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さかやき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
月代をした浅井長政

さかやき(月代)とは、江戸時代以前の日本にみられた成人男性髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた(抜き上げた)部分を指す。さかやきを剃った髪型のことは、野郎頭[1]半髪頭と表現される。

概要

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を被った際に頭が蒸れるのを抑えるために始まった風習[注釈 1]とされる。平時は側頭部および後頭部の髪をまとめてを結った。なお、現代日本において時代劇等で一般男性の髷としてなじみとなっているのは銀杏髷であり、髷が小さい丁髷ではない。さかやきをそり、髷を解いた髪型[注釈 2]を「童髪(わらわがみ)」といい、「大童(おおわらわ)」の語源となっている。また、兜を被った際に頭が蒸れるのを抑える目的は「弁髪」に共通している。

「サカヤキ」の語源、また「月代」の用字の起源は諸説ある。一説にさかやきはサカイキの転訛であるという。戦場で兜をかぶるとが逆さに上るから、そのイキを抜くためであるという伊勢貞丈の説[注釈 3]が広く認められている。

通常のさかやきは剃りあげ部分が青いが、老齢で頭髪が抜け落ちると青くならないため、若作りをしたい男性は「青苔」と呼ばれた青色の眉墨を薄く塗った[3]

歴史

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12世紀後半から13世紀初めに書かれた九条兼実の日記『玉葉』の安元2年7月8日1176年8月14日)の条に、「自件簾中、時忠(平時忠)卿指出首、(其鬢不正、月代太見苦、面色殊損)」とあり、平安時代末期には行われていたことが分かる。

14世紀後半に成立した『太平記』巻5には、「片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし」とあり、絵巻物などと照らし合わせると、鎌倉時代室町時代にさかやきが行われていたと分かる。当時は、による頭の蒸れ対策として戦の間だけ行われた習慣であり、日常に戻った時は総髪となった[注釈 4]

15世紀から16世紀戦国時代になると、戦が続くなどしてさかやきが日常においても行われるようになった[注釈 5]

16世紀から17世紀にかけて成立した沖縄の古謡集『おもろさうし』のうち、慶長14年(1609年)の島津氏による琉球出兵を歌ったものでは、薩摩兵を「まへぼじ(前坊主)」と揶揄しており、さかやきを作っていたことがわかる。

17世紀江戸時代になると、凛々しい髪型が好まれ[4]、一定の風俗となった。公卿を除く、一般すなわち武家、庶民の間で行われ、元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。武家の蟄居閉門などの処分期間中や、病気で床についている間はさかやきを剃らないものとされた。外出時もさかやきでない者は、公卿浪人山伏学者医師人相見物乞いなどであった。さかやきの形は侠客、中間、小者は盆の窪まであり、四角のさかやきは相撲から起こり、その広いものを唐犬額といった。江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これを講武所風といった。また若さをアピールする一種のファッションとして、さかやきやもみあげをで蒼く見せるという風習も流行した。

明治時代の初期、明治4年8月9日(1871年9月23日)に発布された断髪令まで行われた。

脚注

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注釈

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  1. 「戦の時、常にかぶとをかぶり気のぼせて煩う事あるによりて、頭の上を丸く中ぞりをしけるなり」[2]
  2. 映像作品などでは、「落武者」を表現するのにステレオタイプに用いられる。
  3. 「『さかいき』と云ふは、気さかさまにのぼせるゆえ、さかさまにのぼするいきをぬく為に髪をそりたる故『さかいき』といふなり」[2]
  4. 「合戦の間は月代をそれども、軍やめば又本のごとく惣髪になるなり」[2]
  5. 「天下大いにみだれ、信玄・謙信などその外諸大将、合戦数年打続きたるゆえ常に月代そる事絶えずして、その後太平の世になりてもその時の風儀やまずして、今日に至るまで月代そる事になりたるなり」[2]

出典

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  1. 野郎頭』 - コトバンク
  2. 1 2 3 4 伊勢貞丈貞丈雑記
  3. 杉浦日向子監修『お江戸でござる 現代に活かしたい江戸の知恵』株式会社ワニブックス、2003年9月10日、p.61
  4. 杉浦日向子監修『お江戸でござる 現代に活かしたい江戸の知恵』株式会社ワニブックス、2003年9月10日、p.60