マイ・フェア・レディ (映画)

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マイ・フェア・レディ
My Fair Lady
Harry Stradling-Audrey Hepburn in My Fair Lady.jpg
監督 ジョージ・キューカー
脚本 アラン・ジェイ・ラーナー
原作 ジョージ・バーナード・ショー
製作 ジャック・L・ワーナー英語版
出演者 オードリー・ヘプバーン
レックス・ハリソン
スタンリー・ホロウェイ
ウィルフリッド・ハイド=ホワイト
グラディス・クーパー
音楽 アンドレ・プレヴィン
撮影 ハリー・ストラドリング
編集 ウィリアム・ジーグラー
配給 ワーナー・ブラザース
公開 アメリカ合衆国の旗 1964年10月21日(ニューヨーク・プレミア)
日本の旗 1964年12月1日
上映時間 170分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $17,000,000(見積値)[1]
興行収入 $72,000,000
配給収入 7億8867万円[2] 日本の旗
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マイ・フェア・レディ』(My Fair Lady)は、1964年制作のアメリカ合衆国ミュージカル映画。監督はジョージ・キューカー、出演はオードリー・ヘプバーンレックス・ハリソンなど。同名ミュージカルの映画化。同年のアカデミー作品賞ほか8部門を受賞した。

ストーリー[編集]

言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げるかどうかをめぐってピカリング大佐と賭けをすることになる。

怠け者のドゥーリトルが殴り込んできたり前途多難。なかなかh音を出すことができないし、【ei】を【ai】といってしまうため、矯正のための詩「スペインの雨」(The Rain in Spain)がなかなか発音できない。どうにかできるようになって「踊り明かそう」を歌う。試しに淑女たちの社交場であるアスコット競馬場に行ってみる…。そんなイライザに富裕階級のフレディーは恋をしてしまい、「君住む街角で」ぶらつき歩く。「運が良けりゃ」と歌っていたドゥーリトルは皮肉にも金持ちになってしまう。

ヒギンズ教授は初めから義務感でつきあっていたものの、徐々に彼女のことが忘れられなくなっている自分に気づく。しかし、イライザは言葉と同時に自分というものを得ていく…。まだまだ階級社会の文化が色濃く残るイギリス社会を舞台に繰り広げられるロマンティック・コメディ

キャスト[編集]

役名 俳優 テレビ東京版 テレビ朝日版 TBS版 機内版
イライザ・ドゥーリトル オードリー・ヘプバーン  池田昌子
ヘンリー・ヒギンズ教授 レックス・ハリソン 中村正
アルフレッド・ドゥーリトル  スタンリー・ホロウェイ 小松方正 梶哲也
ヒュー・ピカリング大佐 ウィルフリッド・ハイド=ホワイト 今西正男 下條正巳 真木恭介
ヒギンズ夫人 グラディス・クーパー 中村紀子子 北原文枝 高村章子
フレディ・アインスフド=ヒル ジェレミー・ブレット  広川太一郎 叶年央 沢井正延
ゾルタン・カーパシー セオドア・ビケル 内海賢二 飯塚昭三
ピアス夫人 モナ・ウォッシュボーン英語版 沢田敏子 新村礼子 中村紀子子
アインスフド=ヒル夫人 イソベル・エルソム 高村章子 島美弥子
執事 ジョン・ホランド英語版 清川元夢 丸山詠二
通りすがりの男 ウォルター・バーク英語版 野本礼三

製作[編集]

キャスト決定まで[編集]

この作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。ブロードウェイでの上演中から権利元のCBSに対してMGM20世紀フォックスユニバーサルなどの映画会社や独立プロデューサーが映画化権を争ったが、1962年ワーナー・ブラザーズが史上最高の550万ドルで獲得した[3]。しかも配給収入(映画館での売り上げからワーナーの取り分を引いた額)が2000万ドルを超えた場合は、その47%をCBSが受け取る、という付帯事項まで付いていた[3]

ワーナー・ブラザーズの社長、ジャック・ワーナー(en:Jack Warner) は先にスタッフを決定[3]。監督にジョージ・キューカー、シナリオにアラン・ジェイ・ラーナー、撮影監督にはハリー・ストラドリング、衣装に舞台版も手がけたセシル・ビートン、音楽の編曲と指揮にはアンドレ・プレヴィンを決定した[3]。1962年9月にはキューカー、ビートン、それと美術のジーン・アレンとでロンドンに下見に行っている[4]

舞台版のオリジナル・キャストはジュリー・アンドリュースレックス・ハリソンであったが、ジャック・ワーナーはハリソンは歳を取りすぎており、アンドリュースは無名だと考えた[5]。ワーナー映画として史上最高額の制作費1700万ドルという莫大な金額をかけた作品に無名の女優は使えなかった[6]

ヒギンズ教授役はケーリー・グラントに依頼されたが、「もしハリソンが演じないなら、観に行かないよ」と断っている[7][8]。ラーナーとキューカーは次に『アラビアのロレンス』を撮り終わったばかりのピーター・オトゥールに交渉[5][8][9]。映画はまだ公開されていなかったが、業界では新しいスターとして噂されていた[5]。ジャック・ワーナーも賛成していたが[5]、オトゥールのエージェントは新人としては法外な40万ドルプラス興行収入の歩合という出演料を要求したため流れてしまった[10][11]。他にもロック・ハドソン[8][7]ローレンス・オリヴィエ[8][7]などが候補に挙がっていたが、結局出演料20万ドルでレックス・ハリソンに落ち着いた[5][10]

イライザ役には、ジャック・ワーナーはそれでも一度はジュリー・アンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけている[8]。アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否[8]。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断っている[8]

ジャック・ワーナー は莫大な制作費を回収するために『尼僧物語』のワーナー映画始まって以来の大ヒットで実績のあるヘプバーンを考えることとなった[7]。ジャック・ワーナー は、ヘプバーンとアンドリュースでは興行収入の差額は500万ドルと見積もっている[7]。ヘプバーンは『ティファニーで朝食を』撮影中の1960年のインタビューで、次に演じてみたい役は?と訊かれて、「『マイ・フェア・レディ』のイライザよ」と答えていた[12][13][7]。しかし1962年にイライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った[14][8][6]。それどころか、ディナー・パーティーを企画して、スタジオの上層部にこの役にアンドリュースを起用するよう説得しようとした[6]。しかし何をもってしてもジャック・ワーナーの気持ちは変えられず、次はエリザベス・テイラー[15]に役を回すとわかり[16]、1962年10月最終的にイライザ役を引き受けた[8][14][6]。この時にヘプバーンの出演料は『クレオパトラ』のエリザベス・テイラーと並ぶ当時史上最高額の100万ドルになった[3][8][5]

なお、『マイ・フェア・レディ』に専念するため、ヘプバーンは当時出演が決まっていた作品を断っている。フレッド・ジンネマン監督に決まっていた『ハワイ[3][17]、『卑怯者の勲章[3]である。これらはどちらもジュリー・アンドリュースに役がまわっている。

撮影開始まで[編集]

セシル・ビートンは1963年2月から衣装や帽子の製作を開始[4]。93人のお針子を使い、映画で必要な1086着の衣装を作り上げた[3]。衣装の製作費だけで50万ドルかかっている[3][4]。アスコット競馬場や舞踏会のシーンのエキストラは衣装が映えるよう、キューカーやビートンの意向に沿うまで、何度も何度も再選考が行われている[4]

ヘプバーンは『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月16日にハリウッドに到着[8]、18日にキューカーやラーナーやビートンを借りていた家にお茶に招いて、「私の声を歌全部に使うのですか?」と訊いている[13][4]。その際キューカーに「ほとんどの曲で披露してもらうが、一部は吹き替えになるだろう」と告げられたヘプバーンは[7][4]、「ええ、それはわかります。でもレッスンを受けて、一生懸命どんな練習でもするつもりです」と答えている[4][7]。しかしその段階で既にマーニ・ニクソンに吹き替えられることが内密に決まっていた[13]。その日、ビートンが衣装部にヘプバーンを連れて行くとエキストラ用の衣装を見たヘプバーンは、「イライザだけでは足りないわ!素敵な服が他にもあるもの。わたし全部着てみたい!」と言って次々と着用した[4][8]。楽しいムードの中で衣装合わせは行われ、ヘプバーンはコックニー訛りを喋り、衣装部のスタッフと冗談を言い合っていたという[8][4]。ビートンはそれを写真に撮っていった[4]。のちにその写真を見たヘプバーンは、ビートンに大きなバラの花束を贈り、「私は今まで綺麗になりたいと望んできました。あなたが撮ってくださった写真を見たとき、ほんの少しの間、私は美しいと思えました。ありがとう、あなたのおかげです」とメッセージを添えている[7][4][10]。ビートンはこれらの写真をアメリカやイギリスの雑誌に売っており、ビートン個人に莫大な利益をもたらしていた[13]。これがキューカー監督の不興を買い、キューカーとビートンの対立が起こっている[8]。キューカーはテスト中にヘプバーンの写真を撮ることを禁止した[4]

ヘプバーンは早速レッスンを開始、発声のコーチについた他、踊りのレッスン、コックニー訛りの訓練、プレヴィンのもとでの音楽の勉強、衣装合わせ、髪型やメイクアップのテストなどで1日12時間も費やしていた[6][5][7][8]。発声練習だけで1日5〜6時間もかかったこともあったという[8]

レックス・ハリソンはキューカーとビートンの喧嘩にムカムカしていたが[13]、実は自身が周りに絶えずトラブルを撒き散らしていた[10]。ハリソンは『マイ・フェア・レディ』の成功は自分のおかげであると思っており[8][10]、ジョージ・キューカーが女性映画の監督であるため、ヘプバーンに目をかけるのではないかと不信感を持っていた[10]

ハリソンは初めヘプバーンに対しても敵意を持っていた[8][10]。しかしヘプバーンがハリソンの死別した前妻ケイ・ケンドールとバレエ学校時代に知り合いだったことを話し[13]、撮影所内で移動の際に乗るための自転車をハリソンに贈ったりしたことや[13][5]、ヘプバーンが歌の問題などがあるためハリソンが映画を支配できることがわかると和やかになっていった[8]

6月にはリハーサルが開始されたが、ハリソンは5年もこの役を舞台でやっているのにセリフをしょっちゅう忘れ、ヘプバーンはセリフを完璧に覚えていた[13][4]。7月には撮影前の録音も始まった[8]

撮影[編集]

映画はワーナーのスタジオの半分以上を使って、話の流れに沿って順撮りで行われている[3]。主演俳優が演じる本格的な撮影は1963年8月13日に開始されているが[8][3]、エキストラだけのオープニングの雨のシーンは8月9日に始められている[4]

レックス・ハリソンは、一つの曲を二度同じように歌えないし、口の動きをシンクロナイズさせるテクニックは大嫌いだとして、自分のすべてのナンバーをライブで演じ、撮影することを主張[8]。そのためハリソンのネクタイにはマイクが、脚には送信機が取り付けられることになった[8]。当時は技術的に大変難しく、多くの人々が怒り、二つの労働組合が特別手当を要求したほどだった[8]。またハリソンが思い通りになるまでは何度も撮り直しが行われていた[13]

ヘプバーンは撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた[8][7]。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった[8]。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた[8]。製作30周年の修復の際に発見されたヘプバーンの音声には、「もう一度お願いします」「お時間を取らせてごめんなさい」と必死で努力するヘプバーンの音声が入っていた[18]。映画の前半の「ああ、なんてしあわせ!(素敵じゃない?)」はヘプバーン自身の録音した声に合わせて演技をして、ニクソンがそれに合わせて吹き込んでいる[19]。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている[20]。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った[8]。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している[8][13][21]。最後のヘプバーンの歌唱シーンの「あなたなしでも」ではニクソンが吹き込んだ声に合わせてヘプバーンが演技している[19]

リハーサルの段階から始まった監督のジョージ・キューカーと衣装のセシル・ビートンの対立[4]は撮影中にも続いていた[13]。二人とも自説を曲げず、好きなだけ癇癪を起こしていた[13]。二人の口論はスタッフからも苦情が出たほどだという[13]。キューカーはセットでのビートンの出しゃばりな態度が、ヘプバーンの集中力を削いでいると感じており、ビートンに対して禁止事項を増やしていった[8]

撮影上のゴタゴタが続き、ヘプバーンはセットの他の動きに惑わされたくないと言い出した[10]。そのためキューカーは9月後半には黒いカーテンを張り巡らし、必要最小限以外のスタッフ以外から撮影現場を遮った[8][4][22]。ただし、キューカーは大物女優を撮影する時はいつもセットを非公開にしており、ヘプバーンだけを特別扱いしたのではないとアンドレ・プレヴィンは語っている[8]

アスコット競馬場のシーンでは300人のエキストラのためにダンサーが選ばれた[23]。登場する150人の女性のメイクアップと着付けのために、ワーナーのステージが丸々1つ使用されている[3]

アスコット競馬場の撮影の合間にビートンはヘプバーンにポーズを取ってくれと頼み、ヘプバーンも承知していたが、助監督がやってきて「監督がオードリーの仕事の日は写真を撮らないでくれと言ってます」と伝えてきた[4][8]。「彼女は毎日仕事があるじゃないか!」とビートンは怒り、キューカーも怒りでその後2時間は仕事にならなかったという[4][8]

ヘプバーンは過労でとうとう倒れてしまい、医者の治療を受けて11月18日から3日間撮影を休んでいる[4][8]。戻ってきた22日にはイライザがフレディとコヴェント・ガーデンに戻る部分の撮影をしていたが、その時ラジオを聴いていた大道具の係が入ってきてジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたと伝えた[8][13]。監督のジョージ・キューカーが取り乱していたので、ヘプバーンが代わりに小さな壇にあがり、マイクでみんなにケネディ大統領の死を伝えた[8][7][13]。その日は撮影が続行できなくなっている[13][7]

撮影は1963年のクリスマスの数日前に終了した[8][10][13]

エピソード[編集]

  • オードリー・ヘプバーンの歌は、一部の歌い出し部分を除いて マーニ・ニクソンによる吹き替えであるとあちこちで書かれているが、三部形式の「今に見てろ」は前半と後半は全てオードリー・ヘプバーンの声で真ん中のみがマーニ・ニクソンである[19]。後半に出てくる「今に見てろ」のリプライズは全てヘプバーンの声である。
  • 吹替にはジュリー・アンドリュースを、という案もあったが、アンドリュースがヘプバーンの代役で『卑怯者の勲章』に出演したため、身体があいていなかった[3]
  • 音楽監督のアンドレ・プレヴィンは、「レックス・ハリソンはオードリー・ヘプバーンではなくジュリー・アンドリュースを望んでいたのか?」と言う問いに対して、「彼はどちらも望んでいなかった。人々が関心を持っているのは自分だけだと思っていた」と答えている[8]。別の本でも「ハリソンは舞台公演の間中、ジュリー・アンドリュースの存在が気に障って仕方なかった」と書かれている[13]。ヘプバーンに対しても、ひどく意地が悪かったという[8]
  • 1971年に権利がCBSに移ったため、この作品の音声やフィルムといった貴重な素材が大量にCBSに運ばれたが、CBSはそのほとんどを捨ててしまっている[18]
  • 1994年に製作30周年のデジタル・リマスターがなされた時に、ヘプバーン自身によってレコーディングされた音源がワーナーから発見された[18][24]。また、フレディ役のジェレミー・ブレットの歌もビル・シャーレイ(en:Bill Shirley)による吹き替えだったことが本人によって明らかにされた[24]
  • 映画公開時に制作されたポスターは、ボブ・ピーク(Bob Peak)によるイラスト[25]
  • この映画の言語学考証を担当したのはピーター・ラディフォギッドだった。RP(容認発音)を操る大言語学者で、ヒギンズ教授のグラモフォンから聞こえてくるのはピーターの声であり、ヒギンズがコヴェント・ガーデンでイライザに見せるメモ帳の筆跡もピーターのものだった[26]

楽曲[編集]

第一部

  • 序曲 (Overture)
  • なぜ英語が話せない? (Why Can't the English?)
  • ああ、なんてしあわせ! (Wouldn't It Be Loverly?)
  • 花市場 (The Flower Market)
  • 僕は普通の男 (I'm an Ordinary Man)
  • 運が良けりゃ (With A Little Bit of Luck)
  • 今に見てろ (Just You Wait)
  • 召使たちの歌 (Poor Professor Higgins)
  • スペインの雨 (The Rain in Spain)
  • 踊り明かそう (I Could Have Danced All Night)
  • アスコット・ガヴォット (Ascot Gavotte)
  • アスコット・ガヴォット -リプライズ- (Ascot Gavotte)
  • 君住む街角で (On the Street Where You Live)
  • 間奏曲(Intermission)

(休憩)

  • アントラクト(Entr'acte)

第二部

  • トランシルバニアのマーチ(Transylvanian March)
  • 大使館のワルツ (The Embassy Waltz)
  • うまくやった (You Did It)
  • 今に見てろ -リプライズ- (Just You Wait)
  • 君住む街角で -リプライズ- (On the Street Where You Live)
  • 私に見せて (Show me)
  • 花市場 (The Flower Market)
  • だが まずは教会へ (Get Me to the Church on Time)
  • 男性賛歌 (A Hymn To Him)
  • あなたなしでも (Without You)
  • 忘れられない君の顔 (I've Grown Accustomed to Her Face)
  • エンド・タイトル(End Titles)[27]
  • 終曲 (Exit Music)[28]

賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞
ノミネート

ゴールデングローブ賞[編集]

受賞
  • 最優秀作品賞
  • 監督賞 ジョージ・キューカー
  • 主演男優賞 レックス・ハリソン
ノミネート

ニューヨーク批評家協会賞[編集]

受賞
  • 最優秀作品賞
  • 主演男優賞 レックス・ハリソン
ノミネート
  • 監督賞 ジョージ・キューカー
  • 主演女優賞 オードリー・ヘプバーン

英国アカデミー賞[編集]

受賞
  • 最優秀作品賞 ジョージ・キューカー
ノミネート
  • 主演男優賞 レックス・ハリソン

全米監督協会賞[編集]

受賞
  • 長編映画監督賞 ジョージ・キューカー

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞[編集]

受賞
  • 最優秀外国製作賞 ジャック・L・ワーナー
  • 最優秀外国主演女優賞 オードリー・ヘプバーン
  • 最優秀外国主演男優賞 レックス・ハリソン

ローレル賞[編集]

受賞
  • 興行賞
  • 主演男優賞(ミュージカル部門) レックス・ハリソン
ノミネート
  • 主演女優賞(コメディ部門) オードリー・ヘプバーン
  • 助演男優賞 スタンリー・ホロウェイ

ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞[編集]

受賞
  • トップ10フィルム

全米脚本家組合賞[編集]

ノミネート
  • ミュージカル脚本賞 アラン・ジェイ・ラーナー

Boxoffice Magazine Awards[編集]

受賞
  • 最優秀月間作品賞(64年12月) ジョージ・キューカー

アメリカ映画編集者協会賞[編集]

ノミネート
  • 長編映画編集賞 ウィリアム・ジーグラー

スペイン映画作家サークル賞[編集]

受賞
  • 最優秀外国映画賞

オンライン映画批評家協会賞[編集]

受賞(2017年)
  • モーションピクチャー賞

アメリカ国立フィルム登録簿[編集]

登録
  • 2018年

脚注[編集]

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  1. ^ My Fair Lady (1964) - Box office / business” (英語). IMDb. 2011年5月18日閲覧。
  2. ^ 1967年『キネマ旬報』5月下旬号(キネマ旬報社)49頁
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『別冊スクリーン オードリー・ヘプバーン特集号 「マイ・フェア・レディ」上映記念』. 近代映画社. (1965年1月1日発行). 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s セシル・ビートン (1996年8月). 『「マイ・フェア・レディ」日記』. キネマ旬報社. 
  5. ^ a b c d e f g h ロビン・カーニー (1994年1月20日). 『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』. キネマ旬報社. 
  6. ^ a b c d e エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド (2006年9月25日). 『the audrey hepburn treasures』. 講談社. 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m イアン・ウッドワード (1993年12月25日初版発行). 『オードリーの愛と真実』. 日本文芸社. 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an バリー・パリス (1998年5月4日). 『オードリー・ヘップバーン』下巻. 集英社. 
  9. ^ 『スクリーン』1963年1月号(62年12月発行)p202. 近代映画社. 
  10. ^ a b c d e f g h i アレグザンダー・ウォーカー (2003年1月20日). 『オードリー リアル・ストーリー』. アルファベータ. 
  11. ^ 映画の友社.『映画の友』1963年4月号(2月発売)p140ではヒギンズ教授役を獲得しそうだと書かれているが、同じ号のp101には50万ドルを要求して振られて、元のレックス・ハリソンに譲ると書かれている。
  12. ^ バリー・パリス (1998年5月4日). 『オードリー・ヘップバーン』上巻. 集英社. 
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r チャールズ・ハイアム (1986年3月15日). オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生. 近代映画社. 
  14. ^ a b ジェリー・バーミリー (1997年6月13日初版発行). 『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』p137. シンコー・ミュージック. 
  15. ^ エリザベス・テイラーは乗り気で、バリー・パリスの伝記では、「『マイ・フェア・レディ』の役を取ってきて」と当時の夫エディー・フィッシャーやエージェントに言っていたとなっている。イアン・ウッドワードの伝記ではヘプバーンに決定後も「『マイ・フェア・レディ』を私にやらせて」と何度もエディー・フィッシャーに言っていた、となっている。
  16. ^ オードリー・ヘプバーンとエリザベス・テイラーのエージェントは同じカート・フリングスであった。
  17. ^ フレッド・ジンネマン (1993年10月23日初版発行). 『フレッド・ジンネマン自伝』p282. キネマ旬報社. 
  18. ^ a b c 製作40周年の『マイ・フェア・レディ』のDVD(スペシャル・エディション及びスペシャル・コレクターズ・エディションに収録)とブルーレイ(4K版には未収録)に付いた音声解説で語られている。
  19. ^ a b c 『マイ・フェア・レディ』のDVD(スペシャル・エディション及びスペシャル・コレクターズ・エディションに収録)とブルーレイ(4K版には未収録)の音声解説でマーニ・ニクソン自身がそう語っている。
  20. ^ 『映画の友』p250. 株式会社映画の友. (1964年2月号(1963年12月発売)). 
  21. ^ この件に関して、マーニ・ニクソンは1994年の製作30周年記念版ではインタビューで、翌日謝ったことも「当然ね」と言っていたが、40周年の際の音声解説では「全然わがままじゃないのにね」と言い換えている。
  22. ^ バリー・パリス他、ヘプバーンの伝記では黒い衝立や壁板と書かれているが、撮影現場にいたセシル・ビートンの『マイ・フェア・レディ日記』で黒いカーテンと書かれているため、そちらを採用している。また、カーテンはビートンが現場に行った9月18日には無く、9月23日には有るので、その間に設置されている。
  23. ^ 『マイ・フェア・レディ』のDVD(スペシャル・エディション及びスペシャル・コレクターズ・エディションに収録)とブルーレイ(4K版には未収録)の音声解説でジーン・アレン自身がそう語っている。
  24. ^ a b FLIX増刊号2月号「オードリー・ヘプバーン特集号 追悼2周年特別企画&『マイ・フェア・レディ』映画製作30周年記念版」. ビクター・ブックス/ビクターエンタテインメント株式会社. (1995年2月1日発行). 
  25. ^ 『pen[ペン]』p70. 阪急コミュニケーションズ. (2004年No.139 10月15日号). 
  26. ^ D.H.エヴェレット『ピダハン』(みすず書房)。なお、エヴェレットの調査結果を支持した。
  27. ^ 1994年の製作30周年デジタルリマスター時まではこの曲が終曲(The End)とされていた。(初公開時の映画パンフレットによる)
  28. ^ 1994年の製作30周年デジタルリマスター時に修復に携わったスタッフ用のエンドロールとして追加。曲はアントラクトの転用。これによって上映時間が1分半ほど増えている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]