃の父。自己保身ばかり考えており、すぐにふてくされる、身勝手な性格。野武士と戦うことに消極的だが儀作の提案で嫌々浪人探しに町へ出る。合戦時は七郎次の組に入る。
- 利吉とは何かと折り合いが悪く、積極的な利吉に毒を吐いて喧嘩になることが多い。また、利吉の女房の二の舞を危惧し、親心から娘を守ろうと、泣き叫び抵抗する志乃の髪を切って無理矢理男装させるが、それが原因で村中騒然となる。勘兵衛ら侍達にも娘を取られるのではと警戒しており、志乃を男装させたままにする。
- 与平(よへい)
- 演:左卜全
- やや鈍く、間の抜けた中年の百姓。意気地がなく、すぐに泣きべそをかく上に、失敗が多い。利吉たちと共に浪人探しに町へ出る。合戦時には菊千代の組に入る。菊千代には「阿呆」呼ばわりされ、小突かれながらも親しい間柄となる。痩せ馬を一頭持っており、後に菊千代が乗ることになる。
- 合戦時の合間に菊千代が持ち場を離れたため、再び襲ってきた野武士に防具の無い背後から弓で襲われて死亡する。(ただし、シナリオの決定稿では死ぬことはなく、ラストの田植えにも参加している)与平の死は菊千代の心境に大きな変化をもたらす。
- 利吉の女房
- 演:島崎雪子
- 収穫物を野武士に強奪される代わりとして、村から人身御供で差し出された女性。野武士の山塞に囚われの身となり慰み者にされる。菊千代らの手によって火が放たれた際に、火に気付きいったんは驚愕するも、叫んだり逃げたりもせず凄味のある笑みを浮かべた。幽鬼のような状態で外に出てくるが、眼前に現れた夫・利吉に驚き、焼け崩れる山塞の中に走り戻り姿を消す。
- 伍作(ごさく)
- 演:榊田敬二
- 芝刈りの最中に野武士を最初に目撃する村人。
- 儀作の息子夫婦
- 演:熊谷二良(息子)、登山晴子(息子の嫁)
- 儀作と暮らす夫婦で、赤子が一人いる。戦の始まりとともに水車小屋に篭った儀作を連れ戻そうとして野武士に襲われ、助けに来た菊千代に赤子を託して絶命する。
- その他
- 百姓:峰三平、松下正秀、池田兼雄、川越一平、鈴川二郎、夏木順平、神山恭一、鈴木治夫、天野五郎、吉頂寺晃、岩本弘司、山田彰、今井和雄、中西英介、伊原徳、大塚秀雄、大江秀、大西康雄、下田巡、河辺昌義、加藤茂雄、川又吉一、篠原正記※、松本光男※、海上日出男※、田武謙三※、山本廉※
- 百姓女:本間文子、小野松枝、一万慈多鶴恵、大城政子、小沢経子、須川操、高原とり子
- 百姓の娘:上遠野路子、中野俊子、東静子、森啓子、河辺美智子、戸川夕子、北野八代子、記平佳枝※
町の登場人物
- 人足
- 演:多々良純(人足A)、堺左千夫(人足B)、関猛(人足C)
- 仕事がなく、木賃宿でずっと飲んだくれて博打を打っている。Aは口数が多く、侍を雇うという利吉達の提案を馬鹿にして、嫌味をずっと言っている。しかし勘兵衛が利吉たちの頼みに断りを入れて立ち去ろうとする時、一肌脱ぎ、勘兵衛が野武士退治を引き受けるきっかけを作り、その後も他の人足達と一緒に、菊千代を木賃宿に連れて来るなど、協力している。
- 饅頭売
- 演:渡辺篤
- 木賃宿で売れ残った饅頭を売ろうとするが、誰にも相手にされず、結局自分で饅頭を自棄食いした。
- 琵琶法師
- 演:上山草人
- 木賃宿の客で、周りでどんな騒ぎがあろうとも黙々と琵琶を弾いている。
- 僧侶
- 演:千葉一郎
- 盗賊の人質となった子供を助けるために僧侶の格好になる勘兵衛の剃髪を行い、袈裟や数珠を貸す。
- 盗人
- 演:東野英治郎
- 豪農家の子供を人質に小屋に立てこもる。しかし、勘兵衛の策略にまんまと引っ掛かり斬られる。
- 強そうな浪人
- 演:山形勲
- かなりの腕前のある浪人で、勘兵衛の浪人集めの試験に合格するが報酬がないことに腹を立てて「自分の志はもうちょっと高い」と言って拒否する。
- 果し合いの浪人
- 演:牧壮吉
- 久蔵と竹刀で果たし合いをして相打ちとなるが、真剣で勝負を挑もうとする。しかし、久蔵に「真剣ならばおぬしは死ぬ」と言われ逆上しながら自信満々で挑み、斬られてしまう。
- 利吉を蹴飛ばす浪人
- 演:清水元
- 利吉らが最初にオファーした長槍を持った浪人。「貴様らの施しは受けん!」と言って利吉を蹴飛ばし、最後に「たわけ」と吐き捨ててその場を去った。
- 茶屋の親爺
- 演:杉寛
- 自分の茶店で休憩をとる五郎兵衛に、駄賃の代わりに薪割りをさせている平八を紹介する。
- 弱い浪人
- 演:林幹
- 木賃宿の客の一人。侍が見つからなくて困っている利吉達に名乗りを上げるが、人足たちに弱いことをからかわれて諦める。
- 豪農家の一家
- 演:小川虎之助(祖父)、千石規子(娘)、安芸津広(亭主)
- 子供が盗賊の人質に遭った豪農家の家族。
野武士
- 野武士の頭目
- 演:高木新平
- 四十人の野武士集団を率いる。
- 副頭目
- 演:大友伸
- 片目に眼帯をつけた男。雨中の決戦にて、わずかな隙を衝かれ久蔵に斬られる。
- 斥候
- 演:上田吉二郎(斥候A)、谷晃(斥候B)、中島春雄(斥候C)
- 村を偵察に来たところをBとCは待ち伏せしていた久蔵に斬られ、Aは捕縛されて村へ連れて行かれる。百姓たちに殺されそうになったところを「敵の情報を話した上こうやった命乞いしている者を無下にはできない」と勘兵衛に庇われるが、久右衛門の婆様に倅の仇として討たれる。
- 鉄砲の野武士
- 演:高原駿雄
- 味方のふりをして近づいてきた菊千代に斬られて、種子島(鉄砲)を奪われる。
- その他
- 屋根の野武士:大久保正信
- 離脱する野武士:大村千吉、成田孝
- 野武士:西條悦郎、伊藤実、坂本晴哉、桜井巨郎、渋谷英男、鴨田清、広瀬正一、宇野晃司、橘正晃、坪野鎌之、中恭二、宮川珍男兒、砂川繁視、草間璋夫、天見竜太郎、三上淳
- ※は、ノンクレジット
スタッフ
- 製作:本木荘二郎
- 監督 :黒澤明
- 監督助手:堀川弘通(チーフ)、廣澤栄、田実泰良、金子敏、清水勝弥
- 脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄
- 撮影:中井朝一
- 撮影助手:斎藤孝雄
- 編集:岩下広一
- 音楽:早坂文雄
- 美術:松山崇
- 美術助手:村木与四郎
- 美術小道具:浜村幸一
- 衣装:山口美江子(京都衣裳)
- 録音:矢野口文雄
- 録音助手:上原正直
- 音響効果:三縄一郎
- 照明:森茂
- 照明助手:金子光男
- 美術考証:前田青邨、江崎孝坪
- スチル:副田正男
- 製作担当者:根津博
- 剣術指導:杉野嘉男 (日本古武道振興会)
- 流鏑馬指南:金子家教 (日本弓馬会範士) 遠藤茂 (日本弓馬会範士)
- 記録:野上照代
- 結髪:中条みどり
- 粧髪:山田順二郎
- 演技事務:中根敏雄
- 現像:東宝現像所
製作
脚本
1952年、黒澤明は『生きる』の撮影中に、次回作として「本物の時代劇」を作ろうと考えた[3]。黒澤はこれまでにはない徹底したリアルな時代劇を作るため、橋本忍とある城勤めの下級武士の平凡な一日を描く『侍の一日』[注釈 3]という作品を構想した[8]。そこで侍の日常生活から城勤めに関する詳細までを調べるため、橋本は先行して上野の国立国会図書館に通うが、「当時の侍の昼食は、弁当持参だったのか、給食が出たのか」「当時は1日2食であり、昼食を摂る習慣はなかったのではないか」等の疑問が解決できず、物語のリアリティが保てないという理由で断念した[8]。
次に上泉信綱などの剣豪伝をオムニバスで描く『日本剣豪列伝』を企画し、橋本が初稿を執筆するが、クライマックスの連続では映画にはならないためこれも断念した[9]。その後、黒澤と橋本はふとした話から、戦国時代の浪人は全国を旅して回る武者修行でどのように食べていけたのかという疑問が出てきて、それを東宝の文芸部員に調べさせたところ、結果報告に来た本木荘二郎から、「宿泊先の道場や寺院がない場合は、百姓に雇われて飯と宿を与えてもらう代わりに、盗賊などから村を守っていた」という話が出てきた[9]。この話が元となり、百姓が侍を雇うという本作のストーリーの根幹が生まれた。
1952年12月、黒澤と橋本は小國英雄を加え、熱海の旅館「水口園」に投宿して脚本執筆を開始した[10]。黒澤は七人の侍のキャラクターのイメージを大学ノート数冊にびっしりと書き込み、その内容は身長から草履の履き方、歩き方、他人との応答の仕方、背後から声をかけられたときの振り返り方など、ありとあらゆるシチュエーションに対応する立ち居振る舞いにまで及んだ[9]。脚本執筆は橋本が第1稿を書き、それを黒澤と橋本が根本的に書き直し、2人が同じシーンを書いたものを小國が判定して良いところだけを取り、完成すると次のシーンに移るという形で進められた[11]。その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて部屋に入れないほどだったという[9]。
キャスティング
久蔵役は三船敏郎を想定していたが、シナリオ段階で侍と百姓を結びつける人間が必要になり、そこで農民出身で侍に憧れるニセ侍の菊千代という型破りなキャラクターを登場させ、それを三船が演じることになった[10][12][13]。三船は脚本を読んで、黒澤に「菊千代というのは僕ですね」と配役も告げていない段階で言ってきたという[13]。菊千代のおどけた場面は、すべて三船の演技プランによるものである[14]。
久蔵は宮口精二が演じることになった。宮口は剣道の経験が全くなかったため、「こんなえらい剣豪なんてやれません」と断ろうとしたが、黒澤に「そこはカメラで何とでもするから」と説得された[15]。それからは剣術指導の杉野嘉男のもとで刀の抜き方から特訓を受けた[16]。しかし、板木の音で水車小屋から6人の侍が飛び出すシーンでは、宮口が一番走るのが速く、走り方も腰が据わっていたため、黒澤は安心したという[13]。宮口は「僕はあの役を演って、本当によかった。あれは大変なもうけ役なんだよ。あんないい役は、一生に一遍、あるかないかだなあ」と語っている[15]。
村人役は、主要俳優を除くと東宝の大部屋俳優が23人、エキストラ業者の俳優が17人、劇団若草やこけし座などの児童劇団の子役が18人参加した[6]。劇団若草の二木てるみも3歳で百姓の幼児役で出演した[17]。家族を野武士に殺された久右衛門の婆様役は、助監督の廣澤栄が杉並区の老人ホームで役探しをして見つけた、キクさんという女性が演じた。キクさんは東京大空襲で家族を失ったという役と同じ人物で、廣澤たちが懸命にセリフを覚えさせたが、本番では「身寄りがB-29のために殺されて…」と口走り、スタッフを困らせた。黒澤は「感じが出ているから」とOKにし、台詞は三好栄子が吹き替えした[6]。村の広場に百姓を集めて侍たちが訓示する場面では、キクさんと同じ老人ホームの女性たちも出演した[18]。
俳優座養成所時代の仲代達矢は、本作で町を歩く浪人役で出演している。仲代の出番はただ歩いて通り過ぎるだけの数秒だったが、黒澤から何度も歩き方でダメ出しされた。撮影は朝から始まるも、OKが出たころには午後3時を回っていた。しかし、黒澤には仲代の印象が残っており、のちに『用心棒』に起用された時に、黒澤から「あのときの仲代を覚えていたから使ったんだ」と言われたという[19]。
撮影
撮影地
撮影の大部分は、東宝撮影所付近のオープンセットと、静岡県伊豆や神奈川県箱根などでのロケーション撮影で行われた。屋内セットはスタジオ内に組んだ「木賃宿」「水車小屋」「利吉の家」の3杯のみで、それ以外はすべて野外で撮影された[22]。主なオープンセットとロケーションの場所は以下の通りである。
- オープンセット
- 村の中心部 – 東宝撮影所手前の仙川沿いの田んぼ(後の東京都世田谷区大蔵団地)[23][24]
- 村の北側の森(水神の森) – 東京都世田谷区大蔵のオープンセットの外れ[22][23]
- 町(木賃宿、八角堂、茶屋など) – 東宝撮影所の農場オープン(後の東宝ビルト)[22][24]
- 豪農の家、山塞 – 東宝撮影所オープン[22]
- ロケーション
- 村の全景、北の斜面 – 静岡県函南町下丹那[22][23][24]
- 村の東と南(水車小屋など) – 静岡県伊豆市堀切[22]
- 村の北と西 – 静岡県御殿場市用沢、二の岡[22][23]
- 村の裏山(勝四郎と志乃のラブシーンなど) – 神奈川県箱根町仙石原、長尾峠[22][24]
- 滝(三船が鮎を捕まえて食べる場面) – 鮎壺の滝[21]
- 山塞へ行く道中 – 静岡県伊豆の国市珍場、沼津市口野[22]
物語の中心となる村は、日本中の何処にでもある典型的な農村の原風景を想定し、北は福島県から西は岐阜県までロケーション・ハンティングを40日近くも行ったが、適地を見つけることはできなかった[24][25]。そこで地形ごとに別々の場所で撮影してひとつの地域のように見せることにした[26]。村内は東宝撮影所手前の田んぼを借用してオープンセットを作り、村の東と南は伊豆堀切、西は御殿場市、北の斜面と村の全景は下丹那、裏山は箱根で撮影した[22][24][27]。村の全景のセットはオープンセットとは別に作られ、丹那トンネルの真上から俯瞰で撮影したが、その時に電柱がどうしても画面に入ってしまうため、東京電力に頼んで一時的に電柱を移設した[25]。
撮影進行
1953年5月27日、豪農家の門前で利吉と万造が言い争いをするシーンでクランクインした[24]。撮影初旬の黒澤は体調が優れず、7月10日にサナダ虫で入院して2週間撮影中断した[28]。9月までに伊豆でのロケーション、水車小屋や木賃宿の室内シーン、町のオープンセットでの侍探しや果し合いのシーンなどを撮影した[29]。
裏山での勝四郎と志乃のラブシーンは、シナリオではスミレの花畑を想定していたが、季節的にスミレは咲いておらず、スタッフ全員で山の中で野菊の花を摘み、それを植えて花畑を再現した[30][31]。このシーンは箱根長尾峠を越えた国道下の暗い森の中での撮影で、十分な光量を得られなかったため、スタッフが宿泊していた旅館の鏡を総動員し、国道から鏡を並べて太陽光をリレーのように鏡で反射させて現場まで持って行った[24][32]。この方法は『羅生門』でも用いていた[32]。しかし、志乃役の津島恵子は、鏡の反射による強い太陽光で直接眼にキャッチライトを入れられ、それ以来眼が弱くなったという[24]。
当初は10月上旬の封切りでスケジュールが組まれ、撮影期間は90日、完成は9月17日を予定していたが、実際の撮影進行は大幅に遅れた[22][33]。助監督の堀川弘通はその理由として、ひとつの村を別々の場所で撮影したこと、野外撮影中心のため天候に左右されやすかったこと、その上にこの年が異常気象だったこと、スタッフがスケールの大きい活劇に不慣れだったことを挙げている[22]。9月に入ってもまだ全体の3分の1しか撮影しておらず、当初の予算も使い果たしていた[33][34]。スタッフには「いつクランクアップするか」の賭けをする人もいた[24]。東宝の重役会では「続行か、中止か」で揉めて撮影中断となり、その間黒澤は多摩川で鯉釣りをして過ごした[32]。黒澤は千秋実に「資本家というのは、いったん出した金は必ず回収する。まあまあ釣りでもしてろ」と語ったという[34]。結局、会社側は製作続行を決めて追加予算を出し、11月に撮影所前の村のオープンセットで撮影再開した[32]。
それでも撮影は遅れ、しびれを切らした会社は今までの撮影分を編集して見せるように要求し、1954年1月に再び撮影中断した[35]。黒澤は粗編集したフィルムを会社幹部の前で試写したが、そのフィルムは菊千代が屋根に旗印を立てて、「ウアー、来やがった、来やがった!」というシーンで終わっていた[35]。クライマックスの合戦シーンは、豪雨でセットが滅茶苦茶になることが初めから分かっていたため、予定を後回しにしており、会社側に対して意図的にスケジュールを組んだわけではなかったが、このままでは完成させようがないため、撮影続行となった[35]。
こうした撮影遅延により、6月頃の設定であるクライマックスの豪雨の決戦シーンは真冬の2月に撮影した[16][36]。1月24日の大雪でオープンセットには30センチの雪が積もり、スタッフは消防団や学生アルバイトを動員し、3日かけてホースで水を撒いて雪を溶かした[24][35]。地面は膝までつかるほど泥でぬかるみ、そこに数台の消防ポンプで雨を降らせたため、撮影は極寒の過酷な状況下で行われた[37]。3月19日に野武士の山塞を焼き討ちするシーンでクランクアップした[28]。このシーンの撮影では、スタッフがセットにガソリンをかけ過ぎたため、本番で火を付けると想像以上に火勢が激しくなり、利吉役の土屋嘉男は山塞の中にいる女房に近づこうとするところでバックドラフト現象に遭遇し、顔面火ぶくれになった[38][39]。
音楽
音楽を担当した早坂文雄は、当時肺結核を患っていたが、他の仕事と並行しながら1年かけてデッサンを書いた。早坂は書きためた曲を、黒澤の前で1曲1曲ピアノで弾き、黒澤のダメ出しを受けながら修正して曲のアウトラインを決めた[41]。音楽は単純明快な表現にするためライトモチーフ方式を採用し、モチーフとなる「侍のテーマ」「野武士のテーマ」「志乃のテーマ」「菊千代のテーマ」「百姓のテーマ」の5つの曲を作り、それらを場面の雰囲気や状況に合わせて、さまざまな楽器により変形させて演奏することにした[40]。
主題曲ともいえる「侍のテーマ」は勇壮なマーチ風である[40]。この曲ははじめ早坂が用意したデッサンがすべて没案となり、そこで早坂がごみ箱に捨てていた楽譜[注釈 4]をピアノで弾いたところ、黒澤が気に入り採用された[41][42]。「志乃のテーマ」は黒澤が早坂らしい曲と評した[13]。タイトルバックの「野武士のテーマ」は太鼓と弓弦で不気味さを出し[42]、「菊千代のテーマ」はボンゴやサックスで演奏し、「百姓のテーマ」は百姓の恐怖のうめきを男声のハミングコーラスで表現した[40]。ラストシーンで百姓たちが唄う「田植え唄」は、早坂が日本中の囃子言葉を調べて作詞し、プレスコで録音した[41]。
オーケストレーションはクランクアップ後の4月1日から6日間かけて行われ、早坂邸に佐藤勝、佐藤慶次郎、武満徹が集まり、早坂の指示により分割作業で楽譜を書いた[40]。ダビング作業は4月8日から12日間かけて行われたが、早坂の体調を考えて休みが設けられ、実質は7日間行われた[40]。ダビングでも1曲演奏するたびに議論と修正が繰り返され、佐藤勝は「朝からテストして、1曲OKになったのが夕方5時なんてのが、ザラにありましたよ」と述べている[40]。菊千代が屋根の上に旗を立てるシーンで流れるトランペットの「侍のテーマ」は、室内録音ではいい音が出ず、撮影所の壁にぶつけて吹いた音を録音したが、この録音だけで一晩かかり、近所から苦情が相次いだという[43]。
サウンドトラック
早坂が作曲したサウンドトラックは、1954年5月13日に日本コロムビアからSPレコードで発売された[44]。同年11月には「侍のテーマ」に歌詞を付け、山口淑子が歌唱した「七人の侍」という題名のレコードが発売された[3][44]。レコードでは早坂が作詞したことになっているが、黒澤は「早坂と私と二人で作った」としている[3]。2001年に東宝ミュージックからサウンドトラックCDが発売されており、それに収録されている曲は以下の通りである[45][46]。
全作曲: 早坂文雄。 | ||
# | タイトル | 時間 |
1. | 「タイトル・バック」 | |
2. | 「水車小屋へ」 | |
3. | 「侍探し 一」 | |
4. | 「勘兵衛と勝四郎~菊千代のマンボ」 | |
5. | 「利吉の涙?白い飯」 | |
6. | 「侍探し 二」 | |
7. | 「五郎兵衛」 | |
8. | 「やりましょう」 | |
9. | 「釣り落とした魚」 | |
10. | 「六人の侍たち」 | |
11. | 「型破りの男」 | |
12. | 「出立の朝」 | |
13. | 「旅風景~俺たちの城」 | |
14. | 「野武士せり来たり」 | |
15. | 「七人揃いぬ」 | |
16. | 「勝四郎と志乃」 | |
17. | 「勝四郎、帰る」 | |
18. | 「寝床変え」 | |
19. | 「水神の森にて」 | |
20. | 「麦畑」 | |
21. | 「勘兵衛の怒り」 | |
22. | 「間奏曲」 | |
23. | 「刈り入れ」 | |
24. | 「利吉の葛藤」 | |
25. | 「平八と利吉」 | |
26. | 「農村風景」 | |
27. | 「弱虫、侍のくせに」 | |
28. | 「野武士の予兆」 | |
29. | 「夜討へ」 | |
30. | 「旗」 | |
31. | 「突然の再会」 | |
32. | 「素晴らしい侍」 | |
33. | 「野武士は見えず」 | |
34. | 「菊千代の奮起」 | |
35. | 「代償」 | |
36. | 「逢瀬」 | |
37. | 「万造と志乃」 | |
38. | 「田植え唄」 | |
39. | 「エンディング」 |
完成
1954年4月18日に音楽ダビングが終了し、その次に三縄一郎による効果音のダビングが行われた[40]。決戦シーンの泥の効果音は、水槽に壁土を混ぜた泥水を入れ、それをスタッフが踏んで再現した[注釈 5][40][43]。4月20日にすべてのダビングが終了し[40]、その日の夜10時に東宝本社で完成試写が行われた[24]。
東宝宣伝部の斎藤忠夫によると、本作の製作費などのデータは黒澤の希望で、宣伝のためのマスコミ発表用の水増し分を抜いて正確に広報された。そのデータでは、製作費は2億1000万円となっており、これは当時の普通作品の7本分に匹敵する金額となった。そのうちオープンセットが3500万円、俳優費が7000万円、ロケ費が2000万円で、これらにフィルム費などを合わせた直接費だけで1億3000万円もかかっている[47]。『映画年鑑 1955年版』によると、直接費は1億2560万円で、プリント費や宣伝費を含めて2億1300万円としている[48]。
スタイル
影響
七人の侍のキャラクター設定は、初めに構想していた企画『日本剣豪列伝』で描こうとした実在の剣豪の逸話からインスピレーションを受けている[9]。勘兵衛が頭を丸めて強盗を殺すエピソードは、『本朝武芸小伝』にある上泉信綱が強盗から子供を救出する逸話を元にしている[7][16]。五郎兵衛が勘兵衛の腕試しを見抜くエピソードは、柳生但馬が自分の息子にやらせてみた話を元にしている[7][16]。橋本によると、五郎兵衛は塚原卜伝、久蔵は宮本武蔵からキャラクターを参考にしたという[9]。
本作の脚本は、黒澤が愛読するトルストイの長編小説『戦争と平和』と、アレクサンドル・ファジェーエフの長編小説『壊滅』の影響を受けている[注釈 6][50]。また、ストーリー構成はドヴォルザークの「新世界より」の影響を受けており、黒澤は脚本執筆時に「ニューワールド(新世界より)を原作にしてやってみよう」と語ったという[9]。黒澤は撮影期間中に何度もこの曲を聴いており、この曲から野武士が襲来するシーンなどのイメージを膨らませていた[40]。
ジョン・フォードを尊敬していた黒澤は、本作でアメリカの西部劇のスタイルを意識している[13][38]。馬が駆けるシーンでは、フォードの西部劇のように砂煙を立たせるため、廃材を燃やした木灰を撒いた[38][51]。もともと木灰は馬の走る路面を固めるために撒いたもので、馬を走らせて砂埃が舞い上がり、誰かが「あれ、砂埃だけはジョン・フォード並みだぜ」と冷やかすと、黒澤は「そうだ、ジョン・フォード並みに派手にいこう」と言ってそのまま取り入れたという[51]。クライマックスの豪雨の決戦シーンは、西部劇では常に晴れていて砂煙が定番であることから、黒澤がそれに対して「だったら、こちらは雨で行こう」と発想したことで生まれた[13][38][52]。
時代劇映画の革新
黒澤は本作で「本物の時代劇」を作ろうとした[53]。それまでの時代劇映画は歌舞伎の影響を強く受けており、殺陣は歌舞伎的に立回りの形を美しく演じるもので、衣装や風俗なども歌舞伎で美化されて変形されたものが多かった[26]。そこで黒澤は既成の時代劇の安易な作り方を排したリアルな作品を撮ろうと考えた[26]。黒澤は次のように語っている。
今の時代劇で一番いけないのはあの「形式」です。あれはみんな歴史的な事実を無視し変形したカブキからの型なんだ。動作も服装も小道具も、カツラの形までみんなコシラエものなんだ。あれは一度、正確なものを考え直すことが必要だね。 — 黒澤明「私の作品」[54]
黒澤は日本画家の前田青邨に時代考証を依頼し、前田は弟子の江崎孝坪を推挙した[3]。前田が従来の時代劇のカツラを「虎屋の羊羹みたいな髷がのっているのは言語道断、もっと剃り込んでいて低いはずだ[13]」と指摘したことから、本作のカツラは月代を耳の上くらいまで剃り込み、側面の髪を低くしている[55][31]。カツラを制作した山田順二郎は、 素材の羽二重を工夫して凹凸頭のかつらを作り、本物に近いリアルな質感を出した[24][26]。衣裳は江崎がデザインし、それを元に京都衣裳が約300着を作った[53]。衣裳を古びたものにするため、京都で染めたものを川に漬けて何日も晒し、それを泥の中に埋め、さらにそれを洗って軽石でこするという作業を2か月も続けた[53]。土屋によると、衣裳を毎日家に持ち帰って着て汚したという[20]。鎧兜は甲冑師の明珍宗恭が手がけ、菊千代の兜には国宝級のものが使われた[13][56]。
史料は助監督たちが東京大学史料編纂所や東京国立博物館などに通って集めたが[53]、百姓のリアルな生活を調べるには資料が少なかったため、美術助手は奥多摩や白川郷に行って、古い家屋や農具などをスケッチした[43][53][31]。豪農家のセットは、美術助手の村木与四郎が奥多摩で見つけた長屋門を参考にした[31]。こうした調査を元に作られた農家や木賃宿のセットは、「焼き板」という技法で古い質感を再現した[31]。焼き板は木材に光沢と木目が浮かび上がるようにする技法で、木材を焚き火の灰にくべて蒸焼きにしたあと、金属ブラシでこすって木目を浮かび上がらせ、さらに泥絵具を塗って拭き取って木目の上に黒みを出し、それにワックスをかけて磨くことで光沢を出した[53][31]。この技法は黒澤映画でよく用いられ、板を磨く作業は黒澤組の日課としてスタッフ総出で行い、黒澤も率先して作業した[31]。
小國によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の足利義輝に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小國は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている[57]。
技術的特徴
本作では黒澤映画の特徴的な撮影技法「マルチカム撮影法」を初めて導入した[58]。マルチカム撮影法は1つのシーンを複数のカメラで同時撮影するという技法である[58]。ただし、本作では意識的にマルチカム撮影法を導入したわけではなく、合戦や火事のシーンは撮り直しが出来ないため、その部分だけを数台のカメラで撮影し、フィルム編集で困らないようにするために用いられた[58][59]。クライマックスの決戦シーンでは3台のカメラを使用したが、山塞焼き討ちのシーンでは8台ものカメラを使用した[13][39]。その結果、アングルの豊かさと臨場感が増し、黒澤は次作の『生きものの記録』から本格的に導入した[58]。
黒澤は本作で望遠レンズを本格的に使い始めた[60][59]。望遠レンズは極端に画角が狭いため、被写体の遠近感が失われて縦に迫ってくるように見え、画面が充実して迫力が出るという効果がある[60][61]。クライマックスの決戦シーンでは、複数カメラの1つとして望遠レンズを使い、登場人物の激しい表情を迫力を持って撮影することに成功している[61]。堀川も「『七人の侍』の迫力は、この望遠レンズの作用が大きく貢献している」と述べている[60]。撮影助手の斎藤孝雄によると、黒澤は「参考的に望遠レンズを使ってみて、良かったら次も使う」程度の考えで使用したというが、本作以降も黒澤は望遠レンズを多用した[59]。
村人などが矢で射られるシーンは、従来通りにカットを分けて撮影してごまかすのではなく、ワンショットで見せるため[30]、「テグス方式[62]」を開発した。これは体の矢が当たるところに板を付け、そこからテグスを引っ張って矢の空洞に通し、弓で矢を射ると糸伝いに板に刺さるという方法である[63][64]。しかし、テグスがたるむと板ではないところに刺さってしまい、実際に百姓娘役の記平佳枝はそれで背中に矢が刺さるという怪我をした[30]。そこで釣り用のリールを使って絶えずテグスが張るようにした[63][64]。この方法で左卜全演じる与平が矢に刺さるシーンが撮影され、スタッフの間では「卜全釣り」と呼ばれた[64]。テグス方式は『蜘蛛巣城』の三船が矢に刺さるシーンでも使われた[30]。
公開
1954年4月26日、本作はゴールデンウィーク興行として日本国内で劇場公開された[28][65]。上映時間がとても長いため、オリジナル版は都市部の映画館で上映され、地方では短く編集されたものが上映された[66]。配給収入は2億6823万円で、同年度の邦画配給収入ランキングで3位になる興行的成功作となった[2]。東宝はこの大ヒットにより、系列館以外の映画館に本作を上映する条件として、他の東宝作品を10本買うことを要求したという[3]。
アメリカでは、1956年7月にロサンゼルスの劇場で6日間だけ上映され、アカデミー賞の選考にかけられたあと、同年11月に短縮版が『The Magnificent Seven』の題名で正式公開された[67]。この題名はリメイク作『荒野の七人』の原題と同じである。
短縮版
本作は海外輸出用に、黒澤自身が160分に再編集した「短縮版」が作られ、ヴェネツィア国際映画祭でもこの版が出品された[44]。1954年9月12日に日本でも短縮版が公開され、1955年と1967年に再公開したときもやはり短縮版で上映された[44][68]。アメリカやドイツでは短縮版をさらにカットしたものが上映された[69]。西村雄一郎によると、フランスでは配給会社が勝手にカットした100分版が上映されたこともあったという[44]。
短縮版には、カットされたシーンに関する説明字幕はなく、菊千代にスポットが当たるように編集されている。また、当時の東宝の新設備であるテープレコーダーを活用し、音楽の若干の早回しや、カットの辻褄を合わせるためオリジナルキャストによる数箇所のセリフの新規アフレコが行われている。早坂の新規録音(同時期に録音されながら全長版で未使用になっていた可能性もある)音楽はオリジナル版にはない箇所に多数使用されている。新録曲はサントラCDにも収録されていないが、エンドタイトルのファンファーレ曲のみBlu-ray Discのメニュー画面で聴くことが出来る。現在はドイツでリリースされているDVD(PAL版)のみで編集した160分版を見ることが出来るが、音声はドイツ語吹替、現地オリジナルのBGMなど、原型を留めてはいない。日本語トラックも編集された映像を元にオリジナル版をシンクロさせただけのものであり、新録音声を聴くことはできない。
オリジナル版の再公開
1975年9月20日、東宝により4チャンネルステレオによる完全オリジナル版が国内で公開された[68][65]。これは本作の6ミリテープが存在していたことから、当時流行していた4チャンネルステレオ版での再公開が持ち上がったことで作られ、サラウンド感を出すためBGMに擬似ステレオ処理を施した上でいくつかの効果音を挿入している[65]。この4チャンネルステレオ版には、1969年にTBSが本作を初めてテレビ放映したときに、黒澤の指令で三船と野武士の声を録り直して作ったテープが流用された[65]。
その後、ドルビーサラウンドによる完全オリジナル版が作られ、1991年8月27日に日劇東宝で招待試写が行われたあと、11月2日に東宝洋画系で公開された[28][65]。このドルビーサラウンド版には、人を斬るときの斬殺音が追加された[65]。
海外でも、1980年代以降からオリジナル版が公開されるようになった。アメリカでは、1983年にオリジナル版が正式公開された[68]。2002年にもオリジナル版が再公開され、北米初公開から40年以上も経過していながらも27万1800万ドルの興行収入をあげた[70]。
4Kリマスター版
本作は現存フィルムを元に4K解像度で修復が行われた[71]。東宝の保管庫を調査した際にオリジナルネガが発見できなかったため、最も状態の良かったマスターポジ(オリジナルネガを焼いたもの)とデュープネガ(マスターポジの複製)が用いられた。マスターポジには繰り返しデュープネガを作った影響で傷や洗浄不可能なホコリがあり、部分によっては数コマ欠損している場合もあった。修復作業では3種類のソフトウェアを使い分けて傷や汚れを消したり、欠損したコマに前後のコマを合成するなどが行われた。さらに音声もフィルムに焼き付けられている音声画像を直接デジタルに変換する方法で取り込み、ノイズを除去することで原音に近いものを再現している[72][73]。
4Kリマスター版は、2016年2月23日に関係者向けに公開されたあと、9月の第73回ヴェネツィア国際映画祭のクラシック部門で上映され、10月8日から午前十時の映画祭で一般公開された[71][74][75]。野上照代は4Kリマスター版を見て、「黒澤さんにも見せたかった」と目に涙を浮かべながら語り、音声修復について「三船ちゃんもセリフがわからないって言われていて、かわいそうだった。(リマスター版では)よく分かりますね」と述べている[76]。
評価
批評家の反応
日本で初公開された当初は、娯楽映画に冷淡な批評家から軽視され、決して高い評価を受けることはなかった[66][69][77]。第28回キネマ旬報ベスト・テンでは3位に選ばれた[2]。その後国内での評価が高まり、キネマ旬報で10年毎に批評家らが選出した「日本映画史上のベスト・テン」では、1979年、1989年、1999年でいずれも1位に選ばれた[3]。
本作は海外の映画批評家からも高く評価された。アーサー・ナイトは『ザ・サタデー・レビュー』で、「ディテールの多さ、人物描写の豊かさ、アクションの力強いクオリティ、そしてすべてのシークエンスで黒澤が見せる技術面での妙技、それらがこの作品の尽きない魅力となっている」と評した[68]。ロサンゼルス・タイムズ紙のケヴィン・トマスは、「『七人の侍』の息が長いのは、演出スタイルが華麗であるからではなく、皮肉なスタイルを交えながらも、人生と人間らしい心を強く肯定したメッセージが、高らかに宣言されているからである」と肯定的に評価した[68]。ワシントン・ポスト紙のデッソン・トムソンは、「史上最高のアクション映画」としている[78]。ロジャー・イーバートは本作に最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている[79]。
映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには64件のレビューがあり、批評家支持率は100%で、平均点が9.36/100という高評価を獲得している[80]。同サイトの「アートハウス&国際映画トップ100」では6位、「アクション&アドベンチャー映画トップ100」では20位にランクされている[81][82]。Metacriticには6件のレビューがあり、加重平均値が98/100となっている[83]。
映画監督の反応
本作は多くの映画監督からも高い評価を受けている。アンドレイ・タルコフスキーは好きな作品の1本に挙げており、雨や土などの自然描写に影響を受けた[注釈 7][85][23]。ジョージ・ルーカスはUSCの映画学科で学んでいる時に、本作を見て大きな衝撃を受けた[86]。後にルーカスは「『七人の侍』は私に途方もない衝撃を与えた。私はそれまであのように力強く、しかも映画的なものを見たことがなかった。私がその文化や伝統を理解していない事など問題にならないくらい、とても激しく感動した」と語っている[87]。ジョン・ウーは映画を撮る前に必ず本作を見直しており、「あらゆるアクション映画の模範であり、私にとって教科書のようなものです」と語っている[88]。
また、マーティン・スコセッシは「若手映画製作者のための39本の外国語映画」のリストに選出した[89]。テリー・ギリアムも自身の人生と作品に影響を与えた映画の中で、「映画を監督したいと思わせた映画」として選出した[90]。ほかにも、ジョン・ミリアス[91][92]、ジョン・ブアマン[93]、ジム・ジャームッシュ[93]、北野武[92]、アンドレイ・コンチャロフスキー[94]、リチャード・レスター[94]、マーティン・マクドナー[94]、ポール・グリーングラス[94]、ジョージ・ミラー[95]などが、本作を好きな作品に挙げたり、ベスト作品の1本に選出したりしている。
受賞とノミネートの一覧
賞 | 部門 | 対象 | 結果 | 出典 |
---|---|---|---|---|
ヴェネツィア国際映画祭 | 金獅子賞 | 黒澤明 | ノミネート | [96] |
銀獅子賞 | 受賞 | |||
キネマ旬報ベスト・テン | 日本映画ベスト・テン | 3位 | [2] | |
毎日映画コンクール | 男優助演賞 | 宮口精二 | 受賞 | [97] |
ブルーリボン賞 | 音楽賞 | 早坂文雄 | 受賞 | [98] |
都民映画コンクール | 銀賞 | 受賞 | [28] | |
日本映画技術賞 | 撮影 | 中井朝一 | 受賞 | [99] |
美術 | 松山崇 | 受賞 | ||
英国アカデミー賞 | 総合作品賞 | ノミネート | [100] | |
外国男優賞 | 三船敏郎 | ノミネート | ||
志村喬 | ノミネート | |||
アカデミー賞 | 美術賞 (白黒部門) | 松山崇 | ノミネート | [101] |
衣裳デザイン賞 | 江崎孝坪 | ノミネート | ||
ニューヨーク映画批評家協会賞 | 外国語映画賞 | ノミネート | [96] | |
ユッシ賞 | 外国監督賞 | 黒澤明 | 受賞 | [96] |
外国男優賞 | 志村喬 | 受賞 |
ランキング入り
年 | 媒体・団体 | 部門 | 順位 | 出典 |
---|---|---|---|---|
1979年 | キネマ旬報 | 日本映画史上ベスト・テン | 1位 | [3] |
1989年 | 日本映画史上ベスト・テン | 1位 | [3] | |
1995年 | 日本映画オールタイム・ベストテン | 2位 | ||
世界映画オールタイム・ベストテン | 1位 | [3] | ||
1999年 | オールタイム・ベスト100 日本映画編 | 1位 | [102] | |
2009年 | オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇 | 2位 | [103] | |
1982年 | 英国映画協会 Sight&Sound | 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 3位 | [104] |
1992年 | 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 17位 | ||
映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 10位 | [105] | ||
2002年 | 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 11位 | [106] | |
映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 9位 | [107] | ||
2012年 | 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 17位 | [108] | |
映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン | 17位 | [109] | ||
1989年 | 文藝春秋 | 大アンケートによる日本映画ベスト150 | 1位 | |
1995年 | タイムアウト | 最高の映画100本 | 5位 | [110] |
2019年 | 史上最高のアクション映画ベスト101 | 2位 | [111] | |
2000年 | ヴィレッジ・ヴォイス | 20世紀の映画ベスト100 | 23位 | [112] |
2008年 | エンパイア | 歴代最高の映画500本 | 50位 | [113] |
2010年 | 史上最高の外国語映画100本 | 1位 | [114] | |
2008年 | カイエ・デュ・シネマ | 史上最高の映画100本 | 57位 | [115] |
2010年 | トロント国際映画祭 | エッセンシャル100 | 6位 | [116] |
2013年 | エンターテイメント・ウィークリー | オールタイムベスト100 | 17位 | [117] |
2015年 | 釜山国際映画祭 | アジア映画ベスト100 | 6位 | [118] |
2018年 | BBC | 史上最高の外国語映画ベスト100 | 1位 | [5] |
N/A | TSPDT | 最高の映画1000本 | 10位 | [119] |
N/A | IMDb | IMDbユーザーが選ぶ最高の映画ベスト250 | 19位 | [120] |
影響・リメイクなど
1960年公開のジョン・スタージェス監督のアメリカ映画『荒野の七人』は、本作を西部劇にリメイクした作品である。元々は主演のユル・ブリンナーが映画化の話を持ちかけ、プロデューサーのウォルター・ミリッシュが東宝から正式に権利許諾を得て映画化した[121]。黒澤はこの映画について、「ガンマンは侍じゃないよ」と語り[68]、リメイクすることには「バカなことはやめてもらいたい。意味ないでしょ」と語っている[13]。その後、『荒野の七人』の続編として、 1966年公開の『続・荒野の七人』、1969年公開の『新・荒野の七人 馬上の決闘』、1972年公開の『荒野の七人・真昼の決闘』が作られた。また、本作を基にした『荒野の七人』のリメイク作として、1980年公開のジミー・T・ムラカミ監督作『宇宙の7人』、2016年公開のアントワーン・フークア監督作『マグニフィセント・セブン』がある。
他にも多くの外国映画に影響を与えた。アクションシーンでスローモーションを使用する手法は、1967年公開のアーサー・ペン監督作『俺たちに明日はない』と、1969年公開のサム・ペキンパー監督作『ワイルドバンチ』に影響を与えた[122]。マカロニ・ウエスタンには1965年公開のマルコ・ヴィカリオ監督作『黄金の七人』など、本作の形式だけを借りた作品も多い[123]。香港や台湾の武侠映画では、1975年公開のキン・フー監督作『忠烈図』や、1984年公開の王童監督作『策馬入林』などに影響を与えた[123]。1975年公開のラメーシュ・シッピー監督のインド映画『炎』は、本作と『荒野の七人』のスタイルやストーリーの影響を受けている[124]。
ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー紙は、ハリウッドの映画監督に与えた影響について、「監督がこの作品のために編み出した、鮮やかなアクション技術、つまりマルチカム撮影や、戦闘シーンのスローモーション撮影、ロングレンズを使用した群衆の強調技術は、その後何十年にもわたり、多くの映画監督に多大な影響を与えてきた。黒澤らしい発案は、アーサー・ペンやサム・ペキンパー、ウォルター・ヒル、フランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカス、ジョージ・ミラーなど、才能あふれる『侍』ファンの、ベーシックな技術となった」と述べている[68]。
本作は日本国内の漫画やアニメにも影響を与えた。富野由悠季原作の漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人』(2006~07年連載)は本作がイメージのベースとなっている[125]。 1984年放送のテレビアニメ『キン肉マン 決戦!7人の正義超人vs宇宙野武士』の大筋は本作のパロディとなっている[126]。2004年放送のテレビアニメ『SAMURAI 7』は本作のリメイクだが、物語設定は原作通りではなく、未来の惑星戦争の世界を舞台とするSF冒険活劇となっている[127]。アニメ映画では、1997年公開の『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』に登場する「珠由良七人衆」が七人の侍をモデルにしており、2015年公開の『名探偵コナン 業火の向日葵』に登場する「7人のサムライ」が本作に由来している。
また、海外のアニメーション映画にも影響を与えた。1998年公開のピクサー映画『バグズ・ライフ』は本作との類似点が指摘されている[128]。2010年放送のアメリカのテレビアニメ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』第2シーズンの第17話「七人の傭兵」は本作をオマージュしており、本編冒頭に「in memory of Akira Kurosawa」のテロップが挿入されている。2018年公開のウェス・アンダーソン監督作『犬ヶ島』には、早坂が作曲した「勘兵衛と勝四郎~菊千代のマンボ」がサウンドトラックで使用された[129]。
その他
- 7人の侍を演じた俳優は、1972年に東宝創立40周年記念としてTBS系列で放映された特番に出演し、座談会を行った。その後、1975年の加東(64歳没)を皮切りに、1981年に木村(58歳没)、1982年に志村(76歳没)が死去し、志村の逝去時の黒澤のコメントから、「生き残った3人」が先に逝ったことがマスコミで取り上げられた。1985年に宮口(71歳没)が没して以降、残る3人はしばらく健在だったが、1997年に三船(77歳没)、1998年に稲葉(77歳没)、1999年に千秋(82歳没)と立て続けにこの世を去った。皮肉にも劇中最初に討死した平八を演じた千秋が最後の侍となった。
- 本作をモチーフにしたテレビ番組やその企画に、めちゃ²イケてるッ!のコーナー「七人のしりとり侍」、NHK BSプレミアムのコント番組「七人のコント侍」がある。
メディアミックス
※発表年順
- 漫画
- アニメ
- パチンコ機
- CR七人の侍(2008年、ビスティ)
- 監督は中野裕之、衣裳デザインはワダエミ。出演はJJサニー千葉(島田勘兵衛)、田口トモロヲ(片山五郎兵衛)、六平直政(七郎次)、田中要次(平八)、吹越満(久蔵)、魔裟斗(岡本勝四郎)、永瀬正敏(菊千代)、笹野高史(儀作)、麻生久美子(志乃)。
- 舞台
- KANSAI SUPER SHOW 七人の侍(2010年)
脚注
注釈
- ^ 劇中に「天正2年甲戌2月17日生まれ」と記されている菊千代の家系図を見て、彼を「13歳」と揶揄する場面があることから、1586年と知れる。
- ^ 戦国時代盛期には、このような居合い抜きの剣豪はいなかったが、侍の個性の幅を出すためにこのタイプの侍も採用された。
- ^ 橋本は『侍の一日』の物語について、「ある侍が、ある日起きて寝巻を着がえて、顔洗って月代そって、飯食って城へ上がって、昼過ぎにささいなへまをして、家へ帰って切腹して死んだ。こういう映画をやろうとしたわけです」と述べている[7]。
- ^ 佐藤勝によると、この曲は当時流行した「ブルー・カナリア」(アメリカではダイナ・ショア、日本では雪村いづみが歌った)と非常に似ていたため破棄したものだという[41]。
- ^ この時にアフレコ室のスクリーンに付いた泥の跳ね返りは、アフレコ室が壊されるまでそのまま残っていたという[43]。
- ^ 黒澤は井上ひさしとの対談で、「どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか」と問われると、「この脚本の根底にあるのは、トルストイの『戦争と平和』である。その中からいろいろなことを学んでいる。またファジェーエフの『壊滅』も下敷きになっている」と語っている[49]。
- ^ 黒澤はソ連を初めて訪れた時に『惑星ソラリス』を撮影中のタルコフスキーと会い、2人でレストランで酒を飲むと、酔ったタルコフスキーが「侍のテーマ」を大声で唄いだしたという[84]。
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参考文献
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- 橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文藝春秋、2006年6月。ISBN 9784163675008。
- 浜野保樹 編『大系黒澤明 第2巻』講談社、2009年12月。ISBN 9784062155762。
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関連文献
- 黒澤明、宮崎駿『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店、1993年8月。ISBN 4195552729。
- 野上照代編『黒澤明「七人の侍」 創作ノート』文藝春秋、2010年8月。ISBN 9784163729800。
- 野上照代監修『黒澤明MEMORIAL10 七人の侍』小学館、2010年7月。ISBN 978-4094804348。
外部リンク
- 七人の侍 - 日本映画データベース
- 七人の侍 - allcinema
- 七人の侍 - KINENOTE
- 七人の侍 - オールムービー(英語)
- 七人の侍 - IMDb(英語)
- 七人の侍 - Box Office Mojo(英語)
- 七人の侍 - Metacritic(英語)
- 七人の侍 - Rotten Tomatoes(英語)