坂上田村麻呂
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| 時代 | 奈良時代 - 平安時代前期 |
| 生誕 | 天平宝字2年(758年) |
| 死没 | 弘仁2年5月23日(811年6月17日) |
| 改名 | 松尾丸[注 1](幼名)→田村麻呂 |
| 別名 |
坂上田村麿、大将軍、田村将軍、坂将軍[注 2]、 北天の化現[注 3]、毘沙門の化身[注 4] |
| 諡号 | 常閑寺殿一品法観清議大居士 |
| 神号 |
正一位田村大明神[1] 田村大神[2] 坂上田村麻呂公[3] 坂上田村麿将軍[4] |
| 墓所 |
京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町の西野山古墓 島根県邑智郡邑南町日貫の宝光寺墓所 |
| 官位 | 越後守、正三位、大納言、右近衛大将、侍従、兵部卿、参議、鎮守府将軍、征夷大将軍、贈従二位 |
| 主君 |
光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→ 嵯峨天皇 |
| 氏族 | 坂上忌寸→坂上大忌寸→坂上大宿禰 |
| 父母 | 父:坂上苅田麻呂、母:畝火浄永の娘 |
| 兄弟 | 石津麻呂、広人、田村麻呂、鷹主、直弓、鷹養、継野、雄弓、又子、登子 |
| 妻 | 高子(三善清継の娘) |
| 子 |
大野、広野、浄野、正野、広雄、高道、春子 他下記参照 |
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。
坂上宝剣では坂家。
目次
生涯[編集]
出自[編集]
天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男[5]または三男[6]として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤仕した。
田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(792年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、翌延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の1人ながら中心的な役割を果たしたとされる。
征夷大将軍[編集]
延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)11月5日には桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた[7]。延暦17年(798年)閏5月24日に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将となると、延暦19年(800年)11月6日に諸国に配した夷俘を検校のために派遣されている[8]。
延暦20年(801年)2月14日に節刀を賜って、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京より出征。記録に乏しいが『日本略記』には、9月27日に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている[9]。10月28日に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を授けられる。12月には近衛中将に任じられた[9]。
阿弖流為の降伏[編集]
延暦21年(802年)1月9日、確保した地域に胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣されると11日に諸国等10国[注 5]の浪人4000人を陸奥国胆沢城に配するよう勅が下る[10]。理由は不明であるが20日には田村麻呂を含めた8人が度者を1人賜っている[11]。
翌年4月15日に田村麻呂のもとへ夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼が500余人を率いて降伏し、平安京へと報告が届けられ[注 6] 、7月10日に阿弖流為と母礼に付き添って平安京へと上京する[注 7]。田村麻呂は「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と助命嘆願したが、公卿は執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と反対して、願いは受け入れられなかった。2人は河内国杜山で処刑されている[注 8][10]。
延暦22年(803年)3月6日、造志波城使として彩帛50疋、綿300屯を賜って出発して陸奥国へと下った[10]。
徳政相論[編集]
延暦23年(804年)1月19日、桓武朝4度目の蝦夷征討が計画され、28日には再び征夷大将軍に任命されて3度目の遠征を期した。副将軍に百済教雲、佐伯社屋、道嶋御楯、軍監8人、軍曹24人が任命されている。蝦夷征討に向けて準備が整えられている一方、田村麻呂は5月に造西寺長官に任命され、8月7日には桓武天皇の巡幸の際の仮宮殿・行宮設定のために和泉国、摂津国に派遣され、和泉国藺生野(現在の大阪府岸和田市)にて10月8日に行われた狩猟に随行して桓武天皇に物を献上し、綿200斤を賜っている。この頃の肩書きは「征夷大将軍従三位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」である[12]。
延暦24年(805年)6月23日に坂上氏として初の参議に命じられる。しかし、12月8日に参議・藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を善しとして認めたため、今回の蝦夷征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた[12]。
平城天皇の即位[編集]
延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が崩御すると同日に皇太子・安殿親王(平城天皇)の践祚が執り行われ、田村麻呂は春宮大夫・藤原葛野麻呂と共に身を伏したまま哀慟して自ら立つこともままならない安殿を抱きかかえて殿を下り、直ちに玉璽と宝剣を奉っている。4月1日に中納言・藤原雄友に従って桓武天皇への誄辞を奉ると、18日に中納言、21日に中衛大将と立て続けて要職を兼ねた。5月18日に即位の儀が行われ延暦から大同に改元されると、平城天皇の側近として重んじられていく。10月12日付けで発布された太政官符に申請者として「中納言征夷大将軍従三位兼行中衛大将陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」の肩書きで名前を連ねている[注 9]。これは擬任郡司などを任命して辺境の防備体制を固めたいというものであった[13]。
大同2年(807年)4月12日に中衛府が右近衛府へと改称されたのに併せて中衛大将から右近衛大将となり、8月14日には侍従も兼任するが、その直後となる10月に伊予親王の変が起こっている。この政変では11月12日に藤原吉子・伊予親王母子がそろって毒を飲んで心中しているが、11月16日に兵部卿を兼任していることから、田村麻呂は政変に関わっていないとみられ、平城天皇からも変わらず信頼を置かれていたものと思われる。大同4年(809年)3月30日に父・苅田麻呂を超える正三位となる[13]。
薬子の変[編集]
大同4年(809年)4月1日に平城天皇が皇太弟・神野親王へ譲位し、皇太子には平城天皇の高岳親王が立てられた。平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子と兄の藤原仲成は譲位に反対するものの、13日に嵯峨天皇が即位する。譲位後に健康を回復させた平城上皇は12月4日に平城京へと移り住んだ[13]。
嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止する。これに怒った平城上皇を薬子と仲成が助長して「二所朝廷」といわれる両統迭立が起こり、9月6日に平城上皇が平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を発したことで平城太上天皇の変(薬子の変)が始まる。平城京遷都の詔勅にひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを平城京造宮使に任命する[13]。
しかし9月10日、嵯峨天皇は平城京遷都の拒否を決断して、固関使を伊勢国・近江国・美濃国の国府と関に派遣して仲成を捕らえて右兵衛府に禁固して佐渡権守に左遷、薬子は尚侍正三位を剥奪して宮中から追放という詔を発した。『公卿補任』によるとこの日に田村麻呂は大納言に昇進しており、子の坂上広野も近江国の関を封鎖するために派遣されている[13]。
嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して9月11日早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って平城京を発し、東国へと向かった。嵯峨天皇は田村麻呂を派遣。美濃道より上皇を迎え撃つにあたり、上皇側と疑われ左衛士府に禁固されていた文室綿麻呂の同行を願い出て、嵯峨天皇は綿麻呂を正四位上参議に任命した上で許可している。平城京から出発した平城上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、田村麻呂が宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配したこの夜、右兵衛府で仲成が射殺された[13]。
嵯峨天皇側の迅速な対応により上皇が9月12日に大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。進路を遮られたことを知り、平城上皇は平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった[13]。この事件の時に空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。
晩年[編集]
弘仁2年(811年)1月17日に嵯峨天皇が豊楽院で射礼を観覧した際、行事の終了後に諸親王や群臣に対して弓を射させたが、12歳の葛井親王(平城上皇と嵯峨天皇の異母弟で桓武天皇と田村麻呂の娘・春子所生の皇子)にも戯れに射させたところ、百発百中であった。行事に居合わせた外祖父の田村麻呂は、驚き騒ぎ喜び勇んで葛井親王を抱いて立ち上がって舞った。田村麻呂は天皇の前に進み出て、かつて自分は10万の兵を率いて東夷を征討した際、朝廷の威光を頼りに向かうところ敵なしであったものの、今思うに計略や兵術について究めていない点が多数あったが、葛井親王は幼いながら武芸がすばらしく私の及ぶところではないと言った。嵯峨天皇は大いに笑って、それは褒め過ぎであると返したという[注 10]。
豊楽院での射礼から3日後の20日には中納言・藤原葛野麻呂や参議・菅野真道らと共に、前年の暮より入京していた渤海国の使者を朝集院に招いて饗応する任に当たっている[注 11]。田村麻呂生前の公的記録としてこれが現存する最後の資料のものとされる[14][15]。
この年の5月23日、平安京粟田口(現在の京都市左京区)の別宅で病の身を臥せていたが、54歳で生涯を閉じた。
死後[編集]
田村麻呂が薨去したその日のうちに遺族に対して嵯峨天皇より、娘・春子が葛井親王の生母であることも考慮された上で絁69疋[注 12]・調布101段・商布490段[注 13]・米76斛[注 14]・役夫200人[注 15]と、御賜品を通例より加増されて賜っている[注 16]。嵯峨天皇は死を悼み「事を視ざること一日」と喪に服し、一日政務をとらず田村麻呂の業績をたたえる一篇の漢詩を作った[6][16]。
5月27日に大舎人頭・藤原縵麻呂と治部少輔・秋篠全継が田村麻呂宅に派遣され、天皇の宣命を代読して大納言・田村麻呂に従二位が贈られた。葬儀が同日に営まれ、山城国宇治郡来栖村水陸田三町を墓地として賜わって、甲冑・兵仗・釼[注 17]・鉾・弓箭・糒・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向け窆を立つように埋葬された。もし国家に非常時があれば田村麻呂の塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴る。以後、将軍の職に就いて出征する時はまず田村麻呂の墓に詣でて誓い、加護を祈る[注 18]とされた[16]。
現在、京都市山科区の西野山古墓が田村麻呂の墓所として推定されている。
年譜[編集]
| 和暦 | 西暦 | 日付 | 年齢 | 事柄 |
|---|---|---|---|---|
| 宝亀11年 | 780年 | 23歳 | 近衛将監になった。 | |
| 延暦4年 | 785年 | 11月25日 | 28歳 | 正六位上から従五位下に進んだ。 |
| 延暦6年 | 787年 | 3月22日 | 30歳 | 内匠助を兼ねた。 |
| 9月17日 | 30歳 | 近衛少将になった。 | ||
| 延暦7年 | 788年 | 6月26日 | 31歳 | 越後介を兼ねた。 |
| 延暦9年 | 790年 | 3月10日 | 33歳 | 越後守を兼ねた。 |
| 延暦10年 | 791年 | 1月18日 | 34歳 | 軍士と兵器の点検のため東海道に遣わされた。 |
| 7月13日 | 34歳 | 征東副使になった。 | ||
| 延暦11年 | 792年 | 3月14日 | 35歳 | 従五位上に進んだ。 |
| 延暦12年 | 793年 | 2月17日 | 35歳 | 征東副使が征夷副使に改称になった。 |
| 2月21日 | 36歳 | 辞見した。 | ||
| 延暦13年 | 794年 | 6月13日 | 37歳 | 坂上田村麻呂以下が蝦夷を征した。 |
| 10月28日 | 37歳 | 大伴弟麻呂が戦勝を報告した。 | ||
| 延暦14年 | 795年 | 2月7日 | 38歳 | 従四位下に進んだ。 |
| 2月19日 | 38歳 | 木工頭を兼ねた。 | ||
| 延暦15年 | 796年 | 1月25日 | 39歳 | 陸奥出羽按察使、陸奥守を兼ねた。 |
| 10月27日 | 39歳 | 鎮守将軍を兼ねた。 | ||
| 延暦16年 | 797年 | 11月5日 | 40歳 | 征夷大将軍になった。 |
| 延暦17年 | 798年 | 閏5月24日 | 41歳 | 従四位上に進んだ。 |
| 7月2日 | 41歳 | 清水寺を建立した。 | ||
| 延暦18年 | 799年 | 5月 | 42歳 | 近衛権中将になった。 |
| 延暦19年 | 800年 | 11月6日 | 43歳 | 諸国に移配する夷俘を検校した。 |
| 延暦20年 | 801年 | 2月14日 | 44歳 | 節刀を受けた。 |
| 9月27日 | 44歳 | 蝦夷の討伏を報告した。 | ||
| 10月28日 | 44歳 | 帰京して節刀を返した。 | ||
| 11月7日 | 44歳 | 従三位に進んだ。 | ||
| 12月 | 44歳 | 近衛中将になった。 | ||
| 延暦21年 | 802年 | 1月9日 | 45歳 | 造陸奥国胆沢城使として遣わされた。 |
| 1月20日 | 45歳 | 度者一人を賜った。 | ||
| 4月15日 | 45歳 | 阿弖利為と母礼等500余人の降伏を容れた。 | ||
| 7月10日 | 45歳 | 阿弖利為と母礼を伴い入京した | ||
| 延暦22年 | 803年 | 3月6日 | 46歳 | 造志波城使として辞見した。 |
| 7月15日 | 46歳 | 刑部卿になった。 | ||
| 延暦23年 | 804年 | 1月28日 | 47歳 | 再び征夷大将軍になった。 |
| 5月 | 47歳 | 造西寺長官を兼ねた。 | ||
| 8月7日 | 47歳 | 和泉国と摂津国に行宮地を定めるため三島名継とともに遣わされた。 | ||
| 10月8日 | 47歳 | 藺生野の猟に従い、物を献じて綿二百斤を賜った。 | ||
| 延暦24年 | 805年 | 6月23日 | 48歳 | 参議になった。 |
| 10月19日 | 48歳 | 清水寺の地を賜った。 | ||
| 11月23日 | 48歳 | 坂本親王の加冠に列席し衣を賜った。 | ||
| 大同元年 | 806年 | 3月17日 | 49歳 | 皇太子が桓武天皇の崩御を悲しんで起きなかったので、田村麻呂と藤原葛野麻呂が支えて下がった。 |
| 4月1日 | 49歳 | 藤原雄友に従い誄を奉った。 | ||
| 4月18日 | 49歳 | 中納言になった。 | ||
| 4月21日 | 49歳 | 中衛大将を兼ねた。 | ||
| 10月12日 | 49歳 | 陸奥・出羽に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、認められた。 | ||
| 大同2年 | 807年 | 4月22日 | 50歳 | 右近衛大将になった。 |
| 8月14日 | 50歳 | 侍従を兼ねた。 | ||
| 11月16日 | 50歳 | 兵部卿を兼ねた。 | ||
| 大同4年 | 809年 | 3月30日 | 52歳 | 正三位になった。 |
| 弘仁元年 | 810年 | 9月6日 | 53歳 | 平城京の造京使になった。 |
| 9月10日 | 53歳 | 大納言になった。 | ||
| 9月11日 | 53歳 | 薬子の変の鎮圧に出撃した。翌日、上皇の東国行きが阻まれ、変は終わった。 | ||
| 10月5日 | 53歳 | 清水寺に印を賜った。 | ||
| 弘仁2年 | 811年 | 1月17日 | 54歳 | 孫の葛井親王の射芸を喜んだ。 |
| 1月20日 | 54歳 | 渤海の使者を朝集院で饗した。 | ||
| 5月23日 | 54歳 | 山城国の粟田の別宅で亡くなる。 | ||
| 5月27日 | 山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村に葬られた。従二位を贈られた。 | |||
| 10月17日 | 墓地として3町を賜った。 |
人物・逸話[編集]
出生[編集]
- 田村麻呂の生誕地については諸説ある。生まれは不明だが、大伴宿奈麻呂が田村の里に住んだことから田村大嬢と命名されたように、田村麻呂も地名に由来するものであれば「平城京田村里」(奈良市尼辻町付近)が有力とされる。俗説として陸奥国田村庄で誕生したという「坂上田村麻呂奥州誕生説」や、蝦夷出身であったとする「坂上田村麻呂夷人説」がある[17]。
人物[編集]
- 古代の人物のため史料は無いに等しいが『田邑麻呂傳記』や『田村麻呂薨伝』に僅かながらも残されている[18]。
- 「大将軍は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(約36cm)。向かいに立つと仰け反って視え、背後からみると屈んでいるように視える」と堂々たる容姿であった。容貌は「目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っている。重い時は201斤(約120kg)、軽いときには64斤(約38kg)のように行動は機敏であり、立ち振舞いは理にかなう。怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」という。
- 器量についても「真心は面に顕われ、 桃花は春ならずして常に紅い。 生まれながらに勁節(強い意思)を持ち、 松の色は冬を送りてただ翠なり」と誠実さや高潔な品性を称えられ、「策は本陣でめぐらせ、勝ちを決するのは千里の外であった。華夏に学門を学び、張将軍のように武略があり、 簫相國のように奇謀があった」と田村麻呂の武芸にも賛辞が贈られている。
信仰[編集]
- 「清水の舞台」で有名な京都・清水寺を建立した事でも有名である。清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。
- 延暦24年(805年)には太政官符により田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇宸筆の勅許を得て寺印一面を賜って公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。また、北観音寺に対して子嶋寺は「南観音寺」とも呼ばれた。
征夷大将軍[編集]
- 延暦16年、延暦23年と生涯で2度の征夷大将軍に任命されている。2度目は還任するものの、藤原緒嗣の議により「軍事と造作」が停止されたため出征していないにも関わらず、その後も本来は臨時の官職である征夷大将軍であり続けたと思われる。[20]。
- 高橋崇は、征夷使・大伴弟麻呂の肩書として文献にあらわれた順に征夷大使・征東大使・征夷大将軍・征夷将軍など一定しておらず、対して田村麻呂は征夷大将軍で一貫して記されていることから「田村麻呂に征夷大将軍の初例を求めても誤りとはいえないであろう」としている[21]。
- 『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、「大将軍」を望んだ源頼朝に対して、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという[22]。
後世の評価[編集]
- 平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。第一高等学校では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として道真の、武人の代表として田村麻呂の肖像画が掲げられていた[23]。
家系[編集]
父は坂上苅田麻呂、母は畝火浄永の娘。坂上氏は、前漢の高祖皇帝、後漢の光武帝や霊帝の流れを組む渡来人である阿知使主とその子都加使主の子孫を称し、坂上志拏のとき東漢氏より氏を改めたもの。祖父犬養と父もそれぞれ武芸をもって知られ、代々弓馬や鷹の道を世職とし馳射(走る馬からの弓を射ること)など武芸を得意とする武門の家系として、数朝にわたり宮廷に宿営してこれを守護した。田村麻呂登場以前は地方豪族や下級官人であった[25]。
妻は三善高子(三善清継の娘)。子は大野、広野、浄野、正野、広雄、高道、春子などがいた[15]。家督は大野が継いだものの早世したことから広野が継ぐも、広野も早世し、浄野が跡を継いでいる。田村麻呂流の中でも大野系、広野系、浄野系の三系統を坂上本家という[26]。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は『坂上氏系図』にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗って地方に土着していることから、後世に付け加えられた可能性がある[15]。子孫も武門の家として陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官が多く輩出されている。また清水寺別当、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産み、血筋は清和源氏とその分流へ受け継がれている。
陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名の田村氏は田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡(元は安積郡の一部)を領してきたとされる。愛姫の遺言により、伊達忠宗の三男宗良が田村宗良を名乗って再興された田村氏は幕末まで一関藩を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。また、源満仲から摂津介に任じられた坂上頼次を初代山本荘司とする山本坂上氏からは戦国武将の坂上頼泰や、今出川家諸大夫山本家(町口家)を輩出している。
系譜[編集]
- 父:坂上苅田麻呂 - 従三位左京大夫勲二等
- 母:畝火浄永の娘
- 生母不明の兄弟姉妹
- 妻:三善高子 - 三善清継の娘[15]
- 生母不明の子女
- 男子:坂上大野 - 従五位下陸奥権介[15]
- 男子:坂上広野 - 従四位下右兵衛督勲七等[15]
- 男子:坂上浄野 - 正四位下右兵衛督[15]
- 男子:坂上正野 - 従四位下右兵衛督蔵人治部大輔典楽頭清水寺別当[15]
- 男子:坂上滋野 - 安達五郎を名乗る[15]
- 男子:坂上継野 - 大舎人正六位上[15]
- 男子:坂上継雄 - 武射七朗を名乗る[15]
- 男子:坂上広雄 - 従五位下右近将監[15]
- 男子:坂上高雄 - 匝瑳九郎を名乗る[15]
- 男子:坂上高岡 - 沼垂二郎を名乗る[15]
- 男子:坂上高道 - 従五位上大和介鎮守将軍[15]
- 女子:坂上春子 - 桓武天皇妃、葛井親王母[15]
- 女子:藤原有方母 - 藤原三守室[15]
墓所・霊廟・寺社[編集]
- 「西野山古墓」 ‐ 京都市山科区にある。昭和48年(1973年)に地元の歴史考古学研究家である鳥居治夫は、条里制の復元研究結果にもとづき同墓が坂上田村麻呂(758年~811年)の墓である可能性を指摘した。平成19年(2007年)、京都大学大学院文学研究科教授の吉川真司が清水寺縁起の弘仁2年(811年)10月17日付の太政官符表題の記述と当時の地図(条里図)を基にした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学蔵)とを照合することで坂上田村麻呂墓説を裏付けた。現在では西野山古墓が墓所と推定されている。
- 「将軍塚」 ‐ 桓武天皇が王城鎮護として平安京の北、東、西の方角にあたる山に、田村麻呂を模したとされる土でできた将軍像を埋めた塚を作ったという。現存する将軍塚は華頂山(現在は青蓮院飛地境内である将軍塚大日堂)のみである。また、都に異変の時には鳴動するという[27][28]。
- 「玉川神社」 - 北海道久遠郡せたな町。
- 「一関八幡神社相殿田村神社」 - 岩手県一関市。
- 一関八幡神社の相殿の田村神社とは別に、千畳敷(釣山公園)にも田村家江戸屋敷邸内から遷座した田村神社が鎮座。
- 「古四王神社境内田村神社」 - 秋田県秋田市。
- 「松尾神社」 ‐ 兵庫県宝塚市にある松尾神社は坂上田村麻呂を主祭神とする。『松尾丸社縁起』によると、浦辺太郎坂上季猛が祖先にあたる征夷大将軍・坂上田村麻呂公を武人として祀り創建という。田村麻呂は父苅田麻呂が山城国松尾大社に祈り得た子であり、幼名を松尾丸と名付けられたことから創建時は将軍宮松尾丸社と称された。
坂上田村麻呂伝説[編集]
坂上田村麻呂は民間伝承(フォークロア)の架空の英雄としても登場する。三重県・滋賀県にまたがる鈴鹿峠一帯に田村麻呂による鈴鹿山の鬼神討伐の足跡が数多く残されている。三重県亀山市にある片山神社は、江戸時代に刊行された『伊勢参宮名所図会』「鈴鹿山」で鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社、近江側に田村明神[注 19]が描かれており、京と丹波の境に位置する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に、鈴鹿山に田村将軍を祀ることで将軍地蔵とみなし、鈴鹿権現と一対になった塞の神信仰が古くから存在していた[29]。滋賀県甲賀市には、鈴鹿山の悪鬼を平定した田村麻呂が残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われ、矢の落ちたところに本殿を建てたとされている田村神社、十一面観世音菩薩の石像を安置して鬼神討伐の祈願をした北向岩屋十一面観音、討伐した大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺、鈴鹿山の山賊討伐の報恩のために堂宇を建立して毘沙門天を祀ったという櫟野寺がある。兵庫県加東市の播州清水寺には、聖者大悲観音の霊験により鈴鹿山の鬼神退治を遂げた報謝として佩刀騒速と副剣2振を奉納している[注 20]。
東北地方では岩手県、宮城県、福島県を中心に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布するが、京都市の清水寺を除いて、ほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。
東北地方の他に関東、中部、畿内、中国地方にまで及ぶ。縁起や伝説を持つ主な社寺として茨城県鹿嶋市鹿島神宮、那珂市上宮寺、城里町桂地区下野達谷窟、栃木県矢板市木幡神社、将軍塚、那須烏山市星宮神社 (那須烏山市)、大田原市那須神社、群馬県三国峠田村神社、埼玉県東松山市正方寺、長野県安曇野有明山、長野市松代町西条清水寺、若穂保科清水寺、諏訪市諏訪大社、山梨県富士吉田市小室浅間神社(下宮)、静岡県浜松市岩水寺や有玉神社、岡山県倉敷市児島由加神社などが挙げられる[30]。
このように後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ様々な物語を生んだ。室町時代初期、世阿弥作とされる勝修羅三番のひとつ能『田村』が成立、清水寺の縁起とともに田村麻呂が勢州鈴鹿の悪魔を鎮めたと語られ、室町時代中期から後期にかけて成立したお伽草子『鈴鹿の草子』や室町時代物語『田村の草子』などでは田村麻呂と鎮守府将軍・藤原利仁との融合や、鈴鹿御前(立烏帽子)の伝承が採り入れられており、近江国の悪事の高丸や鈴鹿山の大嶽丸を討伐する話になる。これらは江戸時代の東北地方に伝わって奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』として語られた[31][32][33]。
ギャラリー[編集]
関連作品[編集]
能
- 『田村』
浄瑠璃
- 『田村三代記』 - 奥浄瑠璃
歌舞伎
演劇
小説
- 『薄紅天女』(荻原規子著、徳間書店、1996年、ISBN 978-4198605582)
- 『ブラック・トゥ・ザ・フューチャー 坂上田村麻呂伝』(左高例著、八つ森佳画、KADOKAWA、2017年、ISBN 978-4-04-734588-1)
漫画
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『松尾神社 (宝塚市)』由緒より、ただし史実とはされていない
- ^ 『藤原保則伝』
- ^ 『陸奥話記』
- ^ 『公卿補任』弘仁二年条
- ^ 駿河、甲斐、相模、武蔵ら上総、下総、常陸、信濃、上野、下野
- ^ 『日本後記』延暦二十一年四月庚子条
- ^ 『日本紀略』延暦二十一年七月甲子条
- ^ 『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉条
- ^ 『類聚三代格』
- ^ 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年4月2日条
- ^ 『日本後紀』
- ^ 通例に比べて10疋の増加
- ^ 通例に比べて100段増加
- ^ 通例に比べて25石増加
- ^ 左右京各50人、山城国愛宕郡100人
- ^ 『日本後記』弘仁二年十月十七日条
- ^ 剣もしくは鋼
- ^ 『日本後記』弘仁二年十月十七日条
- ^ 田村神社 (甲賀市)とは異なる神社。明治40年に片山神社 (亀山市)に合祀されている。
- ^ 清水寺 (加東市)境内『坂上田村麿呂佩刀を奉納す』の由緒書きより
出典[編集]
- ^ 田村神社 (甲賀市)
- ^ 筑紫神社
- ^ 松尾神社 (宝塚市)
- ^ [大馬神社おおまじんじゃ http://www.oomajinja.com/index.html 大馬神社おおまじんじゃ]. 2018年5月9日閲覧
- ^ 『坂上氏系図』
- ^ a b 『田邑麻呂伝記』
- ^ 高橋 1986, pp. 138-139.
- ^ 高橋 1986, p. 143.
- ^ a b 高橋 1986, pp. 147-148.
- ^ a b c 高橋 1986, pp. 150-152.
- ^ 高橋 1986, p. 159.
- ^ a b 高橋 1986, pp. 159-163.
- ^ a b c d e f g 高橋祟 1986, pp. 164-170.
- ^ 高橋祟 1986, p. 171.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 高橋祟 1986, pp. 182-190.
- ^ a b 高橋祟 1986, pp. 172-177.
- ^ a b c d e f g h i 高橋祟 1986, pp. 1-3.
- ^ 阿部幹男 2004, pp. 174-181.
- ^ 阿部幹男 2004, p. 66.
- ^ 高橋祟 1986, pp. 170-171.
- ^ 高橋祟 1986, p. 138.
- ^ 櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年
- ^ 水崎雄文 2004, p. 30.
- ^ 司馬遼太郎 1994, p. 182.
- ^ 高橋祟 1986, pp. 3-10.
- ^ 坂上未満 2001, p. 16.
- ^ 『源平盛衰記』
- ^ 『太平記』
- ^ 阿部幹男 2004, p. 91-92.
- ^ 阿部幹男 2004, pp. 120-121.
- ^ 高橋祟 1986, pp. 209.
- ^ 阿部幹男 2004, p. 9.
- ^ 関幸彦 2014, pp. 190-191.
参考文献[編集]
- 阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店〈三弥井民俗選書〉、2004年1月。ISBN 4-8382-9063-2。
- 大塚徳郎『坂上田村麻呂伝説』宝文堂、1980年
- 亀田隆之『坂上田村麻呂』人物往来社、1967年
- 黒板勝美『新訂増補国史大系[普及版] 日本後紀』吉川弘文館、1975年 ISBN 4-642-00005-4
- 黒板勝美『新訂増補国史大系[普及版] 日本紀略(第二)』吉川弘文館、1979年 ISBN 4-642-00062-3
- 司馬遼太郎『空海の風景』下巻、中央公論新社〈中公文庫〉、1994年。ISBN 978-4122020771。
- 関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』PHP研究所、2014年4月。ISBN 978-4-569-81553-4。
- 高橋崇『坂上田村麻呂』吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年、新稿版。ISBN 4-642-05045-0。
- 新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』吉川弘文館、1994年 ISBN 4-642-07425-2
- 水崎雄文『校旗の誕生』青弓社、2004年12月。ISBN 978-4787232397。
関連項目[編集]
- 鈴鹿御前
- 諸賞流 ‐ 田村麻呂が復興させたという古武道の流派
- 三春駒 ‐ 田村麻呂が発祥とされる
- つぼのいしぶみ
- 青森ねぶた - かつては坂上田村麻呂伝説に起源を持つといわれ、最高賞として田村麿賞が制定されていた。現在では史実で青森まで来ていない等の理由により最高賞はねぶた大賞と改名されている。
- 田村丸 - 青函連絡船の第二船
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