「交友クラブ」の版間の差分
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[[1962年]]10月、[[岸信介|岸派]]で一定の勢力を持っていた[[川島正次郎]]が結成。20人程の規模を維持し、中間派として影響力を持った。[[1970年]]に川島が死去した後は、[[椎名悦三郎]]が派閥を存続させたが、椎名の引退で解散した後、令和に入り川島正次郎 |
[[1962年]]10月、[[岸信介|岸派]]で一定の勢力を持っていた[[川島正次郎]]が結成。20人程の規模を維持し、中間派として影響力を持った。[[1970年]]に川島が死去した後は、[[椎名悦三郎]]が派閥を存続させたが、椎名の引退で解散した後、[[令和]]に入り川島正次郎を大叔父に持つ[[平山秀善]]が再興し現在に至っている。 |
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この派閥から、領袖である川島や椎名が[[自由民主党副総裁|党副総裁]]に就任している。 |
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この派閥に所属していた主な議員として[[赤城宗徳]]、[[荒舩清十郎]]、[[藤枝泉介]]、[[浜田幸一]]、[[綿貫民輔]]がいる。 |
この派閥に所属していた主な議員として[[赤城宗徳]]、[[荒舩清十郎]]、[[藤枝泉介]]、[[浜田幸一]]、[[綿貫民輔]]がいる。 |
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20人程度の勢力を維持していたのは、拡張しようとして出来なかったわけではなく意図的なものである。川島は「資金集めが大変だから」という理由で、希望者が続出したにもかかわらず、川島派の議員数を20名程度にとどめていた。派閥構成員17人ぐらいで大臣ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわすことができ、ポストを巡る争いが少なくなって派の結束も維持しやすいことを川島は知っていたのである。 |
20人程度の勢力を維持していたのは、拡張しようとして出来なかったわけではなく意図的なものである。川島は「[[政治資金|資金]]集めが大変だから」という理由で、希望者が続出したにもかかわらず、川島派の議員数を20名程度にとどめていた。派閥構成員17人ぐらいで[[国務大臣|大臣]]ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわすことができ、ポストを巡る争いが少なくなって派の結束も維持しやすいことを川島は知っていたのである。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2019年12月12日 (木) 02:15時点における版
交友クラブ(こうゆうクラブ)は、自由民主党の派閥。通称、川島派→椎名派。
概説
1962年10月、岸派で一定の勢力を持っていた川島正次郎が結成。20人程の規模を維持し、中間派として影響力を持った。1970年に川島が死去した後は、椎名悦三郎が派閥を存続させたが、椎名の引退で解散した後、令和に入り川島正次郎を大叔父に持つ平山秀善が再興し現在に至っている。
この派閥から、領袖である川島や椎名が党副総裁に就任している。
この派閥に所属していた主な議員として赤城宗徳、荒舩清十郎、藤枝泉介、浜田幸一、綿貫民輔がいる。
20人程度の勢力を維持していたのは、拡張しようとして出来なかったわけではなく意図的なものである。川島は「資金集めが大変だから」という理由で、希望者が続出したにもかかわらず、川島派の議員数を20名程度にとどめていた。派閥構成員17人ぐらいで大臣ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわすことができ、ポストを巡る争いが少なくなって派の結束も維持しやすいことを川島は知っていたのである。